思えば温泉など、この世界に生まれてから初めて入ったのではないか。
湯に浸かりながら俺は空を見上げた。山上に浮かぶ空は、その青さが頭のすぐ近くにあるようである。温泉の、露天風呂の良さとはこういった開放感にあるだろう。
空の青さと山の緑を、身体を温まらせながら眺めることが出来る。腰を落ち着けて足を伸ばすことが出来る。別に家の風呂だって広いことは広いのだが、この自然の、空間を一挙にいただくような感慨は屋内にいては味わえないものだろう。
言ってしまえば、俺は風景をただ眺めているのではない。風景も含めて、露天風呂という体験をしているのだ。この体験というのが重要だろう。行為としての温泉。行為としての風景だ。ただ眺めるのではなく、さながら風景の中に自らを没する心地で、全身全霊で自然を体験できている。
「なるほど。随分と君は、僕が言うのも何だけれど、老成したような事を言うね。いやほんと、僕の方が年上なんだから、僕が言うのも何だけれどね」
「そりゃ疲れていますからね。男湯がないもんだから新しく作りましたからね。ニノウミさんも手伝ってくれれば良かったんですけどね」
「いや、僕はそんなに魔術が得意じゃなくてね……肉体労働も不得手でね……ごめんね……」
言いながら、言葉とは裏腹に、彼は足を伸ばして腕を広げて、ぼうっと空を眺めている。俺以上に満喫しているとは、やはりこの男はただ者ではない。
しかしながら、疲れているのは魔術行使によるものだけではなかった。それは精神的な疲労である。
昨晩、聖女様に除霊を頼んだのだが、何があったのか、彼女は途中で笑い始め、さっと踵を返してその場を去って行った。すわ悪霊にでも乗っ取られたのかと思い、ノアなど卒倒せんばかりであったが、そうではなかったらしい。
だが、彼女が発した言葉は、いまいち要領を得ない、奇妙なものだった。
「おばけではないが、人でもないって。どういう意味なんでしょうね。その後はさっさと帰っちゃうし。俺は俺で牢屋の中で一晩怯えて過ごすことになるし。ノアじゃないけれど、ああいう意味深な言葉だけ残して去って行くのムカつくんですけれど」
「まあ……彼女には、普通の人には分からないものが感じられるらしいし、言葉の使い方さえも、普通とは違うらしいからね」
「ウルド語に西方語に南方語を使えるのなら人間語も習得して欲しかったんですけれど」
「まあ、そうだねえ……だから僕以上に厄介者扱いされているんだろうけれど……」
結局、牢屋の中ではあまり寝付けず、睡眠時間は四時間くらいだっただろうか。その後、檻をガンガン叩かれて目覚めたら、ステイドが立っていて、『【ばっちいから温泉にでも行こうよ】』と言ってきたのである。
その時、傍にはノアも居たが、彼女の発案というわけではないらしく、寧ろステイドに唆されてのことらしかった。ステイドウェルドという長ったらしい名前の女は、どうにも上との折り合いが悪いらしく、飄々としながら遠慮なく規則を破っている。
俺としても温泉に興味があったし、何より薄気味悪い場所に監禁されていたくなかった。というか、よく分からん理由でよく分からん事態に遭遇し続けて、こちらとしても遠慮する気持ちがなくなってきたというのが大きい。
しかし、その点を言えば、やはりこのニノウミという男はただ者ではないだろう。
彼は話を聞くに、この修道院を調査しにやって来た学者であり、つまりは税金を給料としていただく公務員である。国は違えど立場としては先生と似たようなものでありながら、彼の不真面目さは素晴らしいものがあった。
先生でさえハゲそうになりながら職務に忠実であったというのに、彼は道行く俺達に出くわしても諫めようとせず、どころか『温泉に行くんだ……。じゃあ僕もいいかな……?』と、顔色を窺うような尋ね方とは裏腹に、遠慮なく職務を放り出して加わってきたのである。
その頭髪は豊かであり、顔付きに神経質な部分は全くない。おどおどとしていながら、頭髪の危機とは全く無縁そうに思える人だった。
「だけど、聖女様だけじゃなく、君も大したもんだね。その歳でそこまでの魔術を使う子は、そうはいない。……というか、君ぐらいじゃないかな」
「言ってもやり方としては単純だったでしょう。穴掘って湯を掘り当てて石で囲うだけですんで。泥が混じらないように石を敷き詰める調整が難しいかもしれませんが」
「いやいや、大したもんだ。ウルド帝国の、あの学院の生徒だってね? ジョット・ブレイク君」
「あれ、国外にも知られているもんなんですか」
思えば、帝国学院で教えているのは、尽くウルドが付く学問ばかりで、諸外国について学ぶものは歴史か言語くらいしかなかった。これはまあ、皇帝が置いて貴族が通う学院なのだから、国粋主義的なのも当たり前なのかもしれないが、そこに関する外国の評価というのは今まで聞いてこなかった気がする。
「そりゃ、世界の中心、魔術都市たるオーロックの、象徴的な学府だからね。言えば僕達の方でも通じはするとも。もっとも、僕の専門とは相性が悪いから……というか、そこが欠点というか、当然なのかな。いや……」
「何となく分かってきたんですけれど、思考しながら喋られると何言ってるか分かりませんよ」
「ご、ごめん……。つまり、文化人類学とか、民俗学とか、宗教学とか、ないよね。その代わり、魔術学部と軍学と経営だっけ? やっぱり貴族向けの学院なわけだね」
「名称がちょっと違いますが、概ねそうでしょう。純粋な学者を育てるような場所ではない」
この言い方からも分かるが、ニノウミは生粋の学者である。断じてあの奇怪なるトレージの爺のように頭戦闘狂ではない、まともな学者である。寧ろ、あんなのが教授として勤務できる帝国学院はどうなっているのだ。
「僕は、昨日言ったとおり、外国の宗教とか風俗に興味があってね。勿論、教会で働いている以上は、僕も聖職者としての資格を持っているんだけれど、そちらの方に興味があったんだ」
「へえ。教会ってもっとお堅いところだと思っていたんですが、そういう研究者とかもいるんですね」
「寧ろ、かつては教会こそが学者の住処だったんだよ。異世界に倣うまでもなく、女神が祝福した世界の仕組みを調べるのは素晴らしい事だから。かつては魔術だってそうだし、今だって回復魔術に関しては教会の専売特許でしょ」
「確かに」
慣れてきたのか、ニノウミは途中で詰まることもなく話し始めた。「それでねえ」と、どっからかっぱらってきたのか、栓で封をした徳利まで畳んだ衣服の中から取り出している。なんだこの人は。
「凄いですね。俺は貴方を尊敬すべきかもしれません。それで給料を得ようとする姿勢は賞賛に値しますよ」
「皮肉……じゃなさそうだね。変な子だね。でも、女湯しかない温泉に新しく男湯を作った君の方が、どうかしてると思うなあ僕は」
「俺の夢はもう達成されていますが、それでも志として、なるべく楽に生きていきたいんです」
先生は先生でどうしようもなかったが、あれで初対面の内は態度を繕おうとするだけの気概があったのだ。この人は昨日会ったばかりだというのに、ごく自然に酒を飲もうとしている。この人のどうしようもなさは筋金入りである。俺も見習わなければならない部分が多分にあるだろう。
「じゃあ、どうだい。不良な君も乾杯して」
「凄い。素晴らしいどうしようもなさ。ですが、アルコールはちょっと。これでも十三歳なんで」
「君って変だけど、それ以上に変な連中に好かれそうだね。だから勧めたくなってくるなあ。どうだい。これはこの土地で造られた酒なんだよ。これも体験だよ。現地のことを知るには、現地の物を食べなきゃ」
なんかここまで駄目だと嬉しくなってくる自分がいる。しかし覚えたら覚えたで酒浸りになってしまう気もするので丁重にお断りした。
「そういえば、貴方は職業柄かもしれませんが、あの南方語も使わない隊長さんとは随分違いますね。聖女様と同じだ」
「何がだい?」
「こいつは偏見で、隊長さんが実例として補強されたんですが、教会の人は随分と偉そうなもんじゃないですか。それこそ、こういった場所を未開の土地、異教の土地と蔑んで、そこの価値観を受け入れようとしないような」
この世界には既に魔女がいるのだから魔女狩りは起こり得ない。それでもよく分からないものに対し、人々は恐怖を抱き、迫害しようとするものだ。
昨晩の俺に対しても、聖女様はこの土地の信仰を例に挙げて、未知を迫害しようとはせず、寧ろ未知に対する擁護者となった。そしてニノウミは拙いながらもそれに関する補説をした。どちらもおばけと言った俺達を笑うのではなく、しかし未知の存在を拒絶するのでもなく、理解しようと努めていた。
「興味を抱く切っ掛けはあったんですか? 女神を信じながら、方々の土地に関心を抱く切っ掛けが」
世界中で同じ神が信じられ、教会が正当な信仰を受け継いでいると主張するのなら、土地による違いを調査するのは、その違いを修正するためではないのか。今回の調査に関しても、意図はそれなのではないか。
茹だりかけてきた頭にそんな事を思ったが、ニノウミは徳利を傾けながらも意外と真面目な表情を浮かべた。
「……聖女様は昔から有名でね。僕と同じ歳で、僕と同じく孤児なんだけれど、生き様はまるで違う」
「おお、急に重そうな話」
「じゃあ茶化して言おう。あれが人間だとは僕には信じられないし、何より、同じ女神様を信じている気がしない。個人の頭の中はそれぞれに特異だろうけれど、あれはやっぱり度合いが違う」
「さっきはああ言いましたけれど、そんな人間離れしすぎているって事もないとは思いますけどね」
「信仰の形は様々だ。様々であって良い。女神は等しく祝福したのだから、司祭の荘厳な言葉と、農民の毎晩の祈りとに、どうして優劣が付けられるだろう。しかしね、優劣という話じゃないんだ。優劣という度合いじゃない。君はまだ知らないようだけれどね、あれには」
ニノウミは、そこで一気に徳利を傾け、口端を拭った。
「あれには、あまり関わらない方が良い。態度の問題じゃなく、度合いの問題だ。あれはきっと、人間じゃないよ」
「……茶化しきれなかったね」と、彼はそう言って湯から上がった。
その顔付きが何だか申し訳なさそうだったので、「急にそんな話をするとか、対人距離感バグってますよ」と言ってみる。彼は笑って「そういうところが好かれやすいんだ」と言った。
しかし、その去ろうとする足が不意に止まった。気が変わったのだろうか。湯に入る足が見える。
いや、それは彼の足ではない。青白く揺らめいて、この世に居ないかのような足。
「……温泉に入りながら飲んだのって、実は初めてだったんだ。風情だと思ってね」
「ふ、風情ですか」
「でも、これも風情かな。文化的にはどうなんだろう。服を着たまま入るのって。でも、足が透けているんだから些細なことかなあ」
「ノアーっ!」
その声は山間に響き渡って、直ちに「なんですかーっ!?」と返ってきた。しかし遅かった。それはもう湯に肩まで浸かっている。
"眼"など開きたくなかったが、"眼"を開かずとも見えていた。昼間から現れるとはどういう了見だ。それはエルフさん方と同じような衣服を身につけ、髪は長く、しかし人間とは考えられないほど朧気な姿形をして──。
「あ……どうも」
「えっ、あっ、どうも」
それは声を発した。どころか遠慮がちに頭まで下げた。化けて出るにしては殊勝なものである。