俺の目の前には幽霊がいる。エルフさん方が身に纏っていた衣服を着て、人間らしく温泉に浸かりながらも、非人間的に半透明な少女の幽霊だ。温泉だというのに肩を窄めて、縮こまって座っている。肌色は南方らしくなく白く青ざめていて、一度も日に当たったことなどないようである。
俺は"眼"を開いた。魔力が見える。その形は昨晩、牢屋に見たものだった。人間と同じ形をしていながら、現実の肉としてはこの場所にいない。
つまり、どういうことだろう。「どういうこと?」と意を決して俺は言った。
しかし、彼女は不思議そうに首を傾げるばかりであった。
「お邪魔、でしたか」
「いや、邪魔というか……まあ男湯じゃなく女湯に……いや、男湯というのもついさっき作ったものだから……」
「なにをうだうだ言っているんですかジョットさん! って、な、なん……!」
温泉に入っているのに寒いとはこれいかに。それはもちろん交感神経が活発になり、心臓に血が集まって、末端部の血の量が減っているからだが、そういう話ではない。
「あっ、ノア。ちゃんと着替えてから来るとは偉い」
振り返ればちゃんと着替えたノアがいた。隣には同じくステイドがいて、ニノウミは「あっやば」とそそくさ茂みに向かっていった。向かってもそこに服はないが状況的には仕方がないだろう。
そして俺も状況的に温泉から出られなくなってしまった。ノアの目が怖いので肩まで白濁した湯に浸かる。入るのも怖いが、出るのはもっと怖かった。
「【おうおう、ここは男湯じゃなくて混浴だったのかい。私もお邪魔すればよかった?】」
「【違います。言っている場合ですか。というか見えているんですか?】ノア、君にも見えているのか?」
「見ていましたが見えなくなりました! 白くて細くて……手折れそうな華奢……!」
「そっちじゃなくてこっちだよ」
おばけを指差せば「うわあ、おばけ!?」と、本当に目に入っていなかったようでノアは今更驚いた。視野が狭い。
「今、お昼ですけど!? おばけって夜に出るものじゃないんですか!? つまりこのおばけは、私達で言う所の夜型生活を送っている……?」
「よし、その調子だ。どんどんズレたことを言って俺を安心させてくれ」
「よく分かりませんが了解しました! 人間の強さってやつを見せてやりましょう!」
「わたしも人間ですね……」
「うわぁ喋りました!?」
「【人間って、本当に?】」
ステイドがおかしそうに言った。彼女だけはおばけを前にしても飄々として楽しそうである。しかし、俺は首を捻らざるを得なかった。
「【あれ、貴方ってウルド語も分かるんですか? そうならそうと言ってくれればよかったのに】」
「【えっ、うん? いや、どうして……。いやいや、彼女が話しているのはウルド語じゃないでしょ】」
「【しかし、ノアが理解できているのだから……】」
いや、思い出してみれば、本当にウルド語だったか。
「そういえば、何時の間に、どこから出て来たんだ」と俺は聞いた。彼女は「気が付いたら」と答えた。その答えにしても不可思議ではぐらされているような気分にさせられたが、それより重要なことは、それはウルド語ではないことだった。
それでも、その言葉は理解できた。何を言っているのか分からないまま、感覚として彼女が伝えようとしている言葉が分かった。音としては、細い金切り声のような。枯れ切った喉から発せられる悲鳴のような呼吸なのだが、それがどうしてか言葉として変換されている。
その声こそ、忘れようもない、昨晩地下牢に聞いた、おばけの声だった。しかし今は、音は同じくしながらも、悲鳴は言葉になっている。いや、俺達の方が、それを言葉として理解できている。
「そう、そうだね。その子が発しているのは何の言語でもない。東西南北のどれにも当てはまらないだろう。だけど、僕にもその子の言葉が分かる。こいつはどういうことだろう」
「ジョットさん! 茂みからなんか声が聞こえるんですが新手のおばけですか!?」
「いや、ニノウミさんだよ。さっきまで一緒に入っていたんだよ。何を見ていたんだよ君は」
「なにって……いやあ……」
これほど間の抜けた表情も出来るのか。俺はノアに関する新たな発見を得たが、それを記す意味も大してない。
だが、と俺は湯を掬って顔を洗った。目の前にいる彼女。半透明の姿をして、衣服を身に付けながら温泉に浸かる彼女を、感覚を総動員して見つめる。
「君は本当に人間なんだろうか。自認としてはそうなんだろう。だとしたら、普段はどこで暮らしているんだ? 君が生きているというのなら、どう生きている」
「どう生きて……生きていますけれど……。暮らしているって……暮らすって……?」
「そこにあるということだ。君はここに来る前、どうあったんだ?」
「えっ、ジョットさん、私の目の前でまた別の人に粉を掛けて……」
「違わい。これはインタビューだ。情報収集だ」
段々と頭が回り始めてきた。彼女はおばけと言うに足るほど不思議で理解が追い付かないが、おばけと言うには言葉が通じて、何より、個性的に人格があるようだった。
目の前の存在が、たとえおばけだろうと精霊だろうと、おばけや精霊という言葉一つに押し込めてはいけない。それは倫理や配慮というよりも、言った通り、情報を収集して、正体を見極めるための心構えだろう。
吸血鬼の全てが太陽の光で燃え尽きないように、そして吸血鬼の吸血鬼らしさが各々で絶対的に異なるように、先入観は身を危険に晒すことだってある。
「いいね、いい。素晴らしい考え方だ。そうなんだよねえ。インタビューするときってさ、こっちが謝礼を用意するときもあるからさ、気を遣って、こっちが望むような答えを返そうとしてくれることもあるんだよね。観光地化している所なんかまさにそうで、観光客向けのガイドなんかも充実しちゃって。それで時代が下ると、その観光客向けの話を若者たちが信じちゃったりとか……」
「面白そうな話ですが、ちょっと邪魔なので黙っててくれませんか」
「はい……」
ニノウミはすっかりしょげたように言った。それとさっきから「む、虫が……」と呟いてぺちぺち肌を叩く音も邪魔である。ステイドにでも頼んで服を取ってきて貰えばいいのに。
「それで、君はどうだ。そういや、君の名前はなんだろうか。俺はジョット。彼女はノアで、隣がステイドウェルドさん。あっちの茂みで奮闘しているのがニノウミさん。俺達はあそこ、少し山を下ったところにある建物にいるが、君は普段、どこにいる?」
「建物? ああ……そこにいる。たまに歩きます。ここは初めて来た」
「歩くか。それは地下牢……こう、こことは真逆な、光がなくて、檻がある場所のようなところを?」
「檻。そうですね。真逆」
「君を見て驚く人がいる。俺みたいに」
「そう。わたしも驚きます。昨日も驚いた。あなたと、そっちのあなた。それと、そっちの人は昨日以外にも何回か」
彼女は俺とノアを指差し、最後にステイドを指差した。「【あら?】」と、今更ながらにステイドが顔を引きつらせた。
「【えっ、何。この子ってもしかして、地下牢に出る幽霊だったりするの?】」
「【そうだと思います。寧ろ、なんだと思ってたんですか】」
「【壮大な浮気の誤魔化し方かと……】」
「【どんな誤魔化し方ですかそれ】」
ステイドは本当に今更に「【おほー……】」とよく分からない声を発しているが、ノアの方は昨日と言われる以前から思い当たっていたようで動揺は少なかった。ないとは言ってない。
しかし、そこでふと、おばけの彼女は「ああ」と呟き、少し不愉快そうな顔をした。
「幽霊……そう言いますね。精霊と、まじないを唱える人も。違いますね。あなたも昨日、驚いて逃げましたね。わたしは違います」
「違うか。それはすまない。では、なんだ?」
「聖女です」
「はっ?」
俺が何かを言う前に、茂みの方から声が聞こえた。「ああっ?」と、彼の人となりとしては意外だが、少し乱暴に困惑したような声が続き、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と手だけが伸びた。
「どういう意味……いや、違うな……どうしてそういう意味なんだ? 僕の頭が僕のものだからか? どうして聖女が、聖女という意味になるんだ? おい、君。君は聖女がどういう意味なのか分かっているのか。分かって言えて……自分をそうだと?」
「ニノウミさん、服ぐらい着てから……」
「すまないが邪魔とは言わせない。これは本当に重要なことだ。分かってくれ」
指先は微かに戦慄いていた。手が動揺を示すようによく動いていた。
「聖女、聖女だ。単語自体は様々な場所で聞くこともある。聖なる女だ。多大な業績を残した者に贈られる称号、聖人の女版というだけだ。教会では男女の区別なしに聖人と言うけれど、地域では分別されていることもある。多くは本当にそれだけなんだ」
「よく分からないですが、わたしは聖女です。そう呼ばれています」
「君は分からない。そして呼ばれている? そいつか。誰だい。誰が君を、聖女という意味で、聖女と呼ぶ」
「それは……」
「勿体ぶらないでくれ。この地に聖女の意味を解すものがいる。解した上で、誰が君を聖女と呼ぶ!」
ニノウミの希薄は尋常なものではなかった。しかし、おばけの彼女がその気迫に気後れしているわけではないようだった。
彼女はただ、不思議そうに首を傾げて言った。
「あの、先程から気になっていましたけれど、名前って、なんですか」
温泉に入っているというのに、ずっと寒いようだった。嫌な予感はずっとあった。それでも俺達には関係ないと気にしないようにしてきた。
しかし、これは。ニノウミは絶句したように指先を硬直させている。俺はおばけの彼女の代わりに言った。
「修道院長とリリード・カーテンカフ。その二人は、俺達が良く知っている聖女様を目の前にして、その意味とやらを理解して、聖女と言っているようでしたよ。単なる聖人の女版という意味ではないような」
「あの二人……か……!」
「それで」
俺は指先で魔術を行使した。風が吹く。風に巻き上げられる。茂みの向こうにも「うわっ」とニノウミが言ったように同じく風が吹き、同じく風で服を着せていく。
そろそろ、温泉に浸かりながら出来る話でもなくなってきた。
「実は、ずっと気になっていたんですよ。確かに、聖人の意味とはそれでしょう。しかし、その上であの人は聖女と呼ばれている。初めは俺達だって、女性の聖人という意味で呼んでいましたが、どうにももっと、深い意味がありそうじゃないですか」
「いや、それは……」
「どうして貴方は動揺したのか。それは言葉の意味が通じたからでしょう。彼女の言葉はどうしてか、言語を超えて脳に伝わる。彼女が言った聖女という意味が、貴方が知る聖女という意味だったから、貴方はそんなに恐ろしくなってしまった。それでも、自分の頭に原因を見つけようとしたようですが、どうなんでしょうかね」
ニノウミはばつが悪そうな顔をして茂みの中から現れた。いまにも悪態さえ吐きそうな顔。
その顔に、俺は修道院長の言葉を思い出した。リリードの反応を思い出した。
修道院長の言葉は、確かに、おばけの彼女と同じように、言語を超えて伝わっていた。
リリードは、修道院長が聖女と呼ぶのを聞いて、『【これも?】』と驚いたような顔を浮かべていた。
これ、とは。
「女性の聖人という単純な話ではなく、教会が定義する、厳密な意味での聖女というもの。それは何ですか?」
ニノウミは、本当に恐ろしいような顔を浮かべている。