プリティー・ボール・ラン   作:アモルファス@銀嶺の麓亭

1 / 12
#1「メイクデビュー」

「さあ! 第四コーナーを抜けて各ウマ娘、一斉に最終直線へと突き進みます!」

 大仰な実況者の音声は、しかし今にもかき消されつつあった。梅雨の空の下、濡れそぼった芝を踏みしめるウマ娘たちの、重くリズミカルな蹄鉄の音が列をなして迫ってきたからだ。

「先頭はヴァルキリー! ここまでハナを譲らなかったヴァルキリーが最終直線へ一番乗りです! このまま最後まで行ってしまうのか!」

 負けじと声を張り上げる実況。第四コーナーから時計回りに飛び出してきたバ群、その先陣を切る者の名はヴァルキリー。

 観客席の真ん前に陣取るジャイロの視線は、ヴァルキリーの姿をぴたりと追い続けていた。より正確にいうなら、ジャイロはこの選抜レース自体、彼女の走りを確かめること以外に興味がなかった。ジャイロの予感が正しければ、この最終直線でヴァルキリーは──

「左にぶれる。そうだろう?」

 大歓声の中、誰にともなくつぶやいたその言葉が、ターフの上のウマ娘たちに届いたはずがない。しかしジャイロの言葉通り、最終直線を先頭で逃げるヴァルキリーの身体は、ある時ほんのわずかに左──コースの外側へよろめいた。コースを真横から見ている観戦者たちには、気付きようもないわずかな勝負のアヤ。しかしそれは、灼けつく闘志をもって臨むライバルたちの前で見せるには、あまりにも大きな隙だった。

「おっと、ここで後続が内から仕掛ける! ぐんぐん差を縮めますブレイブリーコウ、さらに内からイッツコーリング、両者ものすごい脚だ!」

 わずかに開いたインコースの隙間。その機を逃すまいと、後続のライバルたちが我先にと末脚をねじ込んでいく。そして、

「イッツコーリングわずかに先頭! そのまま差し切ってゴール! 二着ブレイブリーコウ! 序盤からハナを譲らなかったヴァルキリーは、三着という結果になりました!」

 観客席の熱気は最高潮に達していた。コースの上では喜びをあらわにする者、悔しさをかみ殺す者、様々だった。

 そんな喧噪の中にあって、ジャイロはただひとり静かに、依然ひとりのウマ娘に刺すような視線を向け続けていた。周囲の騒ぎを視界から除くかのように、テンガロンハットを目深にかぶり直しながら。相手もそれに気が付いたのか、コースから退出するなりジャイロのほうへつかつかと歩み寄ってきて、

「あの、すみません。私に何かご用でしょうか」

 遠慮がちにそう言った。稍重のバ場で顔に受けたであろう泥水が、ひとつ結びにした栗色のセミロングヘアからしたたり落ちている。その物腰の低さとは裏腹に、手を差し出したら嚙みつかれそうな気迫が彼女にはまだ残っていた。

 今日行われたのは選抜レースだ。本格化を迎えたウマ娘が、デビューの機会を求めてしのぎを削る場である。そんな中、レースを終えるなりトレーナーに声をかけてくるウマ娘が、何を期待しているかは明白だった。

「何かご用ですか、ってよォ。アンタのほうなんじゃあねえのか、用があるのは」

「いえ……それはその」

「なんつってな。安心しろ、アンタが期待してる通りだ、俺のほうの用事は」

 首にさげたトレーナー証を見せつけながら、ジャイロはニッと不敵に口角を上げた。彼の悪趣味な金歯が、鈍色の空の下で一層不気味にきらめいた。

「また一緒に走ろうじゃあねえか。なあ、勝利の女神さんよ」

 

 ジャイロがこの世界にやってきたのは、ほんの二か月ほど前のことである。

 漂着したとか、誰かに連れてこられたのではなく「やってきた」のだと、間もなくジャイロが理解できたことには理由がある。ひとつは、ついさっきまで——あくまでジャイロ自身の認識においてだが——対峙していた相手とのやり取りから、自分が暮らすものとは別の世界が無数に存在するらしいと知っていたこと。そしてもうひとつは、眼前に広がる光景が明らかに、北アメリカ大陸の大西洋沿岸部になど存在しえないものだったことである。

 磯の香りがしない(背後からは水音がするというのに!)内地であるとか、周囲の建造物が一見ルネサンス建築のようで違うといった小さな違和感から始まり、やがてジャイロの視線は道を行き交う人々の姿に向いた。その多くは十代半ばの少女のようだったが、奇妙なことにそのすべてが、腰から長い馬の尾のようなものを垂れ下げているのだった。一種のファッションのようなものだろうか、というジャイロの予想は外れた。彼女らの尻尾は持ち主の感情に合わせるように生き生きと揺れ動き、それが単なる作り物の類でないことを証明していた。おまけにその馬の尾を持つ少女たちは、みな例外なく頭にこれまた馬の耳のようなものをつけている。とにかく、目に映るすべてが奇怪であった。

「そこの君、大丈夫かい? 女神像の前でいったい何を?」

 そんな時、ひとりの女性が話しかけてきた。やはり馬の耳と尾がある。この時ようやく自分がレンガ造りの道に座り込んでいたと気付き、ジャイロは女性と目線を合わせようと立ち上がった。

 脚に力を入れてみて驚く。身体がまるで自分のものでないかのように軽い。ヴァレンタイン大統領に受けたはずの傷も、確かに感じた死の感触も消えている。わけのわからないことばかりだが、とりあえず、生きてはいるようだ。

「何を、って聞かれてもよォ。どう説明したらいいか俺にもわからねえ。とにかく、気付いたらここにいたんだ」

「そうか……困ったね。女神像の前に見知らぬ男性が倒れている、と通報を受けてきたのだが。この様子だと私は、しかるべきところへ君を突き出さなくてはならなくなる」

 言葉に反してその女性は、少しも困った様子を見せてはいなかった。こちらを警戒していないというより、その気になればどうとでも始末をつけられる余裕。ジャイロの目にはそう映った。

 少しずつ覚醒してきた思考で、改めて目前の女性を観察する。荘厳な服飾に身を包み、仕草や言葉遣いにも気品が見られる。耳と尻尾以外は普通の人間のようだが、いずれにしても地位の高い者であることは間違いなさそうだ。ジャイロにとって、こういう類の手合いにはつくづくいい思い出がなかった。

「ひとまず、君のことを教えてほしい。名前は言えるかい?」

「なぜ名乗る必要がある」

「君の身元を証明する手がかりになるかもしれないだろう」

「そういうことなら、アンタが先に名乗るのが筋ってもんだろう。違うか、ええ?」

 あえて警戒心を隠すことはせず、ジャイロは強気な話術に踏み切った。今のこの状況自体が、目の前の女によるスタンド攻撃だという線が捨てきれなかったからだ。

 女性はうやうやしく一礼してみせる。その仕草にもやはり高貴さがにじみ出ていた。

「これは失礼した。私はシンボリルドルフという。ここトレセン学園で、生徒会長をやらせてもらっているよ」

「生徒会長……ってことはアンタ、学生か。そうは見えなかったがな」

「よく言われるよ。さあ、約束通り私は名乗った。次は君の番だよ」

「……ジャイロだ。ジャイロ・ツェペリ」

「ジャイロ殿か。身なりからして日本人ではないと思っていたが、もしかしてイタリアの人かな」

「イタリアだと? そいつは国の名前じゃあねえだろう。というか、ここは日本なのか? ゲイシャもサムライも見当たらないようだが」

「……どうにも話がかみ合わないね。これは奇妙なことだ。奇怪なことを、私に『聞くかい』……ふふっ」

「おい、何がおかしい」

「ああすまない、なんでもないよ。とにかく一度、話を整理する必要がありそうだ。ご同行願えるだろうか」

 そう言って女性——シンボリルドルフは手招きした。周囲の建物に入るよううながしているようだった。ジャイロは警戒心を保ちつつ、下手に刺激しないよう彼女に従う。

「行くって、どこに連れていく気だ」

「差し当たって、この学園で一番偉い人がいる場所……『しかるべきところ』というやつだよ」

 

 近代的、というより未来的とさえ思える学舎の廊下を、シンボリルドルフに先導されて進むジャイロ。見慣れぬ意匠が施された鮮やかな色彩の中へ中へと誘われていく彼の胸中は、研ぎ澄まされた警戒心と、ほんのいくばくかの好奇心で満たされていた。

「なあアンタ。えっと、シンボル……なんとやらさんよォ」

「シンボリルドルフだよ。長くて呼びにくかったら、『ルドルフ』とか『会長』とでも呼んでくれればいい」

 静かな廊下にふたりの会話がこだまする。学生の姿が少ないように見えるのは、窓の向こうで西日が燃えているためか。時間の感覚はどうやら元の世界と変わりないらしい。ジャイロは妙に安心した。

「ルドルフ。改めて聞くが、ここは本当に19世紀末のアメリカでも、ネアポリスでもねえんだな?」

「ああ。ここは21世紀初頭の日本。君が口にするネアポリスという地名は、おそらくこちらの世界でいうところの、イタリアの都市ナポリに相当すると思われる」

 イタリア。ジャイロの最後の記憶では、その名は国を表すものではなかった。単純に百年経って世界地図が書き換わった、というだけの話にはジャイロにはどうしても思えなかった。納得がいくのはむしろ、

「ルドルフさんよ。こんなことを自分で聞くのもなんだが、アンタ本当に信じてるのか? 俺が単なる記憶喪失でもなく、百年前からやってきたわけでもなく、全然違う『隣の世界』から来た……なんて与太話をだ」

「正直に言って、にわかに信じろというのは無理な話ではある。けれどもそんなことは、君にとっても私にとっても重要ではない。信じると信じざるとにかかわらず、君は自分が『隣の世界』からやってきたと主張しており、私はそれを信じざるを得ない状況に置かれている。それが今この場で最も重要なことさ」

「やけに物分かりがいいな。俺としてはありがたいが」

「君のほうこそ、見知らぬ土地で騙されていてもおかしくない状況で、それでもこうして私についてきてくれているだろう。お互い様だよ」

 妙に弁が立つ女だ。前を歩くシンボリルドルフの背をにらみつけながら、ジャイロは密かに思った。とてもじゃあないが並大抵の女学生の立ち振舞いとは思えない。それとも、こちらの世界の日本では成熟した女性であっても「学生」の身分でいられるのだろうか。

「聞きてえことはまだまだあるぜ。アンタの……いや、この辺りをうろついてる小娘どもがみんなつけている、その耳と尻尾のことだ。単なるファッションとは思えねえ。それはいったいなんだ」

「ああ、これのことかい」

 シンボリルドルフは歩みを止めることなく、自分の腰から下げた尻尾をくるりと一回転させてみせた。

「お察しの通り、これは私たち『ウマ娘』の身体の一部さ。しかし、これについても説明が必要となると、ちょっと私ひとりの手に負えないな。やはり君をここに連れてきて正解だった」

 仰々しい木製の扉の前で、やにわに立ち止まるシンボリルドルフ。扉の上には「理事長室」のプレート。おおかたこの扉の向こうに、学校の最高責任者がふんぞり返っていることだろう。

 ジャイロの警戒心はより一層鋭さを増した。何かあるとすれば間違いなくここだ。今から自分は理事長とやらに、闖入者として「取り調べ」を受けるのだろう。これまでの奇妙な光景も意図的に作り出されたスタンド攻撃だとすれば、十中八九この扉の向こうに本体がいる。

「秋川理事長、失礼します。シンボリルドルフです」

 やや前傾姿勢で腰元に手をやりながら、シンボリルドルフに続いて扉をくぐるジャイロ。幸運なことに彼は道中、腰のホルスターに鉄球が入っていることを思い出していた。

 

「歓迎ッ! トレセン学園へようこそ、ジャイロ・ツェペリ殿!」

「……は?」

 鉄球をいつでも抜き放てるよう警戒心を研ぎ澄ましていたジャイロを、意外なほど鷹揚で間の抜けた声が出迎えた。

 部屋の中には女がふたり。緑の制服に身を包んだ女性と、扇子片手に呵々大笑する小柄な女の子だ。先ほどの素っ頓狂な声の主はどうやら女の子のほうで、上機嫌に開いた扇子には「歓迎」の字が揮毫されている。

「生徒会長さんからの連絡で、事情はうかがっております。そう緊張されなくても大丈夫ですよ」

 制服の女性にそう言われて、ジャイロは自分がまだ臨戦態勢を取っていたことを思い出した。あくまで警戒は解くことなく、言葉に従って彼は姿勢を正す。

「まずは自己紹介といこう。私はここ日本ウマ娘トレーニングセンター学園を預かる理事長、秋川やよいという。以後よろしく! そしてこっちが……」

「理事長秘書を務めております、駿川たづなと申します。よろしくお願いしますね」

 ふたりが順々に挨拶した。ジャイロの胸中に違和感がにじみ出る。この女たちに敵意はまるで見られない。本当にただの親切心で、自分と挨拶を交わしただけだというのか? 疑問は尽きないが、だんまりを決め込んでいても始まらない。

「……ジャイロ・ツェペリだ。早速で悪いが、アンタたちには聞きたいことが山ほどある」

「はい、遠慮なくお聞きください」

「ここを歩いてる女学生どもはみんな、馬の耳だの尻尾だのをつけて歩いてるよな。これはいったいどういうわけだ?」

 ジャイロがそう発言すると、シンボリルドルフを含めたこの場の三人が顔を見合わせてなにやら納得した風にうなずいた。そして、

「確信ッ! その質問をするということは、君は本当に我々と違う世界からやってきたらしい!」

 元気よく返事をしたのは理事長の秋川やよいとかいう少女だ。今更だが、トレセン学園とやらはこんな年端もいかぬ少女を代表に立てねばならぬほど、人材に乏しいのだろうか……そんなどうでもいい疑問がジャイロの脳裏を去来した。

「解説ッ! 君が言っているのは『ウマ娘』という存在だ。見た目は人間の女性と変わらないながら、君の言うように特徴的な尾と耳を持ち、人並み外れた膂力を有する。そしてなにより、彼女らは皆例外なく、走ることが大好きだ!」

「ほぉ。それだけ聞くと、確かに馬の特徴を持っているらしいが」

「逆に私たちは、ジャイロさんのおっしゃる『馬』という生物のことがわかりません」

 これは、駿川たづなの発言だ。制服と同じ色の、緑の帽子を直しながら言う。

「ジャイロさんの元いた世界にはウマ娘はおらず、代わりにその『馬』が当たり前に存在していたんですね?」

「ああ。何度も言っているが、耳と尻尾だけはそのウマ娘とやらにそっくりだ。しかし人間とは似ても似つかねえ。思いっきりスマートになった牛を想像してみろ。牛ならいるだろ? そいつをめいっぱい筋肉質にしたような生き物が馬だ。干し草や果物を食って暮らしてる。動物にしちゃ利口なもんで、人間を背中に乗せて走ることもあるんだ」

「私たちの存在が、ジャイロ殿の世界では動物か。興味深いね」

 シンボリルドルフが相槌を打った。

「ジャイロ殿、これでウマ娘のことが少しは理解できただろうか」

「まあな。だが、聞きたいことはまだあるぜ」

 質問はむしろ、ここからが本題だった。ジャイロは怪しまれないように、右手を後ろ手に回した。いつでも鉄球に触れるための準備だった。

「この女学校……トレセン学園にひとりほっとかれてる俺を、わざわざ助けてここへ連れてきた理由はなんだ? 不審者として突き出すこともできたはずだろう」

 ジャイロにとって、真に不可解なのはここだった。どんな返答が返ってくるかわからない、どんな策謀を渦巻かせているかわからない以上、ジャイロはいまだ警戒心を解くことはできなかった。

 三人はなにやら話し込んでいる。この三人のうち誰かが悪意のあるスタンド能力者である可能性は、まだ消えたわけではない。もし何か起こったら、ジャイロはすぐさま右の鉄球を木製の床板に打ち込んで、破片で目をくらませた隙に逃げ出す算段を立てていた。

(何を話し込んでいやがる。少しでも妙な動きを見せやがったら、女子供相手といえど容赦しねえ)

 そんなことを考えているうち、やがて三人の視線はジャイロに注がれる。どうやら話はまとまったらしい。ジャイロは右腕に力を込め──

「推薦ッ! ジャイロ殿、君にはトレセン学園のトレーナーとなるべく、試験を受けてもらう!」

「……はぁ?」

 彼の警戒心は、ぽっきりと折れた。

 

 そんな出来事があってから数日。ジャイロは正式にトレセン学園所属のトレーナーとなるべく、トレーナー寮の空き部屋を借りて勉強にいそしんでいた。

 決して納得したわけではない。なぜこんなことに……と幾度となく頭を抱えたが、できなければ不審者として出ていってもらうとまで言われては、受け入れるよりほかになかった。元よりジャイロ自身、この行き場のない世界で拾われたトレセン学園にすがって生きるしかない身分なのである。選択肢など最初からなかった。

 それに聞くところによると、トレセン学園のトレーナーという職業はそれなりに待遇もいいらしい。上手くことが運べば、この世界での当面の暮らしは心配いらないだろう。

 勉強のほうも順調であった。この世界で執り行われている「トゥインクル・シリーズ」なるレース競技の知識は一から頭に叩き込む必要があったが、ウマ娘の身体的特徴などの知識については、騎手としての経験と医学の知識を応用して難なく覚えることができた。医者の家系に生まれたことを、ジャイロは感謝した。

 そんなある日。気分転換にとジャイロはふらりと自室を出て、トレセン学園のレーストラックへとおもむいてみた。なにやら人だかりができている。どうやら模擬レースが行われているらしい。デビュー前のウマ娘たちが、選抜レースに備えて実戦形式の演習を行うという。

「こりゃあ……面白い名前の奴がいるな」

 出走を控えたウマ娘たちのゼッケンに記された名前を眺めながら、ジャイロは密かにつぶやいた。彼の視線の先には、凛とした雰囲気をまとった栗毛のセミロングヘアのウマ娘がいた。雰囲気こそ生真面目そうな印象を受けるが、一見どこにでもいるウマ娘のひとりにすぎない。しかしそんな彼女がジャイロの興味を惹いたのには理由があった。

「ヴァルキリー、か」

 それは奇しくもジャイロのかつての相棒、スティール・ボール・ラン・レースを共に戦ってきた愛馬の名前と同じだった。そういえばあのヴァレンタイン大統領との戦いのさなか、ヴァルキリーのことはルーシーを背負わせたまま置き去りにしてしまった。後のことはジョニィが上手くやってくれるに違いないと思うが──ジョニィならばきっと完璧な黄金の回転にたどり着き、大統領を打倒してくれることだろうが──ジャイロにとって元の世界で気がかりなことといえば、ジョニィとヴァルキリーのことだった。

「おい、ちょっと失礼するぜ。もう少し前で見させてくれ。すまないねえ目が悪いもんで」

 人ごみをかき分け、レーストラックの間近に陣取るジャイロ。ヴァルキリーの名を冠するウマ娘が、元の世界のヴァルキリーと何か関係があると決まったわけじゃあない。それでもジャイロは、彼女の走りを見ておかねばならないような気がしたのだ。

 やがてウマ娘たちが出走ゲートの中に収まっていく。その中にヴァルキリーの姿もあった。

「ゲートイン完了、出走準備整いました! スタート!」

 レーストラックに響くアナウンス。続く号砲とともにゲートが開き、各ウマ娘が横一列に一斉に飛び出した。観衆たちの歓声が響く。と、その時。

(見間違いか? 今、一瞬……)

 ジャイロの思案をよそに、レースは淡々と進んでいく。ヴァルキリーは先頭一番手。逃げの作戦をとっているらしい。そういえば自分もSBRレースのファーストステージを一番乗りで通過するために、ヴァルキリーに似たような走らせ方をしたな……とジャイロは不意に回想していた。あの時は確か、数呼吸ごとに身体が左にぶれるクセをDioに見抜かれて、野郎に危うく抜き去られるところだったっけ──

「おっと先頭を行きますヴァルキリー、落ち着かない様子! 身体の軸がぶれています!」

 実況の言葉にジャイロははっと目を見開いた。依然先頭を走るヴァルキリーは、実況が言うように確かにその体幹を頻繁にぶれさせている。ジャイロの愛馬を彷彿とさせるような、驚くほど正確なリズムで。そのたびに目に見えてヴァルキリーのスピードは損なわれるばかりか、コースが右回りであることも災いして少しずつ身体がアウトコースに振られて余計に経路をロスしている。

 結局、最終コーナーを待たずしてヴァルキリーは後方のウマ娘たちに捉えられ、直線勝負でも敗れて惨憺たる結果に終わった。

「ああ、結局勢いがいいのは最初だけだったかあ」

「あのクセを直さない限り厳しいわよねえ」

 周囲のトレーナーと思しき観衆が、口々にヴァルキリーの走りについて噂している。ジャイロはそこへ思わず首を突っ込んで、

「おいアンタら、教えてくれ。俺もトレーナー見習いなんだ。どうしたらアイツを担当できる?」

 気付けばそんな質問が口をついて出ていた。

「えっ、まあ正式にマンツーマン指導の契約を交わしたいなら、年に四回行われる選抜レースの結果を見て声をかければいい」

「選抜レース……か」

「ああ。もっともそれまでに君自身も、正式なトレーナーになっている必要はあるけどね。それから、選抜レースでの成績がいいウマ娘は他のトレーナーからも引く手あまただから、そこは自分の希望が通ることを祈るしかないね」

「そうか。情報感謝する」

 話を聞かせてくれた観客に謝礼を渡そうとして、そういえばこの国にチップの文化はないのだと思い出し、ジャイロは懐の小銭をそっと戻した。

 そのままレーストラックに背を向け、自室へ戻る道を行くジャイロ。道中、意外な人物とすれ違った。ヴァルキリーだ。ジャイロは直感する。この娘とは、今この場で言葉を交わしておくべきだと。彼はすかさず腰のホルスターから鉄球を取り出し、回転を与えて地面に落とした。地面に伝播した回転はたちまちヴァルキリーの真下で渦巻き、ぬかるみを生んで彼女の足を取った。

「きゃあ!」

「おっと危ない。大丈夫かよ、お嬢さん」

 バランスを崩して倒れかけたヴァルキリーの身体を、素知らぬ顔で支えるジャイロ。レース前は凛としていた彼女の顔は、まるで雨に打たれてしなだれたガーベラのように暗く沈んでいた。

「ありがとうございます。もう大丈夫ですから」

「レース見てたぜ。惜しかったなァ」

 ジャイロが会話の口火を切ると、沈んだ表情を急に色めき立たせるヴァルキリー。

「なんですか、馬鹿にしにきたんですか」

「とんでもない。いい走りだったと思うぜ俺は。嘘じゃあねえ。これでも見る目はあるつもりだ」

「いい走りをしたウマ娘が、七着なんて結果に終わるわけないじゃないですか。人をからかうのもいい加減に──」

「からかってなんざいねえ。俺は確かに見た。アンタの脚に宿る『黄金の回転』をな」

 きょとんとするヴァルキリー。彼女にわからないのも無理はないが、ジャイロは間違いなく目にしていた。先ほどの模擬レース、スタートダッシュを決めるヴァルキリーの脚が、黄金の回転の軌跡を描いていたことを。

 黄金の回転。それは黄金長方形──自然界に存在する最も美しい基本の形──を基に導き出される軌跡。無限の回転エネルギーを得られるとされる技術。あの時、ほんの一瞬だが、ヴァルキリーの走りにジャイロは確かにそれを見た。その後、例のクセでロスするとともに黄金の回転は崩れ、失速していったわけだが。

「黄金の……なんですって? わけのわからないことを言わないでください。これ以上、みじめな思いをさせないで」

「悪かった。今はまだわからなくていい。だが、今日のアンタの走りは間違いなく良かった。それだけは純然たる事実だ……俺やアンタがどう思おうが、変えようのない真実ってやつだ」

 怒りを通り越して泣きそうになってきたヴァルキリーの顔を見て、とっさに取り繕うジャイロ。しかし彼とて間違ったことを言っているつもりはない。黄金の回転は間違いなく、ウマ娘の脚に宿っている。ジャイロのいた世界には馬の脚から黄金の回転を得る技術が存在したが、その前提に照らせば、ウマ娘とはやはりこの世界における馬に相当するのだろう。

「……ボロ負けして、いじけてるウマ娘にそこまで言うなんて、変わった人ですね」

 ヴァルキリーが自嘲気味に笑う。しなだれたガーベラが再び天を仰いだ。

「よく言われる。引き留めて悪かったな。足元に気を付けて帰れよ」

 言ってジャイロはその場を後にする。去り際、彼は決意を固めた。あの黄金の回転をものにできるトレーナーは、おそらく普通では存在しえない。自分こそヴァルキリーとともに戦う資格がある。SBRレースの時のように。必ずそれを実現させてみせよう──そんな決意をだ。

 

 日本での暮らしは当初戸惑ったが、すぐに慣れた。まずもって水が清潔なことに驚いた。潔癖症な誰かがどこかでまとめて洗っているんじゃあないかというくらい、どの蛇口からも透明で綺麗な水が流れ出てくる。だから必然、食事も美味いし、トイレも清潔で変な病気をもらう心配がない。ジャイロが元いた世界では、こんな暮らしは一部の選ばれし者だけが享受できるものだと思っていた。21世紀の日本、侮りがたしである。おかげで日々の暮らしの中で、衛生面で心配する必要がまるでないのは快適だった。

 ほかに印象的なのは、歩道と車道の間に「ウマ娘専用レーン」が敷設されていることだろうか。ウマ娘は人の身でありながら、全速力を出せば馬と同じ速度を出せるわけだから、人間とも車とも区別する必要があることはむべなるかな。こうした部分からも、ウマ娘がどのように社会に位置付けられているかを察することができる。馬が人間の姿をしているというただそれだけで、元の世界と社会の在り方や歴史の形は当然異なってくるはずだ。わざわざ勉強したいと思うほど興味は惹かれないが、ウマ娘の社会的位置付けは意識しておかねばこの土地で暮らしていくには難儀するだろう、とジャイロは薄々予感していた。

 そんな生活も早半月。相も変わらずジャイロは寮の自室でトレーナー試験の勉強に励みながら、時折ふらっと出かけてトレセン学園の練習風景を眺める毎日を送っていた。ヴァルキリーの姿を見かけることもままあった。周囲に友人や指導者らしい者の姿はなく、基本的にひとりで黙々とトレーニングに励んでいる。

(なんだ、友達いねえのかアイツ)

 併走相手もいないのではさすがに気の毒だ、ここはひとつ自分が指導を入れてやろうと意気込んでジャイロは練習場に踏み入っていった。ちょうどヴァルキリーは走り込みを終えて、戻ってきたところだった。

「よお。また会ったな」

「ああ、いつぞやの黄金なんとやらさんですか。私に何かご用ですか」

「そういえば名乗ってなかったか。俺のことはジャイロと呼べ。んで、アンタはヴァルキリーだったよな」

「いかにも私はヴァルキリーですけど。なんですか、選抜レース前に唾をつけておこうって算段ですか。それも、私みたいな見どころのないウマ娘相手に」

「見どころがないかどうかは俺が決める。それと……」

 言ってジャイロは右の腿を上げ、手でその高さを示してみせた。

「一度でいい。騙されたと思って、脚をこの高さまで上げて踏み込んでみろ」

「はあ……? なんですかいきなり」

「いいからやってみせろ。それだけやってくれたら、俺は満足して帰るからよ」

 ヴァルキリーは露骨に難色を示していたが、やがて観念したとばかりにジャイロの言葉に従う。

「一度だけですよ」

 彼女が言われた通りに脚を上げ、その勢いで大地を踏みしめた瞬間。ずしりと重い音がして、彼女の蹄鉄は力強く地面をえぐり取った。土ぼこりが高く舞い上げられ、周囲はしばし騒然とする。

「えっ……何、今の」

 当のヴァルキリーにも何が起きたかわかっていない様子で、己の足が削った地面をただ茫然と眺めている。

「説明してやろう。アンタの脚は今、黄金長方形のバランスをとっていた。そこから導き出される軌跡、すなわち黄金の回転の力が、アンタのつま先の蹄鉄を通して土をえぐり取ったんだ。『回転』の力をものにできれば、アンタはさらに上を目指せるだろう」

「すごい……まるで自分の脚じゃないみたいだった。ねえ、もう一回教えてください」

「一度だけの約束だぜ。ちゃんと教えてほしければ、俺が無事にトレーナー試験に受かることを祈ってるこった。その後でなら、いくらでもレクチャーしてやる」

 ヴァルキリーの制止を振り切り、足取り軽く寮へと戻るジャイロ。やはり見間違いではなかった。黄金の回転はウマ娘の脚に間違いなく宿っているし、引き出すことができる。

 ヴァルキリーは今後ますます伸びてくることだろう。なにせ代々伝わるツェペリ家の技術を、その一端とはいえ授けたのだから。それまでジャイロのほうも、準備を怠るわけにはいかない。

 結局、一か月後のトレーナー試験にジャイロは一発で合格した。選抜レースでヴァルキリーの走りを見、正式に契約を取り付けるのは、そのまた翌週のことだった。

 

「また一緒に走ろうじゃあねえか。なあ、勝利の女神さんよ」

 薄暗い空の下でひときわ目立つぴかぴかのトレーナー証を自慢げに見せびらかし、ヴァルキリーに勧誘の言葉をかけるジャイロ。担当ウマ娘との契約は他のトレーナーとの競り合いになるとの話だったが、今のところヴァルキリーに声をかけようというトレーナーは、ジャイロのほかに存在しなかった。

「三着に終わったウマ娘に向かって、勝利の女神だなんていい褒め言葉ですね」

「そうすねるなよ。アンタは上を目指せる人材だ。前にも言った通りな。それに俺だって、約束通りトレーナーライセンスをもぎ取ってきてやった」

「……そうですね。ほんの二か月前に突然現れたにしては、よくやってると思います」

「なんでえ、知ってやがったのか」

 ジャイロが素っ頓狂な声を上げると、それを収めるようにヴァルキリーは露骨に肩をすくめてみせた。

「知ってるも何も、ここのところトレセンではあなたの噂で持ち切りですよ。経歴不明、正体不明の謎のイタリア人トレーナーが学園内に突如現れたって」

「ニョホホ、有名人はつらいぜ」

「そんなあなたのことですから、他にもっと有望なウマ娘を引き抜くことだってできるでしょう。どうして私なんかにこだわるんですか」

 ヴァルキリーにその質問を投げかけられるなり、ジャイロの目はにわかに真剣みを帯びる。次に彼が発する言葉は、単なるトレセン学園のトレーナーとしてではなく、ジャイロ・ツェペリというひとりの男としての言葉だ。

「黄金の回転。俺の見立てでは、今アンタが一番それに近付いている。俺の手でそれをどこまで磨き上げられるか、興味がある」

 ヴァルキリーはじっとうつむき、返事をしばしためらっている様子だったが、やがて重く口を開いた。

「本当に……おかしな人」

 ぼそっと言葉をひねり出すと、今度はきっと視線をジャイロに向け直した。その目は未来への期待に満ちていると、ジャイロは感じた。少なくともかつての、自分の才能のなさにいじけた少女の姿はここにはなかった。

「ジャイロさん。あなたの言う、黄金のなんとやらの話は正直よくわかりません。でも、それで本当に私の脚が生まれ変わるなら、私はそれに賭けてみたい。だから……よろしくお願いします」

「契約成立……ってことでいいのかね」

「はい。そうと決まったら、手続きに向かいましょう」

 ふたり並んで学園の校舎へと歩き出す。重く押し付けるような鈍色の空をかき分けるように、晴れ間がのぞき込んできていた。

 

 トレーナー契約の承認は驚くほどあっけなく下りた。まるで最初から、ジャイロがヴァルキリーと出会うことがわかっていたかのように。

「承認ッ! 君たちの今後ますますの活躍を祈る!」

 理事長直々の激励の言葉もいただき、早速メイクデビューへ向けてトレーニングといくか、と練習場へと足を運ぶジャイロ。トレーナー資格を得たことで当面はこの地で食いっぱぐれることはなくなったが、どうせなら担当ウマ娘を勝たせてやるために、己の技術を提供してやろうではないか。

 そんな思いで練習場へとおもむいたジャイロが目にしたのは、足元の土を一心不乱に踏みしめるヴァルキリーの姿だった。

「おい、何やってんだオメー。デビュー前に早くも気が触れちまったか?」

「ああジャイロさん……いえ、これからはトレーナーさんとお呼びすべきですね。ちょうど今は、以前教えてくださった黄金のアレを試していたところなんです」

 ああ、そういえばそんなことを教えたな……とジャイロは回想した。しかし黄金の回転は一朝一夕に習得できるものではない。なにより、

「ヴァルキリー、俺はアンタの黄金の回転に期待してはいるが、それ以前に基礎的な身体作りが足りなさすぎだ。レースで勝ちてえなら、下手な近道をしようとしないことだ」

「それは……」

「焦る気持ちもわかるけどよォ、まずは目の前のメイクデビューに集中するべきだ。黄金の回転に関しては、これからじっくり叩き込んでやる」

 ジャイロがそこまで言うと、ヴァルキリーはようやく納得した様子でうなずいた。

「はい、おっしゃる通りです。本日のトレーニングメニューをください、トレーナー」

「よし。それじゃあまずはダートで一本強めに走れ。なるべく実戦感覚でな。今のアンタの状態を見ておきたい」

「わかりました。行ってきます」

 はっ、と気勢を上げるとともに、ダートコースを駆けていくヴァルキリー。その脚はぐんぐんと伸びていき──ある地点でぴたりと勢いを失った。一周回って戻ってくる頃には、へとへとになってなんとかゴール地点にたどり着くヴァルキリーの姿があった。

「はあ、はあ……ど、どうですか、トレーナー」

 息を整えるヴァルキリーを前にジャイロはしばし考え込み、

「まず……スタートダッシュはいい。アンタの持ち味だ。しかしペース配分が良くねえな。逃げウマだからといって、なにもラストスパートまでに脚を使い切ることはないんだぜ」

「ペース配分……ですか。確かに、自分は逃げウマ娘だからとにかく逃げなくちゃ……って焦って、脚が残りませんでした」

「それと、アンタ自覚しているか? 数歩踏み出すごとに身体の軸がよろめいて、進路が左にぶれている。それを修正しようとしてまた進路にロスが生じている……」

「本当ですか? 私、自分にそんなクセがあるなんて知りませんでした」

 両手に握り拳を作り、下唇を噛むヴァルキリー。ジャイロが想像していた以上に、ショックの大きい宣告だったとみえる。

「やはり無意識だったか。クセってやつは直そうと思って直るものじゃあない。どう向き合うかってところが大事だ。目下のところの課題はそんなもんだな」

 ひとしきり言い終えるなり、周囲をきょろきょろし始めるジャイロ。

「あの、どうしましたか?」

「併せウマが必要だと思ってな。そこら辺に暇そうな奴がいないか見ていた。アンタ、こういう時に誰か併せウマ頼めそうな友達とかいねえのかよ」

「いませんよ……ずっとひとりでやってきましたから。寮のルームメイトになら頼めそうですが、彼女は今ちょうど遠征に出かけていて、しばらく帰ってこないんです」

「そうか……参ったな」

「あの! 何かお困りでしょうか!」

 突如響き渡った高い声に、ジャイロとヴァルキリーは慌てふためいた。声の主のほうを見ると、黒いショートヘアのいかにも元気にあふれていそうなウマ娘がひとり、前のめりになってこちらを見つめている。

「さっき、こちらのほうから困りごとの気配がしたので、急いで駆けつけました! あたしに何か手伝えることはありませんか?」

「いやまあ確かに、併走の相手を探してはいたが……俺たちはまだ、アンタの名前も聞いちゃいないぜ」

「あっ、そういえばそうですね。ごめんなさい、あたしってば気ばかりはやって」

 黒髪ショートのウマ娘はきりっと姿勢を正し、己の胸元に手を当ててこれまた元気よく挨拶した。

「あたし、キタサンブラックっていいます! 一応、今年デビューしたばかりです! 『キタサン』でも『キタちゃん』でも、呼びやすいように呼んでください!」

「ああ……よろしく。ジャイロ・ツェペリだ。こっちはヴァルキリー」

「ヴァルキリーです。よろしく」

 キタサンブラックの勢いに若干気圧されながら、挨拶を返すふたり。突然のことに驚きはしたが、キタサンブラック自身は悪い奴でもなさそうだ。彼女の言う通り、ここは困りごとの相談に乗ってもらうのがいいだろう。

「実は併せウマを探していてな。こいつ友達いねえもんだからよォ、相手を探すのに苦労してたんだ」

「友達がいないは余計です」

「なんだ、そんなことでしたか! 併せウマならあたしが引き受けますよ」

 屈託のない笑みで手を差し伸べてくるキタサンブラック。ヴァルキリーがおずおずとその手を取ると、その手を引いてあっという間にキタサンブラックはダートコースのスタートラインにヴァルキリーを導く。

 音のない合図とともにふたりは駆け出し、ダートコースをぐるりと回る。先ほど単独で走った際はコース中盤で掛かってしまい、スパートの脚が残っていなかったヴァルキリーだったが、今回は隣に併せウマがいることでペースキープしやすくなっているのか、終始落ち着いて一周回り切ることができたようだ。

「はあっ……どうですか、トレーナー」

 ジャイロが手にしたストップウォッチは、先ほどの単独走の時よりはるかにいいタイムを示している。ヴァルキリーの走りが大きく改善された証拠だ。

「こいつは驚いた。併せウマがいるだけでこれだけ違うとは。それにしても……」

 ちらりとジャイロはキタサンブラックのほうを見やる。息せき切っているヴァルキリーとは対照的に、キタサンブラックのほうはほとんど息を切らしていない。それは彼女が持つ潜在能力の高さをそのまま示していた。

(今年デビューしたとか言ってたな。順当に行けば、こいつともそのうちぶつかるってことか……?)

「ふうーっ! やっぱり、一緒に走ると楽しいですね! ジャイロさんもそう思いませんか?」

「ん? ああ、まあそうだな、楽しいのが一番だ、うん」

 目の前で元気を振りまいているこのウマ娘が、いずれ自分たちにとっての障害となるかもしれない。向こうだってそれはわかっているだろう。にもかかわらず、このキタサンブラックというウマ娘は自分からトレーニングの協力を申し出てくれた。SBRレースのような殺伐とした世界では、普通考えられないことだ。

「とにかく、いいデータが取れた。協力に感謝するぜ、キタサン」

「すごく手ごたえを感じたわ。ありがとう」

「いえいえ、また困ったら呼んでください。飛んで駆けつけますから!」

 衰える気配のないキタサンブラックの勢いに、ヴァルキリーは目を白黒させている。この手の手合いに慣れていないのだろう。

「あの、気持ちは嬉しいのだけど。キタサンにだって自分のトレーニングがあるでしょう? なにも私のことばかり気にかけなくても」

「いいんです、あたし困ってる人は見て見ぬふりできない性分なので。それにあたしたち、もう友達じゃないですか!」

「と、友達……ふふっ」

 友達という言葉に意味深な含み笑いで返すヴァルキリー。一見小馬鹿にしているようにも思えるが、彼女が腰の横で小さくガッツポーズを作っていたのを、ジャイロは見逃さなかった。

 その後、にこやかに手を振りながら自分の練習へと戻っていくキタサンブラックを見送り、その姿が小さくなっていくのを待ってから、ジャイロはヴァルキリーに話しかけた。

「良かったじゃねえかヴァルキリーちゃん。友達ができてよォ」

 照れ隠しに腿を蹴ってくるヴァルキリーの脚は、鉄球の回転で皮膚を硬質化させて受け止めた。

 

 その夜、ジャイロは不思議な夢を見た。

 前方に、三人のウマ娘が立っている。激しく差す後光で顔はよく見えないが、シンボリルドルフが女神像と呼んでいたあの噴水の像とシルエットが似ている気がした。

「アンタら……ひょっとして、この世界の女神ってやつか?」

 夢の中でジャイロは問うてみた。三人のウマ娘のひとりがこちらへ向き直る。一瞬だけ見えた彼女の髪は、燃えるように赤かった。

「女神か。確かに俺たちは、そんな風に呼ばれることもあるね」

「この世界に来た時、俺はアンタたちの石像の前に倒れていた。アンタたちの仕業か?」

「それを知ってどうなる。私がこの場でなんと言おうと、お前の運命は変わらない」

 突き放すようにそう答えるのは褐色髪のウマ娘だ。よく見ると左目に傷を負っている。それがまたいっそう威圧的な雰囲気を後押ししていた。

「その口ぶり……やっぱり何か知ってやがるなテメー。教えろ。俺はなぜこの世界に来た」

「その答えを得るには、あなたはまだこの世界のことを知らなさすぎる。私たちが言いたいのは、そういうことよ」

 三人目のウマ娘が、長い青髪をひるがえしながらこちらに振り向いて言った。その目は穏やかで、慈しみに満ちている。

 ジャイロは妙な気分に陥っていた。目の前の光景をただの夢と片付けるには、あまりに具体的というか、真に迫りすぎている。まさか本当に、目の前にいるのはこの世界の神とされる存在で、自分の前にこうして現れて託宣でも授けてくれようというのか。

 馬鹿げている、と思った。たとえ本当に女神の仕業で、自分がこの世界にやってきたと知ったところで、確かにジャイロにとってなんの関係もない。ただ生きるためにトレーナーをやり、ただ自分の興味に任せてヴァルキリーを育てるだけだ。

「そうかい、よぉくわかったぜ。アンタたちが何を考えていようと、俺の知ったことじゃあないってことがな」

 ジャイロが啖呵を切ると、突如としてウマ娘たちの背から差す後光が強さを増し、三人の姿を飲み込んでいった。そして──

「……ちっ、妙な夢見ちまった」

 目覚めるとそこはいつもの自室だった。閉め忘れたカーテンの隙間から朝日が差し込んできている。妙に現実味のある夢だったが、所詮夢には違いない。腰に力を入れて立ち上がると、目覚めの一杯にイタリアンコーヒーを淹れようとジャイロはキッチンへと向かった。

 その日の午後、トレーニングジムでの筋トレの合間にヴァルキリーに質問してみた。もちろん話題は三女神のことだ。

「ああ、広場の噴水に立っている像ですね。アレはまさしく三女神をかたどったものです。色々と不思議な噂話がありますよ」

 ヴァルキリーが言うには、三女神の像の前を通りかかると誰かが自分の名前を呼ぶ声がするとか、その声に返事をすると不思議な力で自分の走りが磨かれるとか、そういった類の噂が後を絶たないらしい。

「んで、その三女神様とやらは実際どんな背格好してたんだ」

「そこまではわかりませんよ。ああ、でも名前は知ってます。ダーレーアラビアン、ゴドルフィンバルブ、バイアリータークっていいます」

「ふうん……それが三女神の名前ね」

 ヴァルキリーが述べた名前を、ジャイロは今朝の夢に出てきたウマ娘たちに重ねていた。といっても、どれが誰だか当てずっぽうだが。

「そういえば生徒会長さんから聞きましたけど、トレーナーさんってその女神像の前に倒れてたんですよね。やっぱりこれも、三女神の思し召しなんでしょうか」

「さあな。馬鹿なこと言ってねえで、トレーニングに戻れ。この話は終わりだ」

 結局、ヴァルキリーと話しても有力な情報は掴めなかった。三女神のことなど今のジャイロには関係ないとは言ったが、女神を名乗るあのウマ娘たちが、今の自分の境遇と無関係とはどうしても思えない。この謎をどこまで深追いすべきか、ジャイロは決めあぐねていた。

(……やめだ。メイクデビューの日は刻一刻と迫っている。俺がこんなことでうだうだ考え込んでる場合じゃあねえ)

 頭に降りかかる雑念を振り払い、ジャイロはトレーニング管理に戻った。メイクデビューの日まで、あと二か月……。

 

 それからの月日は早かった。午前中は日本の夏の暑さに茹で上がりながら空調のきいたトレーナー室へと滑り込み、これまでのヴァルキリーのトレーニングの成果に目を通しながら、今後の指導方針を決めるべく頭をひねらなくてはならない。午後になるとヴァルキリーが学園での授業を終えてトレーニングにやってくるので、それに合わせてジャイロも練習場に顔を出し、具体的な指導と記録を行う。トレーニングが済んだらトレーナー室へと戻り、再びトレーニングのデータを分析しながら、他のウマ娘──特に同期のレース映像を眺めて情報収集を行う。トレーナー室に設置してある、テレビとかいう名前のハイテクな映写機の扱いにも、だいぶ慣れてきたものだ。一連の業務を終えたら寮へと戻り、心地良い疲れとともに床に就く。その繰り返しである。

 そんな生活の中でジャイロが密かに楽しみにしているのが、学園の食堂でとる昼食だった。一番のお気に入りは海鮮パスタというメニューで、ジャイロが故郷ネアポリスでよく食していたペスカトーレに非常によく似ている。パスタのゆで加減が少々柔らかすぎるのが残念だが、それでもジャイロに故郷の風を思い起こさせるには充分だった。

 昼食時に周囲を見渡してみると、ハンバーグの上から人参を突き刺した独創的なビジュアルの料理を食べている生徒や、自分の身体より大きく盛りつけられた料理をぺろりと平らげている生徒までいて、そのたびにジャイロは目を見張った。日本人の料理に対する情熱がこれらの奇妙な光景を生み出すのか、それともウマ娘という生き物が特殊なだけなのか、はたまたその両方だろうか。食べ物ひとつ取っても、改めて奇妙な世界だとジャイロは痛感するのだった。

 そうした生活にもすっかりなじみ、あっという間に月日は流れ──気が付けばヴァルキリーのメイクデビューを直前に控えていた。

「あの、トレーナー。この二か月で私もずいぶん鍛えられたと思うんです。だから、その……」

 トレーナー室でのミーティング中の一幕。ヴァルキリーが口をもごもごさせている。彼女が何を言いたいのか、ジャイロにはすぐに察しがついた。今の彼女に「それ」を教えたとて、すぐにものにできるわけではないだろう。しかし、「それ」を宿した彼女の走りに、ジャイロ自身興味があることも確かだった。

「いいだろう。ツェペリ家の流儀に則り、アンタに黄金の回転の技術を伝授する」

 黄金の回転。その言葉を聞いた途端、ヴァルキリーの表情がぱあっと明るくなった。

「はい、よろしくお願いします」

「本格的な説明に入る前に、ひとつ断りを入れておくぜ。アンタは今から俺が言うことに対して、四回まで『できない』と言っていい。四回目に『できない』と言った時……」

 腰につけた金属製のバックルを見せながら、ジャイロが続けた。

「このバックルをアンタにやる。黄金長方形の比率で精確にデザインされたバックルだ。こいつがあれば、アンタ自身の力で黄金の回転にたどり着けるはずだ」

「え、ええ……わかりました。けど、どうしてそんな遠回りなことを」

「それがツェペリ家のしきたりだからだ。鉄球の技術を代々受け継ぐ我が家系のな。よし。まずはこれを見ろ」

 ホワイトボードにペンで長方形を描いてみせるジャイロ。ヴァルキリーはまじまじとそれを見つめている。

「この図形を黄金長方形と呼ぶ。縦横の長さの比が約1:1.618の値を取る。これは、この世で最も美しい基本の比率と言われている。こっちの世界ではどうか知らないが、俺が元いた世界の有名な美術品や建築物には、必ずと言っていいほどこの美しい比率が形の中に隠されていたもんだ」

「最も美しい比率……黄金長方形。あの時、私の脚に力を与えたのもそれですよね。けど、それが私の走りとなんの関係が?」

 ヴァルキリーが言い終えるより先に、ジャイロはペンを動かしていた。まるで、彼女が次に口にする疑問をあらかじめ予想していたかのように。

「黄金長方形には、次の特徴がある。まず、この長方形の中に直線を一本引き、正方形を作る。すると残った小さい長方形もまた、1:1.618の黄金長方形となる。その長方形の中に正方形を作ると、残った長方形もまた黄金長方形に……これを無限に繰り返すことができる」

「無限に……まさか」

「察しがついたか? こうして作られた正方形の中心点を線で結んでいくと、無限に連なる『渦巻き』が描かれる……これが黄金の回転だ。黄金の回転から無限のエネルギーが得られさえすれば……」

 ヴァルキリーは言葉を失っているようだった。彼女は聡い子だ。今の説明で、ジャイロが何を言いたいのか理解してしまったのだろう。

「つまりトレーナーは、この黄金の回転に従って自分の脚を動かせば、無限の力が得られるって……そう言いたいんですか」

「そうだ。今のアンタの走りは、黄金の回転に限りなく近い。だが完全ではない。おまけに持続力も低いときた。黄金の回転をものにできれば、アンタの走りは必ず化ける」

「そんな……できません。あまりに現実離れしています」

「……一回目だな」

 ため息まじりにかぶりを振り、しかしさして落胆した様子もなくジャイロが言い放った。

「なに、焦る必要はない。あの時は事態が差し迫っていたが、今回はたっぷり時間がある」

「あの時?」

「いや、こっちの話だ。とにかく今後は、アンタの走りを黄金の回転に近付けるためのトレーニングも盛り込んでいくから、そのつもりでいろよ」

 かくして方針は定まった。メイクデビューへ向けた最後の仕上げは、ヴァルキリーの脚に宿る黄金の回転をより完全なものへと高めること。時間は限られているが、これからふたりが歩むキャリアの長さを考えれば、むしろ充分すぎるほどだった。

 

 そしてとうとうその日はやってきた。ヴァルキリーのメイクデビュー戦当日である。場所は東京レース場。ここから電車をいくつか乗り継いで向かうことになる。

 この日、ジャイロは朝からほとんど口をきかなかった。不機嫌なわけでも、緊張しているわけでもない。まったく土地勘のない道のりと、21世紀の電車という不慣れな交通システムに戸惑って、面食らっているのだった。彼が見当違いな方向へ歩き出すたびにヴァルキリーが道案内をしてくれるものだから、これではどちらが引率かわからなかった。

「結局アンタ……あれから一度も『できない』と言わなかったな」

 ようやく旅慣れてきて人心地ついた頃、電車の席でジャイロが言った。隣の席に座るヴァルキリーは、遠慮がちに小さくかぶりを振った。ひとつ結びの栗色のセミロングヘアがゆらゆらと波打つ。

「本当は言いたかったですよ。けど、それを口にしてしまったら最後、私はこのトゥインクル・シリーズ全部から逃げてしまうような気がして」

「繰り返しになるが、アンタの黄金の回転はまだまだ不完全だ。決して無茶はせず、かといって慢心もせず、ただ走り切ることだけを考えろ」

「ええ、わかっています。私もこのレースを通して、成し遂げたいことがありますから」

 列車はつつがなく目的地へと到着し、ふたりは東京レース場へと向かう。そこで意外な人物との再会があった。

「おーい! ヴァルキリーちゃん、ジャイロさん、こっちこっち!」

「キタサンじゃねえか。オメーなんでこんなところに」

 レース場のエントランスでふたりを待ち構える格好で立つキタサンブラック。ジャイロの問いかけに対して彼女ははにかみながら頬をかき、

「いやあ、今日がヴァルキリーちゃんのデビュー戦だって聞いたもんですから、これは是非とも観戦に行かなきゃって。そう思ったらいてもたってもいられなくて」

 少し気まずそうにそう答えた。ヴァルキリーは何か言葉を返したそうにしていたが、やがて意を決したように、

「ありがとうキタサン。私、必ず勝ってみせる」

 そう言って、出走者控室へとジャイロの手を引いていこうとした。

「おいおい落ち着けって、自分で歩けるからよォ」

「駄目です。目を離すとすぐ迷子になるんですから」

「あはは、ふたりとも仲がいいんですね!」

 キタサンブラックの呑気な笑みを背に受け、ヴァルキリーに手を引かれながらジャイロは控室入りした。各ウマ娘ごとにひと部屋割り当てられているようで、控室にはほかの出走者はおろか、ジャイロたちを除いて誰もいない。

「ここが、レース場の控室……」

 ヴァルキリーが感慨にふけっていると、控室のドアをノックする者がいた。ジャイロが応対すると、そこにはさっき別れたばかりのキタサンブラックの顔があった。

「なんだ、またアンタか。どうした」

「いえ、出走ぎりぎりまでヴァルキリーちゃんのそばにいたくて。迷惑でしたか?」

「迷惑なんかじゃないわ。入ってちょうだい」

 そう答えるヴァルキリーの声は少し震えていた。やはり緊張と無縁ではいられないらしい。ただ、キタサンブラックと二言三言交わすうちに、声の震えは自然と取れていった。本人たちがそこまで考えていたかはわからないが、キタサンブラックとの交流はヴァルキリーにとって心が安らぐものらしい。会話の端々に見える呼吸のリズムも落ち着いていて、いい雰囲気だ。

 そうこうしているうちに、ゲートインの時刻が迫る。

「ヴァルキリーちゃん、頑張って!」

「ヴァルキリー、綺麗に走ろうとしなくていい。お前自身の脚で、行って帰ってこい」

「はい。ありがとうございます、ふたりとも。行ってきます」

 三人は控室を後にする。ヴァルキリーはパドックへ、ジャイロとキタサンブラックは観戦席へ。

 パドックでのヴァルキリーの人気投票は四番人気。なんともいえない位置だ。しかし逃げウマ娘のヴァルキリーは、一度走り出せば否が応にもライバル全員から見られるわけだから、ライバルからのマークの厳しさでいえば何番人気であっても変わらないだろう。

 パドックでの顔見せが終わり、続々とゲートインしていくウマ娘たち。模擬レースとは違う、本番ならではのひりついた空気感が辺りを支配する。今日この場で無情にも、勝者と敗者が決められるのだ。

 実況がゲートイン完了のアナウンスを行い、ややあって、

「スタート! 各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました!」

 ヴァルキリーのトゥインクル・シリーズ、その第一歩が幕を開けた。

 

 ヴァルキリーのスタートダッシュは好調、いや絶好調と言ってよかった。彼女の両脚は教えた通り、黄金の回転の軌跡を取っている。その並外れた加速力で、彼女はまたたく間にバ群の先頭へと躍り出た。

「ヴァルキリーちゃーん! その調子!」

 キタサンブラックの高らかな声援がこだまする。対照的に、ジャイロはただ無言でヴァルキリーの走りを見守っていた。今回のレースは2000メートル左回り。ヴァルキリーの脚ならば走り切れるはずの距離であるし、左回りという点もヴァルキリーの左にぶれるクセが有利にはたらくはずだった。

「先頭はヴァルキリー、快調に飛ばしております! すぐに続いてクライネキステ、少し離れてリードサスペンス!」

 実況者の甲高い声を受けながら、レースはよどみなく進んでいく。後続との差は気になるところだが、ヴァルキリーは落ち着いてペースを保っている。リードを奪わせることも、無闇にリードを稼ごうとすることもない。キタサンブラックとの併走トレーニングの成果が出ている。

「ヴァルキリーちゃん、冷静ですね。自分のペースを守ってる」

「ああ……以前のアイツなら、今頃とっくに掛かってリズムを崩していたことだろう。アンタとの併せウマ以来、目に見えて改善されている」

「あたし、少しはお役に立てましたか? 良かったです」

 ふたりがそんな会話を交わす間にも、レースはずんずんと進んでいく。やがてバ群が向正面へと差し掛かり、各ウマ娘が仕掛けどころを探り始める頃合いになると、バ群の動きもそれに従って激しさを増していく。

「後続が差を詰めていきます! イッツコーリング、ここから仕掛けどころか!」

 中団のウマ娘がひとり動き出すと、それに連なるかのように後続の攻めっ気が一段と激しくなった。皆一様に、虎視眈々とヴァルキリーの首を獲る算段を立てているのだ。ヴァルキリーの様子はというと、まだ後ろの動きに気付いていないのか、あるいは気にかけていないのか、依然として頑なに自分のペースを貫いていた。良い調子だ。

 だが、第三コーナーを回ったところで異変は起きた。

「イッツコーリングここで目覚めるか! 早い仕掛けだ! 後続のウマ娘も続々と後を追います!」

 中団のウマ娘が早い段階でスパートを仕掛けてきたのである。これにともない、レースは一瞬にして熱を帯びた。

(あの仕掛けは早すぎる。直線勝負にもつれ込めば、後続連中はおそらく脚が残らないだろう。冷静にペースを守っていたこちらに分がある。焦るな、ヴァルキリー)

 ジャイロの念慮もむなしく、ヴァルキリーは後続にせっつかれる形でスパートをかけさせられる。これまで頑なに守っていたヴァルキリー自身のペースが、ここにきて崩れた。

「ここで先頭はわずかにクライネキステ、ヴァルキリー追走! リードサスペンス、機をうかがっています! ここで並んだ! 先頭リードサスペンス! 後からイッツコーリング!」

「ヴァルキリーちゃん!」

「黄金の回転が乱れた。脚もろくに残されていないだろう。ここまでか……」

 早すぎるスパートと乱されたペースによって、ヴァルキリーの脚はみるみる勢いを失っていく。ひとり、またひとりと並ばれ──

「うぅおああああっ!」

 ヴァルキリーが鬨の声を上げた。

「負けるか……私は、勝利の女神なんだッ!」

 ずん、と深く沈みこむ踏み込みとともに、ヴァルキリーの脚に再び力が宿る。既にヴァルキリーを射程圏内に入れていた後続のウマ娘たちを、再びその膂力で突き放す。

「内からヴァルキリー! 終わっていません! ヴァルキリーものすごい脚だ! 再び先団目指して加速する!」

 ジャイロは目を見張った。ヴァルキリーの脚が蘇るその刹那、彼の目に映ったものは。

「黄金の回転……それも完全な……」

 見間違えるはずもない。ヴァルキリーの脚に再び力を宿らせたものは、ツェペリ家が代々追求してきた完全なる黄金の回転、そのものにほかならない。

(アイツの回転は不完全だったはず。あの土壇場で習得したとでもいうのか? いや……今はそんなことはどうでもいい。勝て、ヴァルキリー)

「ヴァルキリー再び先頭! 外からリードサスペンス、さらに外からイッツコーリング! まだ勝負は続いている!」

「ヴァルキリーちゃん! 負けないで!」

 キタサンブラックの声が届いたのか否か、本人以外に知るよしもない。ただひとつ確かなことは、ゴールに己の身体をねじ込ませるその瞬間まで、ヴァルキリーの顔に不敵な笑みが張り付いていたということだ。

「一着はわずかにヴァルキリー! 凄まじい粘り腰でデビュー戦を制しました! 二着イッツコーリング、三着はリードサスペンス!」

「やったあ! やりましたよジャイロさん! ヴァルキリーちゃんが……!」

「わかった、わかったから落ち着け」

 今にも弾け飛びそうな勢いのキタサンブラックをなんとかなだめ、彼女を引き連れて地下バ道でヴァルキリーを出迎える。ヴァルキリーはゼッケンまで土ぼこりにまみれた姿で、いつもの凛然とした表情だけは崩すことなく現れた。

「ヴァルキリーちゃん、おめでとう!」

「ちょっと、キタサン。抱き着いたらあなたまで汚れちゃうわよ」

「あ、そっか。ごめんごめん」

「……聞こえていたわ、あなたの声援。あの声のおかげで、私は最後まで走り抜くことができた。ありがとう」

「えへへ。そう言ってもらえると、あたしも応援した甲斐があったかな!」

 ふたりが仲睦まじく談笑している傍ら、ジャイロはじっと考え込んでいた。あの時、ヴァルキリーが再び末脚を発揮できたのはキタサンブラックのおかげもあるだろうが、それ以上に──

「あの、トレーナー。どうかなさいましたか」

「いや……なんでもない。今回のレース映像は今後のトレーニングに活かせるだろう、ってな。ひとまずお疲れさん」

「はい、ありがとうございます。デビュー戦を勝利で飾れたことは、とりもなおさずトレーナーのご指導のおかげです」

 ヴァルキリーが土壇場で見せた、完全なる黄金の回転。ジャイロはそれに言及したい気持ちをぐっとこらえ、今はただヴァルキリーの喜びたいがままにさせてやることにした。

「ヴァルキリーちゃん、それからジャイロさんも、とにかく一度控室に戻りましょう。ふたりともお疲れでしょうし」

 キタサンブラックにうながされ、しずしずと控室へ戻っていく一同。三人分の足音が、冷たい地下バ道にこだました。

 

「改めて、ふたりともありがとうございました」

 控室に着くなり、こちらへ深々と頭を下げるヴァルキリー。レースの直後でへとへとになっているだろうに律儀な奴だ……とジャイロは心の中で少し笑ってから、

「アンタの手で掴んだ勝利だ……もっと堂々としてな」

 とねぎらってやった。

「そうだよ、そんなにかしこまらないで。ヴァルキリーちゃんの走り、本当にすごかったもん。ヴァルキリーちゃんが頑張ったおかげだよ」

 両腕を胸の前で構えながら力説するキタサンブラック。思えば彼女にもずいぶんと世話になっている。少なくとも、彼女の存在がヴァルキリーにとっての精神的な支えとなっていることは確かだろう。

 そんなことを考えながら、ジャイロはレーススケジュール表を手に取り、ぶっきらぼうに脚を組んで椅子に腰かけた。

「さて、当面の目的は果たしたわけだが。ふたりともどうする、もう何レースか観戦して──」

 言いかけて、ジャイロは沈黙した。次走の出走者名簿に彼の視線は釘付けになった。

「トレーナー? どうかしましたか」

 いぶかしげに顔を覗き込んでくるヴァルキリー。ジャイロははっとして意識をたぐりよせると、

「ヴァルキリー、次のレースは絶対に観戦していくぞ。どうしても確かめたいことがある」

 静かに沈み込むような声でそう言った。ジャイロが次走の観戦にこだわる理由は、出走者の名前にあった。

(スローダンサー……まさかな)

 それが、かつての相棒が連れていた馬と同じ名前だからという理由は、ウマ娘のふたりには伏せておいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。