「さあ、一年を締めくくる大舞台! 年末の中山で繰り広げられる熱戦! 有馬記念が間もなくスタートです!」
実況の声を背に受け、自信を顔に浮かべたウマ娘たちがひとり、またひとりとゲートへ向かっていく。ジャイロはその中にヴァルキリーの姿を見つけると、心の中で小さく声援を送った。
「一番人気、十番ドゥラメンテ」
「夏の怪我による療養でブランクがある彼女ですが、それでもこの人気。さすがは今年のダービーウマ娘といったところでしょうか」
ドゥラメンテはただ真っすぐに、ターフの向こう側を見つめていた。己の師と戦うことなど、少しも畏れている様子はなかった。
そんな彼女の師はというと、
「六番エアグルーヴ、現在四番人気です」
「『女帝』、オークスウマ娘の名は伊達ではありません。今日のレースでも私たちを沸かせてくれることでしょう」
シニア級の強豪ウマ娘たちが集う有馬記念において、十六頭立ての四番人気。エアグルーヴを支持する根強いファンの存在がうかがえる。
そして、ヴァルキリーはどうかというと。
「三番ヴァルキリー、六番人気です」
「今年の皐月賞ウマ娘です。ここ最近は勝ち星に恵まれていませんでしたが、今日はやってくれるかもしれませんよ」
こんな評価だった。まあ、勝ち星を獲れていないのは事実だから仕方ない。ヴァルキリーの力は決して衰えてなどいないと、この有馬記念で証明すれば良いだけのことだ。
「各ウマ娘、ゲートに入って体勢が整いました」
ゲートイン完了とともに、観客席がしんと静まり返る。年末の大舞台の火蓋が切られる時を、皆が今か今かと待っている。そして、
「スタート! 各ウマ娘、揃ってスタートを切りました」
ついに始まった。ヴァルキリーにとって、同年代のライバルたちにとってクラシック級最後の大舞台、有馬記念が。
「まず誰が行くのか。先行争いはヴァルキリー、オータムマウンテン、クラヴァット! その後ろからキタサンブラック、内からジュエルペリドット、差がなくエアグルーヴ」
「エアグルーヴ、少し前目につけましたね」
エアグルーヴの走りはジャイロも映像資料で目にしたことがある。彼女は差しから先行辺りのポジショニングを得意とするウマ娘だ。今回、キタサンブラックのすぐ後ろにまでつける先行策を選んだのは、よほど自分のスタミナに自信があって、序盤からリードを奪っても脚が残ると踏んでのことか。もしくはスローペースになりやすい中山2500メートルという舞台では、前目につけておいたほうが走りやすいという判断だろうか。
「シャバランケ、後方につけて様子をうかがう! その外並んでサトノダイヤモンド! さらにアライブカリン、すぐに続いてドゥラメンテ! サマーボンファイア続きます」
やはりというか、間延びした展開になった。ヴァルキリーはなんとかハナを奪うことには成功したが、ここでスタミナを使わされて終盤に脚が残るかどうか。
「一個目のホームストレッチです。先頭集団を見てみましょう。依然先頭を行くのはヴァルキリー! そのあとオータムマウンテン、キタサンブラック追走! 少し遅いペースになりました。スタンド前の急坂を各ウマ娘必死に駆け上がります!」
ここから第一、第二コーナー付近まで上り坂が続く。各ウマ娘は否が応にもペースを落とさざるを得ない。序盤に稼いでおいたリードがここで活きてくる。
ヴァルキリーは黄金の回転の精度を上げ、この急坂を一気に駆け上がってしまうつもりのようだ。実際、彼女がハナを取れているこの状況では、ほかのウマ娘の追走を許さない意味でも有効な作戦に思えた。
「快調に飛ばしていきますヴァルキリー! 二バ身ほど離れてオータムマウンテン、差がなくキタサンブラック、その外並んでクラヴァット、エアグルーヴ続きます」
「エアグルーヴさん……よくついてくるわね。あまり脚を使いすぎると終盤でぶっちぎられそうだし、無理は禁物だわ」
ヴァルキリーがそっと独り言ち、ペースをわずかに緩めた。これ以上リードを広げるつもりはないという意思表示だった。そのまま大きな動きはなく、レースは第二コーナーを抜けて向正面の下り坂へと差し掛かる。
「おっと、ここで後方から動きがあるか。ドゥラメンテ、徐々に進出」
ここで後方集団が動いた。ドゥラメンテの早仕掛けを皮切りに、各ウマ娘が次々と先団目指して加速を始めていった。
「ぐんぐんと差を縮めていきますドゥラメンテ! すぐに続いてシャバランケ、サマーボンファイア追走!」
ドゥラメンテの仕掛けに合わせて、後方のウマ娘たちの動きが激しさを増す。負けじと先頭集団はなんとか第三コーナーに差し掛かり、スパートの準備に入るが、そこは既にドゥラメンテの射程距離内であった。
「やああっ!」
鬨の声を上げるとともに、第三コーナー中ほどでついに先団を捉えるドゥラメンテ。なんというスピード、なんというパワー。誰もがドゥラメンテの勝利を脳裏によぎらせた、その時だった。
「若輩者が……誰の前を走っている。控えろ」
大地から響くような重苦しい声が、コース上のウマ娘たちの耳に届いた。次いで彼女たちを襲ったのは、己の脚を地面に縛り付けられるような重圧。
「何……この圧迫感。脚が思うように動かない」
「これってまさか……エアグルーヴさんなの?」
ヴァルキリーが思わずキタサンブラックと目配せする。ふたりとも同じ意見だった。この重圧の出所は、ほかならぬエアグルーヴだ。
「グル姉……さすがにそう簡単に、勝たせてはくれないか」
「当たり前だ。シニア級の洗礼を存分に味わうがいい」
各ウマ娘が続々とエアグルーヴの発する重圧に屈し、失速していく。その中をまるでジョギングでもするかのように、悠々と駆け抜けていくエアグルーヴ。
「三コーナーを抜けて四コーナーへ! エアグルーヴ、ここで抜け出した! これは決まったか、後ろは大きく離れたぞ!」
実況もエアグルーヴの勝利を確信している。しかし、そんな彼女の背に迫るひとりのウマ娘がいた。
「いや、まだ終わっていない! 中団から加速してくるウマ娘がひとり!」
「エアグルーヴさん、私にそんな小細工は通用しません。我がサトノ家が背負う悲願の重みは、こんなものではありません」
「サトノダイヤモンドだ! サトノダイヤモンドが迫ってくる! 大外からすごい脚で追い上げてくる!」
エアグルーヴの重圧をまったく意に介す様子もなく、ためていた脚を解き放って猛然と迫るサトノダイヤモンド。いまだ重い脚に苦しむヴァルキリーたちを風のように抜き去ると、たちまちエアグルーヴの背中を視界に捉えた。
「外から飛んできたサトノダイヤモンド! しかしこの短い中山の直線で差し切れるのか!」
「差し切ります。私は今日ここで、サトノ家の悲願を成し遂げなければならないのです!」
「こんなことが……ドゥラの世代のウマ娘、まさかここまでとは!」
必死に、それでいてどこか嬉しそうに逃げるエアグルーヴ。彼女の先行策は、結果的には裏目に出た。序盤にリードを奪ったぶん、サトノダイヤモンドほど長く末脚を使うことができない。
「エアグルーヴさん、今日あなたと戦えて良かった。私は、悲願を果たします」
決着は一瞬でついた。サトノダイヤモンドの視界に映るものは、ついに真っ青なターフ以外に何もなくなった。
「ご、ゴールイン! 一着はサトノダイヤモンド! まさかの大逆転劇を魅せてくれました! 二着はエアグルーヴ、三着はドゥラメンテ!」
レース場の熱狂が最高潮に達する。観客席からはサトノの偉業を称えるコールが響く。サトノダイヤモンドはしずしずとウィナーズサークルへと歩を進め、観客たちへ向かって深々とお辞儀をした。その目には小さく涙を浮かべていた。
ジャイロは一部始終を見届けると、小さくため息をつくとともに、心の中でサトノダイヤモンドに賛辞を贈った。それから大切な相棒を迎えに行くために、いつものように地下バ道へとおもむいた。
真冬の地下バ道は凍えるような冷たさで、四角四面の壁も床も天井も、すべてが氷でできているかのようだった。そんな凍りついた空気を融かしてしまうほどの熱狂を背に、ヴァルキリーはゆっくりとターフから帰ってきていた。彼女はジャイロの姿を見つけると、ぱたぱたと小走りで近寄ってきて、
「ただいま戻りました」
明るくそう言った。負けてしまって悔しくないのか、とかそういう野暮な質問がジャイロの口から漏れる前に、ヴァルキリーが今の心情を話してくれた。
「トレーナー。私、今とっても心が躍ってます。ひょっとしたら今、自分はすごいものを目にしたんじゃないかって、そんな気がするんです。エアグルーヴさんも、ダイヤも、あんなにすごい走りをするなんて知らなかった。あのふたりの勝負を間近で見られた私は、きっと運が良かったんだと思います」
目を爛々と輝かせながら、ヴァルキリーが楽しそうに語る。彼女の言葉は決して強がりの類ではないとわかった。放っておいたら小躍りを始めそうなほど、彼女の声は弾んでいた。
と、そこへ対照的に慙愧の念を身体じゅうからにじませるウマ娘がひとりやってくる。
「あーもう、悔しいっ! ダイヤちゃん、強くなってるのは知ってたけど、まさかあれほどなんて!」
わざとらしく周囲に聞こえるように叫び散らしながら、キタサンブラックが歩いてくる。やがて彼女はジャイロたちのところへやってくると、
「ダイヤちゃん、エアグルーヴさんの重圧にも全然屈する様子がなかった。ねえヴァルキリーちゃん、どうしてだと思う?」
藪から棒に問うてきた。必死に答えを探すヴァルキリー。ジャイロはキタサンブラックの求める答えに見当がついていたが、あえて口にはしなかった。あのターフの上で実際に体験したヴァルキリーの言葉のほうが、説得力があるだろう。
「おそらくだけど、レースにかける執念の差だと思う。私やキタサンは、とにかくレースに勝ちたい、楽しみたいって気持ちで戦ってきたけど、ダイヤは少し違う。ダイヤはサトノ家が誇る名ウマ娘になるため、その使命を背負って戦ってきた。ダイヤにとってエアグルーヴさんの放つ重圧は、自分の背負ってきた使命の重さにはかなわなかったんだと思う」
「ダイヤちゃんのレースにかける思いが、私たちより強かったってこと?」
「そうとは限らない。ただ、レースにかける思いの種類って言ったらいいのかな。その違いが今回の差を生んだんじゃないかってこと」
「レースにかける思いの種類……かあ」
ヴァルキリーの言葉をゆっくり咀嚼するように、繰り返し小声でつぶやくキタサンブラック。彼女はしばらくあごに手を当てて考え込んでいたが、やがておもむろに顔を上げ、
「うん、なんとなくわかった気がする。ありがとう、ヴァルキリーちゃん。ダイヤちゃんのすごさを見せつけられて、あたし少し弱気になってたかも」
胸の前でぐっと拳を握り、力強くそう言った。
「少しは元気が出た?」
「うん、いつもの元気いっぱいのあたしに戻ったよ。さて、明日からまたトレーニングの日々だ。みんなに負けないように頑張らなくちゃ! ヴァルキリーちゃん、ジャイロさん、それじゃまた!」
元気を取り戻すなり、嵐のように去っていくキタサンブラック。ジャイロとヴァルキリーはその後ろ姿を見送ると、次にやってくるウマ娘の姿に目を向けた。
そのウマ娘は泣いていた。目からとめどなくあふれ出す大粒の涙の始末に困って、ただ闇雲に両手で顔を拭っていた。
「何を泣くことがある。ダイヤ」
毅然とした声音を作って、ジャイロが話しかけた。サトノダイヤモンドは涙を拭う手を止め、濡れそぼった顔を恥ずかしそうにこちらへ向けた。
「堂々としろ。アンタは勝ったんだ。高らかに喜びを表現することが勝者の義務だぜ。でなけりゃ、アンタに負けたほかの連中が報われねえ」
「はい、わかってはいるのです。ですがその、抑えきれなくて。サトノの悲願をついに果たした、その喜びと達成感が。この気持ちをどうしたらいいか自分でもわからなくて、気が付いたら笑うより先に泣いていました」
「サトノの悲願……GⅠを獲るほどの名ウマ娘を輩出すること。それがアンタの走る理由だったな」
「はい。今だからこそ白状しますが、この使命は私にとって計り知れない重圧でした。それと同時に、この私をトゥインクル・シリーズに挑むサトノダイヤモンドでいさせてくれる、標でもあったのです。それが果たされた今、なんだか百年の知己を失ったかのような心持ちで、喜んでいいのか悲しんでいいのか、わからなくなりました」
「サトノの悲願は重圧であると同時に、今のダイヤを育ててくれた大切な目標でもあったってことね」
ヴァルキリーが話をわかりやすく要約してくれた。そして、いまだ涙の跡が乾ききっていないサトノダイヤモンドの顔をじっと覗き込んだ。ヴァルキリーは笑顔を作っていたが、その目は真剣だった。
「笑ってよ、ダイヤ。あなたに負けちゃった私たちのぶんまで。あなたには今日、この中山レース場を笑って去る義務と、権利がある」
ヴァルキリーの言葉にはっとした様子のサトノダイヤモンド。その目の涙はもはや拭い切られ、彼女はふっと柔らかく口角を上げた。ジャイロたちがこれまで目にした、どの彼女とも違う笑みだった。
「おふたりとも、ありがとうございます。確かに、GⅠ覇者がこんなにめそめそしていてはいけませんね。サトノ家のウマ娘らしく、堂々と凱旋しようと思います。皆が笑って祝福してくれるというのに、私が泣いていてはおかしいですから」
サトノダイヤモンドは軽い調子でそう言ったが、これは彼女が長年言いたくてたまらなかった言葉だ。ジャイロもヴァルキリーも、そのことを理解していた。だからふたりは、サトノダイヤモンドの言葉に対し肯定も同調もしなかった。ただ思うさまに、サトノダイヤモンドに今の気分を味わわせてやるべきだという点で、ジャイロとヴァルキリーの意見は一致していた。
サトノダイヤモンドが手を組んで祈るようにうつむく。一瞬、静寂がよぎる。彼女が己の使命に別れを告げるための時間だった。それから彼女は顔を上げ、にっこりと笑ってから、
「私の使命は果たされましたが、ヴァルキリーさん、これからも私のライバルでいてくれますか」
と言った。ヴァルキリーが強く頷くと、サトノダイヤモンドは再びたおやかに笑み、会釈をして地下バ道を立ち去っていった。ジャイロとヴァルキリーはその後ろ姿をしばし見送っていた。サトノダイヤモンドの足取りは、勝者にふさわしく堂々としていた。
「おや、行ってしまったのか。今日の英雄に挨拶のひとつでも、と思ったのだがな」
ターフの方面から声がしたのでふたりが振り返ると、エアグルーヴとドゥラメンテが並んで立っていた。
「エアグルーヴさん……」
「少しだけ話し声が聞こえた。まさか、あれほどまでに堅固な執念を背負っていたとはな。敵わんわけだ」
自嘲気味に肩をすくめるエアグルーヴ。その横で、ドゥラメンテが何やらそわそわしている。
「エアグルーヴさん。あなたの走り、さすがだったわ。上の世代の洗礼を受けたって感じ」
「そうだろう。グル姉はすごいんだ。オークスウマ娘の名は伊達じゃない」
すかさず口を挟むドゥラメンテ。心なしかうきうきしているような気がする。
「なんでオメーが自慢げなんだよ……」
ジャイロが思わず呆れ声を出すと、ドゥラメンテはむっとして食ってかかってきた。
「そんなの決まっている。この私がグル姉の偉大さを証明する生き証人だからだ。私がトゥインクル・シリーズで活躍するほど、私を育てたグル姉もすごいということになる。私は君たちに忠告したはずだ、足元をすくわれないようにと」
「アレってエアグルーヴのことだったのな……今になってようやくわかったぜ」
「ダービーを獲った私、その私を育てたグル姉。その強さは推して知るべしだ」
はて、ドゥラメンテはこれほど雄弁に他者を賛美するようなキャラだっただろうか。それとも彼女にとってエアグルーヴがそれだけ特別だということか。一抹の疑問を抱えながら、ジャイロはドゥラメンテの話に耳を貸す。いまだ興奮冷めやらぬ様子で、エアグルーヴの偉業について朗々と語り始めるドゥラメンテ。
「そもそもグル姉はオークスのみならず、トリプルティアラを総なめできる素質があったんだ。トレーニング中に風邪をひいてしまったことで、大事を取って桜花賞は回避することになったが、続くオークスでは一番人気に推され、期待に見事応える形でオークスウマ娘の栄冠に輝いた。秋華賞だって、フラッシュ撮影で目がくらむアクシデントがなければきっと──」
「ドゥラ、もういい。そのくらいにしておけ。ジャイロ殿たちが戸惑っている」
鼻息荒く語り続けるドゥラメンテを、エアグルーヴがそっとたしなめた。このまま放っておいたら、終電がなくなるまでドゥラメンテの講釈が続いていたかもしれない。
「えっと……まあその、ふたりは仲がいいのね」
苦笑いとともにヴァルキリーが言うと、ドゥラメンテは再び鼻を鳴らした。
「仲がいいなんてものじゃない。私とグル姉は、強い絆で結ばれている」
「そんなことをいちいち自慢するな、たわけ」
「だが、絆がウマ娘を強くするというのはグル姉も言っていたことだ。私はそれを実践しているにすぎない」
「それは当人たちの間で完結していればいい話だ。わざわざ他人にひけらかす必要はないと言っているんだ」
やいやい言い合いを始めるエアグルーヴとドゥラメンテ。その一方で、ヴァルキリーがジャイロにそっと耳打ちした。
「なんだか取り留めがなさそうですし……ふたりきりにしてあげましょうか」
「奇遇だな、俺も同じことを考えていた。アンタも疲れただろう、さっさと帰って休もう」
ジャイロの返事を受けてヴァルキリーはドゥラメンテたちに向き直り、
「ごめんなさい、私たちそろそろ行くわね。ふたりとも、今日はいい勝負をありがとう。それじゃ!」
そう言い残して、ジャイロの手を引いてそそくさとその場を後にした。
「絆がウマ娘を強くするっていう話、確かに本当なんでしょうけど……」
「仲が良すぎるのも考えものだな」
ドゥラメンテたちがすっかり見えなくなった辺りで、ジャイロとヴァルキリーはそんなやり取りをした。それから、自分たちも人のことは言えないと気付いて、ふたりで笑い合った。
年末の祭典、有馬記念はこうして慌ただしく、それでいて平和に幕を下ろした。
とかく日本人というのは祝い事が好きな人種なのだなと、内心少し呆れながらジャイロは夕暮れ時の街を歩いていた。トレーナー室の備品の買い出しである。ついこの間クリスマスが終わったかと思えば、まるで舞台役者が早着替えするかのように、街はあっという間に正月ムードに様変わりしていた。まったく慌ただしいことである。商店街の軒先には門松や鏡餅などの縁起物が連なっており、中にはリースや電飾と一緒に「お正月キャンペーン中!」の張り紙が掲示されているといった、クリスマス気分が抜けきっていない店まであるほどだ。
いったいなぜ日本人がなんでもかんでも祝おうとするのか、ジャイロは知らないし特に興味もないのだが、ひとつだけはっきりしていることは、こうした節目の祝い事はヴァルキリーにたまの休暇を与える口実にうってつけだということだ。大多数の日本人も案外、仕事の疲れから逃れることを期待してこうした祝い事を盛り上げているのではないかと、ジャイロは邪推した。
さて、今日買いにきたのは朱肉である。今まで使っていたものはあのトレーナー室に昔から置いてあるものらしく、年季が入ってぼろぼろになってしまっていた。買い換えようにもトレセン学園の購買部では取り扱っていなかったので、ジャイロ自らこうして商店街に繰り出して探すことになったわけである。商店街にはヴァルキリーと一緒に何度か来たことがあるが、文房具屋に寄ったことはない。人混みをかきわけ、ジャイロが右へ左へと視線を振りながら目的の店を探していると。
「あらぁ。ジャイロさん、奇遇ねぇ」
柔らかく、おっとりした声がジャイロの耳に届いた。声の主は探すまでもなかった。その人物は待ち構えるかのように──そんなことがあるはずはないのだが──ジャイロの真正面に立っていたのである。芦毛のウェーブがかった髪をたおやかに揺らしながら。
「スローダンサー……」
「そんなに警戒しないで。ちょっとお話ししたいだけだからぁ」
スローダンサーはただ静かに、ゆったりと構えてこちらに向かって微笑んでいる。ジャイロは彼女の言葉に従わず、警戒心を解くことなく彼女の無垢な笑顔をにらみつけた。賑やかな商店街の片隅で、にわかに緊張の糸が張り巡らされた。
「ジャイロさん、今日はヴァルちゃんは一緒じゃないの?」
「今日は別行動だ。アンタのほうこそ、ジョニィと一緒じゃあねえのかよ」
ジャイロのその質問にスローダンサーは少しだけ笑顔を曇らせ、
「トレーナーさんは……最近あまり顔を合わせてくれないの。トレーニングの時も、こちらを気にかけてくれているのかいないのか……」
返ってきたのは意外な言葉だった。スローダンサーの言を信じるなら、彼女とジョニィの関係はジャイロが思うほど一枚岩というわけでもないのかもしれない。
「ところでよォ、菊花賞の時はよくもやってくれたなァ。ありゃあ痛かったぜ」
ジャイロがわざとらしく後頭部をさすりながら言う。スローダンサーは露骨に申し訳なさそうな顔をした。演技をしている様子はない。
「そのことについては、本当に申し訳ありません。トレーナーさんに探りを入れられてはまずいと思って、とっさに手が出てしまって」
「そこだ、俺が気になってんのは。ジョニィやアンタの目的はいったいなんだ。菊花賞の優勝カップが、いったいどう関係する?」
スローダンサーは少し小声になり、
「それをお話しするには、ここでは人が多すぎるわね。場所を変えませんか。いいお店を知っているのよぉ」
ジャイロをそっと手招きして商店街の中を導き、小ぢんまりした喫茶店へと案内した。スローダンサーは迷いなく一番奥の席へと進むと、ジャイロに対面へ座るよううながした。ジャイロは少しためらったが、結局はスローダンサーの指示通りに席についた。喫茶店の奥まった席とはいえ、こんな人目につくところで菊花賞の時のように暴力を振るってくることはあるまいが、まだ警戒を解くわけにはいかない。
「アイスティーをひとつ。ジャイロさんは何にしますか?」
「……エスプレッソ」
ジャイロは不機嫌な顔を取り繕おうともしなかった。店員が注文を取って立ち去るのを待ってから、ジャイロは話の続きを目でうながす。スローダンサーは少し困った顔をしながら、言葉を探しているようだった。今日、ここでスローダンサーと出会ったのはまったくの偶然だが、彼女の口からジョニィの目的を探り出す絶好のチャンスだ。慌ててはいけない。ジャイロはじっと彼女の様子を見守った。
注文の品が届き、ふたりが互いに自分の飲み物に口をつけたあと、スローダンサーは自ら重い口を開いた。
「トレーナーさんは、菊花賞であるものを探すと仰っていたわ」
「あるもの、だと?」
ジャイロのオウム返しにスローダンサーは首肯しつつ、慎重に言葉を選ぶそぶりを見せながら続ける。あるものとはなんだ、と問いただしたい気持ちが先走りそうになるのを必死でこらえながら、ジャイロは話の続きを待った。
「わたくしも、そのあるものというのが何なのか教えてはもらっていないの。信じてもらえないかもしれないけど、わたくしもトレーナーさんの目的に関して、完全に理解しているわけではないのよ」
「そうか。なら、知っていることだけで構わない。教えてくれねえか。俺は少しでも手がかりが欲しい」
「わたくしが知っているのは、トレーナーさんの探しているものは『三冠』の優勝カップに関係しているということだけ。菊花賞のカップを狙ったのも、おそらくそのためだと思うわ」
「三冠……というと、クラシック三冠か」
「わたくしも最初はそう思ったわ。トレーナーさんもそう考えていたみたい。だけど菊花賞のカップから何も出てこなかったことからして、クラシック三冠はどうやらトレーナーさんの目的とは無関係だったみたいねぇ」
ジョニィの目的は「三冠」の優勝カップにある。しかしクラシック三冠ではない。では、いったいどの「三冠」だというのか。
「まさか、トリプルティアラじゃあねえだろうな」
「それはないわ。トレーナーさんの探し物はわたくしが出たレース、わたくしが出られるレースにしか存在しえないって調べがついてるみたいなの。わたくしは今年、クラシック三冠路線へ進むことを決めた。だからトリプルティアラは無関係だとトレーナーさんにはわかっているはずよ。同じ理由で、今年の秋シニア三冠も無関係。なぜなら、わたくしが秋の天皇賞に出られなかったから」
確かにジョニィは、秋シニア三冠の一角である有馬記念は、目的とは無関係であると発言していた。スローダンサーの話が事実であるとすれば、説明がつく。となれば、残る可能性は──
「春シニア三冠……大阪杯」
「ええ。わたくしもその可能性が高いと踏んでいるわ。トレーナーさんの目的となるものが手に入るとすれば、おそらく春シニア三冠の優勝カップの中。そこにわたくしを出走させて、優勝カップを手にするか、破壊して中の物を奪おうとするはずよ」
「しかしジョニィは言ってたぜ。アンタの次走は春天だと」
「そうなの? もしそれが本当だとすれば、大阪杯は──」
「はなから強奪することしか考えてねえってことか。クソッ」
大阪杯の優勝カップが誰の手に渡ろうと、ジョニィは奪い取ることしか考えていない。ウマ娘たちの栄光と尊厳が再び踏みにじられようとしている。そう思ったらなんだか急に怒りがこみ上げてきて、ジャイロは手元のエスプレッソをひと息にくいっと飲み干した。喉を流れる熱い感触が、かえってジャイロの頭を冷やしてくれる。
「もうひとつ……いや、ふたつだけ聞かせろ」
スローダンサーと改めて正対して、ジャイロは問いかけた。スローダンサーは視線を逸らすことなく、じっと膝に手を置いてジャイロの次の言葉を待っている。
「なぜ今になって、俺にアンタたちの目的を話す気になったんだ? 聞かせろと言ったのは俺のほうだが、こんなことを話して、困るのはジョニィ……アンタのトレーナーだろう」
「それが、自分でもわからないの。トレーナーさんの……あの人のそばに立っていると、なんだか自分が自分でなくなっていくような気がして。今はわたくしひとりだから、落ち着いて話せているだけ。トレーナーさんの目的がバレたところで、どうなってもいいと思っている自分がいるのよ。それから、菊花賞の時に酷いことをしてしまって、ごめんなさいの気持ちもあるわ。だからこうして今日、わたくしが知っていることをお話ししたの」
おそらく「悪しきもの」の影響だろう。ジョニィから離れた場所では、スローダンサーも本来の自分らしく振舞えるということか。
「もうひとつ……なぜそこまでわかっているのに、アンタはジョニィの指導に従う? 奴がヤバいことに手を出しているのは明らかなんだ、アンタが付き合う理由はないはずだ」
ジャイロがそう問いかけると、スローダンサーはアイスティーをひと口含んでため息をついた。これから話す言葉と、心の整理をしているのだろうとわかった。
やがて決心したように、彼女が口を開く。
「わたくしには、トレーナーさんが悪人だとはどうしても思えないの。今のトレーナーさんは、何か良くないものに憑りつかれているだけ。事が済めば、きっと元の優しいトレーナーさんに戻ってくれる。そう期待せずにはいられないの。だって、ウマ娘でありながら全力で心ゆくまで走れなかったわたくしを、黄金の回転でもって導いてくれた人なんだもの。トレーナーさんの代わりを見つけろと言われて、はいそうですかっていうわけにはいかないわ」
「……そうか」
それはジャイロもまた期待していることだった。「悪しきもの」がジョニィの元を去れば、元の誠実なジョニィに戻ってくれるに違いないと。ただ、現状ではその保証もなければ、手段もわからない。ジョニィの起こす行動に対して、後手後手で対処するよりほかにないのが実情だ。
「アンタの言いたいことはわかった。意地の悪い質問をしてすまなかったな」
「いえ、ジャイロさんの立場を考えれば当然だわ。トレーナーさんとジャイロさんは竹馬の友だったと聞いているから、元のトレーナーさんに戻ってほしいって気持ちは一緒のはずよね」
「……ああ」
話すべきことをすべて話し終え、ふたりの間に静寂が流れた。スローダンサーはいそいそと小さい口でアイスティーを飲み干すと、そろそろ行きましょうか、とジャイロをうながした。
会計を済ませて店を出ると、外はすっかり日が暮れていた。
「本当に良かったの? おごってもらっちゃって……」
「情報料だと思っておきな。興味深い話を聞かせてもらったからよォ」
多少スリムになった財布を手でもてあそびながら、ジャイロがおどけてみせた。実際、今日ここでスローダンサーから得られた情報の価値は計り知れない。
「今日の話、ヴァルキリーにも伝えていいか?」
「ええ、構わないわ。ヴァルちゃんにもすごく迷惑かけちゃってるし、何よりあの子はジャイロさんのこと信頼してるみたいだから」
「わかった。一応、今日のことは感謝しておこう。菊花賞の時のことは、これでチャラにしてやる。気を付けて帰れよ。俺はこれから買い物の用事を済ませていかなきゃならねえ」
ジャイロがそう別れの挨拶を切り出すと、スローダンサーは深々とお辞儀をし、そのまま人混みの中へと消えていった。ジャイロはその後ろ姿をしばし見送ったあと、まだ文房具屋が閉まっていないことを祈りながら、踵を返して再び商店街を歩き始めるのだった。
ジャイロにとって二回目となるこの世界での年の瀬は、こうして静かに時が流れていった。
ジャイロがヴァルキリーと再び顔を合わせる機会は、年をまたいでやってきた。クラシック戦線もいろいろあったが無事に終わったことだし、正月くらいゆっくり休ませてやろうと思って、少し長めのオフを取らせたのだ。
新年早々ジャイロがトレーナー室でひとり、ぴかぴかの朱肉を傍らに書類仕事に励んでいると、
「トレーナー、あけましておめでとうございます」
元気良くそう挨拶しながら、ノックもなしに入室してくるウマ娘がひとり。ヴァルキリーであった。ジャイロは唐突な来客に面食らいながらも、一年前に覚えた新年の挨拶でもって返す。
「あけましておめでとう」
「旧年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします」
これはジャイロが知らない挨拶だ。新年の定型句ひとつ取っても様々なバリエーションがあるのだなと、ジャイロは妙に感心した。
「去年は大変な年だったな。アンタの脚は故障するわ、ジョニィの奴はおかしくなっちまうわ」
「その節はご迷惑をおかけしました」
「いや……責めてるつもりはねえけどよォ」
「わかってますって。これは慣例的なやつです。ジョニィさんのほうは、いまだ予断を許さない状況ですけどね」
「ああ、そうだった。ジョニィの件でアンタに伝えておきたいことがある。新年早々、縁起のいい話と言っていいかわからねえが、とにかく聞いてくれるか」
そう言うとジャイロはヴァルキリーにソファへ座るよううながし、新年には少々場違いなイタリアンコーヒーを淹れて持ってきた。日本の正月らしくはないが、ヴァルキリーは喜んでいるようだしまあいいか──なんて考えながら、頃合いを見てジャイロは話の続きを切り出した。
「実は去年の暮れに、スローダンサーと会う機会があってな。興味深い話を色々と聞き出すことができた」
「本当ですか! スロさんはなんて?」
「そうせっつくな、順番に話してやる。まずジョニィの目的だが、奴は優勝カップの中に入っている何かを手に入れることを狙っているらしい」
「優勝カップに、何か入っているんですか? そんな話は聞いたことが……」
「そこは俺にもよくわからん。スローダンサーも知らねえみたいだった。だが手がかりがないわけじゃあない。ジョニィの探している物は、普通のカップじゃあない、『三冠』レースの優勝カップの中にだけ存在するものらしい」
長台詞を吐き終わって、コーヒーをひと口含み息を整えるジャイロ。ヴァルキリーはただ黙って、真剣に耳を傾けている。
「単に『三冠』と言っても色々あるが、クラシック三冠はジョニィにとってハズレだった。菊花賞のカップの中には何もなかったからな。アンタたちも見ただろう」
「そうですね……あの日の光景は、今でも目に焼き付いています」
「ジョニィが狙っている『三冠』は、スローダンサーが出走するレース、出走できるレースだということが判明しているらしい。つまり、いわゆるトリプルティアラもここで除外される。スローダンサーはティアラ路線には進まなかったからな。そして秋シニア三冠だが、これもスローダンサーが秋の天皇賞に出走することができなかった以上、条件には当てはまらない。事実ジョニィ自身が、有馬記念は目的と無関係だと発言していたからな」
「なるほど。すると残るは……春シニア三冠でしょうか」
「そういうことだ。ジョニィの次の狙いは春シニア三冠で間違いない。奴はここで必ず再び何か仕掛けてくる。ただ奇妙なことだが、ジョニィ本人が言うところによると、スローダンサーの次走は春天を計画しているそうだ」
「春天ですか? 大阪杯ではなく?」
ヴァルキリーが首を傾げた。無理もない。この話でジャイロが最も奇妙に感じている点も、まさにここにあるのだ。
「そうだ。奴は確かに俺に対してそう言った。てっきり大阪杯にもスローダンサーを出走させて、自分の手でカップを獲って中身を改めるつもりなのかと思ったが、どうやら違うらしい。奴の狙いはあくまでカップの中身……だから不自然というほどではないが、なんらかの理由でスローダンサーを出走させたくないのか、それとも大阪杯に出ないという発言自体がブラフか、はたまた春シニア三冠もまたジョニィの目的とは無関係なのか……」
「いずれにしても、大阪杯は警戒したほうが良さそうですね。本当にジョニィさんの目的が春シニア三冠だとすれば、カップを狙ってくる手段はおそらくただひとつ……菊花賞でキタサンを狙った、あのスタンド能力」
タスク。爪を回転させて撃ち出す能力。大阪杯がジョニィの目的と無関係でなければ、彼は必ずその能力でもって再びカップを狙ってくるだろう。菊花賞の時は単なるカップの不備で済まされてしまったから、あの事件を境にウィナーズサークルの警備を強化するといった措置は取られていない。つまり、何も知らないウマ娘が無防備に大阪杯のカップを掲げてしまったら、きっとまた同じことが繰り返されてしまう。
「ヴァルキリー。次の大阪杯……勝つぞ」
「ええ、もちろんです」
ジャイロの言わんとすることが、ヴァルキリーには既に理解できていたようだ。ふたりは視線だけで合図し合って、次の目標を確かめ合った。なんとしても自分たちの手で大阪杯を獲り、ジョニィの攻撃からカップを守る。
「どうする、ひとまず中山記念辺りから始動していくか? 経験の薄いマイル戦だが、長めの距離だから大阪杯と近い感覚で走れるだろう。何より、アンタのこれまでの成績から、中山レース場のようなアップダウンの激しいコースには適性があると思っている。ここを大阪杯に向けての試金石としたい」
「金鯱賞から始動する手も考えましたが……そうですね、私は中山記念でも構いません。二月にレース経験を積んでおいて、三月は大阪杯へ向けてみっちり調整する期間に充てたいですからね」
「決まりだな。じゃあ、そういうことでよろしく」
話がひと段落着いたところで、ジャイロはコーヒーカップを鼻先に持ってきて深呼吸して香りを堪能した。思考が乱雑になった頭の中がすっきりと整頓されていくのを感じる。
と、ヴァルキリーのほうを見てジャイロは怪訝な顔をした。彼女がまだ何か言いたげな表情をしている。
「どうした、さっさと飲んじまいな。冷めないうちによォ」
「あの、トレーナー。ひとつだけわからないことがあるんです。スロさんはどうして、今になってトレーナーに目的を話してくれたんでしょう。どうして……私じゃ駄目だったんでしょう」
なるほど、それで落ち込んでいるのか。曲がりなりにもヴァルキリーはスローダンサーの友人として、頼りにされなかったことを嘆いているようだ。
「同じ年頃の奴にはかえって話しづらいということもあるだろう。それに、スローダンサーはこうも言っていた。ヴァルキリーには迷惑をかけてしまっている……とな。おそらくアイツにも、腹を割って話すことをためらうくらいには負い目があったに違いない」
「そうでしょうか……」
「ジョニィの企みを阻止して、『悪しきもの』が奴の身体から出ていけば、スローダンサーも元に戻ることだろう。そうなった時、同室の奴が口を利いてくれなかったらアイツは落ち込むぞ」
「そんなことにはさせません。スロさんのことは、今でも友達だと思ってますから」
「なら、それでいいじゃあねえの。スローダンサーが元に戻った時、いつものようにふざけ合う相手になってやるのがアンタの仕事だ。今はまだ、その時じゃあないってだけだ」
言い終わってから、柄にもなく説教してしまったなとジャイロは密かに自嘲した。しかし今のヴァルキリーにかけるべき言葉は、これ以外に見つからないことも確かだった。
「そういうわけだから、しょぼくれた顔をするな。運気が逃げちまうぜ。一年の計は……なんだっけか? アンタが教えてくれたことだろう」
「そう……ですね。うん、確かにお正月からこんな暗い顔してちゃ駄目ですね。トレーナーのおかげで元気出ました。また去年みたいに初詣行きます?」
「いいねえ。だが、忘れたとは言わせねえぞ。アンタ確か去年の初詣で、そのうち願い事教えてくれるって話をしてたよなァ。あの約束はどうなってるんだ?」
ジャイロの意地悪な質問に対して、露骨にうろたえるヴァルキリー。
「えっと、そのですね、今更言うのもすごく恥ずかしいんですけど。その……私の気持ちを、いつかトレーナーに伝えられますように、ってお願いしました」
「あ、ああ……そうかい」
去年の夏合宿での出来事を思い出して、ジャイロは自分まで気恥ずかしくなって頬をかいた。おかしな雰囲気にならないうちに、さっさと出発しようとヴァルキリーにうながす。
どこかぎこちない雰囲気のまま、ふたりはトレーナー室を後にして冬空の下へ繰り出した。乾いた風がびゅうと吹き、トレーナー室で温められた身体からたちまち熱を奪い去っていく。
「ううっ……冷えますね」
「気を付けろよ。レース前に風邪なんてひいたら目も当てらんねえぞ」
言うなりジャイロはヴァルキリーのほうへ手を差し伸べた。
「ほら、去年はこうして歩いたよな。これなら多少は寒さもマシだろう」
その行動がよほど意外だったのか、目を丸くしながらおずおずとジャイロの手を取るヴァルキリー。彼が自分から手を繋ごうとするなんて、今までになかったことだ。ジャイロ自身もそれは自覚していた。新年ということで気分が高揚しているせいだ、と思った。
並んで神社目指して歩いていくふたり。寒風がどんなに吹き付けても、繋いだふたりの手から伝わる温かさは引きはがせなかった。
激動のクラシック期から打って変わって新年は平和そのもので、特に大きな事件もないまま早くもひと月が経とうとしていた。旧年から変わったことと言えばジョニィと顔を合わせなくなったことと、より負荷の高いトレーニングを施してもヴァルキリーが音を上げなくなったことくらいのものだった。
「よし、インターバルが明けたら芝で走り込み十本いけるな?」
「はいっ!」
トラックの脇で檄を飛ばすジャイロと、気合たっぷりでそれに応えるヴァルキリー。クラシック期の厳しい戦いを経て、黄金の回転も彼女の脚にすっかり定着した。黄金の回転そのものはおそらくどんなウマ娘の脚にも宿っているものだが、ここまで磨き上げた者はヴァルキリーを置いてほかにいまいとジャイロは自負していた。彼女が持つ黄金の回転は、これから先、シニア級ウマ娘のライバルたちと、そしてジョニィと戦っていくにあたって強力な武器となるに違いない。猛然と凍て風を切って駆けるヴァルキリーの姿が、ジャイロの目にはなんだか頼もしく見えた。
そんな日々を過ごしながら迎えた一月の終わり頃、ジャイロの心に緩みが生まれ始めたある日、事態は風雲急を告げることとなる。
「おい……こいつはいったい何の騒ぎだ」
その日の朝、ジャイロはいつものようにトレーナー寮からトレセン学園に出勤しようとしていた。しかし何やら噴水前広場の辺りが騒がしい。三女神像がある付近に人だかりができている。
「静粛ッ! 皆、どうか落ち着いてほしい!」
「皆さん、押さないでください! ただ今学園のほうで原因を解明しています!」
その奥には、事態をなんとか収束させようと声を懸命に張り上げるやよいとたづなの姿が見えた。あれこれ考えるより先に、ジャイロの身体は動いていた。人混みをかきわけ、やよいたちが立っている噴水前へなんとかたどり着く。
異変の原因はすぐにわかった。ここにあるはずのものがない。噴水の中央で清廉な威容を放っていたはずの三女神像が、今や跡形もなく忽然と消え去り、代わりに無惨な石くれの山だけが残されていた。
「ど……どうなってやがるんだ! いったいこれはッ!」
「おおジャイロ殿、来てくれたか!」
ジャイロの姿を認めるなり、すがるような目で駆け寄ってくるやよいとたづな。
「説明しろ……どういう状況だ」
「ご覧の通りです……私たちが今朝、学園へ出勤した時には既に」
たづなが申し訳なさそうに絞り出した声は、群衆の声に今にもかき消されんばかりであった。その声の多くは三女神像を失った嘆きと怨嗟、学園職員の監督責任を非難する怒号と罵声で満ちていた。
「三女神像はウマ娘たちの心の拠り所。それが一夜にしてこの有様だ。皆が憤るのも無理はない……」
「そうかもな。だが今は、ひとまずこの騒ぎを収めるのが先決だ。でないと落ち着いて話もできねえ」
そう言うとジャイロは両脇のホルスターからふたつの鉄球を取り出し、
「少々荒っぽくなるが、学園のために見逃してくれるよな。理事長さんよォ」
不敵な笑みとともに、鉄球をぽとりと地面に落とした。着地したふたつの鉄球は地面の上で勢い良く回転し、周囲の地面に波のうねりを引き起こす。
「きゃあ! 何これ、地震!?」
「わかんない! けど、ここにいたらやばくない!? 早く逃げよ!」
にわかに群衆に動揺が走る。ふたつの鉄球の回転が起こした波は地面を伝い、波同士が干渉し合うことで地面に激しく不規則な揺れを引き起こした。噴水を取り囲んでいた群衆はたちどころに恐れおののき、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていってしまった。
「これで落ち着いて話ができるぜ。やっとな」
鉄球を拾い上げ、波が収まるのを待ってから、涼しい顔でジャイロが言った。
「か、感謝ッ! ジャイロ殿がいなければ、私たちでは到底あの場を収められなかった」
「まったくです。それでジャイロさん、三女神像なのですが……」
たづなが悲しそうな視線を三女神像──その残骸となり果てたものに投げかけた。そのあと、噴水の縁からひとつの石ころを拾い上げてジャイロに見せてきた。よく見るとそれはただの石ではなく、三女神像を構成していたのと同じ大理石のようだった。
「見てください、三女神像の破片がこんなところにまで飛び散っています。自然に崩れたにしては、あまりに不自然です」
「誰かが破壊した……そう言いてえのか」
ジャイロの言葉にたづなは返事をしなかった。その沈黙が肯定を意味することは明らかだった。
三女神像は昨夜のうちに、何者かに破壊された。しかし誰がどうやって、いったい何のために?
「ジャイロ殿。君に教えておきたいことがある」
突如、神妙な面持ちでジャイロを見つめるやよい。彼女の扇子を握る手が、心なしか震えているようにも見えた。
「どうした、改まって」
「三女神像を破壊した者の目的……私には、その心当たりがある」
「なんだと……! もっと早く言わねえか、そういうことはよォ」
「すまない。軽々に話すわけにはいかないことなのだ。場所を変えよう。ここでは人目につく」
そう言ってやよいは、たづなとジャイロを引き連れて学舎へと入っていく。向かった先は理事長室。やよいは先にジャイロを入室させると、付近に人気がないことをたづなに確かめさせてから、そっと扉を閉めた。
「ずいぶん大袈裟だな。そんなに人に聞かれたくない話なのか」
「そうだ。私が今から話すのはトレセン学園の秘中の秘。たづなにさえも教えていない、トレセン学園の真実とも呼べる話だ」
「そんな話を……私なんかが聞いていいんですか、理事長」
たづなの問いにやよいはおもむろにかぶりを振って、
「たづなにこそ聞いてもらいたいことなのだ。初めから決まっていたことだ。事ここに至った以上、私の身に何が起こるかわかったものではない。その時、あの三女神像の真実を知る者が途絶えることがあってはならないのだ」
優しくそう諭した。たづなはしばらくうつむいていたが、やがて意を決したようにやよいに向き直り、強く頷いた。
「それで理事長、俺までそのご大層な真実とやらを聞かせてもらえる理由はなんだ」
ジャイロの問いに、やよいはまたしてもかぶりを振った。
「愚問ッ! 私が君をここに連れてきた時点で、察しがついているものと思っていたが?」
「……なるほど。信じてくれたというわけだ。俺の言い分を」
「どういうことですか? 話がよく見えません」
会話についていけず、きょとんとするたづな。
「わっははは! すまない、説明が足りなかったな。つまり私は、今回の三女神像破壊事件の犯人はジョニィ殿であるとにらんでいる」
「ええっ!?」
「前に俺と理事長で、菊花賞カップ破壊事件のことで話し合ってな。そこで言ってやったんだ。今のジョニィは何か悪いものに憑りつかれている、正気ではない……ってな」
「私も当初は、ジャイロ殿の話を信じきることができなかった。しかし今日こうして三女神像が人為的に破壊されたことで、私はジョニィ殿こそが今回の、そして菊花賞事件の犯人であると確信した。その理由というのが、今から話す三女神像の真実に関係している」
やよいはひと呼吸置くと、チェアに腰かけて扇子を置き、手をデスクの上で組んだ。その姿は普段の鷹揚な彼女とはどこか異なる、荘厳な威厳に満ちた雰囲気をまとっていた。
声を低くしてやよいが語り出す。
「ふたりとも。あの三女神像の中には、実はあるものが入っていた。何が入っていたと思う?」
「ええっと……秘中の秘というくらいですから、トレセン学園の歴史にまつわる極秘資料、とかでしょうか」
「中に入っていたもの……それはな、私たちが『聖なる遺体』と呼んでいた存在だ」
「なッ……! なんだと、アンタ今なんと言ったッ!」
ジャイロは耳を疑った。戦慄が絶えず背筋を走る。身体じゅうから汗がどっと吹き出し、目まいすら覚えた。
ありえない。この世界に「聖なる遺体」が存在するはずがない。「聖なる遺体」はジャイロとジョニィが元々いた、ヴァレンタイン大統領が言うところの基本の世界にしか存在しないはずだ。この別世界に「聖なる遺体」が存在するとはどういうことか。ジョニィと一緒にこの世界へ渡ってきたのか。それともここは最初から、別世界などではなかったというのか──
「どうしたんですかジャイロさん、顔色が悪いですよ。少し休憩しましょうか?」
「黙れ……これが休んでいられるか。『聖なる遺体』は俺たちの世界にしか存在しない。わかるか、あらゆる世界に、ひとつしか存在しないんだッ! あの高貴なお方の遺体はッ!」
「落ち着いてくれジャイロ殿、何か勘違いをしているようだ。私が今口にした『聖なる遺体』が、君の世界に存在したはずがない」
「なぜだッ! 何を根拠に、そんなことを言い切れる……ッ!」
狼狽し激昂するジャイロを、対照的に冷ややかとすら思える静かな眼差しで見つめながら、やよいはこともなげに彼の疑問に答えた。
「三女神像の中にあった『聖なる遺体』は……ウマ娘の遺体だからだ」
「……は?」
「君の世界にウマ娘は存在しない。従って、君の世界に存在したという『聖なる遺体』は、私が口にした存在と同一のものではありえない。違うか?」
ジャイロは目が点になった。それから自分の早とちりをようやく理解して、今すぐ穴を掘って入れそうな手近な床を探し始めた。
「……悪い。恥ずかしいところを見せちまった」
「氷解ッ! 誤解も解けたところで、続きを話してもよいだろうか!」
「ああ、頼む」
今にも火が出そうな顔を頷かせるジャイロ。やよいはその反応を待ってから、今度は少しばかり柔らかい雰囲気で続きを語り出した。
「今説明した通り、『聖なる遺体』は大昔に存在した、とあるウマ娘の遺体だとされている。これがまた不思議なもので、どれだけ長い年月を重ねても朽ちることなく、その姿を保っているのだという。ジャイロ殿が口にした『高貴なお方』というのも言い得て妙で、『聖なる遺体』はこの世界の人間からは神と崇められている存在だ。ジャイロ殿の世界にあるという『聖なる遺体』と同じ名で呼ばれていたことはまったくの偶然だろうが、こうして考えると、案外共通点も多いのかもしれないな」
矢継ぎ早に語るやよいに、ジャイロは思わず待ったをかけた。
「ちょっと待ってくれ……今確かに、神と言ったよな。その遺体の名前、当ててやろうか」
「聞こう」
「……ダーレーアラビアン」
自信ありげなジャイロの回答に、やよいはにっと嬉しそうに口角を上げた。それから組んでいた手をほどき、いつものように扇子を上機嫌に広げた。
「正解ッ! さすがジャイロ殿、話が早くて助かる!」
「理事長、本当なんですか!? ダーレーアラビアン……様の遺体が現存するというのは」
「そうだ。そしてジャイロ殿、君はそのダーレーアラビアンに幾度も会ったことがある……そうだな?」
「ああ。夢の中でだけどな。奴のスリーサイズだって知ってるぜ、ニョホホ」
「にわかには信じられません……でも、理事長とジャイロさんが口裏を合わせて私に嘘をつく理由なんて、ないですよね」
たづながうんうん唸りながら、なんとか話を呑み込もうとしている。ジャイロにとっても突拍子もない話だが、「聖なる遺体」の正体がダーレーアラビアンだとわかれば多少は話が整理しやすい。
「それで? その『ダーレーの遺体』はどう特別なんだ」
「そうだな、ジャイロ殿の世界のものと区別するために、ここは『ダーレーの遺体』と呼ばせてもらうことにしようか。この遺体がいつどこで発見され、どういう経緯でトレセン学園に保存されることになったのかは、定かでない部分も多い。ただひとつわかっているのは、『ダーレーの遺体』の部位を揃えた者には、未来永劫の繁栄が約束される……という言い伝えが各地に遺されているということだ」
「部位を揃える? 『ダーレーの遺体』は完全じゃあねえってことか。そりゃあまるで──」
「もしかして、君の世界の『聖なる遺体』と似ているか?」
「ああ」
「思ったより共通点が多いのだな。まあいい、続けるぞ。『ダーレーの遺体』は昔は多くの部位が散逸していたそうだが、長い時を経て少しずつ集められ、今では右腕と左脚を残すのみとなった。このふたつを見つけられれば、トレセン学園に保存されているものと合わせて遺体は完全な形を取り戻すはずだった」
やよいはふうっとため息をついて、視線をジャイロのほうへ投げかけた。
「問題ッ! ジャイロ殿、今まで散逸していた『ダーレーの遺体』の部位、それがどこから発見されてきたかわかるか? 勘のいい君なら答えられるはずだ」
考えるまでもなかった。「ダーレーの遺体」を持ち去った犯人がジョニィだとすれば、答えはおのずと見えてくる。スローダンサーが教えてくれたのだから。
「三冠レースの優勝カップ……だろう?」
「正解ッ! やはり君は聡明だな! その通り、『ダーレーの遺体』の各部位は、過去のクラシック三冠やトリプルティアラといった三冠レースの優勝カップの中から、突如として姿を現したとされている。それらを回収し保存することが、URAのもうひとつの目的なのだ。そして、私がジョニィ殿を犯人だと断定した理由もまさにそこにある」
「私にもようやく、話が呑み込めてきました。ジョニィさんが『ダーレーの遺体』の秘密をどうやって知ったのかは不明ですが、彼が自らの手で遺体を完成させようとして、菊花賞の優勝カップや三女神像を狙ったのだとすれば、すべて辻褄が合います」
「そういうことだ。現にこうして三女神像が破壊され、『ダーレーの遺体』が持ち去られた以上、菊花賞カップ破壊の嫌疑がかかっているジョニィ殿の仕業と見るのが、現状最も妥当と思われる」
ようやく、やよいが本格的にジョニィを止める動きを見せてくれそうだ。ジャイロは密かに期待した。その期待を裏切るやよいではなかった。
「さて、これからのことだが。私は今回の件を上の者……URAに報告する義務がある。具体的な対策は追って通達されるだろうが、おそらく各三冠レース、特にウィナーズサークルでの写真撮影時の警備強化辺りが落としどころになるだろう。ふたりとも、今日ここで話したことはくれぐれも他言無用で頼む」
「もちろんです。けれども何か、私たちにできることはないんでしょうか」
たづなの言葉にやよいはかぶりを振って、
「たづな、君に任せる仕事は既に伝えたはずだ。三女神像の秘密が漏れた今、用済みとなった私の身に犯人の凶刃が向けられないとも限らない。この私にもしものことがあった時、トレセン学園の真実を……『ダーレーの遺体』を守り通せるのは君だけだ」
優しく諭すように言った。その残酷とすら言える使命の宣告を受け、たづなは泣きそうな顔をして立ち尽くしている。
「理事長……」
「それからジャイロ殿、君にも頼みたいことがある」
今度はジャイロに向き直るやよい。
「ああ、何だ」
「どうか、三冠カップを守ってほしい。直近だと春シニア三冠だな。ジョニィ殿はおそらくスローダンサーを利用して、あるいは君が以前話していたスタンド能力とかいう代物で、『ダーレーの遺体』を回収しようとするだろう。しかし、優勝カップが君とヴァルキリーの手にある限り、遺体は安全だ。幸い、君たちには多くの仲間がついている。彼女たちの力も存分に借りるといい。守るべきウマ娘たちを危険な目に遭わせてしまって、慙愧の念にたえないが……」
「俺は心配いらねえけどよォ、他言無用って言われてどうやって力を借りろっていうんだ? そもそも、三冠レースが関係していることはヴァルキリーには喋っちまったぞ」
「そこはその……上手いことやってくれたまえ。『ダーレーの遺体』の真実さえ伏せてくれれば、あとは好きなようにやってくれて構わない」
「ノープランかよ。まあいい、遺体の話は伏せて『ジョニィが三冠レースのカップをぶっ壊そうとしてる』って話だけで、なんとか協力を仰ぐとしよう」
「ああ、そうしてくれ」
やよいはデスクからすっくと立ちあがり、こちらへ向かって深々と頭を下げた。帽子がずり落ちそうになっても、気に留める様子もなかった。
「懇願ッ! ふたりとも、トレセン学園の至宝たるダーレーの……『聖なる遺体』を守るため、手を貸してほしい! ジョニィ殿が遺体を完成させて、何を成そうとしているのかはわからない。だが、彼の行いをトレセン学園理事長として看過することはできない! この不甲斐ない理事長に、どうか力を貸してほしいッ!」
両目をぎゅっとつむったまま、やよいはいつまでも頭を下げていた。その目は泣いているようでもあり、怒りに震えているようにも、悔しさをにじませているようにも見えた。
「理事長……もちろんです。この私にできることがあるなら、喜んで。けれど、ひとつだけ……私にできるその仕事が、どうか必要となる日が来ないよう祈らせてください」
たづなは真っすぐ笑っていたが、目には大粒の涙をたたえていた。その美しい雫を理事長の前で一滴でもこぼすまいと、懸命に顔を上げていたが、ついに雫のひとつが彼女の目尻からまろび出て、頬にひと筋の跡を作った。
ジャイロも何か言わなければならなさそうな雰囲気だったが、彼はこういうしんみりした雰囲気は苦手なので困り果てていた。こんな時は変に飾らず、自然体でいるのが一番だと彼は経験的に知っていた。だから、彼はこう言ってやった。
「教えてもらってばっかりじゃあ不公平だからよォ、俺からもアドバイスだ。今のジョニィは『悪しきもの』に憑りつかれた異常な状態だが、そうでなくとも、アイツには元から目的のために手段を選ばなくなる節があった。三女神像をぶっ壊したこともそうだ……今後ジョニィがどういう行動に出てくるのか、正直俺にも見当がつかねえ。用心を怠るな。普通これくらいで大丈夫だろう、というラインの十倍は用心しろ。俺が元いた世界の連中は、それができなかったがためにジョニィに殺されていった。それだけだ、俺が言いたいのは」
「陳謝ッ……! すまない、ふたりとも……! ありがとうッ……!」
やよいはいつまでも頭を下げていた。時折顔だけを上げて、ジャイロとたづなの顔を交互に見やりながら、いつまでも、いつまでもふたりに感謝を述べていた。
ふと、ジャイロの胸に怒りがこみ上げてきた。理事長という肩書を持つとはいえ、なぜこうも年端のいかぬ少女がその小さな背にこれだけの重責を背負い、あまつさえ命の危険にまでさらされなければならないのか。なぜ、普通の学園職員をしているだけの女が、その小さな命の負う重責をただ見守り、受け継ぐという残酷な任に就かねばならないのか。ジャイロには「納得」がいかなかった。「納得」の二文字が、彼の胸の中で再び燃え上がった。
(ジョニィ……俺がオメーを止めてやる。必ずだ)
窓からは、東の陽が高く昇りつつあるのが見えた。その陽の光を顔に受けながら、ジャイロは決意を新たにした。
「……それで、話というのはなんだ」
トレーナー室の片隅で壁にもたれかかりながら、エアグルーヴが少し不機嫌そうに言った。ジャイロは彼女を視線だけでなだめると、この場にいる全員にソファへ座るよううながした。
そう、ここトレーナー室には今、ジャイロとヴァルキリーが出会ってきたライバルたち皆が集っている。ただひとり、スローダンサーを除いて。彼女らを集めた目的はもちろん、ジョニィの凶行を止めるための情報共有である。ヴァルキリーに頼んで、今日この時間にわざわざ時間を設けてもらったのだ。
「この前騒ぎになった、三女神像破壊事件。俺はな、あの事件はジョニィの仕業だと踏んでいる」
「それって……あたしの優勝カップが壊された時みたいに、ってことですか」
口を挟んだのはキタサンブラックだ。菊花賞カップ破壊事件の当事者。彼女は机越しにジャイロのほうへ身を乗り出し気味になり、緊張と少しの怒りで唇を震わせていた。
「そうだ。ジョニィはそもそも、なぜ菊花賞カップや三女神像を破壊したのか。それは奴の目的が、とあるものを探して自分の手中に収めることだからだ」
「とあるもの……とは?」
ドゥラメンテが首を傾げた。彼女の印象的な流星がふらりと揺れる。
「それは……」
ジャイロが一瞬言葉に詰まる。「ダーレーの遺体」のことは、彼女たちに話すわけにはいかないのだから。
「まだわからねえ。しかし何かを探して回っているのは確かだ。そして奴の目的のものは、クラシック三冠やトリプルティアラといった、いわゆる三冠レースの優勝カップからしか手に入らないらしい」
「その情報の出所は?」
「スローダンサーだ」
「信じられるのか」
「信じるしかねえだろうよ。少なくとも、俺がアイツとふたりで話した時には、こちらを騙そうとしている様子はなかった」
ジャイロは少しだけ嘘をついた。スローダンサーを信用する理由は、それだけではない。先日のやよいたちとの会話、「ダーレーの遺体」の真実の話と矛盾しないからだ。しかしそれは、たとえ仲間たちに対しても明かすことのできない秘密である。今はとにかく、スローダンサーは嘘をついていないと皆に理解しておいてもらうしかなかった。
「ジョニィさんは既に、目的のものを手に入れたのでしょうか」
次に質問してきたのはサトノダイヤモンドだ。ジャイロはまたしても嘘をつかねばならない事態に陥った。菊花賞のカップには目的のものは入っていなかったが、三女神像の中からは「ダーレーの遺体」が出てきたはずで、ジョニィがそれを持ち去ったことは明らかだからだ。これもやはり、皆に明かすわけにはいかない。
「……いや、おそらくまだだろう。三女神像がどう関係しているのかは正直わからないが、少なくとも菊花賞カップに目当てのものが入っていなかったことは、ジョニィ自身が言っていた。つまり、クラシック三冠そのものが奴にとってハズレだったわけだ」
「しかしそうなると、同時期の三冠レース……秋華賞や秋の天皇賞が狙われなかったのは不自然ではないでしょうか」
「いい質問だ、ダイヤ。結論から言えば、昨年のトリプルティアラと秋シニア三冠もまた、ジョニィの狙いからは外れる。これもスローダンサーからの情報になっちまうが、ジョニィが集めたがっている代物は、スローダンサーが出走できるレースの優勝カップに限定されるらしい。つまり、ティアラ路線に進まなかった以上秋華賞は無関係、菊花賞に出走しながら秋天にも出るってのは無茶だから秋シニア三冠も除外される。実際、秋シニア三冠の一角である有馬記念は、何事もなく無事に終えられただろう?」
「なるほど……確かにそう考えれば、説明はつきますね」
ジャイロの言葉を丁寧に咀嚼するように、うんうんと頷くサトノダイヤモンド。その有馬記念を制した本人が言うならと、皆も納得してくれたようだった。
「それで結局、私たちは何をすれば良いのだ。まさかジョニィ殿をひっ捕らえてふん縛れというのではあるまいな」
エアグルーヴがぶっきらぼうに言い放った。はいその通りですとでも言ったら本当にその通りにしかねない勢いだったので、ジャイロは慌てて否定した。
「いや、そうしてえのはやまやまだけどな。奴にはスタンド能力……タスクの能力がある。指の爪を弾丸のように飛ばす能力だ。こう聞くとしょぼく感じるかもしれねえけどよォ、本当の恐ろしさは爪弾に宿る黄金の回転にある。黄金の回転は無限のエネルギーの源だ。まともに浴びれば、いくら強靭なウマ娘の身体といえど無事では済まないだろう」
「ではどうしろと?」
「俺たちで三冠を獲るんだ。次の春シニア三冠をな。何も知らねえウマ娘が大阪杯や春天を獲っちまったら、また菊花賞の時のようなことが起こるかもしれねえ。当然、スローダンサーに勝たれてもアウトだ。だから、事情を知っているアンタたちの手で優勝カップをかき集めてもらいたい。特に、ウィナーズサークルでの記念撮影の時には細心の注意を払って、なるべく優勝カップを胸元に構えるなどして、ジョニィがカップを狙撃しにくい状態を作り上げろ。これはレースとは関係ない、俺個人からの頼みだ」
帽子を目深に被り直し、姿勢を正すジャイロ。その姿をエアグルーヴは冷たく、まるで何かを見定めるかのような視線で見つめていた。
「そんなことをして、ジョニィ殿がお構いなしに攻撃してきたらどうする。今この場にいる誰かが優勝カップごと撃ち抜かれ、命を落とすようなことがあったら、貴様はどう責任を取るつもりだ」
静かに、しかし激しい口調でまくし立てるエアグルーヴ。ジャイロはその勢いに怯むことなく、自らの決意を口にした。
「ジョニィが……もし奴がそこまでの外道に堕ちていたとしたら……その時は俺が、責任を持って奴を殺す。それで勘弁してくれ」
自身でも驚くほど低く沈んだ声が、ジャイロの腹の奥底から響いた。その場に集ったウマ娘たちは、決意に満ちたジャイロの姿を前に身をこわばらせた。そして見た。彼の両目に、闇がそのまま燃えているかのようなどす黒い炎が揺らめいているのを。
重苦しい沈黙が、にわかにその場を支配した。
「……ええっと、要するにこれまでと変わらないわね。私たちは今まで通り、春シニア三冠を巡ってレースで戦えばいいだけ。もちろん、優勝カップを守ることも忘れずにね」
沈黙に耐えかねたヴァルキリーが、これからの方針をまとめてくれた。ジャイロは少し考えて、確かに彼女の言う通りだなと思った。つまるところ、このメンバーでGⅠレースの栄冠を巡って争うという点において、今までとなんらやるべきことは変わらないのだ。そう考えたら少し気が楽になった。この中の誰かが勝ってくれれば、それでジョニィの企みは阻止できるはずだ。もちろんトレーナーとしてのジャイロの立場で言えば、勝つのはヴァルキリーであってほしいわけだが。
「そうだね。ジョニィさんが何を考えてるのかわからないけど、みんなで力を合わせれば、きっとなんとかなるよね!」
キタサンブラックが溌溂と声を上げた。この重苦しい雰囲気の場において、彼女のような存在はありがたかった。
「キタちゃん……張り切るのはいいけど、あんまり無茶はしないでね。優勝カップを手にした人は、ジョニィさんに狙われるかもしれないのだから」
「あっ……それもそうだね」
「うん。だから優勝カップを獲る役目は、私に任せておいて」
「ええーっ、そんなのアリ!? ダイヤちゃん、意外にしたたかだね……」
素っ頓狂な声を上げるキタサンブラックの顔を、いたずらっぽく見つめるサトノダイヤモンド。親友を危険にさらしたくないというのは本心だろうが、そんなジョークも言えるのだなとジャイロは妙に感心した。
「フッ、急に賑やかになったな。ドゥラ、私もダイヤと同じ意見だ。優勝カップを手にするという危険な務めは私に任せて、お前は安全な場所で見守っていてくれ」
「それは笑えない冗談だ、グル姉。あなたが育て導いてくれたこの脚、今更ジョニィ殿ひとり相手に怯むほどやわじゃない。グル姉こそ、心配だから私の三バ身ほど後ろで見守っていてくれていいぞ」
たちどころに一触即発の様相を呈するエアグルーヴとドゥラメンテ。こんな話をしたあとにもうレースの勝ち負けを気にしているとは、彼女たちは本当に走るのが好きなのだろうと、ジャイロはそんな当たり前の事実をしみじみと噛みしめていた。
「おいおい、喧嘩なら外でやってくれ。話は終わりだ。気を付けて帰れよ」
ジャイロが半ば強引にそう締めくくると、ヴァルキリーを除くウマ娘たちは依然やいのやいのと言い合いながらトレーナー室を後にしていった。
「なんだかみんな……思ったほど不安がっていませんでしたね」
「ずいぶんと肝の据わった連中だ。それもアスリートの素質ってことなのか」
部屋にふたり残され、軽口を叩いてヴァルキリーと笑い合うジャイロだったが、その胸中には一抹の不安がわだかまっていた。
トレーナーの立場としては、この先のレースはもちろんヴァルキリーに勝ってほしい。しかしそれは同時に、ジョニィのスタンドの矛先がヴァルキリーの喉元に突き付けられることを意味する。
(……いや、アイツらを巻き込んだ時点で俺は後戻りができない。何より、ジョニィの奴はなんとしても止めなけりゃならねえ。迷っている場合じゃあない)
胸中にこびりつく不安を懸命に拭い去るジャイロ。彼の顔はジョニィと戦う男の顔から、いつものトレーナーとしての顔に戻った。彼の意識は、ヴァルキリーの次走である中山記念のことへと移り変わっていった。