とある日の夜、とあるトレーナー室のチェアに、ジョニィはただ静かに座っていた。
書類仕事をするでもない、誰かと会話するでもない、何の目的もないかのようにただ静かに、そこにたたずんでいた。
彼の視線の先にあるのは、彼の担当スローダンサーが勝ち取った栄光、ホープフルステークスとセントライト記念の優勝カップだ。数多のライバルとの戦いを制して手に入れたそれらを、ジョニィは冷ややかな視線でぼんやりと眺めていた。まるで、さして楽しくもなかった思い出を振り返るように。
「……この身がただのジョニィ・ジョースターだった頃の僕は、あんなものをかき集めて喜んでいたんだな」
ジョニィは──正確に言えば、彼の中にいる「悪しきもの」が──自嘲気味につぶやいた。「悪しきもの」が目的を果たすにあたって、ジョニィという男は都合のいい隠れ蓑だったが、一部の勘のいい者たちは彼の正体に気付きつつある。特にジョニィと深い絆で結ばれていた、ジャイロ・ツェペリという男。彼はいち早くジョニィの異変に気付き、警戒心を露わにしてきた。何か大きな力が、彼を後押ししている可能性は高い。そして先般の三女神像破壊事件を契機に、ジャイロは本格的にこちらの目的を阻止せんと動いてくるだろう。
「ジャイロと争うなんて、本当は御免なんだけどな」
ジョニィがぼそっとつぶやいた。もちろんこれはジョニィとしての言葉であり、「悪しきもの」としての意思がそう発言することを望んだものではない。
今のジョニィは非常にデリケートな状態にある。ジャイロの友であり、スローダンサーのトレーナーとしてのジョニィ。そして、「悪しきもの」の傀儡としてのジョニィ。今、表に出てきているのは果たしてどちらのジョニィなのか、もはや彼自身にもわからなくなっていた。
はっきりしていることは、このまま「悪しきもの」の目的が完遂されれば、ジョニィの人格は完全に乗っ取られるだろうということだ。それこそが「悪しきもの」の目的なのだから。そのために必要なパーツは、既に彼の手元に揃いつつある。最も大きな「ダーレーの遺体」はトレーナー室の壁に黄金の回転で空けた穴の中に隠してあるし、普通に探したのではまず見つかることはない。残る右腕と左脚のありかも当たりがついている。多少の障害こそあるだろうが、目的完遂までの道のりは順調そのものだ。
と、そんなことを考えている時であった。トレーナー室のドアがコン、コンと控えめにノックされる音がした。
「開いてるよ、どうぞ」
ジョニィがそう返事をすると、ドアを開けてスローダンサーがおずおずと入室してきた。彼女の様子はすっかり萎縮しきって、まるで何か恐ろしいものでも前にしているかのようだ。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「トレーナーさん。わたくし、どうしても気になることがあるの」
「なんだい、急に改まって。気になることがあるなら、気軽に聞いてくれ」
ジョニィが気さくにそう応えると、スローダンサーは意を決したように口を開いた。
「あの、わたくしの次走は春天だと聞いたわ。なぜ、大阪杯ではないのかしら」
その質問でジョニィはすべてを察した。そして、少し意地悪な問答をしてやろうと思いついた。
「なるほど、ジャイロから吹き込まれたんだね。君は大阪杯に出たいのかい」
「もちろん出たいわ。春シニア三冠は誰もが憧れる栄光、大阪杯はその緒戦。わたくしの適性なら、トレーナーさんは出走させるものだと思っていたわ。それを回避すると決めたのはなぜ?」
「そんな回りくどい聞き方しないで、もっと率直に質問しなよ。春シニア三冠の優勝カップから手に入る『ダーレーの遺体』、それを狙いに行かなくていいのかってさ」
「それは……!」
蛇ににらまれたカエルのように身をこわばらせるスローダンサー。ジョニィはただいたずらっぽく笑みを浮かべているだけだというのに、可哀想なことだ。
「君の言いたいことはわかっているよ。でもね、これにはきちんとした理由があるんだ。僕が大阪杯を狙わなくていいと判断した理由が」
「いったいなんなの……その理由というのは」
ジョニィの笑みがだんだんと不敵なものに変わる。スローダンサーはただ、自身の担当トレーナーであるはずの男を前に立ちすくむことしかできなかった。
「君は……エクリプスを信じるかい?」
「……えっ?」
「少し前に、僕の元に天啓が下りてきたんだ。『エクリプスを追え』とね。最初は僕も意味がわからなかった。普通に考えれば、エクリプスとはいわゆる蝕、つまり日食や月食のことだ。けれどもこの言葉には、もうひとつ重大な意味が隠されている」
「その意味というのは……?」
「Eclipse first, the rest nowhere.唯一抜きん出て並ぶ者なし。君も聞いたことがあるだろう。この言葉を生み出したのが、かの三女神が一柱ダーレーアラビアンだと言われている。『エクリプスを追え』というのは、ダーレーアラビアンの遺体を手に入れろという意味だったんだよ」
朗々として語るジョニィ。その目は爛々と輝き、無邪気にはしゃぐ子供のように楽しそうだった。
「で……でも、そのお話が大阪杯を回避するのと、どう繋がるというの」
「必要ないとわかったからさ。春シニア三冠をすべて獲る必要はない。必要なのは、春の天皇賞だけなんだ」
「どうして、そんなことがわかるの」
スローダンサーの問いかけに、ジョニィの胸は躍った。よくぞ聞いてくれたと、感謝すら覚えた。
「さっき、エクリプスとは本来日食や月食の意味だと言ったよね。その日食が、今年の五月一日に発生するんだ」
「五月一日……まさか」
スローダンサーは青ざめた。聡い子だ、とジョニィは思った。
「そう。春天の日だ。春天が開催されるまさにその日、この世界では日食、すなわちエクリプスが起こるんだ。天啓に従い、僕はエクリプスを追う。そこに『ダーレーの遺体』は必ず現れる。三女神像から『ダーレーの遺体』を回収したことで、僕の仮説はより確信へと近付いた……」
ここまで説明すれば、スローダンサーには理解できることだろう。そう、もはや三冠レースなどという手がかりすら必要ない。Eclipse first, the rest nowhere.の合言葉を道標に、エクリプスの起こる春天の日に優勝トロフィーの中身を改めればいい。
この情報は、ジャイロたちにはまだ掴めていないことだろう。スローダンサーに話してしまったことで情報が漏れる可能性はあるが、問題ない。だからこそ話したのだから。
「すっかり話し込んでしまったね。もうこんな時間だ。気を付けて帰るといい」
呆気に取られている様子のスローダンサーを半ば追い出すような形で、トレーナー室の外へと見送るジョニィ。誰もいない、がらんとした部屋の中で、彼はひとり静かに笑った。「悪しきもの」が目的を達するまで、あと少しだ。
ジャイロたちにとって、ジョニィの狙いが大阪杯にあるだろうと予測がついているということは、大阪杯までの期間は少なくともジョニィの凶刃に怯えずに暮らせるということでもある。こんな時、トレーナーとしてどう振舞うべきかジャイロは理解していた。要するにいつも通りである。不安や恐怖は非日常の中から生まれるものであるから、ヴァルキリーたちをいつもと変わらぬトレーニングの日々の中に置いてやるのが、彼女らを不安から遠ざける最も合理的な手段なのだ。
この日はキタサンブラックと時間が合ったので、久しぶりに併せウマを頼んでいた。スパートの競り合いで勝ち切れないレースが多いヴァルキリーにとって、今最も必要なのはここ一番の勝負根性、メンタル面の補強だろうとジャイロは判断した。その点において、同じ逃げウマ娘のキタサンブラックと併走トレーニングをする機会は非常にありがたいものだった。
「やった! またあたしが先着!」
「くうーっ、悔しい! キタサン強すぎるわよ!」
その併走トレーニングにおいて、ヴァルキリーはキタサンブラックに五連敗を喫していた。黄金の回転エネルギーによってパワーの面ではヴァルキリーに分があるが、キタサンブラックはとにかくペース配分が上手い。さらに驚くべきことに、キタサンブラックの脚が黄金の回転の軌跡を描いているのをジャイロの目がはっきりと捉えていた。元の世界の馬に相当するウマ娘の脚に黄金の回転が宿っている事実そのものは自然なことだが、誰に教わったわけでもないだろうに、ヴァルキリーのそれに迫る精度で黄金の回転を描くキタサンブラックの脚にジャイロは驚きを隠せなかった。
「キタサン。つかぬことを聞くが、ジョニィの奴から黄金の回転を習ったりしたことがあるか?」
ジャイロは早速疑問を投げかけてみた。が、当然ながら返ってくる言葉はジャイロの予想を裏切るものではなかった。
「まさか。そんな技術があるってこと自体、いまだに信じられないくらいですよ。ダイヤちゃんがあたしたちと同時期にデビューできたのは、確かにその黄金の回転とやらのおかげらしいですけど。どうしてそんなことを?」
「俺は確かに見た……アンタの脚が、黄金の回転の軌跡を描いているのをな。誰かに習ったわけじゃあねえってんなら、アンタ自身の手で磨き上げたものだということになる」
「あたしが……黄金の回転を?」
信じられないものを見るような目で、自分の脚をまじまじと見つめるキタサンブラック。しばらくして、彼女はやにわに顔を上げてこう言った。
「もしそうだとするなら、きっとヴァルキリーちゃんのおかげです」
「えっ、私?」
「だってヴァルキリーちゃんはその、黄金の回転っていう技術を使って走ってるんですよね? だからヴァルキリーちゃんと日々競ってるうちに、あたしの脚にもそれが移っちゃったんですよ。うん、きっとそうに違いありません!」
握り拳をぐっと掲げて、キタサンブラックが元気良く言い放った。ヴァルキリーはどう反応したものか考えあぐねた様子で、首をかしげながらなんとか言葉をひねり出そうとしている。
「トレーナー。一応確認なんですけど、私以外のウマ娘に黄金の回転を伝授してはいないんですよね?」
「当然だ。これはあくまでトレーニングの一環として教えたにすぎない。ヴァルキリーの能力を引き出すためのな。担当でもないウマ娘にわざわざ稽古をつけてやる酔狂なトレーナーはいないだろう」
「ですよね。じゃあやっぱり、私やスロさんと競ってるうちにキタサンの脚にも?」
「そうとしか考えられねえ。信じがたいことだがな……」
「やっぱり! ヴァルキリーちゃんとの切磋琢磨の日々が、あたしを強くしてくれたんだね!」
拳をもう一度元気良く天に突き上げるキタサンブラック。とりあえずそういうことにしておいてやるか──と思うかたわら、ジャイロにはある懸念点があった。
「ヴァルキリー。キタサンが言ったことが本当だとすれば、これから先の戦いはさらに厳しいものになるぞ」
「えっ?」
いまひとつ話を呑み込めていないヴァルキリーが、気の抜けた返事を返す。
「考えてもみろ。これまでアンタは黄金の回転のパワーを武器にレースを戦ってきた。しかしそのパワーは今やアンタだけのものじゃあない。キタサンの脚にも宿りつつある。そしておそらくは、ダイヤやドゥラメンテの脚にもな。ただでさえおそるべきライバルだったアイツらが黄金の回転まで手に入れちまったら、これまで通りの走りじゃあ絶対に勝てねえぞ」
「た、確かに……今までだって、黄金の回転で楽して勝ててたわけじゃないっていうのに。もしかして私の走りの技術はとっくに追い越されてて、黄金の回転の力でごまかしてただけ……?」
露骨に青ざめるヴァルキリー。その様子がなんだかおかしくて、ジャイロは思わず含み笑いをした。ころころと移り変わる彼女の表情は、いつ見ても面白いものだ。
「そう悲観するな。黄金の回転だけがレースのすべてじゃあない。アンタはこの二年間で確実に強くなっている。少なくとも、模擬レースでぼろ負けして泣きべそかいてた頃と比べたらな」
「なんで今そんな話を蒸し返すんですか! キタサンの前でしょ!」
肩をぷりぷり怒らせて詰め寄ってくるヴァルキリー。そんな光景をキタサンブラックは遠巻きに苦笑しながら眺めていた。
「レースといえば、ヴァルキリーちゃんは次走の目途は立ててるの? あたしはこのまま大阪杯直行でもいいかな、って思ってるけど」
「私は中山記念を挟もうと思ってる。大阪杯にはなるべくベストの状態で挑みたいから」
「そっか。お互い頑張ろうね」
「ええ、負けないわ」
拳を突き合わせ、健闘を誓いあうヴァルキリーとキタサンブラック。優勝カップをジョニィから守ろう、とは言わなかった。ここ最近、仲間内でジョニィの話題を出すことははばかられる雰囲気が蔓延していた。あるいはジョニィのことなど眼中にない、ただレースを楽しみたいという彼女らの気持ちの表れなのかもしれなかった。
「さて、そろそろ休憩は終わりでいいか? キタサン、すまねえがあと五本ほど併走に付き合ってやってくれるか」
「お安い御用ですよ! ほらヴァルキリーちゃん、行こう!」
「ああっ、ちょっと待って!」
キタサンブラックにせっつかれる格好で、トラックへ向かっていくヴァルキリー。その後ろ姿を、ジャイロは微笑ましげに見つめていた。これでいい。レースを通して互いを高め合うのが、ウマ娘にとってあるべき姿なのだ。そこにあくどい陰謀を持ち込むなどナンセンスである。そんな当たり前の事実を、ジャイロは心の内でそっと噛みしめた。
ジョニィのことを考えなくていいとなると時の経つのは早いもので、ヴァルキリーのトレーニングに明け暮れていたら気付けば二月も下旬。ヴァルキリーにとって大阪杯へ向けた布石ともなる、中山記念当日である。数々の重賞で好走を続けてきたとはいえ、ヴァルキリー自身は皐月賞以来一年近く勝ち星に恵まれていない。ここらでなんとしても勝利を飾っておきたいところだ。
空は重苦しい曇り模様。雪もちらほら舞っているが、この程度ならレース開催に差し支えるような積雪となることはないだろう。そんな冬空の下、ヴァルキリーに引かれる手にもはや何の違和感も覚えなくなったジャイロは、彼女とともに電車を乗り継いで中山レース場へと向かっていた。その道すがら、レース本番に向けて簡易的なミーティングを兼ねた会話を交わす。
「中山記念はマイルレースだが、コーナーを四つ回ることから逃げや先行が押し切りやすいとされている。アップダウンの激しい中山レース場だから、ペースを乱さず走り切るには相応のパワーが求められるが、アンタにそこんところの心配は必要ないだろう」
「ええ。そのためにトレーナーは、中山記念を選んでくれたんでしたよね。私の脚に宿る黄金の回転のおかげで、これまでパワー不足に悩まされたことはありません」
「ああ。むしろ問題は向正面だ。長い下り坂になっているんだが、ここで調子づいてペースを上げすぎると、第三コーナー前で脚を潰して後続に追いつかれるだろう。スピードに乗りやすいからといって油断せず、一定のペースを保つことが肝要だ」
電車を降り、改札を通る時までミーティングに夢中になりながら移動するふたり。本人に自覚はなかったが、少なくともジャイロはレース本番前のこうしたやり取りを楽しんでいた。得意の乗馬経験を活かして、「ヴァルキリー」という名の相棒とともに戦う経験が、SBRレースを彷彿とさせるせいかもしれなかった。
やがてふたりが中山レース場へとたどり着くと、エントランスによく見知った顔があった。遠目からでもよくわかる、流れるようなストレートヘアのウマ娘と、その隣には特徴的な流星の入った長い鹿毛のウマ娘。
「エアグルーヴ、ドゥラメンテ。アンタたちも中山記念か」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、にこやかに話しかけるジャイロ。先に返事をしたのはエアグルーヴだった。首元をマフラーですっぽり包んで、それでも少し寒そうにしている。
「私は今日は出走しない。出るのはドゥラメンテだけだ」
「へえ、いいのかよ。貴重なGⅡを獲る機会だぜ」
「大阪杯直行のローテーションを採ると決めただけだ。どっちみち勝つのはドゥラだ」
エアグルーヴの双眸がヴァルキリーをぎらりとねめつける。その眼差しは挑発的であったが、軽蔑的ではないように思えた。
「グル姉……そんな言い方をすると、ヴァルキリーが可哀想だ。いくら私の勝利が確実なものとはいっても」
本当に悪いと思っているのかいないのか、よくわからない言い条を並べるドゥラメンテ。しかしそんな彼女らの態度にヴァルキリーは一切怯むことなく、ふたりの視線に真っすぐにらみ返すと、
「ふたりとも、心配しないで。エアグルーヴさんが出ても出なくても、結局勝つのはこの私だったって今から証明してあげる」
逆に大見得を切ってみせた。彼女の立ち振舞いには言葉だけでない、何か底知れない自信が満ちているとこの場の全員が理解した。こういう手合いはキタサンブラックの得意分野だが、いつの間にかヴァルキリーも影響されていたらしい。
ヴァルキリーの反応が完全に予想外だったらしく、しばしぽかんとして顔を見合わせるエアグルーヴとドゥラメンテ。それからふたりは示し合わせたように腰に手を当てて呵々大笑し、
「今のは少し面白かった。今日は楽しめそうだ」
普段あまり表情を表に出さないドゥラメンテが、珍しく機嫌が良さそうに口角を上げた。
「グル姉、こうしてはいられない。レースに向けて最後の打ち合わせを行うぞ。今日の中山記念、面白くなりそうだ」
「わかったわかった、そうせっつくな。ではふたりとも、また後でな」
ドゥラメンテに急かされる格好で控室の方向へ消えていくエアグルーヴ。後に残されたジャイロは、ふたりの後ろ姿をヴァルキリーとともにしばし見送った後、愉快な心地で小さく鼻を鳴らした。
「今のは楽しめたぜヴァルキリー。言うようになったじゃあねえか」
「い……いやあ、さっきのはその場の雰囲気というか。先に挑発してきたのは向こうのほうですし」
さっきまでの威勢はどこへやら、しおらしくはにかんで頬をかくヴァルキリー。何にせよ、これから戦う相手にあれだけの闘争心を見せられるのはいいことだ。ジャイロとしてはもちろん今日の中山記念は獲るつもりで来ているが、今のヴァルキリーならそれも決して難しいことではないと、より強固に確信することとなった。
「さて、俺たちもすべきことをするぞ。有言実行ってやつだ。さっさと控室に入って作戦のおさらいといこうじゃあねえか。勝つのはヴァルキリーだと証明するためのな」
「……そうですね。ぼんやりしてる暇はありません。行きましょう」
たるみかけた表情を引き締めて、ヴァルキリーが頷いた。冬の凍て空を融かさんばかりの熱気とともに、中山記念が幕を開けようとしていた。
「吹きつける冬の風さえもはねのけるウマ娘たちの熱気が、スタンドまで伝わってきます。GⅡ中山記念、間もなく出走です」
観客を沸き立たせる実況の煽り文句。それを合図としたかのように、続々とウマ娘たちがゲート内へと収まっていく。
今回ヴァルキリーは六番人気。勝ち星への縁遠さがさすがにファン人気に響いてきたか。しかしやるべきことは変わらない。ゲート内でじっと前を向き、ただ眼前のターフを見つめるヴァルキリーの勇姿は、この中山レース場に集った誰もが目にしているはずだ。
「各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました……スタート!」
ガシャン、という音とともにゲートを飛び出すウマ娘たち。彼女らの前に立ちはだかるのは、中山名物の上り坂。先行争いをしようにも、まずはこの坂を攻略せねばならない。逆に言えば、この坂さえパワーに任せて登り切ってしまえば──
「綺麗なスタートを切ったウマ娘たちを、中山名物の急坂が待ち受ける! ヴァルキリー、先陣を切って抜け出した! 少し離れてリボンマドリガル、ジュエルルベライトと続きます」
思った通りだ。坂を登り切るパワーさえあれば、ヴァルキリーからハナを奪えるウマ娘は存在しない。彼女の脚に宿った黄金の回転が、それを可能にしてくれている。
一方、後方の集団はというと。
「外を回りますフルーツパルフェ、差がなくテルパンダー、一バ身離れてローズフルヴァーズ、ドゥラメンテ最後方からのスタートとなりました」
ドゥラメンテは最後方からじっくりと様子をうかがっている。このコースはスタート直後だけでなく、第一コーナーまるごと上り坂が続くためスローペースの展開になりやすい。向正面で待ち受ける下り坂を含め、器用にレースを運べば後方からでも差し切れると考えての作戦か。あるいは単純に、どう走ろうが自分の勝ちは揺るがないという自信の表れか。どうあれ、このドゥラメンテ相手に小細工は通用しないとでも言いたげな走りだ。
だが、小細工を弄する余地を与えないのはこちらも同じこと。
「一コーナーを回って二コーナーへ向かう! ヴァルキリー、快調に飛ばしていきます! これはハイペースな展開になるか!」
「一般にこのコースは長い上り坂によってスローペースなレース展開になりやすいですが、そんな常識をものともしないパワーを備えていますね」
このレベルのレースに出てくるウマ娘ともなれば、中山1800メートルがスローペースな展開になりやすいことくらい、理解しているはずだ。誰もが序盤に脚をためようとするだろう。そこであえて大きくリードを広げ、ハイペースな展開を作ってやればどうか。それを試すことができるだけのパワーが、ヴァルキリーには備わっていた。
「依然先頭を行きますヴァルキリー、二バ身離れてジュエルルベライト、すぐに続いてリボンマドリガル、一バ身離れてブロンズシュシュ! バイプロダクション、あがっていきます」
「かなりハイペースに流れる展開となりましたね。各ウマ娘、脚が残れば良いのですが」
やはり予想した通りだ。ヴァルキリーの大胆な逃げに触発される形で、後続がこぞって前へ出てきた。第一コーナーの上り坂を悠々と行くヴァルキリーに置いていかれまいと、無理を通した者も少なくないだろう。
こうなってくると、後方集団としても苦しいはずだ。レース前半からこうもリードを広げられては、差し返すにしても仕掛けのタイミングが難しくなる。仕掛けが早すぎれば脚が残らないし、遅すぎれば追いつけない。ただでさえ丁寧に走らねばならない後方脚質のウマ娘たちに、精確な仕掛けのタイミングという無理難題を吹っかけたのだ。ヴァルキリーの黄金の回転によるパワーが、この状況を実現させたのだ。
(お膳立ては済ませた。さあドゥラメンテ、ここからどうする)
いまだ最後方を走るドゥラメンテの姿にジャイロは視線を落とした。そう、彼女はまだ最後方なのだ。ほかのウマ娘たちが前へ前へと急ぐ中、泰然自若としてレースの行方を俯瞰している。
「フルーツパルフェ、落ち着かない様子! 一バ身離れてテルパンダー、外からローズフルヴァーズ、最後方ぽつんとひとりドゥラメンテ!」
「前方と相当離れてしまいましたが、ここから追いつけるでしょうか」
追いついてくる。ドゥラメンテという人物は、このまま凡走して終わるようなウマ娘ではない。必ずどこかで勝負を仕掛けてくるはずだ。周りの流れに呑まれることなく、冷静に自分のペースを保って走っているのが何よりの証拠である。
第二コーナーから向正面まで続く下り坂を先頭集団が進む。コーナーを抜けた辺りで一転、ヴァルキリーは逃げのペースを落とした。
「ハイペースを保ったままレースは後半戦へ! 先頭を行きますヴァルキリー、少し失速したようですが?」
「あれだけハイペースで飛ばしてきたので、その反動かもしれません。下り坂も相まって、後方のウマ娘が距離を詰めるチャンスでもあります」
ジャイロの陣営にとって、解説者の言うことは半分正しかった。事前のミーティング通りこの下り坂でペースを落とすことで、後方のライバルはここぞとばかりに差を詰めてくるだろう。それで構わない。大逃げを打っているわけではないのだから、道中で多少後続に迫られても問題はないのだ。
「ジュエルルベライト、前を狙っている! わずかに先頭はヴァルキリー、外から並んでジュエルルベライト、差がなくリボンマドリガル、バイプロダクション追走」
やはりというか、後続のウマ娘たちは下り坂の勢いを利用してぐんぐんと上がってきた。当然、中団から後方のウマ娘にも同様の動きがあった。
「依然として間延びした隊列です。内を回りますテルパンダー、ローズフルヴァーズ上がってくる! 一バ身離れてフルーツパルフェ、ドゥラメンテ徐々に進出」
ついにドゥラメンテが動いた。ジャイロとヴァルキリーはこの時を待っていた。ドゥラメンテに自由なペースで走らせないレース展開作り、その努力が結実する時を。ドゥラメンテはこのタイミングでペースを上げることを選んだのではない。選ばされたのだ。周囲のウマ娘たちがヴァルキリーにつられてハイペースで流れた結果、このタイミングでペースを上げることを余儀なくされたのだ。
「そういうことか……やってくれたな」
観戦席の片隅でエアグルーヴが歯噛みしたが、彼女の独り言はスタンドを覆い尽くす歓声にかき消され、ジャイロの耳に届くことはなかった。
「ここで先頭が入れ替わった! ジュエルルベライト先頭、内に並んでヴァルキリー、さらにはリボンマドリガル!」
ヴァルキリーが先頭を譲る形になっても、ジャイロは少しも焦ることなく、余裕の薄ら笑いさえ浮かべていた。ここまで上手く作戦がハマるとは思っておらず、ジャイロは愉快すぎて今にも声を上げて笑い出しそうな気分だった。
「三コーナーを抜けて四コーナーへ! 後続が差を詰めてくる! ヴァルキリー、ここで抜け出した! 後続をぐんぐん突き放していきます! ジュエルルベライト、まだ来ないか!」
後続のウマ娘たちは皆今頃、激しいアップダウンをハイペースで駆け抜けたツケを払わされている最中だろう。もうまともに脚も残っていまい。ただひとり自分のペースで走り続けた、ヴァルキリーの作戦勝ちだ。
「ヴァルキリー、このまま最後まで行ってしまうのか! バイプロダクション食らいついていく! 外から飛んできたのはドゥラメンテ! ドゥラメンテが来た!」
ジャイロが勝利を確信したのも束の間、鬼気迫る形相で猛然と加速し、最終コーナーを駆け抜けるドゥラメンテ。ヴァルキリーの背をねめつけるその瞳には、怒りにも似た何かが燃えていた。
「……マジかよ。あの展開でここまで脚を残せる冷静さ、センスとか才能とかいう言葉じゃあ言い表しきれねえな」
ジャイロの動揺がヴァルキリーに伝わったわけはないだろうが、それでもヴァルキリーの走りにわずかな焦りが生まれた。その隙を見逃すドゥラメンテではない。短い最終直線を一気に走り抜けるべく、さらにスピードを上乗せしてくると、またたく間にヴァルキリーのすぐ後ろに迫った。
「小手先の策で破られるほど、私の脚は甘くない。勝つのは私だ、ヴァルキリー」
「何か勘違いしてない? 私も私なりの走りをしているだけよ」
ヴァルキリーが再び突き放す。すかさず食らいつくドゥラメンテ。短い中山の直線が永遠に続くかと思えるほど、幾度となくそんな応酬が繰り広げられた末に、ふたりを待ち受けていたのはホームストレッチの上り坂。これを越えなくては、ゴールにはたどり着けない。当然、後方で脚をためていたドゥラメンテが圧倒的に有利だ。
「ドゥラメンテ、猛然と襲いかかります! ヴァルキリー、ここまでか!」
「ここまでだ、ヴァルキリー。君はよく頑張った」
ドゥラメンテがその脚にいっぱいの力を込めて、最後の坂を登り切ろうとする。しかしそんな時、とある違和感が彼女を襲った。
ドゥラメンテだけではない。この場にいる誰もが目を疑った。ヴァルキリーが、まだ前を走っている。このままヴァルキリーが坂で失速し、ドゥラメンテに差し切られる光景を誰もが想像していたというのに。ただひとりジャイロだけが、この光景を穏やかな心境で見守っていた。ヴァルキリーの脚が黄金の回転の軌跡を描き、最後の坂を登り切るパワーを与えてくれたと知っているのは、彼だけなのだから。
「馬鹿な……そんな余力がどこに」
呆気に取られるドゥラメンテ。彼女が言葉を絞り出したその時には、もうすべては終わっていた。
「終わっていない! ヴァルキリーわずかに先頭! そのまま突き放してゴールイン! ヴァルキリー、中山記念を制しました! 二着はドゥラメンテ、三着はバイプロダクション!」
観戦席が割れんばかりの歓声に包まれる。久しぶりの白星に、ヴァルキリーもさぞ安心していることだろう……そんな想像をジャイロは巡らせた。いつもならすぐに地下バ道へと向かうところだが、少し気になることがあったので、そのまま観戦席からウィナーズサークルの写真撮影を眺めることにした。
おぼつかない足取りでウィナーズサークルへ向かうヴァルキリー。そそくさと始まる表彰式の準備。ジャイロが予想した通り、ウィナーズサークルの警備がこれまで以上に厳しくなっている。配備されている人員の規模が、明らかにひと回り大きくなっているのだ。ジョニィの件をやよいがURAにかけあってくれた成果だろうが、三冠レースでも、ましてGⅠレースですらない中山記念にこれだけの警備がついている。これが意味するところはおそらく、菊花賞事件の犯人、すなわちジョニィに対するカモフラージュであろう。大阪杯だけ警備したのでは、URAがジョニィの狙いに気付いたと言っているようなものだ。無関係とわかっているGⅡレースにも警備の人員を割くことで、URAがジョニィの目的を絞り切れていないと誤認させることが狙いだろう。理屈ではそうとわかったとて、それを実現させるだけのURAの経済力にも驚かされるばかりだが。
「皆さん、応援ありがとうございました。皐月賞以来勝ち星に恵まれなくて、それでもこんな私を見放さずにいてくれる皆さんの応援に応えたくて、今日ここに来ました。だから、今こうしてウィナーズサークルに立てていることが本当に嬉しいです」
観衆の前で愛嬌を振り撒くヴァルキリーに、最後にそっと一瞥を投げかけると、ジャイロはいつものように地下バ道を目指した。
ジャイロにとってもはやおなじみとなった、辛酸甘苦を分かち合う場たる地下バ道。今日は久しぶりに、甘美な勝利の味をヴァルキリーとともに味わうことができそうだ。薄暗いコンクリートのトンネルを足取り軽く歩くジャイロ。
しかしそんな彼を待ち受けていたのは、思いもよらない人物だった。いや、この表現は適切でない。ジャイロはその人物の存在を、考えないようにしていただけなのだ。
「やあ、ジャイロ。中山記念制覇、おめでとう」
帽子を直し、靴のかかとを直し、まるで世間話でもするかのような調子でジョニィが言った。
「お前……なんでここにいやがる」
「なんでって、トレーナーがレース場にいてはいけないのか?」
「そういうことを聞いてるんじゃあねえ……わかるだろう。少なくとも、俺たちはお前の企みをとっくに暴いてる」
ジャイロは緊張感を手放さないよう努めた。一方で奇妙だとも思っていた。ジョニィの狙いは春シニア三冠のはずだ。スローダンサーを連れてくるでもなく、わざわざひとりで中山記念に姿を現す目的が読めない。
ジョニィの余裕そうな顔をにらみつけながらジャイロがしばし沈黙していると、そんな彼に会話のきっかけを与えるように、不意にジョニィが言葉を発した。
「ジャイロ。聡明な君のことだ、僕の目的に気付いているというのはきっと本当なんだろう。だからこそ僕が、スローダンサーに大阪杯を見送らせたことを不思議に思っている。違うかい」
「なッ……!」
まさかジョニィのほうからその話題を振られるとは思いもよらず、ジャイロは返す言葉に詰まった。しかしこれはチャンスでもある。ジョニィ本人から真意を問いただすチャンスだ。
「……だったら、どうだというんだ」
「結論から話そう。大阪杯は僕の目的と関係ない。いや、僕自身、そうとわかったのは後になってからのことなんだけどね。ジャイロ、僕はエクリプスを追うことにしたよ」
「エクリプス……何だそれは。いったいなんの話をしている」
「Eclipse first, the rest nowhere.君も聞いたことがあるはずだ。僕はこの言葉が重要な意味を持つと考え、天皇賞(春)に狙いを絞ったんだ」
「知らねえな、そんな言葉。聞いたことがない」
「おいおい、それでもトレーナーなのか君は。トレセン学園の者なら誰もが知っている言葉だよ」
記憶をまさぐってみても、ジャイロがその言葉を耳にしたという事実は掘り起こされなかった。まあ、それは今重要ではない。ジョニィの言うことが本当ならば、トレセン学園の誰かに聞いてみればわかることだ。
それより気になるのは、エクリプスとやらである。直訳すれば「蝕」、つまり日食や月食のことであるが、それが春天と何の関係があるというのか。そしてそれ以上に──
「ジョニィ。お前ずいぶんと平気で敵に情報をべらべら喋るじゃあねえか。俺たちを出し抜きたいのか、それとも止めてほしいのか、どっちなんだ」
菊花賞事件の少し後、ジョニィは自らの口で言っていた。自分を止めてほしいと。聞き間違いでなければ、今これから語るジャイロの仮説も信憑性を増してくる。
「ジョニィ、さてはオメー……人格がふたつありやがるな。元のジョニィと、『悪しきもの』に操られたジョニィ、そのふたつがよォ」
泰然と構えていたジョニィの雰囲気が、にわかに冷たさをまとった。その目はどこか憂いを帯びているようにも見えた。
手ごたえありと感じて、ジャイロはたたみかけるように問う。
「もしオメーが『悪しきもの』に完全に染まり切ってるんだとしたら、たびたび俺に接触してきて情報を漏らす必要もなければ、より過激な手段をためらう必要もないはずだ。もっとも三女神像をぶっ壊すのは、さすがに常軌を逸しているがな。覚えてるか? オメー自分で言ったんだぜ、『僕たちを止めてくれ』ってよォ。今、ここでこうして喋ってるオメーは、忌々しい『悪しきもの』なのか、それともただのジョニィ・ジョースターか、どっちなんだ」
「……質問の意味がわからないな。僕は僕だよ、ジャイロ」
平静を装って答えるジョニィだが、その声からは明らかな動揺が伝わってくる。
「あくまでシラを切るつもりってわけか。まあいい、なら質問を変えよう。さっき言っていた、『エクリプスを追う』とはどういう意味だ」
「その質問には答えられない。これ以上ヒントをあげたら……うっ」
突如として頭を抱え、苦しそうにうめきだすジョニィ。今まさに、ジョニィと「悪しきもの」の人格が争っている。少なくとも、ジャイロの目にはそう映った。
「苦しそうだな。この際オメーの企みを全部ゲロっちまえば、楽になれるぜ」
「それはできない……僕が僕でいられる時間は、どんどん短くなっている。ここから先は、君自身の手で僕の企みを暴いてくれ。手がかりは残せるだけ残したつもりだ」
「今のは、ジョニィ・ジョースターとしての発言とみていいんだな」
「好きなように捉えてくれて構わない……だが忘れないでくれ。このまま事が進めば、『ダーレーの遺体』は確実に……うああッ!」
頭を抱え、身体をのけぞらせて苦しみもがくジョニィ。
「おい、しっかりしやがれ!」
たまらず声をかけるジャイロ。だがその声が届いたか否か明らかになる前に、ジョニィは突如として脱力し、静かにうつむいてしまった。かと思うと彼は再びゆっくりと上体を起こし、元の覇気に満ちたジョニィに戻った。
「すまない、心配をかけたね。この頃頭痛が酷くてさ、何か変なことを口走ってなければいいんだけど」
「……いいや、何も言ってないぜ。おかしなことは、何もな」
ジャイロはきっぱりと言い放った。おかしなことを言っているのは、今ジャイロの目の前にいる彼だ。「ジョニィ」は、きっと正しいことを言っていた。
「それを聞いて安心したよ。じゃあ、僕はそろそろ行くね。天皇賞で会おう」
あっさりとそう言い放ち、すたすたと地下バ道を後にするジョニィ。今日ここで手に入れた情報──ジョニィが必死に伝えてくれた情報をいち早くヴァルキリーたちと共有し、その意味を調べ上げなくてはならない。きっとそれが、ジョニィを「悪しきもの」から解き放つための道に違いないとジャイロは直感していた。
(エクリプスを追う……それがいったい何を指し示すのか、まずはそこからだ)
地下バ道の向こう、光の差すほうからヴァルキリーが堂々と凱旋してくるのを見て、ジャイロは考え事を頭の片隅に追いやった。そして本来の目的、自らの愛バと勝利の喜びを分かち合う時間を存分に味わった。
「この標語を今まで知らなかったと? はははっ、なんともジャイロ殿らしいというか」
中山記念から明けて翌日。ジョニィの残した手がかりを求めて生徒会室を訪れたジャイロは、天を仰いで呆れ笑いをするシンボリルドルフに出迎えられた。
「仕方ねえだろう。ウマ娘にとっちゃ常識かもしれねえが、こっちは異世界の人間なんだぜ」
不満と恥ずかしさを露わにしながら、ジャイロがふてくされてみせた。その様子を見たシンボリルドルフはようやく真面目な顔つきに戻り、手を組んでデスクに肘を立てると、
「そうだったな、すまない。今は蛙鳴蝉噪をまくし立てている時ではないな。君が知りたがっていることについて、私が教えられることを教えよう」
さほどすまないと思っていなさそうな口ぶりでそう言った。
ジャイロがまず一番に知りたいことは、ジョニィが話していたエクリプスとやらについてである。トレセン学園の者なら誰もが知っていると聞いて、どうせなら一番詳しそうな者に聞いてみようとシンボリルドルフの元を訪れたわけだが、彼女に質問する前にジャイロは疑問の答えを得てしまった。生徒会室の壁の上に、Eclipse first, the rest nowhere.の標語が仰々しく額に収められて飾られていたのだから。
「教えてもらいてえのはアレについてだ。エクリプス……なんとやらと読める。アレはどういう意味なんだ」
「唯一抜きん出て並ぶ者なし、だ。はるか昔、それこそ他の追随を許さないほど抜きん出た強さのウマ娘が存在したそうでね。その者を称える言葉として、この標語が語り継がれるようになったんだ」
「その抜きん出た強さのウマ娘ってのが、エクリプスって名前なのか?」
「そこまではわからない。さっきは常識みたいに言ってしまったが、実はこの標語には謎も多く残されているんだ。冒頭の『Eclipse』というのが、君が言うようにエクリプスという名のウマ娘のことなのか、それとももっと違う意味を表す言葉なのか……」
腕を組んでため息をつき、考え込むそぶりを見せるシンボリルドルフ。なんだ、結局ウマ娘たちもそこまで詳しいわけではないのか。ジャイロはとんだ肩透かしを食らった気分だった。
「わからないというなら、俺が仮説を立ててやろう。このエクリプスとはずばり、言葉そのまま日食を指している、って仮説だ」
「ほう」
シンボリルドルフがこちらを試すような眼差しを向けてきた。その言葉は予想していた、とでも言いたげな顔だ。確かに当然、この仮説はとっくにほかの誰かが考えたものだろう。だが、今のジャイロの手にはジョニィの言葉という値千金の情報が握られている。
「ジョニィは言っていた。エクリプスを追うと。奴の言うエクリプスというのがウマ娘の名前だとは考えにくい。その標語ははるか昔から存在するものなんだろう。エクリプスという名のウマ娘が仮に実在したとして、今もどこかで生きているとは思えねえ」
ジョニィにまつわる話は、エアグルーヴを通してシンボリルドルフにも伝わっている。ジョニィの目的を果たさせることが、ウマ娘の平穏を脅かすことを意味するという事実は、シンボリルドルフも理解しているはずだ。
「なるほど、ジョニィ殿がそんなことを。だからエクリプスというのは、ウマ娘の名ではなく、日食を表す言葉だと?」
「そうだ。ジョニィは自分の目的が、日食と関係していると考えている。だからエクリプスを追うと発言した。日食の時に起こる何かを目的としてな……」
「日食……その日に何かがあるというのか。確かにいわゆる蝕というものは、様々な伝奇や怪奇現象と関連深い言葉として知られている。あくまでオカルトの域を出ないが……」
「オカルトかどうかは関係ない。重要なのは、ジョニィが日食に合わせて行動を起こすだろうということだ。ルドルフ、アンタに頼みたい。次の日食が起こる日を調べておいてもらえるか。この世界の天文学的知見をもってすれば、たやすいことだろう」
シンボリルドルフは目を閉じてうつむき、再び考え込む。迷っているわけではなく、ジャイロの言ったことを現実として受け止めるための時間なのだろうと想像がついた。やがて彼女は目を開けると、ジャイロに向かって力強く頷いてみせた。
「わかった、君の仮説を信じてみよう。日食の発生日時はおそらくすぐに調べがつくはずだ。目下のところはその日を、最もジョニィ殿の動きに警戒すべき日として想定して動くことにする」
「信じてもらえて礼を言うべきか?」
「いや、礼を言うのはこちらのほうだよ。ジャイロ殿のおかげで、私たちウマ娘は眼前に迫る未知の脅威に対処することができる」
「そうかい。ならせいぜい気張ってくれ。俺の努力を無駄に終わらせないためにな……」
憎まれ口を叩いて、生徒会室を後にするジャイロ。そんな彼を、シンボリルドルフは穏やかな眼差しで見送っていた。
トレーナーと生徒会長。立場は違っても、眼前の脅威からウマ娘を守りたい意思は変わらない。それを確かめられただけでも、ジャイロにとっては収穫だった。
ジャイロの元に急報がもたらされたのは、それから数日後のことだった。
その日、ジャイロは大阪杯に向けてヴァルキリーとミーティングをしていた。中山記念の戦勝気分がいまだ抜けきらない様子のヴァルキリーを時折たしなめながら、大阪杯対策の作戦会議とトレーニング方針の策定にいそしんでいた。
「中山記念では黄金の回転のパワーで急坂を攻略し、あえてハイペースな展開に持ち込むことで勝負をものにした。大阪杯、阪神2000メートルのコースでも、基本的には同じ考え方が通用するはずだ」
「スタート直後に上り坂がありますし、第一、第二コーナーが小回りなのでスローペースになりやすいですからね。中山記念と同じく、序盤からハナを取ってハイペースの展開を作る作戦でいきましょうか?」
「いや、スタート直後の坂はそれでもいいが、小回りのコーナーで飛ばしすぎると外に振られて隙を晒すだろう。第二コーナーを抜けるまでは無理をしなくていい。ペースを上げるのは向正面からで──」
そこまで言いかけて、ジャイロは自分のスマホが着信音を鳴らしていることに気付いた。気だるい手つきで着信に応じると、シンボリルドルフからの電話であった。
「どうした、こっちは仕事中だぜ」
「ジャイロ殿、忙しいところすまない。君に頼まれていた件だが、大変なことがわかった。直接会って話したいのだが」
電話口から響いてくるのは、珍しく慌てた口調のシンボリルドルフの声。そのただならない雰囲気に、ジャイロは彼女の申し出を無下にできない気分にさせられた。
「……今すぐにか? ヴァルキリーも連れて行くべきか」
「是非そうしてくれ。生徒会室で待っている」
「わかった。一度切るぞ」
電話を切って顔を上げると、ヴァルキリーが怪訝な顔つきでジャイロを見つめていた。
「電話、誰からでした?」
「ルドルフからだ。ふたりで生徒会室に来いとさ」
「もしかして、ジョニィさんのことで何か進展がありましたか?」
おそらくはそうだろうが、なぜヴァルキリーにそのことがわかったのだろうか。ジョニィの件をシンボリルドルフに相談していたことは、ヴァルキリーには話していないはずだ。ジャイロがその疑問を口にするより早く、ヴァルキリーが答えた。
「だってトレーナー、すごく真剣な顔つきで電話してましたから。トレーナーがあんな顔して話す内容なんて、ジョニィさんの話題以外に考えられません。ほら、早く行きましょう」
自分はいったいどんないかめしい顔つきをしていたというのだろう。そんなどうでもいい疑問は頭の片隅に追いやって、ジャイロはヴァルキリーとともに生徒会室への道を急いだ。
足早に学舎の廊下をずんずん歩き、生徒会室の前へたどり着くと、相変わらず飲み込まれそうなほど大きく重苦しい扉がふたりを出迎えた。ジャイロはため息をひとつついてから扉を押す手に力を込め、部屋の中を覗き込む。すると、いくぶん憔悴した様子でデスクに肘をつくシンボリルドルフと目が合った。
「ああ、ふたりとも来てくれたか」
「ずいぶんお疲れじゃあねえか。なんなんだ、アンタをそこまで焦らせる『大変なこと』とやらは」
ジャイロとヴァルキリーがソファに腰かけるのを待ってから、シンボリルドルフは神妙な面持ちで語り始めた。
「単刀直入に言う。ヴァルキリー、春の天皇賞に出走するのは避けたほうがいい」
「なんですって……?」
突然の宣告に目を白黒させるヴァルキリー。シンボリルドルフの言葉の真意をはかりかねているのはジャイロも同じことだが、うろたえることなく冷静に話の続きをうながした。
「ルドルフ、こいつにはまだエクリプスの話をしてねえんだ。もっとわかりやすく話してやれ」
「そうだったのか、すまない。順を追って説明しよう。先日、ジャイロ殿から報告を受けたところによると、ジョニィ殿はエクリプスなるものを追っているのだそうだ。このエクリプスというのが、トレセン学園に伝わるEclipse first, the rest nowhere.の標語と関係することは容易に想像できる」
「はい、私もその標語は知っています。唯一抜きん出て並ぶ者なし、ですよね」
「ああ。問題はジョニィ殿が口にしたエクリプスという言葉が、いったい何を意味するのか。額面通りに捉えるなら、エクリプスとは日食や月食を指す言葉だ。ジャイロ殿に依頼されて、私は直近で日食や月食が起こる日を調べてみた。その結果、驚くべきことが判明したんだ」
「もったいつけてねえで教えてくれ。その驚くべきことってのはなんだ」
ジャイロが催促すると、シンボリルドルフは表情をいっそう暗く沈み込ませ、唇をきゅっと結んだ。いささかの静寂の後、彼女は自ら固く閉じたその重い口を再び開く。
「今年の日食は五月一日……春の天皇賞が開催される、まさにその日だ」
ジャイロとヴァルキリーが示し合わせたように息を呑む。ジョニィの目的。エクリプス。そして天皇賞(春)──
「すべて繋がったな……ジョニィが大阪杯を回避した理由はこれだ。エクリプスとは、やはり日食のことだった。ジョニィは日食と重なる春天に狙いを定め、何かをしでかすつもりだ」
「ああ、その可能性は高い。日食の日に何が起こるのかまではわからないが、古くから伝わる標語に秘められた意味を、ジョニィ殿は解き明かしたのかもしれない」
「それは……」
思わず「ダーレーの遺体」のことを口走りそうになって、ジャイロは慌てて口をつぐんだ。天皇賞(春)の日に何が起こるのか、ジャイロにだけは予想がつく。おそらくこの日、天皇賞の優勝トロフィーから「ダーレーの遺体」の残された部位が発見されるだろう。誰にも阻止されなければ、ジョニィはそれを手に入れ、「ダーレーの遺体」を完成させる。そしておそらくは、彼に憑りついた「悪しきもの」──ヴァレンタイン大統領の残留思念が目的を達成させる。
「昨年の菊花賞のように、ジョニィ殿が春天の盾を狙ってくる可能性は非常に高い。ヴァルキリー、生徒会長として焦心苦慮の思いで君にこう告げねばならないが、春天に出走することは極めて危険だ。君の身の安全を思えばこそ、出走は回避すべきだ」
眉ひとつ動かすことなく、毅然として言い放つシンボリルドルフ。夕日を受けて、磨かれたルビーのように輝くその双眸は、えもいわれぬ覇気と、それ以上に憂いや悲しみといったものをまとっていた。
ヴァルキリーはシンボリルドルフの視線を受けて、しばらく押し黙っていた。シンボリルドルフの気迫に気圧されているのだろうとジャイロは思ったが、それはすぐに間違いだとわかった。ヴァルキリーの返事は最初から決まっていて、ただそれを言葉にするのに時間をかけていただけなのだ。
「……回避はしません。私は、春の天皇賞を獲ります」
「本気で言っているのかい。命にかかわるかもしれないんだよ」
「ルドルフさんは、レースに本気で挑まないウマ娘を見たことがあるとでもいうんですか。危険は承知の上です。それでも私だって、ジョニィさんにみすみす殺されるつもりはありません。彼が何を企んでいるにせよ、放っておいたらもっと良くないことが起こるに違いありません。それを防ぐためにも、私がこの手で春の盾を獲らねばならないんです。それに……」
ひと呼吸置いてから、ヴァルキリーがさらに続ける。胸に手を当てて、まるで自分に言い聞かせるように。
「私、夢があるんです。母が授けてくれたヴァルキリーの名に恥じない、『勝利の女神』となる夢が。その夢は公正なレースの場でこそ叶えられるべきものです。スタンド能力だかなんだか知りませんけど、ジョニィさんの姑息な企みなんかに邪魔されたくありません。私の夢を……いえ、私だけではありません、同じようにレースに夢を託す多くのウマ娘たちの想いを、こんな形で歪めるべきじゃありません」
ヴァルキリーが言い終える頃には、シンボリルドルフはさっきまでとまったく違う表情を浮かべていた。驚きと、少しの喜びが入り混じった表情だった。
「……君には負けたよ、ヴァルキリー。確かにその通りだ。レースとは、ウマ娘が夢を賭けるにふさわしい舞台であるべきだ。悪辣な企みが跋扈する場所であるべきではない。そんな当たり前のことを君に教えられるとは、私は生徒会長失格だな」
「そんな……私だってわかってます。ルドルフさんは本当に、私やみんなの身を心配してくれてるって」
「いいんだ。しかし、これだけは約束してほしい。春の天皇賞に出るのなら……ジョニィ殿の企みを知って、なお彼の前に立つというのなら、必ず無事で帰ってきてくれ。レースの栄光を、君自身の命と天秤にかけるようなことはしないでくれたまえ」
「おいおい生徒会長さんよォ。誰の前でそんな口を利いてんだ」
ジャイロがここぞとばかりに口を挟んだ。自分を差し置いて話が進んでいくのが気に食わず、何か言いたくて仕方ない気分だったのだ。
「何のために俺がいると思ってる。ジョニィの奴の手口なら俺にはわかりきってる。いくらでも防ぎようはある」
「頼もしいね。確かに、ジャイロ殿がついていてくれれば安心だ」
シンボリルドルフが笑い混じりに言う。その口ぶりはおどけていたが、ジャイロに向ける視線は変わらず真剣みを帯びていた。
「とにかく、私から伝えたいことは伝えたつもりだ。エクリプス……日食の時にジョニィ殿は必ず動きを見せる。くれぐれも気を付けて、君は君の想いをその脚に乗せて走るといい。無事是名ウマ娘、だよ」
「はい。ご心配ありがとうございます」
「話は終わりか? なら、俺たちはもう行くぜ」
シンボリルドルフが小さく頷くのを見てから、ジャイロは踵を返して生徒会室を後にした。トレーナー室へ戻る道すがら、ジャイロはヴァルキリーにこんなことを質問してみた。
「さっき言っていたことは本当か。つまり、春天に出走するのに不安はないと」
ヴァルキリーは小さくかぶりを振り、
「不安がないなんて言ってませんよ。正直、かなり怖いです。それでも私は走りたいんです。わけのわからない理由で、走ることを邪魔されたくないんです。それに、いざとなったらトレーナーが守ってくれるって信じてますから」
そう返事をしてきた。ジャイロとしては、ヴァルキリーに少しでも不安や恐怖が残っているようなら、シンボリルドルフの進言に従って出走を取りやめ、別の策を講じることも考えた。しかし、ヴァルキリーがそこまで決意を固めているのなら、野暮なことは言うまい。トレーナーとして、ヴァルキリーの保護者として成すべきことを成すまでだ。ジャイロもまた、そう決意を新たにした。
来たるべき大阪杯までの時間は、ヴァルキリーのトップスピードを向上させるトレーニングに費やした。黄金の回転のパワーであえてハイペースの展開を作る作戦は、中山記念でその有用性を証明した。次に求められるのは、そうして作り出した展開を活かしてラストスパートで押し切れるだけのスピードである。
中山記念でドゥラメンテ相手にスピードで上回ったのは見事と言うほかない。しかしそれはあくまで作戦勝ちあってのものだ。ドゥラメンテにもっと精確な走りをされていたら、勝負はわからなかっただろう。ヴァルキリーの得意とする走りをより確実な勝利に結びつけるためには、トップスピードの補強が急務であるとジャイロは考えた。
「よし、ショットガンタッチあと二十本! インターバル挟んでもう十本だ!」
「はいっ!」
ジャイロがバレーボールを高く放り投げ、ヴァルキリーが離れたところから走ってキャッチする。トレーニングの時間が許す限り、ひたすらこれを繰り返す日々だった。中山記念の走りを見て、勝負根性を鍛えた成果は確かに結実しつつあるという実感がジャイロにはあった。だからこそ、こうしてスピードトレーニングに注力できるというわけだ。
そうしてまたたく間に時は流れ、気が付けば三月も半ば。大阪杯を間近に控えたその日、事件は起きた。
「ジャイロさん! 助けてください、ジャイロさん!」
その日のトレーニングを終え、ヴァルキリーを寮に帰して自分も帰り支度をしようとしていたジャイロの元へ、甲高い悲鳴とともに駆け寄ってきたのはキタサンブラックだ。何があったのかと質問する暇もなく、キタサンブラックに手を取られて引きずられていくジャイロ。
「おいおい待て待て。いったいどうしたってんだ。説明しろ」
「ダイヤちゃんが……ダイヤちゃんが大変なんです!」
半べそをかきながら、それでもジャイロの手を引いて走る足は止めることなくキタサンブラックは叫んだ。サトノダイヤモンドに何かあったというのか──ジャイロの疑問は、すぐに答えを得た。グラウンドの片隅で、サトノダイヤモンドが脚を抱えて苦しそうにうずくまっている。その傍にいるのは──
「ダイヤ……それに、スローダンサーじゃあねえか」
ふたりに近付いていくうちに、だんだんと状況が掴めてきた。サトノダイヤモンドは、どうやら左脚に傷を負っているらしい。スローダンサーは手際良く救急箱から医療用品を取り出し、サトノダイヤモンドの脚に応急処置を施している。
「これで良し。消毒も止血も済ませたし、あとはしばらく安静にしていれば、すぐに傷は塞がると思うわ」
ひと仕事終えたという風情で、スローダンサーが額の汗を拭って立ち上がった。ジャイロは辺りを見回すが、付近にジョニィの姿は見えない。
「あの……ありがとうございました、スローダンサーさん」
「ダイヤちゃん、こんな子にお礼なんて必要ないよ。誰のせいでこんな怪我をすることになったと思ってるのさ」
スローダンサーへの敵愾心を隠そうともせず、罵詈雑言を繰り出すキタサンブラック。これだけ怒気に満ちた彼女の姿を見るのは初めてだ。確かに、ただごとではないのかもしれない。
「教えろ。いったい何があった?」
ジャイロの問いに、サトノダイヤモンドがゆっくりと口を開いた。
「はい。ここで私が練習後のストレッチを行っていた時のことです。地面の一点に、何やら奇妙な動く穴が現れました。不思議に思って眺めていると、その穴は少しずつ私のほうへと近付いてきて、突然その穴の中から何かが飛び出して私の脚をかすめていきました」
「それで、アンタは傷を負ったってわけか」
「はい、その通りです」
「あたしは偶然近くにいたので、誰か手当てを手伝ってくれる大人の人を探しに行こうと思って、ジャイロさんを呼びに行きました。けれども戻ってきたら……」
「スローダンサーが先に応急処置を済ませていた、ってわけだ」
スローダンサーが首肯した。なるほど、だいたいの状況は掴めた。キタサンブラックがスローダンサーを憎々しい目でにらみつけている理由も。
「地面をうごめく穴……ジャイロさん、あたしはこれに見覚えがあります。あの菊花賞カップ破壊事件。あの時、あたしが立っていたウィナーズサークルの地面に、これとよく似た跡が残されてました」
キタサンブラックが指差したほうをよく見ると、確かに何か小さく丸いものが這ったような跡が残されている。ジャイロにはすぐに、それがジョニィのスタンド能力特有のものであるとわかった。そして、直後に示し合わせたかのように現れたスローダンサー……つまりはそういうことだろう。
「アンタの言いたいことはわかるぜ、キタサン。要はジョニィの仕業だってんだろう。俺も同じ意見だ。この穴の跡は、ジョニィがスタンド能力で爪弾を発射した時にできる跡で間違いない」
「やっぱり……!」
「だが、スローダンサーがここに現れた理由まではわからねえ。説明してくれるよなァ?」
そう、ジャイロは知っていた。ジョニィとスローダンサーは決して一枚岩ではないと。スローダンサーはジョニィに利用されているだけという可能性もある。きちんと話を聞いてみるべきだろう。
「……わたくしが今日この場にいるのは、偶然ではないわ。トレーナーさんがダイヤちゃんの身に危害を加えるだろうことは、あらかじめわかっていたの」
「やっぱり! あなたたち、最初からダイヤちゃんの脚を駄目にするつもりで」
「落ち着けキタサン。とはいえスローダンサー、アンタが納得のいく説明をしてくれなけりゃ、本当にジョニィの奴とグルだと思われても仕方ないぜ」
再びスローダンサーに噛みつかんばかりの気勢を上げるキタサンブラックをなんとかなだめ、ジャイロは話の続きをうながした。
「ええ、わかっているわ。トレーナーさんがダイヤちゃんにスタンド能力で攻撃を仕掛けたのは、大阪杯に向かうウマ娘に対する警告のつもりなの」
「警告だと?」
「ええ。あなたたちがトレーナーさんの目的に気付いて、それを止めようとしていることは、トレーナーさんも勘付いてる。だからこのタイミングで脅しかけようとしたみたい。これ以上嗅ぎ回れば、ただじゃ済まないぞ……って。わたくしはトレーナーさんとの会話でそのことを知っていたけど、止めることはできないから、せめてダイヤちゃんの怪我が最小限で済むように、いつでも応急処置に駆けつけられる場所で見守っていたの」
「それであんなに対応が早かったってわけか」
「丸め込まれちゃ駄目ですよ、ジャイロさん。この子はジョニィさんの手先なんです。あたしたちを油断させるための演技ってことも考えられるじゃないですか」
「キタちゃん、落ち着いて。冷静さを失わないで。私は大丈夫だから」
なおも敵愾心を露わにするキタサンブラックに対し、サトノダイヤモンドがぴしゃりと鞭を振るうように言い放った。キタサンブラックが落ち着きを取り戻すのを待ってから、こう続けた。
「私は、スローダンサーさんが嘘を言っているようには思えない。私の怪我を見つけて大急ぎで駆けつけて、応急処置を施してくれている時のスローダンサーさんは、私を油断させる演技をしているようには見えなかった」
「ダイヤちゃん……」
「たぶんだけど、スローダンサーさんはジョニィさんに逆らえない立場だから、こんな形でしか私たちを助けられないんだと思う。その気持ちを無下にしたら悪いよ」
キタサンブラックはばつが悪そうにうつむき、しばらくしてジャイロにこんなことを問うてきた。
「ジャイロさんは……どう思いますか。ダイヤちゃんの言うことが正しいって思いますか」
「ああ、俺はダイヤと同意見だ。スローダンサーはジョニィの完全な操り人形というわけではない。俺たちの敵だと断定するのは短絡的だろう」
「そうですよね……ごめんダイヤちゃん、恥ずかしいところ見せちゃって。それから……スローダンサーちゃんも」
「気にしてないわよぉ。トレーナーさんがあんなことになっちゃった以上、わたくしが疑われるのはわかっていたことだし」
柔らかな笑顔を浮かべてそう告げるスローダンサー。彼女が少し首を傾げた拍子に、ウェーブがかった芦毛の髪がふわりと揺れた。確かに少なくとも、今のスローダンサーはジョニィの意思を受けて動いているようには見えなかった。
「それより考えるべきは、ジョニィの奴がここにきて本格的な実力行使に出てきたという事実だ。奴はどんどん手段を選ばなくなってきている。俺たちのほとんどがスタンド能力に対処できないのをいいことにな」
「そんな……どうにかできないんですか」
キタサンブラックがすがるような目で見つめてくる。ジョニィがいよいよスタンド能力で人を傷つけ始めた今、それを止める手立てを持っている人間は、おそらくこの世界にひとりしかいない。ジャイロはホルスターから鉄球を取り出し、胸元に持ってきた。
「心配するな……どうにかする。アンタたちはこれまで通り、普通のトレセン学園生として過ごしていれば大丈夫だ」
胸元で握り込んだ鉄球をじっと見つめながら、ジャイロが静かに言った。彼の目には、自分の鉄球とジョニィの爪弾が互いにぶつかり合う光景が映し出されていた。大阪杯までにその光景を現実のものとせねばならないのかと思うと、ジャイロは気が重かった。