プリティー・ボール・ラン   作:アモルファス@銀嶺の麓亭

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#12「驀進、驀進、驀進々」

 大阪杯当日を迎えたジャイロにとって、良いニュースと悪いニュースとがあった。

 良いニュースとは、大方の予想通り大阪杯にジョニィの狙いは向けられていないということである。ジャイロはあらかじめやよいに連絡して、大阪杯当日にジョニィが阪神レース場方面へ移動することがないか、見張りをつけてもらっていた。そのやよいから今朝、ジョニィの動きに不審な点は見当たらないと連絡がきたことで、大阪杯の優勝カップは少なくとも破壊されることはないとわかった。

 次に悪いニュースだが、先般のサトノダイヤモンド襲撃事件を境に、仲間たちの間に暗澹とした不安が広がっているのであった。ヴァルキリーは現場にいなかったため後でジャイロの口から説明してやったのだが、彼女を不安と動揺が襲ったであろうことは想像するまでもない。前述の通り今日の阪神レース場にジョニィは現れないはずだが、それで絶対に安全だと言い切れる立場にあるのはジャイロだけである。ウマ娘たちにとっては、ジョニィのスタンド能力は恐ろしい未知の能力であることに変わりない。いつ何が起こってもおかしくない、場合によっては自分の身を傷つけられても不思議はないとくれば、不安がるなというほうが無理な話だ。

(情報をリークしたのは俺だが……こんな状態で、不安なくレースなどできるのか?)

 ジャイロはふと、シンボリルドルフの言っていたことを思い出した。レースとはウマ娘が夢を懸ける舞台であって、悪辣な企みが跋扈するべき場所ではない。そのようなことを言っていた。「悪しきもの」がレースという場に悪意を持ち込んだ結果が、今のこの状況というわけである。仮にウマ娘皆が「悪しきもの」という外的脅威のもたらす恐怖に屈し、フェアなレースができなかったとしたら、いったい誰がこの責任を負ってくれるというのか?

「トレーナー。着きましたよ、トレーナー」

 ヴァルキリーに肩を揺さぶられて、ジャイロは思考の渦から意識を現実に引き戻した。どうやら車内アナウンスを聞き逃していたらしく、新幹線は間もなく新大阪へ到着する模様だった。

 新幹線から降りたふたりをしっとりと暖かい空気が出迎え、春の陽気の訪れを予感させた。ここから例の「梅田」を攻略していくわけだが、二回目ともなると神戸新聞杯の時ほどには不安はなかった。しかしそれでも自分の足で行くのは自信がなかったので、例によってヴァルキリーの先導に頼る形になった。

 相変わらずわかりにくい「梅田」の数々をなんとか乗り継ぎ、やっとの思いで阪神レース場に到着する頃には陽も南の空から燦々と照りつけていた。この後はレース場内のフードコートで本番前最後の食事を済ませてから、いよいよ大阪杯へとおもむくことになる。

「あっ、エントランスに誰かいますよ」

 ヴァルキリーの声に従ってエントランスに向けて目を凝らすと、人混みの中によく見知った流星の鹿毛のウマ娘の姿が見えた。そのそばには、やはりというかおなじみのストレートヘアのウマ娘の姿もあった。

「ドゥラメンテ。それにエアグルーヴか。遠くからでもわかったぜ」

「ああ、ジャイロ殿。ヴァルキリーも。今日はよろしくな」

 エアグルーヴが気さくに挨拶を返してくれた。一方、ドゥラメンテの様子が何やらおかしい。握り拳を作ったままうつむいて、耳をぺたんとしなだれさせている。

「どうしたのドゥラメンテ、そんなに考え込んで」

 心配したヴァルキリーがドゥラメンテに声をかけるが、返事はない。代わりにエアグルーヴが事情を説明してくれた。

「ドゥラは……今日の大阪杯には出走しないんだ」

「えっ……?」

 ヴァルキリーとジャイロが顔を見合わせる。てっきりジャイロとしては、この大阪杯でライバル皆と競うことになるだろうと思っていたのだが。

「意外そうな顔をしているな。だが、私の口からはこれ以上語ることはできん。詳しいことは本人から聞いてくれ。ドゥラ、大丈夫そうか?」

 エアグルーヴにうながされて、ようやくその重い口を開くドゥラメンテ。

「私は……笑ってくれ、私は臆病風に吹かれた。今日の大阪杯、出走していたなら絶対に勝つ自信がある。しかし、それは同時に……私が大阪杯の優勝カップを手にしてしまう、ジョニィ殿の謎の能力の標的になってしまうことを意味する」

 唇を震わせ、頬を紅潮させながらなんとか言葉を紡ぐドゥラメンテ。いつもの自信に満ちた彼女の姿からは想像できない光景だ。

 悪い予感が当たってしまった、とジャイロは思った。ライバルたちの間に蔓延していた漠然とした不安が、ここにきて最悪の形で表出してしまった。

「ドゥラメンテ。今日に限って言えばその心配はない。理事長に話を通して、ジョニィに対して見張りをつけさせている。奴が今日この阪神レース場に来ることはない」

「それはわかっている。わかっているが……わからないことのほうが多すぎるんだ。ジャイロ殿、わかってくれ。スタンド能力とかいう代物について、君は私たちより詳しいからそう断言できるんだろうが、私にとっては未知の恐怖でしかないんだ。自分の命、そして命の次に大事なこの脚と大阪杯とを天秤にかけて……私は自分の身を守ることを選んだ。それにどのみち、今日を迎えて出走登録していない以上、今更それを覆して大阪杯に出走することは叶わない」

 弁解を重ねるドゥラメンテの声は、かすかに震えていた。それはそのまま、今の彼女が抱えている恐怖を表していることは誰の目にも明らかだった。

「ドゥラメンテ……」

 ヴァルキリーがぼそっとドゥラメンテの名を呼んだ。その声には隠しきれようもない憐憫の情がこもっていた。そして、

「わかった。それならせめて、観戦席で見守ってて。私たちの誰かが大阪杯の優勝カップを掲げて、無事に帰ってくるところを」

 力強く微笑んでみせた。ドゥラメンテはなおもばつが悪そうに顔をうつむかせている。

「すまない……情けないライバルで。君はきっと私を軽蔑するだろう」

「軽蔑なんてしないわ。自分の身体を大切にするという判断ができるのは、一流のアスリートである証だもの。それを言うなら、エアグルーヴさんはどうなの? ドゥラメンテの決断を、エアグルーヴさんは軽蔑したりした?」

「それは……」

 ふたりがエアグルーヴのほうへ視線をやると、彼女は小さく鼻を鳴らしておどけてみせた。

「ドゥラはもう一人前のアスリートだ。私がこいつの判断にあれこれ口を出す権限はない。大阪杯を諦めてでも、自分の身体を守る決断を下したというなら、私はそれを尊重するだけだ」

「……だそうよ。これでわかったでしょ。ドゥラメンテを笑う権利なんて誰にもない。そもそも全部ジョニィさんが悪いんだから」

 白い歯をにっと見せつけて、サムズアップを突き出すヴァルキリー。その表情には彼女の言葉通り、ドゥラメンテに対する軽蔑の念などこれっぽっちも含まれていなかった。ドゥラメンテは息を大きく吸い込んで呼吸を整えると、

「ありがとう。少し救われた気分だ。君とグル姉の勝負を、ジャイロ殿と一緒に見守らせてもらうことにする」

 ヴァルキリーに応えるように、力強い笑みを浮かべてそう言った。

「話は済んだか? 俺たちはジョニィに対抗する仲間のつもりだが、ターフに立ったらライバル同士だ。真剣勝負に水は差すなよ」

「それはこっちの台詞だ。ドゥラへの同情心でほだされて、手を抜いたりしたら承知せんからな」

 ジャイロとエアグルーヴのやり取りを合図として、その場はお開きの流れになった。次にエアグルーヴと会う時は、栄光を巡って争うライバル同士だ。

「ヴァルキリー、相手が誰であれ、どんな状態であれ手加減は無用だぜ。この大勝負をものにできるだけの力は、つけさせてやったつもりだ」

「はい、わかってます。任せてください」

 レース場の中に消えていくふたりの背中を見送りながら、ジャイロたちはそんな会話を交わした。

 しかしジャイロは、この時まだ理解していなかった。ジョニィに狙われているかもしれない恐怖、それと戦いながら大阪杯の優勝カップを巡って競うということ、それが真に意味するところを。

 

「春の中距離王者の座を巡り、仁川の舞台にウマ娘たちが集いました! 春シニア三冠の緒戦、大阪杯間もなく出走です!」

 場内に響き渡る実況の声と、それに沸き立つ観客たちの声援を浴びながらウマ娘たちが続々とゲートインしていく。本当はあの中に、ドゥラメンテの姿もあったはずなのだ。ジョニィがもたらした不安と恐怖が、ドゥラメンテから貴重なレースの機会を奪った。彼女のぶんまで、悔いなく走り切らねばならない。それはヴァルキリーをはじめ、ライバル同士皆が同じ思いでいることだろう。ゲートの中からターフを見つめる彼女らの眼差しに、一斉に信念の火が灯る。

「各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました……スタート!」

 ガシャン、という音とともにウマ娘たちが一斉に飛び出す。大阪杯の火蓋が切られた瞬間だった。

「揃ったスタートになりました。先行争いはヴァルキリー、イマジンサクセス、キタサンブラック、フラハラウ! すぐ後ろからエアグルーヴ、差がなくビウエラリズム、ロングキャラバン追走! 急坂を勢い良く駆け上がっていきます」

 やはりというか、スタート直後は少し固まったバ群となった。誰もがスローペースでレースが進むと思っている以上、序盤で脚を使いすぎるのは避けたいと思うのが普通だろう。

「ヴァルキリー、先頭に立ちました。一バ身離れてイマジンサクセス、外からフラハラウ、続いてキタサンブラック!」

「ヴァルキリーちゃんと走ると、いつも序盤にハナを取られちゃうんだよなあ。あの坂を前にしたら普通は慎重に走るのに、一気に登り切っちゃうなんてすさまじいパワーだ」

 キタサンブラックがかすかに歯噛みするのが見えた。まずはジャイロの思惑通り、序盤のハナ取り争いには成功した。ここから小回りのコーナーが続く。さすがのヴァルキリーもここで無理に飛ばすわけにはいかない。再び慎重なペース配分のレースに戻る。

 ここで実況が後方のウマ娘に目を向け始めた。

「内を回りますライムシュシュ、外からサトノダイヤモンド、ヘキサキャニオン続きます」

 サトノダイヤモンドは外に振られたようだ。中山記念と比較して強引なハイペース展開に持ち込みにくい大阪杯では、彼女の爆発力によりいっそう気を付けなければならない。それでもヴァルキリーは当初の作戦通り、隙を見せない程度に先頭で飛ばしながらハイペースで流れる展開を狙う。

「これは早めのペースになりました。依然として先頭はヴァルキリー、すぐに続いてフラハラウ、さらにイマジンサクセス、キタサンブラック並んでくる! 一バ身離れてビウエラリズム、差がなくロングキャラバン、内をつきますエアグルーヴ!」

 エアグルーヴが少し下がった。ハイペースな展開にはついていけないと、いち早く判断したか。実際、彼女の判断は正しい。後続のウマ娘が前に出れば出るほど、ヴァルキリーの思うつぼだからだ。ハイペースな展開に焦らず脚を残した者が、この大阪杯を制すだろう。

「二コーナーを抜けて向正面へ! ヴァルキリー、快調に飛ばしていきます!」

「かなりのハイペースで飛ばしていますが、終盤に脚は残るでしょうか」

 解説が口にした疑問はもっともだ。大阪杯は本来、もっとスローペースの展開になるのが普通だ。それをヴァルキリーが強引にハイペースの展開を作り、後続の仕掛けのタイミングを難しくさせている。中山記念で上手くはまってくれた手が再び通用するとは限らないが、少なくともこの作戦を採ってなお、終盤に脚を残せるだけのパワーがヴァルキリーに備わっていることは確かだ。

 まるで大逃げを打っているかのように、後続との差をいっそう開いていくヴァルキリー。

「ヴァルキリー大きく前へ出ました。二バ身、三バ身離れてフラハラウ、外からキタサンブラック、イマジンサクセス追走! 後方のウマ娘が巻き返せるのか、気になる開きです。おっと、ここで後方から動きがあるか。サトノダイヤモンド伸びてくる!」

 第三コーナーへ差し掛かると同時に、後続でついに動きがあった。中団からサトノダイヤモンドが先んじて仕掛けてきたのだ。しかし、このコースは仕掛けるにしても早くて第三コーナー付近。サトノダイヤモンドの仕掛けはあまりに早すぎる。ハイペース作戦が功を奏したと、ジャイロは密かにほくそ笑んだ。

「サトノダイヤモンド、先団を目指して加速する! すぐに続いてライムシュシュ、ヘキサキャニオン追走!」

「有マ記念を獲ったほどだ、お前のスタミナは折り紙付きだ。しかしその仕掛けはあまりに無謀ではないか?」

 エアグルーヴの疑問をよそに、ぐんぐんと先団との差を縮めていくサトノダイヤモンド。そうこうしているうちにヴァルキリーは第三コーナー半ばに差し掛かり、いよいよ自分もスパートをかけ始めた。

「やああっ!」

「ヴァルキリーここで抜け出した! このまま押し切れるか!」

「やらせない……ヴァルキリーちゃんには、負けない!」

「おおかた中山記念の再現といったところだろう。何度も同じ手が通用すると思うな!」

 先陣を切るヴァルキリーに、キタサンブラックとエアグルーヴが食らいついてくる。それからさらに、

「サトノの栄光を積み上げるのは、この私です!」

「外からサトノダイヤモンド! すごい脚で上がってくる!」

 サトノダイヤモンドまでもが追いついてきた。あのハイペースに呑まれなかったウマ娘たちだ、スパートに向けた脚はしっかり残してあるというわけか。

 ホームストレッチの下り坂で、後続が一斉に勢いをつけてくる。

「先頭はヴァルキリー、しかしその差はわずか! キタサンブラック、エアグルーヴ追いすがる! サトノダイヤモンド間に合うか!? 勝負はまだ続いている、仁川の舞台はこれから坂がある!」

 そう、ホームストレッチにはスタート直後にも通った上り坂がある。これを最も効率良く攻略できるのは、黄金の回転を最も高い精度で使いこなすヴァルキリーだ。

「回転……そう、トレーナーから教わった通りに。大阪杯のカップは、私が獲る……私が守る!」

 鬨の声を上げるとともに、ヴァルキリーがその脚に最後の力を込めた。黄金の回転は見事な軌跡を描き、ヴァルキリーに仁川の坂を攻略するだけの力を与えた。彼女に肉薄していたライバルたちは、まるで見えない手でせき止められるみたいに、皆こぞって失速していった。

「ゴールイン! 一着はヴァルキリー! 序盤から他を寄せ付けない圧倒的な走りを見せてくれました! 二着はキタサンブラック、三着はエアグルーヴ!」

「やった……」

 ヴァルキリーが半ば放心したようにつぶやく。そして、はっと意識を明晰にすると、

「やったあ! 私、勝ったんだ!」

 両腕を大きく広げ、身体じゅうで喜びを表現した。そのあと自分の務めを思い出し、表情をきりっと正してウィナーズサークルへとおもむいた。

 ウィナーズサークルは案の定ものすごい警備の厳重さで、近付く者はネズミ一匹とて容赦しないといった雰囲気だった。そんな堅苦しい緊張感の中で、優勝カップを胸元に掲げたヴァルキリーの記念撮影が粛々と行われた。

 ジャイロは安心しきっていた。この優勝カップが今ここで破壊されるようなことはない。それはヴァルキリーにも伝わっているはずだ。彼女の表情に不安は見られない。だが、ふたりは見落としていた。いつもなら勝者に惜しみない拍手と賞賛を送ってくれるライバルたちが、皆一様に暗く沈んだ顔で互いに目配せしあっているのを。

 

「トレーナー! 私、勝ちました!」

 冷たい地下バ道の壁一面にこだまする黄色い声が、ジャイロを出迎えた。次いで、優勝カップを大事そうに抱えて足取り軽く歩み寄ってくるヴァルキリーの姿が見えた。

「お疲れさん。いいレースだった」

 ジャイロがねぎらいの言葉をかけてやると、ヴァルキリーは緊張の糸が急にほどけたのか、緩んだ頬を恥ずかしそうにかいた。

「本当に、私が獲ったんですね……この大阪杯を」

 いまだ実感がわかないのか、胸元に抱きかかえた優勝カップを見つめてそうつぶやくヴァルキリー。

「ああ。間違いなくアンタは勝った。一年ぶりのGⅠ制覇だな。今の気分はどうだ」

「最高です。今まで走ってきて良かった。トレーナーを信じてきて……本当に良かったです」

 優勝カップを抱える腕にいっそう力を込め、感慨にふけるヴァルキリー。

 するとそこへ、ひとりのウマ娘が歩み寄ってきた。キタサンブラックだ。彼女は沈痛な面持ちで、引きずるような重い足取りでやっとヴァルキリーの元にたどり着くと、

「優勝おめでとう、ヴァルキリーちゃん」

 覇気のない声でそう言った。明らかに様子がおかしい。いつものキタサンブラックなら、たとえ負けたとしても勝者を精いっぱい称えてくれるはずだ。それに今の彼女の様子は、単に負けて悔しがっているというより、何かもっと大きな悩みを背負い込んでいるようにジャイロの目には見えた。

「ありがとうキタサン。こちらこそ、いいレースだったわ」

 キタサンブラックの異変に気付いているのかいないのか、素直な返事で応えるヴァルキリー。その言葉を受けてキタサンブラックは、ふっ、と小さく笑った。侮蔑でも憐憫でもない、しいて言うなら憧憬に近い感情のこもった笑みであった。

「ヴァルキリーちゃんは、強いね」

「え? うん……ありがとう。でもキタサンたちだって強かったわ。正直、このメンバーでもう一度走ったら、同じように勝てるかはわからない」

「ううん、そんなことない。きっと何度走っても、ヴァルキリーちゃんが勝つと思うよ」

「何を言ってやがんだオメー、いったい何が言いたい?」

 キタサンブラックのあまりの様子のおかしさに、つい会話に割って入るジャイロ。

「いつものアンタなら、勝っても負けてもお祭り騒ぎみたいにやいのやいのと盛り上げてくるじゃあねえか。それが今日はいったいどうしたことだ、その歯切れの悪さ、アンタらしくもない」

「そうですね……うん、確かにあたしらしくないや。はっきり言わなきゃ」

 乾いた笑いをひとつ吐き出し、少しだけいつもの元気を取り戻してキタサンブラックが言葉を続けた。

「ヴァルキリーちゃん。あたし、ヴァルキリーちゃんのライバル失格だ」

「えっ……?」

 目を丸くするヴァルキリー。キタサンブラックの言っていることがわからないのはジャイロも同じだ。ひとまず話の続きをうながす。

「今日、ヴァルキリーちゃんが大阪杯を獲れたのは、もちろんヴァルキリーちゃんが強いからにほかならない。けれどもそれ以上に……あたしが弱かったんだ」

「キタサンが……弱かった? いったいどういう意味?」

「もちろんあたしも、勝つために必死で走ったよ。けれどもゴール板が迫ってくるごとに、あたしの胸の中で、勝ちたくない、勝つのが怖いっていう気持ちがどんどん膨らんでいったんだ。もしあたしが一番にゴールインしたら、次の瞬間、地面から何かが飛んできてあたしの脚を駄目にするかもしれない、って。そんな気がして。ちょうどこの前、ダイヤちゃんが脚を怪我させられた時みたいに」

 ジャイロはそこでようやく話の要領を掴むことができた。つまりキタサンブラックにとっては、ジョニィのスタンド能力に対する恐怖は完全に払拭できていなかったということらしい。

「初めてだったよ、ゴールするのが怖いだなんて。そして、それ以上に恥ずかしかった。ヴァルキリーちゃんは必死にゴール目指して走ってるのに、あたしがこんな気持ちじゃ勝てるものも勝てない。何より、一緒のレースで競ってるライバルたちみんなに失礼だ、って。さっき、ダイヤちゃんとエアグルーヴさんとも話したんだ。ふたりとも、同じようなことを言ってたよ」

「ダイヤとエアグルーヴも、ライバル失格だなどとぬかしてやがったってことか」

「まあ、似たようなことは言ってました。ふたりとも、ジョニィさんが怖くて脚がにぶったことは事実みたいです」

 ジョニィの存在による恐怖で走りがおかしくなったのは、エアグルーヴもサトノダイヤモンドも同じということらしい。もしそれが事実なら、今日ヴァルキリーが大阪杯を勝利したという事実さえも、ジョニィの存在によってねじ曲げられた結果だということになってしまう。そんな勝利に、どうして価値が保証されようか?

「とにかく、ごめんねヴァルキリーちゃん。今日のあたし、本気でレースをしてなかった。それを負けた言い訳にするつもりはないし、今日の勝者は間違いなくヴァルキリーちゃんだけど、あたしの心がもっと強ければ、もっといいレースにできたかもしれないって思うと悔しくて」

「謝らないでキタサン。あなたが悪いんじゃないわ。すべてはジョニィさんのせいよ。自分の脚をいつどこから傷つけられるかわからないって時に、何の恐怖心もなくレースをするなんてのは、並大抵のことじゃない。私はトレーナーの……ジャイロ・ツェペリという人の担当ウマ娘だったから、ジョニィさんのことをより知っておくことができたというだけ」

「ありがとう、ヴァルキリーちゃん。今ここで話したことは、あたしの口からダイヤちゃんやエアグルーヴさんにも伝えておくね。それじゃ、あたしはこれで」

 力なくうなだれて、キタサンブラックがとぼとぼと地下バ道を後にする。彼女の小さな足音が、かすかにこだましながら少しずつ遠ざかっていった。

「……トレーナー」

「何も言うな。今日の勝者はアンタだ。今は、それがすべてだ」

 ヴァルキリーの言葉をジャイロがさえぎった。彼女の言いたいことはわかっていた。

 もちろん、今日のヴァルキリーの勝利は価値あるものだ。キタサンブラックが言っていた通り、勝者はヴァルキリーにほかならないのだ。しかし、レースを必死に競うウマ娘たちに、その勝利の価値を疑わせたという事実だけで、ジョニィの「悪しきもの」としての振る舞いがいかに邪悪なものであるかを説明するには充分だった。

 ジョニィがその爪弾の矛先をウマ娘たちに向け続ける限り、このような形でレースの価値は穢され続けることだろう。大阪杯にジョニィの狙いが向けられていないと思って気楽に構えていたが、まったくもって甘かった。ジョニィの中に宿る「悪しきもの」を排除しない限り、今日と同じことが何度でも繰り返される。それはすなわち、トゥインクル・シリーズそのものの価値の喪失を意味する。

「……春天だ」

「えっ?」

「春の天皇賞で、ジョニィは必ず動きを見せる。奴の尻尾を掴んでぎゃふんと言わせてやるチャンスはそれしかない。次のレースも負けられねえぞ」

「……はい。わかってます」

 行き場のない怒りが無意識に握り拳に込められていたことに気付いて、ジャイロはふっと手の力を抜いた。それからヴァルキリーと目配せし合うと、どちらからともなく控室へ向けて歩き出した。

 

 四月に入り、トレセン学園の通学路が一面桜色に染まる季節になると、ジャイロの耳にも明るいニュースが入ってくるようになった。そのひとつが、ファン感謝祭なる行事である。普段からウマ娘たちの走りを応援してくれるファンたちへの感謝を表明することを目的として、トレセン学園を一般向けに開放し、在学生が主導となって様々な催し物を開くというイベントだ。

 ファン感謝祭の開催を知った時、ジャイロは正直なところあまり気乗りしていなかった。今こうしている間にもジョニィの企みは進んでいるかもしれないというのに、お祭り騒ぎをしている場合ではないだろうと。しかし、そんなことを考えながら学舎を歩いていたところをシンボリルドルフに見咎められて、

「昨年のクラシック戦線を盛り上げてくれたヴァルキリーたちは、今年のファン感謝祭の主役にふさわしい。どうかジャイロ殿も、この日くらいはしがらみを忘れて楽しんでほしい」

 と念を押されてしまった。確かに、レースとは何の関係もない学内の催し事に、ジョニィがわざわざ干渉してくるとは考えにくい。そういうことなら観念してせいぜい楽しんでやるかと、覚悟を決めたわけである。

 そんなわけで迎えたファン感謝祭当日。ジャイロがトレセン学園を訪れた時には既に正門からあふれんばかりに人混みがごった返しており、昇降口までの道は所狭しと出店が立ち並んでいた。中には焼きそばやお好み焼きの店なんてものもあるらしく、ソースの焼けるいい匂いがそこかしこからただよってくる。レーストラックでは様々なイベント競技が開催されているようで、時折割れんばかりの歓声が響いてくる。これらの催し事をすべて学生主導で行っているというから驚きだ。

「あっ! トレーナー、こんなところにいた」

 聞き慣れた声に反応して振り返ると、ヴァルキリーが人混みの中から満面の笑みでこちらに手を振っていた。人の流れをかき分けかき分け、なんとかふたりが合流すると、ヴァルキリーはレーストラックのほうを指差し、

「向こうで面白そうな競技をやってますよ。見に行きませんか」

 と言い出した。どうやらヴァルキリーは徹頭徹尾、このファン感謝祭を楽しみ尽くすつもりのようだ。こんな時に暗い話題を持ち出すのは、確かに無粋だろう。ジャイロは頭の中をなるべく楽しいことで埋めながら、ヴァルキリーに手を引かれてレーストラックへと向かった。

 レーストラックでは実に多種多様な競技が行われていた。掲示されたプログラムによると、うさぎ跳びパン食い競争、障害物パターゴルフ競争、担当トレーナーと二人三脚競争なんてものもあった。

「トレーナー、あの競技なんか面白そうですよ。一緒に出ませんか?」

 そう言ってヴァルキリーが指差したのは、「ふたりひと組肩車レース」なる競技だった。ウマ娘たちが誰かを肩車した状態でレースを行って順位を競うらしい。なんだか膝を故障しそうな競技だが、そこはウマ娘の身体の作りとして大丈夫なのだろうか。

 どうあれ、あの珍妙な競技で大衆の耳目を集めるのもな……とジャイロが気後れしていると、その間にさっさとヴァルキリーがエントリーを済ませてきてしまった。

「……おい、何やってんだオメー」

「何って、ふたりひと組肩車レースへの出走登録ですけど」

「俺はそんなくだらん競技に出ると言ったつもりはねえ。今すぐ取り消してこい」

「えーっ! あんなに面白そうなのに。トレーナー、私と一緒に走るの嫌ですか?」

「そうは言ってねえけどよォ……出るにしたって、もうちょっとマシな競技があっただろ」

 そんな不毛な言い合いを繰り広げてまごまごしているうちに、無情にもその時は来た。

「ただ今より、ふたりひと組肩車レースを開催いたします。出走者の皆さんは、スタートラインへお並びください。繰り返します……」

 競技の開始を告げる場内アナウンス。ここで競技をすっぽかしたらそれこそ赤っ恥だ。ジャイロは観念して、ヴァルキリーとともにレーストラックのスタートラインに向かった。

 トレセンレース場、ダート500メートル。この小さなレース場に衆目の関心が一斉に向けられていた。ジャイロはその中をばつが悪そうに歩き、スタートラインに到着すると、先に着いてしゃがみ込んでいたヴァルキリーの背にそっとまたがる。重いだろう、と声をかけようとしたその前に、ヴァルキリーはこともなげにすっと立ち上がってジャイロの脚を掴み、身体を支えた。彼女にとっては背負っているのが人間であっても、風船であっても同じことだというのか。ウマ娘の膂力はやはり人間とはかけ離れているのだと、ジャイロは身をもって痛感した。

「あれっ、ヴァルキリーちゃんたちもこの競技に出るんだ」

 聞き慣れた声がして振り向くと、声の主はキタサンブラックだった。その背にはサトノダイヤモンドを乗せている。背負うのは人間でなくとも良いらしい。

「こんなところでもライバル同士だなんてね。負けないわよ、キタサン」

「ふふっ、その自信もいつまでもつでしょうか。今日のキタちゃんの仕上がりはひと味違いますよ」

「どうしたダイヤ、アンタがそこまで強気な言葉を使うのは珍しいな。いずれにしても、勝つのはうちのヴァルキリーだろうけどよォ」

 気付けばジャイロもすっかりその気になって、キタサンブラックたちと舌戦を繰り広げていた。

 スタートラインに続々と出走者が揃い、運命の時は迫る。

「各チーム、スタートラインに揃って体勢整いました……スタート!」

 号砲とともに飛び出すヴァルキリーとキタサンブラック。このままいつものようにふたりでハナ取り争いが繰り広げられる──かに思われたが。

「はーっはっはっは! この勝負もらいましたとも!」

 猛然と力強いスタートダッシュを切り、風を切ってまたたく間にハナを奪っていったウマ娘がひとり。いや、その背に担当トレーナーらしき人物を背負っているからふたりなのか──そんなことはどうでもいい。あのウマ娘はいったい何者だろうか。

「アレは……サクラバクシンオーさん!」

 ヴァルキリーたちと並走しながら、キタサンブラックが叫んだ。

「知っているのか、キタサン!?」

「知っているも何も、クラシック級から現在に至るまで短距離レースで成績を残し続けている強豪ウマ娘です! 直線500メートルという今回のコースは、まさしくバクシンオーさんが得意とするところ……!」

「トレーナー、話し込んでるところ悪いですけど、このままじゃ差を開かれる一方です。しっかり掴まっててくださいよ!」

 そう言って、脚にいっそう力を込めるヴァルキリー。振り落とされないよう、ジャイロは必死に彼女の肩にしがみつく。

 掴まれた脚を通して、ヴァルキリーの黄金の回転が伝わってくる。そのパワーはやがて、サクラバクシンオーの背を捉えるに至った。

「ちょわっ!? この私に追いついてくるとは、なかなかやりますね。しかしここでみすみすリードを奪われては、学級委員長の名折れ!」

「が、学級委員長……? なんだかよくわからないけど、負けないわ!」

「先頭を行きますサクラバクシンオー! 外からヴァルキリー、ぐんぐんと上がってきた!」

 熱のこもった実況に沸き立つ観衆。催し物の直線500メートルのレースで外も内もねえもんだ、とジャイロは苦笑いしたが、出場するからには勝たなければ、という気持ちにはなっていた。

「先頭はわずかにサクラバクシンオー! ヴァルキリー追いすがる! さらに外からキタサンブラック、伸びてくるか!」

「ヴァルキリーちゃん、バクシンオーさんとの勝負を楽しむのはいいけど、あたしがいることを忘れないでよね!」

 やや後方に位置取っていたキタサンブラックが、ここにきて追いついてきた。あっという間に先頭集団と並び、三つ巴の争いになる。

「ここで並んだ並んだ! 残り100メートル! サクラバクシンオー譲らない!」

 キタサンブラックが強豪と評するだけあって、サクラバクシンオーの脚は確かに並大抵のものではない。これまでほとんどハナ取り争いで負けたことがないヴァルキリーからあっさり先頭を奪ったことからも、その実力のほどが容易にうかがい知れる。

 しかし、ジャイロには確信があった。この勝負はヴァルキリーが勝つと。掴まれた脚から、しがみついた肩から伝わってくる黄金の回転こそがその根拠だ。ジャイロが思っていたよりはるかに高い水準で、ヴァルキリーの黄金の回転は完成を見ている。それを体感したのだ。

「いいぞ、ヴァルキリー。そのままでいい。そのまま走れば勝てる」

「はいっ!」

 ジャイロの言葉の真意は伝わったようで、ヴァルキリーは力強く地面を蹴り続ける。そしてついに、サクラバクシンオーの前に躍り出す。

「ここで先頭が変わった! ヴァルキリー先頭!」

「ややっ! まさかこの私が、優秀な学級委員長が敗れるなどとは!」

「ヴァルキリーさん、すごいでしょう? 自慢のライバルなのですよ」

 サトノダイヤモンドの応援を背に、ヴァルキリーとジャイロはゴールラインを駆け抜けた。

「ゴールイン! 一着はヴァルキリー! 前年度覇者サクラバクシンオーを見事下しました! 皆さん、名勝負を見せてくれた選手たちに改めて拍手を!」

 実況がそう煽ると同時に、観客席から割れんばかりの拍手がヴァルキリーたちへと送られる。その喝采の中で、ジャイロはヴァルキリーの背から降りてサクラバクシンオーと対峙していた。

「驚いたぜ。アンタほどの脚の持ち主がこの学園にいたなんてな」

「私もびっくりしていますとも。この優秀な学級委員長たる私に土をつけるとは。ヴァルキリーさんにはスプリンターの素質があるやもしれません!」

「それはないと思うが……まあなんだ、いい勝負だった」

「こちらこそ、楽しいレースでした! それでは私は学内の風紀を守る仕事に戻りますゆえ、これにて失礼! バクシーン!」

 言うだけ言って、サクラバクシンオーはどこかへ走り去っていってしまった。彼女の担当トレーナーを背に乗せたまま。

「……なんだったんでしょう。まるで嵐のような人でしたね」

 ヴァルキリーが目を丸くしてつぶやいた。言葉を選ばず言うなら、確かに少々変な奴ではあった。しかしそんな人物でも、レースの才さえあればトゥインクル・シリーズで活躍できる。そんなトレセン学園の懐の深さを象徴する人物であったとも言えるのかもしれない。

「相変わらずだなあ、バクシンオーさん」

 ぼそっと小声でこぼすキタサンブラック。

「キタちゃん、バクシンオーさんと知り合いなの?」

「まあ、少しね。なんていうか、見ての通りの人って感じだよ」

「あれだけ濃いキャラしていて今まで出会わなかったのが、逆に奇跡みたいに思えてきたわ……」

 ヴァルキリーが苦笑いする。その場の皆も、つられて笑った。

 

 それは唐突にやってきた。ジャイロがファン感謝祭をひとしきり楽しみ尽くし、トレーナー寮の自室に帰り着いて心地良く床に就いたその晩のことであった。

「久しいな。ジャイロ・ツェペリ」

 暗闇の中に凛と響く声。彼方から差し込む光が映し出す、ふたりのウマ娘の影。例の夢だと、すぐにわかった。

「待ちくたびれたぜ。菊花賞の時から半年以上も待たせやがって。危うくアンタたちの存在を忘れるところだった」

 軽口を叩きながら、ジャイロは意識を明晰にしてふたりに──バイアリータークと、ゴドルフィンバルブに相対する。夢の中で意識を明晰にする、というのもおかしな話だが。

「ダーレーアラビアンはどうした? 姿が見えねえようだが」

「ああ……俺ならここだよ」

 ふたりの間から三人目の影がぬるりと立ち上がり、その姿を現した。しかし何やら今までと様子が違う。彼女の燃えるような赤髪からはいつもの情熱が感じ取れず、立ち姿もどこか頼りなさげで今にも消えてしまいそうだ。

「ファン感謝祭、見ていたよ。楽しそうだったね。俺も混ざりたかったなあ」

「そんなことを話しにわざわざ現れたわけじゃあねえだろう。さっさと本題に入れ」

「ダーレー、ジャイロの言う通りよ。私たちにはもう、あまり時間が残されていないわ」

 ゴドルフィンバルブにうながされ、なんとか地面を──相変わらず足元には境界のない闇が広がっているだけだが──二本の脚で踏みしめて、ダーレーアラビアンはジャイロの目を見つめた。その視線にはやはりいつもの覇気が欠けているように思われたが、これから重大事を伝えようという意思は感じられた。

「ずいぶん遅くなってしまったけれど、君に伝える決心がついたんだ。ジョニィ・ジョースターの身から『悪しきもの』を引きはがす、その方法を」

「そういえば教えてくれるって約束だったな。聞かせてもらおう」

 ジャイロの言葉に反応して、ダーレーアラビアンは力なく握った拳をそれでも力いっぱい握りしめた。その拳をそのまま胸元へ運び、目を閉じて大きく深呼吸をすると、意を決したように再び目を見開いた。

「この俺を……『ダーレーの遺体』を破壊することだ」

「なッ……!」

 予想だにしていなかった言葉に、ジャイロは言葉を失った。うろたえるジャイロの様子を前にして、三女神はただ各々落ち着き払って彼の姿を眺めるだけであった。

「アンタ……自分が何を言ってんのかわかってるのか。『ダーレーの遺体』はアンタの大事な身体だろう。それをぶっ壊すってことはつまり」

「ああ。俺というウマ娘は、この世から完全に消えてなくなる。今こうして夢の中で話せているのも、あの遺体が持つ力のおかげなんだ。遺体がなくなったら、それもかなわなくなるだろうね」

 弱々しい口調でダーレーアラビアンが言う。彼女の元気がないのは、「ダーレーの遺体」をジョニィに奪われたことと無関係ではないだろう。遺体の持つ力でこうしてジャイロの前に姿を現しているというが、その遺体の力がダーレーアラビアン自身の手から離れているということか。

「だいたい、『ダーレーの遺体』をぶっ壊すことが、『悪しきもの』を祓うこととどう関係するってんだ」

「簡単なことだよ。『ダーレーの遺体』こそが、『悪しきもの』の目的……ヴァレンタイン大統領の残留思念が執着する対象だからさ。俺の遺体が存在する限り、『悪しきもの』はそれを手に入れようとしてジョニィの身体にしがみつくだろう。遺体がなくなってしまえば、『悪しきもの』の目的も消滅して、存在ごと消えてなくなってしまうはずさ。『悪しきもの』を完全に消滅させ、ジョニィを解放するにはそれしか手はない」

 まるで他人事のように、つらつらと論を並べるダーレーアラビアン。ここにきてジャイロは、女神という存在がわからなくなっていた。そこまであっさりと、自分の存在そのものともいえる遺体を破壊してしまえるものなのか。

「……もし、だ」

「えっ?」

「もし、本当にアンタの……『ダーレーの遺体』を破壊したら、この世界はどうなる。この世界の住人にどう影響する」

 ジャイロはこの質問をするのが怖かった。今から自分が背負わされる責任の重さを説明させるに等しいからだ。

「どうも影響しない……とはいかないだろうね。この世界のウマ娘たちを救うことも、導くこともできなくなるだろうし、『ダーレーの遺体』を管理していたURAという組織には混乱がもたらされるに違いない。もちろん、こうして君の夢の中に姿を見せることもできなくなる」

「そうまでして……」

 ジャイロは言葉を途切れさせた。そうまでして、「ダーレーの遺体」を破壊せねばならない。ほかならぬダーレーアラビアン本人が、そう言っているのだ。

「逆によォ、遺体をこのまま破壊せずにおいたらどうなる?」

「まず間違いなく『悪しきもの』が遺体を完成させ、その権能を振りかざすことだろうね。遺体は俺たち女神の権能、すなわちウマ娘を導く力の結晶のようなものだ。それが悪しき心の持ち主に渡ってしまえば、どんなことに悪用されるかわからない。よしんば遺体が正しき心の持ち主の手に渡ったとしても、遺体が存在する限り『悪しきもの』はそれに執着し続け、ジョニィの身体を利用して手に入れようとするだろう」

「ほかのふたりの遺体を完成させて、その力で対抗するってのは無しなのか?」

「それは不可能だ。ゴドルフィンバルブとバイアリータークの遺体は、長い年月の中で既に朽ちてしまっている。現存し、今なお力を保っているのはこの俺、ダーレーアラビアンの遺体だけなんだよ」

 聞けば聞くほど、頭が痛くなってくる話だ。ジャイロは思わず頭を抱えた。ここまでの話を総合すると、つまり自分は責任重大ということではないか。

「お前ひとりには荷が勝ちすぎる話だろう。正直に言って、すまないと思っている」

 ジャイロの様子を見かねてか、珍しく優しい言葉をかけてくるバイアリーターク。

「だが、これはお前にしか頼めないことなのだ。三女神を神聖視するこの世界の住人たちには、その遺体を破壊するなど考えもつかないことだろう。この世界を公正な目で俯瞰し、私たちの頼みを聞き入れてくれる者がいるとすれば、それはお前を置いてほかにいないのだ、ジャイロ」

「私からもお願いよ。ダーレーの大事な身体が、『悪しきもの』にもてあそばれている光景は見るに堪えないわ。ジャイロ、このまま『ダーレーの遺体』を巡って悪いことが続くくらいなら、いっそあなたの手で終わらせてちょうだい」

 穏やかな眼差しの中に、きらりと決意の光を灯すゴドルフィンバルブ。残念ながら、三者三様の決意を耳にしてなお首を横に振れるほど、ジャイロは薄情者ではなかった。ただ、あとひとつだけ確かめなくてはならないことがあった。

「ダーレーアラビアン……アンタ、『納得』しているか?」

「えっ?」

「自分の身体をぶっ壊し、この世との繋がりを失ってでも、『悪しきもの』を止める。その結論に、アンタは心の底から『納得』しているのかって聞いてるんだ」

 ジャイロの問いにダーレーアラビアンは小考し、

「……ああ、しているよ。自分の身体ひとつと引き換えにこの愛すべき世界を守れるなら、俺は喜んでそうする。それが『納得』だというなら、俺は間違いなく『納得』していることになるね」

 真っすぐジャイロを見つめてそう言った。

「その言葉を聞きたかった。じゃあ、これでお別れってところか?」

「おそらくはね。万事うまくいけば、君とこうして言葉を交わすのも、これで最後になるだろう。そうなることを願っているよ」

「せいぜいドジを踏まないことだ。失敗したら、ただではおかんからな」

「これでお別れだと思うと寂しいわ。私たちのこと、忘れないでね」

 三女神たちが口々に惜別の言葉を述べる。ジャイロが何か言葉を返そうと口を開いた瞬間、視界はたちまち真っ白く染まり──

「……七回目、か」

 もはや慣れっことなった目覚め。ジャイロはさっさとベッドから起き上がり、起き抜けのイタリアンコーヒーを淹れた。三女神の夢からの目覚めの一杯。それも今回で最後かと思うと、なんだか名残惜しかった。

 

 天皇賞(春)まであと二週間ほどとなったある日の夕方、ジャイロはひとりトレーナー室で頭を抱えていた。ファン感謝祭の日の夜にダーレーアラビアンから聞いた話を、あれからずっと考えていたのだ。

 彼女の話が本当なら、「ダーレーの遺体」を守るだけでは充分ではない。「悪しきもの」の執着心を断ち切るために、完全に破壊しなくてはならないのである。それも、ほかならぬジャイロ自身の手で。「ダーレーの遺体」を神聖視し、畏れ多いものとみなすこの世界の住人には、到底務まらない重責だ。

(参った。ここまで話が大きくなっちまうとは)

 かぶりを振って、ジャイロが嘆息した。ほかの誰にも明かせない、協力も仰げそうにない、ジャイロただひとりで成し遂げなければならないことである。いかに図太い神経の持ち主たるジャイロとて、堪えるものがあった。

 と、そんなことを考えている時であった。トレーナー室のドアをノックする音がした。このノック音はヴァルキリーだな、と思ってジャイロはデスクに向かったまま声を上げた。

「開いてるぜ。入りな」

「失礼します」

 予想通りの人物が入室してきて、ジャイロの対面のソファに座った。ジャイロはそれにも目をくれず、デスクの上のどこか一点をぼんやり見つめて時折頭をかきむしったりしていた。

「トレーナー、どうかしましたか? 難しい顔して」

 そんなジャイロの様子を心配してか、ヴァルキリーが立ちあがって怪訝そうな顔でジャイロの顔を覗き込んでくる。ジャイロはそこでようやくはっとして我に返ると、下から覗き返すような格好でヴァルキリーと顔を合わせた。ひとつ結びの栗色のセミロングヘアが目の前まで垂れ下がってきて、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

「……なんでもねえ。春天に向けたトレーニングプランを練ってただけだ」

「噓ですね。私のために考え事をしてくれてる時は、もっと真剣な顔してますもん。今のトレーナーはどっちかっていうと、上の空っていうか、心ここにあらずって感じでしたから。大方ジョニィさんのことで悩んでたんでしょ。違いますか?」

 これは参った、とジャイロは再び嘆息した。もはやこれ以上ごまかしきれない。「ダーレーの遺体」のことも含めて、ヴァルキリーにだけはすべてを打ち明けてしまおうか。そんな誘惑がジャイロの脳裏をよぎる。それはトレセン学園の真実を知る者として、そして三女神の願いを託された身として、あまりにも不誠実であるように思える誘惑であった。だが、

「トレーナー。答えられないなら答えなくてもいいんですけど、ジョニィさんの狙いについて、何か私たちに教えられないようなことを知ってるんじゃないですか? 仮にそうだったとして、きっと私がそれを知るわけにはいかないんでしょうけど。でも、私の知らないことで思い悩んでるトレーナーの姿は、見ていられないです」

 担当ウマ娘にこうも真剣な眼差しで訴えかけられて、それを突っぱねる気概のあるトレーナーがどれだけいることだろうか。少なくとも、ジャイロはそうではなかった。これは決して自分自身の重責に耐えられなかった結果ではない、担当ウマ娘と信頼関係を強固にしてともに困難に立ち向かうための告白なのだ、とジャイロは自分自身の名誉のために自らにそう言い聞かせた。

「……ヴァルキリー。今から俺が話すことは、くれぐれも他言無用だ。万一他人に漏れるようなことがあれば、俺もアンタも、この学園に居場所はないものと思え」

 念入りに前置きをするジャイロ。ヴァルキリーが生唾を飲み込む音が、静かなトレーナー室に響いた。

「今年の初め……噴水の三女神像が破壊される事件が起きたことは知っているな? 結論から言ってしまえば、アレの犯人はジョニィだ。奴は三女神像を破壊し、その中に隠されていたあるものを回収したんだ」

「三女神像の中に、何か隠されてたんですか?」

「ああ。それこそが『悪しきもの』の目的……俺たちが『ダーレーの遺体』と呼んでいる代物だ」

「ダーレーの……まさか」

 ヴァルキリーが目を丸くする。無理もない。彼女にとってダーレーアラビアンは伝説上の存在なのだ。その遺体が現存するなど、にわかには信じられないことだろう。

「そのまさかだ。ダーレーアラビアンの遺体は太古の昔から朽ちることなく、身体の各部位が分かれた状態で各地に散逸していた。トレセン学園の三女神像に隠されていた遺体は、右腕と左脚以外の部位がすべて揃っている状態だったらしいが、これはURAが長い時を費やしてかき集めた成果なんだそうだ」

「『ダーレーの遺体』の各部位は、どうやって集められたんでしょう。ひょっとして……三冠レース? だからジョニィさんは、三冠レースの優勝トロフィーを狙って……」

「察しがいいな。その通りだ。『ダーレーの遺体』の各部位は、決まってトゥインクル・シリーズの三冠レースの優勝トロフィーの中から出現した。それらを回収してひとつにまとめるのが、URAのもうひとつの目的なんだそうだ。ジョニィの奴はどういうわけかそれを突き止め、菊花賞のカップを狙ってきた。そして今度は、春の天皇賞というわけだ。ジョニィは春天の盾から、残る遺体の右腕と左脚が出てくると確信しているらしい。このままいけば、ジョニィが『ダーレーの遺体』を完成させちまう」

「遺体が完成すると……どうなるんですか」

「未来永劫の繁栄がどうとか言われてるらしいが、確かなことはわからん。だが少なくとも、ジョニィの手に渡っちまったら間違いなく、ろくなことにはならねえだろうな。奴の身体に憑りついてる『悪しきもの』は、俺の元いた世界に存在したゲス野郎の魂だ。そんな奴に『ダーレーの遺体』を渡したら、どんなことになるか」

 ふう、とジャイロはひと呼吸置き、静かに目を閉じて、人差し指でデスクをとんとんと叩いた。そうして彼は思考を整理し、次に話すべき言葉を吟味した。

「さて、重要なのはここからだ。ちゃんと話についてきているか?」

 再び目を見開き、ヴァルキリーを真っすぐ見据えるジャイロ。

「正直、信じられないことだらけでついていけませんけど……『ダーレーの遺体』をジョニィさんに渡しちゃいけない、ってことだけはわかりました」

「結構。だがそれは前提にすぎない。真に重要なのは、『悪しきもの』が二度と『ダーレーの遺体』に執着できねえようにすることだ。そうすれば、『悪しきもの』は自然とジョニィの身体を離れて消滅する……」

「ど……どういう意味ですか」

 困惑するヴァルキリー。ついにこれを告げる時が来たかと、ジャイロは腹をくくった。

「破壊するんだよ……『ダーレーの遺体』をな」

 ジャイロが放った言葉に、ヴァルキリーはみるみる顔を青くしていった。今にも取り乱しそうになっているところを、なんとか持ちこたえている様子だった。

「それは……どうしてもやらなきゃいけないことなんですか」

 震える声でヴァルキリーが問うた。信じられないものを見るような目でジャイロを見ていた。ジャイロの言葉は、ヴァルキリーにとって神を殺すと言っているようなものなのだから、無理もない。

「まあ、受け入れがたい気持ちはわかるぜ。俺の世界にも似たような存在があったが、それをぶっ壊せと言われたら畏れ多くてできやしねえ。アンタたち……この世界の住人にとってのダーレーアラビアンという存在も、同じようなものなんだろう」

「そこまでわかっているなら、どうして」

「そのダーレーアラビアンに頼まれたんだよ。前に話したろ、三女神がたびたび俺の夢枕に立つと。この前、久しぶりにその夢を見てな。奴は自分の身体ひとつで事が丸く収まるなら、喜んで破壊されてやると言っていた。それができるのは、この世界の三女神信仰に染まっていない俺だけだともな」

 黒く燃える炎を宿した瞳で、ジャイロはヴァルキリーの目を覗き込む。これは説明でも、説得でもない。ジョニィを「悪しきもの」から解き放ち、災いを防ぐ役目を三女神から仰せつかったジャイロの決意表明にほかならなかった。

「アンタに手伝えと言うつもりはない。もとより俺ひとりの身に課せられた仕事だ。だが、これを知ってしまった以上、春天の盾から出てくるであろう『ダーレーの遺体』の右腕と左脚の処遇については……俺に任せてもらうほかなくなった。そこだけは覚悟してもらおう」

 ひとしきり話し終えて、ジャイロは改めてヴァルキリーの様子を観察してみた。信じがたい話を矢継ぎ早に告げられた直後だというのに、彼女は思いのほか落ち着いていた。そして、こんなことを言い出した。

「トレーナー……そんなに重い秘密を、これまでたったひとりで背負ってきたんですね」

「背負ってきたつもりはねえが、まあ適当に引きずってきた感じっつーか」

「その使命、私にも背負わせてください。私、絶対に春天を獲って……『ダーレーの遺体』を壊します」

 今度はジャイロが目を丸くする羽目になった。きっぱりと言い切ったヴァルキリーの目には、一切の迷いが見られなかった。

「おいおい、わかってんのか? アンタ自分で自分の神様をぶっ壊すって言ってるんだぜ。この世界の人間に手伝わせるつもりはねえ。そういうつもりで話したわけじゃあねえって言ったろ」

「前に話したじゃないですか。私はトレーナーのこと、家族同然だって思ってます。家族がひとりだけ重い責任を背負っていたら、手伝ってあげるのが当然じゃないですか」

 曇りなき眼で断言するヴァルキリー。ジャイロはついに返す言葉が見つからなくなった。

「それに、今の話が本当だとしたら、『ダーレーの遺体』を壊すことはダーレーアラビアン様本人のご意思なんでしょう? だったら、それに従うことになんの躊躇も必要ないはずです」

 この時ジャイロの心を満たしていたのは、大きな驚きと少しの安堵であった。ダーレーアラビアンを崇拝するウマ娘であるはずのヴァルキリーが、こうもあっさりと手を貸すと言ってくれている、その事実に対する驚き。そして、ともに責任を負ってくれる仲間が登場したことに対する安堵と、そんなことに安堵するほど自分は自分の責任の重さを甘く見積もっていたのだということへの驚き。

「ヴァルキリー……今の言葉、二言はないな?」

「はい、もちろんです」

「最初に言ったように、俺たちは居場所をなくすかもしれない。『ダーレーの遺体』破壊に手を貸したとなれば、URAからお叱りの言葉をいただくだけじゃあ済まないかもしれねえぜ」

「覚悟の上です。行くアテがなくたって、トレーナーと一緒ならどこにだって行けますよ。それを言ったら、『悪しきもの』を倒さなきゃもっと大変なことになるんでしょう? 私だって、今のジョニィさんに振り回されてるスロさんを早く助けたくてしょうがないんです」

「そうかい。そこまで覚悟が決まってんなら、もう何も言わねえ」

 そう言ってジャイロは、デスクに積まれた資料の中から一枚の紙を取り出して広げた。

「なんですか、それ」

「決まってるだろう。京都3200メートル、春天のコース図だ。さしずめ宝の地図だな。このコースのどこかに、ダーレーアラビアンの右腕と左脚が眠ってる。アンタはこのコースを、誰より速く駆けなくてはならない。この世界でただひとり、ダーレーアラビアンの意思を知るウマ娘としてな」

「そう……ですね。私がその使命を背負うって、私の意思で決めたんですもんね。負けられないな」

 コース図を指でなぞりながら、レース展開や作戦について話し始めるジャイロとヴァルキリー。張りつめていた空気はほどけ、その場はたちまちミーティングの場へと変じた。だが、唐突に背負うことになった責任の重みをヴァルキリー自身が本当に理解しているのか、ジャイロとしてはそこだけが気がかりだった。

 

 幾日か経って、春の天皇賞へ向けたトレーニングが本格化してきたある日の夕方。練習終わりにジャイロが事務用品の買い出しに行くと告げたところ、ヴァルキリーが一緒に行きたいと言い出したので、ふたりで商店街を歩いていた。

 道中の桜並木は盛りの頃を過ぎ、青々とした葉桜に姿を変え始めている頃合いだった。ヴァルキリーが言うには、今年の桜の季節は比較的長く続いたほうなのだそうだ。

「ところでトレーナー、今回は何を買いに行くんですか」

「ホワイトボードマーカーと、ステープラーの針だよ。知らずについてきたのか」

「えへ、だって先に買い物の内容を聞いちゃったら、『荷物持ちなら必要ねえぜ』とか言われて置いてかれそうだったんですもん」

「ったく……呆れた奴だ」

 すたすたと文房具屋を目指して歩くジャイロと、その後ろから上機嫌に尻尾をゆらゆらさせてついていくヴァルキリー。買い物の付き添いの何がそんなに楽しいのか知らないが、こんなことで機嫌を取れるのなら安いものだ。

 以前朱肉を買いにきたのと同じ店で、てきぱきと目的の買い物を済ませるジャイロ。せっかく商店街に来たことだし、喫茶店で一服してから帰るかという話になった。足が向くほうに任せて気ままに歩いて選んだ店は、奇しくも以前スローダンサーに招かれて訪れた店であった。

「春天までまだ少し期間がある。甘いものを摂るなら今のうちだぜ。もちろんカロリー記録は取らせてもらうけどな」

 席につくなり、ジャイロがそう切り出した。するとヴァルキリーはたちまち目を輝かせ、

「やった! じゃあこの、デラックスはちみーパルフェ濃いめ多めレモントッピングで!」

 メニュー表の一点を指差し、声を弾ませた。彼女が指差したところには、容器の上にそびえ立つソフトクリームにハチミツらしきものがかけられた、いかにも甘ったるそうな食べ物の写真。

「オメー……甘いものでも許すとは言ったが、それを平らげちまったら向こう一週間はもやし炒めで生活する羽目になるぜ」

「ええっ!? そんなご無体な……でも頼んじゃう」

「あ、俺はエスプレッソで頼む」

 なんだかんだ言いながら、結局そのデラックスはちみーなんとやらを注文したヴァルキリー。注文の品が到着するまで、ふたりはレース談義に花を咲かせ、いつしか話題は大阪杯のことに移り変わっていった。

「そういえばヴァルキリー、アンタにも聞きたいと思っていた。ジョニィが使う得体の知れないスタンド能力……キタサンたちはその恐怖に脚がすくんだと言っていた。アンタは恐れていないのか」

「怖くないわけないですよ。今でも時々、私の脚元から爪の弾丸が飛び出してきて命を狙われるんじゃないかって、考えちゃいますもん。それでも私が恐れずに大阪杯を走り切ることができたのは、トレーナーのおかげですよ」

 やがて注文の品が届く。目の前に置かれた、顔ほどの大きさもあるパフェにスプーンを伸ばしながら、ヴァルキリーが話を続けた。

「トレーナーは、ジョニィさんのことを誰よりもよく知っている。ジョニィさんのスタンド能力から身を守る術も知っている。そのトレーナーが大丈夫だと言うなら、きっと大丈夫。そう信じてるから、私は大阪杯を全力で走り切ることができたし、今こうしてはちみーパルフェをつつくこともできてるってわけです」

「ふうん……そういうものかい」

「そういうものだ、ジャイロ殿。ヴァルキリーにとって、お前の存在は何よりも大きい」

 不意に、ジャイロでもヴァルキリーでもない声がした。声の主はすぐにわかった。いつの間に現れたのか、喫茶店の通路にエアグルーヴが立っている。その後ろにはドゥラメンテの姿も見える。

「デラックスはちみーパルフェなどに挑んでいる者がいるものだから、誰かと思えば。相席いいだろうか」

「構わないわよ。どうぞ」

 ジャイロが口を挟むより早く、さっさとふたりを席に招いてしまうヴァルキリー。もっとも拒む理由などないのだが。ジャイロの隣にエアグルーヴが、ヴァルキリーの隣にはドゥラメンテが座る格好となった。

「アイスコーヒーをいただこう。ドゥラはどうする」

「グル姉と同じもので構わない」

「ふたりとも奇遇ね。商店街に何か用事?」

 はちみーパルフェに伸ばす手を止めることなく質問を飛ばすヴァルキリー。

「グル姉が世話をしている花壇に、新しく花を植えたいとのことでな。種を買いにきた。私はその付き添いだ。久しぶりに商店街を歩いてみたい気分だった」

 巨大なはちみーパルフェを横目に、いつもの仏頂面を崩すことなくドゥラメンテが答えた。と思ったのも束の間、みるみるうちに渋い表情に変わっていくドゥラメンテ。

「ヴァルキリー。まずは君に、謝らなくてはならないな」

「えっ、なんで?」

 スプーンをくわえたまま、素っ頓狂な声を上げて手を止めるヴァルキリー。ドゥラメンテの言いたいことにジャイロは見当がついていたが、ひとまず本人の言葉を待つことにした。

「大阪杯のことだ。ジョニィ殿を恐れて、私は出走に踏み切ることができなかった。あの日私は、出走したなら絶対に勝つ自信がある、というようなことを言ってしまったが、大阪杯での君の走りを──何物も恐れず、ただ真っすぐに走る君の姿を目にして考えを改めた。ジョニィ殿の恐怖に屈した私が仮に出走していたとして、あの日の君に勝てるはずがなかった」

「そんなこと……やってみないとわからないわよ」

「いや、ドゥラの言うことは正しい」

 エアグルーヴがヴァルキリーの言葉を遮り、自分自身を指で差し示した。

「現に今、ジョニィ殿への恐怖が原因で敗北を喫したウマ娘が……ここにいるだろう」

「それは……」

「キタサンから聞いていると思うが、私もダイヤも、そして出走自体を回避したドゥラも、皆同じようにジョニィ殿への恐怖に屈した。何も知らないほかのウマ娘たちはともかく、事情を知ってなお恐れを抱くことなく走り切ったのは、お前だけなんだ、ヴァルキリー。私たちは誰ひとりとして、お前と心の底から真剣にレースをしていなかった。大阪杯の優勝カップは本来、もっと公正な形で、お前の手に渡るべきだった。私たちの心の弱さが、それを不可能にしてしまったんだ。私もドゥラも、そしてキタサンとダイヤも、それをお前に謝りたいんだ」

 沈痛な面持ちで、顔を伏して沈黙するエアグルーヴ。いたたまれなくなって、ジャイロはやにわにマドラーでパフェをすくって口に運んだ。

「あっ、ちょっと!」

 ヴァルキリーから抗議の声が飛んできたが、耳を貸すことなくジャイロが口を開く。

「確かに、誰かさんのせいで大阪杯の勝利は歪んだものとなった。仮にその誰かさんがいなかったとしても、勝つのはうちのヴァルキリーだったに違いないが、全力で競った先にある栄光にこそ価値がある、っていうアンタたちの言い分はよく理解できる」

 マドラーでまたひと口パフェをすくって舐めてから、ジャイロは続けた。

「だけどよォ、アンタたちちょっと卑屈すぎるんじゃあねえの。結局のところ、悪いのは全部ジョニィじゃあねえか。自分の命を守りながら、必死でレースに挑んでいるだけのアンタたちがどうして謝る必要がある? むしろ俺たちが感謝しなけりゃいけない立場だ。こんな状況の中、よくぞヴァルキリーと競ってくれた、ってな」

「ジャイロ殿……」

 言葉を失ったエアグルーヴが、運ばれてきたアイスコーヒーにも手をつけずうつむいている。ドゥラメンテもまた同じような様子だったが、見かねたヴァルキリーがはちみーパルフェの器をドゥラメンテのほうへ差し出してこう言った。

「食べる? 気分が沈んだ時には、甘いものが一番よ」

 ドゥラメンテはしばし目をぱちくりさせていたが、やがて遠慮がちに自分のマドラーをパフェに伸ばしてひとすくい取り、口に運んだ。すると彼女の頬に、少し赤みが差した。

「……美味いな」

 真一文字に結んでいた口を少しだけほころばせて、ドゥラメンテが言った。ヴァルキリーは器をテーブルの中央に寄せる。

「ほら、エアグルーヴさんも」

「……いただこう」

 エアグルーヴもマドラーでパフェをひとすくい。口に含んだ瞬間、彼女の表情に張り付いていた緊張がほどけていくのがわかった。それを見届けると、ヴァルキリーは優しく口角を上げた。

「ジョニィさんのことは誰も悪くないし、私のトレーナーがなんとかしてくれる。だから私たちは安心して、スイーツ食べたりレースで競ったりすればいいのよ。そうでしょ?」

「……ああ。確かにお前の言う通りだ。私としたことが、少し弱気になりすぎていたようだな」

 エアグルーヴはそう言うと、少し氷が溶けかけたアイスコーヒーを口に含んで、ふうっとひと息ついた。その表情には、先ほどまでの暗く沈痛な雰囲気は見られなかった。

「しかしヴァルキリーは、いいトレーナーを持ったな。君をここまで勇気づけてくれて、こんな大きいスイーツまでおごってくれるとは」

「……何?」

 ドゥラメンテがこぼしたひと言に、思わず目が点になるジャイロ。

「おい、俺はこんなものおごってやると言った覚えは……」

 慌てて否定しようとするが、気付けばヴァルキリーが期待に満ちた眼差しでこちらを見つめていた。普段なら自分の財布で払えと一蹴するだけだが、エアグルーヴとドゥラメンテの前ではそれも言い出しにくいではないか。

「ええと……すまない、私は何か余計なことを言っただろうか」

「いや……構わねえ。アンタたちのぶんもまとめて俺のおごりにしてやるよ」

「やったあ! さすがトレーナー、太っ腹!」

 わざとらしくはしゃいでみせるヴァルキリー。完全にドゥラメンテをダシにしてただ飯を食った分際で……とジャイロは密かに毒づいた。

(まあ……ジョニィと戦うにあたって、こいつらの力は必要になるだろう。士気を上げるための必要経費ってことにするか)

 財布の中の紙幣を指折り数えながら、ジャイロはそう自分に言い聞かせた。見るからに上機嫌ではしゃぎ出すウマ娘たちを前に、今更金がもったいないなどとは言えない。この世界の大人はこんな苦労も味わっているのだな、とジャイロは期せずしてこの世界の住人への理解を深め、そして同情した。

 春の天皇賞まであと二週間と少し、商店街のとある喫茶店での一幕であった。

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