ジャイロが控室で次走の観戦についてあれこれ話しているのと時を同じくして、また別の控室ではとある青年とウマ娘との会話が繰り広げられていた。
「──というわけだ。第三コーナーまでは中団に位置取って、最終コーナー付近から仕掛け始めてくれ。君に対するマークは厳しいと思うが、それでも君ならきっと勝てる」
「わかったわ、トレーナーさん。要するに、いつもと同じ作戦ってことねぇ。わたくしはそういう、ゆっくりした走り方は得意なほうだから、きっと今回も問題ないわよぉ」
溌溂と響く青年の言葉と対照的に、レース直前とは思えないほど穏やかでのんびりと構えるウマ娘。見る人が見ればなんて呑気なものだろうかと思うだろうが、これが彼らにとっての平常心、彼らのベストコンディションなのだ。
「しかしスローダンサー、さっきのレースは見ていたかい? 一着の子、すごかったね」
「ええ。逃げの作戦を打つウマ娘で、普通あれだけ直線勝負に脚を残せる子はいないわ。ヴァルちゃん……あの子には何か、特別な力が宿っているのかもしれないわねぇ」
スローダンサーと呼ばれたそのウマ娘は、ウェーブがかった芦毛の髪をゆらゆらと揺らしながら答えた。この一連の呑気な仕草が、彼女のクセなのだ。青年は特に気に留める様子もなく続ける。
「そのことなんだけどさ。ヴァルキリーに力を与えたものの正体、僕は既に見当がついている……」
「まあ。さすがはトレーナーさんですわね」
「確証があるわけじゃあない。ただ、あの『技術』を扱える人間を、僕は自分自身のほかにたったひとりしか知らないんだ」
「もしかして、『黄金の回転』のことを言っているの? このわたくしの走りを大きく成長させてくれた、トレーナーさん直伝の技術。それが、ヴァルちゃんの脚にも宿っていると?」
黄金の回転。スローダンサーが何気なく発したその言葉に、青年の指がぴくりと反応した。
「そうだ。話したことなかったっけ。この技術はそもそも、僕自身で編み出したものじゃあない。教えてくれた人がいるんだ。そして、その技術とまったく同じものを今ここで目にした──」
「トレーナーさんのお師匠さんが、このレース場にいらしているの?」
青年は黙してかぶりを振った。わからないと言いたいのか、そうであってほしいと言いたいのか彼自身にもわからなかった。ただ少なくとも、会いたいと思っていることは事実だ。この世界にやってきてから今まで、ふたりが出会わなかったのは単なる偶然か、それとも運命のいたずらだろうか。
「もうすぐゲートインだ。そろそろ行くといい。僕も観客席から応援するよ」
青年はそううながし、一足先にスローダンサーを退室させる。少し間をおいて、
「ジャイロ……そこにいるのかい?」
窓の外のある一点を見つめながら、青年が小さくつぶやいた。
次走はこの日のメインレース。重賞でこそないが、力のあるウマ娘たちがこぞってしのぎを削る場である。そんな場に、かつての相棒の愛馬が──正確にはそれと同じ名前のウマ娘だが──出走するとなれば、ジャイロの興味を惹くことは必然であった。
「トレーナー。観戦するのは全然構わないんですが、そのこだわりようはいったい」
ヴァルキリーの問いにジャイロは沈黙で返した。ただ観客席から真っすぐにターフへ鋭い視線を投げかけている。今からあのターフ上で起こるすべてのことを、見逃したくないがゆえだった。
「七番スローダンサー、一番人気です」
「とても落ち着いていて、いい雰囲気ですねえ」
ジャイロご執心のスローダンサーがパドックで名前を読み上げられる。ウェーブがかった芦毛のショートヘアをたおやかに揺らすその様は、確かに余裕ともとれる威厳を感じさせた。
「あっ、スロさんだわ」
ヴァルキリーが素っ頓狂な声を上げた。ジャイロは思わず肩で反応する。
「知り合いか?」
「知り合いというか……普通に私のルームメイトっていうだけですけど」
「ルームメイトだと!? オメーなんでそれをもっと早く言わなかった!」
「だ、だって最近まで地方のレースを巡ってて、全然会えてなかったんですよ!? 私だってまさか、こんなところで会えるなんて思っていませんでしたよ」
「ヴァルキリーちゃんのデビュー当日に、ルームメイトの子も出走するってこと? すごい偶然だね……!」
偶然。キタサンブラックが何気なく発したその言葉に、ジャイロはなんとなく引っかかりを覚えた。彼が今目にしているのが、本当にあのスローダンサーだとしたら、「相棒」のほうもきっとこのレース場のどこかにいる。ジャイロが彼と出会う機会はこれまで幾度もあったに違いないだろうに、それが今日という日まで先延ばしにされてきたことには、単なる偶然では片付けられない、何か大きな運命のうねりを感じずにはいられなかった。
そうこうしているうちにファンファーレが鳴り響き、各ウマ娘がゲートインを完了させていよいよ出走の準備が整っていく。そして、
「スタート! 各ウマ娘、横一線に綺麗なスタートです!」
レースが始まってすぐに気付く。スローダンサーの脚に宿っているものの正体に。
「黄金の回転だと!? 馬鹿なッ!」
そう、スローダンサーは並みいるライバルたちの中でも最も美しく、均整のとれた黄金長方形のフォームで走行しているのである。ジャイロの疑念と期待は、次第に確信と歓喜へと変わっていった。あのウマ娘に黄金の回転を教えた人物が、この世界に必ず存在する。
レースは粛々と進んでいく。スローダンサーは中団五番手に位置取っている。中盤は脚をため、スパートからの最終直線で勝負をかける作戦なのだろう。
「先頭を行きますリボンカプリチオ、少し離れてエレガンジェネラル! 一番人気のスローダンサー、現在五番手につけております!」
一番人気ということもあってマークは厳しいと思われるが、それでもスローダンサーは冷静にレースを運んでいるようだ。黄金の回転による走りも乱れる様子がない。ジャイロの見立てでは、この調子で走ればラストスパートで彼女に競り勝てるウマ娘は存在しないだろう。そして──
「最終コーナーを抜けて直線へ向かう! ここで仕掛けたスローダンサー! エレガンジェネラル粘る! 抜けた抜けた、スローダンサー完全に抜け出した! ぐんぐんと突き放していく! そのまま一着でゴールイン!」
スローダンサーの走りを見届けるや否や、ジャイロはいてもたってもいられなくなり、やにわに席を立った。確かめるなら今しかない。
「ちょっと、どこ行くんですかトレーナー!」
「決まってる、地下バ道だ!」
「スローダンサーちゃんに会いに行くんですか? あたしたちも行きます!」
ヴァルキリーとキタサンブラックを引き連れて地下バ道を進むジャイロ。ややあって、正面からコツ、コツと乾いた足音がふたりぶん響いてきた。足音の主はジャイロたちの前で立ち止まり、特に驚く様子もなく話しかけてきた。
「やっぱり……君だったんだね。会いたかったよ、ジャイロ」
「……ジョニィ」
ジャイロにとって見慣れた顔が、とてもひと言で言い表せない関係がそこにはあった。ふたりの男が静かに視線を交差させる。ジョニィと呼ばれた青年は、ジャイロとその後ろのウマ娘たちをためつすがめつ眺めながら、
「君は確か、キタサンブラックだったね。活躍は聞いてる」
「本当ですか! えへへ、嬉しいです」
「そして、君がヴァルキリー。ジャイロの薫陶を受けた、黄金の回転の走り手」
「えっ……あなたも黄金の回転のことを?」
「ジョニィ、こいつらは黄金の回転を知ってまだ日が浅い。ちゃんと自己紹介してやれ」
万感の思いを抑え込みながらジャイロがそううながすと、ジョニィはきりっと姿勢を正して三人を真っすぐ見つめた。
「ああ、すまない。改めて、トレセン学園のトレーナー、ジョニィ・ジョースターだ。スローダンサーの専属トレーナーを担当している。ジャイロとは……まあ、ちょっとした知り合いだよ」
「スローダンサーよぉ。わたくしのことはヴァルちゃんが詳しいと思うから、詳細はそちらをご確認くださいねぇ」
「ちょっとスロさん、それはないでしょ……」
のんびりとしたスローダンサーにヴァルキリーのツッコミが突き刺さる。
「あの、ひとついいですか」
そう切り出したのはキタサンブラックだ。
「ジャイロさんはほんの数か月前に、この世界にやってきたって聞きました。でも、ジョニィさんの口ぶりを聞くに、おふたりは以前からお知り合いだったみたいというか……」
「それについては、少し整理しながら話そう。僕はジャイロと同じ世界から、ジャイロよりもさらに数か月早く、このウマ娘の世界にやってきたんだ。アレはちょうど綿雪が降りしきる冬真っただ中のことだった。三女神像の前で倒れていた僕は、目を醒ますなり自分が生きていることに驚いた。不審者としてつまみ出されるわけにもいかず、どうしようか悩んでいたところに理事長の取り計らい、というか成り行きでトレーナーをやることになったんだ」
ジャイロがトレーナーをやることになった経緯とほとんど同じだ。一同はジョニィの言葉にしんと耳を傾ける。
「そこで奇妙な噂を耳にしたよ。この世界のウマ娘たちは、他の世界のまったく違う生き物の魂を受け継いでいる、なんて与太話をね。僕はその話を聞いて、おそらく僕たちの世界の馬のことを言っているのだろうと思った」
「馬の魂をウマ娘が継いでいるだと? そんな話は初耳だぜ」
「あくまで噂だと言っただろう。だけど僕は、その馬鹿馬鹿しい噂をどうしても確かめたくなった。僕がこうしてこの世界に来ているのなら、かつての愛馬……スローダンサーの魂を持つウマ娘がいてもおかしくはないと。そうしてこのトレセン学園を探し回って、ついに僕はかつての愛馬を探し当て、今こうして担当しているわけ」
「愛バだなんて……恥ずかしいわ、トレーナーさん」
頬をリンゴのように染めつつ、まんざらでもなさそうな顔をするスローダンサー。仮にジョニィの話が本当だとすれば、ジャイロとヴァルキリーの出会いも──
「ジャイロ、君の考えていることはわかるよ。君とヴァルキリーが出会ったことも、黄金の回転を伝授することになったことも、そして今日こうして僕たちが再会したことも……すべては何か大きな力、運命とでも呼ぶべきものなのかもしれない」
「運命、ねえ。俺はいまいちその言葉が好きになれねえ。自分を納得させて生きてきた人生が、実は何か得体の知れないものに決めつけられていただと? 受け入れられるか、そんなこと」
「ふふっ、君はそういう奴だったね。立ち話が長くなった。僕たちはそろそろ行くよ」
三人に軽く会釈をして、その場を去ろうとするジョニィとスローダンサー。ジャイロははっとして、ジョニィに慌てて質問を投げかけた。
「おい待てジョニィ、最後にひとつ聞かせろ。奴は……ヴァレンタイン大統領はどうなった?」
ジャイロの声にジョニィは振り返ることなく、
「心配しないでくれ。大統領は死んだよ。元の世界で僕は……ジャイロ、君より多少長生きしたんだ」
そう言った。
「あたしはここまでで大丈夫です。おふたりとも、気を付けて帰ってくださいね」
レース場を後にしたジャイロたちは、最寄り駅の前でキタサンブラックと別れの挨拶を交わす。彼女の色白な肌は、燃える西日を受けてほのかに赤く染まっていた。
「キタサン、今日は色々とありがとう。ううん、今日だけではないわね。あなたがいなければ、今日の私はなかった」
「あはは、大袈裟だよヴァルキリーちゃん。でも、明日からまたライバルだからね!」
「なあキタサン、そのことなんだが」
ウマ娘にとって普通のことでも、ジャイロにとってはそうではない。彼にはどうしても、キタサンブラックに確かめたいことがあった。
「アンタ、今年からデビューしたって言ったよな。つまり、うちのヴァルキリーとはライバル同士ってわけだ。そんなウマ娘同士でなぜそんなに仲良くできる?」
真っ当に考えれば、ライバルが弱くて困ることなどない。それだけ自分が楽に勝ち上がれるからだ。しかしキタサンブラックの言動を見ていると、まるで──
「あたし、ライバルは強いほうがいいって思ってるんです。ライバルと一緒に強くなりたいんです。そのほうがきっと、レースを見る人みんなが楽しんでくれますし、何より楽しいですから!」
やはりそうだ。彼女はライバルが強いほど燃えるタイプ。なぜそこまでライバルにこだわるのかと問うてみると、続けてこんな答えが返ってきた。
「あたし、幼馴染がいるんです。一緒にトレセン学園に入って、一緒にデビューしようって約束してて。でも、その子はまだ身体が本格化を迎えていなくて、今年中のデビューは絶望的だって……すっごく落ち込みました。だから、その代わりってわけじゃありませんけど、ヴァルキリーちゃんが新しくライバルになってくれて、あたし嬉しかったんです」
「その幼馴染とやらの本格化を待っていられないから、代わりにヴァルキリーと競ってやろうってか?」
「そんなんじゃありません。ダイヤちゃ……あたしの幼馴染と一緒に走る夢は今でも諦めてないですし、それとこれとは話が別です。いつか幼馴染の子と一緒に走れることになった時、がっかりさせたくないですから、今はヴァルキリーちゃんのライバルとして精いっぱい頑張りたいって思ってるんです」
「……なるほど、アンタの言いたいことはわかった。野暮なこと聞いて悪かったな」
あえて少し意地悪な質問をしたつもりだったが、思いのほか真っすぐな答えが返ってきて、ジャイロは図らずしてキタサンブラックというウマ娘の芯の強さを思い知ることとなった。勝利のためなら非合法的手段を辞さないSBRレースの世界がいまだ目に焼き付いているジャイロにとっては、新鮮な感覚だった。
「トレーナー、名残惜しいですがそろそろ行きましょう。遅くなってしまいます」
「ふたりとも、お気を付けて! スローダンサーちゃんにも、よろしく伝えておいてくださいね」
「承知した。行くぞ、ヴァルキリー」
「あの、トレーナー……そっちの電車じゃありません」
「あはは……道に迷わないように気を付けてくださいね」
キタサンブラックに見送られ、不慣れな道をヴァルキリーに手を引かれてよろよろと歩きながら、ジャイロは帰途につく。今日一日、いろんなことがありすぎて彼は実際くたびれていた。早く休まねば身体に響く──そうわかっていながらも、やり残してきた書類仕事が頭の片隅にわだかまっているのであった。
「まずは、おめでとう……と言っておくべきか」
ジャイロの頭に低く不思議な声が響く。ああ、これはいつぞやの妙な夢の続きだなと、すぐに理解した。
一面真っ暗闇の空間に、前方から白い光が差し込んできている。その光の中に立つウマ娘がひとり。つり上がった目元、その左目に傷を持つ、褐色髪のウマ娘だ。
「また会ったな……とでも挨拶しとけばいいか?」
ジャイロがそう声をかけると、相手は少し驚いた様子で、
「ほう、この私を覚えていてくれたか」
と返してきた。勝手に人の夢の中に出てきておいて、いやに謙虚ぶった野郎だ──ジャイロは心の中でそっと毒づいた。
「改めて自己紹介しよう。三女神が一柱、名をバイアリーターク。ジャイロ・ツェペリよ、お前の奮闘しかと見届けた」
「見てやがったってのか? 女神様ってのはいいご趣味をしてらっしゃるんだなァ」
「もちろん見ていたとも。お前が『黄金の回転』なる未知の技術でもって、ひとりのウマ娘を見事デビュー戦勝利へと導いた、その道程をな」
嫌味に気付いていないのか気にかけていないのか、バイアリータークと名乗ったウマ娘は顔色ひとつ変えることなく返した。その鋭い目つきと堂々とした立ち振る舞いは、まるでこちらの心の奥まで見透かさんとしているかのようで寒気がする。
「そうかい、それは光栄だな。俺も鼻が高いぜ、女神様のお眼鏡にかなうトレーナー稼業ができてるってんならよォ」
「慢心するな。まだお前の運命は定まっていない」
ぴしゃりと叩きつけるようにバイアリータークが言った。そのあまりの気迫に、思わずジャイロは後ずさりする。
(……後ずさり? この俺がか? こんな小娘より数段恐ろしい連中をSBRレースでぶっ飛ばしてきたこの俺が、小娘ひとりに何をびびることがあるってんだ)
思索にふけるジャイロに構わず、バイアリータークが続ける。
「近いうちに、お前とその周りの者の運命を決定づける出来事が訪れるだろう。その時、お前は真実に近づけるかもしれない。己自身の運命を知るチャンスに、一歩近づくことができるかもしれない」
「まるでテメー自身は全部知ってますみたいな口ぶりだな。もったいつけてねえで教えやがれ。俺はこの先どうすりゃいいのかってことをよ」
「それはできない。それではお前自身が運命にたどり着いたことにならないし、そもそもお前が考えているほど、私たちも全知全能ではない。お前が納得する答えを提供してはやれない」
「あくまで肝心なところは、だんまりを決め込むってわけか。むかつく野郎だぜ、運命がどうのこうのとふざけたことをぬかしながら、肝心かなめの話はお口チャックときたもんだ」
「お前はそんなに知りたいのか。自分の運命というものを」
「違うね。運命なんてもんにすがらなくても、俺は『納得』した答えを見つけてみせるっつってんだ。わかったらどっか行け。でないと……痛い目を見るぜッ!」
腰のホルスターに素早く手をかけ、バイアリータークめがけて鉄球を投げ放つジャイロ。傷つける意図はなく、少し脅かしてやるだけのつもりだった。この鉄球には回転がかけてある。もし命中しても、肌の上をするりと滑って終わる。そのはずだった。
だが、バイアリータークは鉄球を避けようともせず、驚いた様子すら少しも見せなかった。鉄球がバイアリータークの脇腹をかすめると、次の瞬間、彼女の姿は煙のようにゆらめいて消えてしまった。
「なっ……!」
狼狽するジャイロの頭上から、バイアリータークの声が響く。
「ジャイロ・ツェペリ。未知の運命を前に戸惑う気持ちは理解できる。今はまだ、それでよい。だが、いずれお前は知ることになる。己の存在意義を。この世界に求められた己の役目を──」
声の残響が去っていき、前方の光もだんだんと失われていき──気付けばジャイロはベッドの上で、いつものトレーナー寮の天井を眺めていた。
「クソッ、またあの妙な夢か……」
夢というには妙に現実感がありすぎるが──さっきまで喉を震わせ会話をしていた感覚や、鉄球を手に持ち投げ放った感触が残っているが──とにかくジャイロは、これまでの光景を夢だと結論付けた。そして、この煩悶とした気分をさっぱりさせようと、日課のイタリアンコーヒーを淹れ始めるのだった。
起き抜けのコーヒーで目を醒ましたジャイロは、今日も今日とてトレーナー業の執務とヴァルキリーのトレーニングにいそしんでいた。
しかし、この日はひとつだけいつもと違うことがある。ヴァルキリーがメイクデビューを制した今、次に目標とするレースを定めなくてはならなかった。ジャイロとしては彼女の持久力を活かして、いわゆるクラシック路線に進ませるのが妥当だと考えているが、本人がなんと言うか。
「トレーナー、お疲れ様です」
そんな考え事をしていると、練習場にヴァルキリーがひょっこり顔を出してきた。
「ちょうどいいところに来たな。話がある……アンタ自身についてのことだ」
「そんな遠回しな言い方しなくても、普通に『次の目標レースを決めたい』って言ってくれればいいんですよ」
こんな軽妙なやり取りも、ふたりの間ではすっかりおなじみだ。
「結論から言うぜ。アンタの適性ならクラシック路線を狙うべきだ。そのために中距離のレースをひとつ勝って弾みをつけたいところだが、デビューが遅かったこともあって、年末のGⅠホープフルステークスに間に合わせられるかは微妙と言わざるをえない」
「となると……狙うのは弥生賞ですか」
「察しがいいな。それとも俺の考えを読んでいやがるのか?」
軽口を叩くジャイロ。事実、クラシック三冠緒戦の皐月賞、その前哨戦としてGⅡ弥生賞が選ばれることは多い。その辺りのことはヴァルキリーも詳しいだろう。
「少し間は空きますが……私は異存ありません」
「決まりだな。となりゃ、この秋冬はみっちりとトレーニングに……うん?」
こちらへ駆け寄ってくる人影を認めて、ジャイロは言葉を自らさえぎった。よく見るとそれは鹿毛のウマ娘であった。
「あの……突然すみません。あなたがジャイロ・ツェペリトレーナーで間違いありませんか?」
ジャイロのそばに着くなり、鹿毛のウマ娘は出し抜けに問うてきた。そこはかとない儚げな雰囲気と、育ちの良さを感じさせる上品さを感じさせる子だった。
「あいにく俺は、知らない奴にはまず自分から名乗らせる流儀でね」
そんな流儀は持ち合わせていない。完全なる口からのでまかせだった。だが、ジャイロの意地の悪い問答に少しも怯むことなく鹿毛のウマ娘は続けた。
「申し遅れました。私、サトノダイヤモンドと申します。キタちゃ……キタサンブラックちゃんから、ジャイロさんのお話を聞いて。やっとお会いできました」
サトノダイヤモンドと名乗ったウマ娘は、うやうやしくその場で一礼してみせると、やにわにジャイロの目をきっと覗き込んで、
「お願いがあります。私に、黄金の回転を伝授してください」
決意のみなぎった目でそう言い放った。しばし沈黙がその場を支配する。ジャイロは難しい顔をしたまま、ただサトノダイヤモンドをにらみつけていた。
「あなた……黄金の回転が目当てなの?」
最初に沈黙を破ったのはヴァルキリーだ。困惑を隠しきれない様子で、恐る恐るサトノダイヤモンドに話しかけている。
「ええと、ダイヤさんって呼んでいいかしら。知ってるかもだけど、私はヴァルキリーよ。キタサンからなんて聞かされたか知らないけれど、黄金の回転は一朝一夕に習得できるものではないわ。そんなものを覚えて、どうするつもり?」
自分が聞きたかったことを代わりにヴァルキリーが全部言ってくれて、ジャイロは内心手間が省けたと喜んだ。
サトノダイヤモンドは少しうつむきがちに、しばしの沈黙の後に返答をひねり出す。
「私、キタちゃんと約束しました。一緒にトレセン学園に入って、一緒にデビューして、一緒にたくさん走ろうね……って。けれど、私の身体はまだ本格化に入っていなくて。このままじゃ、キタちゃんの期待を裏切ってしまうような気がして」
キタサンブラックが以前言っていたことを、ジャイロは思い出していた。一緒に走りたいと言っていた幼馴染というのは、おそらくこのサトノダイヤモンドのことだろう。
「ですからどうかお願いです。黄金の回転というのを、私にも教えてください。そうしたらきっと、私にも本格化の兆しが見えて、キタちゃんと一緒に走る夢が──」
「お断りだ」
「──えっ?」
ジャイロが放った言葉の冷たさに、サトノダイヤモンドの表情は凍りついた。
「ダイヤとかいったか。俺はアンタに黄金の回転を教える義理はないし、その意味もない。理由はふたつ。俺はアンタのトレーナーじゃあない、よってアンタの面倒を見る理由はない。それから、アンタは黄金の回転のことを誤解している。アレは無限のエネルギーを得る技術ではあるが、不可能をなんでも可能に変える奇跡の魔法なんかじゃあねえ。アンタが言っているのは、赤ん坊を一瞬で大人に成長させてくれと言っているようなものなんだぜ」
「そう……ですよね。ごめんなさい、私の考えが甘かったみたいです」
すっかりしょぼくれてしまったサトノダイヤモンドの肩に手をやり、ジャイロはしかと視線を合わせる。
「ダイヤよ、そう気を落とすこたァねえ。アンタはアンタのペースで走るこった。それと、この学園内にもうひとり、ジョニなんとかっていうトレーナーが黄金の回転を知っているらしい。アンタがそのトレーナーと偶然鉢合わせて、偶然黄金の回転を教えてもらい、偶然本格化を迎えたとしても……それは俺には関係のないことだ」
「ジャイロさん……」
「話は終わりだ。俺たちはそろそろトレーニングに戻らせてもらうぜ」
「はい、色々とありがとうございました」
ぱっと嬉しそうに頬に赤みがさすサトノダイヤモンド。深々とお辞儀をして、そのままぱたぱたとどこかへ走り去っていった。
ふと、脇腹を小突く感触に気付く。ヴァルキリーの仕業だ。
「ふふふ。トレーナーも存外お人よしですね」
「なんのことだ? いいからさっさとトレーニングの準備をしろ」
そう、ジョニィと違って自分はお人よしではない。自分の生き方を通せれば、他人がどうなろうと構わないはずなのだ。しかしこのウマ娘の世界で生きていると、どうもそういった毒気が抜かれていくような気がしてならない──それもまた確かであった。
そんなことがあってから一週間ほど後、キタサンブラックが大慌てでジャイロのもとを訪れた。なんでも、とあるトレーナーに伝授された黄金の回転のおかげで幼馴染の本格化が早まり、一緒にデビューする夢が叶ったとのことだった。大喜びで感謝を述べるキタサンブラックだったが、ジャイロにとっては「なんの関係もない」ことだった。
すっかり秋めいて、肌寒いからっ風が吹く季節になった頃。ジャイロとヴァルキリーは久しぶりのオフということで、都内の観光名所へ紅葉狩りに出かけていた。
経緯は二日前にさかのぼる。その日のトレーニングを終えて、さあ解散だという頃合いになってヴァルキリーがこんなことを言い出した。
「そういえば今度の週末、私はオフの予定ですよね。トレーナーもお疲れでしょうし、たまにはふたりで出かけませんか」
それを聞いたジャイロは首を傾げた。自分が疲れていると、なぜ担当ウマ娘と出かけることになるのだろう。
「労わってるつもりか? 俺はこう見えても忙しいっての」
「そんなこと言って、最初の頃よりお仕事の要領も良くなって余裕ができているの、わかっているんですからね。つまり、私と一日お出かけする余裕くらいはあると見ました」
「それは否定しねえがよォ、俺にとって一日アンタの子守りをすることになんのメリットがある? アンタだって、自分の時間を大切にすべきだ。そのためのオフなんだからよ」
「わかってないですねえ。お出かけというのは、トレーナーと担当ウマ娘の結束力を高める重要な行事なんですよ。私たちは今まで、それをおろそかにしすぎていました。今こそお出かけという儀式を通じて、私たちの絆をより堅固なものとしようではありませんか」
ぐっと胸の前で握り拳を作って、力説するヴァルキリー。普段は物静かで理知的な彼女にこんな一面があったとは意外だった。そのままあれよあれよと勢いのままに説得され、気が付けばこうして風光明媚な観光名所へとふたり仲良く足を運んでいるというわけである。
「わあ……! 見てくださいトレーナー、紅葉が燃えるように真っ赤です!」
目をきらきらさせ、興奮で頬を赤らめながらジャイロの顔と紅葉とを交互に見やるヴァルキリー。そういえば彼女は友達が少ないようだったから、こうして誰かと遊びに出かけるという経験も少ないのだろうか──などとジャイロは邪推しながら、ああ黄色い部分も綺麗だぞとか、俺の故郷も負けていないぞなどと相槌を打ってやった。
実際のところ、ジャイロの目から見ても観光名所となるのも納得がいくほど、眼前の風景は美しかった。彼らが立っているのはとある湖畔に設えられた公園で、紅葉の激しい色彩が水面に映って、視界いっぱいを極彩色が埋め尽くしている。
黄金長方形も、元を正せばこうした自然界の美しさから先人たちが着想を得たと考えられている。美しい自然に触れることは、ツェペリ家の末裔としても意義あることなのだ。もっとも今日ここに誘ってくれたヴァルキリーは、そんなことを知るよしもないだろうが。
「トレーナー、口数が少ないですね。ちゃんと楽しんでいますか?」
そう問いかけてきたヴァルキリーは、まさに心の底から楽しんでいるという顔をしていた。尻尾を上機嫌にぐるんぐるんと振り回している。
「ん、ああ。少し見入っていた。確かにいい所だな」
「そうでしょう? 私、ここの風景が好きなんです。落ち込んだり、嫌なことがあったりして心がくじけそうな時には、よくひとりでここへ来て気持ちを整理していました」
ヴァルキリーが視線を遠くの山々へ投げかける。その目には、ほんの少しの哀愁が込められているように思えた。
「でも、今日はトレーナーも一緒です。過去の自分に教えてあげたい。あなたはひとりではないと。あなたの才能に気付いてくれる人が、いずれ必ず現れると」
「……そうか」
テンガロンハットのつばを持ち上げ、ジャイロは今一度、湖の向こうの紅葉に目を向けた。こうしていると、まるで眼前の山々もまた、ふたりの姿を見つめているような気さえした。
不意に、ふたりの間を冷たい風が吹き抜けた。ヴァルキリーが寒そうに腕をさする。
「冷えてきたな。そろそろ帰るか」
「いえ……もう少しだけ」
「そうか」
それだけ言葉を交わすと、ふたりは再び紅葉に目を戻した。あの燃えるような紅葉がもし本当に燃えているとしたら、あの中に飛び込んだらどれだけ暖かいだろうか──そんな考えが、ジャイロの脳裏をよぎった。結局、東の空が藍色に染まり始めるまでヴァルキリーは目の前の光景に釘付けで、ジャイロはいかに彼女の体調を崩させずに帰るか考える羽目になった。
秋風がしだいに霜の香りを運んでくるようになった頃、ジャイロは石油ストーブの心地良い温風を受けながらデスクの前で頭を抱えていた。
悩みの種はヴァルキリーの練習方針である。デビュー以降も日々のトレーニングの中で着々と力をつけているヴァルキリーであるが、ここ最近のタイムが伸び悩んでいるのだ。スローダンサーやキタサンブラックに併せウマを依頼しても、結果は同じだった。
原因ははっきりしている。例の左にぶれるクセだ。これまで騙し騙し乗り切ってきたが、いよいよこの問題に真剣に取り組まねばならない時が来たようだ。
「戻りました、トレーナー」
ヴァルキリーが電子メモリ片手にトレーナー室に入ってくる。このメモリには彼女のデビュー戦の映像が記録されていて、それをさっきまで別室で観てくるように指示してあったのだ。
「ご苦労。アンタの意見を聞こう」
「トレーナーの言う通りでした。私の黄金の回転が乱れる時、決まって例の左にぶれるクセが酷くなります」
「このクセをなんとかしないことには、アンタはこの先伸び悩むだろう。さて、どうしたもんか」
ジャイロは立ち上がってペンを手に取り、ホワイトボードにすらすらと図を書き始めた。回っている車輪のような絵だ。
「アンタの脚はいわば、車輪の一部分だけが歪んじまってるような状態だ。だから真っすぐ走っているつもりでも、一定のペースでガクついちまう」
「そうですよね……どうしたら真っすぐ走れるようになるでしょうか」
「考えられるアプローチは二通りある。ひとつは己のクセを完璧に把握し、出したい時だけ出せるようになること」
「クセを出したい時?」
「そうだ。左にぶれるということは、左回りのコースではむしろ有利にはたらく。そういったコースではむしろクセを抑え込まずに、右回りの時だけクセを制御する。長い修練を要するだろうが、自分のクセを殺すことなくコースに合わせて走り方を選べる」
「なるほど……確かに理にはかなっています」
「そして、もうひとつ」
ジャイロはペンを握り直すと、ホワイトボードに描いた車輪に軸のような線を書き足した。
「黄金の回転を利用する方法だ。黄金の回転が乱れた時にアンタのクセが酷くなる現象は、この図を使って端的に説明できる」
ホワイトボード上の車輪がすっぽり収まるサイズの黄金長方形を書き、説明を続けるジャイロ。
「学園の授業で習ったか? 回転する物体に外力を加えると、回転軸を維持しようとする力がはたらく。これをジャイロ効果と呼ぶ……言っておくが、俺が名付けたわけじゃあねえからな。アンタの脚が黄金の回転の軌跡をとっている間は、無限の回転エネルギーがジャイロ効果を生み出し、それによってアンタの脚の回転軸が支えられている。だからブレなく走ることができていたんだ」
「でも、ひとたび黄金の回転が乱れてしまえば……ジャイロ効果に打ち消されていた私のクセが露呈する。そういうことですよね」
「飲み込みが早くて助かるぜ。ここまで説明すればもうわかるよな。黄金の回転の持久力を高め、常に維持することで、アンタのクセは帳消しにできる。そればかりか、さっきも説明したように左回りの時だけジャイロ効果を制御することで、有利に走ることだってできる」
「……できない、と思います」
うなだれるヴァルキリー。ジャイロはペンをそっと置くと、再びデスクに腰かけてヴァルキリーの顔を見上げる格好をとった。
「ようやく、二回目を口にしたな」
「……すみません」
「なぜ謝る? アンタは根性があるほうだ。ジョニィの奴なんて、数十秒ともたずに三回は『できない』と言いやがったんだぜ」
「トレーナーの提案はいつも突拍子もなくて、けれども従えばきっと結果がついてくるとわかっていて、それでもやっぱり心のどこかで『できない』と思っている自分がいて」
ヴァルキリーが両手の拳をぎゅっと握りしめた。それから意を決したようにジャイロのほうを見つめ返し、
「トレーナー。ふたつのプランのうち、より長い修練を要するのはどちらですか」
そう問うてきた。
「ふたつ目のプランが断然難しい」
「じゃあそっちで行きましょう。伸びしろがあるのも、そっちなんでしょう?」
「よくわかったな。ふたつ目のプランを採るということは、アンタの黄金の回転をより磨き上げるということだ。修練を要するぶん、必ず見返りもある。そこは保証しよう」
「決まりですね。私は必ず、黄金の回転をものにしてみせます。明日からもよろしくお願いします、トレーナー」
そう言ってヴァルキリーが退室した後、ジャイロはトレーナー室でひとり特に何をするでもなく、デスクチェアの背もたれに寄りかかって天井を仰ぎ見た。
(黄金の回転をものにする……か。簡単に言ってくれるぜ)
何世代にも渡るツェペリ家秘伝の技術、黄金の回転。それをものにしてみせるとヴァルキリーは堂々と言い放った。しかし不思議と、ジャイロはそれが滑稽な大言壮語の類だとは思えなかった。ウマ娘の脚に黄金の回転の可能性が秘められていることは確かであるし、ヴァルキリーはその可能性を間違いなく掴みつつある。何より、ヴァルキリーの脚に眠る可能性を自らの手で引き出してやれる自信が、今のジャイロにはあった。
あくる日。ヴァルキリーの黄金の回転の持久力を高めるトレーニングが早速始まった。
といっても要領はこれまでと大きく変わらない。注意すべきことが増えただけだ。多少ペースが落ちても構わないから、黄金の回転の走りをスタートからゴールまでとにかく維持し続けること。そして、無意識にそれを自分の走りに落とし込むことだ。
「よし、まずは軽くウッドチップコースで身に染み込ませていく。上達の具合を見て、ゆくゆくは負荷を上げたり坂路を取り入れたりしていくぜ」
「わかりました。よろしくお願いします」
「じゃあ、まずは一本行ってこい。指示した通り、黄金の回転を乱さないことを第一にな」
はっ、と気勢を上げてスタートするヴァルキリー。相変わらず、スタートした瞬間の黄金の回転は完璧に近い。問題はここからだ。ヴァルキリーの走りのピークはスタートの瞬間にあり、そこからの勢いは衰えていく一方なのである。そして、向正面に到達する頃には脚の力が失われはじめ、黄金の回転が乱れ始める。第三コーナーを回る頃には黄金の回転は完全に崩れ、いつものぶれるクセが顔を出すといった具合だ。
「はあ、はあ……どうですか、トレーナー」
息を切らして戻ってきたヴァルキリー。彼女の表情を見るに、手ごたえとは無縁のようだ。
「その様子だと、俺が言わなくても自分で見当がついてるんじゃあねえのか」
「……向正面、ですよね。あの辺りから、私の脚は……黄金の回転は明らかに調子が乱れています」
「正解だ。アンタは逃げウマ娘だから、レースを通して一定のペースで脚を使うことが習慣になっているんだろう。その結果、向正面で順当に脚の力に限界がきて、黄金の回転を維持できなくなる。例えるなら自転車の最初の走り出しで勢いをつけて、途中からペダルをこがずに勢いだけで走ろうとしているようなものだ。だからバランスを崩してしまう」
手元のストップウォッチとヴァルキリーの顔を交互に見やりながら、ジャイロは淡々と解説した。そのあともう片方の手に持っていたクリップボードを手でぱたぱたあおぎながら、
「とまあ色々言ったが、要はペース配分の問題だな。アンタのこれまでの課題とそう大きく変わらない。たまには自分が逃げを打つことさえ忘れて、ジョギングでもしてくるようなつもりで走ってくるのがいい。スタートからゴールまで常に一定のペースを保てれば、黄金の回転も自然とついてくるだろう」
と言った。ヴァルキリーがまだ得心のいっていないような顔をしているので、ジャイロはさらに続ける。
「よし、次からはタイムを計るのもやめだ。本当にジョギング感覚で走ってこい」
「いいんですか? 練習にならないのでは」
「今のアンタに必要なのは、一にも二にも黄金の回転を身体に染みつかせることだ。実際の走りに落とし込むのは、それからでいい。言っただろう、長い修練が必要だと。いいから教えた通りにやってみろ」
「……わかりました」
ようやく納得した様子で、ヴァルキリーが再び走り出そうとしたまさにその時。
「やあ、面白そうな話をしてるね」
突然、ジャイロたちに呼びかける声があった。高く溌溂とした青年の声。ジャイロが聞き間違えるはずがない。
「ジョニィか。なんの用だ」
声の主へ振り返る前にジャイロはそう言い放った。見ると、やはりジョニィがそこへ立っていた。スローダンサーも一緒だった。
「さっきからしきりに黄金の回転の話をしているのが聞こえてね。もしやと思って来てみれば、やっぱり君だったというわけ」
「そんなことを聞いてるんじゃあねえ。トレーニングの邪魔だ」
「ごめんなさいねぇ、私もトレーニングのお邪魔をするのは良くないって止めたのよ。でも、トレーナーさんがどうしてもって言うから……」
スローダンサーが申し訳なさそうにする。一方で当のジョニィはまったく悪びれる様子もなく、ただじっとジャイロの目を見つめていた。ジャイロは以前から──つまり、元の世界にいた頃から──ジョニィのこの目に対して何か得体の知れない迫力を感じることが増えていた。
「邪魔をしてしまったことは謝るよ。だけど、君とはどうしても一度きちんと時間を取って話す必要があると思っていたんだ」
「トレーナー、ジョニィさんと話してあげてください。私は大丈夫ですから」
ジョニィの言葉を否定できないことを見透かされてか、ヴァルキリーにまで気を遣わせてしまった。ジャイロは逡巡する。
「条件がある。おたくのスローダンサー、うちのヴァルキリーのトレーニングに付き合ってもらうぜ」
「そんなことでいいのかい? わかった」
スローダンサーもまた黄金の回転の走り手だ。併走を依頼することで、ヴァルキリーにとっても得られるものがあるかもしれない。
「ヴァルちゃーん。一緒にぐんぐん強くなって、トレーナーさんたちをびっくりさせちゃいましょうねぇ」
「もう、スロさんったら相変わらずね。練習といえど手は抜かないから」
「おいおい、俺の言ったこと忘れたか? ジョギング感覚でいいんだっての」
マイペースなウマ娘ふたりの様子に一抹の不安を覚えながら、ジョニィと静かに話せそうな場所を探す。ジャイロは自分の胸の中が、トレセン学園のトレーナーから、次第にSBRレース走者の心持ちへと戻っていくのを感じていた。
「改めて、君がこの世界に来ていることに驚いているよ」
周囲に誰もいない静かな一角にたどり着くなり、ジョニィがそう切り出した。驚いている、と口で言うわりには、ジョニィの様子は冷静そのものだった。両の足で大地をしかと踏みしめ、身体を斜に向けている。
「それはこっちの台詞だぜ。お前までこっちの世界にいるってことは、ふたりまとめて大統領に負けてくたばったんだとばかり思った」
「大統領は確かにこの手で倒したよ。間違いない。ジャイロ、君が死ぬところも……確かにこの目で見た。どうやらふたりとも、元の世界で命を落としてこっちの世界に来たみたいだね」
「なんだ、オメーも結局死んでんじゃねえか」
「まあ……色々あってね。SBRレースが終わってから十年ほど後に。この世界ではなぜか、SBRレース当時の──つまり君と出会った頃の姿をしているけれど」
「俺もこっちの世界に来て半年は経つが、この世界はまだわからねえことだらけだ。わかっているのは、馬の代わりにウマ娘がいるってことと、物理法則は元の世界とそう変わらない──つまり、こいつが通用するってことだけだ」
ジャイロはホルスターから鉄球を取り出し、回転を与えて手の上でもてあそんだ。回転は衰えることなく、ジャイロが自ら止めるまで鉄球は回り続けた。
「さすがだ、やはり君ならこの世界でも黄金の回転の存在に気付くと信じてたよ」
「先達ぶるんじゃねえ、そもそも俺が教えてやったんだろうが。しかし、黄金の回転をウマ娘の脚に見出すところまでお前と一緒とはな」
「それも君から教えてもらったことさ。サンドマンとの戦いを覚えているだろう? あの戦いを通して僕は、自然界の中に黄金長方形を見出すことができると知った。一方、ウマ娘とは僕たちの世界の馬、つまり自然界の存在に相当する。だから、ウマ娘の身体の中に黄金長方形が存在する可能性には、すぐにたどり着くことができた。それと、もうひとつ」
ジョニィは自分の右手を見つめる。かと思うと、彼の親指の爪が指を軸として縦回転を始めたではないか。ジャイロにとっては見慣れた代物だが、普通の人間にとっては異様な光景だろう。
「この『タスク』の能力もまた、どういうわけか僕の身体に残っている。もっとも、この平和な世界で爪弾の能力を使うことはないけどね」
「だろうな。俺たちが生きていた世界に比べれば、この世界は──いや、この国に限ったことなのかもしれねえが──あまりにも平和というか、能天気すぎる。こっちまで腑抜けちまいそうだ」
「きっとそういう時代なんだろう。結構なことじゃあないか」
ジョニィはおもむろにジャイロに背を向け、天を仰ぎ見た。大きく深呼吸をすると、彼は再びジャイロのほうへ向き直り、こう問うてきた。
「ジャイロ。君はこの世界でどう生きていくつもりだい?」
「……質問の意味が読めねえぞ。何が言いたい」
「僕は、この世界でトレーナー業を本気でやってみたいと思う。元の世界で僕はちょっとは名の知れた騎手だったんだけど、この世界にジョッキーは存在しないからね。だからトレーナーとして、ウマ娘とともに戦う人生を送ってみたい。彼女らの脚に宿る黄金の回転にも興味があるしね。ジャイロ、君はどうだい?」
朗々と自身の目標を語るジョニィ。その目は穏やかで、しかし確かな決意に満ちていた。
ジャイロはしばし自問自答する。ここまで成り行きでトレーナー業にいそしんできたが、自分は果たして、ジョニィほど確固たる意志をもって取り組んできただろうかと。否、ジャイロがトレーナー業をやるのはこの世界で生きていくための仕方のない手段であり、ヴァルキリーの面倒を見ているのも、彼女が持つ黄金の回転に興味があるからにほかならない。考えれば考えるほど、ジャイロは自分がなぜトレーナー業などに血道を上げているのか、わからなくなっていった。
「明確な答えを持っていない、という顔だね。ジャイロ。厳しいことを言うようだけど、それではヴァルキリーが可哀想だ。君にとっては人生の通過点にすぎないだろうが、彼女らウマ娘にとって、トゥインクル・シリーズは一生に一度の大切な──」
「やかましい! 俺に説教するんじゃあねえッ」
思わず声を荒げてしまうジャイロだったが、ジョニィはそれすらも想像のうちといったたたずまいで、なおもジャイロを静かに見つめていた。その目からは依然として、決意の光が迫力をもって放たれていた。
「ジャイロ……僕たちは、ホープフルステークスに出るよ」
「なんだと?」
突然の宣告に、ジャイロは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「試したいんだ。今の僕が持てるすべてを叩き込んだスローダンサーの力が、どこまで通用するのか。君たちは出走を回避するとスローダンサーから聞いたよ。それが君たちにとって納得のいく選択なら、別に咎めるようなことはしない。だからせめて、見定めてほしいんだ。今の僕とスローダンサーが、果たして君とヴァルキリーのライバルたりえるのかを」
ジャイロは何も言葉を返せなかった。トレーナーとしても、この世界に生きる人間としても、ジョニィに先を行かれているような気がしたのだ。
しかし、ここで私情に任せてヴァルキリーをホープフルステークスに放り込む暴挙に出るわけにはいかない。彼女の脚はまだまだ課題を残している。下手に大きなレースばかり経験させるべき時ではない。
「……わかった、行ってこい。せいぜい担当ともども泣きっ面かかねえことだな」
今もてる精いっぱいの強がりを、ジャイロは口にした。そうでもしなければ、自分に担当されているヴァルキリーが本当に可哀想になってしまうと感じたからだ。
「ありがとう。さて、話すべきことはひと通り話したかな。そろそろ戻ろうか」
ジョニィの言葉に従ってヴァルキリーたちの元へ戻ると、ちょうどトラックを走り終えて戻ってきたふたりと鉢合わせた。
「よう。さぼってねえだろうな」
「ああトレーナー、指示された通りにトレーニングしていたところ、成果が感じられました。見ていてください。はっ!」
そう言うと再びヴァルキリーがトラックを走り出す。彼女は黄金の回転でぐんぐんと加速していき──向正面に差し掛かっても走りが乱れることなく、そのまま一周してスタート地点に戻ってきた。
「驚いた。この短時間でよく改善したな」
「はい……スロさんのおかげです」
「ヴァルちゃんが、今日はゆっくり走りたい気分だっていうから、私もそれに合わせてあげたのよぉ。黄金の回転を安定させたいから、って」
「スロさんが隣で走ってくれたから、私も黄金の回転を崩すわけにいかないって気になれたんです」
やはりヴァルキリーにとって、併せウマによるトレーニングは大きな効果があるようだ。この短時間でここまで劇的な変化が見られるとは、さすがに予想外だったが。ともあれ、黄金の回転の安定化にかけては大きく前進したと言っていいだろう。
ふと、ジャイロは先ほどのジョニィの言葉が頭の中に引っかかった。ここまで真剣に黄金の回転と向き合うヴァルキリーにとって、自分はどんなトレーナーに見えているのだろうか。その問いに明確な答えを持たないままで、本当に良いのだろうか。
(……やめだやめだ。こんなナイーブにごちゃごちゃ悩むのは柄じゃあない)
小さくかぶりを振って、ジャイロは自分にそう言い聞かせる。目の前には、早くも次のトレーニング指示を欲している担当ウマ娘の姿がある。今は、そちらに集中するのが先決だ。
「よし、本当に黄金の回転が安定しているか見てやる。今度はダートコースで、一本いつものペースで走ってこい」
「はい、行ってきます」
言うが早いか、気勢を上げて出発するヴァルキリー。その姿を見守っているうち、ジャイロの悩みは頭の片隅に追いやられていった。
そんなことがあってから、一か月ほど経った頃。
ジャイロの関心は、年末のホープフルステークスに向いていた。ヴァルキリーには出走を回避させると決断したこの大舞台に、ジョニィとスローダンサーは挑むつもりだという。
ライバルとしてふさわしいか見定めてほしい、というようなことをジョニィは口にしていたが、正直に言って今のヴァルキリーの力は、スローダンサーに大きく水をあけられていることは明白だった。黄金の回転を扱う点でいえば条件は同じ。むしろ重要なのはその使い方と、それ以上に基本的な身体作りの両面であろう。
だからこそ今こうして、室内プールでのスタミナトレーニングに励んでいるわけだ。今の目標はあくまで、黄金の回転によってクセを矯正することだが、肝心の身体作りが追いつかないことにはままならない。
「トレーナー、往復50メートル二セット終わりました。インターバルもらいますね」
「ああ、ご苦労」
水着からしたたる水をタオルで軽く拭き取り、室内プールのベンチに腰かけるヴァルキリー。この真冬でも室内プールは空調が効いているから、身体を冷やす心配がないのは便利なものだ。
黄金の回転の修練から一旦離れ、基礎的な身体作りにも重点を置いていこうとジャイロが提案した時、ヴァルキリーは不満ひとつ漏らすことなく従ってくれた。それだけトレーナーとして信頼されているということなのだろうが、当のジャイロ自身はヴァルキリーに対して誠実なトレーナーとは言い切れないと考えていた。
(それではヴァルキリーが可哀想だ。君にとっては人生の通過点にすぎないだろうが、彼女らウマ娘にとって、トゥインクル・シリーズは一生に一度の大切な──)
ジョニィの言葉が頭の中で響く。もしジャイロがヴァルキリーの立場だったとしたら、自分のことを真剣に考えてくれないトレーナーなどまっぴら御免だと思うに違いない。事実、ジャイロはかのSBRレースにおいても、常に自分にとって納得のいく選択、納得のいく道を選び取ってきた。しかしそのジャイロが今、黄金の回転への興味こそあれど、本質的には「ただ生きていくため」にトレーナー業にいそしんでいる。本当にそれでいいのか?
(『納得』はすべてに優先する。それは今でも変わらない。だが、トレーナーという仕事に対して俺が求める『納得』とはなんだ?)
「トレーナー。トレーナーったら!」
「おおっと、なんだよ。いきなりデカい声出すんじゃあねえって」
物思いにふけっていたら、ヴァルキリーからの呼びかけを聞き逃していたらしい。ヴァルキリーは腰に手を当て、ちょっぴり不機嫌そうな顔で続けた。
「いくら話しかけても返事がないんですもん。もしかしてお疲れですか?」
「ああ、悪い。ちょっとばかし考え事をな。インターバルは終わりか?」
「はい。だから次の指示をもらおうと」
「なら往復50メートル、もう二セット行ってこい。それで今日のところはあがろう」
「わかりました。行ってきます」
ざぶん、となめらかに水面へ飛び込んで平泳ぎを始めるヴァルキリー。その後ろ姿を見ながら、再び物思いにふけり始めるジャイロ。
(ヴァルキリーにとって俺は、『納得』のいくトレーナーなのか? 少なくとも、ジョニィはそうあるべきだと主張しているようだった。こんなことばかり考えるのは、ツェペリ家にあるまじき『感傷』というものでしょうか、父上──)
ジャイロの疑問は声に出ることはなく、そこかしこで響く水音が頭の中まで入り込んできてかき消された。
世間はすっかり年の瀬ムードに入りつつあった。ウマ娘たちの関心といえば年末の有馬記念だが、ヴァルキリーたちジュニア級のウマ娘にとってはむしろ、ホープフルステークスのほうが関心事の順位が高いことだろう。
それにしても、21世紀の日本にもクリスマスを祝う文化があることは意外だった。さすがにネアポリスの伝統的なクリスマスとは様式も雰囲気も異なるが──身も蓋もない言い方をすれば、あまり宗教色を感じない単なるお祭りごととしての側面が強いが──異国の地の祭りを通して、ジャイロは祖国への想いを馳せていた。
さて、この日はスローダンサーのホープフルステークス出走を観戦しに行く予定である。開催地の中山レース場は、前回の東京レース場よりもさらに遠方にある。例によって不慣れな交通機関に戸惑い、そのたびにヴァルキリーに手を引かれながら、どうにかこうにか中山レース場に着いたのが正午頃。まだしばらく時間があるからと、レース場内のカフェでふたりはひと休みすることに。
「トレーナー、いい加減道に迷わないように、スマホの扱いには慣れておいたほうがいいですよ」
「スマホ? ああ、トレーナーに就任した時に理事長から押し付けられたやつならある。ほとんど仕事用の電話としてしか使ってねえがな」
「そんなもったいない。ひょっとして、文明の利器とか信用してないタイプですか?」
「そうじゃあないが、やれアプリがどうのフリックがどうのと画面がうるさくて、しち面倒くさくてな」
「トレーナー、いつもLANEの返信が遅いと思ったらそんな理由ですか。そんなことで、いつ見知らぬ土地で迷子になっても知りませんからね」
「やかましい。アンタは俺の母親じゃあねえだろう、エエッ」
ジャイロとヴァルキリーがそんなしょうもない会話を繰り広げていると、
「すみません。ここ、隣いいですか」
そんな声がした。明るく溌溂とした、妙に聞き覚えのある声だ。ジャイロがティーカップ片手に視線を上げると、そこにはやはりなじみのある顔があった。それもふたり。
「キタサン。それに……サトノダイヤモンドだったか」
「はい。お久しぶりですジャイロさん、それにヴァルキリーちゃんも!」
「ジャイロさん。その節はどうも、お世話になりました」
「……なんのことかわからないが、まあ座りなよ」
ジャイロが席を寄せてやると、うながされるままにキタサンブラックとサトノダイヤモンドが並んで腰かけた。アンタたちもホープフルステークスを観戦しにきたのか、とジャイロがたずねると、
「いえ、ダイヤちゃんはホープフルに出るんです」
「なんだと……!?」
まったく予想外の答えが返ってきた。ヴァルキリーよりもデビューの遅かったサトノダイヤモンドがホープフルステークスに挑むなど、ジャイロが彼女のトレーナーならば止めていただろう。
困惑が伝わってしまったのか、出走の動機について弁明するサトノダイヤモンド。
「私、ジンクスを破りたいのです。私の家系、サトノ家から輩出されるウマ娘はGⅠレースを獲れない……というジンクスを。ジュニア期のGⅠは見送ってクラシック路線に専念することも考えましたが、挑戦する機会は多いに越したことはないと思って。このカフェでの一服は、本番に向けての最後の休息です」
「ダイヤ、俺はアンタの走りを間近で見たことはない。だから確かなことは言えねえが……アンタ、相当無茶なこと言ってるって自覚はあんのか」
「覚悟の上です。そのために、ここまで努力してきたのですから」
「相手はあのスローダンサーだぜ。アンタに黄金の回転を授けたジョニィ・ジョースター、その薫陶を直々に受けたスローダンサー。勝てるのか」
「……勝ちます」
そう断言するサトノダイヤモンドの目には、決意が宿っていた。以前、ジョニィと話した時に彼の目に灯っていた決意の光に似ていた。ジャイロはそっとティーカップを机に置き、ため息をひとつついてから、姿勢を正してサトノダイヤモンドにしかと正対して続けた。
「アンタのような目をした人間を、俺は大勢目にしてきた。いい奴もいれば、ゲスみたいな野郎もいた。ただひとつ確かなことは、アンタが抱いている決意はおそらく本物で、その本物の決意ってやつはいずれ必ず何かを成し遂げる、ってことだけだ」
「ジャイロさん……信じてくれるのですか、私の可能性を」
「信じるとか、信じないという話じゃあない。俺は事実を口にしたまでだ。アンタの可能性を信じるのは、アンタ自身がやるべきことだ」
「そう……ですね。ありがとうございます」
サトノダイヤモンドは視線をジャイロに向け、目をきらりと輝かせて深くうなずいた。それからおもむろに荷物をまとめて席を立つと、
「そろそろ行きますね。次はウィナーズ・サークルで、私のことを見てください。キタちゃん、行こう」
「うん。ジャイロさん、ヴァルキリーちゃん、また後で!」
「……俺たちも行くか」
嵐のように立ち去って行ったふたりの後ろ姿を見送り、ジャイロがぼそっとつぶやいた。
ジャイロはそのままヴァルキリーとともに観戦席へ。ジョニィたちへ挨拶に行こうかとも考えたが、どうも気が乗らなかった。ジョニィとはもう充分に言葉を交わしている。あとはジョニィの望み通り、ターフを通して彼の力とその覚悟を見せてもらうべきだろう。
そしてついに本日のメインレース、ホープフルステークスの出走準備が進められる。パドックでのスローダンサーは三番人気、サトノダイヤモンドは五番人気という位置付けとなった。十八人立てレースでこの評価は上々といえよう。問題は、ふたりとも差しウマ娘であることにより中団での位置取りが明暗を分けるであろうことだ。つまり、黄金の回転をものにしているスローダンサーに分があるということである。サトノダイヤモンドが食らいつける余地は果たしてあるだろうか。
勇壮なファンファーレが鳴り響き、出走の準備がすべて整う。そして、
「スタート! 各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました!」
三者三様の想いが交錯するホープフルステークス、その火蓋が切って落とされた。
「先頭争いはブリーズシャトル、グリームアトリウム! 両者一歩も譲りません! そのあと続いてテンダーステップ、フリルドレモン!」
横一線だったバ群はまたたく間に先団と中団に分かれ、ウマ娘たちが各々のポジション取りに奔走する。今回の対戦相手たちは後方脚質に偏っているようだ。これがサトノダイヤモンドたちにとってどう影響するか。
「中団がひとつにまとまって混戦状態! 六番手フラハラウ、その外並んでサトノダイヤモンド、すぐに続いてアイゼンテンツァー! 三番人気のスローダンサー、この位置につけています」
「ダイヤちゃーん! 頑張れー!」
割れんばかりのキタサンブラックの声援がこだまする。サトノダイヤモンドの位置取りは悪くないが、それよりもジャイロは、バ群のど真ん中で静かに機をうかがっているスローダンサーに不気味な気配を感じていた。
「コーナーを抜けて向正面、依然先頭はブリーズシャトル! すぐに続いてグリームアトリウム、フリルドレモン追走! おっと、サトノダイヤモンド少し前に出ました」
中盤戦、中団からひとり抜け出し前に出ようとするサトノダイヤモンド。
「掛かっているのかしら……良くない兆候だわ」
「大丈夫だよ、ダイヤちゃんのことだもん。きっと何かの作戦だよ」
キタサンブラックはそう強がるが、現実にはヴァルキリーの言う通り、先団との距離を気にして掛かっているだけだろう。スパートまでに脚が残ることを祈るばかりだ。
一方のスローダンサーは、やはりというか不気味なほどに動きがない。ただ淡々と、自分のペースを守るように走っている。その様子はまるで、周囲のウマ娘など眼中にないかのようでもあった。
そしていよいよ終盤戦。中山レース場の最終直線は短いため、第三コーナーから仕掛け始めなければ間に合わない。
「グリームアトリウム、ここで抜け出した! フリルドレモン、サトノダイヤモンド続いて仕掛けます! おっと、ここで中団から飛び出してくるウマ娘がひとり!」
「スローダンサーだ……しかし、あんな位置から仕掛けて間に合うのか?」
ジャイロの思案をよそに、バ群をかき分けぐんぐんと伸びてくるスローダンサー。その脚はみるみるうちに勢いを増し、またたく間に先団のウマ娘たちに迫っていった。
「内からスローダンサー! 猛烈な追い上げです! しかし譲らないサトノダイヤモンド、ここで先頭に立った! このまま差し切れるか、中山の直線は短いぞ!」
「負けない……負けたくない! 私は……!」
サトノダイヤモンドの決死の声が絞り出される。彼女の脚に最後の力が込められる。だがここにきて、彼女の脚は急激に重みを増した。中盤での焦った早仕掛けのツケが、ここで回ってきた。
「ゆっくり勝てばいいのよぉ。ゆっくりとねぇ」
先頭を行くサトノダイヤモンドに、ついにスローダンサーが追いついた。執念でハナを譲るまいとするサトノダイヤモンドだが、ここまでマイペースに脚を残していたスローダンサーの追い上げに、耐えられる道理はなかった。
「スローダンサー上がってきた! スローダンサーものすごい脚だ! スローダンサー、内から差し切ってゴールイン! サトノダイヤモンド、惜しくも二着となりました!」
レース場内がどっと沸き立つ。対照的に、ジャイロたち三人は沈痛な面持ちでたたずんでいた。かと思うと、やにわに席を立つキタサンブラック。
「ちょっとキタサン、どこ行くの!?」
「行かせてやれ。頃合いを見て、俺たちもスローダンサーの様子を見に行くぞ」
キタサンブラックは今頃、サトノダイヤモンドと悔しさを分かちあっている頃だろう。無粋に邪魔をするべきではない。それよりも気になるのはスローダンサーだ。まさかここまで仕上がっていようとは。ウィナーズ・サークルで愛想を振りまくスローダンサーの姿の中に、ジャイロは何か底知れぬ恐ろしさを感じていた。
「……そろそろ行くか」
腕時計の針がちょうど五分経ったことを示したのを見て、ジャイロがそう切り出した。ヴァルキリーを引き連れて、地下バ道へと向かう。
道中、キタサンブラックとサトノダイヤモンドのふたりと出くわした。ふたりとも、泣きはらしたように目を赤くしているのは、見ないふりをしてやることにした。
「あっ……ジャイロさん」
サトノダイヤモンドが気まずそうにする。ジャイロは少し言葉を考えた後、
「……惜しかったな。悪くない走りだった」
とだけ伝えた。この場でそれ以上何か言っても、彼女のためにはならないだろうと考えたからだ。
「ダイヤさんは、これからどうするの」
「そうですね……ひとまず寮に戻って、今回のレース映像を見て敗因の分析を」
「ごめん、質問が悪かったわ。ずばり聞くけど……クラシック三冠に挑戦するつもりはある?」
ヴァルキリーの質問は、サトノダイヤモンドにとってある意味残酷な問いかけであった。しかし誰かが言わねばならないことでもあった。これは答えを知るための問いではなく、サトノダイヤモンドの覚悟を問うているのだった。
「もちろんです。私がサトノ家の希望である限り、その宿命から逃げることはしません」
「……そう。それを聞けて良かったわ。お互い頑張りましょうね」
「ええ。ありがとうございます、ヴァルキリーさん」
ここでもだ。ジャイロはまたも一縷の違和感──と呼ぶほどでもない居心地悪さを覚えた。サトノダイヤモンドがクラシック三冠に挑むとなれば、ヴァルキリーとも当然ぶつかることになる。にもかかわらず、彼女らはまるで自分の目標が難しくなることを楽しんでいるかのように、ライバル同士の力が高まることを喜んでいる。つくづく不思議な関係だと、ジャイロは頭をひねった。
「ジャイロさん、ヴァルキリーちゃん、今日は色々とありがとうございました」
「よせよキタサン、俺たちは何もしちゃあいない。ダイヤが勝手に頑張って、勝手に負けただけだろう」
「そのぶっきらぼうな態度も、ジャイロさんの優しさなんですよね。あたし、少しわかってきました。じゃあ、あたしたちはこれで」
キタサンブラックたちが去っていき、しばしぽつねんと地下バ道に取り残されるジャイロとヴァルキリー。その沈黙を破ったのは、前方から歩いてくるふたつの人影だった。
「そういう登場の仕方しかできねえの? なあ、ジョニィ」
「仕方がないだろう。こういう形でしか君と話す機会がなかったんだから」
歩み寄ってきたジョニィが少し気まずそうにする。
「うふふ。おふたりは本当に仲良しさんなのねぇ」
「おいおいスローダンサーさんよォ、冗談きついぜ。そんなことを話しにきたわけじゃあねえだろう」
「そうだね、早速本題に移ろう。スローダンサーの走り、しっかり見てくれたかい?」
「ああ、嫌というほど見せつけられたぜ。恐ろしいったらありゃしない。スローダンサーがいなければ、このレースはダイヤが獲っていた」
「そのダイヤも僕がいなければ今年のデビューはなかったわけだから、言っても仕方のないことだけどね」
「ハッ、違いねえ」
小さく笑いあうふたり。その様子をにこにこと見守るスローダンサーと、いまひとつ会話についていけていない様子のヴァルキリー。
「お前も当然、スローダンサーをクラシック路線に進ませるんだろう? 今からそいつとぶつかることになるかと思うと、ぞっとしねえな」
「高く買ってくれるのは嬉しいけど、警戒すべきはスローダンサーだけじゃあないと思うよ」
「どういう意味だ?」
「サトノダイヤモンド……正直に言って僕は、彼女はまだGⅠを獲れる器じゃあないと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、スローダンサーが完璧に走らなければ負けていたかもしれないレベルまで仕上げてきていた」
「サトノダイヤモンドには注意しろ……って言いてえのか?」
「ダイヤだけじゃあない。キタサンだって、あるいはひょっとしたらまだ見ぬライバルだって、君とヴァルキリーにとっての障害となる可能性は充分にあるんだ。ウマ娘が持つ勝利への執念は、未知数の力を秘めている。その執念の力を、くれぐれも甘く見ないほうがいい」
「ご忠告どうも。俺とヴァルキリーの前じゃあ、誰が相手でも結果は変わらんだろうがな」
「へえ、少しはトレーナーらしいこと言うようになったじゃあないか」
ジョニィが再び小さく笑う。それから彼は片手を腰に当て、少しリラックスした姿勢で続けた。
「ジャイロ、こっちの世界に来て君は変わったね。なんというか、面倒見が良くなった。その様子だと、以前の問いにも答えが出たのかな」
「おいおい、気色悪いこと言うんじゃあねえ。トレーナー業なんて、生きるために仕方なくやってるだけだからな」
「そうか」
期待に沿う返答ではなかったろうに、ジョニィが笑みを崩すことはなかった。
「そろそろ行こうか、スローダンサー。ジャイロ、ヴァルキリー、また会おう」
「ヴァルちゃん、お先に失礼するわねぇ」
「あっ、あの、スロさん!」
ジョニィとともに立ち去ろうとするスローダンサーを、慌てて呼び止めるヴァルキリー。呼び止めたはいいものの続く言葉に迷っている様子で、彼女はしばらく口をもごもごさせた後、
「正直に言って、今の私じゃスロさんのライバルを名乗るのもおこがましいと思う。けど、絶対に追い越してみせるから」
少しだけ震えた声で、そう言った。
王道を行くジョニィとスローダンサー、執念という名の力を脚に込めて走るサトノダイヤモンド、そして彼らの背中を追うようにして我が道を行くジャイロとヴァルキリー。それぞれにとってのホープフルステークスは、こうして幕を閉じたのだった。