中山レース場から帰途につく段になると、外はさらさらの粉雪が舞い始めていた。ジャイロは今日一日の出来事を頭の中で反芻しながら、ヴァルキリーとともに雪空の下を歩いた。
「すごかったですね……みんな」
ふと、ヴァルキリーがそうつぶやいた。己を鼓舞しようとして言ったつもりだろうが、彼女の耳はぺたんとしなだれていた。ホープフルステークスでのライバルたちの熱気にあてられて、すぐに真っすぐ前を向けというのも酷な話だと思い、ジャイロは特に何も声をかけなかった。
それからトレセン学園に帰る間じゅう、ヴァルキリーはずっと口数が少なかった。いつものように道を間違えるジャイロを引っ張る手も、心なしか力なかった。
「そんなにショックだったか、ライバルたちが」
トレーナー室に帰ってきてようやく、ジャイロが重い口を開いた。ヴァルキリーは驚いた様子で目を見開き、そしてすぐに伏目がちになった。
「やっぱり、トレーナーの目はごまかせませんね」
「そりゃオメー、そんなにわかりやすく落ち込んでたらよォ」
「スロさん、ものすごい仕上がりでした。スロさんがあんなにすごいウマ娘だったなんて、私、ルームメイトなのにちっとも知りませんでした。それと、私より遅くデビューしたはずのダイヤも。私が回避したホープフルで、あれだけの走りを──」
「アンタの言いたいことはだいたいわかるけどよォ、まずは焦らないことだ。アンタにはアンタのペースがある。他のウマ娘連中がどうしようが、やるべきことは変わらない」
ジャイロは出し抜けに席を立つと、給湯室へと向かった。しばらくして、彼はふたつのマグカップを持って戻り、ひとつをテーブルに置いた。
「アンタ、コーヒーは嫌いじゃあなかったよな? こいつは俺の故郷じゃあおなじみのイタリアンコーヒーだ。疲れが吹っ飛ぶぜ」
ふわふわと湯気の立ち込めるマグカップをヴァルキリーがおずおずと手に取り、中のコールタールみたいな真っ黒い液体を意を決したようにくいっと飲み干した。すると、彼女の顔にみるみる赤みが差し、心なしか表情も少し柔らかくなったようだった。
「……おいしい」
「SBRレースの最中によく作って飲んだもんだ。こっちの世界で再現できたのはラッキーだった」
「ありがとうございます。少し……落ち着きました」
「そうかい。おかわりが欲しけりゃ持ってきてやるが」
「いえ、あんまり飲むと眠れなくなりそうですので」
ヴァルキリーがマグカップを置き、ジャイロの顔を見上げて言った。
「トレーナー。私、覚悟が決まりました。今日目にしたライバルたちと、クラシック路線で戦っていく覚悟が。もう怖気づいたりしません」
彼女の目には確かに決意の光が灯っている。その言葉に嘘はないようだった。
「改めてよろしくお願いします、トレーナー。この私を『勝利の女神』と呼んでくれたトレーナー。私に、勝利への道を示してください」
「言われるまでもない。俺だって、アンタには期待してるんだぜ。完全なる黄金の回転に最も近いところにいるのはアンタだ。俺の目に狂いはねえ」
「そう言ってもらえると、励みになります」
ヴァルキリーが今一度、力強くうなずいた。次なる目標は弥生賞。これから再び、ふたりで歩んでいく日々が始まる。ジャイロは前途に想いを馳せながら、手にしたイタリアンコーヒーをあおった。
その晩のことである。ジャイロはまたしても、例の不思議な夢の続きを見た。
後光が差していて見えづらいが、前方に映るのは海のように青い髪色のウマ娘の影だ。ゆったりとこちらへ振り向き、穏やかな微笑みを向けてくる。
「いい加減慣れてきたぜ。アンタも三女神だってんだろう? しばらく前に見たことがある」
ジャイロが挑発的にうながすと、青髪のウマ娘は少し驚いたような様子を見せた。驚きたいのはこっちのほうだ、と言いたい気持ちをジャイロはぐっとこらえた。
「覚えていてくれたのね。いかにも私、三女神です。ゴドルフィンバルブと呼んでちょうだい」
「ゴドルフィンバルブね。それで、今度はどんな戯言をほざきに来やがったんだ。前回の、バイ……なんとかって奴は運命がどうのこうのと言っていたが」
「バイアリータークに会ったのね。こう言っちゃなんだけど、あの子、ああいう性格だから会話には苦労したでしょう?」
ゴドルフィンバルブと名乗ったウマ娘が、口元に手を当てくすくすと笑う。
「バイアリータークから聞いていると思うけれど、あなたは運命の大きな通過点にたどり着いた。それがどこだかわかる?」
「ああ? 何をわけのわからないこと言ってやがんだオメー」
「ふふっ。ヒントはね、あなたが今日まさに目にしてきたものよ」
一見、要領を得ない禅問答のようだが、ジャイロは少しだけ思考を巡らせ相手の話に合わせることにした。
「ホープフルステークスのことを言っているのか?」
「ピンポーン、正解。あのホープフルステークスはね、本来ありえないはずのものだったの」
「どういう意味だ、話が見えねえぞ」
依然として話の要領を掴みかねているジャイロに対し、ゴドルフィンバルブは自分の口に人差し指を当ててウインクする仕草を取った。
「いい? よーく考えてみて。今回のホープフルステークス、本来なら走れなかったはずの子が出走していたでしょう。その子こそが運命を示す鍵」
「……サトノダイヤモンドか」
「正解。ダイヤちゃんは本来、今年中の本格化は間に合わずデビューは叶わないはずだった。そういう運命にあった」
「だが、ジョニィの存在によってそれが実現してしまった……」
「ダイヤちゃんをジョニィの元へ導いたのはあなただから、あなたが運命を動かしたも同然よ」
ゴドルフィンバルブの話の輪郭が、ようやくジャイロにも掴めてきた。つまり自分やジョニィといった黄金の回転の使い手が、本来あるべき運命からウマ娘を動かしていると言いたいのだろう。
「だったらなんだってんだ。他人の運命をいじくり回すのはやめなさいってか? だいたい、ダイヤはスローダンサーに負けたんだから同じことだろうが」
「問題はそこではないわ。それに、運命とはあらかじめ一意に定まっているものではない。ダイヤちゃんがあなたたちの導きを受け、ホープフルステークスでスローダンサーちゃんに敗れ、それでもみんなのライバルとしてクラシック路線に挑む──そういう運命をたどることになったのは、ジャイロ、あなたたちがいたからこそなの」
「じゃあ、いったい何が問題なんだ。俺たちがこの世界にいちゃいけねえってのか」
「そうではないわ。むしろ、あなたたちには期待しているの。黄金の回転による無限のエネルギーが、ウマ娘に無限の可能性を開かせる──私たちはその運命の揺らぎに、とても興味がある」
ゴドルフィンバルブの声音に喜色が混じる。彼女の語り口にジャイロは小さな違和感を覚えた。仮に、自分やジョニィをこの世界に連れてきたのが本当に三女神の仕業だとして、彼女らは最初から黄金の回転の存在を知っており、その可能性とやらに期待していたのだろうか?
そこまで考えて、ジャイロはかぶりを振って考えを改めた。何せ相手は女神である。ウマ娘の脚に宿る黄金の回転くらい、存在に気付いていても不思議はない。たまたまそれと同じ黄金の回転の技術の持ち主だからという理由で、見知らぬ世界へ引きずり込まれて運命の揺らぎを見たいなどと言われても、いい迷惑だが。
「とにかく、あなたたちがこの世界に黄金の回転をもたらしたことで、ウマ娘たちの運命は大きく揺れ動くことになったわ。私たち三女神は、その運命がウマ娘たちの幸福につながってくれることを願っている。けれど本当にそうなるかどうかは、今後のあなたたち次第。特に、ヴァルキリーちゃんがたどる運命はよく見守っておいてあげて」
それだけ言うと、ゴドルフィンバルブの姿はすうっと透き通って、陽炎のようにゆらめいたかと思うと、たちまち消えてしまった。
「おい待て──チッ、どいつもこいつも勝手なこと言って消えやがってよォ」
ジャイロが口にした言葉が、そのまま部屋の壁にこだましてきたので彼は驚いた。ゴドルフィンバルブが姿を消すと同時に、彼はいつの間にか目を醒ましていたのだ。
(この手の夢を見ると決まって寝覚めが悪い。朝っぱらからイラつくぜ、ちくしょう)
ベッドからよろよろと起き上がり、おぼつかない足取りでキッチンへ向かってイタリアンコーヒーを淹れるジャイロ。一刻も早く、この鬱屈とした気分を払拭したかった。
この日、ジャイロはこの世界に来てから初めての年明けを迎えた。故郷ネアポリスでは年明けまでずっとクリスマスの行事が続いていたから、十二月末にクリスマスが終わってすぐ正月ムード、というこの国の雰囲気には面食らったものだ。
「トレーナー、あけましておめでとうございます」
トレーナー室のドアをうやうやしく開き、ヴァルキリーが入室するなりそう挨拶した。どうやらこの「あけましておめでとう」というのが、この国での新年を祝う挨拶らしい。
「ええと、あけましておめでとう……でいいんだよな。今年もよろしく頼むぜ」
「はい。今年は特にお互い大切な年になると思いますから、よろしくお願いします」
そう。ヴァルキリーが言うように、今年は彼女にとって大事なクラシック級である。一生に一度しか挑戦が許されないクラシック路線、その戦いが今日ここから本格的に始まるのだ。
「しかし慣れねえな、こういう形式ばった年明けはよォ」
「ふふっ。そういえばトレーナーは、こっちの世界では初めてのお正月ですもんね。あんまり堅苦しく構えなくても、ゆったり過ごしてれば大丈夫ですよ」
「そういうもんかねえ」
「もちろん、大切な一年の最初の一日ってことは理解しています。けれども最初から肩肘張っても仕方ありませんから。一年の計は元旦にあり、ということわざがこの国にはあるんですけど、お正月をリラックスして過ごせれば、きっと一年を通して良い結果がついてくると信じています」
ヴァルキリーが胸の前でぎゅっと握り拳を作りながら言う。紅葉狩りの時にも思ったが、彼女はこうした行事や行楽の類が好きなのだろうか。
「それで、具体的にどう過ごせばいいんだ」
「そうですね……お正月の定番といえば、やはり初詣でしょうか。神社に出かけて、今年一年の無事を神様に祈願するんです」
「神頼みかよ。日本人てのは何かってえと神様にこじつけるのが好きだよなァ」
「あはは。まあ、否定はできませんね。ちょうどトレセン学園の近くに大きめの神社があるんですが、行ってみますか?」
ジャイロは少し渋ったが、日本人の傾向からいって、神頼みという割には特に宗教色の強い風習とも思えなかった。何より、ほかならぬ担当ウマ娘からの誘いである。正直に言えば少々かったるい行事だが、大切な一年のモチベーションを確保するためにも、ここは付き合ってやるべきだろうと考えた。
そんなこんなで新年早々、冬空の下へと繰り出してきたわけなのであるが、早くもジャイロは辟易としていた。その理由というのが、
「なんだこの人の多さは!? ネアポリスのオペラ会場でもこんな人だかりはできねえぞ」
という具合だった。事実、この人混みはジャイロが経験した中で一番といっていいほどの密集具合だった。
「トレーナー。人混みは不慣れですか? 何せ大きな神社ですからね。なるべく人通りが少ない所を歩きましょうか」
ヴァルキリーがそう気を遣ってくれた。彼女はジャイロの手をよりいっそう強く握り、道路のなるべく端へ端へとジャイロを誘導する。
やがて、ふたりは大きな鳥居の前へとたどり着いた。
「トレーナー、ここから参拝は始まっています。私にならって、鳥居の前で会釈してから、なるべく端のほうを歩いてくぐってください」
はぐれないように手を繋ぎながら、言われた通りに鳥居をくぐるジャイロ。慣れない土地での奇習に面食らいながら、郷に入っては郷に従えとばかりに粛々とヴァルキリーの指示に従う。
「次は手水舎です。ひしゃくで水を汲んで、左手、右手の順に洗います。そのあと水を左手に移して、その水で口をすすぎます」
「ずいぶん厳密に決められてるんだな。この国の連中はそんなに神経質なたちなのか?」
「そうでもありませんよ。みんなこの辺は割と適当です。トレーナーも、難しそうと思ったら無理に正しい所作にこだわらなくていいですからね」
きめ細かい国民性なのかそうでないのか、ジャイロは改めてこの国の人間のことがわからなくなった。とりあえず適当でも構わないと言われたので、ヴァルキリーに教わった所作のうち覚えている部分だけをなぞるようにこなす。
「さあ、いよいよ拝殿へ向かいますよ。通路の中央はなるべくまたがないでくださいね。神様の通り道ですから」
「人間どもは堂々と真ん中を突っ切ってるようだが」
「それはその……この混雑具合ですから、神様もきっと気を遣ってくださいますよ」
またも都合のいいヴァルキリーの説明を受けて、ジャイロは確信した。日本人という人種は、緻密そうに見えて意外とおおらかなのだと。
そうこうしているうちに、ふたりは境内最奥の社にたどり着いた。拝殿と呼ばれる場所だ。紐が垂らされた鈴と、その下に賽銭箱が設えられている。
「これは知ってるぜ。鈴を鳴らして、箱に小銭を放るんだよな」
「よく知ってますね。それならより高レベルに、二礼二拍手一礼にも挑戦してみましょうか」
「にれい……? なんだそりゃ」
「鈴を鳴らして賽銭箱にお金を入れた後、お辞儀を二回、拍手を二回、最後にまたお辞儀を一回するという作法です」
「またややこしいな。まあ、ここまできたらやるけどよ」
「その意気です。じゃあ、私の後に続いてやってみてください」
「そういや、神社ってのは何かお願い事をする場って聞いたことがあるぜ。どのタイミングでお祈りすりゃあいいんだ」
「お願い事をしたい時は、二拍手のタイミングでお祈りするといいでしょう」
ここも言われた通りに従うジャイロ。お辞儀を二回、拍手を二回──お祈りも忘れずに──最後にお辞儀をもう一回。
「お疲れ様でした。これで参拝は終了です」
「正直、もうくたくただ。日本の神社参拝ってのは過酷なんだなァ」
「あはは。慣れない人にとっては、確かに大変かもしれませんね。トレーナーの故郷での新年は、どんな感じだったんですか?」
「特に普段と変わらねえよ。ネアポリスでは年明けまでクリスマスが続くからな。しいて言うなら、友人知人と遊びに出かける機会が増えるってくらいだ」
「クリスマスが年始にまで続くんですか。それはまた面白い風習ですね」
ひとしきり参拝を終えて、ふたりが正月談義に花を咲かせていると。ジャイロは不意に、こちらに向かって手を振るふたつの人影に気が付いた。人影はこちらが気が付いた様子を察すると、人混みをかき分けジャイロたちの前へと躍り出てきた。
「やっぱりジャイロだったか。ハッピーニューイヤー」
「ヴァルちゃん、ジャイロさん、あけましておめでとぉ」
「ジョニィじゃあねえか。スローダンサーまで。お前らも初詣か」
ジャイロが問うと、ジョニィは少し気まずそうに頬をかきながら、
「まあ、そんなところ。日本の作法はさっぱりで、スローダンサーに教わりっぱなしだったけどね」
やや声を張ってそう言った。本当は小声で言いたかったことだろうが、この人混みの中で会話をするには、ジョニィも声を張り上げなければならなかったとみえる。
「安心しろ。俺も似たようなもんだ。異国の風習なんぞに興味はなかったが、ヴァルキリーがどうしてもって言うからなァ」
「そんなあ! トレーナー、楽しくありませんでしたか?」
ジャイロの軽口が思いのほかショックだったのか、捨てられた子犬のような目で見つめてくるヴァルキリー。
「い……いやいや、今にして思えばなかなか楽しかったぜ。うん」
「……本当に?」
「本当本当。だからそんな潤んだ目をするなって。美人が台無しだぜ」
「えっ」
元気づけてやろうと再び放った軽口に、今度は顔を真っ赤にして放心するヴァルキリー。ジョニィとスローダンサーは、少し呆れた様子でその光景を見守っている。
「なんていうか、仲がいいんだね、君たち」
「美人が台無しだ……なんて、わたくしも一度くらい言われてみたいわ。ねえ、トレーナーさん」
「いやいや、僕は一応妻帯者だからね。奥さん以外の女の子に色目使うわけにはいかないよ。ジャイロはどうか知らないけど」
「おいおい、まるで俺が色ボケしてるみたいに言ってくれるじゃあねえか。その辺の腑抜けた有象無象の野郎どもと一緒にするなっての」
自分の軽はずみな発言を若干後悔しながら、ジャイロは必死に取り繕う。だが、ジョニィとスローダンサーのいたずらっぽい口撃はとめどなく続く。
「そんなこと言って。君は何かと手が早かったと記憶しているよ。担当ウマ娘との仲を深めるのは結構だけど、くれぐれも距離感には気を付けてね」
「わたくしもこんなにトレーナーさんをお慕いしているのに、奥方がいらっしゃるからわたくしの想いが実を結ぶことはないの。ヴァルちゃんがうらやましいわぁ」
「ちょっとスロさん! 私は別に、そんなんじゃないったら。あんまりからかうと怒りますよ」
ヴァルキリーは相変わらず頬を真っ赤に燃やしながら、恨めし気にスローダンサーを見つめた。しかし彼女のまんざらでもなさそうな様子を見るにつけ、ジャイロもどうしたらいいのかわからなくなり、
「ああわかった、俺が悪かった。年頃の娘への言葉には気を付ける。それでいいんだろう?」
ついにそう言って折れた。
「と、ところでトレーナー。さっきは何をお祈りしたんですか」
強引に話題の流れを切り替えるヴァルキリー。ジャイロは少し考えてから答える。
「こっちの世界で長生きできますように、だな」
「ええ……なんですかそれ。普通、私のトゥインクル・シリーズが無事に走り抜けられますように、とかそういうのでしょう」
「そういうアンタは何を願ったんだ」
「私ですか? ……内緒です」
「おい、人に答えさせといてそんなのアリかよ」
「心配しなくても、トレーナーにはそのうち教えてあげますから。私の願い事」
「ジャイロとずっと一緒にいられますように、とか?」
ジョニィが余計な茶々を入れた。
「もう、ジョニィさんったら! ほらトレーナー、そろそろ行きますよ」
照れ隠しにヴァルキリーに手を引っ張られて、ジャイロは境内を戻っていった。ジョニィたちの姿が遠ざかっていく。
「もう行くのかい? 気を付けて帰ってくれよ」
「ふたりとも、今年もよろしくねぇ」
見送るジョニィたちの声は人混みにかき消されながらも、かすかにジャイロの耳に届いた。
一年の計は元旦にあり。これが一年を象徴する日の出来事だというのなら、今年はいったいどんな年になってしまうのか──ジャイロには想像もつかなかった。
そんな元日を過ごしてから幾日か経って、ジャイロはヴァルキリーの黄金の回転トレーニングを再開することにした。
大まかな方針は旧年と変わらない。ヴァルキリーの黄金の回転がレースを通して安定するとともに、その回転エネルギーによるジャイロ効果で彼女のクセが矯正されることに期待して、走り込みと身体作りを並行して進める日々が続いた。ヴァルキリーの走りはスローダンサーと併せウマをしてから大きく改善してはいるが、まだまだ安定しているとは言い難い。慎重に長い目で観察していく必要がある。
ある日、いつものように練習場におもむき、ヴァルキリーの走り込み練習を見ていると、どこからかひそひそと噂話が聞こえてきた。
「ねえ聞いた? 今年のクラシック路線、荒れそうだって話」
「聞いた聞いた。なんでもデビューからすごい勝ち方してるウマ娘がいるって。私たちの年にそんなヤバいライバルが出てくるなんて、聞いてないよ」
「なあ、おたくらいったい誰の噂してやがるんだ?」
つい気になって、話に割って入るジャイロ。噂話をしていたふたりのウマ娘は恐縮した様子だったが、警戒しなくていいとジャイロが仕草で示すと、やがておずおずと話し始めた。
「はい。なんでもジュニア期の頃から他を寄せ付けない連戦連勝で、関係各所から一目置かれているウマ娘がいるとかで」
「そんな奴がいやがるのか? 俺の耳には届いてねえが」
「あなた、ヴァルキリーさんのトレーナーさんですよね? それなら知らなくても無理はないです。その子、今のところマイル戦にしか出てませんから」
マイル戦。ステイヤー気質のヴァルキリーには縁遠い世界だと思って、確かにマークが甘かった。マイルの世界に、それだけすごい新人がいるというのか。
「そいつの名前は、なんていうんだ」
「ドゥラメンテさんっていいます。あれだけの勝ち方ができるウマ娘ですから、そのうち重賞のひとつでも獲って、嫌でも名前を目にすると思いますよ」
「ドゥラメンテ……ねえ」
マイルと中距離は違うとはいえ、クラシック路線で勝負する以上、ヴァルキリーとぶつかる可能性は充分にありうる。トレーニングから帰ったらレース資料を漁ってみるか、とジャイロは頭の片隅に「ドゥラメンテ」の名を刻んでおいた。
「トレーナー? いないと思ったら、担当バほっぽり出して立ち話ですか」
「おっといけねえ、悪かった。ちょいと情報収集をな」
「しっかりしてください。もう一本行ってきますから、今度はちゃんと見ててくださいね」
肩をぷりぷり怒らせながら、トラックに戻っていくヴァルキリー。その後ろ姿を苦笑いとともに見送りながら、ジャイロは定位置に戻った。それでも彼の頭の中では依然として、さっきの噂話がぐるぐると渦巻いていた。ヴァルキリーは自分から友達を作りにいくタイプではない。そんな彼女がいきなり大勢のライバルに囲まれて、気後れしなければいいのだが。
(キタサンは、ライバルは強いほど楽しいと言っていた。アンタもそうなのか? ヴァルキリー……)
まだ見ぬライバルに想いを馳せながら、ジャイロはそんなことを考えた。
新たなライバルの台頭を目にする機会は、思いのほか早くやってきた。事のきっかけは、トレーナー室をキタサンブラックが訪ねてきたことだった。
「突然すみません。あたし、クラシック路線で戦うライバルの視察のために、今度の共同通信杯を観戦に行こうと思ってるんです。よかったら、ヴァルキリーちゃんたちも一緒にどうかなって」
ジャイロとしては断る道理はない。共同通信杯は1800メートルのマイルレースだ。例のドゥラメンテが出てくる可能性は高い。ふたつ返事で快諾すると、ヴァルキリーも交えて皆で観戦に行く約束を取り付けた。
そして迎えたレース観戦当日。パドックに続々と入場するウマ娘の中に、彼女の姿はあった。
「八番ドゥラメンテ、一番人気です」
「充分に気合が入っていますね。いい走りを見せてくれそうです」
長い鹿毛に特徴的な流星、アレがドゥラメンテか。確かに実況の言うように、一見静かなたたずまいから隠しきれない闘争心が漏れ出ていた。本番に強いタイプなのだろうとジャイロは見ていた。
レースの結果はというと、ドゥラメンテは惜しくも二着に敗れた。しかしその内容は誰もが目を見張る力強さを宿した走りで、レース直後の記者インタビューでも引っ張りだこになっていた。ジャイロたちも慌てて会見場の観客席へと急ぐ。
「ドゥラメンテさん、今後の展望は? やはりクラシック三冠路線へ進まれるのですか?」
記者のひとりがそう質問すれば、
「もちろんです。クラシック路線で私は、絶対の勝利を刻む」
ドゥラメンテがそう返す。先の走りを見れば、皐月賞を彼女が獲ることもあるいは──そう考える者は決して少なくないだろう。
「いいぞ、ドゥラメンテ。よく落ち着いているな」
ふと観客席からそんな声がした。声の主はストレートヘアのウマ娘。今回の共同通信杯を一緒に観戦したいとかで、キタサンブラックが連れてきた者だ。
「すげえ今更なんだがよォ、アンタあのドゥラメンテと知り合いなのか」
「そういえば自己紹介がまだだったな。エアグルーヴだ。ドゥラメンテとは、まあ縁あってアドバイザーのようなことをしている仲だ」
エアグルーヴと名乗ったウマ娘は、吊り上がった目をきゅっと細めて不敵に笑ってみせた。アドバイザーという立場がどのようなものか知らないが、要はウマ娘でありながらトレーナー業のようなこともやっているのだろうか。
「アドバイザーってアンタ、自分のレースの心配しなくていいのかよ」
「あくまで時々だ。私はシニア級だからドゥラメンテとぶつかることは少ないし、自分のトレーニングに余裕がある時はアイツの面倒を見てやれる」
「ドゥラメンテにそんな手厚くバックアップがついていたとは驚きだ。こいつは手ごわそうだぜ」
「まさかとは思うが、この私の薫陶を受けた彼女を、貴様は倒すつもりでいるのか?」
「おいおい、俺たちが今日なんのために来たと思ってる。勝つさ」
「私が今日ここへ来たのは、ライバルの強さを前にただ震え上がるためじゃないわ。弱点を分析し、勝算を高めるためよ」
話に割って入るヴァルキリー。ジャイロもまったく同意見だった。同時に、強力なライバルを前にヴァルキリーが気後れしないかというのは、ジャイロの杞憂だったとわかって安心した。
「弱点? 面白いことを言う。今のたった一レースで、ドゥラメンテの弱点がわかったというのか」
「ああ。俺の目に狂いがなければ、ドゥラメンテはその走りにつけ入る隙がある。俺が言わずともわかっているんだろ、エアグルーヴさんよォ」
エアグルーヴは沈黙した。それはジャイロの言葉を肯定しているに等しかった。
「とはいえ、うちのヴァルキリーもまだまだ完璧な走りとは言えねえ。お互い精進しようぜ」
それだけ言うと、ジャイロはひと足先に会見場を後にした。それからヴァルキリーと、戸惑いながらキタサンブラックもそれに続いた。
「ドゥラメンテ……お前の前途、想像よりずっと多難のようだぞ」
エアグルーヴが小さくこぼしたその言葉は、誰に聞かれるともなくかき消えた。
そんなこんなでトレーナー室に帰ってきた三人。帰り着くなり、キタサンブラックが先の話題を蒸し返した。
「ジャイロさん! ドゥラメンテさんの弱点を見つけたって、どういうことですか」
「ああ、そうだな。アンタには教えておいてもいいだろう」
ジャイロは小さめに深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「キタサン、それにヴァルキリー。アンタらはドゥラメンテの走りにどんな印象を受けた?」
「えっ……なんというか、力強い感じかなあって思いましたけど」
「私も同じです、トレーナー。ドゥラメンテの走りは、なんというか荒々しかった。まるで、どう走ろうが自分の勝ちは決まっていると言わんばかりの……」
「そう、そこだ。奴の走りはあまりにも『力強すぎる』んだ。ウマ娘じゃあない俺にもわかる。奴は勝利に執着していない。ただ確信している。自分こそが勝利するのだと。だからあんなに荒々しく堂々と走ることができる。敵に回したら、これほど恐ろしい存在はない」
再び深呼吸をひとつはさんで、ジャイロが言葉を続けた。まるでここからが本題だという合図のように。
「だが、今のドゥラメンテはその荒々しさを制御できていない。現に今日のレースだって、序盤に折り合いを欠いたディスアドバンテージをまくり返しきれずに二着止まりだった。いわば常に掛かっているような状態だ」
「それが、トレーナーの言う『つけ入る隙』というものですか」
ジャイロは黙して首肯した。
「でも、エアグルーヴさんがその弱点に気付いていないとは思えません。エアグルーヴさんはすごく頭のいい人ですから、きっと何か対策を打ってくると思います」
「その通りだ、キタサン。はっきり言って今の段階なら、黄金の回転を維持し続けるだけでヴァルキリーに分のある勝負ができるだろう。だが、ドゥラメンテ陣営とて愚かではない。皐月賞での勝負がどうなるかは未知数だ」
「……皐月賞」
キタサンブラックがぼそっとこぼす。ヴァルキリーがこれまで出会ってきたライバルたちが、おそらく一堂に会する場所。それが皐月賞だ。
「そうですよね。ドゥラメンテさんだけじゃない。ダイヤちゃんだってきっと、今まで以上に仕上げてくる」
「スロさんもクラシック路線に来るって言っていた。私たち、ドゥラメンテのことばかりに気を取られていたけど──」
不意に沈痛な面持ちになるふたり。その様子にジャイロはなんだかおかしくなってしまって、呵々大笑した。
「ニョホホホ。どうしたアンタら、怖気づいたか?」
「なっ……! 別に私はそんな」
「皐月賞まであと二か月もある。始まってもいないレースの心配するより、目の前のことに集中するこった」
「目の前のこと……そうですね。ジャイロさんの言う通りです。あたし、まずは弥生賞をしっかり勝ち切ることを目標にします!」
「えっ」
ヴァルキリーの目が点になる。弥生賞といえば、ヴァルキリーが出走する予定を立てているレースではないか。
「あはっ。そう考えたら、ちょっと楽しみになってきたかも! どんな子と競えるんだろう、楽しみ!」
「そ、そうね……あはは」
意気込むキタサンブラックを尻目に、ヴァルキリーとジャイロは顔を見合わせた。ヴァルキリーがライバルと競う機会が、これほど早く訪れるとは予想外だった。
またたく間に時は過ぎ、弥生賞の日が刻一刻と迫る。このレースはヴァルキリーにとって大きな意味を持つことになるだろうと、ジャイロは直感していた。初の重賞であることもそうだが、彼女にとっては気を許した友人と初めて実戦でぶつかる機会でもあるのだ。それが彼女にどんな精神的影響を及ぼすか、未知数だった。
なので思い切って、ある日のトレーニング中にジャイロは聞いてみた。
「弥生賞はもうすぐだな……ヴァルキリー」
「どうしたんですかトレーナー、神妙な顔をして」
「アンタにとっては、ひとつの試練になるだろうと思ってな……何せ相手はあのキタサンブラックだ。勝てそうか?」
「なんですかトレーナー、私が怖気づくとでも思っていたんですか?」
ヴァルキリーは自信満々といった風に、握り拳を作って自分の胸に当てた。だが、その腕がわずかに震えているのをジャイロは見逃さなかった。
「虚勢を張らなくていい。本当のことを言え」
ジャイロに看破されたことを悟ってか、ヴァルキリーは拳をそっと下に降ろしてうなだれた。
「……トレーナーの言いたいことはわかります。普段あれだけ良くしてくれているキタサン相手に、非情に徹して勝ちに行けるのかって言いたいんですよね」
「まあ、そんなところだ」
「もちろん、手を抜くつもりはありません。キタサンもそんなことは望んでいないでしょうから。ただ……」
「ただ?」
「私が勝つことはつまり、キタサンが負けるということで。私がレースで勝つたびに、その後ろには負けるウマ娘がいる。わかりきっていたはずのことですが、こうして身近な相手として現実を突きつけられると、気後れしてしまうのは確かですね」
やはり精神的に未熟な部分が残っていたか。今日この話をして正解だった。
「そうだ。勝つということは、誰かを負けさせるということでもある。その当たり前の道理が、今になってアンタは恐ろしくなった。違うか」
「……ホント、トレーナーには隠し事ができませんね。その通りです。今まで考えないようにしてきた道理、勝負事のシビアさというものに、私は今直面して震え上がっているんです。おかしいですよね」
「恐ろしいと思うなら、それでも構わない。今の感情を覚えておけ」
「えっ?」
ジャイロの発言が相当意外だったのか、急に素っ頓狂な声を上げるヴァルキリー。
「恐れることは、悪いことではない。不安や恐怖は抑え込むのではなく、受け入れて我がものとせよ。それが恐怖を克服するということだ」
「受け入れて、我がものとする……ですか」
「そうだ。キタサンに勝ってしまうのが恐ろしいと感じるのなら、いっそ恐ろしいと思ったまま走っちまえ。恐怖に振り回されてアレコレと思い悩むより、ちょっとは気持ちの整理がつくはずだ」
ヴァルキリーは目をぱちくりさせながら、ジャイロの話に聞き入っていた。やがてゆっくりと口を開き、
「意外でした。不安はさっさと振り払えって言われるとばかり思っていたので」
「不安や恐怖といった類のものは、無理に振り払おうとするほどしつこくつきまとってくる。だから自分のものとして受け入れるんだ。それが克服するということだ」
「ありがとうございます、トレーナー。少し、怖くなくなったような気がします」
「そうかい」
ジャイロは帽子のつばを持ち上げ、にっと歯を光らせてみせた。
「さて、無駄話をしちまったな。ダートもう一周、強めに行ってこい」
「はい!」
気勢を上げて再びトレーニングに戻るヴァルキリー。その後ろ姿を見送りながら、ジャイロもまた不安にさいなまれていた。
(恐怖を克服する……口ではああ言ったが、実行に移すのは簡単ではない。今のヴァルキリーに、それだけの胆力があるか? いざ弥生賞でキタサンを前にして、その不安を本当に抱え込んだまま走れるのか?)
他人に説教しておきながら、自分もまだまだ不安と折り合いがつけられていないではないか──すがすがしい青空を見上げながら、ジャイロは密かに自嘲した。
そして、ついにその日は訪れた。皐月賞へ向けたステップとなるレース、GⅡ弥生賞である。
その日は朝から、ジャイロもヴァルキリーもそわそわしていた。会場はホープフルステークスの時に訪れた中山レース場である。知らぬ道ではなかったが、ジャイロはおろか、いつものようにその手を引くヴァルキリーの足取りもどこかおぼつかなかった。ふたりとも明らかに緊張していた。
原因は明らかである。この弥生賞で、思いがけず対戦することになったキタサンブラック。いつかこの日が来ることは覚悟していたとはいえ、そのきっかけがあまりに急だったものだから、ふたりの思考が整理されきっていないのであった。
だが、それでもジャイロは少し前にヴァルキリーにかけた言葉を覚えていた。不安や恐怖は、振り払うのではなく受け入れて克服するものである。この対戦を経てヴァルキリーの心中にどんな変化がもたらされるかは未知数だが、今はただ、受け入れて進んでもらうしかない。
二度目とは思えないたどたどしい足取りで中山レース場へ到着するふたり。レース場のエントランスへ足を踏み入れると、そこに彼女はいた。いつものように人懐っこい笑顔を浮かべ、こちらへ小走りに寄ってきたかと思うと、明るく溌溂とした声でこう言った。
「ジャイロさん! ヴァルキリーちゃん! ひょっとして応援に来てくれたの?」
「いや、キタサン。俺たちは──」
まくし立てるようなキタサンブラックの言葉にジャイロが面食らっていると、不意にヴァルキリーがそれをさえぎった。
「違うよ、キタサン。私は今日、あなたを倒しにきたの」
ヴァルキリーの声は落ち着き払っており、目は真っすぐにキタサンブラックを見据えていた。先ほどまでの緊張は喉の奥に押し込んだらしい。キタサンブラックはその言葉の意味をすぐに理解した様子で、
「そっか……そうだったんだね」
一瞬、真剣な眼差しをヴァルキリーに返してきた。かと思うと再びいつもの快活なキタサンブラックに戻って、
「じゃあ、今日はお祭りだね! どっちがファンのみんなを盛り上げられるか勝負だよ! うわーっ、ヴァルキリーちゃんと戦える日がこんなに早く来るなんて!」
心の底から嬉しそうにそう言った。
これは手強いな、とジャイロは内心苦々しく思った。戦いを楽しむ者、なんのためらいもなく相手と競える者は強い。今の自分たちとまるで正反対だ。
「私も嬉しいよ、キタサン。今の私の力が、あなたにどれだけ通用するのか知りたかった」
ヴァルキリーが精いっぱいの強がりを言う。そんなこと、練習ではひと言も口にしていなかったくせに。だが、キタサンブラックはその強がりを信じたようだった。
「うん、お互い頑張ろうね! わかってると思うけど、手加減なんて無用だから! それじゃまた、ターフで会おうね!」
それだけ言うと、キタサンブラックは出走者控室のほうへと足早に去っていった。
「ふぅーっ。今から彼女と競うんですね、本当に……」
キタサンブラックの姿がすっかり見えなくなってから、ヴァルキリーはそっと口を開いた。正直なところ、ジャイロは今すぐにでもヴァルキリーを褒めてやりたい気分だった。今から戦う相手に精神的な隙を見せなかったことは、戦いに臨むうえで大切なことだ。
「よくこらえたな。素直に『アンタが怖い』と言っちまっても良かったものを」
「それも考えたんですけど、抱え込んだ不安を受け入れるためとはいえ、わざわざ相手に白状する必要はないって思ったんです。私の心の中で、じっくり向き合えばいいだけのことだと思って」
「違いない。さて、俺たちも控室に行くぞ」
キタサンブラックの強さへの恐怖。レースというシビアな世界への不安。それらがないまぜになったものを背負って歩くヴァルキリーの姿に、ジャイロは一種の頼もしさを覚えていた。ヴァルキリーの足取りは、中山レース場へ来る道中よりも心なしかしっかりしているような気がした。
「さあ、始まりました弥生賞! クラシック路線へ向けた重要な足掛かりとなるこのレース、果たして制するのは誰か!」
実況の声がけたたましく響くのを、ジャイロは観戦席で聞いていた。彼の視線は、今まさにゲートインするヴァルキリーたちへと注がれている。
「一番人気はこの娘、二枠二番キタサンブラック! 四番人気のヴァルキリー、五枠七番での出走です」
キタサンブラックはヴァルキリーと同じ逃げウマ娘だ。スタートダッシュ直後からハナ取り勝負になることは目に見えている。やや外側からのスタートとなったことは不利にはたらくかもしれないが、ヴァルキリーの黄金の回転はスタートダッシュの時にこそ最も鋭さを増す。それでどうにか、勝負に持っていきたいところだ。
すべてのウマ娘がゲートイン完了し、待つことしばし。
「スタート! 各ウマ娘、一斉に綺麗なスタートを切りました」
ついに始まった、ヴァルキリーにとって初めての重賞。初めてのライバルとの戦い。スタートの瞬間ジャイロは無意識に拳を握り、手にじっとりと汗をかいた。
「最高の立ち上がりを見せたのはヴァルキリー! ハナを奪っていきます! すぐに続いてキタサンブラック! その後ろビターパルフェ、ジャラジャラ、エクセレンシーと続きます」
ほっと胸をなで下ろすジャイロ。ひとまずハナ取り勝負は制した。ヴァルキリーのスタートダッシュ力は折り紙付きだ。キタサンブラック相手にも、充分に通用することが証明された。
(だが、問題はこれからだ。気を抜くんじゃあねえぞ)
心の中でそっとヴァルキリーに忠告を送りながら、ジャイロはじっとレースの流れを見守る。
「隊列は大きく間延びしています! 先団から離れてポイズナス、その外並んでシャレミーリズム、一バ身離れてオータムマウンテン!」
そう、競う相手はキタサンブラックひとりではない。後方では多くのウマ娘が脚をためつつ、先頭を捉える機会を虎視眈々とうかがっている。
やがてヴァルキリーをはじめとする先頭集団は、問題の向正面へと差し掛かる。以前のヴァルキリーならば、ここで脚に限界が近付いて黄金の回転を維持できなくなっていたところだが。
「ビターパルフェ、前を狙っているぞ! ここで先頭が入れ替わりました、ビターパルフェ先頭! その内並んでヴァルキリー、差がなくキタサンブラック!」
なんと、ヴァルキリーはあっさりと先頭を後続に譲ってしまった。これをヴァルキリーの失策と見る者もいるだろうが、ジャイロの見立ては異なる。ヴァルキリーはあくまで冷静に、自分のペースを守って走っているにすぎない。その証拠に、彼女の脚は依然として黄金の回転を維持し続けている。例のぶれるクセも順調に抑えられているようだ。これまでのトレーニングの成果が確実に出ているのだ。
しかし、キタサンブラックもそれをわかっているのか、前の動きを見て掛かるような様子は見せない。ジャイロがこれまで観察してきた限り、キタサンブラックの強みのひとつは持久力にある。このまま冷静にレースを運ばれれば、終盤のスタミナ勝負で巻き返されるシナリオがありうるかもしれない。
そしてバ群は第三コーナーへ。ホープフルステークスの時と同じく、最終直線の短い中山レース場ではそろそろ仕掛け始めねば間に合わないタイミングだ。
「さあいよいよ終盤戦! どのタイミングで誰が仕掛けるのか! 後続のウマ娘たちが差を詰めてきた! 先陣を切ったのはビターパルフェ……いや、ヴァルキリーだ! ヴァルキリーここで抜け出した!」
実況の声が一段と熱を帯びる。ヴァルキリーが第三コーナーの中ほどから脚に力を込め、スパートをかけ始めたのだ。またたく間に彼女は再び先頭へ躍り出ると、ゴール板目指して最後の力を振り絞り駆けた。
「先頭はヴァルキリー! キタサンブラック追い上げる!」
キタサンブラックもそれに呼応するようにして動き始めた。両者ここまでためてきた脚を解き放つ時だ。こうなってはもはや駆け引きは存在しない。ただ勝利への執念が強い者が勝つ、そういう勝負になった。
「キタサンブラック、ぐんぐんと差を縮めます! ここで並んだ並んだ! 両者一歩も譲らない!」
(分の悪い勝負じゃあないはずだ。勝て、ヴァルキリー)
祈るようにヴァルキリーへ視線を送るジャイロ。その意思が伝わったのかは定かでないが、ヴァルキリーの脚に宿る力がその勢いを一層増した。
「やああっ! 負けるかあああ!」
鬨の声が上がった気がした。ジャイロの空耳でないとしたら、きっと声の主はキタサンブラックだろうと思った。それだけ彼女も勝利を渇望しているのだ。その証拠に、キタサンブラックの踏み出した勝利への一歩が、ほんのつま先ひとつぶん、ヴァルキリーの足より前に出ていた。
「キタサンブラック、追いすがるヴァルキリー、もつれ込むようにゴールイン!」
張り裂けんばかりの実況とは打って変わって、観客席は水を打ったように静まり返っていた。皆一様に、勝負の結果をかたずをのんで見届けようとしているのだ。電光掲示板に観客たちの視線が集まる。ただひとり、ジャイロを除いて。
(……クソッ)
ジャイロは心の中で毒づいた。彼の目に、結果はわかりきっていたからだ。正当な勝負に水を差したくないから、声に出すことはしなかった。
やがて、電光掲示板に勝負の結果が示される。
「一着はキタサンブラック! 二着ヴァルキリー、三着はエクセレンシー!」
わっと堰を切ったように、場内を歓声が満たす。ジャイロはその中から逃れるように、わずらわしそうにテンガロンハットを深くかぶり直すと、電光掲示板には一瞥もくれず地下バ道へと向かった。
地下バ道でしばらく待っていると、ヴァルキリーとキタサンブラックが揃って現れた。キタサンブラックはとても晴れやかな表情をしている。一方のヴァルキリーはというと──
「あっ、ジャイロさん!」
キタサンブラックに声をかけられて、ジャイロはふたりに歩み寄った。ヴァルキリーは少し困惑したような、ばつが悪そうな表情を浮かべている。
「ジャイロさん、見ててくれましたか? あたしたちのレース!」
「ああ、見ていた。しかとこの目でな。いいレースだった」
嫌味や含みなど一切ない、本心からの言葉だった。
「ジャイロさん、ありがとうございます」
「あァ? 俺が何か礼を言われるようなことをしたか」
「今日ここで、ヴァルキリーちゃんと戦わせてくれて。ヴァルキリーちゃんにも言ったんですけど、あたし、すっごく楽しかったんです。ヴァルキリーちゃんが相手だから、あたし本気で勝ちたいって思えました。だから、ありがとうございます」
きらきらと目を輝かせてキタサンブラックが言う。きっとこれが、偽らざる彼女の本心なのだろう。
「……って、勝った立場で言うと逆に嫌味っぽいですよね。ごめんなさい」
「いえ、気にしなくていいわ。私も今日、キタサンと走れて良かったって思うから」
それまで押し黙っていたヴァルキリーが、穏やかに口を開いた。
「これまで私とキタサンは、ただの同期、ただの友達だった。それが今日このレースを通じて、ようやく私はキタサンのライバルになれたような気がするの。だから、ありがとう」
「ヴァルキリーちゃん……」
「これからのクラシック路線で、私たちは幾度となくぶつかり合うことになる。キタサン、これからも私のライバルでいてくれる?」
「もちろんだよ! これからもよろしくね、ヴァルキリーちゃん!」
太陽のような笑みを浮かべ、キタサンは元気良くその場を去っていった。その後ろ姿がすっかり見えなくなるのを待ってから、
「ヴァルキリー、ひとまずお疲れさん」
ジャイロはそう声をかけて、ヴァルキリーの顔を見てぎょっとした。彼女は、目から大粒の涙をとめどなく流し続けていた。
「トレーナー。私、悔しいです」
絞り出すようなヴァルキリーの声。無理もない。あの激戦の末に、ハナ差で敗れたとあっては。ジャイロはそう考えて言葉を選ぼうとしたが、ヴァルキリーが続けざまに放ったのは意外な言葉だった。
「負けたことが悔しいんじゃありません。勝負事ですから、勝つ者がいれば負ける者もいます。でも私は……その勝負事の中で、あろうことか『安心』してしまいました」
「安心……だと?」
「キタサンに負けたとわかった時、心のどこかで安心している自分がいることに気が付いたんです。ああ、私はキタサンを敗北者にしなくて済んだのだと。自分のせいでキタサンを悔しがらせることはなかったのだと。そんなことを──キタサンがあんなに楽しみにしてくれた勝負を穢すようなことを──私は考えてしまった。私は恐怖に屈したんです。あれだけトレーナーに念を押されたのに。キタサンと真剣勝負することへの恐怖を、結局私は克服できませんでした。それがあまりにもみじめで、悔しくて……」
つまり、ヴァルキリーにとっては勝負に負けたことよりも、勝負そのものの神聖さとでも言うべきものを、自ら穢してしまったと恥じているらしい。
「……アンタの言いたいことはわかった。わかったから、泣くのはそのくらいにしておけ」
「いいえ、泣きます。どんなに恥ずかしくても泣きます。そうでもしないと私は、この恥ずかしさを忘れてしまいかねません。繰り返したくありません」
言うなり、ひっしとジャイロの胸元にしがみついて泣きじゃくるヴァルキリー。周りに人の目がないことを確かめてから、ジャイロはしばしヴァルキリーの好きにさせてやることにした。
どれくらい時間が経っただろうか。ヴァルキリーはジャイロの胸元を不意に離れると、
「……ごめんなさい。返す返すもお恥ずかしいところを」
普段の凛とした態度からはかけ離れた、ひどくしょぼくれた顔でそう言った。
「もういい、さっさと顔を拭け。美人が台無しだぜ」
少しでも元気が出ればマシだと思い、ジャイロはわざとらしく軽口を叩いた。それでも多少は効き目があったのか、ヴァルキリーの顔にようやく少し生気が戻ったような気がした。
「ありがとうございます。そろそろ控室に戻りましょう」
「ああ」
ふたり並んで控室への道を行く。道中、ヴァルキリーがこんなことをたずねてきた。
「そういえば今日の私の走り、トレーナーから見てどうでしたか」
「完璧だった。今のアンタが出せる、最高のパフォーマンスだったと言えるだろう」
「そうですか。私もそんな実感がありました。それだけの走りをしても、勝てない相手なんですね。キタサンブラックって子は」
「わからねえぜ。勝負に絶対は存在しない。案外、今日とまったく同じ条件でもう一度走ったら、アンタがあっさり勝っちまうことだって考えられる」
「それが、勝負の世界……ってことですか」
「そういうこった」
「それなら、私はなおさら明日からのトレーニングに励まなければなりませんね。どれだけ自分を鍛え上げても、勝負に絶対はないんですから」
「よくわかってんじゃあねえか。その意気だ」
ふたりの会話と足音だけが、薄暗い地下バ道にこだましていた。
ヴァルキリーにとっての初の重賞挑戦は、こうして幕を下ろした。苦々しい思いとともに。しかし時は待ってはくれない。クラシック路線の本格的な第一歩目、皐月賞まではあと一か月しかない。
(皐月賞に出てくる顔ぶれは、わかっているだけでもそうそうたる面子だ。奴らと渡り合えるよう、あと一か月で、ヴァルキリーを仕上げられるところまで仕上げる……必ず)
しずしずと地下バ道を歩きながら、ジャイロは密かにそう誓った。