沈痛な面持ちで中山レース場を後にするジャイロとヴァルキリーの前に、意外な人物が姿を現した。ストレートヘアでツリ目のウマ娘。以前にも会ったことのある顔だ。
「エアグルーヴ……」
「ほう、覚えていてくれたか」
「なんの用だ。俺たちを笑いにきたのか」
ジャイロが警戒心をむき出しにする。彼女は確か、ドゥラメンテのアドバイザーをやっているとか言っていた。おおかた敵情視察にでもやってきたのだろう。
エアグルーヴはそんなジャイロの邪推を察してか、くつくつと笑いながら言った。
「そう警戒しないでほしい。貴様たちの健闘を侮辱するつもりはないし、その権利は誰にもない。私はただ、あの激闘を戦い抜いたウマ娘がどんな顔をしているのか、見にきただけだ」
そう言ってエアグルーヴはヴァルキリーの顔を覗き込むと、
「いい顔だ。アイツに……ドゥラに少し似ている」
そんなことを言った。エアグルーヴが何を言いたいのかいまひとつ掴みかねていると、先にヴァルキリーがこんなことを言い出した。
「あの、エアグルーヴさん。前から気になってたのだけれど、あなたとドゥラメンテってどういう関係?」
「関係……か。そうだな。繰り返し言っているように、私はアイツのアドバイザーだ。それからアイツは私にとって後輩であり、教え子であり、可愛い妹分といったところか」
「……そうですか」
「他人事のような顔をしているが、貴様たちの関係も似たようなものだろう? 私はドゥラメンテの奴が、可愛くて仕方ないんだ。教えれば教えるほどに強くなる。育てれば育てるほどにアイツの脚はキレを増す。私はそれを見るのが楽しくて仕方がない。それは貴様も同じではないのか、ヴァルキリーのトレーナー」
「なんだと?」
急に話を振られて面食らうジャイロ。エアグルーヴの視線は真っすぐに彼を捉えていた。その目が赤く燃えているように見えるのは、西日のせいばかりではないように思えた。
ジャイロは逡巡する。自分とヴァルキリーの関係など、考えたこともなかったし、考える必要もないと思っていた。トレーナーと担当ウマ娘。それ以外に自分たちを形容する言葉は存在しない。だが、エアグルーヴは今ここで、ドゥラメンテとの関係を後輩、教え子、妹分と様々な言葉で表現してみせた。それだけ深い関係が、両者の間に存在することの証明だった。この場にドゥラメンテ本人がいなくとも、それははっきりしていた。
「なあ、ヴァルキリーのトレーナー」
「普通にジャイロと呼べ。『ヴァルキリーのトレーナー』じゃあ長くて言いづれえだろう」
「では、ジャイロ殿。僭越ながら私からひとつアドバイスを贈ろう。自分自身と担当ウマ娘との関係を、なるべくはっきり言葉にできるようにしておくべきだ。そうすれば、貴様たちの信頼関係はより強固なものとなる。この先の戦いでつまずきそうになった時、そのはっきりとした信頼関係が貴様たちの行く道を支える杖となる。私とドゥラメンテがそうであるようにな」
「関係に……名前をつけろと? そんなことで強くなれたら、苦労はしねえ」
「そう思うだろう? だが、絆や想いの力というものは、とりわけウマ娘にとって大きな意味を持つものなんだ。貴様たちが今後さらなる高みを目指そうと思うなら、私のアドバイスに耳を貸すべきだ。そうすれば、うちのドゥラメンテともあるいは渡り合えるかもしれないぞ。ひとつ、考えてみてくれ。話はそれだけだ。ではな」
助言とも宣戦布告ともとれる言葉をまくし立てるように述べた後、エアグルーヴはくるりと踵を返してさっさと行ってしまった。あとには呆然と立ち尽くすふたりが残された。
「ヴァルキリー、気にしなくていい。負けた俺たちをからかいにきただけだ、どうせ」
「はい……そうですね」
どこか気もそぞろな様子で、生返事を返すヴァルキリー。ああは言ったものの、ジャイロにとっても心当たりのない話ではなかった。ヴァルキリーにも思い当たる節があるだろうことは明白だった。
ひとまずこんなところで立ちんぼしているわけにもいかない。また明日以降、今日のレース映像を分析して対策を講じるという名目のもと、ふたりは帰路につくのだった。
(──絆や想いの力というものは、とりわけウマ娘にとって大きな意味を持つものなんだ──)
エアグルーヴの放った言葉が、その日はジャイロの頭に一晩中こびりついて離れなかった。
翌日。弥生賞のレース内容を振り返ることも兼ねて、ジャイロとヴァルキリーはトレーナー室でミーティングを行うことにしていた。もちろん、前日の帰りしなにエアグルーヴからかけられた言葉を整理する目的も、暗黙のうちに共有していた。
「お疲れ様です。トレーナーのお部屋って、いつ来ても意外と綺麗ですよね」
「意外と、は余計だ。俺はこう見えて几帳面なタチなの」
部屋に入るなり無駄口を叩くヴァルキリーをやんわりとたしなめながら、ジャイロはどう本題に入ろうか言葉を選んでいた。そうこうしていると、先にヴァルキリーのほうから口を開いた。
「トレーナー。私、どうしても気になっていることがあるんです。エアグルーヴさんの言っていたことです」
「アレか。ウマ娘との関係とか絆がどうのこうのってやつ。深く考える必要はねえ、ライバルである俺たちを戸惑わせようって魂胆だ」
「私には、どうしてもそうは思えなくて。絆や想いの力がウマ娘にとって大きな意味をなすことは、まぎれもない事実ですから」
「アンタまでそんな与太話を信じているのか」
「与太話ではありません。トレーナーはご存知ないかもしれませんが、歴史に名を遺すほどの名ウマ娘と呼ばれた人々も、皆例外なくトレーナーやライバル、友人知人、周囲の人たちから託された想いを武器に戦っていたといいます。これは歴史が証明しています」
珍しく白熱して持論を展開するヴァルキリーに若干気圧されながら、ジャイロは考えた。ウマ娘に関することならば、同じウマ娘の意見に耳を傾けるべきなのかもしれない。
「しかしよォ、仮にその話が本当だとしてだ。確かめる術はあるのか? 歴史に名を遺すウマ娘なんて、そう都合良くその辺を歩いていたりしねえだろう」
「ふうむ。つまりその名ウマ娘から話を聞ければ、トレーナーも納得してくれるんですね。でしたらうってつけの場所があります。今からでも行きましょうか」
そう言うなり、やにわに席を立つヴァルキリー。
「おい、どこに行くんだ」
「決まっているでしょう。名ウマ娘のありがたいお話が聞ける場所ですよ」
言われるがままヴァルキリーに導かれ、ジャイロはトレセン学園の校舎内を行く。普段は寮とトレーナー室の往復しかしていないから、生徒たちの活気にあふれた校舎を歩くのは新鮮な気分だった。
「着きました。ここです」
ヴァルキリーがとある一室の扉の前で立ち止まる。その扉の上には「生徒会室」の看板が。
「失礼します」
二回ノックをしてからヴァルキリーが生徒会室の重厚な扉に手をかける。まさかな、とジャイロは心の片隅で思った。そのまさかだった。
「入りたまえ」
扉の向こう側から聞き覚えのある声がした。ヴァルキリーが扉を開けると、その向こうには荘厳な調度品が設えられた執務室が広がっていた。壁一面に飾られた数々の優勝カップやレイ、奥にはいかにも高級そうなデスク。そこに座していたのは、ジャイロが一年ぶりに目にする姿。
「ルドルフ……」
「覚えていてくれたかい。光栄だよ」
デスクの向こう側で、シンボリルドルフの目がきらりと光る。忘れるはずもない。ジャイロがこの世界にやってきて、初めて目にしたウマ娘の姿がそこにあった。
「エアグルーヴから話は聞いている。きっとここへ来るだろうと思っていたが、予想よりも早かったね」
「待て。なんでそこでエアグルーヴの話が出てきやがる」
「知らなかったのかい? 彼女はこの生徒会役員の一員だよ。君たちふたりがそのうち私に助言を求めにくるだろうから、力になってやってほしいと頼まれたんだ」
すべてエアグルーヴのお見通しというわけか。底知れぬ奴だと、ジャイロは薄っすら冷や汗をかいた。
「トレーナー、顔見知りだというなら話が早いです。このシンボリルドルフさんこそが、歴史に遺る名ウマ娘です。私たちも挑もうとしているクラシック三冠、それらを無敗のまま制覇したほか、様々な大レースでその名を刻んだ万人が認める名ウマ娘なんですよ」
珍しく鼻息を荒くして熱弁するヴァルキリー。クラシック三冠はヴァルキリーがこれから挑む路線でもある。それを制したということなら、確かにシンボリルドルフの言葉には耳を貸す価値があるだろう。
「改めてそう言われると、なんだかこそばゆいな。それで、私は何を助言すればいいのかな」
「昨日、エアグルーヴの奴に言われた。ウマ娘にとって、絆や想いの力というやつは大きな意味を持つ。だから俺たちも、互いの関係をはっきり言葉にできるようにしておくべきだ──みたいなことをな」
「そうか……エアグルーヴがそんなことを」
シンボリルドルフはしばし考え込み、こう続けた。
「私の所感を述べるとするなら、その考えは確かに正しい。多くのウマ娘は、誰かの想いを背負って走る。期待、羨望、無念、嫉妬──その形こそ様々だが、背負った想いの数だけウマ娘の脚には力が宿る」
「それは、アンタも同じだったのか、ルドルフ?」
「もちろんだ。多くのものを背負って走ったものだよ。とても……多くのものをね」
シンボリルドルフが遠い目をした。それ以上詳しく問いただしても、話してはくれなさそうな雰囲気だった。
「つまり俺たちは、エアグルーヴのあの言葉を信用してもいいってことでいいんだな?」
「それについては私が保証するよ。彼女の言葉は真実だ。従って、トレーナーとウマ娘の関係を見つめ直すべきだという彼女の助言にも従うべきだと思う」
「つっても、そんなこと急に言われてもなあ」
「まあ、すぐに答えを出せる問題でもないだろう。行雲流水……君たちは君たちのペースで、君たちだけの答えに近付いていけばいい」
「俺たちのペースで……か」
ジャイロは己の手を見つめて考え込んだ。そうは言っても、時は待ってはくれない。皐月賞はもう来月に迫っているのだ。ヒントは得られるうちにひとつでも多く得ておきたい。
そんなジャイロの思いは、ヴァルキリーも同じらしかった。唐突に彼女が声を張り上げる。
「あの! ぶしつけな質問だと重々承知しています。けれども最後に、ひとつだけ聞かせてください。会長……ルドルフさんは、現役時代どんな想いを背負って戦っていたのですか?」
まくしたてるヴァルキリーを優しく見守るように、押し黙るシンボリルドルフ。
「期待ですか、憧憬ですか、それとも……絆ですか」
そんなヴァルキリーの問いに、シンボリルドルフはただひと言、
「君が今言ったもの、全部だよ」
ヴァルキリーが息を呑む音が聞こえた。それ以上、誰もひと言も発さなかった。ヴァルキリーはただ静かに、深々とシンボリルドルフに一礼すると、名残惜しそうに生徒会室を後にした。ジャイロもそれに続いた。
トレーナー室に戻ってきた後も、ふたりはしばらく口を開かなかった。ジャイロはシンボリルドルフの言葉の意味を考え続けていた。おそらく、ヴァルキリーも同じだろうと思った。
しばしの後、沈黙を破ったのはヴァルキリーだった。
「ひとまず……納得はしてもらえましたかね。絆や想いの力がウマ娘にとって大切なものだってことは」
ジャイロはいまだに納得がいっていないという顔をしながら、しぶしぶ答えた。
「まあ……そういうことにしておいてやる。完全に信じたわけじゃあないけどな」
「私が初めて黄金の回転に触れた時も、この世のものとは信じられませんでしたから。お互い様ですよ」
「一緒にするんじゃあねえやい。黄金の回転はれっきとした技術だっての。いいからさっさと、弥生賞のレース映像鑑賞会といこうじゃあねえか」
その後はしばらく、弥生賞のレース映像をふたりで分析しながら時を過ごした。フォームは崩れていないか、位置取りや仕掛けのタイミングは適切だったか──何度も何度も映像を繰り返し観ながら、ふたりでああでもない、こうでもないと言い合った。
「レース直後にも言ったが、内容そのものはほぼ完璧と言って良かった。走行フォームはスタートダッシュの段階から一貫して乱れなく、黄金の回転も維持し続けられている。そのおかげで例のぶれるクセも抑えられているし、右回りのコースでも無理なく走行できている」
「しかし、第三コーナーでの仕掛けから雲行きが怪しくなりました。私はここで一気にハナを取り、そのままためていた脚を使い切って突き放す算段だったんです。けど──」
「その目論見は外れた。キタサンブラックが迫ってきたからだ」
スパート開始からキタサンブラックに追いつかれるまでの映像を何度も観返しながら、ふたりは意見を交換し合う。
「ヴァルキリーと同じように逃げを打っていたキタサンが、なぜラストスパートであれほど脚を使えたのか?」
「中盤、ビターパルフェが先頭に立ったあとも、キタサンはずっと私の真後ろについて離れませんでした。今にして思えば、キタサンは私の後ろにいることで空気抵抗を避ける──スリップストリームに乗っていたのかもしれません」
「スリップストリーム、か」
その言葉を噛みしめるようにジャイロは反芻した。確かに、スリップストリームによって空気抵抗を抑えられれば、そのぶん脚への負担は軽くなり、終盤の勝負に使える脚も残せる。キタサンブラックは、スタートダッシュでヴァルキリーにハナを取られたと見るや早々に位置取り争いを諦めて、スリップストリームを活かした走りに切り替えたというのか。もしそうだとしたら、恐るべき適応力だ。
「白状しよう。やはり俺は、キタサンブラックというウマ娘を甘く見ていたらしい。まさかこれだけ柔軟に、クレバーな走りができる奴だと思っていなかった」
「このレベルの走りをするウマ娘と、これから競っていかなきゃいけないんですね」
「怖気づいたか」
「そんなことありません……って言いたいところですけど。正直なところ、やっぱり不安ですね。私の走りがどこまで通用するのか。現に昨日は通用しなかったわけですし」
おそらく無意識にだろうが、ヴァルキリーは握り拳を小刻みに震えさせている。不安がっているというのは本当なのだろう。
「そう萎縮することもない。不安や恐怖は──」
「受け入れて克服せよ、ですよね。わかっています。けれどもいざ不安を受け入れようと思った時に、自分の心のどこにしまっておけばいいのかわからないんです。心の浅いところにしまっておくと、ふとした拍子にあふれ出してしまいそうですし、深いところへ押し込もうとすると、自分の内側からじわじわと不安が育っていきそうな気がして。おかしいですよね、こんなこと言うの」
ヴァルキリーは強がって笑顔を崩さずに語るが、その声は上ずっていた。分不相応のものを背負いこもうとしていることは明白だった。ジャイロはトレーナーとしてかけるべき言葉を考え、やがてひとつの答えを得た。
「わかった。それならこうしよう」
そう言うと、ジャイロは両脇のホルスターからふたつの鉄球を取り出し、ヴァルキリーの目の前でシュルシュルと回転させてみせた。
「アンタがどうしても不安を背負いきれないと思ったら、俺のこの手を思い出せ。黄金長方形に秘められた、無限の回転エネルギーを思い出せ。その無限のエネルギーが、アンタの不安をまるっと吞み込んでくれる」
ヴァルキリーは回る鉄球と、ジャイロの顔を交互に見つめながら、しばしぽかんとしていた。やがて唐突に彼女は顔をほころばせると、
「ふふっ。なんというか、励まし方がすごくトレーナーらしいですね」
そんなことを言った。
「不服だったか? もっと大道芸みたいなことをしてみせたほうがよかったか」
「いえ、そんなことありません。充分に励まされました。ありがとうございます。それに──」
「それに?」
「エアグルーヴさんの問いかけ、その答えに少し近付けたようなきがします。私とトレーナーはどういう関係として振舞うべきなのか、それが少し見えてきたような気がするんです」
「そうかい。俺にはさっぱりわからんが」
「相変わらずですね……そういうところもトレーナーらしいですが」
とりあえず元気づけられたようなので、ジャイロは鉄球をホルスターにしまう。ヴァルキリーはびしっと人差し指を立て、
「とにかく今一度強調しておきますけど、私とトレーナーの絆がこれからの戦いで重要になることは、今日ルドルフさんから聞いた通りです。私たちもその教えにならって、絆と信頼を築いていきましょう!」
「オメー、それ自分で言ってて恥ずかしくねえの?」
「正直、めちゃくちゃ恥ずかしいですよ。でも強くなるためなら仕方ないじゃないですか。ただでさえクラシック路線はものすごいライバルたちがひしめき合ってるんです。強くなるために、できることはなんだってします」
口調こそ冗談めいているが、ヴァルキリーの目は本気だった。ウマ娘との絆とやらは正直まだピンときていないが、勝つために必要なことはなんでもやってみるべきだという意見には同感だった。
「今更言われなくても、アンタの覚悟はよくわかってる。いいだろう。絆の力だかなんだか知らねえが、勝つために必要だってんなら、俺も腹をくくろう」
「やっとその気になってくれましたか。じゃあこれからはトレーニングだけでなく、プライベートでも会う機会を増やすべきですね」
目を爛々と輝かせるヴァルキリー。やれやれおかしなことになったと、ジャイロは一抹の不安と後悔を胸に抱いたが、未来の展望を無邪気に語るヴァルキリーの前で興醒めすることを言うわけにもいかず、ただ彼女のやりたいようにやらせることにしたのだった。
その晩、ヴァルキリーは夢を見た。
彼女がまだ子供の時分、自由に心のおもむくままに、野山を駆け回っていた頃の夢だ。若緑色の草原と、その上を吹き抜けていく爽やかな風が、ヴァルキリーの記憶にありありと蘇った。
「ヴァルちゃん、あんまり遠くに行くと危ないわよ」
声のしたほうへ振り返ると、ヴァルキリーの母親が心配そうな顔でこちらを見守っている。ヴァルキリーがその言葉に従って母親の元へ駆けて戻ると、母親は幼い娘の頭をそっとなでて言った。
「ヴァルちゃんは本当に、走るのが大好きなのねえ」
母親はウマ娘ではない。普通の人間だ。だからウマ娘の本能に根差した走りへの希求も実感はなかったことだろうが、当時の幼いヴァルキリーにそれが理解できようはずもなかった。
「お母さんは、走るのが嫌い?」
「そんなことないわ。でも、ヴァルちゃんにはかなわないわよ」
「じゃあお母さんのぶんまで、私がいっぱい走るね! 誰にも負けないくらい、すっごく速く走っちゃうんだから」
「まあ。それは楽しみね」
母親は目を細めて、たおやかに笑った。それからヴァルキリーの顔をじっと覗き込んで、
「あなたならきっと、誰より速いウマ娘になれるわ。だってあなたの脚には、勝利の女神『ヴァルキリー』の力がついているんだから」
そんなことを言った。ヴァルキリーが何か言葉を返そうとしたが、母親の姿はみるみるうちに白い光に包まれていき──
「ううん……夢?」
目を開くと、眼前にはいつもの自室の天井が広がっていた。ヴァルキリーはのっそりと上体を起こしてみる。周囲を見回してみると、やはり普段の寮の自室の風景がそこにあった。ヴァルキリーはそこでようやく、さっきまでの光景が夢であったと確信した。
(でも、懐かしい夢だったな)
自分の脚には、勝利の女神がついている。かつてヴァルキリーは、母親に何度も繰り返しそんな話をされていたものだった。そして、最近になってもうひとり。
(また一緒に走ろうじゃあねえか。なあ、勝利の女神さんよ)
彼がヴァルキリーの過去を知っていたはずはない。ただ純粋に自分の走りを見て、この脚に勝利の女神の存在を見出してくれたのだ。つまりヴァルキリーにとってトレーナーは、ジャイロ・ツェペリという人間は──
「あらぁ、ヴァルちゃん。今日は早起きなのねえ」
カーテンの仕切りの向こうから声がした。相部屋のスローダンサーの声だ。ふと時計を見ると、まだ明け方だった。
「ごめんスロさん、起こしちゃった?」
「いいえ、私もちょうど目が覚めたところ。まだ外は暗いから、ヴァルちゃんはもう少し休んでて」
カーテンの向こうで、ぼうっと窓の外を眺めるスローダンサーのシルエットが見えた。まだ頭が覚醒しきっていないヴァルキリーは、お言葉に甘えて布団をかぶり直し、二度寝を決め込むことにした。
その日、ヴァルキリーが練習場に現れたのは、予定の時刻より五分ほど遅れてのことだった。
「ごめんなさい、遅くなりました……!」
息せき切りながら平謝りするヴァルキリーを前に、ジャイロは特に声を荒げることもせず、ただじっと彼女の様子をうかがっていた。
「アンタが遅刻なんて珍しいな。何かあったのか」
「大したことじゃないんです。今朝、変な時間に目が醒めちゃって。そのせいで日中ずっと眠気が取れなくて、今日の練習も危うく忘れるところでした」
「なるほど。まあ身体に不調がないってんならいい。始めるぞ」
「はい……ああえっと、それから」
レーストラックへ向かおうとするジャイロを引き留めるように、言葉を絞り出すヴァルキリー。
「どうした、まだ何かあるのか」
ジャイロが無機質にそう問いかける。対照的に、ヴァルキリーの声はどこか熱を帯びていた。
「遅刻しておいてなんですけど、トレーナー、トレーニングの後に少しだけお時間頂けますか。お話ししたいことがあります」
ジャイロは目をぱちくりさせた。これほど必死に何かを訴えようとするヴァルキリーの姿は見たことがない。今日はやけに珍しいことが続く日だと、そんなことを思った。
「……わかった。なるべく手短にな」
「ありがとうございます」
ヴァルキリーは深々と一礼すると、きりっと姿勢を正し、トレーニングの指示を待っていた。ジャイロがいつものように指示を出し、ヴァルキリーがそれに従っていつものようにトラックを駆ける。その繰り返し。
いつものふたりの練習風景。だが、その終わりはいつもとは少し違っていた。
「よし、もうあがっていい。お疲れさん」
「……はい。ありがとうございました」
タオルで汗をぬぐいながら、ヴァルキリーがとことこ近付いてくる。そういえば練習の後に話したいことがあると言っていたな、とジャイロはぼんやりと思い出した。
「んで、話ってのはなんなんだ。ここで話さなきゃいけないようなことなのか」
「はい、できれば今この場で話したいです。時間をおいてからだと、気恥ずかしくなって上手く話せないかもしれませんから」
そんなに恥ずかしがるような話なのか。いぶかしがりながらも、ジャイロはヴァルキリーの言葉に耳を傾けた。
「私、やっと結論が出たんです。エアグルーヴさんが言っていた、トレーナーとウマ娘の関係。それをどう位置付けるべきか」
「ああ、その話か。気にするなと俺が言ったところで、アンタは気にするんだろうな。いいだろう、言ってみろ」
ジャイロがそう言うと、ヴァルキリーは大きく深呼吸をひとつした。それから意を決したように、こう言い放った。
「トレーナー……あなたは私の、父親のような人です」
「……はぁ?」
ジャイロは目が点になる。いったい今までの関係のどこから、父親などという言葉が飛び出してきたのか。
「わけがわからないって顔をしてますね」
「当たり前だ。実際わけがわからねえんだからな」
「まあ聞いてください。あの模擬レースの後、私を勧誘してくれた時の口説き文句、覚えていますか」
ジャイロは自身の記憶の奥底をまさぐる。やがて、とある言葉がするりと取り出された。
「『勝利の女神』──俺はアンタをそう呼んだな」
「そうなんです。あの言葉がきっかけになって、私はトレーナーと契約を結ぶことになりました。けれど、私のことを『勝利の女神』と呼んでくれたのは、トレーナーが初めてじゃないんです」
「というと?」
「母はよく、私の脚には勝利の女神がついているって言ってくれました。だからきっと、どんなウマ娘よりも速く駆けていけると。勝利の女神が私を守ってくれるようにと願って、母は私に『ヴァルキリー』と名付けてくれたんです」
ひと呼吸つくヴァルキリー。ジャイロが真剣に耳を貸してくれていることを確かめると、再び彼女は続けた。
「わかりますか、トレーナー。この私を勝利の女神と呼んでくれるのは、家族だけなんです。だからトレーナーも、私にとっては家族──そう、父親のようなものなんです」
ヴァルキリーが語り終えても、ジャイロはしばらく言葉を発さなかった。ただ押し黙って、彼女の言う「父親」という言葉を噛みしめていた。
家族が、親が人生の指標となる感覚はジャイロにも痛いほど理解できる。ジャイロは結局その指標から外れてしまったわけだが、ヴァルキリーにとって、家族から与えられた「勝利の女神」という名の道標は、己が人生の拠りどころとするにふさわしいものなのだろう。そして、彼女のトレーナー──すなわちジャイロ自身もまた、彼女にとっては人生を照らす道標だということなのだろう。それがヴァルキリーなりの、トレーナーとウマ娘との関係の在り方だというのだ。
「ひとつ……訂正させてくれ」
熟考の末、ジャイロは重い口を開いた。
「アンタ、高等部だろう。俺はこう見えてもまだ二十四歳だ。父親というほど歳は離れてねえ。だからそれを言うなら、兄貴分とかそういうのだろ」
ジャイロの言葉にヴァルキリーはしばし呆然としていたが、やがてくすくすと笑いだすと、
「確かに。すみません、そうですよね。父親と言ったのは訂正します。じゃあ、兄さんということにしますね」
笑いながらそう言った。まあ、少し歳の離れた兄くらいなら不自然ではないだろうと、ジャイロは謎の納得をした。
「とにかく言いたいことは、トレーナーは私にとって家族同然だってことです。ほらね、こんなこと恥ずかしくて、逆にゆっくり話せないでしょう」
ヴァルキリーが顔をほてらせて取り繕った。ジャイロはそんな彼女をからかうような目で見つめつつ、彼女の言葉を頭の中で反芻していた。
(家族同然……か)
この言葉にジャイロはわずかに躊躇した。かつてジャイロにこんなことを言って迫ってきた女性は、皆ろくなものではなかった。ジャイロ自身の女性関係の苦い思い出からくる警戒心だった。しかしヴァルキリーとは別にそういう仲ではないし、問題ないだろうと思っていることも確かだった。何よりこうして互いの関係に名前をつけることで、ヴァルキリーの走る気力につながってくれるなら安いものだ。エアグルーヴやシンボリルドルフの言を信じるなら、の話だが。
「話はそれだけです。私たちの関係がより明確になったことで、同じように想いを背負って戦うライバルたちとも渡り合えるようになったはずです。それでは、お疲れ様でした」
一方的にそれだけ言って、さっさと更衣室へと消えていくヴァルキリー。ジャイロはその後ろ姿を見届けると、
(こんなことが本当に、ウマ娘の力になるのか? にわかには信じられねえな)
いまだ胸の中に残る猜疑心を抱えて、トレーナー室へと戻っていった。
それからの一か月間、ジャイロたちのトレーニングにもいっそう熱が入っていた。それはもちろん皐月賞をベストコンディションで迎えるためであり、並みいるライバルたちを前に恥ずかしくない走りをするためだった。
「平地での走行フォームは安定してきている。問題は坂路だ。特に下り坂で脚を休ませようとして、フォームが崩れているだろう。脚を潰さないようにセーブすることは重要だが、黄金の回転だけは崩さないように気を付けろ」
「……はい!」
「よし、では今言ったことを踏まえて、坂路もう一本行ってこい」
ジャイロの号令に合わせて、ヴァルキリーが気勢を上げて駆けだす。ただひたすら、その繰り返しだった。
(やるべきことはすべてやっておきたい。限られた時間の中で、アイツの脚をどこまで高められるか)
たった一か月のトレーニングで、何かが変わるわけではないかもしれない。しかしそうではないかもしれない。それなら、後悔のないようにやれることは全部やっておくべきだ。
そんなことを思いながらヴァルキリーのトレーニングにあたっているジャイロの元へ、意外な人物の来訪があった。
「あなたが、ヴァルキリーのトレーナーか?」
「アンタは……確か」
ジャイロに向けられる、強者の風格をまといながらもどこかあどけなさを残す目。その瞳の奥に秘めた激しく荒々しい執念の炎。長い鹿毛と特徴的な流星。すぐに思い出した。
「ドゥラメンテといったか。俺に何か用か」
「特に用があるわけじゃない。ただ、興味があった」
「興味だと?」
「グル姉──ええと、エアグルーヴが言っていた。ヴァルキリーというウマ娘は、私にとって大きな試練をもたらす存在になるだろうと」
ドゥラメンテは真っすぐこちらを見つめたまま、よどみなくそう言い放った。あれだけ世間を騒がせていたドゥラメンテが、ヴァルキリーを名指しでライバルだと言ったのだ。
ジャイロはつい小さく笑ってしまった。ドゥラメンテが言った、試練という言葉が妙に面白かった。
「何か、おかしいことを言っただろうか」
「くくっ、いやァ悪い。アンタのせいじゃあない。ただ少し意外でよォ。そうかエアグルーヴの奴、そんなことをアンタに吹き込んでいたのか」
「グル姉はこうも言っていた。『お前は自分の勝利を疑っていないようだが、それはヴァルキリーも同じことだろう』と」
「それは少し違うな。俺たちは勝利を絶対のものだと思っていない。勝負とは常にそういうものだからだ」
「なぜだ? 絶対的な力で、絶対的な勝利を手にする。私にとって勝負とはそういうものだが、あなたたちは違うというのか」
と、そこへ坂路トレーニングを終えたヴァルキリーが戻ってきた。
「違うよ。私たちにとって、勝利は絶対のものじゃない」
「君がヴァルキリーか。こうして直接話すのは、初めてだな」
「そうね。共同通信杯での走り、見ていたわ」
ヴァルキリーの口調は低く落ち着いていた。ドゥラメンテの立ち姿から発せられるオーラを真正面に受けてもなお、ヴァルキリーの落ち着きが乱れることはなかった。
「私はいつも、自分が負けるかもしれないと思ってレースに挑んでるよ。というか実戦ではまだメイクデビューでしか勝ったことないし。だから次の皐月賞でも、自分が負けるかもしれないと思いながら走るつもり」
「どうしてだ? 自分の負ける姿をわざわざ想像するのか」
きょとんとするドゥラメンテ。
「勘違いしないで。わざと負けるって意味じゃないわ。ただ、どこまでいっても勝負に絶対はない。私は弥生賞でそのことを学んだの。絶対じゃないからこそ勝負の世界は厳しいのだし、絶対じゃないからこそ勝負は楽しいの。私は皐月賞で、たくさんのライバルに囲まれながら、何が起こるかわからないレースを走ることになる。誰が勝ってもおかしくはない、そんな楽しいレースをね。ドゥラメンテ、あなたもそのつもりでいて」
ヴァルキリーが語り終えると、ドゥラメンテは首を傾げたまま、それでも一応は納得した様子でうなずいた。
「なるほど。グル姉が君に一目置く理由がわかった気がする。話せて良かった。それじゃ」
言うなりさっさと踵を返して、トレーニングへと戻っていくドゥラメンテ。ジャイロはヴァルキリーとともにその後ろ姿を見送ると、
「随分ご高説を垂れるようになったじゃあないの。いったい誰の影響だか」
「さあ。説教臭い家族同然の兄貴分のせいじゃないですかね」
お互いにそう憎まれ口を叩き合った。
とにかく、今日ここでドゥラメンテと会話できたのは収穫だった。やはり彼女は自分の勝利をただ確信して走るタイプのようだ。決して勝ちの目がないではないが、やはり敵に回したくはないタイプだ。
「さて、情報収集の時間は終わりだ。坂路もう一本行ってこい」
そう激を飛ばして、再びトレーニングに戻るジャイロ。運命の皐月賞まで、もうあと数週間に迫っていた。
そんなことがあってから、何度目かの日の入りと、また何度目かの日の出を迎え、いよいよ皐月賞を間近に控えたある日のこと。ジャイロはあえて、ヴァルキリーにオフを与えることにしていた。本番直前にじたばたしても結果は変わらない。それならばいっそ、ヴァルキリーが少しでも落ち着いてレース本番に臨めるよう、リラックスタイムを与えてやろうという計らいだった。
ところが、当のヴァルキリーの口から飛び出したのは意外な提案だった。
「トレーナー、一緒に遊びに行きましょう」
トレーナーと一緒ではオフにならないだろう、と反論したが彼女は聞く耳を持たず、あれよあれよと手を引かれ街へと繰り出していた。
向かった先はゲームセンター。ずらりと並んだ機械のモニターに、目まぐるしく動き回る映像が映し出されている。ジャイロは初めて目にするが、これが21世紀のゲームというものらしい。ゲームセンターというからには、てっきりチェスやダーツが置いてある施設のことだろうと思っていた。聞けば、ヴァルキリーも誰かと一緒にこの手の施設に遊びに来るのは初めてらしい。そういえば友達の少ない奴だったな──とジャイロは思い出していた。
「トレーナー、なんとなくこういうの得意そうですよね。やってみませんか?」
ヴァルキリーにそう言われて誘われたのは、拳銃を模したコントローラーを画面に向けて遊ぶゲームだった。この拳銃型コントローラーで画面上の敵を倒して得点を競えということか。なるほど、確かにジャイロの得意分野だ。
筐体に小銭を入れてゲームをスタートさせると、画面上に様々な姿をした敵が現れてこちらを攻撃してきた。かと思うと、ひと呼吸置く間にジャイロはそれらの敵を一掃してしまった。そればかりか、ヴァルキリーが倒す担当の敵すらもジャイロがあっという間に排除していた。
「と、トレーナー……すごい」
ヴァルキリーが思わず漏らした感嘆の声に、ジャイロはふふんと得意げに鼻を鳴らす。SBRレースで本物の銃を持って、本物の敵と命のやり取りを繰り広げてきた彼にとっては、ゲームの中の敵との戦いなど文字通り遊びにすぎなかった。
「どいつもこいつも歯ごたえがねえな。もっとマシな敵はいねえのォ?」
気付けばジャイロはすっかりゲームに夢中になって、画面の向こうの敵に向かって挑発的な台詞を吐いていた。するとそれに呼応したかのように、巨大でいかにも邪悪な敵が現れる。このゲームの最終ボスだ。
「……くっ!」
苛烈なボスの攻撃に、さすがのジャイロも顔に焦りの色が見え始める。やがてボスは渾身の力を込め、ジャイロめがけて強力な攻撃を繰り出してくる。なんとか攻撃を阻止しようとするジャイロだが、わずかに防ぎきれない。
「トレーナー、危ない!」
掛け声とともに放たれたヴァルキリーの攻撃で、間一髪ボスを怯ませることに成功する。この機を逃すまいと一斉に放たれたジャイロとヴァルキリーの攻撃によって、ついにボスは打倒された。画面上に表示される「ゲームクリア」の文字。
「やった! やりましたね、トレーナー!」
無邪気に飛び跳ねて喜びを表すヴァルキリー。彼女のセミロングヘアがふわふわと揺れた。
「俺をこの手のゲームに誘ったのは正解だな。SBRレースでの戦いに比べたら平気の平左よォ」
「そんなこと言って、私の援護がなかったらラスボスにやられてたくせに」
「いーや、俺ひとりでも倒せてたね。まあ、アンタが多少役に立ったことは認めてやるが」
憎まれ口を叩き合い、無邪気に笑い合うふたり。今日この時ばかりはトレーナーとウマ娘ではなく、ただのジャイロと、ただのヴァルキリーであった。
その後もジャイロはヴァルキリーに手を引かれるまま、現代のエンターテイメントの数々に触れていった。機械のアームを操作して景品を獲得するゲームに挑戦してみたり、「ぷりくら」なる写真撮影用機械でふたりの写真を撮ってみたり。
ひとしきり遊び終えた頃には、辺りはすっかり日も暮れていた。
「トレーナー、今日はありがとうございました」
ゲームセンターを後にするなり、深々とお辞儀しながら礼を言うヴァルキリー。
「よせよ。俺だって今日一日遊び呆けてただけだ」
「わかってます。私が平常心で皐月賞に挑めるように、気を遣ってくれたんだって」
ジャイロは即答を避けた。やがてちょうどいい大義名分を見つけて、
「トレーニングがきつすぎて、逆に本気を出せなかった──なんて言われても面白くねえしな。こういう時こそガス抜きが必要なんだよ」
そう言った。ヴァルキリーはすべてを見透かしたかのような、暖かい眼差しをこちらに向けている。
「ええ、そうですね。トレーナーはなんだかんだいって、いつも私のことを考えてくれてます。そんなトレーナーだからこそ、私も安心してついていけます」
「トレーナーとして当然のことだ。それに、なんだか知らんが俺はアンタの兄貴分ってことになってるんだろう? だったら、妹分の面倒を見るのは義務みてえなもんだ」
「義務……ですか。まあ、それでも構いません」
なぜか少し残念そうな顔をして、ヴァルキリーが言った。
「とにかく、次に会うのは皐月賞の日ですね。トレーナーのおかげで、晴れ晴れとした気分で本番を迎えられそうです」
「そうかい。そいつは何よりだ」
「じゃあ……私はこれで」
名残惜しそうにその場を立ち去ろうとするヴァルキリー。これは何か言葉をかけてやるべき時だとジャイロは直感し、とっさに口をついて出てきた言葉が、
「しょぼくれた顔をするな。俺はオメーの味方だ」
というものだった。自分でも何を言っているのかジャイロはよくわからなかったが、それでもヴァルキリーにとっては励みになったのか、彼女の寂しそうな笑みは少し明るく変わった。
自分はヴァルキリーの味方。それは一見励ましの言葉のようでいて、実のところジャイロ自身の所信表明に近かった。
時は少しさかのぼり、とあるトレーナー室。慣れた手つきで事務仕事をこなすジョニィの元に来客があった。
「開いてるよ。どうぞ」
「失礼します」
うやうやしく入室してきたのはスローダンサーだった。ウェーブがかった髪をドアに挟まないよう、慎重にしずしずと入室してくる。
「君か。どうしたんだい。皐月賞前最後のオフを存分に楽しんでこいって言ったはずだけど」
「ええ。だからこうして、オフを満喫しに来たのよぉ」
そう言うなり、ジョニィの隣にちょこんと腰かけるスローダンサー。ジョニィが頭にはてなマークを浮かべていると、続けてスローダンサーが口を開いた。
「トレーナーさん、聞いてくれるかしら。わたくし、なんだか胸騒ぎがするの」
「胸騒ぎだって?」
「次の皐月賞、とっても手強いライバルが大勢やってくるでしょう? もちろんみんなすごく強いと思うけれど、特にヴァルちゃんのことが気になっていて」
伏し目がちに目を泳がせるスローダンサー。ジョニィの目から見ても確かにヴァルキリーは難敵だし、何よりあのジャイロがトレーナーとしてついている。スローダンサーが警戒するのも無理はないが、それにしてもなぜ今更──そんな疑問がジョニィの思考を支配した。
「ヴァルキリーに対して、何か思うところがあるのかい」
ジョニィがおそるおそる聞いてみると、ややあってから、おもむろにスローダンサーは答えを返した。
「ヴァルちゃんに足りなかったものが、埋まっていくような予感がしたの。ヴァルちゃんが勝利を手にするために必要な何か──ヴァルちゃんは、それをついに手に入れたんじゃないかって」
「その何かって──いや、当ててみせよう。ウマ娘がその走りにかけるという想い。ヴァルキリーはその想いを背負ったと言いたいんじゃあないのかい」
「さすがトレーナーさんねぇ。きっと正解だわ」
「きっと? 君の中でもはっきりとわからないのかい」
「ええ。本当に、なんとなくそう思っただけだから。けれども、もしもこの予感が当たっていたら、ヴァルちゃんはかつてないほどの難敵として、わたくしたちの前に立ちふさがるはずよ」
あごに手を当て、考え込むそぶりをするスローダンサー。
背負う想いが強いほどウマ娘の脚に力が宿る。そんな話は、ジョニィも聞いたことがある。もし本当にスローダンサーの言う通り、ヴァルキリーに背負うものができたとすれば、確かに彼女の走りはこれまでとは別物になるだろう。しかし、
「スローダンサー。今の話、どれくらい確かなんだい」
「全然確かでもなんでもないわ。本当に、なんとなくそんな予感がしただけだもの」
「だったら、何も心配はいらない。いずれにしても、背負う想いの強さはこちらのほうが上だ。勝つのは君だ、スローダンサー」
ジョニィはきっぱりと言い切った。今のスローダンサーに必要なのは、不確定要素に心を揺らがせることではなく、目の前の一歩一歩を着実に歩むことだ。
「僕たちには勝利への執念がある。それに、黄金の回転エネルギーもある。恐れることはないよ」
ジョニィが優しく諭すと、スローダンサーはあごに当てていた手を下ろし、顔を上げた。その目にもはや不安は映っていなかった。
「そうねぇ。トレーナーさんの言う通りだわ。トレーナーさんの言葉はいつも、わたくしに勇気をくれるわねぇ」
にっこりとうなずいてみせるスローダンサー。所作はゆったりとしていたが、その目の奥には決意の火が灯っていた。ジョニィもスローダンサーも気付いていなかったが、この時スローダンサーの目に灯っていた火は、ドゥラメンテの瞳に宿る荒々しい炎によく似ていた。
天気は快晴。春のうららかな日差しを燦々と浴びて、モニター越しに見るレース場の芝も心なしか青々としているように思えた。皐月賞当日である。最も速いウマ娘が獲ると言われる皐月賞。その当日をついに迎えたのだ。
「いよいよ……この日が来たんですね」
ジャイロの手を引いて中山レース場に向かう道すがら、ヴァルキリーがぼそっとつぶやいた。ジャイロは何も言葉を返さない。もはやお互い、交わすべき言葉はあらかた交わし終えていた。中山レース場への道のりも三度目となると慣れたもので、ジャイロは道案内などなくても行けると主張したが、こんな大事な日に迷子なんてシャレにならないとヴァルキリーに強弁され、しぶしぶいつものように手を引いてもらうことになったわけである。
「あっ、来た! ヴァルキリーちゃん!」
中山レース場の前に着くなり、高く溌溂とした声がふたりを出迎えた。この光景にも慣れたものだ。ぶんぶんと無邪気に手と尻尾を振り、こちらへ駆け寄ってくるキタサンブラック。その傍らにはサトノダイヤモンドの姿も見える。
「おはようキタサン、それにダイヤも。ふたりとも早いね」
「だって、いてもたってもいられなくて! なんといっても今日は特別な日だから」
「まあ、クラシック路線の緒戦だしね」
「それもあるけど……」
キタサンブラックはふと、そばにいるサトノダイヤモンドのほうへ視線を向けた。
「あたしにとっては、ダイヤちゃんと初めて競える大事なレースなんだ。小さい頃から約束して、一緒に走りたいってずっと思ってたレース。それが今日なんだよ」
なるほど、それがキタサンブラックにとっての「走りへの想い」か。ジャイロは瞬時に納得した。おそらく、サトノダイヤモンドにとっても同じことなのだろう。
「私の想いも同じです。キタちゃんとの約束を果たし、サトノ家の悲願を成就する。それが私の走る理由です。その機会がついに巡ってきました」
サトノダイヤモンドの言い条に、ジャイロはほんのわずかな違和感を覚えた。「同じ」と言いながら、彼女の走る理由の本質はキタサンブラックと明らかに同じではない。勝利への執念めいたものに明確な差がある。そんな風に感じた。
「ふたりとも気合充分ね。私も負けてられないわ。この勝負にはほかにも、スローダンサーやドゥラメンテといったライバルが参戦してくるはず。お互い油断せずにいきましょうね」
「うん。最高のレースにしようね!」
キタサンブラックのその言葉を皮切りに、ふたりはひと足先にレース場内へと駆けていった。ジャイロたちも後に続いた。
控室に着くなり、ジャイロは大事なことを忘れていることに気付いて声を上げた。
「そういやヴァルキリー、お前勝負服はどうした? GⅠの時に着るってやつ。俺はまだ一回も見せてもらってねえぞ」
ジャイロの問いにヴァルキリーは不敵な笑みを浮かべ、
「それはそうでしょう。だって今まで内緒にしておきましたから。びっくりさせたくて」
平然とそう言い放った。ほかのトレーナーのことはよく知らないが、勝負服とは普通自分のトレーナーにくらい見せるものではないのか?
ジャイロがそんな疑問に頭を支配されているうちに、ヴァルキリーはさっさと更衣室へ飛び込んで着替えを済ませてきた。
羽衣風のゆったりとした緑青色の被服に、天使の羽根を思わせる流線形の装飾が施されたシンプルなデザイン。そんな勝負服に身を包んで現れたヴァルキリーの姿は、まさしく勝利の女神の名を背負うにふさわしいたたずまいだった。
「ええと……どうでしょう、トレーナー」
気恥ずかしそうに感想を求めるヴァルキリー。自分で内緒にしておいて自分で恥ずかしがるとはどういう神経をしているんだ、とは言わないことにした。
「なるほど。悪くねえな」
「やっぱり、トレーナーもそう思います?」
「ああ。そのデザインは自分で考えたのか」
「大まかにはそうですね。学園の授業で、自分の勝負服のデザインを考えてみましょうっていうのがあって。私が思う『勝利の女神』のイメージを詰め込んだら、こうなりました」
ヴァルキリーがその場でくるりと一回転してみせる。羽衣の裾がふわりと舞い広がる。
「勝負服には、そのウマ娘の走る想いが込められると聞いたことがある。アンタのそれも、アンタ自身の想いの形ってやつだと思っていいんだよな」
「そういうことです。前にルドルフさんから聞きましたよね。ウマ娘は想いを背負って走るものだと。勝負服はその具現化みたいなものなんです」
「じゃあ、そいつを着て走るからには、無様な走りはできねえな」
ジャイロはあえて意地悪く、プレッシャーを与えるような言い方をしてみた。ヴァルキリーはそれに対して平然と、
「ええ。この服に恥じない走りをしてみせます。トレーナーと、ライバルたちと、それから私自身のために」
強く、真っすぐにそう言い放った。
「……感じるわ」
とある控室の一室。スローダンサーがぼそりとつぶやいた。近代的なダンサーを思わせる、黒を基調としたフォーマルなドレス風の勝負服に身を包み、いつもの調子を崩すことなくのほほんと椅子に腰かけている。
「感じるって、何がだい」
話題の内容に若干の心当たりはあったが、一応ジョニィは質問してみた。返ってきたのは思った通りの答えだった。
「ヴァルちゃんが、強くなったのを感じるの」
「それはこの前言っていた、ヴァルキリーが走りにかける想いってやつかい」
「きっとそう。不思議よね、確かめたわけでもないのに。今日のヴァルちゃんは強いぞ、って。わたくしにはわかる気がするの。おかしいわよね」
「いや、信じるよ。ヴァルキリーは今回のレースにおいて、最も警戒しなくちゃいけない相手のひとりだ。君の直感は正しいよ」
ジョニィはそう言ってスローダンサーをなだめる。彼女の予感めいたものを疑っているわけではないが、いずれにしても、ヴァルキリーへのマークは強めておかねばならないことは明白だった。
「それと、もうひとり」
「もうひとりだって?」
「私の後ろから、もうひとりやってくるわ。恐ろしいほどの勝利への絶対的な執念の持ち主……いえ、少し違うかしら……」
スローダンサーの意外な言葉にジョニィは少し驚いた。ヴァルキリーのほかに注意すべきライバルが多いのは確かだが、スローダンサーが名指しで警戒する相手にジョニィは心当たりがなかった。
だから、ジョニィはこう言葉をかけてやることにした。
「スローダンサー、少し気を張りすぎているみたいだ。ライバルが多くて緊張する気持ちはわかるけど、今は自分の走りを貫くことに集中しよう」
「……ええ、そうね。集中、集中」
スローダンサーが両手で頬をぺしぺしと叩き、気合を入れ直す仕草を見せる。ジョニィは何気なく皐月賞の出走表を手に取り、そこに書かれているウマ娘たちの名前をずらっと眺めてみた。
ふと、とあるウマ娘の名前がジョニィの目に留まった。ドゥラメンテ。共同通信杯での印象深い走り。世間からの注目度。まるで自分の勝利しか見えていないかのような鋭く燃える眼差し。
(……まさかね)
ジョニィは出走表を元の場所へしまい、気を落ち着けるためにお茶を一杯あおった。
出走準備のアナウンスが流れたのは、その直後だった。
「行ってきますねぇ、トレーナーさん」
「ああ、行っておいで」
力強くスローダンサーを送り出し、自らも観客席へと移動するジョニィ。だがその胸中には、スローダンサーが直前にこぼした言葉がトゲのように引っかかっていた。
中山の芝は春の陽光を浴びてきらきらと輝き、ウマ娘たちが通りがかる時を今か今かと待ち受けていた。コース形状こそ弥生賞と同じながら、その長さは弥生賞の比ではないほど果てしなく錯覚させられる。
「二番ドゥラメンテ、四番人気です」
「初の中距離挑戦となりますが、私はやってくれると期待していますよ」
実況と解説によるパドックの読み上げが始まる。今から名前を呼ばれる全員が、ヴァルキリーのライバルなのだ。
「七番キタサンブラック、一番人気です」
「弥生賞での勢いを評価されての人気でしょうね。このレースでも魅せてくれることでしょう」
「二番人気、九番スローダンサー」
「とても落ち着いていて、いい雰囲気です。充分に力を発揮できそうですね」
「十番サトノダイヤモンド、三番人気です」
「ホープフルステークスでの力強い走りがいまだ記憶に新しいです。ここは勝ちたいところでしょうね」
ヴァルキリーは結局五番人気というところに落ち着いた。弥生賞での走りはキタサンブラックと互角だったはずだが、華のある彼女にファン人気ではいま一歩及ばないというところか。
(なに、人気で勝負が決まるわけじゃあねえ。見せるんだ……黄金の回転を、その走りを)
パドックのヴァルキリーに向かって、ジャイロが観戦席から念を送る。それに気付いたわけではあるまいが、ふとヴァルキリーがこちらを向いて笑顔で手を振ってきた。
やがて迫るゲートインの時間。余裕に満ちたウマ娘たちの表情がにわかに真剣みを帯びる。残酷な勝負の世界、そのゲートが今開かれようとしていた。
かたずを呑んで見守る観客たち。ジャイロの手にじっとりと汗がにじむ。そして──
「スタート! 各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました!」
ガシャン、という音とともに一斉に飛び出すウマ娘たち。泣いても笑っても一生に一度のクラシック三冠、その一歩目がついに踏み出された。
「先頭争いはキタサンブラック、ヴァルキリー、ミニロータス」
弥生賞の時とは異なり、キタサンブラックは真っ向からハナ取り争いを挑んでくるようだ。しかしここでおめおめと白旗を上げるヴァルキリーではない。
「さあ、ここでハナに立ちましたヴァルキリー! このまま押し切ることができるか!」
押し切るしかない。ヴァルキリーは根っからの逃げウマ娘だ。後ろのウマ娘が何を考えていようと、ただ自分のペースで逃げ切るだけだ。黄金の回転も依然として安定している。力強くターフを蹴る脚の勢いに翳りはない。
「一バ身離れてミニロータス、続いてキタサンブラック! 少し離れてブリーズカイト、カスタネットリズム、インテンスリマークと続きます」
やはりというか、有力候補のウマ娘が後方脚質に偏っているおかげで、中団が混戦状態にあるようだ。このまま潰し合ってくれれば、ヴァルキリーにとってはチャンスになる。
「中団がひとつにまとまって大混戦の様相を呈しています! 頭ひとつ抜けたのはスローダンサー、その外並んでサルサステップ、内からサトノダイヤモンド! 最後方からの立ち上がりとなったドゥラメンテ、大丈夫でしょうか?」
「この位置なら周囲の状況を俯瞰できます。冷静にレースを進めていますね」
最後方にドゥラメンテ。実況が何気なく発したその言葉に、ジャイロは背筋に緊張を走らせることになった。団子状態の中団から外れて冷静に走ることができるのはもちろんのこと、以前のドゥラメンテにあったなりふり構わぬ荒々しさがなりを潜めているように感じられたからだ。ドゥラメンテほどの末脚の持ち主に冷静に走られたら、果たして逃げ切れるかわからない。せっかく掴んだ攻略の糸口が用をなさない。
(さすがに無策で来るほど愚かじゃあないか……手強いぜ)
ジャイロは密かにほぞを噛んだが、いずれにしてもヴァルキリーにはいつも通りの走りをしてもらうしかない。
ペースこそ早いはずだが、ジャイロの目には皐月賞というコースは弥生賞のそれよりもはるかに長く見えていた。それだけ強く、早くヴァルキリーに勝って終わってほしいと願うがゆえであった。しかしそんな願いとは裏腹に、向正面半ばで後続に動きがあった。
「さあ、前に出ましたサトノダイヤモンド! ここから仕掛けどころだ!」
団子状態で進んでいた中団のウマ娘たちが、続々と先団目指して差を詰めてきたのである。先んじて仕掛けたのはサトノダイヤモンド。それに呼応する形で、スローダンサーの動きも激しさを増していった。
「サトノダイヤモンド、先団を目指して加速していきます! さらに続いてスローダンサー! ぐんぐんと前との差を縮めていきます!」
差を詰められているとはいえ、ヴァルキリーはいまだ先頭一番手にいる。黄金の回転のおかげで、脚も充分にためられている。このまま進めば、スパートで逃げ切ることも可能だろう。そんな距離感だった。
異変が起きたのは、そんな時だった。
「はあああっ!」
バ群の最後方から、咆哮にも似た気勢を上げる者がいた。ドゥラメンテだ。レース場全体にびりびりと伝わる圧倒的な存在感。そんな強者のオーラを自分がまとっていることに気付いているのかいないのか、ドゥラメンテはみるみるうちに中団のウマ娘をごぼう抜きにしていく。やはりというか、ドゥラメンテはこの時を狙っていたのだ。
中団から仕掛けていたスローダンサーとサトノダイヤモンドも異変に気付いたか、先団を目指すその脚をより急がせる。だが、ドゥラメンテの脚は無情にも、あっさりとふたりの元へ追いついた。
レースはそのまま第三コーナーへ。相変わらず先頭はヴァルキリー、そのすぐ後ろにキタサンブラックという格好だ。以前のようにスリップストリーム走法を使われたとしても、こちらは黄金の回転のキレが増している。追い比べなら互角の戦いができるはずだった。だが。
「外から上がってきたのはドゥラメンテ! またたく間に先団に追いつきます! 続くスローダンサー、サトノダイヤモンド!」
スパートをかけるなり、爆発的な加速力であっという間に先団のすぐ後ろへと迫るドゥラメンテ。ジャイロは反射的に立ち上がった。まずい。この距離で追込ウマ娘に迫られたら、ひとたまりもない。
「外からドゥラメンテ、強烈な追い上げ! ヴァルキリー、キタサンブラック、必死に逃げます! ここで並んだ並んだ!」
「逃げろ……ヴァルキリー」
祈るように絞り出したジャイロの声は、観客の大歓声にかき消された。誰もがドゥラメンテの勝利を確信した、まさにその時。
「私は、トレーナーの勝利の女神だ。こんなところで負けられない! もう一度、黄金の回転を……!」
「ダイヤちゃんと約束したんだ……最高のレースにするって!」
脚が残っていないはずのヴァルキリーとキタサンブラックが、再び力強くターフを蹴る。さらに、
「負けない……今度こそ、キタちゃんに並ぶウマ娘になる!」
「黄金の回転の力……あなどってはいけないよぉ」
一度は抜き去られたサトノダイヤモンドとスローダンサーも、ためていた脚を解き放って最後の力でドゥラメンテに食らいつく。
「うおおおああ!」
誰のものともつかない叫びが、レース場にこだまする。そして──五人は一斉にゴール板に飛び込んだ。
「ドゥラメンテ、ヴァルキリー、サトノダイヤモンド、三人もつれるようにゴールイン!」
場内がざわめきに包まれる。電光掲示板に皆の注目が集まる。やがて表示された番号は──
「一着はヴァルキリー! 執念の末脚でレースを制しました! 二着ドゥラメンテ! 三着はサトノダイヤモンド!」
わあっと歓声に包まれる会場。ジャイロも思わず拳を握りしめた。
「か……勝ったの、私……?」
勝利の興奮と困惑の冷めやらぬ中、ウィナーズ・サークルへと向かうヴァルキリー。
「ええと……皆さん、応援ありがとうございました! 皆さんのおかげで私は、最も速いウマ娘の栄誉にあずかることができました!」
そこから先の言葉は、ジャイロはよく覚えていない。割れんばかりの歓声にかき消されて、よく聞こえなかったのだ。ジャイロは栄冠を手にした愛バをねぎらうべく、ひと足先に地下バ道へとおもむくことにした。
薄暗くもどこか暑苦しい地下バ道で待ち構えていると、最初に姿を現したのはヴァルキリーだった。彼女はジャイロの姿を認めるや否や、緊張の糸が切れたように顔をくしゃくしゃに歪め、目に涙をたたえて駆け寄ってきた。そのままの勢いでジャイロの胸元へ抱きついてこようとする。
「おいおい、気を付けてくれよ。ウマ娘を受け止められるほど、頑丈にできちゃいない……俺たち人間はな」
「あっ……ごめんなさい」
申し訳なさそうに離れようとするヴァルキリーの背中をジャイロはそっと抱き寄せ、
「まあ……よくやった」
そうねぎらった。ヴァルキリーはジャイロに抱きかかえられるまま、彼の胸の中でわけもなく涙を流した。
「勝ったんですよね……私」
「ああ」
「最初は、私なんて才能がないって思いました。黄金の回転だって、私にできるわけがないって思いました。でも……勝ちました。クラシック級GⅠで。あんなにすごいライバルたちに勝ちました。最も速いウマ娘になりました」
「ああ」
ヴァルキリーはジャイロの腕の中で、泣きはらした顔を真っすぐに上げ、
「トレーナーのおかげですよね」
静かにそう言った。しんと静まり返った地下バ道に、彼女の声だけがこだました。
「そいつは違う。アンタの努力と俺の技術がかみ合った結果にすぎない。どちらが欠けても、今日の勝利はなかった」
ジャイロはそう答えたあと、不意に頭をかきむしり、
「ああ、クソッ。アンタのトレーナーになってから、ずっと柄にもないことばっかり言ってる気がするぜ」
自分でも照れ隠しが下手だなと思いながら、それでも勢いに任せて言った。そんなやり取りを続けていると、
「あらあら。相変わらずお熱いことねぇ」
いたずらっぽく笑いながら語りかけてくる声がした。スローダンサーの声だとすぐにわかった。ジャイロはヴァルキリーを抱き寄せる腕をぱっと離し、スローダンサーと正対して帽子を直した。
「お疲れさん。いい走りだった……アンタもな」
「スロさんったらまたそうやってからかって。私たちは別にそんなんじゃないったら」
「照れなくてもいいのに。ヴァルちゃん、本当に強くなったわね。自分の走る理由を、走りへの想いを見つけたって顔してる」
「……えっ?」
スローダンサーの放った言葉に、素っ頓狂な声を上げるヴァルキリー。意外なところから図星を喰らったとみえる。
「あら、違ったかしら」
「いいえ、違わないわ。走りにかける私の想いは、以前とははっきりと違う。スロさんにまでお見通しだっていうのは意外だけど」
「良かったら、教えてくれないかしら。わたくしは負けてしまった身だから、いいでしょう?」
ヴァルキリーがジャイロの顔色をちらとうかがってくる。ジャイロが小さくうなずき返すと、ヴァルキリーは再びスローダンサーの目を真っすぐに見た。
「スロさん。私はね、『勝利の女神』になることにしたの。私をそう呼んでくれる人、私の勝利を信じて疑わない人のために走ることにしたのよ。それが、今の私が走る理由」
「……なるほどねぇ。少し、納得がいったわ。それがヴァルちゃんの強さの秘訣なのねぇ」
「そういうスロさんは、どんな想いで走ってるの?」
ヴァルキリーの質問に対し、スローダンサーは人差し指を口に当ててウインクしてみせた。
「まだ内緒。そのうち教えてあげるわね」
「えーっ、そんなのアリ?」
「ふふっ。クラシック路線が終わるまでには教えてあげるから、今はそれで勘弁してちょうだい。それじゃあねぇ」
そう言って、足取り軽くスローダンサーは控室方面へと消えていってしまった。地下バ道にぽつんと残されるふたり。
「……なんだったんだ」
「さあ……いつものスロさんって感じでしたけど」
「あーっ! よかったあ、まだふたりとも残ってた!」
突如、高らかにこだまする黄色い声。顔を見ずともわかる。キタサンブラックがやってきたのだ。声のしたほうへと振り返ると、キタサンブラックのそばにもうひとり、サトノダイヤモンドの姿も見える。
「おうおう、相変わらず威勢がいいなァ」
「だって、こんなに楽しいレース初めてで! あたしは負けちゃいましたけど、正直『悔しい』よりも『楽しい』が勝っちゃってるんです!」
「うん……私も同じ気持ち」
サトノダイヤモンドが相槌を打った。心なしか彼女たちの頬はほのかに紅潮している。楽しかったというのは本当のことなのだろう。
「私は今日も、サトノ家のジンクスを破れませんでした。名誉あるGⅠを獲れなかったのです。けれどもそれ以上に、ライバルのみんなと素晴らしいレースができて、誇らしい気持ちでいっぱいなのです。自分でも、上手く心の整理がつきません」
「ジンクスか。それが走りへの想いというわけだ。アンタにとってのな……」
ジャイロがこぼした言葉に、ぴくりと耳を反応させるサトノダイヤモンド。
「もちろん、それがすべてというわけではありません。以前お話しした、キタちゃんと一緒に走る夢というのも本当のことです。しかし今の私は、サトノ家の悲願を成し遂げるためのウマ娘としてここに来たにもかかわらず、敗北という結果を驚くほどあっさりと受け入れてしまっている。私はそれが恥ずかしくもあり、どこか誇らしくもあるのです」
「すごいな、ダイヤちゃんは。そんなことまで考えて走ってたんだね」
感嘆の声を漏らすキタサンブラック。
「あたしはただ、大きな舞台で勝利を飾ってみんなを盛り上げたい……って、それくらいのことしか考えてなかったからさ。だから、自分の中に『これ』って決めた想いをもって走れるみんなが、正直ちょっと羨ましいかも」
「今日勝った私が言うと、嫌味っぽくなっちゃうけど……キタサン、あなただって立派な想いを背負っているじゃない。ダイヤと一緒に大舞台を走ることだって、あなたの夢だったんでしょう?」
「うん……それはそうだけど」
「だったらその想いがきっと、今日までのあなたを形作ってきたのよ。あなたの強さを間近で見てきた私には、それがよくわかる」
「そうなのかな……?」
いまだ腑に落ちない様子のキタサンブラック。それでもなんとかヴァルキリーの言葉を飲み込んだようだった。
「うん、きっとそうだね。ありがとう、ヴァルキリーちゃん」
「ジャイロさんとヴァルキリーさんは、不思議な人ですね。お話ししていると、なんだか心がストンと整理されていくような心地がします」
「よせよ。大袈裟だ」
「そうよ、私はただ思ったことを言っているだけ」
ヴァルキリーがゆったりと笑う。それを合図に四人の会話もひと区切りついて、キタサンブラックとサトノダイヤモンドが控室のほうへと去っていった。
「さて、もうあとひとりくらい話しておきたいところだなァ。特に、そこで立ち聞きしているドゥラメンテさんとかな」
離れたところに立っているドゥラメンテに、わざと聞こえるような大声でジャイロは独り言を放った。観念したようにつかつかと歩み寄ってくるドゥラメンテ。
「気付いていたのか」
「ダイヤの奴が話してるくらいのタイミングからな。あるんだろう、俺たちに言いたいことが」
「ああ……」
ジャイロの言葉に呼応するように、ドゥラメンテは大きく息を吸い込んで、
「──いい勝負だった。ありがとう。それと、次は勝つ」
とだけ言い放った。
「ええと……それだけかしら?」
「うん? それ以外の言葉が必要か?」
ドゥラメンテが不思議そうな顔をする。そういえばこいつは口数が少ないほうだったな──とジャイロは思い出していた。
「ひとつ聞きたい。俺たちがこれまで出会ってきたウマ娘連中は、皆それぞれ走りへの想いってやつを持っていた。アンタはどうなんだ?」
「そうだな……想いと呼べるのかはわからないが」
ドゥラメンテはあごに手を当てて考え込むそぶりを見せながらも、顔色ひとつ変えることなく答えた。
「勝つことは……私にとって当たり前だ」
「……なんだと?」
「私はアスリートの家系の生まれなんだ。だから周囲は当然私に強くあってほしいと願うし、私はその期待に応えてきた。ただ、それだけだ」
聞く者が聞けば傲岸不遜ととられかねない話を、こともなげに淡々と語るドゥラメンテ。しかし彼女の話は、ジャイロにも身に覚えがあった。家柄、生まれについて回る責任。
「聞かせてくれ。アンタ……『納得』しているのか? その家柄に……アスリートの家系の者として走ることに、心から『納得』して走っているってのか?」
「もちろんだ。それが私の走る理由だ」
「……そうか。よくわかった。アンタの強さの理由が」
「トレーナー……」
ヴァルキリーが心配そうにジャイロの顔を覗き込む。どうやら彼女にも、ジャイロの言いたいことが伝わってしまったらしい。
己の心に「納得」して走ること。それが何より大切だとジャイロは身をもって知っている。そして、ドゥラメンテはその「納得」を既に手にしているとはっきり言い放った。それほどの相手に今日のヴァルキリーが勝てたことは、ある種の奇跡かもしれない。
「引き留めて悪かったな。話は終わりだ」
「そうか。では私は行くよ。グル姉が待ってるからな」
乾いたリズミカルな足音を地下バ道に響かせて、ドゥラメンテもまた去っていった。その足音がすっかり聞こえなくなるのを待っていたかのように、ヴァルキリーが切り出した。
「ルドルフさんの言う通りでしたね、トレーナー」
「ああ。スローダンサーには煙に巻かれちまったが、やっぱ認めざるを得ないな。走りにかける想いとやらが、ウマ娘の脚に力を与えている事実ってやつを」
「でも、それなら条件はこちらも同じです」
ヴァルキリーが握り拳を胸に当て、思いつめた表情をした。その目は赤黒く燃え、頬は紅潮していた。
「私は、『勝利の女神』になります。家族のため、トレーナーのために。この想いを武器に、私はライバルたちみんなと戦います」
多くの者の運命が交差する皐月賞は、こうして決着を見た。
クラシック三冠、まずは一勝。ヴァルキリーの決意は緩むことなく、むしろ赤熱した闘志によって研ぎ澄まされていくのだった。