真っ赤に燃える空を背に、ジャイロとヴァルキリーはしっかりとした足取りで帰路についていた。ジャイロの脳裏には、かつてジョニィに語られた言葉が蘇っていた。
(君にとっては人生の通過点にすぎないだろうが、彼女らウマ娘にとって、トゥインクル・シリーズは一生に一度の大切な──)
なぜ今になってこんな言葉を思い出したのか、ジャイロ自身にもわからなかった。ただひとつ考えられることとして、ジョニィに問いかけられた「この世界でどう生きていくか」という命題に対して、自分なりの答えが練り上げられてきたせいかもしれないとは思った。
一生に一度のトゥインクル・シリーズ。その過酷な戦いに血道を上げるウマ娘たち。彼女らの生き様を間近で見、そして支えてきたジャイロの目には、これまでと明らかに違う景色が見え始めていたのだった。
「どうしましたかトレーナー、ぼうっとしてると危ないですよ」
歩きしなにヴァルキリーにそう話しかけられて、ジャイロははっと顔を上げた。テンガロンハットがふわりと浮き上がり、頭から転がり落ちそうになるのを慌てて押さえつける。
「ぼうっとしてなんかいない。考え事をな」
「そういうのを、ぼうっとしてたっていうんですよ。せっかく勝ったっていうのに、浮かない顔してますね」
「ああ……まあな」
どうやってはぐらかそうか考えたが、今日というめでたい日くらい隠し事は抜きでもいいだろう。ジャイロは素直に白状した。ジョニィに問われたことを。自分もようやく、ジョニィと同じようにトレーナー業を本気でやってみる覚悟が固まってきたということを。
ひとしきり話を聞き終えたヴァルキリーは、露骨に不服そうな顔をした。
「えーっ。トレーナー、ひょっとして今まで本気じゃなかったんですか?」
「そういうことじゃあない。トレーナー業にかけては手を抜いたことはない。これは俺自身の問題だ。俺はいまだに、故郷ネアポリスの──元の世界での暮らしを懐かしんでいたのかもしれない。心のどこかでな。その未練を捨てる覚悟ができたということだ」
「覚悟……ですか」
ヴァルキリーがぼそっとつぶやく。ジャイロは真っすぐ前を見据え、力強く一歩一歩踏み出しながら言葉を紡いだ。
「俺の帰るべき場所はこの世界だ。トレセン学園だ。アンタの隣だ。その事実を俺の中で受け入れる準備が、ようやく整ったということだ」
「……そうですよね。私は当たり前に受け入れちゃってましたけど、トレーナーがこの世界にいることは、本来は普通じゃない。元の世界に未練だってありますよね」
「未練がまったく綺麗に消えたと言えば噓になるが……踏ん切りがついたのさ」
ジャイロはそう言って恥ずかしげに頬をかき、
「……こっちの世界にも、俺の『家族』とやらがいるらしいからな」
その「家族」から露骨に目をそらして言った。
「トレーナー、それって──」
「だああクソッ、二度は言わねえぞ! この話は終わりだ」
「そんな照れなくたっていいじゃないですか。家族でしょ私たち」
「しつこいぜッ! それ以上言うと、オメーの脚に黄金の逆回転ぶち込んで後ろ向きに走らせてやるからなッ」
夕暮れの歩道でやいのやいの言い合いながら歩くふたり。その姿は道行く人々からは、まさしく仲睦まじい兄妹のように見えたことだろう。
その晩のことだった。ジャイロの前に、彼女が姿を現したのは。
「やあ、運命の旅人さん。とうとうここまでたどり着いたね」
キザったらしく片手を腰に当て、燃えるような赤髪を風になびかせて、そのウマ娘は言った。
「なるほど、アンタが最後の三女神ってわけかい」
「いかにも。状況の飲み込みが早いね。俺のことは、ダーレーアラビアンと呼んでくれ」
「そりゃあこちとら四回目だからな。奇妙な夢には、決まってアンタらが現れるとわかりきってる。んで、今回はなんの要件だ」
もはや慣れきったやり取りを繰り広げながら、急ぐかのようにジャイロは話の先をうながす。そう、ここは例によって暗闇の向こうから光が差し込んでくる奇妙な夢の中。しばらく顔を見せていなかったが、この手の夢には決まって三女神を名乗るウマ娘が出現するとわかりきっていた。
「もう気付いているかもしれないけど、俺たちが君の夢の中に現れるのは、君の運命が大きく動いた時だと決まっているんだ」
「決まっている? まるで自分の意思で出てきているわけじゃあない、みたいな言い方だな」
ジャイロが発した疑問に対して、ダーレーアラビアンはやれやれと肩をすくめてみせた。
「いいところに気が付いたね。いかにも俺たちは、君の夢の中へ自由に顔を出せるというわけじゃない。君の運命が大きく動いた時、あるいは動こうとしている時にだけ、こうして会いに来られるのさ」
「運命ねえ。あとのふたりも似たようなことを言っていたな。その運命が動く時ってのは、ウマ娘どもが本来たどるべき運命から大きく外れた時って意味か?」
ジャイロが再び問うと、ダーレーアラビアンは今度は両手を腰に当てて小さくかぶりを振ってみせた。まるで、その問題はとっくに教えただろうと諭す小学校の教師みたいに。
「そうじゃない。ほかのふたりから聞いていないか? 運命とは一般的に考えられているような、常にひとつに定まっているものじゃないんだ。それはとても不安定で、流動的で、時として暴慢なものだ。『本来たどるべき運命』なんてものは、存在しないんだよ」
「じゃあ結局なんなんだ、アンタらの言う『運命が大きく動く時』ってのは」
「それもいい質問だね」
ダーレーアラビアンは両手の人差し指を合わせ、片方の指を真っすぐ離していく仕草をする。
「運命というのは、例えるなら列車の線路のようなものだ。この線が、今の君たちが乗っている運命という名の線路だとする。いつもは真っすぐ一本の線路に乗っている君たちだが、線路というのはご存知の通り一本道じゃない。必ずどこかに分かれ道があって、切り替えるポイントがある」
ジャイロにもようやく少し話が見えてきた。ダーレーアラビアンは、真っすぐに動かしていたほうの指の軌跡を、ある地点から直角に折り曲げてみせた。
「飲み込めてきたかな。そうだ。この線路の切り替えポイントこそが、俺たちが言うところの『運命が動く時』というわけ。運命はある地点から幾通りもの可能性に分岐していって、君たちはその中からひとつを選び取らなくてはならない。ちょうど線路の切り替えポイントを操作するように。今回の皐月賞の例でいうなら、ドゥラメンテが勝つ運命も、サトノダイヤモンドが勝つ運命もきっと存在しただろう。その中で、選ばれたのはヴァルキリーが勝つ運命だった。君たち自身が選び取った運命なんだ」
「俺たちはともかく、ほかの連中はヴァルキリーが勝つ運命を望んでいたとは思えないがな」
「望んでいるというだけでは、その運命にたどり着くには不充分だよ。運命の切り替えポイントは、見た目よりもずっと複雑な作りなのさ」
「ふうん。まあ、だいたいのことはわかった。アンタたちがその、運命の切り替えポイント付近でしか姿を現せないってこともな」
「理解が早くて助かるよ」
ひとつため息をつくと、再びリラックスした姿勢に戻るダーレーアラビアン。
「んで、アンタは今回それだけのことを言いにきたのか? 運命とは不安定なものなんですって、俺に伝えるためにわざわざ?」
「まさか。それも大事な話には違いないけど、もっとほかに伝えるべきことがあるんだよ」
そう言うと、ダーレーアラビアンは急に神妙な面持ちでジャイロを真っすぐ見据えた。エメラルドのような彼女の瞳がぎらりと光る。
「ジャイロ。君たちには近いうちに、試練が降りかかることになると思う。そんな予感がするんだ。だからくれぐれも、ヴァルキリーから目を離さないであげてほしい。これは君のためでもあるんだ」
「そんなこと、言われなくてもわかって──」
ジャイロが反論しようとしたが、有無を言わさぬダーレーアラビアンの気迫に気圧されて言いきれなかった。代わりに、
「言いたいことはそれだけか? なら、とっとと消えてくれ」
苦しまぎれに、ダーレーアラビアンに向かって鉄球を投げ放った。これ以上彼女の気迫を浴びていたくなかった。というより、彼女の吐く不吉な言葉に耳を貸す気になれなかった。バイアリータークの時と同じように、ダーレーアラビアンの姿も鉄球が命中すると同時に、陽炎のように揺らめいて消えた。
「なんだってんだ、まったく」
ジャイロの独り言が、自室の壁にこだました。夢から醒めたのだとすぐにわかった。起きるにはまだ少し早い時間だったが、寝直す気分にもなれず、もう何度目かもわからない早朝のイタリアンコーヒーを淹れにキッチンへと向かうのだった。
うららかな春の陽気を身に浴びながら、ジャイロはトレセン学園へと向かっていた。この世界、もといこの国で一年間過ごしてみてわかったことだが、四季がこれほどはっきりしていて様々な景色を見せてくれるというのは、なかなか目に楽しい。ジャイロの故郷ネアポリスも比較的はっきりと四季が巡る気候をしているが、例えば彼が今歩いている道を鮮やかに染める桜並木のように、日常生活の色彩さえもがらりと変えてしまう日本の季節というものには、さすがのジャイロも素直に感嘆の息を漏らすほかなかった。
桜色に染まった景色に目を奪われ、うっかり足を滑らせないようにと気を付けながらジャイロが歩みを進めていると、そんな彼に話しかけてくる声があった。ジョニィだった。
「おう、早いな」
「君こそ。案外真面目に通勤してるんだね」
「当たり前だろう。不真面目なトレーナーが皐月賞を獲れるもんか」
「あはは。言ってくれるね」
軽口を叩き合い、並んで通勤路を歩くふたり。
そういえば、とジャイロは思い出した。自分がヴァレンタイン大統領に敗れてから、ジョニィは少しだけ長く生きたと言っていたが、どんな経緯でこの世界にたどり着いたのか詳しく聞いていない。この機会に問いただしてみようか──などと考えていると、ジョニィのほうから教えてくれた。
「僕の妻は日本人なんだよ。だから元の世界ではこうして、日本の風景を眺めながら歩く機会もあった」
どこか懐かしむように、慈しむように遠い目をして、穏やかな口調で語り出すジョニィ。
「本当にいいところだよね。妻は、こんなに美しい国で生まれ育ったんだなって、今になって思い知ったよ」
「それなんだがよォ、お前がこの世界に来たってことは、やっぱり元の世界では死んでるんだよな。十年くらい経ってからのことだって言ってたか」
「ああ……今にして思えば、この二度目の生は僕にとって贖罪の機会なのかもしれない。『聖なる遺体』を身勝手に利用しようとした僕の」
「なに……?」
ジャイロは耳を疑った。ジョニィが遺体を使ったというのか。かつてヴァレンタイン大統領が血眼になって探し集めていた、あの「聖なる遺体」を。
「待てジョニィ……テメー、今なんつった? 『聖なる遺体』を利用したと……そう言ったのか」
「……妻が病気にかかってね。原因不明の奇病だった。僕はそれを治すために──たった一度だけ、それっきりのつもりで──『聖なる遺体』の力で妻の身体に宿る悪しきものを取り払った。そのはずだった」
「ジョニィ……オメー、なんつー罰当たりなことを。わかってんのか、自分のしたことが。『聖なる遺体』を自分のために使うなんざ、あのクソッタレの大統領とおんなじじゃねえか!」
ジャイロの語気が猛然と強くなる。対照的に、ジョニィの目は憂いをたたえていた。
「そうだね、ジャイロ。何もかも君の言う通りだ。確かに僕には罰が当たった。『聖なる遺体』の力は、悪しきものをどこかの誰かにおっ被せる力。その矛先となったのが、ほかならぬ僕の息子だった」
「……なんてこった」
あまりのことに、ジャイロは言葉が出てこなかった。それでもジョニィの語り口は続く。
「僕は『聖なる遺体』に対して──奇跡の力に対してあまりにも傲慢だった。そのツケは自分の身で支払わねばならない。そう考えた僕は、息子の身におっ被せられた悪しきものを『聖なる遺体』の力で再び取り払い、爪弾の回転エネルギーでそのおっ被せ先を僕自身に仕向けた。僕は僕自身のスタンドで死んだのさ。聖人を冒涜した代償として──」
なんということだろう。いくら頭を振っても、ジャイロはジョニィにかけるべき言葉を思いつくことができなかった。あろうことかジョニィが「聖なる遺体」を利用し、その代償としてかくも壮絶な最期を遂げていたとは。
「……お前のことだから、どうせ普通の死に方はしちゃいないだろうと思ってたけどよォ」
「ごめん、朝っぱらからする話じゃあなかったね」
「まったくだ。今朝のすがすがしい気分が台無しだぜ」
「ともかくそういうわけだから、僕はこの第二の人生を、聖人への贖罪だというつもりで生きてみることにしたんだ。ほら、この国にも三女神と崇められる存在がいるだろう? それらに対して、今度は不敬をはたらかないように気を付けながらさ。僕がトレーナー業を本気でやろうと思ったのは、そういうわけなんだ」
「そうかい。俺はこう見えて信心深いタチだから、そうやすやすと宗旨変えはできねえがな」
「ははっ、君らしいね。皐月賞は譲ってしまったけれど、日本ダービーは僕とスローダンサーが獲る。いい走りを見せられるように準備しているから、期待しててくれ」
ちょうどトレーナー寮の前にたどり着いた辺りでそう言い終えると、ジョニィはひと足先に建物へ入っていった。ジャイロは帽子を取って頭をかきむしると、
「朝っぱらからとんでもねえ話聞かせやがって……まったく」
先を行くジョニィの背中に向かって吐き捨てるように、小さくつぶやいた。
この日のジャイロの仕事は、トレーニングではなかった。皐月賞を獲ったヴァルキリーの元へ殺到する取材の声にひとつひとつ応対し、記者会見の場をセッティングすることだった。
これまでほとんど意識してこなかったが、ヴァルキリーの活躍を応援するファンの声は、皐月賞以前の比ではないほどに大きくなっていた。それらは各種ソーシャルメディアでの反応や、トレセン学園宛てのファンレターという形で顕著に表れていた。皐月賞直後に簡単な勝利者インタビューを行いはしたが、この機会に正式な記者会見で日本ダービーへの所信表明を行っておくことは、ヴァルキリー本人にとっても意義あることに違いない。そう信じて、ジャイロは頭が痛くなるような数のメディアからの打診にひとつひとつ丁寧に返事を入れていくのだった。
「トレーナー、お疲れ様です」
自主練を終えたヴァルキリーが入ってきた。今日は練習メニューを終えたらそのままあがっていいと言ってあったはずだが、なぜトレーナー室に寄っていくのだろう。ジャイロはその疑問を口にしようとして、こんな問いは無意味だと思い直し喉の奥に引っ込めた。
「ヴァルキリーか。アンタもお疲れさん。ちゃんとサボらず励んでただろうな」
「まさか。指示されたメニューの倍はこなしてやろうってつもりでやってましたよ」
「結構。俺のほうも、ぼちぼちひと区切りつきそうだ」
「それって例の、記者会見のためのお仕事ですか」
「ああ。ファンの存在がアンタにとってどんな意味があるかは知らないが、メディアに露出して大々的にアピールすることは、ほかのライバルどもに対する刺激にもなるだろうしな」
「そうですね。私も記念すべきダービーへ向けて、改めて決意表明をする機会が欲しいと思っていましたから。皐月賞勝利バとして、弾みをつけるチャンスです」
「ずいぶん頼もしいな。アンタのことだから、もっと緊張しているもんだと思っていたが」
「もちろん緊張はしてますよ。けど、不安はありません。黄金の回転が全部吞み込んでくれましたから」
「ハッ、覚えていてくれたか。それならいい」
ヴァルキリーの様子を見るに、確かに不安がってはいないようだ。あの苦しまぎれの大道芸みたいな励ましも、多少は役に立ったとみえる。
「そういうことだから、こんなところで油売ってないでさっさと帰って休め。仕事の邪魔だ」
「はーい。おやすみなさい、トレーナー」
ジャイロの穏やかな憎まれ口を意に介す様子もなく、さっさと部屋を去っていくヴァルキリー。彼女の背中を見届けてから、残りわずかとなった仕事へと再び視線を落とす。
ヴァルキリーはああ言っていたが、記者会見も日本ダービーも、本当に苦労せねばならないのは彼女本人である。それを思えば、今ジャイロの目の前に広がっている雑多な仕事の数々も、苦労のうちには入らなかった。
(やってやる。日本人のジャーナリスト相手なんぞ勝手がわかるはずもないが、俺はアイツのトレーナーで、兄貴分なんだからな)
手にしたマグカップのコーヒーを勢い良く飲み干すと、ジャイロは最後のひと仕事に取りかかった。
それから何日か経って。皐月賞の余韻もすっかり収まり、ジャイロとヴァルキリーはいつものトレーニングに励む毎日を送っていた。
「フォームが乱れてんぞ! 坂路でも黄金の回転は崩すな!」
「はい!」
走り込みをするヴァルキリーに向かって、ジャイロの激の声が飛ぶ。
ヴァルキリーの最大の課題であった黄金の回転の維持は、今やほぼ克服したと言って良かった。次なる目標は、スタートダッシュ時に見せる完璧な黄金の回転を、道中でもより完璧に近付けたまま走行することだった。そのために今こうして、坂路を交えた走り込みトレーニングに精を出しているところなのである。
「よし、十分間休憩を入れよう。クールダウンしながら戻ってこい」
ジャイロがそう声をかけ、ヴァルキリーがトラック脇のベンチに戻ってくる。彼女の顔には多分の疲れと、それ以上の充実感が浮かんでいた。
「どうですかトレーナー、私のフォームは」
「確実に向上してきている。スタート時のみならず、道中でも黄金の回転をより高い精度で維持できるようになっている。あとは、坂路でもこの水準を保てるようになれば最高だ」
「ありがとうございます。私、強くなれてるんですね」
心から満足そうな笑みを返すヴァルキリー。自分が強くなることが相当嬉しいのだろう。
「時にアンタ、ダービーを戦うにあたって何か勝つためのビジョンみたいなものはあるか? 俺としてはいつもの逃げ切りでもいいとは思うが」
「ビジョン、ですか? うーん……今更ほかの作戦を試す余裕はないと思いますし、私も今まで通り逃げを打って、今まで通りの走りをすることしか考えてません。あ、でもひとつだけ、考えていることならあります」
「ほう。言ってみろ」
ヴァルキリーはひとつ咳払いをすると、かしこまってこう言った。
「トレーナー、初詣の時に私が何をお祈りしたか、まだ教えていませんでしたよね」
「初詣? どうした、そんな話を急に」
「まあ聞いてくださいよ。あの時私は、こうお祈りしたんです。『勝利の女神になれますように』って。だからダービーでも……いえ、菊花賞でも有馬記念でもなんでも、私は『勝利の女神』らしく、他を寄せ付けない走りで勝ってやろうって思ってます。それが、私のビジョンですかね」
ジャイロは目をぱちくりさせた。まさかそんな方向に話を持っていかれるとは思っていなかったからだ。しかしヴァルキリーの目は、笑っていながらも真剣だった。彼女は本気で、「勝利の女神」という言葉の通りに勝利を手にしようと目論んでいるのだ。
そう気付いた途端、ジャイロはなんだかおかしくなって、額に手を当てて呵々大笑した。
「ニョホホホ。アンタ面白すぎるぜ。初詣の時といやあ、エアグルーヴからトレーナーとの関係性の話を聞くより前のことだよなァ」
「ええ。そうなりますね」
「そんな前から、アンタは『勝利の女神』を目指してたってわけか。面白いぜアンタ」
「そ、そんなにおかしなことでしょうか……」
ヴァルキリーがふくれっ面をし始めたので、慌てて訂正するジャイロ。
「悪い悪い、そういう意味じゃあねえんだ。ただ俺は改めて『納得』したんだよ。ウマ娘の背負う想いが、そのままそいつの力になるって話をな。ここ最近アンタの成長が目覚ましいと思ったら、そんなカラクリがあったってわけだ」
「……そうですね。前に話したと思いますけど、私にとって『勝利の女神』という言葉は自分が走る理由となるに足るものです。それはそのまま、トレーナーとの信頼の証でもあると思っています。トレーナーもまた、私を『勝利の女神』だと呼んでくれた人ですから」
「そこに関しちゃ信用してくれていい。今の俺から見ても、アンタはまごうことなき『勝利の女神』だ」
「ありがとうございます。その想いを背負って走る限り、私は負けません」
ヴァルキリーの目に熱いものが宿る。それは彼女が今まさに背負っている想いそのものであろうか──ふと、ジャイロはそんなことを考えた。
「さて、すっかり話し込んじまったな。そろそろ行けるか」
「はい。休憩はもう充分です」
「よし、じゃあトラック一周ぶんフォームチェックしてやる。ダートコースで一本行ってこい」
ジャイロの合図とともに、勢い良く駆けだしていくヴァルキリー。彼女の脚は美しく均整の取れた黄金長方形の軌跡を描き、彼女の脚にぐんぐんと力を与えていく。遠くで見守るジャイロにも、それがはっきりと伝わってきた。やがてヴァルキリーはトラックを一周して、スタート地点へ戻ってくる──
異変が起きたのは、その時だった。
「きゃあっ」
突如、短い悲鳴を上げたかと思うと、ヴァルキリーが砂ぼこりを上げて転倒し地面を転がる。かと思うと、そのままその場でうずくまって動かなくなってしまった。
「ヴァルキリー!」
明らかにただごとではない。ジャイロは大慌てでヴァルキリーの元へ駆け寄り、彼女の容体を確認する。
「トレーナー……私は……」
ヴァルキリーは顔面蒼白、息も絶え絶えの様子で、額からは汗が滝のように流れている。よく観察してみると、彼女の右脚の太ももがまるで血でも塗ったかのように真っ赤に腫れあがっていた。
「誰か! 担架を持ってきてくれ、早く!」
ジャイロが必死に叫ぶと、その声に呼応する者がひとり、素早く担架を担いでやってきた。馴染みのある顔だった。
「アンタ……エアグルーヴか」
「何をぼうっとしている! 急いで保健室へ運ぶぞ!」
「あ、ああ!」
「ヴァルキリー、しっかりしろ。私が来てやったからな」
痛みにうめくヴァルキリーをなんとか担架に乗せてやると、ジャイロとエアグルーヴは一路保健室へと急いだ。
(ちくしょう……なんでこんなことに。俺のトレーニングメニューに不備などなかったはずだ)
保健室への道中、ジャイロは密かに己の不注意を悔いた。しかしそれが今はなんの用もなさないことに気が付くと、ジャイロは無駄なことを考えるのをやめた。
「結論から言うと、大腿骨の疲労骨折です」
保健室の先生は神妙な面持ちで、ジャイロたちに向けてそう告げた。「保健室の先生」とはいうが、トレセン学園に勤務しているだけあって、その内実はいっぱしの医者と呼んで差し支えない知見を有している。保健室の設備も病院顔負けの充実さで、なんとレントゲン室まで設えられているというから驚いた。そのおかげで、ヴァルキリーの疲労骨折も診断できたということなのだ。
ヴァルキリーは患部に添え木を包帯で固定された姿のまま、後ろのベッドで寝かされていた。これからジャイロたちが話す内容は、彼女にも筒抜けということだ。
「骨折……ってことは、治るのか」
すがりつくようにジャイロが問う。彼の期待に反して、保健室の先生は首を縦にも横にも振らなかった。
「治すことはできます。ただしそれは、完全に治りきるまで絶対安静にしていることが条件です。トレーニングやレースは控えてください」
「治りきるまでだと……いったいどのくらいだ」
「ヴァルキリーさんの症状を見るに……二か月は見込むべきかと」
ジャイロは愕然とした。二か月も動けないのでは、日本ダービーには確実に間に合わない。ヴァルキリーの──一生に一度のダービーが、こんなところで潰えるというのか。
「そいつは困る……なんとか早く治す方法はねえのか」
「ジャイロ殿。あまり無茶を言うものではない」
隣で聞いていたエアグルーヴが、ぴしゃりとたしなめた。
「ウマ娘の脚は『ガラスの脚』と形容されるほど、脆く繊細なものなんだ。下手なことをすれば、かえって治りが遅くなることだってある。二か月でまた走れるようになるというだけ、運が良かったと思うべきだ」
「……クソッ」
行き場のないやるせなさを、ジャイロは小さく毒づくことでしか発散できなかった。疲労骨折ということは、ここまで大きな怪我になるまで兆候は必ずあったはずなのだ。にもかかわらず、医学の知見を有する自分がそれを見抜けなかった。ジャイロにとって、屈辱と慙愧の念にたえなかった。
「……トレーナー。自分を責めないで。悪いのは私です」
不意にか細い声がしたので振り返ると、ヴァルキリーがベッドから上体を起こしてこちらを向いていた。相変わらず顔には生気がなく、今にも消えてしまいそうな儚さを漂わせていた。
「私はきっと、背負いすぎたんです。強くなりたいと思うあまり、たくさんの大きな想いを背負いすぎて、自分の脚が悲鳴を上げているのに気付かなかったんです」
「馬鹿言ってんじゃあねえ。トレーナーの責任だ……ウマ娘の怪我はな。つくづく自分が情けねえ」
「それを言うなら、貴様らにあのアドバイスをした私にも責任がある。許してほしい」
ヴァルキリーの言葉を皮切りに、たちまち沈痛な雰囲気がその場を支配する。さすがにいたたまれなくなったのか、保健室の先生が前向きなことを言い出した。
「皆さん、そう落ち込まないでください。私は早く治す方法がないとは言っていませんよ。効果的なのは栄養バランスを管理することです。カルシウム、タンパク質、ビタミンDといった栄養素をバランス良く摂取することで、骨折の治癒促進が見込めます」
「そんなことは俺だって知ってる……が、確かに何もしないよりはマシだな」
「とにかく私から言えることは、ヴァルキリーさんは経過観察しつつ絶対安静。先ほど述べた栄養バランスを意識しつつ、回復に専念してください、ということです」
「ええ、わかりました」
保健室の先生の診察を終えて、ジャイロとエアグルーヴはヴァルキリーをトレーナー室まで送っていく運びとなった。本当ならば寮の自室へすぐに戻らせるべきだが、動けなくても強くなるためにできることはあるから、というヴァルキリーたっての希望だった。一応歩くことはできるというが、万全を期して松葉杖を拝借することにした。
「ここまででいいか。では、私は失礼する」
トレーナー室の前に到着するなり、エアグルーヴが言った。
「ああ。感謝する、エアグルーヴ」
「感謝などされる筋合いはない。当然のことをしたまでだ。そんなことより、担当ウマ娘が無茶をしないよう、せいぜい気を付けておくのだな」
エアグルーヴの言い条には妙な重みがあった。そのまま彼女は、生徒会の仕事を残してきたとかなんとか言って学舎のほうへと去っていった。
あとには、ジャイロとヴァルキリーだけが残された。しんと静まり返ったトレーナー室の中で、シーリングファンのぐわんぐわん回る音が妙にうるさく感じた。
「ご心配おかけしてすみません」
うやうやしく頭を下げて謝罪するヴァルキリー。ジャイロは少し慌てて言葉を探した。
「言っただろう、ウマ娘の怪我は担当トレーナーの責任だ。それより正直に答えてほしいんだが、これまで少しでも脚に痛みを感じたことはあったか」
「……いえ、ありません。私の実感では、本当に何の前触れもなく、脚が折れたんです」
「そうか。今はどうだ? 痛みは引いたか」
「まだ少し……松葉杖があれば、なんとか歩けはするでしょうけど」
「……わかった。ヴァルキリー、そこのソファにうつ伏せになれ」
「えっ?」
なんだかよくわからないという顔をしながら、言われた通りにうつ伏せになるヴァルキリー。ジャイロは鉄球を取り出し、回転を与えると、ヴァルキリーの背中めがけてぽとりと落としてやった。黄金の回転がヴァルキリーの身体に伝わっていく。
「これは……」
「黄金の回転で麻酔をかけてやった。一日程度ならもつはずだ。もしどうしても痛みが我慢しきれない時は、またいつでもかけ直してやる」
鉄球を拾い上げながら、ジャイロが淡々と説明した。鉄球の回転技術は本来、こうした「穏やかさ」をもたらすためのものだ。ヴァルキリーは少しはしゃいだ様子で、自分の右脚を見つめている。
「すごい、さっきまでの痛みが嘘みたい。黄金の回転って、こんなこともできるんですね」
「あくまで麻酔だからな。痛みがねえからって、勝手に無茶するんじゃあねえぞ」
「はい、わかっています。ありがとうございます」
先ほどまでより少ししゃんとした姿勢で、ヴァルキリーがお辞儀をした。ジャイロはその姿に安心したような、かえって不安が増したような複雑な心境を抱きながら、
「さて、安静にしててもできることはあるな。皐月賞のレース映像でも分析するか」
と提案した。ヴァルキリーは喜んで提案に乗り、レース映像分析の時間と相成ったわけだが、当のジャイロは責任感と先行きへの不安で気もそぞろだった。それでも失った練習機会を埋め合わせるべく、少しでも実のある時間を過ごさねばと思い、ジャイロは目の前の映像に努めて集中するのだった。
最も「運のいい」ウマ娘が勝つという日本ダービーへの第一歩は、皮肉なことに大きな不運にまみれたものとなった。
その翌日から、ジャイロはすこぶる暇を持て余すようになった。
理由は当然、ヴァルキリーの休養のためである。彼女が回復するまで、トレーニングの類は一切できない。今までトレーニングに費やしていたぶんの時間がぽっかりと空いて、ジャイロはようやく、これまでの生活の大部分をヴァルキリーとともに過ごしていたのだと思い知った。
ヴァルキリーの様子はというと、どうやらちゃんとおとなしく休養しているようだった。スローダンサーが何かと世話を焼いてくれているらしい。後できちんと礼を言っておかねばな、とジャイロは思った。休養中は自室に食事が配達されてくるそうだから、栄養バランスについても心配はいらなかった。つまりジャイロは今、トレーナーとしてヴァルキリーにしてやれることは、何もないということになる。
そんなジャイロの悩みの種は、もうひとつあった。記者会見のことである。日本ダービーへの所信表明をするはずが、こんなことになってはメディアにどう説明をつけたものか。いっそ会見そのものをキャンセルしてしまうのもひとつの手だった。それはすなわち、ヴァルキリーの日本ダービー出走を完全に諦めるに等しいことだが……。
空白の時間を煩悶で埋め尽くされて幾日か経った頃。ヴァルキリーが松葉杖をついてトレーナー室を訪れた。傍らにはスローダンサーをともなっている。
「おう。調子はどうだ」
「ちょっと、痛みがぶり返してきてしまって。トレーナー、この間のアレ、またお願いできますか」
「わかった……そこに横になれ」
言われるがままソファにうつ伏せになるヴァルキリー。その背中にジャイロが鉄球を落としてやると、ヴァルキリーの表情がふっと柔らかくなった。
「ありがとうございます。楽になりました」
「すごいわ。黄金の回転って、そんなことにも使えるのねぇ」
スローダンサーが目を輝かせている。見世物ではないのだが。
「鉄球の回転技術は、本来は医術のためのものだ。とある理由で……俺は幼い頃から父上に鉄球の技術と、医学の知識を叩き込まれた」
「まあ。ジャイロさん、前職はお医者さんだったの?」
「そんなところだ。ウマ娘相手に俺の知識がどれだけ通用するか不安だったが、アンタたちが思ったより人間の身体に近くて助かった」
鉄球をしまい、ヴァルキリーに肩を貸して立ち上がらせながらジャイロが言った。ヴァルキリーの腕を通して伝わってくる重みは、彼女の見た目よりずっと軽く感じた。筋肉が落ちてしまっているせいだろう。感傷が、ジャイロの心を軋ませる音がする。
「それはそうと、スローダンサー。アンタ最近何かとヴァルキリーの世話を焼いてくれてるんだってな。礼を言う」
「お礼なんていいのよぉ。わたくしだって、一日も早くヴァルちゃんに元気になってほしいもの。だってヴァルちゃん、まだダービー諦めてないんでしょう?」
「えっ……それは」
ダービー。その言葉に肩をぴくりと反応させるヴァルキリー。やはり未練はあって当然だろう。無理を押してでも走りたいというなら、ジャイロの立場としては止めねばならないところだが、ヴァルキリーはどうしたいのだろうか。
「どうなんだ……ヴァルキリー?」
ふたりの視線が集まる中、ぽつりぽつりとヴァルキリーは言葉を続けた。
「もちろん、本音を言えば諦めたくありません。ダービーはみんなの憧れで、みんなの本気がぶつかり合う場所で──私の、たった一度の大舞台なんです。けれども、そのために無茶をして脚の治りが遅くなったら……ううん、それだけならまだいい。二度とまともに走れないくらい、私の脚が壊れてしまったら。そう思うと怖くてたまりません」
「俺としては、アンタの意思を尊重してやりたい。しかしトレーナーの仕事は、ウマ娘を無事に走らせることだ。無茶をさせて脚を壊させることじゃあない。この状況で言っても、説得力はねえけどな」
ふう、と大きくため息をついて、ジャイロはぶっきらぼうにチェアに腰かけた。
「俺が言うべきことじゃあないが、事ここに至った以上は仕方ない。とにかく栄養と休養を充分に取って、回復にいそしむことだな。上手くすりゃあ、思ったよりも早くリハビリに移れるかもしれねえしな」
「そうだと……いいですね」
「ヴァルちゃん、そんな顔をしないで。あなたのトレーナーさんがこう言ってるのだから、きっと上手くいくわ。今は目の前のできることをしましょう。わたくしたちは、いつでもヴァルちゃんのこと待ってるから」
「うん……ありがとう、スロさん」
うつむきがちだったヴァルキリーの顔が、少しだけ上を向いた。
その後、寮への帰り道の付き添いをスローダンサーに任せ、よろよろと去っていくヴァルキリーの背中をジャイロは見送った。記者会見まではあと一週間ほどある。それまでにヴァルキリーの脚が快方へ向かえば、あるいは状況も変わるかもしれない。そんな希望的観測に、ジャイロは珍しくすがりたい気分だった。
なんと幸運なことに、ジャイロの希望的観測は的中した。
あくる日の仕事中、ふと業務用のスマートフォンを眺めてみたところヴァルキリーからのメッセージが届いていた。その内容というのが、
「トレーナー、朗報です! 私、リハビリを始められることになりました!」
というものだった。なんでもその日の経過観察の結果、ヴァルキリーの回復が思ったより早く、リハビリ運動を始められる段階に達したとのことだ。この調子で回復していけば、プール練習などの負荷の少ないトレーニングも想定より早く再開の目途が立つだろう、とも。
部屋に誰もいないことを確かめてから、ジャイロは諸手を天に突き上げて喜んだ。リハビリにはトレーナーも居合わせてほしいとのことだったので、喜び勇んでジャイロは保健室へと向かった。
だが、そこに広がっていた光景はジャイロが想像していたほど甘いものではなかった。
「あっ……トレーナー。来て……くれたんですね」
怪我をした脚に少しずつ体重をかけながら、歩行訓練に勤しむヴァルキリーの姿がそこにあった。その手に松葉杖はない。両腕を広げてバランスを取っている。彼女の表情は苦悶に満ち、額は汗でぐっしょりと濡れていたが、それでもジャイロの姿を認めるなり、その表情を笑顔で上書きした。昨日の麻酔は切れているだろうに、それでも彼女は歩くことをやめない。
「ヴァルキリー……お前」
「つらそうに見えますか? でも大丈夫です。思ったほど……痛くはありませんから。保健室の先生も……これくらいの負荷がちょうどいいって言ってくれましたから」
保健室の先生は、部屋の片隅に座ってヴァルキリーの様子をじっと見守っている。彼女が止めに入らないということは、確かにヴァルキリーのリハビリ負荷は適切なのだろう。ジャイロの目から見ても、それは確かだった。だが──。
「ヴァルキリー、無理はしなくていい」
口をついて出てきたのは、そんな言葉だった。
「大丈夫です……無理なんてしていませんよ。言ったじゃないですか、順調に回復してるって」
「しかし──」
しかし、なんだというのだろう。自分はいったい何を言おうとしているのだろう。ジャイロ自身にもわからなくなっていた。ただ、痛みに耐えながら作り笑いをするヴァルキリーの姿を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。
なるほど、とジャイロは苦々しくも得心した。要するに自分は、苦しんでいるヴァルキリーの姿を見たくないだけなのだ。その身勝手な感情が言葉となって、ジャイロの喉から飛び出そうとしていたにすぎないのだ。
(なるほど、これが感傷ってやつか。今だけはあなたの教えに従いますよ、父上……)
心の中でそう唱えると、ジャイロはあらゆる感情を己の内から排した。ただじっと無心で、ヴァルキリーの姿を見守っていた。痛みに耐え、強く一歩を踏み出す愛バを。
「よし、今日はここまでにしましょう。よく頑張りましたね」
保健室の先生の合図とともに、全身を脱力させるヴァルキリー。ジャイロは手放していた感情を再びたぐり寄せ、ヴァルキリーのそばに歩み寄る。
「大丈夫か?」
「トレーナーさん……見ていてくれましたか、私のリハビリ」
憔悴しきった顔で、それでも真っすぐにジャイロの目を見つめてヴァルキリーが言った。
「ああ、見ていた。お疲れさん」
「ふふっ……ダービーのためですから。頑張りました」
ダービーのため。その言葉がジャイロの胸を刺した。快方に向かっているとはいえ、日本ダービーに対する方針を記者会見でどう説明するか、そろそろ決断せねばならない。
「とりあえず帰るぞ。寮の前まで送ってやる」
「ありがとうございます……じゃあ、お言葉に甘えて」
力なく差し出された手に松葉杖を渡してやると、ジャイロは先立って保健室を後にした。ヴァルキリーがしっかりついてきていることを確かめながら、ゆっくり、ゆっくりと学生寮のほうへと歩みを進めていった。
次の日も、そのまた次の日もヴァルキリーのリハビリ運動は続いた。無論、ジャイロの付き添いの元でである。これまでトレーニングに費やしていた時間が、そのままリハビリの時間に置き換わった格好だ。
「はい、今日はここまでです。お疲れ様でした」
保健室の先生の合図とともに、ヴァルキリーは憔悴した表情のままジャイロの胸元にしなだれかかり、息せき切りながら松葉杖を受け取る。そんな日々が続いた。麻酔をかけてやろうかとも提案したが、リハビリの適切な負荷がわからなくなるからといって、ヴァルキリーに断られてしまった。
「そんな顔しないでください……トレーナー。私は順調に……回復してますから」
ヴァルキリーはそう言って強がっているが──相変わらず顔は憔悴しきって、髪の先から汗をしたたらせているが──むしろジャイロのほうが精神的に参ってきていた。己の監督不行き届きで相棒の脚をひび割れさせ、痛みを与えているばかりか、その責任をこんな形で埋め合わせることしかできないとは。
ヴァルキリーはそんなジャイロの心情さえも見透かしたようにゆったりと微笑むと、ただ何も言わずジャイロの後ろについて歩いて保健室を後にする。その日はそのまま寮へと帰るのかと思いきや、ヴァルキリーはトレーナー室へ寄りたいと言い出した。聡い彼女のことだ、そろそろ記者会見のことを相談せねばならないと思っての提案だろう。ジャイロとしても断る道理はない。階段に気をつけつつ、彼女をトレーナー室までエスコートした。
「着いたぞ。まあ適当に座れ」
初めて連れてくるでもないのに、まるで客人でももてなすかのようにジャイロが言った。言われるがままにヴァルキリーがソファに腰かけると、ジャイロは給湯室でイタリアンコーヒーをふたりぶん淹れて持ってきてから、チェアに座って書類をトントンと揃えた。
「これの話をしに来たんだろう? そろそろ決めておかなきゃな……メディアに対する姿勢ってやつを」
ヴァルキリーはすぐには返事をしなかった。彼女の中でも結論を出しかねているのだろう。無理もない。ジャイロだって同じなのだから。
「……やっぱり、ありのままを伝えるべきだと思います」
ややあってから、ようやくヴァルキリーが口を開いた。
「ありのまま、というと?」
「もちろん怪我のこと、リハビリのこと、それでもダービーを……諦めていないということを、です」
小さく、しかし力強くヴァルキリーが言った。彼女はあくまで、日本ダービーにかける想いを手放す気はないらしい。そうとわかれば、トレーナーの仕事は簡単だ。
「そうかい。そういうことなら、ダービーへの出走登録は撤回しない方針でいこう」
「……いいんですか?」
「いいも何も、ウマ娘の望むように走らせてやるのがトレーナーの仕事だ。ただしわかっていると思うが、あくまで治療が間に合えばの話だぜ。そうだな……残り二週間を切ってなおトレーニング再開の目途が立たなかったら、ダービー出走は見送らせてもらう。それでいいな」
「わかりました。それで構いません。つまり私は、今日から数えて残り三週間ほどのリハビリ期間が勝負ってことですね」
「そういうことだ。せいぜい励むこった」
机越しにヴァルキリーの顔を覗き込むジャイロ。彼女の瞳の奥に宿る熱いものがまだ燃え尽きていないことを確かめると、ジャイロの腹の奥底にわだかまっていたものがふっと軽くなるような心地がした。
(残り三週間……俺にとっても試練の時だ。ダーレーアラビアンの奴が言っていた試練ってのは、これのことだろうな。まったく不謹慎な女神様だぜ)
心の奥で小さく毒づきながら、ジャイロはトレーナーとしての決意を新たにした。イタリアンコーヒーのカップを傾け、香りと喉ごしを味わうと、頭の中のごちゃごちゃしたものがすっきりと整理され、深い吐息とともに思考が明晰になっていくのを感じた。
それから数日の後。ジャイロとヴァルキリーはとある会議室の一室で、大勢の人間の目とカメラのレンズを向けられて立っていた。
「ヴァルキリーさん! お怪我をされたとのことですが、競争能力に支障はありませんか!?」
「日本ダービーへの出走を懸念する声も上がっています! どうお考えですか!?」
ジャーナリストたちの怒号にも似た質問攻めにも臆することなく、ヴァルキリーはいつもの凛とした態度を崩さなかった。
「落ち着いてください。ひとつずつお答えします」
ヴァルキリーが何か言うたびに、カメラのフラッシュがまるで爆竹みたいに炸裂し、シャッター音がけたたましく鳴り響く。
「まず、怪我をしたというのは本当です。右大腿骨の疲労骨折です。しかし現在はリハビリの甲斐もあって快方へ向かっており、いずれレースにも復帰できる見通しです」
「レースに復帰できるとのことですが、日本ダービーには間に合うのでしょうか!? 皐月賞ウマ娘のヴァルキリーさんがもし不参加となれば、ファンの間にも動揺が広がることが懸念されます!」
「正直に言えば、日本ダービーに間に合わせられるかどうかは未知数です。あと三週間のうちにリハビリを終え、トレーニングを再開できればダービーには出走する方針です。トレーナーとはそのように話しました」
底意地の悪いジャーナリストの質問攻めにも怯むことなく、淡々とヴァルキリーは回答を連ねていく。しかしジャーナリストの執念深さもさるもので、ヴァルキリーの口からなんとか失言を引きずり出そうと躍起になっている。
「それでは結局、日本ダービーへの方針は不透明ということでよろしいのでしょうか!? それでファンの皆様は納得するとお考えですか!?」
なおも執拗にヴァルキリーを質問攻めにするジャーナリスト。ジャイロはいてもたってもいられず、大きく息を吸い込んだ。
「やかましい! 治すッ!」
部屋じゅうを震わせるジャイロの怒声に、侃々諤々だったジャーナリストたちは一転、水を打ったように静まり返った。彼らの注目の矛先がジャイロに向く。
「黙って聞いてりゃあ同じ質問ばっかりネチネチとよォ。要はヴァルキリーの脚が治ればアンタたちは満足なんだろ。三週間……いや二週間もあれば充分だ。ヴァルキリーの脚は治す! ダービーにも出走させる! それでいいだろうッ!」
今や会見場の空気は完全にジャイロが支配していた。先ほどまでネチネチと同じ質問をしていたジャーナリストが、おそるおそる発言を試みた。
「し……しかし、ヴァルキリーさんの怪我は、元はと言えばトレーナーさんの監督責任であるとも言われておりまして」
「そいつは確かに否定しねえ。ウマ娘の身に起こったことは、すべてトレーナーである俺の責任だ。だからこそ俺は、ヴァルキリーの脚に対して責任を果たす義務がある。この脚を再び蘇らせ、ダービーにその蹄跡を残させるという義務がな」
部屋は再び静まり返った。誰もがその視線をジャイロに釘付けにされていた。
一番驚いた表情をしていたのは、ほかならぬヴァルキリーである。メディアの前ではありのままを話すという打ち合わせをしていたにもかかわらず、ジャイロが唐突に日本ダービー出走を豪語してしまったものだから、さぞや困惑していることだろう。
「やけに静かになったな。質問は終わりか? なら、俺たちは帰らせてもらう。行くぞ、ヴァルキリー」
呆気にとられる一同をその場に残し、ヴァルキリーを連れてさっさと会見場を後にするジャイロ。
「言っちゃいましたね。ダービーに出るって」
寒々しい廊下を並んで歩きながら、ヴァルキリーがふと話しかけてきた。その声色は心なしか嬉しそうだった。
「なんだ、意外と上機嫌だな。もっと怒ってもいいんだぜ。勝手なこと言うなってよォ」
「確かに勝手なこと言われましたけど、私が言いたかったことでもあるので。それにあの記者さん、実際ちょっと鬱陶しかったですしね」
「違いない」
顔を見合わせ、くすくすと笑い合うふたり。
「さて、これで後には退けなくなりました。私はなんとしても残り三週間のうちに、自分の脚を蘇らせなくてはなりません。トレーナー、退路を断ったからには責任取ってくださいね」
「わかってる。メディアの連中の前で言った通り、俺はアンタの脚に対してどこまでも責任を取る。こう見えても、自分で言った約束を自分で破るほど不義理な人間じゃあないつもりだ」
「ふふっ、言いましたね。じゃあ私もせいぜい、その責任感に応えるとしますよ」
小さく含み笑いを返すジャイロ。ふたりの間には、久しぶりの穏やかな空気が流れていた。ヴァルキリーが怪我をして以来ずっと張りつめていた空気が、ようやくほどけ始めたのをふたりは感じていた。
そんなことがあってから、また幾日か経ったある日のこと。いつものようにリハビリを終えて自室で休養していたヴァルキリーの元へ、来客があった。スローダンサーはまだトレーニングから戻ってくる時間ではないはずだから、いったい誰だろう……そう考えながらヴァルキリーはベッドの上から声だけで応対した。
「開いてますよ、どうぞ」
ノック音に対してそう返事をすると、ドアが勢い良く開かれ、ふたりのウマ娘がなだれ込んできた。
「ヴァルキリーちゃん……!」
「ちょっとキタちゃん。ヴァルキリーさんは休養中なのだから、静かにしないと」
「キタサン。それにダイヤも」
唐突な来客──キタサンブラックとサトノダイヤモンドが、心配そうにヴァルキリーの顔を覗き込んでくる。ヴァルキリーはそんなふたりの顔を交互に見やると、空元気の笑顔を作った。
「ふたりとも、お見舞いに来てくれたのね。私なら大丈夫。治療もリハビリも順調よ」
「ヴァルキリーさん。記者会見、拝見しました。日本ダービー、あくまで諦めないつもりなのですね」
サトノダイヤモンドがそう会話の口火を切ると、その場はたちまち記者会見の話題一色になった。
「半分くらい、トレーナーが勝手に喋っちゃったようなものだけどね。でも、ダービーを諦めたくないっていうのは本当よ」
「ジャイロさん、すごい迫力だったよね。画面越しに部屋が揺れるかと思うくらいの気迫で、あたしちょっと震えちゃった」
「あはは。私もびっくりしたわ。トレーナーは確かにちょっとぶっきらぼうな人だけど、あれだけの勢いで声を荒げるのは初めて見たから」
「ジャイロさんの一喝が響いた時のヴァルキリーさんのお顔、とっても可愛らしかったです」
「ちょっとダイヤ、それは忘れてちょうだい……」
部屋にどっと笑いが満ちる。ヴァルキリーの心持ちも、ふっと軽くなった。
「それにしてもヴァルキリーちゃん、そんなにきついトレーニングをしてたの? あのジャイロさんに限って、ヴァルキリーちゃんに無茶させるようなことしないと思うけど」
キタサンブラックがいぶかしげに問うた。無理もない。疲労骨折の予兆など、ヴァルキリー自身にすらわからなかったのだから。
「誓って言うけれど、私の実感から言ってもトレーナーの指導は適切だったわ。私に無理をさせないことをいつも一番に考えてくれてた。それでも気付かないうちに起こってしまうのが、疲労骨折の怖いところってことなんでしょうね」
「そっか、そうだよね。ごめんね、疑うようなこと言って」
「気にしないで。とにかく今は、なんとしてもダービーに間に合わせるように頑張ってるから。ふたりとも遠慮はいらないわよ」
ヴァルキリーが不敵に笑う。今度は空元気などではなかった。
「ふふっ。もちろんわかっています。たとえ多少のブランクがあったとて、油断して勝てるほどヴァルキリーさんが甘い相手でないことは、私もキタちゃんもよく知っていますから」
「そういうこと。だから安心して、お互い全力の勝負に備えよう! ヴァルキリーちゃんがいつ帰ってきてもいいように、あたしも精いっぱい迎え撃つから!」
「ありがとう、ふたりとも。その言葉が──私を待ってくれているライバルがいるという事実が、今は何よりも励みになるわ」
ふたりの言葉に力強くうなずき返し、胸元に握り拳を作るヴァルキリー。キタサンブラックとサトノダイヤモンドの言葉に宿る想いが、傷ついたヴァルキリーの脚に脈動を与えるのを感じた。
ウマ娘の背負う想いが走りに力を与えることはヴァルキリー自身が主張してきたことだが、こんな形で新たに想いを背負い、己が力とするという体験に、内心ヴァルキリーは驚いていた。同時に、想いの力を──期待という形で──与えてくれる友人という名のライバルの存在に、ヴァルキリーは心の底から感謝した。
またたく間に時は過ぎ、ヴァルキリーのリハビリが始まって二週間が経った頃。その日もいつものように、ジャイロは彼女の歩行トレーニングに付き添っていた。
しかし、その日はいつもと少し様子が違った。普段は右脚をかばうように両腕でバランスを取ってリハビリをしていたヴァルキリーだったが、その日は珍しく両腕をリラックスさせて歩いていた。そればかりか、怪我をしているはずの右脚をかばう仕草も見せることなく、まるで健康な脚を意のままに動かすように、心地良さそうにすたすたと歩いているではないか。
「ヴァルキリー、オメー……もう痛みは平気なのか」
「はい。思い切って右脚に体重をかけてみましたが、全然平気みたいです」
それを聞いた保健室の先生はすぐにトレセン学園お抱えの放射線技師を呼んできて、ヴァルキリーのレントゲン写真を撮ることになった。その結果、
「正直、驚きました。想定よりもずっと早く、患部が綺麗に癒合していますね」
それが保健室の先生の見解だった。彼女によれば、栄養と休養の徹底した管理、リハビリ運動のたゆまぬ努力が実を結んだのだろうという。
「やったなおい、ヴァルキリー」
ジャイロは喜色満面だった。これでようやく、ヴァルキリーを再び走らせてやることができる。ヴァルキリーはジャイロと目を合わせると、自負に満ちた表情で口角を上げてサムズアップした。
「んで、もうトレーニングには戻していいのか?」
思わず前のめりになってたずねるジャイロ。保健室の先生がそれを静かにたしなめる。
「そう焦らないでください。本当に問題がないかどうか、あと三日だけ経過観察をしましょう。それで大丈夫だとわかったら、プールトレーニングなど比較的脚に負担をかけない練習から再開してください」
「承知した。聞いたなヴァルキリー、もうじき練習再開できるってよォ」
「ええ。なんとか三週間以内に間に合いましたね」
ジャイロが力強くうなずき返した。三週間以内に治すという当初の約束に間に合ったこともそうだが、今は何より純粋に、ヴァルキリーの脚が蘇ったというその事実が嬉しかった。
その日はそのまま解散の流れとなった。久しぶりに松葉杖なしで学舎を歩くヴァルキリーの姿に、ジャイロは万感の思いを抱いていた。後に聞くところによれば、ヴァルキリーもまた、こんなに機嫌のいいジャイロを見るのは初めてだったという。
それからさらに三日後。保健室の先生から改めて快復のお墨付きをもらったジャイロとヴァルキリーは、いてもたってもいられずその足で屋内プールへとすっ飛んでいった。
「よし、まずは小手調べだ。五十メートル一セット行ってこい」
「はいっ!」
これまでの鬱積をすべてひと息に吐き出すかのような、元気いっぱいの返事のあとにヴァルキリーは勢い良くプールへと飛び込んだ。そのまま水しぶきとともにプールを往復するヴァルキリーの姿を、ジャイロは注意深く観察する。これまでのトレーニングと変わったところはないか。落ちたはずの体力はどれだけ戻っているのか。それを見極めようとしていた。
やがて五十メートル泳ぎ切り、ジャイロの元へ戻ってくるヴァルキリー。
「ふう……っ。どうでしょう、トレーナー」
水面から顔を見上げてくるヴァルキリーに対して、ジャイロは神妙な面持ちで、
「少し、息が切れているな。それに水泳フォームも乱れがちだ。一か月のブランクは、やはりアンタにとってそれなりに重いみてえだな」
非情にそう言い放った。ジャイロにとっても残念なことだが、日本ダービーを前にこの一か月のブランクを埋めることは、並大抵のことではないだろう。
「そうですね……自分でも実感があります。以前のように身体が思うように動いてくれない感覚が。でも、そんなことでくじけてはいられません」
「よく言った。インターバルは好きなだけ取っていい。行けそうだと思ったら、自分のタイミングでもう五十メートル行ってこい」
「わかりました」
しばし息を整え、それからまた水の中へ飛び込むヴァルキリー。やはり身体への負担が以前より増しているように見える。それにタイムも遅くなっている。こればかりは時間が解決してくれるのを待つしかないと、ジャイロは考えることにした。それよりも気になることは──
「戻りました。また少し、インターバルをいただきます」
「ああ。ところでヴァルキリー、ちょっといいか」
「はい、なんでしょう」
プールから上がって息を整えながら、ヴァルキリーが返事をした。ジャイロはホルスターから鉄球を見せて手のひらの上で回転させると、こう続けた。
「アンタの脚に宿っている、こいつがなまっていないか確かめておきたい。インターバルが明けたら、この場で黄金の回転を使って立ち泳ぎしてみろ」
そう。ヴァルキリーの脚に授けた黄金の回転が失われていないか、それを真っ先に確かめておく必要があった。今はまだ負荷の高いトレーニングを行えないから、プールトレーニングの中で確かめておくよりほかにない。
ヴァルキリーはジャイロの意図を汲み取ってくれた様子でうなずき、ちゃぽんと水に入るとその場で足を回して立ち泳ぎを始めた。
次の瞬間、ぐるんぐるんと大きな渦がヴァルキリーの背後に出現し、周囲の水を巻き込んでみるみるうちに巨大化していった。あっという間に渦はレーンをまたいで隣で泳いでいたウマ娘さえも巻き込み始め、周囲は一時騒然となった。
「ヴァルキリー、もういい! わかった、もう大丈夫だ!」
ジャイロが慌てて止めに入る。ヴァルキリーがその言葉に従って立ち泳ぎをやめると、渦はたちどころに消えて元の静かな水面が戻ってきた。この事態に誰よりも驚いているのは、当のヴァルキリーであった。
「黄金の回転って……やっぱりすごい」
ぼそりとつぶやくヴァルキリー。安心したような肝が冷えたような、複雑な心境を抱くジャイロであったが、ひとまずヴァルキリーの脚から黄金の回転が失われていなかったことは、喜ぶべきだろうと考えることにしたのだった。
それからジャイロとヴァルキリーは、出遅れた一か月間を取り戻すべくトレーニングに励む日々を送った。怪我をしていた時期のリハビリが「トレーニング復帰のためのリハビリ」だったとするならば、これからやるべきことはさしずめ「レース復帰のためのリハビリ」というところだろう。
最初はプールトレーニングから始め、万が一にも治りたての疲労骨折が再発しないよう徹底した。やがてヴァルキリーの様子に余裕が戻ってくると、ウッドチップコースでの走り込みや、ジムでの軽めの負荷の全身筋肉トレーニングといった種目を徐々に取り入れていった。
当初はヴァルキリーの顔に焦りがにじむこともあった。無理もない。ジャイロも同じ気持ちだったのだから。怪我を治すために一か月、さらに元の走りを取り戻すために二週間。皐月賞から日本ダービーまでの期間をまるごと、ふたりは怪我と向き合うために費やす羽目になったのだ。
それでもジャイロは、己の本分を忘れなかった。トレーナーの一番の仕事は、ウマ娘を無事に走らせることだ。目先の成果に目を曇らせるべきではない。そう考えられるだけの冷静さを、幸運にもジャイロは失っていなかった。ゆえにヴァルキリーの脚もまた、徐々にかつての力を取り戻していくことができた。
そんなある日、走り込みのインターバル中のヴァルキリーに対してジャイロはこんなことを問うてみた。
「なあヴァルキリー。怪我をする直前、俺がどんな練習方針でやっていたか覚えているか」
ヴァルキリーは少し考えて、
「確か、黄金の回転の安定化について話されていましたよね。平地では高い水準で安定しているから、坂路でも安定させられれば完璧だ……って」
「正解だ、よく覚えていたな。ウッドチップコースでの走りを見るに、アンタの黄金の回転は以前の水準をほぼ取り戻しつつある」
ふう、とひと息ついてジャイロは続ける。良くない報せを話す時の、彼の最近のクセだった。
「だが、あんなことがあった直後だ。負荷の大きい坂路トレーニングはまだ再開したくない。坂路での黄金の回転の質を伸ばすトレーニングには踏み切れない」
「……そうですね。致し方ないことだと思います。ここで無理をしたら、今まで頑張ってきたことが水の泡ですから」
ヴァルキリーが歯噛みした。無理もない。日本ダービーは非常に起伏の大きいコースだ。坂路での安定性を欠いたままでは、ほかのライバルたちに後れを取ってしまう。しかしその坂路を攻略するためのトレーニングが、今のヴァルキリーにとっては大きなリスクとなってしまう。そのままならなさを前に、ヴァルキリーも、そしてジャイロもやるせなさを飲み込むよりほかになかった。
「そうしょぼくれた顔をするな。策ならある」
「策……ですか?」
きょとんとするヴァルキリー。ジャイロは暗澹とした気持ちをなるべく奥に押し込め、堂々と語り始めた。
「そうだ。坂路が安定しないってんなら、安定しないなりの走り方をすればいいだけのことだ。詳しいことは、このあとのミーティングで話す」
「はあ……」
いまひとつ釈然としない表情を浮かべながら、走り込みトレーニングへと戻っていくヴァルキリー。
その日のトレーニング明け。トレーナー室に集まったジャイロとヴァルキリーは、早速例の策というものについて話していた。
「それで、トレーナーのおっしゃる策というのは?」
「まあそう慌てなさんな。これが東京2400メートル、日本ダービーのコース図だ」
ジャイロは紙面をデスクいっぱいにばさっと広げてみせた。所々に「上り」や「下り」と書かれた付箋が貼ってある。
「見ての通り、ダービーは非常に起伏の激しいコースを走ることになる」
「そうですね、こうして見ると改めて……今の私の脚で、本当に走り切れるでしょうか。坂路の安定性を欠いたうえに、それを克服することもできない今の私が」
「そう悲観しなくてもいい。逆に考えるんだ。坂路が安定しないなら、安定させなくてもいいさ、ってな」
「安定させなくてもいい……ですか?」
ヴァルキリーは目を丸くした。対照的に、ジャイロは不敵に口角を上げる。
「ヴァルキリー。アンタが怪我をする直前に、俺はこんな話もしたよな。ダービーを戦うためのビジョンは持っているのかと」
「はい、確かにそんなことも話しましたね。その時の私は、今まで通り逃げを打つことしか考えてないと回答したはずです」
「そうだ。しかしそれこそが盲点だった。発想を転換させよう」
ジャイロはコース図の最終直線部分に貼ってある「上り」の付箋の辺りから、ゴール地点までを指でなぞってみせた。
「ここからここまでの範囲は平坦な直線だ。つまり極端な話、坂道では無理せず脚をため、この最終直線の平地に差し掛かると同時に、アンタの持ち前の黄金の回転で一気にねじ返す。今回に限っては、これまでの逃げ一辺倒の走り方をあえて封印するんだ」
ジャイロの言葉がよほど意外だったのだろう。ヴァルキリーは表情をにわかに色めき立たせた。
「トレーナー……それってつまり、こういうことですか。私に逃げを打つのではなく、好位置から仕掛ける先行策を採れと」
「大まかに言うなら、そういうことになる。そして……それができるだけの黄金の回転も、アンタには叩き込んできたつもりだ」
「そんな、無謀ですよ! いきなり今までの走りを捨てろって言われたって、すぐにできるわけないじゃないですか」
「ニョホホ。三回目だぜ。久しぶりに言ってくれたなァ」
ホルスターから鉄球を取り出して指先でもてあそびながら、ジャイロが笑った。対照的に、ヴァルキリーは呆れ返った顔をしている。
「無茶です。いくら坂道での安定性に欠けるからといって、いきなり全然不慣れな走り方をして結果が出せるとは思えません。そんなことをやって勝たせてもらえるほど、ダービーは甘くありません」
「それを言うなら、坂道の不安を抱えたまま無策で挑むというほうが、よっぽど無謀なんじゃあねえのか。ダービーというものに対してよォ」
「それは……」
ジャイロは笑顔を崩さなかった。ヴァルキリーはついに言葉に詰まり、下唇を噛んだまま考え込んでしまった。
「わかった、じゃあこうしよう。次回からは坂路のトレーニングも取り入れる。ただし負荷は極限まで軽くだ。どんなにゆっくり走ってもいいから、黄金の回転を維持しながら走れるかどうかをチェックする。本番でどんな作戦を採るかは、それから決めよう」
「……わかりました。それで構いません」
なおも不服そうな様子で、ヴァルキリーが小さく応えた。彼女にはまたも不安がらせるようで悪いが、実際今のヴァルキリーの脚で日本ダービーを戦うには、これしかないと思っていることも事実だった。
「決まりだな。それじゃあ、明日からもよろしく頼むぜ」
ジャイロの言葉を皮切りに、その場は解散の雰囲気となった。ヴァルキリーがとぼとぼとトレーナー室を後にする。
(これでいい……今のヴァルキリーに逃げを打たせたら、レース本番でまた故障するなんてことにもなりかねない。これがベストだ)
ふう、とジャイロがため息をつく。暗澹とした気分が口から漏れ出し、ジャイロに張り付いていた笑顔の仮面をはがした。静かなトレーナー室の一角に、担当ウマ娘への責任と重圧に耐える男がひとり残された。
その次のトレーニングから、約束通りジャイロは坂路での練習を再開させた。無論、脚への負荷は極限まで軽くするようヴァルキリーには言い含めてある。
その目的は、今のヴァルキリーの脚で坂を走った際に、どれだけの負荷なら黄金の回転を維持したまま走っていられるか確かめることだった。序盤から力いっぱい逃げを打てば、それだけ脚にかかる負担は増し、坂に耐えられなくなる可能性も増す。ジャイロはヴァルキリーがかつてのように坂道をめいっぱい走れない可能性を見越していた。その結果はというと、
「はあ、はあ……戻りました、トレーナー」
息を切らしてジャイロの元へ戻ってくるヴァルキリー。その顔に浮かぶ疲労感は単なるトレーニングの疲れ以上に、現実をまざまざと見せつけられた忸怩たる思いの表れであるように見えた。
「お疲れさん。どうだった、坂道はめいっぱい走れそうか」
既にわかりきっているであろう問いを、ジャイロは投げかけた。ヴァルキリーはがっくりと肩を落とし、小さくかぶりを振った。
「……トレーナーの言う通りでした。今の私は、坂道で全力を出せません。全力を出すのが怖いんです。またあの痛みが襲ってきたらどうしよう、って」
「やはりな……俺の目から見ても、脚に力を込めようとするほどフォームはぶれて、黄金の回転もガタガタになっていた。これでわかっただろう。今のアンタは、いつもの逃げ切り作戦を打つのは無理だ。もう少し時間をかけて、これまでの走りを取り戻してからならいざ知らず、今からダービーに間に合わせることは諦めたほうがいい」
「そう……ですね」
ヴァルキリーが小さく歯噛みした。納得はしても、やはり未練は拭えないらしい。
「トレーナー、私は悔しいです。一生に一度のダービーに、全力で挑めないなんて。スロさんやキタサン……ライバルのみんなはベストを尽くしてダービーに臨んでくるというのに、私だけがそれをできないなんて」
泣きそうな声を漏らすヴァルキリー。そんな彼女をたしなめるように、ジャイロはぴしゃりと言い放つ。
「それは違う、ヴァルキリー」
強い語気に驚いて顔を上げたヴァルキリーの目を、ジャイロはしかと見つめながら続けた。
「怪我のことは、確かに不運だった。だがアンタは諦めなかった。過酷なリハビリに耐え、自分にできるベストの走りを模索する今のアンタに向かって、ベストを尽くしていないなどと言える資格が誰にある?」
「トレーナー……」
「俺が保証しよう。アンタはよくやっている。テメーの走りに『納得』できない気持ちはよくわかる……俺もそうだったからな。だがこれだけは言ってやれる。今のアンタは、間違いなく最高の努力をしている。道を誤ったまやかしの努力などではなく、己のすべてをかけた最高の努力をだ」
「己のすべてをかけた、努力……ですか」
ジャイロが力強くうなずいてみせた。ヴァルキリーはようやく彼の言葉に「納得」したのか、ふっと表情を柔らかくしてこう言った。
「不思議です。トレーナーの言葉はいつも、私を導いてくれる。自分は今、正しいことの中にいるのだと思わせてくれる。確かに、そうですね。できもしない努力にこだわるのではなく、真に目指すべきは、己のすべてをかけた努力。今の自分にできることを探すこと」
「そうだ。ようやくわかってくれたか」
「ええ。っていうか、何を悟ったようなこと言ってるんだろ私。やっぱりまだ、ちょっと混乱してるのかもしれません」
自分の言葉が急に恥ずかしくなったのか、手を前に組んで目を泳がせるヴァルキリー。
「とにかく、私は『納得』しました。坂道では無理せず脚をため、平地での勝負に賭ける走法。ダービーはこれで勝負に出ようと思います」
力のこもったヴァルキリーの言葉に、ジャイロがうなずき返す。
「さて、休憩が長くなったな。どうする? 俺としては、坂路での走りをもう少しマシにしておくのもアリだと思うが」
「いえ、平地でのトレーニングにさせてください。先行策で行くと決めたからには、逃げとはまた違ったペース配分を考えなくてはなりませんから」
「いいだろう。それなら、ウッドチップ一本行ってこい。いつもより脚を温存するイメージでな」
「はい!」
気勢を上げて、ヴァルキリーがトレーニングに出発する。その後ろ姿を見て、ジャイロはどこか安心していた。日本ダービーに向かって行く手を阻む障害が、ひとつずつ片付いていく感触があった。
時間は非情にも過ぎていく。日本ダービーの日が刻一刻と迫る。
その限られたトレーニングの時間を、残されたわずかな時を一歩一歩大切に踏みしめるように、ジャイロとヴァルキリーはトレーニングの時を過ごした。まかり間違っても、日本ダービーに悔いなど残さぬように。ただそのことだけを考えて。
そして──
「いよいよ来ましたね。この時が」
東京レース場の前に立ちながら、ヴァルキリーが言った。ジャイロに語りかけているようでいて、ヴァルキリー自身に言い聞かせているかのようでもある言葉だった。
「ここに来るのも久しぶりだな。メイクデビューの時以来か」
ジャイロの言葉にヴァルキリーは黙して首肯した。ヴァルキリーのトゥインクル・シリーズが始まった場所。そこにふたりは再び立っている。
エントランスへと足を踏み入れると、快活な声がジャイロとヴァルキリーを出迎えた。ふたりにとって、もはや彼女の声がひとつの通過儀礼になりつつあった。
「ヴァルキリーちゃん! ジャイロさん! ここにいれば会えるって思ってました!」
声の主、キタサンブラックが大きく手を振り駆け寄ってくる。その傍らには、やはりいつものようにサトノダイヤモンドの姿もあった。
「キタサン……相変わらず元気ね。私も今やすっかり、レース場に来たらキタサンの声を聞かなきゃ落ち着かない身体になってきたわ」
「そう? えへへ。ヴァルキリーちゃんは復帰戦で特に気合が入ってるだろうから、気持ちで負けちゃいけないって思って!」
なるほど。キタサンブラックの目にはそう映っているのか。つい先日まで新しい作戦を採れる採れないで迷走していたなどと、口が裂けても言えない雰囲気だなとジャイロは密かに思った。
「ヴァルキリーさん。約束通りダービーに来てくださったのは嬉しいのですが、本当にお怪我はもう大丈夫なのですか?」
サトノダイヤモンドが心配そうにヴァルキリーの顔を覗き込んできた。ヴァルキリーは力強く返す。
「大丈夫じゃなかったら、今日ここには来ないわよ。安心して、全力でかかってきてちょうだい」
「……わかりました。ヴァルキリーさんがそうおっしゃるなら、私も手心は加えません」
ヴァルキリーを見つめるサトノダイヤモンドの目が、怪我人を心配する目から、いつものライバルへ向けるそれに戻った。たおやかな眼差しに決意の光を灯らせる。
それから互いの健闘を祈る言葉を二言三言交わしたあと、ひと足先に控室へと向かっていくキタサンブラックとサトノダイヤモンド。ジャイロたちは控室へ行く前に一服していくかと、レース場内のカフェに立ち寄る。するとそこに、見知った先客があった。
「やあジャイロ。君も休憩かい」
「ジョニィじゃあねえか。オメーこんなところで油売ってていいのかよ」
「それ君が言う? まあ、出走までまだ時間があることだし。座りなよ」
うながされるままに、ジャイロたちはジョニィとスローダンサーとの相席となった。ヴァルキリーは席に着くなり、さっさとスローダンサーと談笑を始める始末だった。ジャイロもそれに倣ってジョニィに話しかけた。
「どうだ、仕上がりのほうは。うちのヴァルキリーには勝てそうかァ?」
「もちろん勝つつもりでいるよ。そういう君こそ、ヴァルキリーの様子はどうだい。よくぞ彼女を今日ここへ連れてきてくれたね」
「心配されなくたって、完璧に仕上げてきたぜ。もちろん、おたくのスローダンサーには感謝しているがな。ただそれとこれとは別だ。皐月賞と同じように、ぶっちぎらせてもらうだけだ」
ジャイロはハッタリをかました。今のヴァルキリーが「皐月賞と同じように」ぶっちぎれるはずがなかった。今回はそういう走り方を選ばなかったのだから。友人であると同時にライバルでもあるジョニィに対して、手の内を明かす必要はない。
「わたくしはいつも通り、ゆっくり走らせてもらうわねぇ。この大舞台でヴァルちゃんと一緒に走るのが、楽しみで仕方ないわぁ」
名前を呼ばれたことに気付いたのか、スローダンサーが会話に入ってきた。
「でもヴァルちゃん、本当に良かったわ。怪我をしたって聞いた時から、わたくし心配で心配で……」
「もう、スロさんったら大袈裟だよ。でもスロさんにも確かに、いっぱい迷惑かけちゃったもんね」
「迷惑だなんて思ってないわ。ただわたくしは、こうしてヴァルちゃんと一緒に走れるのが嬉しくてたまらないだけなのよ」
ややオーバーリアクション気味に、己の心情を吐露するスローダンサー。彼女の場合、おそらく一から十まで本心なのだろう。ライバルが怪我でリタイアしてくれればよかったのに──なんて、微塵も思っていなかったに違いない。ヴァルキリーの周りのライバルたちは、皆そうなのだ。
「失礼、隣の席いいだろうか?」
ふと、そう呼びかけてくる声がした。声の主を探すと、ジャイロのすぐ背後にドゥラメンテがお盆を持って立っているではないか。
「ああ、空いているよ。どうぞ」
ジョニィが気を利かせてスペースを作ってやると、ドゥラメンテはやや遠慮がちに腰かけてこう言った。
「ヴァルキリー。君は必ず、ここへ来てくれると信じていた」
「……ええ。来ないわけにはいかなくなったもの。どっかの先走ったトレーナーのおかげで」
「おいおい。俺はあれでも助け舟を出してやったつもりなんだぜ」
「わかっている。ヴァルキリーと、ジャイロ殿。どちらの心が欠けても、私たちが今日ここで会うことはなかっただろうな」
少し物憂げな表情で、ドゥラメンテがこぼした。
「すげえどうでもいいこと言っちまうかもしれねえがよォ。ドゥラメンテ、アンタそんな喋り方するような奴だったか?」
「わからない。少し、グル姉に影響されてきたのかもしれない」
ドゥラメンテは小さくはにかんだ。ジャイロはこんなに柔らかい雰囲気のドゥラメンテを見るのは初めてだった。言葉には出していないが、彼女もまたヴァルキリーのことを心配してくれていたのだとわかる。
「ともかく、君の脚が無事で本当に良かった。ライバルが減るのは寂しい。たとえ、勝つのが私だと決まりきっていたとしてもだ」
柔らかい雰囲気から一転、いつもの調子に戻るドゥラメンテ。
「ありがとう……って言っておくべきなのかしら。勝つのがあなただと決まりきっていること以外は、感謝しておくわね」
「あらあら、ふたりとも元気ねぇ。わたくしだって本気を出したらすごいってところ、見せちゃうんだからねぇ」
テーブルを囲んでにわかに火花を散らすウマ娘たち。結局この続きはターフの上でということでなんとかその場を収め、ヴァルキリーを連れてそそくさと店を後にし、控室へと向かうジャイロ。
「さっきは驚いたぜ。珍しく挑発的だったじゃあねえかアンタ」
ヴァルキリーが勝負服に着替えてくるのを待ってから、控室でジャイロがそう切り出した。
「先に挑発してきたのはドゥラメンテのほうでしょう。あの子のことだから悪気はないのはわかってたけど、なんとなく舌戦を受けて立ってやりたい気分だったんですよね」
「大したタマだ……まあいい。大舞台を前にしょぼくれてるよりはマシだ。その調子でライバルどもに目に物言わせてやれ。作戦は覚えてるよな?」
「はい。中盤の坂では脚をため、好位置をキープするにとどめて最終直線の勝負に賭ける、ですよね」
「完璧だ。よし、行ってこい」
「あの、トレーナー」
控室を出ようとしたヴァルキリーが、ドアの前でやにわに立ち止まった。こちらに背を向けたまま、拳を固く握っている。
「どうした」
「トレーナーには、まだ見えていますか? 私のことが、『勝利の女神』に……」
それを聞いてジャイロは大きく、わざとらしく深呼吸した。ヴァルキリーに聞こえるように。
「ああ。見えている。『勝利の女神』の翼が、アンタの背中にはっきりと見える」
「ダービーは最も『運のいい』ウマ娘が勝つと言われます。こんな不運な私でも、勝てるでしょうか」
脚の怪我のことを言っているのだろう。ジャイロは取り合わなかった。
「関係ない。アンタは勝つ」
とだけ言った。ヴァルキリーは少し安心したのか、握り拳をほどいてこう言った。
「やっぱり、トレーナーさんはすごいです。不安も恐怖も全部呑み込んでくれる。なんだか脚が軽くなった気がします。行ってきますね」
しずしずと控室を去っていくヴァルキリー。彼女の背中を見送る最後の最後まで、できることはすべてやった。あとは彼女自身の幸運に賭けるしかない。誰もいない控室でジャイロは小さくため息をつき、観戦席へと向かう準備をした。
日本中が注目する一世一代の大舞台、日本ダービー。その幕が今まさに上がろうとしていた。