プリティー・ボール・ラン   作:アモルファス@銀嶺の麓亭

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#6「インスティンクティブ・スピード」

「さあ始まりました! 最も『運のいい』ウマ娘が勝利するというクラシック路線最高の栄誉、日本ダービー!」

 朗らかな実況の声がけたたましく鳴り響く。ジャイロは観客席から視線をゲートのほうへと落とした。

「一番人気はこの娘、皐月賞ウマ娘ヴァルキリー!」

「怪我に見舞われる不運もありましたが、それをはねのけるだけの幸運も兼ね備えていますよ」

 ヴァルキリー自身も言っていたことだが、トレーニング中の故障という不運に見舞われた彼女が、最も「運のいい」ウマ娘とならねばならないとは皮肉な話だ。しかし、勝負はあくまで終わってみなければわからない。そのために必要なことは、すべてやってきたはずだ。

「二番人気はこの娘、四番ドゥラメンテ!」

「皐月賞でも力強い走りを見せてくれました。今回も期待できますね」

「六番スローダンサー、現在五番人気です」

「ゆったりとした雰囲気を持つ彼女ですが、その実力は折り紙付きですよ」

「四番人気、九番キタサンブラック」

「華のある走りが持ち味の彼女です。今日も私たちを魅了してくれることでしょう」

「三番人気はこの娘、十一番サトノダイヤモンド」

「彼女もまた、しとやかな雰囲気の中に熱を秘めたウマ娘です。その輝きに注目しましょう」

 名前が次々に読み上げられ、続々とゲートインを済ませていくウマ娘たち。ヴァルキリーの顔には少しの緊張と、それ以上に大きな自信が浮かんでいる。いい雰囲気だ。

 そして、ついにその時は訪れようとしていた。つかの間の静寂。

「スタート! 各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました!」

 ガシャン、という音とともにゲートが開き、ウマ娘たちが飛び出していく。ヴァルキリーは持ち前の加速力と、黄金の回転の力によってまたたく間にハナを奪った。

「さあ、先頭に立ちましたヴァルキリー! このままリードを広げることができるか!」

「この圧倒的な逃げこそ、ヴァルキリーの持ち味ですね」

(いいぞ、ヴァルキリー。まずはそれでいい)

 向正面の中ほどまでは平坦な道が続く。それまでは脚を温存する必要はない。いつものように「逃げを打つ」のだと、周りに思わせておけばいい。

「依然先頭はヴァルキリー! すぐに続いてキタサンブラック、一バ身離れてピッコロリズム、外からクラヴァット! トラッドパルフェ、インディゴシュシュ続きます」

 先頭集団の序列が定まってくる頃合いだ。周りは皆ヴァルキリーのペースでレースが進むと思っている。じきに先頭の座はキタサンブラックに明け渡すことになるだろうが、今はまだその時ではない。

「先頭集団から二バ身、三バ身離れてスローダンサー! 外からコスモスクレイパー、続いてタイムティッキング、その内並んでサトノダイヤモンド! 後方二番手にドゥラメンテ!」

 中団も中団で競り合っているようだ。いくら道中でペースを落とすといっても、あの中に巻き込まれたらひとたまりもない。ペース配分の難しいレースが続く。

 そして問題の向正面の坂に差し掛かった。しばらくの上り坂の後、長い下り坂を走らせられるこの向正面。当初の作戦通り、ここでヴァルキリーは先行策に切り替える。

「おっと、ヴァルキリーここでペースを落としていきます! 替わって先頭に立ったキタサンブラック! その外並んでクラヴァット!」

「ヴァルキリーちゃんが失速……? いや違う、逃げを打つことをやめたんだ。でもどうして……」

 キタサンブラックが怪訝そうな顔をする。無理もない。ヴァルキリーが少し前まで脚部不安を抱えていたことは知っていても、その対策が坂道で脚をためることだとまでは思い至らないだろう。黄金の回転とスリップストリームをふんだんに活用して、無理なく坂を上っていくヴァルキリー。

「先頭はキタサンブラック! 続いてクラヴァット、一バ身離れてピッコロリズム! すぐに続いてヴァルキリー、トラッドパルフェ並びかけてきます」

 そのまま下り坂に差し掛かった辺りで、後続に動きがあった。

「ヴァルキリーさん……まだ万全の状態ではないのですね。彼女を捉えるには、今が絶好の好機と見ました」

「おっと、ここで仕掛けるかサトノダイヤモンド! 下り坂をぐんぐんと加速していきます!」

 サトノダイヤモンドの早仕掛け。狙いは間違いなくヴァルキリー。しかしヴァルキリーはこれにも動じることはない。この長い下り坂で下手に加速すると、坂の終点で脚が潰れることになる。それをわかっているからこそ、サトノダイヤモンドも必要以上に上がってくることはしない。ここでまんまと誘いに乗っていたら、先にヴァルキリーのほうが脚を使い切らされていただろう。

「やはり、下手なブラフには乗ってくれませんね。さすがです、ヴァルキリーさん」

 長い長い下り坂を過ぎ、平地のコーナーへと差し掛かる。仕掛けるならこの辺りだ。坂で我慢した甲斐があって、脚は充分に残されている。ヴァルキリーがいっそう脚に力を込める。と、ここで後方のウマ娘に本格的な動きがあった。

「うおおおああっ!」

「ここが攻め時と見たわよぉ」

「最終コーナー、スローダンサーが前を狙っている! すぐ後ろにドゥラメンテ! 先団との差をぐんぐんと縮めていきます!」

 実況の声をかき消さんばかりの勢いで、鬨の声を上げて迫るドゥラメンテ。余力たっぷりの涼しい顔をして猛然と追い上げるスローダンサー。ここにきて捕まるわけにはいかない。なんとか二番手のまま最終直線へと差し掛かった。

 この最終直線には、最初に少しだけ上り坂が存在する。ここばかりは多少無理を通して押し切るしかない。ヴァルキリーはいま一度脚に力を込め、敢然と上り坂に挑もうとした。しかし、

「あれ……力が入らない。どうして、脚は残っているはずなのに」

 それはほんのわずかな勝負のアヤだった。ヴァルキリーの身体のどこかが、上り坂で全力を出すことを無意識のうちに拒んだのだ。彼女の身体を怪我から守ろうとする、防衛本能なのかもしれなかった。彼女自身すらも、いわんやジャイロであっても、予想できなかった勝負のアヤ。それはほんの小さなものとはいえ、ヴァルキリーをライバルたちとの勝負から置き去りにさせるには充分すぎた。

 慌てふためくヴァルキリーを尻目に、そんな彼女を抜き去っていく後続のウマ娘たち。

「最終コーナーを抜けて直線へ向かいます! 先頭はキタサンブラック! ドゥラメンテ追い上げる、すごい脚だ!」

「ま、待って……置いていかないで」

 上り坂をやっとの思いで抜け、再び脚に力を込めるヴァルキリー。持てるすべての力をもって黄金の回転エネルギーを発揮しようとする。しかしもはやすべてが手遅れだった。ヴァルキリーはただ、最終直線で先頭を争うライバルたちの背中を眺めていることしかできなかった。

「負けたくないのに……終わりたくないのに!」

 最後の力、完璧な黄金の回転の力で決死の勝負をかけるヴァルキリー。彼女はまだ諦めてはいない。先団の背中めがけて迫る。

 ようやく先頭集団が見えてきた、その時だった。

「ヴァルキリー、君はよくやった。だが、ここまでだ」

 ヴァルキリーの耳に、そんな声が届いた気がした。かと思うと、すぐ横を走っていたドゥラメンテがはっと気勢を上げ、無情にもヴァルキリーを突き放していった。そしてそのまま──

「ゴールイン! 一着はドゥラメンテ! 日本ダービーの栄冠を見事勝ち取りました! 二着はキタサンブラック、三着はスローダンサー!」

 結局、ライバルの背中を捉えることはできなかった。ヴァルキリーは五着に敗れた。

 ジャイロは観客席の手すり越しにヴァルキリーと目で合図すると、彼女をねぎらうべく地下バ道へと向かった。すべてが終わったことを、告げにいかねばならなかった。

 

 レースの後、こうして地下バ道で担当ウマ娘の帰りを待つようになってもう何度目になるだろう。地下バ道には依然として、ドゥラメンテの勝利を高らかに称える観衆の声が轟き渡っていた。ヴァルキリーは口を真一文字に結んで──まるでその奥にある何かを封じ込めるように──地下バ道に乾いた足音を響かせ、ジャイロの元へやってきた。そして、あくまで平静を装ってこう言った。

「トレーナー、すみません。私、負けてしまいました」

「ああ」

 ジャイロがそう声を発すると、ヴァルキリーは溜まったものを抑えかねた様子で真一文字の口を緩め、ジャイロの胸元にすがって慟哭した。

「負けました……あんなに頑張ったのに、負けてしまったんです!」

「……そうだな」

 今は何を言っても、ヴァルキリーの耳には届くまい。ジャイロはしばし彼女の泣き叫びたいがままにさせてやることにした。

 しばらくの間、地下バ道にはヴァルキリーの慟哭だけが響き渡っていた。それから少し落ち着いたのか、彼女はゆっくりと口を開いた。

「怪我だって乗り越えました。黄金の回転だって磨きをかけました。慣れない作戦にだって挑戦しました。それなのに……!」

「わかっている。アンタはよく頑張った。俺がよく知っている」

「それでも……そこまでやっても、勝てるかわからないのが勝負の世界。勝負に絶対はない。わかっていたはずなのに、私は今、こんなに悔しいんです」

「月並みな台詞で恐縮だがよォ……アンタのその悔しさは、アンタ自身の本気の証拠だ。本気で戦わない奴は、悔しがることすらできねえ」

「本気……それは違います。私は本気で走ることができませんでした」

「それは、あの最終直線の坂のことを言っているのか」

 ヴァルキリーは首肯した。

「トレーナーも見たでしょう。あの坂で私が失速したのを。あそこで脚を使って大丈夫なのか、私は心のどこかで不安になったんだと思います。だから、私の胸中に隙が生まれた。その小さな隙に不安がみるみる入り込んで、私の脚を絡め取りました。あの一瞬だけ、私は……本気で走っていなかったんです」

「だから、負けても仕方ないと……そう言いてえのか」

「当然のことなんです。不安を受け入れて我がものとする、それができなかった私の弱さが招いた敗北なんですから」

「ヴァルキリーちゃん、それは違うよ」

 唐突に、聞き慣れた高い声がした。キタサンブラックだった。隣にはいつものように、サトノダイヤモンドの姿もある。ヴァルキリーはふたりに目を合わせようとしなかった。泣きはらした顔を晒すのが恥ずかしいのだろう。ジャイロはヴァルキリーを抱き寄せた格好のままキタサンブラックたちに相対する。

「違う……ってのは、どういうことだ。ヴァルキリーにもわかるように説明してやってくれ」

 ジャイロはキタサンブラックの言いたいことにおおかた見当がついていたが、あえてはっきりと言葉にしてもらうことにした。

「そのままの意味です。ヴァルキリーちゃんは自分の中にある巨大な不安と、必死に戦っていたように思います。前を走っていたあたしにもわかります」

「私も、キタちゃんと同意見です」

 これは、サトノダイヤモンドの言だ。

「誤解のないように申し上げますが、これはヴァルキリーさんのお怪我に同情しているのではありません。ご自分がどんな境遇に置かれようとも、勝利を見据えた執念の火を絶やさない。ご自身の抱える不安と必死に戦うヴァルキリーさんを、ライバルとして誇りに思います。本気で走っていなかったなどと、誰にも言わせません」

 ヴァルキリーは依然としてジャイロの胸板に顔を埋めたまま、耳だけを立ててふたりの話を聞いていた。

「聞いたか、ヴァルキリー。アンタのライバルどもが、アンタは本気で走っていたとよ」

 ジャイロの言葉にヴァルキリーはようやく顔を晒す勇気が出たのか、彼の胸元から離れてキタサンブラックたちと正対した。

「ありがとう、ふたりとも。まだ自分の中で整理はつけられていないけど、多少……慰めにはなったわ」

「そっか、それなら良かった! ヴァルキリーちゃんの元気がないと、あたしまで落ち込んじゃうからさ」

「私もです。ヴァルキリーさん、私たちの戦いはまだ終わってはいません。菊花賞で再びまみえましょう」

 サトノダイヤモンドの言葉にヴァルキリーははっとする。そうだ、まだすべてが終わったわけではない。

 真っ赤な目元を勝負服の袖で拭い、ヴァルキリーはふたりを力強く見つめ返した。強がりにすぎなかったが、今はそれで充分だった。

「そうね。少し元気が出たわ。確かに私たちのクラシック路線、ここで終わりじゃないもんね」

「えへへ。それでこそヴァルキリーちゃんだよ! これからの戦いも、楽しみにしてるね!」

「ええ。次こそサトノ家の誇りをご覧に入れます」

 にっこりとヴァルキリーに微笑み返し、キタサンブラックとサトノダイヤモンドは去っていった。

(さて、経験上そろそろアイツがやってくる頃合いだが)

 ジャイロが心の中でそう漏らすと同時に、彼女の姿が視界に飛び込んできた。ドゥラメンテだった。

「優勝おめでとう、ドゥラメンテ」

 ヴァルキリーが声をかける。ドゥラメンテはその言葉に喜んでいいのかどうか、少しためらったような表情を浮かべた。

「私にとって勝利は絶対だ。だが一方で、こうも考えてしまうんだ。もし君が怪我などせず、万全の状態で今日を迎えていたなら……と」

「ドゥラメンテ、それは」

「わかっている。言っても仕方のないことだ。そんなことは、君が一番よくわかっているだろう。けれども君は諦めなかった。最後まで自分にできることをした。だからこそ、今日の私の勝利は価値あるものとなったんだ」

 ヴァルキリーを真っすぐ見据えて、ドゥラメンテが静かに言った。

「ありがとう、ヴァルキリー。今日この場所で、私と本気で競ってくれて」

「……ふふっ」

 ヴァルキリーが小さく笑う。きょとんとするドゥラメンテ。

「何か、おかしなことを言っただろうか」

「ごめんなさい。ただ、さっきキタサンとダイヤにも同じことを言われたもんだから。あなたにも同じように、私が本気で走っていたように見えていたんだ、ってわかって安心しただけ」

「その口ぶりだと、君自身は本気を出せていなかったと感じているのか?」

「さっきまではそう思ってたわ。けど今は違う。今日、ここにあるすべてが私の本気、私の持てる全力なんだって、あなたたちみんなに教えられたわ」

 ヴァルキリーの口調は落ち着いていた。それはドゥラメンテに向けた言葉が、単なるおためごかしの類ではなく、本心からの言葉であることを示していた。

 ドゥラメンテはしばし目を閉じて考え込み、ヴァルキリーの言葉をかみ砕いていた。その後、不意に目を見開いてこう言った。

「やはり私は、君のライバルで良かった。心からそう思う」

「どうしたの急に。照れるわね」

「本心だ。だからこそ私は強くなれる。最強であり続けようと思える。君が必死で、私に勝とうとしてくれたのと同じようにだ」

「……そっか。ありがとう、ドゥラメンテ」

「言いたいことはそれだけだ。私は行くよ。後もつかえていることだしな」

 すれ違いざまに自身の背後を指差し、ドゥラメンテもまた去っていった。彼女の指差した先には、穏やかな表情でこちらを見つめるウマ娘がひとり。

「……スロさん」

「ごめんねぇ、なんだか話しかけにくい雰囲気だったから」

 スローダンサーは少しだけ申し訳なさそうにすると、改めて姿勢をぴしっと正して歩み寄り、さあこれから何かを言うぞという雰囲気を出した。そして、

「……あら? 何を言いたいのか忘れちゃったわ」

 思わず膝の力が抜けるジャイロとヴァルキリー。

「スローダンサーよォ……元の世界でのアンタは高齢の馬だったが、まさかこっちの世界で耄碌してるなんてことはないよな?」

「ちょっと、そんなことないってばぁ。ただ、言いたいこと全部ひと通りドゥラちゃんに言われちゃったあとだから、今更何を言うべきか悩んじゃって」

「そうだとしても、話したいことくらい考えてから話しかけてこいっての」

「ごめんなさいったらぁ。ああ、そうだわ。ちょうどいい機会だし、あの話をしましょう」

「あの話?」

 ヴァルキリーが興味深そうに食いついたのを見てから、スローダンサーはもったいぶって続けた。

「ええ。わたくしにとっての走る想いの話。クラシック路線の期間中に教えるって約束だったわよね」

 そういえば皐月賞の時に、そんな話をしていたなとジャイロは思い出した。あの時は確か、ウマ娘の背負う想いが力になるという話を聞いて、試行錯誤していた時期でもあったはずだ。

「こう言ったら驚かれるかもしれないけれどね、わたくしは元々、走れない身体だったの」

「走れない身体……?」

 ヴァルキリーが目を丸くしている。どうやら彼女も知らない話のようだ。

「正確に言うと、全力を出して走ろうとしても身体がどこかで言うことを聞かなくなるの。身体のどこにも異常は見当たらなかったから、きっと精神的な問題だったのでしょうね。走ることへの恐怖心、というのかしら。ウマ娘なのに、おかしいわよね」

「その話、ジョニィの奴には相談したのか?」

「もちろんよ。だからこそトレーナーさんは、わたくしの脚に黄金の回転を授けてくれたんだもの」

 スローダンサーが遠い目をした。かつてあったどこかの風景を懐かしむように。

「あの時は驚いたわぁ。それまで満足に動かなかったわたくしの脚が、ぎゅんぎゅん回って力いっぱい土を蹴ることができるようになったんですもの。黄金の回転って本当にすごい、って思うと同時に、わたくしの脚にこんな可能性が残されていたんだって、びっくりしたわ」

「スロさん……そんなことがあったんですね」

「ええ。けれどね、やっぱり心のどこかで怖いとも思っているの。今は黄金の回転のおかげで走れているけれど、もしもふとした拍子に昔のような、走ることへの恐怖が蘇ってしまったらどうしよう、って。それこそがわたくしの走る想い。わたくしの走る意味。自分の脚が動くうちに、走ることを思いっきり楽しんでおきたい。それがわたくしの偽らざる本心なのよ」

 ジャイロは感心した。恐怖心こそがスローダンサーの原動力。それはまさしく──

「驚いたわスロさん。私はトレーナーに、恐怖を受け入れて我がものとせよ、と教えられてきた。スロさんはとっくに、その領域に達していたのね」

 ヴァルキリーの考えていることも、ジャイロと同じらしかった。スローダンサーがやっていることは、まぎれもなく恐怖心の克服そのものである。ジャイロは表情に驚きの色がにじむのを隠しきれなかった。

「そうなのかしら。でも、ヴァルちゃんが言うならそうなのかもね。話が長くなったけれど、ヴァルちゃんも同じように考えてみたらどうかしら」

「私も?」

「そう。ウマ娘なら誰しも、自分の脚がいつか駄目になる時がくる。それは明日かもしれないし、五年後、十年後かもしれない。だからいつその時がきても後悔のないように、今を精いっぱい走ろう、って。そんな風に考えておけば、万が一また今回のようなことが起きたとしても、より強い気持ちで乗り越えられると思うの。どうかしら。ちょっぴりだけデビューが早かった先輩からの、アドバイスってことで」

 スローダンサーの語り口には、不思議な説得力があった。確かに彼女の言う通りだ。ヴァルキリーのトゥインクル・シリーズを続けていくにあたって、今回の怪我のようなトラブルが再びやってこない保証はない。それに対する心構えとして、スローダンサーの考え方は実に合理的だ。

「忠告ありがとう、スロさん。とても参考になったわ」

「それなら良かったわぁ。それじゃあ、わたくしはトレーナーさんを待たせているから、この辺で失礼するわねぇ」

 そう言ってスローダンサーもまた去っていった。あとにはジャイロとヴァルキリーだけが、ぽつねんと残された。

「……つくづくライバルに恵まれたな、ヴァルキリーよォ」

「ええ」

 そうとだけ言葉を交わして、ふたりは控室へと戻っていった。苦い思い出と、ひとかけらの希望を抱いて。

 ドゥラメンテを称えるコールが、いまだに地下バ道に鳴り響いていた。ウマ娘にとって一生に一度、日本ダービーという大舞台の熱は、ジャイロたちが去った後も一向に冷める気配がなかった。

 

 週明け。葉桜混じりの桜並木を、ジャイロはいつものように通勤する。この日最初に済ませる仕事は決めていた。理事長との面談のアポを取り付けることだ。例の三女神が出てくる奇妙な夢のことについて、理事長なら何か知っているかもしれないと思ってのことだった。前々から何かしら手がかりが欲しいと思っていたのだが、ヴァルキリーのクラシック路線の面倒を見るのに手いっぱいで、なかなかその暇がなかったのだ。日本ダービーを終えたことでジャイロの手にも余裕ができ、三女神の謎を追うことにも気を回せるようになったというわけだ。

 無論、単なる世迷言と袖にされる可能性はあった。というよりほぼ間違いなく胡乱な目で見られるだろうと思った。しかし三女神はこの世界で広く信奉されている存在である。その三女神にかかわることとなれば、さすがに理事長の興味くらいは引けるだろうと期待してもいた。

 そんなわけで、まずは理事長秘書の駿川たづなに一報入れたわけだが。

「承知しました。それでは本日十一時に、理事長室へお越しください」

 返ってきたのは、思いのほかあっけない快諾だった。会わせろと言ってすぐに会わせてもらえるとは、さては理事長とやら思ったより暇なのか、などと失礼な想像をしながらジャイロは約束の時間に理事長室を訪れる。

「理事長、俺だ。入らせてもらう」

 重厚な扉に向かってノックを二回済ませ、押し開けて中に入るジャイロ。理事長、秋川やよいはその幼い身体をチェアにちょこんと乗せ、難しい顔をしながらデスクに山と積まれた書類とにらめっこしていたが、ジャイロの存在に気付くと、その顔を朗らかにほころばせた。

「歓迎ッ! ジャイロ殿、こうして話すのも久しぶりだな!」

「すまねえな理事長。もっとアンタが暇な時に話せれば良かったんだが」

 デスクに積まれた書類の山に目を向けて、ジャイロが社交辞令を述べた。やよいは少しも気にした様子はなく、

「不問ッ! トレーナーの相談に乗ることも、理事長の大事な務めであるゆえ!」

 からからと笑ってみせる。彼女の発言に合わせて、手にした扇子に揮毫された文字も一瞬にして切り替わっている。いったいどういう仕組みなのだろう。

「まあ座りたまえ。それで、どんなことを相談しにきたのだ? この私にも力になれることか?」

「ああ、相談にきておいてなんだが、正直なところアンタに解決できることなのかはわからない。しかし、頼れるのがアンタくらいしかいないことも確かだ」

「ふうむ。何やら込み入った話のようだな」

「……笑わないで聞いてくれよ。この一年間、俺は事あるごとに妙な夢を見てきた。三女神を名乗るウマ娘が出てくる夢だ」

 三女神。その言葉を耳にするなり、神妙な面持ちへと変わるやよい。やはり、このワードに思い当たる節があるのだろう。

「最初に三女神が出てきたのは、ヴァルキリーと契約してからすぐのことだった。その時の話は要領を得なくて、正直よく覚えてねえ。ただ三人まとめて出てきたってことだけは覚えてる」

「三女神が全員……なるほど。そのあとは?」

 興味津々な様子で、やよいが話の続きをうながした。この様子なら、すべて打ち明けてしまっても大丈夫だろう。

「二度目はヴァルキリーのデビュー戦が終わった直後。出てきたのは確か、バイアリータークといったか。そいつは近いうちに俺の運命を知る機会が巡ってくるとか、そうした予言めいたことをほざいていった」

「そうか……バイアリータークがそんなことを」

 依然として神妙な面持ちで考え込むやよい。

「続けるぜ。三度目はホープフルステークスの後。出てきたのはゴドルフィンバルブ。アイツの話は多少具体的だった。サトノダイヤモンドがジョニィと出会って黄金の回転を伝授され、本格化が早まったことで運命が動いた。俺やジョニィがいたからこそ、ダイヤや周りの連中は大きく運命を動かされたとな。そうした運命の揺らぎに、自分たちは興味があるとも言っていた」

「興味がある……なるほど、三女神の目にはそう映るのか」

 やよいが再び何やらぶつくさ言っている。ひとまず会話を続けるジャイロ。

「そして四度目。ダーレーアラビアンが姿を現したのが、皐月賞の直後だった。ヴァルキリーが初めて獲ったGⅠ。しかしダーレーアラビアンは、ほかのウマ娘が優勝する運命も存在しえただろうと言った。列車の線路のように無数に分岐する運命の中で、ヴァルキリーが優勝する運命が選ばれたのだと。それからこうも言っていたな。自分たち三女神は、そうした運命の大きな分岐点でしか姿を現せないと。ダーレーアラビアンは、ヴァルキリーに何か不吉なことが起こると予言していやがった。奴ら三女神どもには、何かそうした──連中が言うところの運命ってやつの──予知能力みたいなもんがあるのかもしれねえ」

「……そうか」

 ジャイロの話をひと通り聞き終えると、やよいは深く考え込んでしまった。それからしばらくの後、こう問いかけてきた。

「ジャイロ殿。今の話、ヴァルキリーには?」

「話してねえ。というより、他人に話したの自体アンタが初めてだ。ほかの連中に話しても、無用な混乱を招くだけだろうと思ってな」

「そうか……一応聞いておくが、私には打ち明けておきたいと考えた理由はなんだ?」

「アンタが一番、三女神について詳しそうだったからだ。俺の見た奇妙な夢のことについて、相談するならアンタしかいないと思った」

 ジャイロの言葉にやよいは再び考え込み、やがて上機嫌そうに扇子を開いた。

「慧眼ッ! ジャイロ殿、君の考えは正しい!」

「なんだいきなり! 脅かすんじゃあねえぜ」

「わっはっは、いやすまない! しかしジャイロ殿、この私に相談してくれたことは正解だぞ。なんせこの私も、君と同じような経験をしたからな!」

「なんだと……!」

 ジャイロは身を乗り出した。三女神の謎について少しは知れれば御の字だと思っていたが、これは思わぬ収穫にあずかれそうだ。

「まず、そもそも三女神についてだが……すべてのウマ娘の始祖とも言われるほど勇名を馳せた、太古の昔に実在したウマ娘だ。現代においてもその魂はウマ娘たちを見守り、時に導いてくれるという。とまあ、ここまでは誰もが知っている常識だ」

「そこまでは俺も聞いたことがある。それで、アンタが経験したことというのは」

 ジャイロはいてもたってもいられなかった。気のはやるジャイロをやよいはそっと制止する。

「まあ落ち着いて、順番に聞いてくれたまえ。私の体験はこうだ。ジャイロ殿、この学園に畑が併設されているのは知っているか?」

「畑? ああ、確かに校舎の裏手にあるって話だな。その畑がどうかしたのか」

「ある時私は、その畑を前に悩んでいた。食はウマ娘の走りと健康を支える根源。しかしそのための野菜……特ににんじんの出来が芳しくない」

 なんだか話があらぬ方向へと飛んでいるような気がするが、ひとまずジャイロは耳を傾ける。なんせ三女神の謎に迫る貴重な機会なのだ。

「だが、そこで私はとある夢を見た。何が出てきたと思う? そう、三女神だ! 太古の昔よりウマ娘を支えてきたという三女神、その姿が私の目の前にあったのだ!」

 ついにきた。三女神の話だ。ジャイロは前につんのめりそうになりながら、やよいの顔をじっと見つめた。

「夢から醒めると、私は元の畑にいた。しかし変わったことがひとつだけあった。畑のにんじんが、見違えるほどに甘くおいしくなっていたのだ!」

「……は?」

「その時は私も何かの幻覚かと思った。しかしジャイロ殿の話を聞いた今ならわかる。三女神の魂は確かに私の前に現れて、ウマ娘の幸福のために力を貸してくれたのだと!」

 ジャイロは目が点になった。これだけもったいぶって聞かされた話が、「三女神のおかげでにんじんがおいしくなった」というだけのことだというのか。

 あからさまに期待外れだという顔をしているのがバレたのか、やよいはこう言ってフォローしてきた。

「そんな顔をしないでほしい。私の言いたいことはつまり、三女神の魂が君の前に現れて会話を試みてくることは、何の不思議もないということなのだ。君が見たという三女神の夢には、きっと、いや必ず意味があるはずだ。それは私が保証しよう」

 確かに、やよいの言うことにも一理ある。彼女の体験したことが事実だとするなら、三女神の魂とやらが同じようにジャイロの前に現れて、ウマ娘を導くための言葉を残していくことがあってもいいはずだ。

「……いや、信じよう、理事長。アンタはこんなことで嘘をつく奴じゃあない、と思う。俺の前に現れた三女神は、単なる夢や幻覚の類じゃあなかった。それがはっきりわかっただけでも充分だ」

「うむ。少しは力になれただろうか」

「まあな。やはりアンタに相談して正解だった」

 少しだけお世辞混じりにジャイロが言った。

「光栄ッ! 私も君の役に立てて嬉しい!」

 聞くべきことは聞き終えただろう。軽く一礼してジャイロは理事長室を去り、それからふと疑問を頭に浮かべた。そういえば、日本ダービーの直後に三女神の姿を見ていないな……と。

(ダービーは「運命が動く時」ではなかったということなのか、それともただの気まぐれか?)

 その場でしばし考えて、ジャイロはかぶりを振った。女神の考えることなんて、考えるだけ無駄だろう。また出てきた時に考えればいいだけのことだ。

 その日は気を取り直して通常のトレーナー業務に戻り、午後からはいつものヴァルキリーのトレーニングを見てやった。しかしそんな中でも、三女神が繰り返し口にしていた「運命」という言葉の大きさが、ジャイロの中でだんだんと増していくのだった。

 

「合宿だと?」

 午後のトレーニングを終え、トレーナー室に戻って執務に精を出していたジャイロは、トレーナー室を訪れた駿川たづなに向かって素っ頓狂な声を上げた。

「はい。七月から八月までの二か月間、沿岸の合宿所へ泊まり込みで練習をしに行くんです。その様子ですとやっぱり、連絡が伝わっていなかったんですね」

「そういや俺のスマホに、そんな連絡がきていたような」

 ジャイロはカバンをまさぐって、自身の携帯端末──黄金長方形とはかけ離れたいびつで美しくない形の機械──を取り出し、不慣れな手つきで画面をなでる。

「ああ、これか。いやあすまねえ。最近何かと立て込んでてな」

「ジャイロさん、LANEの扱いが不得手だと聞いていたので。やっぱり、こうして直接お知らせしにきて正解でした」

「手間をかけたな。手間ついでに教えてほしいんだが、この合宿とやらはどんな意義をもって行われるんだ」

 ジャイロがそう質問すると、たづなはふふんと鼻を鳴らして胸を張った。頼られるのが好きなタチなのだろうか。

「はい、それでは説明しますね。合宿の意義とはズバリ、ウマ娘の皆さんに新鮮な環境でトレーニングに励んでもらうことです」

「新鮮な環境だと?」

「はい。トレセン学園のトレーニング設備は可能な限り充実させていますが、それでもウマ娘の皆さんに提供できるトレーニング環境には限界があります」

「なるほど。それで合宿か」

「ご明察です。自然の海や砂浜といった環境でのトレーニングは、ウマ娘に普段提供できない貴重なトレーニング経験をもたらすとともに、ウマ娘自身を心身ともにリフレッシュさせることにもつながるんです。何より、非日常的な環境の中でトレーニングしながら日々を過ごすのは、きっと楽しいですよ」

 合宿のメリットをすらすらと述べるたづなの姿に、ジャイロはひとつの違和感を覚えた。たづな自身はウマ娘でもトレーナーでもないはずなのに、まるで自分が経験してきたことのように語るではないか、と。もっとも、そんな野暮な疑問をいちいち口に出すほどジャイロも無神経ではなかったが。

「話はわかった。それで何を準備すればいいんだ、俺たちトレーナーは」

「特別な準備は必要ありません。送迎のバスも宿泊所も、こちらで用意しますし。しいて言うなら、水に濡れても大丈夫な衣服や水着の類を用意していただく程度でしょうか」

「水着ねえ。まあ適当に見繕っておこう」

「よろしくお願いします。あ、それと。ここに来るまでにヴァルキリーさんとすれ違ったんですが、彼女すごく合宿を楽しみにしているみたいでしたよ」

 最後に余計なひと言を添えて、たづなは深々と一礼するとトレーナー室を去っていった。後に残されたのはジャイロひとり。

「まさかヴァルキリーの奴、水着選びまで俺に手伝わせようなんて言い出さないだろうな」

 誰にともなく、虚ろな目を泳がせてジャイロがつぶやいた。

 そのまさかだった。たづなの訪問から数日後、トレーニング明けのミーティングで出し抜けにヴァルキリーがこんなことを言い出した。

「トレーナー、そろそろ合宿の時期ですね。海でのトレーニングに備えて水着を見繕いたいんですが、ちょっと付き合ってもらえませんか?」

「……なぜそんなことをする必要がある。俺はそんな行動が無意味だと説明できるぜ。ふたつの理由からな」

 内心呆れながら、ジャイロは諭すように語りかける。露骨に警戒心を露わにするヴァルキリー。

「ほう。聞こうじゃありませんか」

「まずひとつ目。水着なら普段プールで使っている学園指定のものがある。よって新しく手に入れる必要性を認めない。ふたつ目。仮に新しい水着に必要性があるにしても、俺がその買い物に同行する必要性を認めない。アンタひとりで買いに行っても、領収書を切ってくれば経費は学園から落ちるはずだからな」

「それがトレーナーの主張ですか。ならば私は、それら主張に対して反論を行う準備があります」

 思いのほか食い下がってくるヴァルキリー。そんなに意固地になる話でもないだろうに……とジャイロは思うのだが。

「まずひとつ目。トレーナーには黙っていましたが、実は最近、水着のサイズがきつくなってきていまして……特に胸の辺りが。よってちょうどいい機会ですし、水着を大きいサイズに新調する必要性を主張します。そしてふたつ目。トレーナーは私の兄貴分なんですから、妹分の買い物に付き合うのはなんら不自然なことではありません。むしろ付き合うべきです。だって家族同然なのですから。違いますか?」

 ひとつ目の理由はともかく、なぜそこで家族がどうとかの話が出てくるんだ……とジャイロは頭を抱えた。ヴァルキリーが自分を買い物に同行させることに、いったいどんなメリットがあるというのだろう。

「……まあいい。水着の新調が必要だということはわかった。ふたつ目の理由についてはよくわからんがな」

「やった! じゃあ決まりですね、次のオフの日に買い物へ行きましょう。約束ですよ」

 嬉々として小躍りするヴァルキリー。次のオフは久々にイタリアンレストランで故郷ネアポリスの風でも味わってこようと思っていたのだが、おかしなことになってしまったとジャイロは頭を抱えた。

 

 それから幾日か経って、待ち合わせ当日。目的地はトレセン学園在学生なら誰もが知っている商店街だという。学園からほど近い場所に位置するのだが、いかんせんジャイロの土地勘ではこの距離でも迷子になるだろうとのことで、現地集合ではなくわざわざ学園の正門前に待ち合わせすることになった。

 時刻は午前十時を回ろうかというところ。押さえつけるような鈍色の空が、梅雨の訪れを予感させる。そんな中、ひと足先に正門前に到着して時計を眺めていたジャイロの前に、あるひとりのウマ娘が現れた。

 そのウマ娘は涼し気なクリーム色のテーラードジャケットを羽織り、ボトムスにはこれまた涼やかな空色のスカート──いや、これはおそらくサロペットだろう──をゆったりと着こなしていた。いつものひとつ結びの栗色のセミロングヘアで彼女がヴァルキリーだとわかったものの、もしヘアスタイルまで違っていたら見知らぬ大人の女性が歩いているとしか思わなかったかもしれない。それほどまでに、普段のやぼったい制服姿とは決定的に印象が違った。最近育ってきたというバストも、なるほどしっかり強調されている。

「お待たせしました。ええと……どうでしょう、トレーナー」

 ジャイロの目の前に到着するなり、気恥ずかしそうに問うてくるヴァルキリー。おそらくファッションの感想を求めているのだろう。

「まあ、なかなか似合ってるぜ」

 ジャイロは素直に思ったことを口にした。変に意地悪を言って機嫌を損ねる必要もあるまい。ヴァルキリーはその言葉を聞くなり表情をぱっと明るくして、

「良かった。それじゃ行きましょう」

 と言っていつものようにジャイロの手を引いて歩き出す。何の疑問もなく、ジャイロはそれに従った。めかし込んだ年頃の女の子と手を繋いで歩いているという今の状況を、まったく不思議に思っていない自分自身にジャイロは驚いていた。

 目的地の商店街へは十五分ほど歩いて行かねばならない。徒歩だとそれなりの距離だ。トレセン学園外縁の建物群にはジャイロもたまの休みに訪れたことがあるが、なるほどこれだけ離れているとなると、ジャイロひとりでは迷子になる可能性が高いだろう。ジャイロは道中ヴァルキリーに手を引かれながら、ついでに自分の水着も見繕っていいかだの、昼食も商店街で済ませてしまおうかだのと道すがら話していた。傍目から見ればデート中のカップルみたいに見えたことだろうが、ジャイロはそんな外聞を気にするタチではないし、そもそもこの状況を作り出したのはヴァルキリーなのだから、気にしても仕方のないことであった。

 やがて目的地の商店街が見えてくる。素朴で庶民的な、活気にあふれた場所だった。ヴァルキリーの話によると、トレセン学園でこの商店街に世話になっていないウマ娘はいないのだという。

「よっ! そこの兄ちゃん姉ちゃん、寄ってかないかい! 安くしとくよ!」

「はぁーい! 一流養蜂場の蜂蜜を使った特選はちみー、今だけ限定発売中だよー! さあ買った買った!」

 賑やかな客引きの声を縫うように商店街の中を進み、ふたりはようやく目当てのスポーツ用品店にたどり着く。ラックに陳列されているのは大半がウマ娘向けの商品で、ジャイロとしては少々肩身が狭い。それもそのはず、この世界のウマ娘といえばスポーツ産業を支える重要な存在であり、スポーツ用品店としてはウマ娘を厚遇することに何の不自然もないのだから。

 店内を物色することしばし、

「あった。トレーナー、ありましたよ」

 ヴァルキリーが声を上げ指差したその先には、「トレセン学園指定」の謳い文句が入った女性用水着が置かれている。よく観察してみると、お尻の部分に尻尾を通すための穴とジッパーがつけられている。普段こんなものをまじまじと眺める機会などないから、なんだか悪いことをしている気分だ。

「んで、アンタはどのサイズがいいんだ? 俺はアンタのスリーサイズなぞ測ったことはないから、任せるぜ」

 ジャイロがそう言うと、ヴァルキリーはラックから一着の水着を手に取って買い物かごへと入れた。これが今着ているものよりひと回り大きいサイズなのだそうだ。今更だが、ヴァルキリーは自分が水着を選ぶところを男に見られてなんとも思わないのだろうか。あくまでトレーナーと担当の関係であるし、アスリートとしては確かにそれでいいのだろうが。

「さて、私の買い物はこれでいいですね。次はトレーナーの番です」

「俺の?」

「ほら、道すがら話したでしょう。トレーナーが合宿に着ていく水着も、ついでにここで見繕っていきましょうって」

 そういえばそんな話もしていた。とは言ったものの、ジャイロが自分で泳ぐわけでもないから適当に動きやすいものでいいだろう。その旨を伝えようとしたら、それより早くヴァルキリーが両手にそれぞれ商品を持ってきていた。いつの間にか男性用水着のコーナーを漁りに行っていたらしい。

「トレーナー、どちらがいいですか? 身体にフィットするスパッツタイプですか、それとも攻めたブーメランパンツですか」

「どっちもいらねえ。オメーはトレーナーをなんだと思ってんだ。もっと履きやすいやつにしてくれ」

「えーっ。似合うと思ったのになあ」

 ぶつくさ文句を垂れながら、しぶしぶ商品をラックに戻しに行くヴァルキリー。結局、ジャイロはゆったりとしたルーズタイプの水着と、羽織るためのアロハシャツもついでに買っていくことにした。

 会計を済ませ、忘れずに領収書を切ってもらうと、店員から呼び止められた。

「お客様、五千円以上のお買い物をされましたので、こちらのくじ引き券を一枚贈呈いたします。商店街にある抽選所で景品と交換してくださいませ」

 そう言いながら一枚のチケットを手渡してくる店員。ふたりは小さく会釈をして退店する。なにやら抽選所でくじを引けるとのことだったが……とジャイロが目を凝らして探してみると、それはすぐに見つかった。でかでかと「くじ引き」の字が入ったのぼりが掲げられ、チケットを握りしめた買い物客が列をなしている。

 景品の一覧を見てみると、やれ「にんじん山盛り」だの「特上にんじんハンバーグ」だの、この商店街にはにんじんと牛肉しかないのかと思うようなラインナップが掲示されている。だが、その中でもひときわ目を引くのは特等の「温泉旅行券」であろう。列をなしている買い物客も皆、一様に特等の景品に目をぎらつかせていた。

「ここですよトレーナー。せっかく券をもらったんですし、回していきましょう」

 ヴァルキリーが目を輝かせる。確かに、もらったものは使わなければもったいない。こういうものは当たらなかったとしても、いい思い出になるというものだ。ジャイロたちは列の最後尾に並び、順番が来るのを待った。そして、

「さあ次のお客さん、どうぞこちらへ。特等狙って、頑張って回しちゃってくれよな!」

 ついにジャイロたちの番が回ってきた。抽選機のハンドルを掴むと、ヴァルキリーがその手に自分の手をそっと添えてきた。そのままふたりで一緒にガラガラと抽選機を回すと、中からぽとりと小さな玉が転がり出てきた。金色の玉だ。

「で、出たァ~ッ! 特等、温泉旅行券大当たり~ッ!」

「……は?」

 目の前の係員が何を言っているのか、理解するのにジャイロはしばしの時間を要した。それから、

「うおおおいマジかよ! こりゃあツイてるぜ!」

「やった! やりましたねトレーナー!」

 ふたりで抱き合って大喜びするジャイロとヴァルキリー。しかもペアチケットだというからふたりで使えるときた。うやうやしく温泉旅行券を差し出す係員からジャイロはそれを受け取ると、財布の中に後生大事にしまっておいた。

「いやあ、それにしても大変な物もらっちゃいましたね」

 ヴァルキリーがそう発言したのは、とあるレストランで席に着いて人心地ついた後のことであった。このレストランは道中見つけたイタリア料理を供するレストランで、故郷ネアポリスの味が恋しくなっていたジャイロは是非とも寄ろうと目星をつけていたのだ。

 時刻はちょうど正午を回る頃。ヴァルキリーが言うところによるとこのレストランも商店街では有名で、自分たちのように買い物ついでに昼食をとっていく客で連日賑わっているのだとか。

「担当ウマ娘の買い物の荷物持ちをわざわざしてやったんだ、これくらいのご褒美がねえとな。実際にあの旅行券を使うのは、アンタのトゥインクル・シリーズが諸々落ち着いてからになるだろうが……」

 運ばれてきたマルゲリータピザにかぶりつきながら、ジャイロが言った。このマルゲリータがまたなかなかに本格的な味わいで、雪のように白いモッツァレラチーズが口の中でとろけ、あっさりとした旨味が口いっぱいに広がるたび、ジャイロのまぶたの裏に故郷の風景が去来した。

「もう。もっと素直に喜べばいいのに。相変わらず偏屈ですねえ、うちのトレーナーは」

 ヴァルキリーはそう憎まれ口を叩きながら、ボロネーゼをフォークで楽しそうに巻く手を止めなかった。

「で……どうでしたか、今日は」

「うん? なんのことだ」

 ヴァルキリーの質問の意図がわからず、思わず聞き返してしまうジャイロ。ヴァルキリーは小さく咳払いをすると、

「今日一日、楽しかったですかって聞いてるんです。最近、いろんなことが立て込んでて。トレーナー、ろくに休めていなかったじゃないですか」

 なるほど、今回のデートはヴァルキリーなりに気を遣ってくれたものらしい。ジャイロはいたずらっぽく人差し指を立てる。

「じゃりん子の分際で一丁前に気を遣ってんじゃあねえの。俺ァこう見えても、アンタが思ってるほどやわじゃあねえ。立て込んでるって言っても、怪我の件はケリがついたし、ダービーも終わって時期的に余裕が生まれる頃合いだからな」

「そうですか……それならいいんですけど」

「だがまあ、気持ちは受け取っておく。ありがとな、俺の妹分さんよォ」

「……はい」

 ヴァルキリーがしおらしく、それでいて露骨に嬉しそうな顔をするのをジャイロはただ眺めていた。こんな時間を過ごすのもいいか、という気持ちが彼の中で大きくなっていた。この世界で暮らした一年という歳月は、彼の心にそれだけの影響を与えていた。

「そら、冷めないうちに食っちまえ。このあとコスメ用品店も見に行きてえんだろ?」

「ええ。そのあとはコーヒーショップですね。トレーナーのお眼鏡にかなう豆があればいいですけど」

 小ぢんまりとした店内に、ジャイロとヴァルキリーの談笑が響いた。窓の外からは、雲の間を縫って降る陽の光が見えた。

 

 その日以来、ヴァルキリーのトレーニングはよりいっそう熱を帯びるようになった。日本ダービーでの悔しさもあろうが、それ以上に先日遊びに出かけたことで本人にとってもいい気分転換になったとみえる。右脚の怪我も念のため経過観察を続けていたが、やがてすっかり無事に治りきり、ヴァルキリー本来の走りを取り戻せる見通しが立ってきていた。最大の課題であった坂路も、根気強く克服していった。

 前向きな展望とともにトレーニングを重ねる生活を続けて早一か月。この日ジャイロはというと、トレセン学園が手配した合宿所行きのトレーナー用のバスに揺られていた。そう、いよいよこの日がやってきたのである。朝も早よから山を越え谷を越え、いくつもの山林を縫うようにバスが走り続けること約二時間。どこを向いても森林ばかりだった景色が、ある時突如として開けた。どこまでも青く広い海が、梅雨明けのからっと晴れた青空の下に横たわっているのが、バスの窓から見えた。その付近には、木造の宿泊施設らしき建造物の姿も見える。バスが進むにつれてだんだんとその全容が明らかになる。どうやらあれが、トレセン学園のウマ娘やトレーナーが宿泊する施設で間違いなさそうだ。今日から実に二か月の間、この場所で共同生活を送りながらトレーニングに励むわけだ。

 バスが到着し各々が合宿所を目指す中、ジャイロもウマ娘用のバスに乗ってきていたヴァルキリーと合流し合宿所の広間に向かう。そこで合宿所の設備の説明など簡単なミーティングを行った後、そのまま流れで自由行動となった。つまり、移動疲れがあろうがなかろうがトレーニングをやるのも自由、というわけだ。

「トレーナー! 私アレがやりたいです、砂浜でタイヤを引くやつ!」

 ヴァルキリーがはしゃいだ様子で早速トレーニングの提案をしてきた。どうやら非日常感でテンションがおかしなことになっているらしい。ジャイロとしては慣れない土地での移動疲れを早く癒しておきたいのだが、担当ウマ娘がトレーニングをしたいと言っているのを無下にもできない。そんなことをうだうだと考えていると、

「そういうことなら、僕たちと一緒にやらないかい」

 声をかけてきたのはジョニィだった。隣にはスローダンサーが控えめに並んで立っている。ふたりとも、どこか楽しそうだ。

「一緒に、っていうとどういうことだ」

「簡単さ。併走形式にするんだよ。スローダンサーとヴァルキリー、どちらが先にゴールするか競うのさ」

「タイヤ引きでか? まあ、確かに試したことはないが」

「トレーナー、私は構いませんよ。スロさんにはダービーでの雪辱を果たしてやらないと気が済みませんから!」

「雪辱っていっても、ふたりともドゥラちゃんに負けちゃったけどねぇ。でも、勝負なら喜んで受けて立つわよぉ」

「どうするジャイロ。お互いの愛バはやる気満々みたいだけど」

 ジョニィが挑発的な視線を投げかけてくる。ジャイロはいよいよ引っ込みがつかなくなった。

「わかった、やればいいんだろう。まったく、俺はゆっくり休みたかったんだが」

「決まりだね。じゃあ、負けたほうのトレーナーは勝ったほうにコーヒー一本おごりってことで」

「待て待て。担当バを賭け事のダシに使うトレーナーがどこにいる。俺は乗らねえからな」

「おや、怖気づいたのかいジャイロ。君らしくもない」

 どうしたことか、今日のジョニィはいやに挑発的だ。非日常感でおかしくなっているのはヴァルキリーだけではなかったということか。

「……ったく。テメーが言い出したことだからな、後で吠え面かくなよ。ヴァルキリー、目に物みせてやれ」

「はい。スロさん、手加減無用だからね!」

「もちろんよぉ。あれからどのくらい強くなったか、見せてちょうだいねぇ」

 ウマ娘ふたりはそう言って更衣室に飛び込み、あっという間に水着に着替えて出てくると、そのまま初夏のビーチに駆けていった。

「俺たちも行くか。アイツらのトレーニングに使うタイヤを見繕ってやらねえと」

「自分だけ軽いタイヤを確保しよう、だなんて思わないでくれよ」

「そんなせこいことするかよ。それよりさっきの勝負、お前が言い出したんだからな。後で後悔しても遅いぜ」

 ジャイロとジョニィもそんな調子で憎まれ口を叩き合いながら、合宿所を後にした。外に出ると、空からは燦々と叩きつけるような太陽の光が、砂浜からは照り返しの光が一斉にふたりを襲った。潮の香りをたっぷりと含んだ風の向こうには、水平線いっぱいに広がる青い海が待ち受けていた。

 

「時にジョニィ、お前はドゥラメンテをどう見る」

 夕方、合宿所内のラウンジにある自販機の前で缶コーヒーを受け取りながら、ジャイロはジョニィに問うた。

 結局、昼間のタイヤ引き競争は十七勝十三敗でヴァルキリーの勝ち越しとなった。スローダンサーも善戦していたが、本人の弁によるとヴァルキリーは競争中しきりにジャイロの名を呼びながら、凄まじい執念を見せていたという。コーヒー一杯にそこまで気を遣うことはないのに……とジャイロは密かに思ったのだった。

「どうって、君が思っている以上のことは僕も考えてないよ。相変わらず彼女は恐るべきライバルだ。その力の根源は、己の勝利を疑わない絶対的な自信にある。それは君の目にも明らかだろう。なぜ今更そんなことを聞くんだ?」

「なに、たいした理由じゃあない。ただ少し不思議に思っただけだ。ウマ娘の走りにかける執念は、時に純粋な身体能力の限界を超えることがある。ドゥラメンテはまさにその典型だし、ヴァルキリーも時折そんな状態になることがあった」

「話が見えないな。ジャイロ、君は何をそんなに不安がっている?」

 いぶかしがるジョニィに対し、ジャイロはため息をひとつついて落ち着いた。自販機横のベンチに腰かけ、缶コーヒーを開けてひと口あおる。火照った身体の中を、冷たいコーヒーが心地良く駆け抜けていく。

「妙だと思わねえか? 共同通信杯の段階では、その執念がかえって足枷となって折り合いを欠くようなウマ娘だった。それからいくばくもしないうちに、皐月賞の頃には完璧にその弱点を克服できていた。どれだけ優秀なトレーナーやアドバイザーがついていたとしても、そう簡単に走りのクセってやつは直せるものなのか?」

 コーヒーをまたひと口あおり、冷たい息を吐き出してジャイロが続ける。

「ジョニィ。俺はな、ドゥラメンテの奴は相当無理をして走っているんじゃあねえかとにらんでいる。本来はもっと本能的にのびのびと走りてえだろうところを、無理に理性で抑えつけているように見える」

「今のままの走りを続けていたら、いずれ潰れてしまうと?」

「そこまではわからねえ。だが少なくとも、いい影響がないだろうことは確かだ……どんな形で表れるかは未知数だがな」

「ふうん……」

 ジョニィは頭をひねり、しばし考え込むようなそぶりを見せる。それから、こんなことを言い出した。

「SBRレースの頃から思ってたけどさ、ジャイロって意外と優しいよね」

「……はァ? どうしてそうなる」

「だってそうだろう? みんなが自分の力を伸ばそうと躍起になっているこの合宿で、ライバルの心配をしているのなんて君くらいのものだよ」

 まったく予想していなかったジョニィの言葉にジャイロは唖然としたが、やがて大袈裟にかぶりを振ってその言葉を否定した。少なくともジャイロ自身は、徹頭徹尾自分自身のことしか考えていない。自分の「納得」する道を歩むことしか考えていないつもりなのだ。

「買いかぶりだぜジョニィ。俺が考えているのは、いかに効率良くヴァルキリーを勝たせるかってことだけだ。そのためには、多いに越したことはないんだ……ライバルの情報ってやつは」

「そうか。まあ、君が言うならそうなんだろうね」

「それに、ライバルの心配をしているって話なら俺に限ったことじゃあない。この合宿所に集まってるウマ娘ども全員がそうだ」

「……違いない」

 ジョニィはジャイロの隣で立ったまま、自分の缶コーヒーを開けた。夕日が差し込むラウンジに、湿った金属音が心地良く響く。

「そうだ、僕からも君に言いたいことがある。ちょうどほかに誰もいないことだしね」

 ジョニィが唐突にそう切り出した。

「どうした改まって。人に聞かれちゃマズい話なのか」

「ちょっとね。ドゥラメンテの話を聞いて思い出したんだ。彼女は勝利に執着しているタイプだけど、君のところのヴァルキリーも、ああ見えて相当に執着心が強いタイプだと思うよ」

 涼しい顔で辛辣なことを言い放ってくるジョニィ。どういう意味かとジャイロが聞き返すと、またも思いもよらない言葉が返ってきた。

「ジャイロ。僕やスローダンサーの見立てでは、今のヴァルキリーは君という人間そのものに執着しているように思える。君のために走りたい、君のために勝ちたいという気持ちが、以前のヴァルキリーよりも格段に強くなっているように感じるんだ」

「俺のために、だと? なぜそう思う」

「さっきのタイヤ引き勝負の時、彼女はしきりに君のことを気にしていた。それでピンときたんだ。彼女自身が持つ勝利への渇望の核となる部分には、ジャイロ、君の存在があるんじゃあないかってね」

「大袈裟だ。第一、俺はアイツにそこまで恩を売ったつもりはない」

「本当にそうかい? 君とヴァルキリーとの間に何があったかはしらないけれど、そこは君自身のほうが詳しいはずだよ」

 ジャイロは胸に手を当てて思い返してみる。そうしてひとつの可能性にたどり着く。ヴァルキリーは自分の脚を「勝利の女神」と呼んでもらえたことに喜び、ジャイロを家族同然と呼び慕っていることを。

(アイツは……家族に飢えているのか?)

「その様子だと、どうやら心当たりがあるみたいだね。信頼関係があるのはいいことだけど、以前も忠告した通り、距離感には気を配ったほうがいい。なんせ相手は多感な年頃の女の子だ。ちょっと付き合い方を誤るだけでも、その精神のあり方に多大な影響を及ぼすだろう」

「俺に説教垂れるんじゃあねえ。ヴァルキリーとの関係は俺自身の問題だ。誰に指図を受けることでもねえ」

「……そうだね、すまない。余計な世話を焼いた」

 ジョニィがすまなそうにベンチに座った。入れ替わりにジャイロはベンチから立ち上がると、缶コーヒーを飲み干し空き缶をゴミ箱に放って、そのままラウンジを後にした。

(ヴァルキリーが、俺に執着しているだと? だったらどうだっていうんだ。ヴァルキリーが望むような俺でいてやればいいだけの話だ)

 トレーナーの寝室に向かいながら、ジャイロはそんな風に考えていた。この世界に来たばかりの頃のジャイロなら、決してこんな考え方はしなかっただろうことを、今のジャイロは自覚するよしもなかった。

 

 次の日からも、豊かな自然環境を利用したトレーニングは続いた。

 ジャイロがまず取りかかったのは、波打ち際でのスクワットトレーニングである。一見ただ足元を海につけただけの筋トレに見えるが、寄せては返す水や砂に足を取られないようバランスを取りながらスクワットを繰り返すことで、通常よりも大きな負荷でのトレーニング効果が期待できる。

「トレーナー……これ、思ったより……きついです」

 現にこうして、一セット終えた程度でヴァルキリーは音を上げ始めていた。確かにこれは、トレセン学園の中だけでは得られないトレーニング体験だ。

「どうした、まだ始まったばかりだぜ。まずは自分のペースで構わねえから、もう一セットいってみろ」

「はい……頑張ります」

 結局、三セット終えて海から上がる頃には、ヴァルキリーの脚は産まれたての仔鹿のように震えていた。

 またある時には、広い砂浜をいっぱいに使ってダッシュ十本一セットを繰り返させたり。

「やああっ!」

 勢い良く気勢を上げて走るヴァルキリーだが、熱く灼けた砂浜に深く足を取られて、思うように走れずにいるようだった。

「ふう……結構効きますね、これ」

「お疲れさん。インターバルを入れたら、もう一セットいけるか」

「はい。私はまだいけます」

「オーケーだ。なら水分補給をしっかり……うん?」

 ジャイロがふと視線をぐるりと回すと、ひとりのウマ娘と目が合った。彼女はインターバル中のヴァルキリーに向かって、砂浜をざくざくと歩いて近寄ってくる。

「ドゥラメンテじゃあねえか。アンタ自分のトレーニングはいいのか」

「指導者たちには無理を言って時間をもらった。どうしても確かめておきたいことがあったからな」

「確かめておきたいこと……ですって?」

 きょとんとするヴァルキリーに、ドゥラメンテはきっと真っすぐな視線を投げかけ、

「ヴァルキリー。君の脚に宿る執念がどのようなものなのか、私は改めて知っておきたい。それがお互いのためになるような気がしたんだ」

 そんなことを言い出した。彼女の話を整理すると、要はヴァルキリーと併走トレーニングをしてみたいということのようだ。ジャイロとしては断る道理もない。ふたつ返事で快諾すると、ドゥラメンテはさらにこんな条件をつけてきた。

「この併走トレーニングだが、ジャイロ殿は少し離れたところで見ていてほしい。そうすることでしか、きっとわからないことなんだ」

「離れて見てろって? 別に構わねえけどよ」

 その言葉の真意を問いただすこともせず、ジャイロは言われるがままにふたりから距離を置いた。そして、ふたりがスタート地点につく。音のない号令とともに、ふたりは弾かれるように走り出した。

 ジャイロはすぐに異変に気付く。ヴァルキリーが明らかに本調子でない。道の半ばでみるみる失速し、ドゥラメンテに先着を許す。そんな走りが、二回、三回と続いた。

 一セット十回に到達する頃には、ヴァルキリーはすっかり息が上がっていた。一方のドゥラメンテはというと、この過酷な環境で併走をしたと思えないほど涼しい顔で、ヴァルキリーを見下ろしている。

「やっぱりな。グル姉が言っていたことは本当だった」

「なんだと? どういう意味だ」

 ふたりの元へ駆け寄ったジャイロに対して、ドゥラメンテは冷たく言い放った。

「ジャイロ殿、落ち着いて聞いてほしい。ヴァルキリーはおそらく、あなたに依存している」

「はあ!?」

 夏空を切り裂く金切り声を上げたのはヴァルキリーだった。一同の視線が彼女に集まる。

「ちょっと、どうしてそうなるのよ! 私がトレーナーに、その……依存してるってどういう意味!?」

「言葉通りの意味だ。君はトレーナーとの絆を意識するあまり、トレーナーが近くにいないと実力を発揮できない精神状態になっている。さっきの併走でも、ジャイロ殿が近くにいなかったせいで、君はわずかだが落ち着きを失っていた……」

 一瞬で日焼けをしたかと思うほど、ヴァルキリーはたちまち顔を真っ赤に染めた。その根底にあるのが悔しさにしろ、恥ずかしさにしろ、ヴァルキリーにとっては屈辱にほかならなかった。

「だって、エアグルーヴさんが──あなたのアドバイザーが言ったことじゃない。トレーナーとの関係を、言葉にできるようにしておけって。だから私は」

「そのことなんだが、グル姉も謝っていた。グル姉としては単に、トレーナーとウマ娘の関係をより強固にすべきだ、という程度の話をしたつもりだったらしいんだが。君たちに伝わる過程で、どこかでニュアンスが歪んでしまったらしいな。まさかここまで、執着心めいて凝り固まってしまうとは、グル姉も予想していなかったんだろう」

「んで、結局俺はどうすりゃいいんだ。その話を聞かされた俺はよォ。トレーナーとウマ娘の仲良しこよしはおしまいにしなさい、ってか」

 それまで黙って話を聞いていたジャイロが、重苦しく口を開いた。ドゥラメンテはその迫力に臆することなく、こう告げた。

「私には正直、難しいことはわからない。だがグル姉はこう言っていた。中途半端が一番いけないと。執着心と呼べるほどにウマ娘とトレーナーとの関係が深まったのなら、いっそ深まるところまで深めてしまうのもいい、と」

「中途半端だって言いてえのか、俺たちが」

「少なくとも、今は」

 ジャイロは腕を組み、考え込んでしまった。ヴァルキリーは自分を「家族同然」だと言っていたし、自分もそれで納得していた。それでは中途半端だというのか。より関係を深める余地があるというのか。しかしそれはもはや──

「言いたいことはそれだけだ。これ以上は、私が口を出していい範疇を超えている。あとはあなたたち次第だ。お互い万全の状態で、戦えることを楽しみにしている」

 それだけ言って、ドゥラメンテは去っていってしまった。あとには、気まずい空気のまま取り残されたジャイロとヴァルキリー。互いに言葉を発するタイミングを見計らった末に、

「トレーナー、今夜ちょっと時間をください。お話ししたいことがあります」

 意を決したように、ヴァルキリーが言った。

 

 その日の夜、夕飯を終えて皆がリラックスタイムに入る頃。ジャイロは約束通り、待ち合わせの場所へとおもむいていた。合宿所の裏手にある林道の半ば、そこでヴァルキリーは先んじて待ち受けていた。

「来て……くれたんですね。トレーナー」

「呼ばれたからな」

 こともなげに軽口を返すジャイロだったが、その胸中はざわついていた。今から話すことが、自分自身の未来を決定づけるような気がしてならなかった。ただならない緊張感が、ヴァルキリーの身から漂っていた。自分が三女神の立場なら、今夜辺り喜んで夢枕に立つだろうな──などとどうでもいいことを考えて気を紛らわせた。

「それで、こんなところまで呼びつけて何の話だ。人には聞かれたくない話なのか」

「そうですね……人に聞かれたくないのは確かです。今から話すことは、私とトレーナー、ふたりだけが知っていればいいことですから」

 持って回った前置きの後、ヴァルキリーが静かに語り始める。

「昼間、ドゥラメンテから言われたことを覚えていますか。私がトレーナーに依存している、執着している……って話」

「ああ。実際どうなのかは別にしても、アンタが俺に依存してパフォーマンスを発揮できない、なんて話はトレーナーとして見過ごせない。仮に事実だとしたら、何か手を打つ必要がある」

「打つ手ならあります」

 静かに、しかし毅然とした態度でヴァルキリーが言いきった。ジャイロが目をぱちくりさせていると、ヴァルキリーは勢いのままに続けた。

「エアグルーヴさんが言うところには、お互いの関係が中途半端だといけないってことでしたよね。だったら、深められるところまで深めてしまえばいいんです。私とトレーナーの絆を、これ以上ないくらいまで強固にしてしまえば。そのためには、今の私の気持ちをはっきり言葉にするしかありません」

 予感がした。次にヴァルキリーが放つ言葉が、ジャイロにとって「運命の分岐点」になるのだろうと。

 ヴァルキリーは林の清涼な空気を胸いっぱいに吸い込み、決断めいた表情でジャイロの目を真っすぐ見つめて言った。

「トレーナー。きっと私は、あなたのことが好きです」

 一瞬、水を打ったような静寂が横切る。暗い林の木々を通り抜ける風のざわめきが、妙にうるさく感じた。その風に乗って、彼女の栗色のセミロングヘアがふわりと揺れた。

 ジャイロはヴァルキリーと目を合わせたまま、しばらく何も言えなかった。ただ自分が驚愕の表情を浮かべ、口を半開きにして呆けていることだけはわかった。

 恐れていたことが起きてしまった、と思った。ジョニィの警告は正しかった。彼はこうなることを予見していたのだ。ヴァルキリーに恋慕の情と取り違えるほどの執着心を与えてしまったのは、ジャイロ自身の行いによるものだ。

 ジャイロの脳裏に、ヴァルキリーとの様々な思い出が去来する。初めて会った日のこと。一緒に初詣に出かけたこと。勝負の世界のシビアさを思い知った弥生賞でのこと。初めてのGⅠ制覇で喜びを分かち合った皐月賞でのこと。右脚の怪我をともに乗り越えたこと。万全と言えない状態で必死に戦った日本ダービーでのこと──

(馬鹿な。担当ウマ娘に寄り添うのが、トレーナーの仕事のはずじゃあねえのか。それが間違いだった、やりすぎだったってのか)

「あの、トレーナー」

 ヴァルキリーの声で、ふとジャイロは我に返った。

「こんなこといきなり言われても、すぐに返事はできないと思います。だから、ゆっくりで構いません。私はトレーナーにとってなんなのか、いつかはっきりと答えをください。私はそれで、納得しますから」

 ヴァルキリーの言葉には、嘘が混じっているとジャイロは直感した。仮にジャイロが今の率直な気持ちを──教え子であり、可愛い妹分だと──伝えたとして、本当にヴァルキリーが納得するとは思えなかった。こういう手合いは大抵、言葉に反して自分の望む答えを待っているものだと、ジャイロは経験上予測を立てていた。

 では、ジャイロが「俺もアンタを愛している」とでも言えば解決する問題なのだろうか。否、そう単純な話でもない。そんな言葉をかければヴァルキリーの執着心は輪をかけて増長し、ますますジャイロ抜きでの暮らしに支障をきたすだけだろう。

「ひとつ、聞かせてもらいてえ」

 意を決して、ジャイロはヴァルキリーに質問を投げかけてみた。

「はい、なんでしょう」

「アンタが俺を、その……大事に想ってくれているってのは、例の『家族同然』の話が関係しているのか」

 ヴァルキリーは逡巡し、

「そうですね。今まで話してきませんでしたが、私は家族関係があまり良くありませんでした。だから、『家族』という言葉に憧れがあったことは認めます」

「俺に対する恋慕の情も、その『家族』に対するこだわりの延長線上って可能性は考えられねえか」

 ヴァルキリーの神経を逆なでしないよう、慎重に言葉を選んで質問を重ねるジャイロ。彼女とて勇気を出して自分の気持ちを吐き出してくれたのだ。その勇気をいたずらに踏みにじることはしたくない。

 ヴァルキリーはしばし考え込む。再びやってきた木々のざわめきが収まるのを待って、彼女は質問に答えた。

「確かに、関係はあると思います。正直に言ってしまえば、私はどんな形であれ、トレーナーに『家族』になってほしいんだと思います」

「『勝利の女神』と呼んでくれる人間としてか?」

「違います。それはきっかけにすぎません。この一年間、私はトレーナーという人がどういう人間か、私なりに見てきたつもりです。そのうえで、トレーナーと一緒に生きていけたらどんなにいいかと、いつしかそんな風に考えるようになったんです。初めの頃こそ『兄貴分』という言葉で満足していましたが、人の欲とは恐ろしいもので、本当の意味でトレーナーと『家族』になりたいと思うようになってしまったんです」

 ヴァルキリーの上ずった声を覆い隠してくれるかのように、また木々の間を風が吹き抜けた。ジャイロは清涼な空気をいっぱいに吸い込んで深呼吸をして、昂ってきた動悸をなんとか抑えてから、こう答えた。

「なるほど、アンタの気持ちが少しはわかった。やはり『家族』へのこだわりが、根底にあるようだな」

「はい……自分でもこうして話してみて、整理がつきました」

「俺の所感を述べよう。まず前提として、アンタの気持ちに今すぐ応えてやることはできない。そもそも俺とアンタはトレーナーと教え子だし、この国ではそういう関係はあまり歓迎されねえんだろ?」

「……ええ」

 露骨にしょぼくれるヴァルキリー。そんな彼女を励ますかのように、わざとらしくジャイロは声を張った。

「ただし。今すぐには無理でも、アンタがトゥインクル・シリーズの諸々に片をつけたあとなら、アンタと『家族』になってやることはできる。もちろんそれまでの間に、アンタの気が変わっていなければの話だが」

「トレーナー……それって」

「ああ、結婚でも養子縁組でも好きなものを選ぶといい。ただしあくまで、アンタが競争生活を終えるまではトレーナーと担当ウマ娘の関係だ。その関係を守れると約束できるなら、しかるべき時に俺も約束を果たそうじゃあねえか」

 ヴァルキリーは感極まって、目に涙を浮かべている。もはや上塗る恥もないとばかりに涙を拭うこともせず、彼女はジャイロに手を差し伸べてきた。

「言質、取りましたからね」

「ああ」

 差し伸べられた手を取って、ともに合宿所へと戻るジャイロ。ヴァルキリーの気持ちの整理もついたようだし、ここいらが落としどころだろう。明日以降のトレーニングに、ひいては将来のヴァルキリーのレース生活に支障をきたさない、ベストな落としどころのはずだ。その代償として、ジャイロはヴァルキリーの「家族」としてこの地に骨を埋めることになったわけだが、不思議とジャイロは後悔していなかった。

(文字通り、どこの「馬の骨」とも知れない娘をツェペリ家の長男が嫁に迎えると知ったら、父上はなんと言うだろうな……)

 繋いだ手を通してぬくもりを感じながら、密かにジャイロは自嘲した。

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