プリティー・ボール・ラン   作:アモルファス@銀嶺の麓亭

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#7「この道を行こう」

 ヴァルキリーが初めて「競争」に勝ったのは、彼女が五歳の頃のことだった。

 きっかけは、近所の子供同士でのささいな喧嘩。そこから話はこじれにこじれ、最終的にかけっこで負けたほうが謝るということで双方納得した。喧嘩の相手は同じウマ娘。条件は平等だった。

 しかしヴァルキリーは、相手のウマ娘を歯牙にもかけぬ強さで圧倒して勝利した。相手のウマ娘が半べそをかきながら頭を下げてくるのを見るにつけ、ヴァルキリーはえもいわれぬ優越感を覚えたものだった。

 意気揚々と家に帰って事の顛末を両親に説明するヴァルキリー。よくやった、お前は強いぞと両親に褒めてもらえると思った。しかし、ヴァルキリーの父親からもたらされた言葉は、彼女には思いもよらないものだった。

「ヴァルキリー。次にそのお友達に会ったら、ちゃんと謝りなさい。お前がウマ娘として生まれたのは、誰かを傷つけるためじゃない」

 静かに、しかし迫力を持った父親の言葉。普段は豪放磊落な父親が、初めて厳しい言葉を口にするのをヴァルキリーはその時目にした。父親の言葉の真意を理解するにはヴァルキリーはあまりに幼すぎたが、それでも自分が何か良くないことをしたらしいということは、子供心に理解していた。

 それから月日は流れ、ヴァルキリーが十二歳になった頃。母親の提案で、ヴァルキリーを府中のトレセン学園に入学させようという話が持ち上がった。ヴァルキリーとしては、中央トレセンのレベルの高いウマ娘たちと競えることは、少なくとも地元の悪ガキとつるんでいるよりよほど魅力的である。この話に乗らない手はなかった。

「母さん、私もトレセン学園に行ってみたいと思う。自分の脚がどれだけやれるか試してみたい」

 ふたつ返事で快諾するヴァルキリー。だが、そんな提案に父親は猛反発した。

「こいつの脚は井の中の蛙だ。トレセン学園へ行ったところで、挫折と屈辱を胸に刻まれるだけだ」

「どうしてそんなことがわかるの。この子の脚には『勝利の女神』がついているわ。きっと実のある時を過ごせる」

「まだそんな与太話を信じていやがるのか。結局は自分の才能次第だ。この歳になるまで地元でお山の大将やっていたヴァルキリーが、いきなり中央トレセンに放り込まれてやっていけると思うか」

 ヴァルキリーとて齢十二にもなると、父親の言うことにも一定の理解が及んだ。つまり父親は、自分が分不相応な挑戦の末に傷ついてしまうのではないかと心配しているのだ。しかしその理解は、「勝利の女神」を与太話呼ばわりされたことによる憤りにあっさりと上塗りされた。

「父さん、そんな言い方ないじゃない。私はやってみたいと思うわ」

「ヴァルキリー……厳しいことを言うようだが、トレセン学園という場所はお前が想像しているほど甘くはねえ。このまま地元で、他人より少しだけ強いウマ娘として生きればよかろう。それの何が不満だってんだ」

「父さんこそ、私というウマ娘を甘く見てるんじゃないの? 母さんが『勝利の女神』と呼んでくれたこの脚が、どれだけ通用するか試してみたいのよ」

「母さんともども、そんな幻想にいつまでも囚われているべきじゃない。いいか、人には身の丈に合った幸福というものが──」

「あなた、いい加減にして!」

 母親の一喝が轟き渡り、父親もヴァルキリーも驚きのあまり沈黙した。温厚な母親がヴァルキリーの前で初めて見せた、激しい感情だった。

「ヴァルキリー本人が嫌と言わない限り、私は誰がなんと言おうとこの子をトレセン学園に行かせます。子供の可能性を信じてあげるのは、親の責任でもあるのだから」

 父親の目を真っすぐ見据え、母親はきっぱりと言い放った。

「母さん……そこまで私のことを」

「ヴァルキリー、心配しないで。私はあなたの味方だから。あなたがやってみたいと思うことなら、親として全力で支える。あなたがもし夢破れたなら、親としていつでも帰るべき場所を用意してあげる」

 母親の声音は優しげだったが、その言葉には露骨に父親への当てつけがにじんでいた。それでも母親の提案は、ヴァルキリーにとって大変魅力的だった。トレセン学園に行って、トゥインクル・シリーズに挑戦すれば、母親に「勝利の女神」と呼ばれたこの脚の存在を世に知らしめることができる。最高の名誉を母親の元へ持ち帰ることができる。ヴァルキリーはそう考えた。

「わかったわ、母さん。私、やってみる。絶対にトレセン学園で成長して、自慢の娘になって帰ってくるから」

 だが、この時のヴァルキリーはあまりに幼すぎた。それゆえに、大人の喧嘩というものがただの喧嘩で済むものではないことを知らなかったのだ。

「……そうか。ヴァルキリー。お前がどうしてもトレセン学園へ行くというなら、俺もこの家を出ていく」

「えっ……? ちょっと待ってよ、どうしてそうなるの」

「この家はお前の帰る場所だからだ。お前は俺の意思に反して、自分の道を行くと決めた。そんなお前に対して、この俺がどの面下げて帰る場所を用意してやれるというんだ」

「父さん、落ち着いてよ。そんなことして何になるっていうの」

「そうよ、あなた。早まらないで。私もヴァルキリーも、そんなことは望んでないわ」

「俺自身がそれを望んでいるんだ。少なくとも、この俺のみみっちいプライドを守ることはできるからな。心配しなくても、食うに困らないだけの金は工面してやるから安心しろ」

 そんなやり取りがあった翌日、父親はさっさと荷物をまとめて本当に家を出ていってしまった。その後、ヴァルキリーは厳しい試験をなんとか乗り越えて、トレセン学園の門戸を叩くことになったのである。トレセン学園での生活を経て多少大人になった今のヴァルキリーには、あの時の父親の気持ちが少しはわかる。自分の言葉に責任を持とうとするあまり、引っ込みがつかなくなってしまう者の気持ちが。

 家庭環境を劣悪にさせてまでトレセン学園に来たことに、未練はあっても後悔はない。ただ今でも時折、思うことがある。もしトレセン学園に来る道を選ばなかったら、父親の言っていた通り、ちょっとだけ強いウマ娘として一生を終えていたのだろうかと。父親と母親が別居するようなこともなかったのだろうかと。そのたびにヴァルキリーはかぶりを振って、ありもしない過去の可能性を否定するのだ。いろんなものを犠牲にして、自分はトレセン学園に来た。それが今の自分のすべてなのだと。

 こうして現在の、家族に執着し、「勝利の女神」にこだわるヴァルキリーというウマ娘が生まれたのだった。

 

 ヴァルキリーによる事実上の愛の告白があった翌日、ジャイロはというといつものように練習に明け暮れていた。ヴァルキリーの瞬発力を鍛えるためのビーチフラッグを練習に取り入れるなど、トレーニングにかける熱気はむしろいっそう増していた。

 昨晩あんなことがあったにもかかわらず、ジャイロはそれをおくびにも出さなかった。変にヴァルキリーへの態度を変えて周囲に不審がられても良くないし、何よりジョニィ辺りにこの話が漏れると面倒だ。それにヴァルキリーの態度からしても、あんまりいちゃいちゃせずに節度を持って接するつもりのようだから、ジャイロもそれに合わせようというわけだ。

「よし、あと十本一セット! それが済んだらインターバルを入れる!」

「はい!」

 はたから見れば、ふたりの姿はこれまでと変わらないように見えるだろう。しかしそんなふたりの間には、今や切っても切り離されぬ確かな絆が結ばれていた。ヴァルキリーの本当の気持ちを聞けたことで、彼女本人の精神にも安定感がもたらされたように思うし、ジャイロもまたそんな彼女とともに歩んでいく決意を新たにした。

「トレーナー、一セット終わりました!」

「よし、十分のインターバルを入れる。水分はしっかり摂れ。インターバルが明けたら次のトレーニングの指示を──うん?」

 次の指示を出していたジャイロは、ふとこちらへ歩み寄ってくるふたつの人影を認めた。いつものふたり──キタサンブラックと、サトノダイヤモンドだ。

「あら、ふたりとも休憩?」

「そんなとこ。もし邪魔じゃなかったら、少し話さない?」

「邪魔だなんてとんでもない。誰かと話していたほうが気がまぎれるわ」

 ウマ娘三人は輪になって浜辺に座り込み、談笑を始める。その姿を遠巻きに見守るジャイロ。

「ヴァルキリーさんの練習風景が、さっき少しだけ見えました。よりいっそう動きにキレが増していますね」

「そう? ふふっ、これまで頑張ってきた甲斐があったかしら」

「そうだよ。こういうのってなんて言うんだっけ。なんかこう、水をやったうおおお! って感じのことわざ、あったよね」

「それを言うならキタちゃん、水を得た魚だと思うよ……」

「そうそれ! この合宿で時々ヴァルキリーちゃんの姿を見かけることはあったけど、勢いが今までと比べものにならないというか」

「そっか、ふたりの目にはそう映っているのね。嬉しいわ、すごく」

 人の口に戸は立てられぬ。ジャイロはヴァルキリーが昨夜の出来事をぽろっと漏らしてしまわないかと、内心戦々恐々としていた。トレーナーと担当ウマ娘がデキているなんて噂が立った日には、恥ずかしいどころの騒ぎでは収まらない。しかしヴァルキリーもそれを理解しているのか、キタサンブラックたちの前でボロを出すことはしなかった。

「ヴァルキリー、そろそろインターバルは終わりだ。遠泳に行くぜ」

「はい。じゃあキタサン、ダイヤ、またね」

「うん! ヴァルキリーちゃんも頑張ってね!」

「それでは、ごきげんよう」

 ライバルたちに挨拶を告げ、ふたりの後ろ姿を見送ってから、なぜかこちらへとことこ戻ってくるヴァルキリー。

「おいどうした、海はあっちだぜ。水と砂の区別もできなくなったか」

 ジャイロの皮肉も届いているのかいないのか、ヴァルキリーは何か言いたげに口をもごもごさせている。

「どうした、言いたいことがあるならはっきり言え」

「じゃあ言いますけど……トレーナー、今後のトレーニングについて、ひとつお願いがあります」

「お願いだと? 急に改まってどうした」

 ジャイロが言葉の続きをうながすと、ヴァルキリーは日焼けした頬をさらに真っ赤に染め、

「その……今後その日のトレーニングが終わるたびに、ご褒美のキスが欲しいです」

 いけしゃあしゃあと言い放った。口に含んだスポーツドリンクを吹き出すジャイロ。

「ばっ……馬鹿じゃあねえのかオメー!? 卒業まで無しって言っただろうが、そういうのはよォ!」

「お願いです! 誰も見てない時だけでいいですから! ほっぺ、ほっぺでいいですから!」

「やかましい! 調子に乗るんじゃあねえぜッ! アンタが約束を守れねえってんなら、昨日の話は無しだからな」

「うっ……それは」

 がっくりと肩を落とすヴァルキリー。納得はしていないようだが、とりあえず落ち着いてはくれたようだ。ひとまず軽くフォローの言葉だけ入れておくジャイロ。

「その……そういう雰囲気のことがしたいなら、別に単純な身体の接触だけがすべてじゃあねえだろう。いつかのように商店街巡るとか、ゲームセンターではしゃぐとかよォ。それで充分じゃあねえか」

「そうですね……私が浅はかでした」

「わかればいい。そら、とっとと海行ってこい。ちゃんと待っててやるから」

 ようやくその気になったのか、海へ向かって歩き出すヴァルキリー。やがて彼女が海へ身体を浸からせて泳ぎ始めるのを見届けると、やっとジャイロは人心地ついた。

(ドゥラメンテの奴、何が「中途半端はいけない」だ。悪化しちまったじゃあねえか)

 お門違いな恨み節を心の中でドゥラメンテに向けながら、夏空の下でジャイロはたたずんでいた。

 

「神戸新聞杯だと?」

 その日の夕方、合宿所の食堂で夕食を摂っていたジャイロは、サトノダイヤモンドの発言に素っ頓狂な声を上げた。

 周囲にはヴァルキリーとキタサンブラック、そしてサトノダイヤモンド。夕飯時にたまたま相席になったので、今後のレース展望の話題に花を咲かせていたのである。

「はい。菊花賞へ挑むにあたって、長めのレースをひとつ走って調子を整えておきたいのです」

 確かに、菊花賞は3000メートルの長距離レースだ。それだけの距離を走り切れる力と適性が自分に備わっているか、その試金石として2400メートルレースの神戸新聞杯はふさわしい。

「だが、同じ時期には2200メートルのセントライト記念もあるだろう。そっちじゃあ駄目なのか?」

「あ、セントライト記念にはあたしが出ますよ!」

 口をもごもごさせながら、そう主張してきたのはキタサンブラックだ。口の中のものをしっかり嚥下してから、再び彼女は続けた。

「セントライト記念と神戸新聞杯では、コースの形状も求められる能力も全然違うんです。一概に比較するのは難しいですよ」

 確かにそれはジャイロも知っている。神戸新聞杯、すなわち阪神2400メートルのコースは一コーナー、二コーナーがやや鋭角のため、スローベースの展開になりやすい。これが逃げや先行のウマ娘にとって有利にはたらく。ただし、仕掛けどころの最終コーナーに下り坂があるため、後方からの差し切りも決まりやすい。強力な末脚を持つサトノダイヤモンドには適しているレースと言えるだろう。

 一方、セントライト記念のほうはどうか。こちらは一コーナーが急な上り坂となっており、やはり序盤のペースはゆったりしたものになる。しかしその後の二コーナーからは逆に急激な下り坂へと変じ、ウマ娘たちに難しいペース配分を要求してくる。最終直線が短いぶんトップスピードによる差は出にくいが、非常に独特な形状をしたコースのため実力を出し切ること自体が難しい。

「ねえダイヤ、あなたのパワーとスタミナならセントライト記念でも通用しそうな気がするわ。神戸新聞杯を選んだ理由は何かあるの?」

 ヴァルキリーがそう質問すると、サトノダイヤモンドはにんじんハンバーグの付け合わせのポテトをフォークに刺したまま、恥ずかしそうに頬をかきながら答えた。

「これは……私がジュニア期だった頃からのジンクスなのです。根幹距離、つまり400メートルの倍数の距離で勝ってしまうと、非根幹距離のレースで勝てなくなるという。模擬レースを走っていた頃はずっとそうでした」

「それなら、なおさらどうして? 神戸新聞杯は根幹距離で、菊花賞は非根幹距離でしょう」

「私は、サトノ家のジンクスを破りたくてここにいるのです。そのためには、あえてジンクスに反した行動を取る必要があると考えています。もしここで私が神戸新聞杯を制し、そのままの勢いで菊花賞を獲ることができたなら、サトノの悲願はようやく成されたと言えるでしょう」

 それがサトノダイヤモンドの走る理由か。ジャイロは妙に納得した。そういえばホープフルステークスの頃に彼女自身が言っていた。サトノ家からGⅠウマ娘を輩出したいと。そのためなら、ジンクスにでもなんにでも挑んでみせるということか。

「なるほど。それで、アンタはどうなんだキタサン。セントライト記念を選んだ理由は」

 今度はキタサンブラックに話題を振るジャイロ。彼女のポテンシャルを考えれば、確かに走れないレースではないだろうが。

「あたし、トップスピードでいえばヴァルキリーちゃんにかないません。その代わり、スタミナ勝負には自信があるんです。セントライト記念はコース形状がすごく独特で、ペース配分が難しいっていうから、あたしにも勝ちの目があるんじゃないかなって!」

 その言葉にジャイロの記憶が刺激された。弥生賞の時の記憶だ。あの時キタサンブラックは、ヴァルキリーにハナを奪われると見るや早々にその真後ろにつき、スリップストリームで脚を温存する走法へと切り替えた。そんな走りができるほどクレバーな素質を備えたキタサンブラックならば、確かにセントライト記念も攻略できるだろう。ジャイロがキタサンブラックのトレーナーならば、確かにその選択を採ったかもしれない。

「それで、ヴァルキリーちゃんはどうするの? あたしとダイヤちゃん、どっちと戦いたい?」

 キタサンブラックが目を輝かせ、身を乗り出してヴァルキリーの顔を覗き込む。当のヴァルキリーはなんと言っていいかわからない様子でおたおたしている。当然だ、まだ何も決めていない段階なのだから。ここは代わりにジャイロが正直に言ってやることにした。

「どっちと戦うとか、まだ決めてねえ。それどころか、菊花賞前にレースを挟むかどうかさえもな」

「あっ……そうでしたか。ごめんなさい、あたし早とちりして」

 少々申し訳なさそうに、キタサンブラックが席に着き直した。そうして四人は再び、自分の食事に意識を戻した。

 そんな賑やかな夕食の後。ジャイロとヴァルキリーは再び例の裏の林で密会していた。といっても今回はジャイロが誘ったのである。すわ逢引かとヴァルキリーに期待の眼差しを向けられたが、断じてそういうわけではない。ほかの者に聞かれたくない話だから、人目を避けてここへ誘ったというだけだ。

「で、なんですかトレーナー。話って」

 鼻息を荒くするヴァルキリー。そういうことではないというのに。いちいち弁解するのも面倒なので、ジャイロは早速本題に入る。

「ヴァルキリー。アンタはどっちのレースに出たい?」

「えっ?」

「聞いてなかったのか、さっきの話をよォ。阪神2400メートルの神戸新聞杯か、中山2200メートルのセントライト記念か。俺としては、どちらかひとつで結果を出して菊花賞への弾みをつけたいと思うんだが、どうだ」

 ジャイロの語り口にヴァルキリーはようやく真剣な表情に戻り、あごに手を当てて小考した。しばしの後に口にしたのは、

「……神戸新聞杯、です」

「理由を聞こう」

「まず、両レースともスローペースになりがちで、私の逃げ脚は有利にはたらきやすいです。しかしセントライト記念のコースはペース配分が難しく、加えて最終直線が短いことから、私の持ち味である黄金の回転によるトップスピードが活かしきれません。中山レース場は一度勝っている舞台ではありますが、このビハインドは無視できない要素かと」

 ジャイロはじっとヴァルキリーを見つめたまま、黙して語らなかった。ヴァルキリーはそれを次の言葉をうながされていると取ったか、続けて説明し始めた。

「対して神戸新聞杯ですが、こちらも逃げが有利なことは同じ。しかしコース形状はゆったりとしていて、勝負所に下り坂があることから後方からの差し返しも決まりやすいです。それでも最終直線が長めなこともあって、黄金の回転エネルギーで押し切るには適しているコースかと」

 ヴァルキリーが語り終えると、それまで黙して語らなかったジャイロが唐突にくつくつと笑い始めた。ぎょっとした表情を浮かべるヴァルキリー。

「ど、どうしたんですかトレーナー。急に笑い出して不気味ですよ」

「いや参った。合格だぜアンタ。俺がさっきまで考えてたこととまったく同じだ」

「本当ですか? じゃあ、私の次走は──」

 ヴァルキリーの言葉に、ジャイロは力強く頷き返す。

「目標は定まった。アンタの次の舞台は、神戸新聞杯だ」

 

 それからというもの、明確に目標を神戸新聞杯に定めたトレーニングの日々が続いた。脚を長く使うための走り込みや、小回りのコーナーを上手く抜けるためのシャトルランなど。夏の厳しい日差しに体力を奪われないよう、時折海に浸からせて涼を取らせることも忘れなかった。たまに海から上がったヴァルキリーが海藻まみれになっていることがあって、そのたびに笑いながらジャイロは海藻を取ってやった。

 ある日のこと。いつものように練習メニューをこなし、インターバルがてらふたりで海に入ってくつろいでいたところ、

「おーい、ずいぶんと楽しそうだね」

 陸地からジャイロたちを呼ぶ声がした。見れば、ジョニィとスローダンサーが好奇の目でこちらを眺めていた。波に身を任せてぷかぷか浮いたまま、ジャイロは視線だけを返す。

「ジョニィさん、スロさん、一緒に泳ぎませんか? 気持ちいいですよー!」

 ヴァルキリーの溌溂とした声が夏空の下に響く。ジョニィはそれに負けないくらいに元気良く返事をした。

「すまないが、僕は遠慮しておくよ。スローダンサー、君は疲れているだろう。一緒に行って遊んでくるといい」

「まあ、それではお言葉に甘えて。ヴァルちゃん、お邪魔するわねえ」

 ざぶざぶと海に入ってくるスローダンサー。そのまま立ち泳ぎの姿勢になると、ヴァルキリーと楽しそうに談笑し始めた。

 そんな様子を依然その場に立ったまま見守るジョニィ。彼の視線はジャイロに向いていた。ふたりで話したいことがあるというサインだ。ジャイロはそろそろと浜辺に上がり、ベンチにかけてあったアロハシャツを素早く羽織ると、わざとらしく彼に話しかけた。

「んで、なんなんだその何か言いたげな視線は」

「大したことじゃあない。ただ、君の雰囲気が最近また一段と変わったなと感じてさ」

 ジョニィはキザったらしく右手を腰に当て、身体をジャイロのほうに向けて立った。

「ズバリ聞くけど……君、最近ヴァルキリーと何かあったかい?」

 本当にずけずけと聞いてくる奴だ。ジャイロは心の中で毒づいたが、何かあったことは事実だから嘘を言うわけにもいかなかった。

「……どうしてそう思う」

「ヴァルキリーに向ける君の視線が、以前より穏やかになった気がしたんだ。気のせいだったらすまない」

「いや、お前に隠し事は意味をなさないだろう。確かに何かあったさ。おそらく、お前の想像している通りのことがな」

「そうか」

 ジョニィはキザな態度を崩さなかった。てっきり失望されるものかと思っていたが。

「軽蔑しねえのか? あれだけ忠告したのに、ってよォ」

「それが君たちにとって一番いい信頼の形だというなら、僕に軽蔑する権利なんてないよ」

 相変わらず、妙なところで優しい奴だ。海辺で白波とたわむれているヴァルキリーとスローダンサーを遠目に見ながら、ジャイロはぼんやりとそんなことを思った。

「ただひとつ心配事があるとすれば、君たちがトレーナーと担当ウマ娘の関係を超えてしまわないかってところだけど」

「そんなヘマするかよ。俺だってこの世界で食いっぱぐれたくはねえ。そこんところの節度は守るさ」

「なら安心だ。君がそう言うなら、きっと必ずそうなる」

 ずいぶんと知った口を利く野郎だ。もっとも彼はジャイロと違って、SBRレースの結末を知っているのだから無理もない話か。

 ふとジャイロは手元の時計を見る。休憩時間は過ぎている。

「おいヴァルキリー、インターバルは終わりだ。戻ってこい」

 ジャイロの鶴の一声に従い、ヴァルキリーは名残惜しそうに海を後にする。するとそこへ、なぜかスローダンサーまでついてきた。

「あのう、ジャイロさん。せっかくこうして一緒にいるんだし、久しぶりにヴァルちゃんと併走トレーニングさせてもらえないかしらぁ」

 スローダンサーから願ってもない申し出が。ジャイロとしてはもちろん断る道理はない。ふたつ返事で快諾し、ふたりに準備をうながすジャイロ。

「やった! ありがとうございます、トレーナー」

 なぜかヴァルキリーが礼を言う。両の眼をきらきらと輝かせ、頬をほのかに紅潮させて。そんな顔をするからジョニィの奴に勘付かれるんだぞ、という言葉は喉の奥にしまっておいた。

 

「──スローダンサーに気を付けろ」

 重苦しい言葉が頭に響いて、ジャイロは思わず飛び起きた。いや違う、まだ夢の中だ。例の三女神が出てくる奇妙な夢の中にまだいるのだ。

「スローダンサーに気を付けろ」

「やかましいッ! 誰だ、さっきからぶつぶつ言ってやがんのは。出てきやがれッ」

「私だ、ジャイロ」

 暗がりの中から、バイアリータークが姿を現した。吊り上がった目は以前よりいっそう深く彫られたように鋭く、何かを訴えかけているかのようだった。

「久しいな。私にとっては一年ぶりだ」

「やっぱりアンタらかよ。そろそろ来る頃だとは思ってたぜ。その様子だと、今が『運命が動く時』ってやつなのか」

「おっ、ちゃんと俺の言ったことを覚えていてくれたんだね。感心感心」

 バイアリータークの背後からもうひとり、軽薄な台詞とともにダーレーアラビアンが姿を見せた。彼女と会話していると事の重大さをいまいち掴みきれないので、ジャイロは苦手だった。

「そう。今こそ待ちに待った『運命が動く時』。正確には、『動き始める時』くらいのニュアンスだけどね」

「そうかい。それで、なんでスローダンサーに気を付ける必要がある。アイツにいったい何があるってんだ」

「それについては、私から説明するわね」

 三女神ふたりの隙間から顔を出すように、いつの間にかゴドルフィンバルブが姿を現していた。口元に浮かべたたおやかな笑みはこれまでと変わることなく、一見さして深刻な話をするようにも見えない辺り、かえって掴みどころがない。

「結論から言うと……何をどう気を付けたらいいか、実は私たちもよくわかっていないのよ」

「……はあ?」

 呆れ果てるジャイロ。言うに事欠いて、自分たちもよくわからないまま気を付けろと言っているのか。

「ああ、誤解しないでほしい。なにも俺たちだって、根拠もなしにそんなことを言っているわけじゃない」

 ダーレーアラビアンが慌てて弁解する。この時点でジャイロの彼女らへの信用は地に堕ちているのだが、一応話だけは聞いてやろうか。

「スローダンサーのトレーナーといえば、ジョニィ・ジョースターだろ? そのジョニィがこの世界へやってくる過程で、何か悪しきものを持ち込んだ可能性がある」

「ジョニィが悪しきものを? そんな馬鹿な──」

 そんな馬鹿なことが、と言いかけてジャイロはふと思い出した。そもそもジョニィは、どんな経緯でこの世界に来た?

「そうそう、私が言いたかったのもそういうことなのよ。なにも今すぐジョニィをつまみ出せとか、スローダンサーちゃんが勝つのを邪魔しろって言いたいわけじゃないの。ただ、このふたりの動きには充分に気を付けておかないと、悪いことが起こる予感がするってだけ」

「それは、アンタたち全員の総意ってことでいいのか?」

 ジャイロの問いに、三女神は皆一様に首肯した。

 ジョニィがこの世界に悪しきものを持ち込んだ。それがいったいどんなものかはわからないが、放っておけば何をしでかすかわからないという。ジョニィと境遇が近いジャイロにとっては確かに、一笑に付せられるような話とも思えなかった。

「理解してもらえたか? 私が『スローダンサーに気を付けろ』と言った意味が」

「まだ正直いまひとつ腑に落ちねえがよォ、ジョニィやスローダンサーから目を離すなっていうアンタらの話はわかった」

「ありがとう。でも忘れないで。私たちがこうしてあなたの前に姿を現せたということは、『運命が動く時』は確かに迫っている。きっと近いうちに動きがあるわ」

 ゴドルフィンバルブの思わせぶりな台詞を最後に、三女神たちの姿がすうっと透き通っていく。やがてその面影は彼女らの背後から差していた後光だけになり、そのうち──

「はっ……!」

 目を醒ませばそこは、合宿所の男性部屋だった。ほかのトレーナーたちはまだ起きていない。随分と早い時間に目覚めてしまったようだ。

 身体を起こして周囲を見渡すと、部屋いっぱいに敷き詰められた布団とそれにくるまって眠るトレーナーたち、すぐ隣の布団で気持ち良さそうに寝息を立てているジョニィの姿が目に入った。

(ったく、こっちの気も知らねえで……)

 若干見当違いな恨み節を心の中でジョニィに唱えながら、ジャイロは再び布団を被って寝直すことにした。こういう時にひとり抜け出してイタリアンコーヒーにありついたりできないのが、合宿という共同生活の不便なところだ。

 

 八月に入り、陽射しもトレーニングもよりいっそう熱を帯び始めてきた頃。ジャイロはというと、なんとなくジョニィの視線を避けるようにしながらヴァルキリーのトレーニングを見る日々を送っていた。

 三女神の言うことを、すっかり真に受けたというわけではない。ジョニィという青年が信頼に足ることは、ジャイロ自身よく理解している。それでもなんとなく、引っかかるものがあった。いつか再びジョニィと言葉を交わさねばならない時がくるような予感がしていた。

 そして、その予感は思いのほか早く的中した。ある日のビーチフラッグ練習の時、ヴァルキリーが勢い余ってフラッグを遠くへ飛ばしてしまった。そのフラッグを拾ってくれたのが、スローダンサーだったのだ。

「ありがとう、スロさん」

 何も知らないヴァルキリーは、いつもの調子でスローダンサーに歩み寄る。スローダンサーも別に何か怪しい動きをするわけもなく、これまたいつもののんびりした調子でヴァルキリーにフラッグを返す。

 しかしジャイロは気付いていた。スローダンサーの背後から飛んでくるひとつの視線、つまりジョニィの視線に。ジャイロは思わず身体が釘に打たれたようになる。言葉には形容しがたいが、最近のジョニィはなんというか、纏う雰囲気が変わった気がする。リンゴォ・ロードアゲインが言っていた「漆黒の意思」とやらに近い気もするし、そうではない気もする。とにかく異様なことには違いなかったし、そんなジョニィとどう接したものかジャイロにはわかりかねていた。

 そんなジャイロの思索をよそに、ジョニィは平然といつもの調子で、にこやかに歩み寄ってくる。その目は真っすぐにジャイロのほうを見つめたまま。

「すまねえな、練習の邪魔をしちまって」

 会話の機先を制されたくない。ジャイロはあえて自分から話しかけた。

「構わないよ。ちょうど休憩を入れようと思っていたところさ」

「そうか。そういうことなら、こっちもひと息入れるとするか。ヴァルキリー、十分ほどインターバルを取れ。スローダンサーと一緒に遊んでろ」

「はい」

 ジャイロの言葉に従い、真夏の海へ身を投げ出すウマ娘たち。その後ろ姿を見届けてから、ジャイロは意を決してジョニィに語りかけた。こうしてジョニィとふたりで語り合うことなど、もう何度目かもわからないのに、かつてないほどジャイロは心身ともに緊張に支配されていた。

「ジョニィ、聞きてえことがある。正直に答えろ」

「えっ、それはいいけど……どうしたんだいジャイロ。いやに深刻そうじゃあないか」

「まどろっこしいことは嫌いだ。だから単刀直入に聞くぜ。お前、元の世界で自分が死んだ時、悪しきものを全部テメーの身におっ被せてきたって言ったな?」

「ああ、確かに言ったけど……どうしてそんな話を今更」

「だったらよォ、そのおっ被せられた悪しきものが、いまだにお前の身体に残ってるって可能性はねえのかよ?」

 ジョニィは目をぱちくりさせている。かと思うと、急にはじけたように笑い出した。

「あはは、考えすぎだよジャイロ。君らしくもない。悪しきものが僕の身に残っているとしたら、とっくの昔に僕の身の回りのどこかで悪いことが起きているに違いない。そうだろう?」

「それは……確かにそうだけどよォ」

 まさか三女神に疑われていました、などと本人に言うわけにはいかない。ジャイロは口をつぐむよりほかになかった。

「それより、ヴァルキリーの次走は決まったのかい? 風の噂では、神戸新聞杯への出走を検討していると聞くけれど」

「ああ、そんな話は確かにしたな」

 ここまで知られているなら、隠し事をしても仕方ない。ジャイロは素直に答えた。

「やはりそうだったのか。スローダンサーはセントライト記念に行くことにしたから、ヴァルキリーとの直接対決はお預けだね」

 セントライト記念といえば、キタサンブラックが出走すると言っていたレースだ。この手でスローダンサーを倒すのはまたの機会か──と思いかけて、自分も三女神の言葉に毒され始めているなとジャイロは自嘲した。「スローダンサーに気を付けろ」とバイアリータークは言っていたが、別にスローダンサーが今すぐ何か悪さをするわけでもあるまいし、仮にそうだとして、レースに勝てばそれを阻止できるというわけでもあるまい。かぶりを振って己の馬鹿げた考えを振り払い、

「ああ、残念だ。次こそオメーをぎゃふんと言わせてやろうと思ってたのによォ」

 そう言ってごまかした。ジョニィは何も答えず、ただその目に自信をにじませてジャイロを流し目で見るだけだった。その目で見つめられることがジャイロにはなんだか不気味に思えて、日光を避けるふりをしてテンガロンハットを被り直し、ジョニィと視線を合わせまいとした。最初に感じた不気味な気配は、いまだジョニィの身からうっすらと漏れ出ていた。

 

 八月も半ばに入り、長かった合宿にも終わりが見えてきたというところで、その急報は入った。

「ジョニィさん! ヴァルキリーちゃん! 大変!」

 それはいつものように練習に励むジャイロとヴァルキリーの元へ、キタサンブラックによってもたらされた。

「どうしたのキタサン。落ち着いて話して」

「ドゥラちゃんが……ドゥラちゃんが!」

「ドゥラメンテがどうかしたってのか!?」

 キタサンブラックに連れられてふたりが現場へ急行すると、そこには群衆に囲まれ、苦悶の表情でシートに寝かされているドゥラメンテの姿があった。群衆をかき分けてよく観察してみると、両脚をかばうように押さえてうずくまっている。

「来てくれたか。貴様の意見を聞こう」

 すぐそばで看護をしていたエアグルーヴが、ジャイロに意見を求めてきた。ヴァルキリーを骨折から立ち直らせた者として、知見を賜りたいということか。

 ジャイロはドゥラメンテの手をそっと脚からどかし、ゆっくりと膝を曲げ伸ばしさせてみた。明らかに不自然な引っかかりがある。

「軟骨片が遊離しているな。しかし幸い重篤ではなさそうだ。細かいことは検査をしてみないことにはわからないが……ヴァルキリー、合宿所へ行って俺の荷物から鉄球を取ってきてくれ」

「アレをやるんですね。わかりました」

 目で合図をするなり、猛スピードで合宿所への道を往復するヴァルキリー。それを待つ間にジャイロはドゥラメンテの身体をそっとうつ伏せの体勢にさせる。戻ってきたヴァルキリーの手に鉄球が握られていることを確かめると、ジャイロはそれを受け取って回転を与え、ドゥラメンテの背中へぽとりと落とした。途端、ドゥラメンテの表情から苦しみがふっと和らぐ。おお、っと声を上げる群衆。

「驚いた……これが黄金の回転というものか」

 エアグルーヴの声に感謝と驚嘆の念が入り混じる。それからすぐに、

「ドゥラ。もう大丈夫だ。大丈夫だからな」

 と声をかけ始めた。ジャイロは鉄球をドゥラメンテの背中から拾い上げると、

「軽い麻酔を施しただけだ。症状の根本的な解決にはなっていない。くれぐれも専門家の意見を聞いて、無理はさせないことだ」

 そう忠告した。エアグルーヴは少しばかり声を上ずらせながら、

「ああ、わかっている。ありがとう」

 と言って、再びドゥラメンテの看護に戻った。

「でもドゥラちゃん、菊花賞大丈夫かな……」

 戻りしな、それまで押し黙っていたキタサンブラックが、ふと誰にともなく言った。確かに軽度とはいえ、この時期に怪我をしてしまったとなると菊花賞への出走も危ぶまれる。

「そうね……確かに心配だわ。今は軽傷でも、放っておくと傷が深くなるってこともあるし」

 ヴァルキリーの言うことももっともだ。ほかならぬヴァルキリー自身がそうだったからである。彼女の疲労骨折も、より軽微なうちに気付いていれば対処も易しかったはずなのだ。ドゥラメンテに同じ轍を踏んでほしくない、という彼女の思いが見て取れた。

「あたし、ライバルと一緒に走れるのが当たり前だと思ってた。ヴァルキリーちゃんやダイヤちゃん、ドゥラちゃんやスローダンサーちゃんと一緒に、いつまでも競い合えるって。でも、そうじゃないかもしれないって考えたら、少し怖くなっちゃった」

「キタサン、臆病風に吹かれるな」

「……えっ?」

 唐突にぴしゃりと言い放たれたジャイロの台詞に、キタサンブラックは面食らった様子だった。

「生きてさえいりゃあ、競い合える機会なんていくらでもある。お互い生きてさえいりゃあな。だから悲観的になることはねえ」

「……ありがとうございます。励ましてもらっちゃって」

「アンタこそ、セントライト記念でスローダンサーと競うんだろう。あんまり思い詰めてると、足元すくわれんぞ」

「えへへ、それは大丈夫です。今の言葉で、元気もらいましたから!」

 ぱっと満面の笑みをほころばせるキタサンブラック。ジャイロもまた笑みで返した。

 ふと視線を感じたので見下ろすと、ヴァルキリーが何か言いたげな目でじっとりとこちらを見つめていた。ジャイロがキタサンブラックにばかり親身にしていることが気に食わないらしい。

(馬鹿。ここで変にアンタに絡んだら、俺たちの関係がキタサンに勘付かれるだろう。ちっとは我慢しろ)

 心の中でそう念を送り返しながら、ジャイロはそっとため息をついた。

 それから数日後、医師の診察を受けたドゥラメンテは正式に離断性骨軟骨炎と診断され、ひと足先に合宿をドロップアウトすることになった。エアグルーヴの話によると、まずはドゥラメンテの脚の怪我をしっかりと治療しつつ、秋はリハビリに充て、冬以降の復帰を目指すとのことであった。

「そんなに長い間、ドゥラメンテと会えないって考えたら……やっぱり、ちょっと寂しいですね」

 トレーニングも終わった夕暮れ時、ジャイロと隣り合ってベンチに座りながら、どこか遠い目をしてヴァルキリーが言った。ドゥラメンテの進退については朝の時点でトレーナーたちには通達されていたのだが、ヴァルキリーの心を乱さないために、ジャイロの一存で彼女に伝えるのはトレーニング後にしようと決めていた。

「今は、思い切り寂しがってやるといい。アンタが怪我をした時も、みんなそうしてくれていただろう」

「そう……でしたね。ドゥラメンテはきっと帰ってきます。みんなが待ってるんですから」

 ヴァルキリーが自分の言葉を噛みしめる。ジャイロもヴァルキリーの怪我の件を経てはじめて実感がわき始めたことだが、ファンやライバルの存在が、ウマ娘を再び震え上がらせるのだという。あれだけ大きな期待を背負って力強く走り続けてきたドゥラメンテのことだ、怪我のひとつやふたつ簡単にはねのけてくれるに違いない。今はそう信じるしかなかった。

 皆の間にどこか沈鬱な空気が蔓延したまま、夏合宿の終盤戦はまたたく間に過ぎ去っていった。

 

「暑い! 暑すぎるぜッ!」

 二か月にも及ぶ合宿を終え、トレセン学園へと帰還したジャイロが、久しぶりにトレーナー室を開くと同時に放った言葉がそれだった。

「海の風はあんなに爽やかだったのに、なんで都市部の空気はこうもじめじめと蒸し暑いんだ」

「ヒートアイランド現象っていいまふ……都市部はコンクリートが多いことに加えて、空調のために熱い空気を外に放出することが原因れ……」

 暑さのあまり、ヴァルキリーの呂律も回っていない。とりあえずこのむせ返るような暑さをどうにかすべく、ジャイロはよろよろと空調のリモコンの元へとたどり着き、スイッチを入れた。ゴオッと勢い良くエアコンから冷風が吹き込み、ジャイロの身にまとわりついた不快な暑気を吹き飛ばす。

「もう九月だぜ。日本の九月といやあもう秋じゃあねえのか。なんでまだこんな夏真っ盛りみてえな気候してんだ」

「残暑ってやつですかねえ。すぐに涼しくなってくるはずですから、もう少しの辛抱ですよ」

「そういうもんか……どっちみちこの暑さが続くうちは、外でのトレーニングは無謀だ。室内での身体作りと、ミーティングくらいしかできることはねえな」

「もどかしいですね。今月下旬には、神戸新聞杯も控えているっていうのに」

 ようやく明晰になってきた思考でジャイロはその名称を反芻した。神戸新聞杯。おそらく、サトノダイヤモンドとの直接対決になるであろうレースだ。

「焦ることはねえ。暑くて練習にならねえのは誰もが同じ。俺たちなりにできることをしていけばいい。神戸新聞杯といやあ、その少し前にはセントライト記念もある。観戦しに行くか?」

「もちろん行きます。スロさんとキタサンの直接対決が見られるでしょうから、行かない手はありません」

「そう言うと思っていた……アンタのことだからな」

「セントライト記念かあ……ドゥラメンテなら、神戸新聞杯とどっちを選んでいたでしょうか」

 少ししんみりとしながら、つぶやくようにヴァルキリーが言った。

「さあな。考えても仕方がねえ。他人のことより、アンタは自分の心配をしろ。生半可なことをやって勝てるほど、ダイヤは甘い相手じゃあねえぞ」

「すみません、そうでしたね。私は私にできることをしないと」

「よし、それじゃあジムトレーニング室へ移動するぞ」

 ジャイロがそううながすと、露骨に嫌そうな顔をするヴァルキリー。暑いのは自分も一緒なのだから、わがままを言うんじゃない。

「うわあ……あの暑苦しい廊下をまた戻るんですか。トレーナー、やっぱりもう少しこの部屋で涼んでからにしませんか」

「オメー、舌の根の乾かぬうちにそんなことを。俺だってできるならそうしたいっつーの。それとも、神戸新聞杯が始まるまでずっとこの部屋でくつろいでるつもりか」

「わかりましたよ、行きますよ……」

「トレーニング室までたどり着けば、多少は空調も効いているだろう。行くぞ」

 先陣を切って部屋を出たジャイロの顔に、湿っぽい夏の吐息がまとわりつく。それを必死にかきわけて、ふたりはジムトレーニング室へと急いだ。今はとにかく、一秒でも長くこの暑苦しさから逃れていたかった。

 目的地に着くと、ひんやりと空調の効いた風がふたりを出迎えた。それと同時に、よく見知った顔の先客を発見した。スローダンサーだ。レッグプレストレーニングに精を出している。ジョニィの姿はない。おそらく自主トレーニングを命じられているのだろう。

「あらぁヴァルちゃん、ジョニィさん。お疲れ様ぁ」

 筋トレのかたわら挨拶をしてくるスローダンサー。さすがに邪魔をしては悪い。挨拶はトレーニングが済んでからで構わない、とジャイロは身振りで伝えた。意図が伝わったのか、スローダンサーは再びトレーニングに集中し始めた。ひとしきり終えた後、

「お疲れ様ぁ。ふたりとも、外は暑いから中でトレーニング?」

 と話しかけてきた。

「まあ、そんなところだ。ジョニィの奴の姿が見えねえが、今日はアンタひとりなのか」

 ジャイロが何気なくジョニィの話題を出すと、スローダンサーは急に神妙な面持ちになった。何かまずいことを言っただろうかとジャイロが内心やきもきしていると、スローダンサーの口から意外な言葉が飛び出した。

「……実は、そのトレーナーのことでおふたりに相談があるの。トレーニングの後で構わないから、話を聞いてもらえないかしら」

「えっ……ジョニィさん、何かあったの?」

「しっ。ヴァルちゃん、声を抑えて。誰に聞かれているかわからないわ」

「聞かれちゃまずい話ってわけか。それなら場所を考えたほうがいい。俺のトレーナー室……は、道中でジョニィと鉢合わせる可能性があるから却下だ」

「ほかに人目につかない場所というと……うーん。ねえスロさん、逆に『聞かれても大丈夫な相手』って誰かいる?」

 ヴァルキリーの質問にスローダンサーは逡巡し、

「そうねえ。口が堅くて、この学園で権威のある人……理事長さんにだったら、相談しても平気だと思うわ」

「決まりね」

 ヴァルキリーが上機嫌に指を鳴らした。

 それから各々のトレーニングが終わった後、約束通り三人は集合して一緒にジムトレーニング室を後にした。目指すは一路、理事長室。既にジャイロがアポを取っている。火急の用だと伝えたら、ふたつ返事で快諾された。やはりあの理事長、実は暇なのではないかとジャイロは勘繰ったが、口には出さなかった。

「ジャイロ・ツェペリだ。失礼するぜ」

「歓迎ッ! 開いているぞ、入りたまえ!」

 快活な返事が響き渡るのを待ってから、ジャイロたち一行は理事長室の扉をくぐった。部屋の中ではいつぞやの時と同じく、書類が山と積まれたデスクにちょこんと座った秋川やよいの姿と、前回はいなかった駿川たづなの姿があった。

「して、此度はどのような用件か?」

「その……実は、言いにくいのだけれど、わたくしのトレーナーさんのことで相談があって」

 その言葉を聞いたやよいはにわかに怪訝な顔をした。ウマ娘がトレーナーの件で相談するということが、どういうことか理解しているのだろう。

「なのでその、トレーナーさんと会話する機会の多い人には相談しにくくて、この場所を……」

「よい、みなまで申すな。たづな、すまないがしばらく席を外してくれるか」

「かしこまりました」

 やよいの指示にたづなもまた何の疑問も持つ様子はなく、一礼してそのまま部屋を後にしていった。たづなには少し悪い気もしたが、ジョニィと接触した時に今回の話が漏れるとまずい。やよいの判断は正しいだろう。

「さてスローダンサー、これで君の秘密を破る者はどこにもいなくなった。遠慮なく話してみよ」

 やよいにうながされ、スローダンサーはぽつぽつと経緯を語り始めた。当初はジャイロとスローダンサーに相談するつもりだったこと、秘密が漏れない場所として理事長室がふさわしいと思ったこと、やよいならば秘密を固く守ってくれるだろうと判断したこと。

「それで結局、俺たちに相談したかったことってのはなんなんだ」

 痺れを切らしたジャイロがたずねた。まずはその内容を聞かないことには始まらない。

 逡巡の後、意を決したようにスローダンサーは言った。

「最近のトレーナーさん……様子がおかしいの」

「様子がおかしい……だと?」

 ジャイロの額に嫌な汗が流れる。ジョニィの様子が、おかしい。心当たりならジャイロの身にもある。

「ふむ。具体的にどう様子がおかしいのか教えてくれるか」

「ええ。最近のトレーナーさんはほかの人……特に、わたくし以外の人にとりわけ冷たくなったように感じるわ。例えば、合宿中にドゥラメンテちゃんが怪我をした出来事。理事長さんのお耳にも入ってらして?」

「聞き及んでいる。実に痛ましいことだ」

「実はあの時、わたくしたちの元にダイヤちゃんが報せにきてくれたの。ドゥラメンテちゃんが大変だ、って。わたくしは何かお手伝いできることがあるかもしれないと思って、ドゥラメンテちゃんのところへ走っていこうとしたわ。けれどもトレーナーさんは、そんな私を引き留めてこう言ったの。『こんなところで怪我なんてする脆いライバルは、君には必要ない。いいから自分のトレーニングに集中するんだ』と……」

 誰も言葉を発せなかった。スローダンサーの言うことが、ジャイロには到底信じられなかった。あの心優しくて性根が甘っちょろいジョニィがそんなことを言うなんて。しかし思い返してみれば、ドゥラメンテの怪我の現場にジョニィもスローダンサーも確かに姿を見せていなかった。

「トレーナーさんは変わってしまったわ。今ではヴァルキリーちゃんやほかのライバルのみんなとかかわり合うのも、あんまり良く思ってないみたいで……なんていうか、わたくしを勝たせるためなら手段を選ばなくなってきている気がするの」

 スローダンサーは正常だった。気を付けるべきは、ジョニィのほうだったのだ。ジョニィが元の世界から持ち込んだ悪しきもの。三女神たちの不可解な言葉。ジャイロの脳内で、パズルのピースが勝手にはまり込んでいく。

「で……でもスロさん。ジョニィさんの人格が変わったような気がするだけで、本当に別人になっちゃったわけじゃないんでしょ?」

 いたたまれない様子を見かねたか、ヴァルキリーが発言する。その言葉はスローダンサーを安心させるためか、それとも自分が安心したいがためか。

「ええ。ほかの人にちょっと冷たいという以外は、今まで通りのトレーナーさんよ。少なくとも今は」

「今は?」

「この先、もしわたくしがトレーナーさんの期待に沿えないことがあったらどうなるか……ドゥラメンテちゃんのように、『必要ない』って言われちゃうのかしら。最近そんなことばかり考えるの」

「スロさん……」

 沈痛な空気が一同を支配する。そんな雰囲気を破ったのは、やよいの磊落なひと声だった。

「壮挙ッ! よくぞ勇気をもって相談してくれた!」

「理事長さん……ごめんなさい、取り留めのない話をしてしまって」

「気にすることはない! ウマ娘のために尽くすことが、理事長の務めであるゆえ! しかし、ジョニィ殿が別人のようになってしまった、という話は確かに気になる。君が希望すれば、トレーナーを交代させることもできるが、どうする?」

「ありがとう、理事長さん。でもわたくしは、トレーナーさん──ジョニィさんから離れて走ることはできないの。あの人が私に授けてくれる黄金の回転がないと、わたくしは力いっぱい走ることができないのよ」

 ジャイロは思い出していた。日本ダービーの直後、スローダンサーは確かにそんな話をしていた。己の脚が動かなくなる恐怖と戦うことが、彼女の走る意味なのだと。

「よくわからないが……ジョニィ殿の指導は、依然としてスローダンサーにとって有用なのだな?」

「ええ、それは間違いないわ。だから本当にわたくしが見捨てられでもしない限り、トレーナーを変えてもらう必要はないわ。ごめんなさいねぇ、結局こんな結論で……」

「欣快ッ! 現状を知ることができれば、何かあった時に手を打つこともできよう! 此度の会話は決して無駄ではなかったぞ!」

 からからと上機嫌に笑うやよい。対照的にジャイロは難しい顔をしていた。スローダンサーの言がすべて真実なら、その原因として真っ先に考えられるのは、三女神が言っていた悪しきものだ。しかし、今この場でそれをスローダンサーたちに打ち明けるべきか否か──

「どうしたジャイロ殿。まだ何か気になることでも?」

「ああいや、なんでもねえ。今の俺たちにできることはなさそうだな、と考えていただけだ」

「そうだな……スローダンサーとの関係が良好なうちに、丸く収まってくれればよいが」

 結局、ジャイロは三女神の話を伏せておくことにした。確証が持てない話を開陳したところで、事態を余計にややこしくさせるだけだと思ったからだ。

 その後、ひと通り話すべきことは話したということでその場はお開きとなり、三人はやよいに一礼して理事長室を後にした。

「ごめんねぇ、ヴァルちゃん。迷惑かけちゃって」

「スロさんが謝ることないよ。私こそ、あんまり力になれなくてごめん。早く元の優しいジョニィさんに戻るといいわね」

 ヴァルキリーの慰めを受け、ひと足先に寮へと戻っていくスローダンサー。その足取りはいかにも重そうで、まだいくらか日が高い空の下に暗く長い影を伸ばしていた。

「俺たちもトレーナー室へ戻るぞ。神戸新聞杯へ向けたトレーニングプランをもう少し詰めておきたい」

「わかりました」

 そんな会話とともに、ジャイロとヴァルキリーもまたトレーナー室への帰途につく。どこかおぼろげで、ふとした途端に消えてしまいそうなスローダンサーの後ろ姿を、ヴァルキリーがじっと見送っていた。

 

 それからしばらく時が経ち、ようやく残暑が涼風に押し流されるようになってきた頃。ジャイロとヴァルキリーは一路、中山レース場への道を進んでいた。そう、今日こそはセントライト記念開催日、その当日である。いい加減道案内は大丈夫だと言い張るジャイロにヴァルキリーは頑として耳を貸さず、例によってウマ娘の強靭な膂力でもってジャイロの手をがっちりと握って離さず先導していく。

 今日の目的はもちろん、キタサンブラックとスローダンサーの直接対決を見ることである。特にスローダンサーは先日の件もあることから、きちんと走れる状態なのか心配だという面もあった。

「ジャイロさん! ヴァルキリーちゃん! 応援にきてくれたんだ!」

 今やすっかり恒例となったキタサンブラックの挨拶が、中山レース場のエントランスでふたりを出迎えた。

「もちろんよ。キタサンが夏の合宿でどれだけ強くなったか、見せてもらいたいから」

「任せといて。スローダンサーちゃんは強敵だけど、あたしだって成長したんだぞってとこ見せてあげるから!」

 胸の前に握り拳を作って所信表明をするキタサンブラック。当然だが、彼女はスローダンサーの現状について何も知らないだろう。純粋な気持ちで勝負に臨める彼女が、ジャイロはある種うらやましかった。

 ふと、ジャイロはあることに気付いて辺りを見回す。

「時にキタサン。ダイヤの奴は今日は一緒じゃあねえのか? いつも後ろをついて回ってただろう」

「はい。私に何かご用でしょうか」

 しとやかな声とともに、柱の影から顔を出すサトノダイヤモンド。

「おわっ! アンタいつの間にそんなところに」

「キタちゃんがおふたりのところへ駆けていってしまったので、私は出るタイミングを逃してしまいました」

「だからってそんな、心臓に悪い登場の仕方しなくてもいいだろう……」

「ふふっ、ごめんあそばせ。それはそうとおふたりとも、スローダンサーさんの応援にはおもむかなくてよいのですか? きっと喜ばれると思いますが」

「スローダンサーか……」

 ジャイロは小考した。今の不安定なスローダンサーの様子を考えれば、確かに応援に行ってやるべきかもしれない。それに、ジョニィの様子も気になる。

「行ってあげてください、ジャイロさん、ヴァルキリーちゃん。あたしは大丈夫ですから」

「行きましょうトレーナー。キタサンもこう言ってくれていますし」

「……そうだな。すまねえなふたりとも。また後で」

 キタサンブラックたちにそう言い残し、ジャイロとヴァルキリーはスローダンサーの控室へと向かった。出走までにはまだ少し時間があるから、スローダンサーが控室入りしているかはわからなかったが、室内から扉越しに話し声が聞こえてきたことで、それは杞憂だとわかった。

 控室の扉をヴァルキリーがノックしようとするのをそっと制止し、ジャイロは扉に聞き耳を立ててみた。ジョニィたちの話し声が聞こえる。

「──説明してきた通り、ここ中山2200メートルのコースはトップスピードよりも、スタミナやパワーが求められるコースと言える。よって君の走りに求められることは、なんだったか? もう一度復習してみようか」

「自分のペースを守って、自分の走りをすること……よね」

「その通り。ライバルなんかの動きに気を取られる必要はない。誰に振り回されることもなく、君は君の走りを通せば、必ず勝てる。僕がそう保証するよ」

 ライバルなんかに気を取られるな、などとジョニィらしくもない。思わずジャイロは控室の扉に手をかけていた。そのまま勢い良く扉を開け放つと、ジョニィもスローダンサーも驚いた様子でこちらへ振り向いた。

「ちょっとトレーナー、人がノックしようとしたら止めたくせに」

 ヴァルキリーの不平はとりあえず保留し、ジャイロはジョニィと対峙する。先に口を開いたのは、ジョニィだった。

「やあ、どうしたんだいジャイロ。応援に来てくれたのかい」

「まあな。ライバルなんかに振り回されるなとか聞こえてきたんで、ライバルとしてひと言アドバイスをと思ってなァ。誓って盗み聞きしたわけじゃあねえぜ」

 悪びれもせず嘘八百を並べ立てるジャイロ。この手のハッタリは彼の得意分野だ。ジョニィはそんなジャイロの様子を面白がるように、ジャイロに正対して言った。

「それはありがたいね。けれどもアドバイスは不要だよ。元の世界で僕は、君とは騎手としての経歴が違うんだ。それに、これからシビアな勝負の世界で競い合うライバルの言うことなんて、真に受ける間抜けがどこにいるんだい?」

 どす黒い台詞の数々を、心地良さそうにすらすらと並べ立てるジョニィ。以前の彼はこうではなかった。確かに、様子がおかしいというのは本当のようだ。

 ふとジャイロは、ジョニィの目に再びあの慄然とする雰囲気を感じた。心なしか、彼の身体をほの暗いオーラが包んでいるかのようにも感じる。そんな馬鹿な、と思ってかぶりを振ってみても、ジョニィを取り巻く雰囲気は消えることがなかった。

「話はそれだけ? なら、そろそろ出ていってくれるかな。出走の時刻まで、スローダンサーにはリラックスさせてあげておきたいからね」

 彼女の悩みの種になっている分際で、何がリラックスだ。そんな悪態を必死に喉の奥に押し込みながら、ジャイロは部屋を後にした。

「スロさん、頑張ってね」

 扉を閉める間際、ヴァルキリーがそう声をかけた。スローダンサーは返事をせず、ただ穏やかに笑っていたような気がした。

 

「秋空の下に集ったのは十四人のウマ娘たち! セントライト記念間もなく出走です!」

 実況の声が鳴り響き、パドックのウマ娘たちの名前が次々と読み上げられる。

「一番人気はこの娘、キタサンブラック!」

「とても張り切っていて、いい雰囲気ですね。好走に期待できます」

「三番人気はスローダンサー!」

「少し緊張しているのでしょうか。走りに影響しないことを祈るばかりです」

 解説の言う通り、スローダンサーの表情はどこか固かった。それはそのまま、彼女自身がジョニィの元で走ることへの疑問を表しているようにジャイロの目には見えた。

 その後、各々ゲートインを済ませ、出走の時を今か今かと待つ。そして、

「スタートしました! 各ウマ娘、綺麗なスタートです!」

 ついにセントライト記念の戦いが始まった。キタサンブラックは早々に前へ出て、スローダンサーはいつものように中団で控えている。

「やや縦長の隊列となりました。ハナを奪ったのはキタサンブラック! その外並んでオクシデントフォー、一バ身離れてグランドフィースト、リボンガボットと続きます」

 スタートからほどなくして、中山レース場名物の急坂が待ち構える。ここを素早く登り切れれば、キタサンブラックにとって楽なレース展開になることだろう。力強く大地を踏みしめて坂を登っていくウマ娘たち。

「中団がやや伸びた隊列のまま、先団のウマ娘たちを追いかけます。これは少々遅いペースとなったでしょうか。トランペットリズム上がってくる。ブレイクステップ追走、その外並んでマルシュアス、内からスローダンサー」

 予想通り、全体的に遅いペースのレース進行となった。キタサンブラックとしてはこの機に少しでもリードを稼いでおきたいところだろう。一方のスローダンサーは、中団のウマ娘たちに囲まれる形となっても焦らず自分のペースを守っている。第二コーナーからの長い下り坂で仕掛けどころを見計らっているのは明白だ。

「依然先頭はキタサンブラック! 外からオクシデントフォー! ここから長い下り坂が待っています。ペース配分の難しいこの下り坂、各ウマ娘の動きも激しくなってきています!」

 そして、第二コーナーを抜けようかというところで動きがあった。

「スローダンサー、ここで目覚めるか! 先団目指して距離を詰めていきます」

 下り坂の勢いを利用した、スローダンサーの早仕掛け。しかしキタサンブラックとの距離はまだ離れている。何より、ここで脚を使いすぎてはラストスパートまでもたない。それでもスローダンサーは、このタイミングでの仕掛けを選択した。勝算があるということなのか、それともジョニィの入れ知恵か。

 事実、スローダンサーが仕掛け始めてから、先団との距離はみるみる縮み始めていた。

「スローダンサーちゃん……狙いは最初からこのあたし!? だとしたら、なんて完璧な仕掛けのタイミング……!」

 第三コーナーへと一番乗りしたキタサンブラックが、負けじとスパートの体勢に入る。こちらも仕掛けのタイミングは適切だった。だが、それでも猛然と迫るスローダンサーの気迫に、さすがのキタサンブラックも身震いがした。

「負けない……スタミナ勝負なら、あたしだって負けてない!」

 巧みなペース配分で残してきたスタミナを思いきり解き放ち、キタサンブラックがもう一段ギアを上げた。そのまま後続のウマ娘たちを突き放しにかかる。

「さあ、最終コーナーを抜けて直線へ向かう! リボンガボット前を狙っているぞ! 外からスローダンサー、勢い良く伸びてきた!」

 敢然と風を切ってゴール板めがけてひた走るキタサンブラック。だが、後ろから迫るスローダンサーの鬼気迫る気迫を振り払うには至らない。

 中山レース場の最終直線は短く、途中に上り坂もある。よってこのコースを制するには、トップスピードよりもむしろパワーやスタミナが要求されると言われる。キタサンブラックはスタミナを武器としてこのセントライト記念に挑んだが、スローダンサーはそれをパワーでもってねじ伏せようとしていた。周りの風を巻き込むほどの、猛烈な黄金の回転エネルギーのパワーによって。

「やっぱり……わたくしにはこれしかないみたいねえ」

 スローダンサーがつぶやいた。その間にも、黄金の回転は少しも乱れることなく彼女の脚に力を送り込み続けている。

「スローダンサー、まくって上がってくる! 最後はふたりの鍔迫り合いだ! スローダンサー追いすがる! キタサンブラック、ここまでか! スローダンサー、差し切ってゴールイン!」

 割れんばかりの歓声がレース場を埋め尽くした。キタサンブラックはまるで魂が抜けたかのようにしばしその場で呆けていたが、はっと我に返ると地下バ道への道をとぼとぼと歩み始めた。

 一部始終を見届けていたジャイロとヴァルキリー、そしてサトノダイヤモンドは合図もなく観客席を後にすると、示し合わせたかのように一斉に地下バ道へと向かった。誰もひと言も発さなかった。

「あっ……来てくれたんだね」

 地下バ道で三人の出迎えを見つけるなり、そう言って駆け寄ってくるキタサンブラック。それから急に彼女は顔を悔しさで歪ませて、

「くうーっ! 負けちゃったよお! スローダンサーちゃん強すぎ!」

 地団駄を踏み、天を仰いで叫んだ。その叫びが天運への恨み節であったかは本人にしかわからないが、少なくともジャイロの目には、キタサンブラックの悔しさに筋違いな恨みや無意味な後悔が含まれているようには見えなかった。

「キタちゃん、ひとまずお疲れ様。疲れてるだろうし、早いところ控室に戻りなよ」

 サトノダイヤモンドが優しくうながす。キタサンブラックがその言葉に従い、立ち去ろうとしたその時であった。

「あらぁ。みんなお揃いでどうしたの」

 気の抜けた、しかしどこか迫力のこもった声がした。スローダンサーだった。少し離れたところから、こちらをじっと見つめている。外からの逆光で表情はよく見えなかったが、きっといつものように柔和に笑っているのだろうと思った。

「スロさん……スロさんも、お疲れ様。なんていうか、とても強いレースだったわ」

「うふふ、ありがとうねぇ。トレーナーさんのために勝たなきゃ、って思って頑張ったわ」

「ジョニィの──」

 ジョニィの様子がおかしいって話はもういいのか、と聞こうとしてジャイロは慌てて口をつぐんだ。この話は、キタサンブラックたちにはまだ話していない。しかしそんなジャイロの様子を見透かしたのか、スローダンサーは小さくかぶりを振って自ら語り出した。

「ええ、もういいの。結局わたくしは、トレーナーさんの──ジョニィさんの力を借りて走るしかないって、そう覚悟が決まったから。その覚悟がなければ、今日ここでキタちゃんには勝てなかったと思うから」

「そうか……アンタがそう言うなら」

 ジョニィの件に関してはいまだ疑問は残るが、本人が納得しているなら外野がどうこう口を出すことではない。ジャイロはひとまずそういうことにしておいた。

「わたくしたちのことはともかく、次はヴァルキリーちゃんとダイヤちゃんの番でしょう? どんな対決が見られるのかしら。今から楽しみだわぁ」

「そうだった! 神戸新聞杯、しっかり見届けるからね! ダイヤちゃんもヴァルキリーちゃんも、頑張って!」

「あ……えっと、その」

 急に話を振られて、しどろもどろになるヴァルキリー。対照的にサトノダイヤモンドの態度は毅然としたものだった。

「神戸新聞杯は、菊花賞への足掛かりとなる重要なレース。万にひとつの抜かりもなく、勝利を掴み取る所存です。ヴァルキリーさん、当日はよろしくお願いしますね」

「……ええ。私だって、そう簡単に負けてあげるつもりはないよ。よろしくね」

 サトノダイヤモンドの落ち着いた、それでいて力強い決意を思わせる雰囲気にあてられて、ヴァルキリーの目にも闘志の火が灯る。やっといい雰囲気になってきたと、ジャイロはほっと胸をなで下ろした。

(気になることはまだ残っているが、今は目の前のことに集中しよう。それが、ヴァルキリーのためだ)

 健闘を称え合い、またさらなる健闘を約束し合うウマ娘たちの後ろで、ジャイロもまた密かに決意を新たにしていた。

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