プリティー・ボール・ラン   作:アモルファス@銀嶺の麓亭

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#8「私を見つめて」

 神戸新聞杯。菊花賞へ向けた重要なレースであり、ヴァルキリーにとっては久方ぶりの全力で走れるレースでもある。そんな重要なレースの日に、当のトレーナーであるジャイロは朝から辟易としていた。その理由というのが、

「……遠い。遠すぎるぞ」

 阪神レース場を目指す新幹線の中で、彼がぼやいたこの台詞に理由が詰まっていた。これまでは東京や中山といった比較的近場のレース場にしか足を運ぶ機会がなかったところ、急に遠方の阪神レース場まで遠征する必要に駆られたのである。この世界で旅慣れていないジャイロが面食らうのも無理からぬ話だった。

「まあそう言わずに。のんびり新幹線に乗ってればすぐですから」

 隣席のヴァルキリーがそう言ってジャイロをなだめる。今回ばかりは、彼女の道案内をジャイロは拒むわけにいかなかった。勝手がわからぬ未踏の地で、担当ウマ娘とはぐれたりしたらシャレにならない。

 それにしても、この新幹線とかいう乗り物は確かに快適だ。普通の電車とは比べものにならないほど速く、また揺れも少なくて乗り心地がいい。新幹線での旅を好む者が多いという噂もうなずける。

「さあ、もうすぐ新大阪に着きますよ。このあとは梅田駅に向かって、そこから徒歩で大阪梅田に乗り換えですからね」

「経路の下調べしてる時にも思ったがよォ、なんで『梅田』がふたつも三つもあるんだ。ふざけやがって。ここに住んでる連中、ちっとは不便だと思わねえのか?」

「まあ実際、わかりにくいという声はよく聞きますね……」

 そんな与太話を繰り広げながら、いつものように手を引かれて旅すること実に三時間余り。ふたりはどうにか、目的地の阪神レース場へとたどり着いた。

「ようやく着いたな……ヴァルキリー、レース前に疲れてんじゃあねえのか」

 一応心配するそぶりを見せるジャイロだが、彼のほうが旅疲れしていることは明白だった。ヴァルキリーが心配そうにジャイロの顔を覗き込む。

「私は平気です。トレーナーこそ、早朝からの強行軍でお疲れじゃないですか?」

「馬鹿言え。俺はあの過酷なSBRレースを走り切ったんだぜ。この程度でへばるかってんだ」

 厳密には走り切ったわけではないが、いずれにしてもヴァルキリーにはわかりっこないことだった。

「とはいえ、多少疲れたことは確かだな。アンタもレース前に万全の状態にしておきたいだろう。ひとつ、その辺の店で一服するか」

「賛成です。旅の疲れでレースに負けました、なんて悔やみきれないですからね」

 ふたりの旅路をねぎらうかのように、大きく口を開けて彼らを招き入れる阪神レース場のエントランス。そこからレース場内に入り、さて喫茶店はどこかと探し回っていると、ふと見慣れた後ろ姿を認めて思わずふたりは顔を見合わせた。

「ダイヤ! ねえ、ダイヤでしょ! 私よ、ヴァルキリーよ!」

 見慣れた後ろ姿に向かって叫ぶように声をかけるヴァルキリー。声に応じてその人物が振り返ると、やはり予想した通りの人物であった。

「ヴァルキリーさん、ジャイロさん。ごきげんよう」

「ええ、こんにちは。今日はよろしくね」

「はい。立ち話もなんですから、この辺りでひと休みしながらお話しませんか」

 すぐそこの喫茶店の看板を指差して、サトノダイヤモンドが言った。

 

 店内に入り、コーヒーだのアイスティーだのをめいめい注文して席につく三人。初めに言葉を発したのは、サトノダイヤモンドだった。

「おふたりは今朝ここに?」

「まあな。アンタは違うのか?」

「私は前日から大阪入りして宿を取り、今朝早くにここへ来ました。旅の疲れを本番に残したくなかったので」

「なるほど。私たちより先にレース場に入っていたのは、そういうわけね」

「はい。おふたりは、今朝ここに移動してきたのですか?」

 サトノダイヤモンドが不思議そうに見つめてくる。そんなに無茶な旅程を組んだつもりはないのだが。

「ああ、こちとら旅慣れてるからな。当日現地入りでも大丈夫だと判断した」

 ジャイロは少しだけ強がりを言った。旅慣れているとは言っても土地勘はないから、ヴァルキリーの案内がなければ見知らぬ土地でひとりさまよう羽目になっていただろう。そんなこととは露ほども知らないサトノダイヤモンドは、やや身を乗り出しがちになりながらジャイロに憧憬の念を送ってきた。アイスティーのグラスを握る彼女の手に力が込められる。

「すごいです。私なんて何度も『梅田』と名のつく駅を間違えそうになったというのに」

「まあ、そこは俺たちも苦労したがな。元の世界でこれよりもっと過酷な旅程をこなしてきた身からすれば、どうということはなかった」

「ダイヤ、騙されちゃ駄目よ。この人、私の道案内がなかったら今頃大阪のど真ん中で干からびてるでしょうから」

「ヴァルキリー、余計なことは言わなくていい」

 嘘は言っていないというのに、ヴァルキリーときたら散々な言いようである。ジャイロが露骨に不服そうな顔をすると、そんなふたりの様子をサトノダイヤモンドはにこやかに眺め、唐突にこんなことを言いだした。

「いいですね、おふたりは仲が良くて。スローダンサーさんのところも、もっと仲良くしてくださればいいのですが」

 ジャイロの意識にぴりっと緊張が走る。コーヒーのグラスを握る手がじっとりと汗ばんだ。ジョニィとスローダンサーの話はまだ誰にも明かしていないはずだ。あの話をサトノダイヤモンドにしたのか、とヴァルキリーに目で合図をしたが、ヴァルキリーは慌ててかぶりを振って否定した。

「……どうしてそう思う?」

 おそるおそる、ジャイロが問うてみた。サトノダイヤモンドがどこまで真相に迫っているか確かめる必要があった。サトノダイヤモンドは残念そうに首を横に振り、

「単なる憶測です。先日のセントライト記念の時の様子から、なんとなくスローダンサーさんはジョニィさんとの関係が良くないのでは、と邪推したにすぎません」

 そう返答した。ジャイロはにっと歯を輝かせ、

「考えすぎだ。アイツらもバディを組んで長い。たまにちょっとしたことで仲違いすることはあっても、それでアイツらのチームワークがどうこうなっちまうことはねえだろう」

 煙に巻いた。スローダンサーの性格からいって、自分への心配事がひとり歩きするような状況は望まないだろう。ジャイロはそう判断して、サトノダイヤモンドをなだめすかすことにしたのだ。

「そう……ですね。やっぱり、ただの考えすぎでしょうか」

「ああ。それにアンタ、他人の心配してる場合じゃあねえだろ? 今日いったい誰と戦うことになってるか、忘れたとは言わせねえぞ」

「そうでしたね。キタちゃんも府中から見守ってくれているでしょうし、恥ずかしいところは見せられません」

 おそらくあのテレビとかいう映写機越しに、レース映像を観戦してくれているという意味だろう。

「私も、久しぶりに本気で走れそうで楽しみだよ。ダイヤ、今日は最高のレースにしようね」

「ええ。菊花賞の前哨戦だからといって、手加減はしませんよ」

 拳を突き合わせて、健闘を誓い合うふたり。とりあえずヴァルキリーの気持ちをしっかり目の前のレースに向けることができて、ジャイロはほっと胸をなで下ろした。

 その後、サトノダイヤモンドと別れてふたりが目指すは控室。神戸新聞杯出走の時は、刻一刻と迫っていた。

 

「さあ、十四人のウマ娘によるGⅡ神戸新聞杯! 菊花賞への足掛かりともなるこのレース、栄冠を掴むのは誰か? 天気には恵まれ、コンディションは良の発表です」

 実況のアナウンスとともに、続々とゲートインしていくウマ娘たち。その中にはもちろん、ヴァルキリーとサトノダイヤモンドの姿もあった。今回ヴァルキリーは内枠からの出走である。つまり比較的容易に前方へ出られるということだ。この運の向きをなんとかものにしたい。

 ゲートインが完了し、レース場が静まり返る。皆がその時を待っていた。そして、

「スタート! 各ウマ娘、揃ったスタートです!」

 ついに始まった、神戸新聞杯の戦い。ヴァルキリーは早速持ち前の黄金の回転によって、先頭集団から頭ひとつ抜きん出る。

「絶好のスタートを切ったのはヴァルキリー! 一バ身離れてリボンカプリチオ、チョークポイント続きます! そのあとナターレノッテ、内からドミツィアーナ、すぐに続いてショーティショット、ここまでが先頭集団」

 まずは上出来だ。ジャイロは心の中でヴァルキリーにそっとエールを送った。日本ダービーの時には怪我で封印せざるを得なかった逃げ作戦だが、今回はのびのびと走ることができている。

「二バ身、三バ身離れてモアザンエニシング、内からティップオブタン、それを見るようにサトノダイヤモンド、ゴージャスパルフェ追走」

 阪神2400メートルのレース場は、第一、第二コーナーが比較的小回りのため序盤からスローペースになりやすい。ここで後続と差を作っておければ、ヴァルキリーにとって有利なレース展開となるだろう。

 だが、サトノダイヤモンドとてそれを知って無策で挑むほど愚かではない。後方脚質のウマ娘としては、下り坂となっている第三、第四コーナーを利用してのロングスパートを狙ってくるはずだ。その後のトップスピード勝負にどれだけ耐えられるかが、ヴァルキリーの明暗を分けるだろう。

「ヴァルキリー、快調に飛ばしていきます。一コーナーから二コーナーへ向かう! 依然先頭はヴァルキリー、リボンカプリチオ続いている。ショーティショット、ここで前を狙うか」

 先行策のウマ娘が早くも差を詰めてきた。だが、仕掛けてくるにはまだ早い。警戒すべきはあくまで第三、第四コーナーからの仕掛けだ。それまでは焦らず自分のペースで走ればよい。

 平坦な向正面を過ぎ、問題の第三コーナーへと差し掛かる。案の定、ここで後方に動きがあった。

「三コーナーの長い下り坂へと向かう! ここで後方のウマ娘たちの動きが激しさを増します! サトノダイヤモンド、ここで仕掛けるか! その後にティップオブタン、ゴージャスパルフェ続きます! ここから一気にまくれるか!」

「私が破るべきは、サトノ家のジンクスそのもの。ここであなたに阻まれるわけにはいきません、ヴァルキリーさん!」

「やっぱり来たね、ダイヤ。私だって、簡単に負けてなんてあげないわよ!」

 鬨の声を上げ、ヴァルキリーが最終コーナーから仕掛ける。向こうが下り坂の勢いを利用するというのなら、こちらも同じことをしてやろうという算段だ。磨き上げられた黄金の回転エネルギーでもって、またたく間にトップスピード目指して加速するヴァルキリー。

「させません!」

 サトノダイヤモンドもまた鬨の声とともに、脚にいっぱいの力を込める。その脚は下り坂の勢いも手伝ってぐんぐんと伸び、先団をみるみる追い詰めていった。

「さあここからが勝負所、最初に飛び込んできたのはヴァルキリー! 外から飛んできたのはサトノダイヤモンド!」

 駆け引きの時間は終わった。あとは執念の戦いだ。

「粘るヴァルキリー! サトノダイヤモンド猛烈に追い上げる!」

 ヴァルキリーの脚が描く黄金の回転はさらに精度を増し、サトノダイヤモンドを必死に突き放さんとする。しかしそれ以上に、サトノダイヤモンドが大外から襲いかかってくるほうが早い。

 やがてふたりの頭がゴール板の前で横一線に並び──

「もつれるようにゴールイン! ヴァルキリーとサトノダイヤモンド、最後はこのふたりでした! 判定をお待ちください!」

 レース場はざわめきに包まれ、皆の目が電光掲示板に集まる。そして、そこに映し出された番号を見てジャイロは肩を落とした。

「一着はサトノダイヤモンド! 熾烈なデッドヒートを制しました! 二着はヴァルキリー、三着はゴージャスパルフェ!」

 レース場は歓喜する者、落胆する者と様々だった。ジャイロは後者だった。ひとまず愛バの健闘を称えるため、いつものように地下バ道へと迎えに行く。

 薄暗く涼しげな地下バ道へと到着すると、ほどなくして彼女は向こうからやってきた。彼女はジャイロの姿を認めるなり、駆け寄ってきて地団駄を踏んで憤慨した。

「ああもう、悔しい! トレーナー、私今とっても悔しいです! 勝てる勝負だったのに!」

「落ち着け。気持ちはわかるが、負けは負けだ。菊花賞へ向けていいデータが取れたと思っておけ」

「……そうですよね。手ごたえは悪くありませんでした。この距離でこれだけ走れるなら、菊花賞だってきっと」

「その意気だ。帰ったら早速レース映像の分析だな」

「はい」

 ようやく落ち着いた様子のヴァルキリー。と、そこへまたひとり見知った顔が現れる。誰あろう、先ほどまで死闘を繰り広げていたサトノダイヤモンドだ。

「ヴァルキリーさん、ありがとうございました。素晴らしいレースでした」

「ダイヤこそ。すごく強かったよ。あーあ、今回はちょっと自信あったのにな」

「ふふっ、『ちょっと』だったんですか? 私は『すごく』自信がありましたよ」

「ちぇっ、その差かなあ」

 軽口を叩き合うヴァルキリーとサトノダイヤモンド。改めて、ヴァルキリーとこうして真正面から競い合ってくれるライバルの存在に、ジャイロは感謝していた。

「時に、つかぬことをうかがいますが」

 ふと、サトノダイヤモンドがやけにもったいぶった前置きをした。

「なんだ、聞きたいことがあるなら遠慮なく聞け」

「では……以前から気になっていたのですが、ヴァルキリーさんとジャイロさんは、その……いわゆる男女の仲というものなのでしょうか」

 ジャイロは思わず噴き出した。その質問は予想だにしていなかった。引きつった笑顔をなんとか取り繕いつつ、ジャイロが質問を返す。

「な……なぜそう思う」

「だって、ヴァルキリーさんが時折ジャイロさんに向ける視線が、愛する殿方へ向けるそれに見えたものですから。現に今だって、ジャイロさんのすぐそばで熱い視線を飛ばしていらっしゃるでしょう?」

 言われて気付いた。ヴァルキリーはいつの間にかジャイロの左肩にすり寄り、腕にしがみついて居心地良さそうにしている。

「何やってんだオメーは!」

「えー、いいじゃないですか。疲れてるんですよこっちは」

「そんなことするから誤解されるんだ。いいかダイヤ、俺とヴァルキリーは断じてそうした類の不埒な関係じゃあない。あまり変な噂を広めてくれるなよ」

「ふふっ、わかりました。ジャイロさんとヴァルキリーさんは、ただ単にとっても仲がいいだけ……ということにしておきますね」

「本当にわかってんのか、まったく……」

 ジャイロの悩みをよそに、けらけらと呑気に笑い合うウマ娘たち。その笑い声は地下バ道にこだまして、ジャイロの耳にいつまでも響いていた。

 

 サトノダイヤモンドと別れたあと、ジャイロたちは阪神レース場の中をひと通り見て回ることにした。これまでレース場の中をのんびり見物することなどなかったが、せっかくこうして遠方まで来ているのだから、楽しむ時は楽しんでおかねば損だと考えたのだ。

「あっ、見てくださいトレーナー。私のぬいぐるみがありますよ」

 ヴァルキリーが嬉々として指差した先には、ウマ娘を模したたくさんのぬいぐるみが土産屋に並んでいるのが見えた。その中には、ジャイロにとってよく見知った栗色のひとつ結びのセミロングヘアのぬいぐるみもあった。どうやらURA公認グッズのようだ。いつの間にこんなものを作っていたのか。

「ほう。アンタもずいぶん人気者になったもんだな」

「これでも皐月賞ウマ娘ですからね。今までの頑張りがこうして形になっているというわけです」

「言うようになったじゃあねえか。じゃあ、ひとつ連れて帰るか」

 そう言ってヴァルキリーのぬいぐるみを買い物かごへ放り込むジャイロ。すると本物のほうは目を丸くした。

「えっ、本当に買うんですか?」

「いらねえのか? せっかく自分が公式グッズになったってのに」

「いやまあ……せっかくですし、買いますか」

 なぜだか少し恥ずかしげに顔をうつむかせるヴァルキリー。さてはあれだけ大口を叩いておいて、いざ自分の実績が認められるとなると気恥ずかしさがまさったとみえる。変なところで可愛い奴だ。

「言ってなかったが、俺は元来こうしたぬいぐるみの類には目がなくてな。それが担当ウマ娘のものとなれば、なおさらだ」

「わかりましたから、さっさと買って帰りましょうよ」

 なおも恥ずかしそうにするヴァルキリーにせっつかれて、ジャイロは早々と会計を済ませて店を後にする。

「いやしかし、よくできてんなあ最近のぬいぐるみは。ほれ、この小生意気な目元の辺りなんかそっくりだぜ」

 ぬいぐるみを買い物袋から取り出し、ためつすがめつ眺め回すジャイロ。ぬいぐるみにありもしない毛穴の一本一本まで数えんばかりの熱心さに、ヴァルキリーは若干面食らっていたようだった。

「ずいぶんとご執心ですね。こっちに本物がいるっていうのに」

「おやおやヴァルキリーちゃん、もしかしてぬいぐるみ相手に妬いてんのか?」

 ジャイロの腿をヴァルキリーの強烈なローキックが襲う。しかし、攻撃がくるとわかっていれば対処はたやすい。ジャイロは自分の台詞を吐き終える前に鉄球を取り出し、黄金の回転によって皮膚を硬質化させてヴァルキリーの蹴りを防いだ。

「もう、馬鹿。あんまり意地悪すると、帰り道の案内してあげませんからね」

「おっと悪かった、そいつは困る。俺はまたあの『梅田』に翻弄されるのは御免だ。機嫌直してくれよ、なァ」

 その後も延々とたわいのない痴話喧嘩を繰り広げながら、レース場内の店舗で食事を済ませたりして時を過ごした。ふたりがレース場を後にし、帰路につく頃には、陽はやや西に傾きつつあった。そこから再びあの難解な「梅田」を攻略し、東京行きの新幹線に乗り込む頃にはふたりともすっかりへとへとで、ヴァルキリーは新幹線の中でジャイロの肩に寄りかかってすやすやと寝息を立てている有様であった。

 

 ドゥラメンテの菊花賞回避の報が入ったのは、神戸新聞杯での戦いが明けてから幾日か経った頃のことだった。

 夏合宿の時点である程度はっきりしていたことだが、脚を怪我したドゥラメンテの菊花賞出走は絶望的であった。そのことが明確に決定づけられたのは、ジャイロたちの元へエアグルーヴが訪ねてきたことがきっかけだった。

「貴様たちには話しておくべきだと思ってな。ドゥラの今後の展望について」

 トレーニング中のジャイロとヴァルキリーの元へ前触れなく訪れたエアグルーヴは、まるでこちらの事情など知らぬとばかりに神妙な面持ちでそう切り出した。

「ドゥラメンテ……結局どうなったの? 怪我は治ったの?」

「軟骨片の摘出手術は無事成功した。しかし今秋いっぱいは術後の経過観察と、リハビリの期間に充てなければなるまいな」

「そっか……復帰はいつ頃になりそう? やっぱり冬以降になるのかしら」

 矢継ぎ早に繰り出されるヴァルキリーの質問攻めに対し、エアグルーヴはペースに吞まれまいとしてか、ふうっとため息をひとつ挟んだ。

「夏合宿の時にも話した通り、順当に行けばレースへの復帰は早くても今年の冬だ。ドゥラが元の走りを取り戻すには、それだけ長い時間を見る必要がある」

「そう……そうよね。仕方ないわよね」

 口では仕方ないと言いつつ、どこか腑に落ちない様子のヴァルキリー。ここはひとつトレーナーとして励ましてやろうかと、ジャイロはとある話題を取り上げることにした。

「エアグルーヴ。ドゥラメンテの奴が冬に復帰するってことは、当然アレには間に合わせるんだろう?」

「ああ、もちろんだ。その方向で調整を進めている」

 ジャイロの発言の意図を察してか、にやりと不敵に微笑むエアグルーヴ。対照的に、まるっきり何の話かわかっていなさそうなヴァルキリー。

「あの、エアグルーヴさん。いったい何の話を……?」

「わからないか? 貴様もステイヤーなら、一度くらいはあの栄光に想いを馳せることもあろう。暮れの大舞台、一年を締めくくるグランプリ」

「ああっ、有馬記念……!」

 ようやく得心がいった様子で、ヴァルキリーがポンと手を打った。つまりドゥラメンテ陣営は、有馬記念に向けて復帰に動いているということなのだ。怪我で休んでいる間も、ドゥラメンテの目は常に次の勝利を見据えていたのだ。

「そっか。私が有馬記念に出走すれば、ドゥラメンテともきっとまた一緒に走れる」

「そういうことだ。ドゥラも有馬記念を楽しみにしている。それまでにせいぜい、無様な走りを晒してファンを失望させたりしないことだ。ファンの心をつなぎ留められない者に、有馬記念を走る資格はないからな」

 そこへいくと、ダービーウマ娘であるドゥラメンテは心配無用だろう。皐月賞を獲ったヴァルキリーもおそらく安泰だ。

「わかってる。ひと足先に、菊花賞もぎ取って待ってるからね。ドゥラメンテにもそう伝えてちょうだい」

「相変わらず活きのいいことだ。結構。依然倒し甲斐のあるライバルがいると、ドゥラにはそう伝えておく。さて、話すべきことは話したな。練習の邪魔をしてすまなかった」

 ジャイロたちの返事も待たず、くるりと踵を返してさっさと行ってしまうエアグルーヴ。どうも彼女は自分のペースで物事を進めたがる節があるらしい。

「嵐のように去っていきましたね」

「だな。とにかく俺たちのやるべきことは変わんねえ。インターバルは充分だろう。芝での走り込み五本行ってこい。それが終わったら、トレーナー室で神戸新聞杯のレース映像分析の時間に充てるぞ」

「はい!」

 気勢を上げて走り込みに出発するヴァルキリー。ドゥラメンテのことは確かに心配だが、今は他人のことばかり気にかけている場合でもない。クラシック三冠最後の一戦、菊花賞はもうすぐそこまで迫っている。

「ヴァルキリー、ペースが落ちているぞ! 黄金の回転を絶やすな!」

「……はいっ!」

 トレーニングによりいっそう熱を入れるジャイロ。ドゥラメンテのぶんまで後悔のない走りをさせるためにも、ヴァルキリーにはここで踏ん張ってもらわねばならなかった。

 

 ここ最近、ヴァルキリーのトレーニングは順調そのものだ。しかし一方で、ジャイロの意識にわだかまるひとつの悩みがある。

 ジョニィとどう接していいかわからないのである。三女神には悪しきものの存在に気を付けろと言われ、ジャイロ自身もジョニィの様子のおかしさは目にしてきたが、彼の担当のスローダンサーはそれでも自身のトレーナーを信じて走るという決断を下した。この問題に、ジャイロはどのような立場を取るべきなのだろう。どこまで深入りが許される問題なのだろう。

 ジョニィは変わってしまった。いや、果たして本当にそうだろうか。目的のためならば強引な手段も辞さないダーティなハングリーさが、元のジョニィにまったく備わっていなかったと言えるだろうか? リンゴォ・ロードアゲインとの公正なる決闘において、最初に仕掛けたのはジョニィだった。リンゴォを倒さねば先に進めない。その事実がはっきりした時、障害を取り除くためにあらゆる手段をいとわない。そんなジョニィの覚悟が垣間見えた一幕だった。今のジョニィは、単にあの時のような状態になっているだけにすぎないのではないか? 悪しきものなど、本当は存在しないのではないか?

 そこまで考えて、ジャイロはかぶりを振る。秋川やよいは言っていた。三女神の啓示には必ず意味があると。その三女神がジョニィの身体に悪しきものが宿っていると言ったのだ。まったくの与太話と断じるのは早計だ。しかし仮に三女神の言う通り、今のジョニィが悪しきものに憑りつかれているとして、これからいったいどんな悪いことが起こり、どうすればそれを防げるというのか。情報が錯綜して、いまだジャイロは疑問の奔流の渦中にいた。

「トレーナー。ねえトレーナーったら!」

 ヴァルキリーの声が唐突に耳から入り込んできて、ジャイロは慌てて霧散しかけた己の意識をかき集めた。

「どうした、騒々しい」

「どうしたもこうしたもないですよ。さっきから話しかけても上の空って感じで。何か考え事ですか? それとも神戸新聞杯の遠征の疲れがまだ残ってるとか」

「馬鹿言え。疲れを残す奴は三流だ」

 そう言ってジャイロは目の前で流れるレース映像に視線をやった。先般の神戸新聞杯での映像だ。

「やはり、道中のペース配分に問題はない。最終直線に向けていい脚を残せている。今回の敗因はただ一点、ダイヤによく走られたということだ」

「それ、さっきから同じこと三回は言ってますよ。やっぱりまだ疲れてるんでしょう」

「くっ……」

 痛いところを突かれて、ジャイロは再び黙りこくってしまった。ヴァルキリーが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「トレーナー、正直に教えてください。何か気がかりなことがあるんでしょう? 誰にも言いませんし、笑ったりしませんから」

 これは敵わないな、と思った。担当ウマ娘に心配をかけているようではトレーナー失格だ。ジャイロは観念して、己の胸中をヴァルキリーに暴露することにした。考えてみれば、ヴァルキリーには秘密にする必要もない話だったのだ。ただし、三女神の啓示のくだりはさすがにいぶかしがられると思って伏せておいた。ジョニィの様子が明らかに以前と変わっており、元の世界から悪しきものを持ち込んだ可能性がある、程度のニュアンスに留めておいた。

 ひとしきり話し終えると、ヴァルキリーは得心がいったような、少し安心したような顔で話し始めた。

「ああ、その話でしたか。実は私も、あの一件以降スロさんがどうしているのか、様子が心配だったんです」

 あの一件、というのはスローダンサーを交えて秋川やよいにジョニィのことを相談しに行った時のことだろう。

「スローダンサーに何か変わった様子はあるか」

「いえ……それが特に何も。元々あまり感情を表に出さない人ですから、いくら同室といっても、私には何かあっても相談しにくいのかもしれません。ああ、でも」

「でも?」

「ジョニィさんに憑いているっていう、悪しきものの話は私も初めて聞きました。この話を知ったら、さすがのスロさんも危機感を露わにしてくれるかもしれません」

「まだそうと決まったわけじゃあないがな。しかし確かに一理ある。ジョニィが元の世界から持ち込んだ悪しきもの、その存在をスローダンサーにも伝えるべきだ」

「そうと決まれば善は急げですね。今夜にでも、スロさんと話してみようと思います」

 力強く握り拳を作って応えるヴァルキリー。ジャイロは肩の荷がふっと軽くなるのを感じて、自分も案外単純な人間だなと自嘲した。

 ところがその翌日、トレーナー室を訪れたヴァルキリーは珍しくしょぼくれた顔をしていた。

「どうしたヴァルキリー。何か悪いもんでも食ったか」

「トレーナー、それが……」

 まさか本当に腹をこわしていることはないだろうが、そう思わせるほどの沈痛な面持ちでヴァルキリーはぽつりぽつりと語り始めた。

「実は昨晩、スロさんと話し合ったんです。ジョニィさんの身に何か悪いものがついているかもしれないって。そうしたら、スロさんと言い合いになっちゃって。あんな剣幕で怒るスロさん、初めて見ました。トレーナーさんはおかしくなんてない、菊花賞に向けて少しピリピリしてるだけだ、って。もう聞く耳も持ってくれなくなっちゃって」

「マジかよ。そいつは損な役回りをさせちまったな」

 ヴァルキリーに申し訳ないと思いつつ、一方でジャイロは妙な話だとも感じていた。元はと言えばスローダンサーが、ジョニィの様子がおかしいと言ってジャイロたちに相談しにきたのではなかったか。たったの一か月やそこらで心境に変化があったとでもいうのか。

「トレーナー、これって変ですよね。ついこの前、私たちに相談しにきたスロさんとはまるで別人っていうか……」

 ヴァルキリーの疑問もジャイロと同じようだ。彼女はスローダンサーの同室として、誰よりも近くでスローダンサーのことを見ている。そんなヴァルキリーがおかしいというのなら、やはり何かがおかしいのだろう。

「ヴァルキリー。ジョニィが変わっちまった話、単なる俺の思い過ごしとは思えねえ。もっと根の深い問題なんじゃあねえのか──そんな気がする。アンタは当分、ジョニィの話をスローダンサーの前でするのは控えておけ。俺はもう少し、この件について調べてみる。いいな」

「わかりました。けど調べるって言ったって、いったいどうやって」

 きょとんとするヴァルキリーに、ジャイロは満面のスマイルで返した。彼の悪趣味な金歯がきらりと光る。

「なに、ツテならある。情報が得られるかどうかは、向こうのご機嫌次第だがな」

 三女神たちの顔を順番に思い出しながら、ジャイロが言った。

 

「まさか君、俺たちがくることを予測してたっていうのかい?」

 あれから数日経った夜、夢の中に現れたダーレーアラビアンが驚きの声を上げた。彼女らの気まぐれを完全に手玉に取って、ジャイロはすっかり調子に乗っていた。

 眼前にはいつもの暗黒の光景。そこから差し込んでくる一条の光と、それを背に受ける三人のウマ娘たち。三女神の夢だ。

「ああ。ジャイロとスローダンサーの問題が、ここ最近ますます複雑になってきてる。そんなアイツらが菊花賞に挑もうってんだ。『運命が動く時』とやらの要件は、充分に満たしているとみた……アンタたちからしたらな」

「俺たちが本当に現れる保証はないっていうのに? 大した胆力だ」

 露骨に呆れ顔をするダーレーアラビアンに対し、ジャイロは得意満面だった。

「あらあら、降参だわ。そこまで見通されていたなんて。これは何かご褒美をあげなきゃいけないわね、ふたりとも」

 露骨な困り顔を披露するゴドルフィンバルブ。しかしその声音は明るく、まるでジャイロに自分の考えを見透かされたことを喜んでもいるかのようだった。

「それで、察するに君は俺たちに何か聞きたいことがあるんだろう」

 ずいと一歩前に踏み出すダーレーアラビアン。

「ああ。ジョニィが変わっちまった原因、『悪しきもの』とやら。そいつについてもう少し詳しく情報が欲しい。元はといえば、アンタたちが言い出したことだからな」

「……だそうだけど。君はどう思う、バイアリーターク」

「なぜ私に振る」

 話しかけられると思っていなかったのか、バイアリータークが露骨に怪訝な顔をした。気に留める様子もなく朗々と話し続けるダーレーアラビアン。

「だって、これから話すことは三女神の総意でなくてはならない。俺とゴドルフィンバルブは賛成の立場だけど、君はどうなのかな、ってさ」

「だったらなおさら、私に伺いを立てる必要はなかろう。今更反対する理由などないのだから」

「おい、何をごちゃごちゃ話してやがる。結局あるのかないのか、『悪しきもの』はよォ」

 痺れを切らしたジャイロが催促すると、それまでやいのやいの言い合っていた三女神たちはふと静かになり、一斉にジャイロへ向き直った。

「ジャイロ・ツェペリ。改めて話そう。前回君の前に現れた時から、俺たちのほうでも色々と調べていた。その結果、恐るべき事実が明らかになったんだ。これから俺たちが話すことを、どうか心して聞いてほしい」

「前置きが長ェんだよ。さっさと本題に入れ」

 ジャイロがそううながすと、ダーレーアラビアンは神妙な面持ちでジャイロに改めて正対した。普段のひょうひょうとした彼女からは想像できない、真剣みに満ちた顔だった。

「結論から言おう。『悪しきもの』は確かに存在する。そして、それは間違いなく今のジョニィ・ジョースターの身に憑りついている」

 やはりか。ジャイロはようやく得心がいった。いろんなことが腑に落ちて、むしろすがすがしいほどだった。

「重要なのはここからだ。勝手ながら俺たちは、君やジョニィが元いた世界のことについて調べさせてもらった。スティール・ボール・ラン・レースなる競争のことも、『聖なる遺体』とやらのことも。その結果、『悪しきもの』の正体についてあるひとつの可能性に行き着いたんだ」

「何だってんだ……その可能性ってのは」

 ジャイロは生唾を飲み込んだ。汗が額を伝う。ダーレーアラビアンが淡々と続ける。

「それは『聖なる遺体』に執着し、こびりついていた残留思念のようなもの。己の正義をなすためならば、いかなる犠牲もいとわない自己欺瞞の塊。君たちの世界で、『ヴァレンタイン大統領』と呼ばれていたモノ──」

「馬鹿なッ!」

 その名を耳にした時、ジャイロの頭は真っ白になった。自分でも何を叫んでいるのかわからなかった。

「馬鹿な、そんなはずはねえッ! 大統領は確かに死んだ! ほかならぬジョニィ本人がそう言ったんだッ! それとも何か、アンタらはジョニィが嘘を言っていると言いたいわけか? 『悪しきもの』に憑りつかれたジョニィ──その意思である大統領が、自分に都合のいい嘘をついていると?」

「落ち着け、ジャイロ・ツェペリ!」

 暗闇に響き渡るバイアリータークの一喝で、ジャイロはようやく平静を取り戻した。しかし疑問は尽きない。いったいなぜ、そこでヴァレンタイン大統領の名前が出てくるというのだ。

「お前の疑問に答えよう。ヴァレンタイン大統領は確かに死んだ。ジョニィの手によってな。それから約十年後、ジョニィは『聖なる遺体』の力を自分に使い、『悪しきもの』を自分自身におっ被せるとともに元の世界で死を迎え、こちらの世界へとやってきた。その時、『聖なる遺体』にこびりついていたヴァレンタイン大統領の残留思念のようなものが、『悪しきもの』としてジョニィの身におっ被せられたままこちらへ来てしまったのだ」

「つまり今のジョニィは、あのクソッタレ大統領の置き土産に今でも操られてるってことかよ」

「心配するな、操られているわけではない。ジョニィ・ジョースターとしての自我は間違いなく保っている。少なくとも、今はまだ……な。しかし彼の自我に対し、『悪しきもの』──すなわち大統領の残留思念が悪影響を及ぼしつつあることも、また事実だ」

「スローダンサーの件はどう説明する? 最近はアイツの様子もおかしかった。ジョニィの様子がおかしいと告発してきたと思えば、急にジョニィをかばい始めたりな。アイツにも『悪しきもの』が憑りついているってのか?」

「それについては、私から説明するわ」

 ゴドルフィンバルブがずいと前へ歩み出た。いつものたおやかな笑みは崩すことなく、目だけを鋭く光らせていた。

「私たちは、『悪しきもの』がなんらかの目的をもって動いていると考えているの。それが何かまではまだわからないし、ひょっとしたら明確な答えなんてないのかもしれない。なんたって残留思念が考えるようなことだもの、単なる衝動的なことかもしれないわ。けれどもひとつはっきりしていることは、『悪しきもの』は己の目的のために、周りの者の意識にまで影響を及ぼすことができるということ。スローダンサーちゃんはおそらく、その標的になったんだわ」

「残留思念の、目的……だと?」

「ええ。その目的を果たすために、ジョニィの担当ウマ娘であるスローダンサーちゃんを味方につけるのが都合がいい──『悪しきもの』はきっと、そう判断したんでしょうね」

 ふざけている。ジャイロのはらわたは今にも煮えくり返らんばかりであった。死してなおしぶとくジョニィの身にこびりつき、スローダンサーまで巻き込んで身勝手なことをしでかそうとしている。ジャイロは今すぐにでもヴァレンタイン大統領をもう一度殺してやりたい気持ちでいっぱいだった。

「……どうすれば祓える」

「えっ?」

「どうすれば、ジョニィの身に憑りついた『悪しきもの』を祓えるのかって聞いてんだ。アンタたち女神だろう。方法のひとつやふたつ知ってるんじゃあねえのか」

 すがるような思いで、ジャイロは三女神たちを詰問する。そんな方法が存在する保証など、どこにもなかった。ただ存在していてほしいと願っているにすぎなかった。

 ゴドルフィンバルブは少し困った顔をして、あとのふたりに目配せする。それから三人は互いに頷き合って、再びジャイロに向き直る。声を発したのは、ダーレーアラビアンだった。

「方法と呼べるかはわからないけれど、ひとつだけ、アテならある」

「本当か!」

「けれども、今すぐに教えるわけにはいかない。効き目があるかどうか、確認したわけじゃないからね。なんたって、これは本当の本当に奥の手なんだ。それこそ大袈裟でもなんでもなく、ウマ娘の歴史にかかわるほどのね。だから、使うかどうかは慎重に見極めたい」

「そんなこと言ってる場合か。試せる手はなんだって試すべきだろうが」

「まあ落ち着いて。手遅れにならないうちに俺たちも結論を出すつもりだから、そこは安心してほしい。約束するよ」

 あからさまに焦れてきたジャイロをなだめるダーレーアラビアン。具体的な方法まで聞き出せなかったのはジャイロにとって残念だが、希望を残せただけでも収穫はあったと言える。

「それで、アンタたちの結論とやらが出るまで俺はどうすればいいんだ」

「ひとまずこれまで通り、ヴァルキリーのトゥインクル・シリーズを支えてあげてほしい。彼女にとっては今が一番大切な時期だろうからね。ただし、ジョニィとかかわる時は充分に気を付けて。スローダンサーのように、君の意識も都合良くいじられてしまう可能性がある」

「わかった。肝に銘じよう」

「ああ、それから──」

 ひと呼吸おいて、ダーレーアラビアンが続けた。いやにもったいぶった口調で。

「君もわかっていることだと思うけど……俺たちがこうして言葉を交わしているということは、『運命が動く時』がもうすぐそこまで迫っているということだ。それがどんな形で訪れるかまでは、予測がつかない。くれぐれも気を付けてくれ」

 そんなことはわかりきっている。わかっているからこそ、ジャイロはこうして三女神を待っていたのだから。

 ダーレーアラビアンが語り終えると、突如として視界は真っ白な光に包まれ、三女神たちの姿が光の向こうに消えていった。どうやら時間切れのようだ。

 目を醒ますと、そこはいつものトレーナー寮だった。この目覚め方にも慣れたものだ。

(『悪しきもの』──ヴァレンタイン大統領の残留思念。それがジョニィの身体に憑りついて、悪さをしている。女神どもが解決策を持ってくるのは、もうしばらく先のことか。情報としては、まあ充分だろう)

 三女神の夢から醒めた朝は、決まってイタリアンコーヒーを淹れることにしている。今朝もその例に漏れず、ジャイロはキッチンへと向かった。その足取りは、いつもより少しばかり軽かった。

 

 時が経ち、菊花賞まであと一週間余りを残すのみとなったある日。ジャイロはいつものように、走り込みをするヴァルキリーに向かって激を飛ばしていた。

「ペースが落ちているぞ! 黄金の回転も乱れている! 呼吸のリズムを崩すな!」

「はいっ!」

 菊花賞本番に向けて練習負荷を重く、それでいて日本ダービー前のような故障を招かないよう充分に注意を払いながら、ジャイロはヴァルキリーへの指導に熱を入れていった。

「よし、お疲れさん。十分ほどインターバルを入れよう」

 ジャイロがそう掛け声を上げると、へとへとになったヴァルキリーがトラック脇によけてきて、ジャイロの手からスポーツドリンクを受け取って喉に流し込んだ。彼女の背筋がみるみるしゃきっとしていく。

「ふうーっ。練習後のコレは効きますねえ」

「何を年寄りくさいこと言ってやがる。インターバルが明けたら今度はダートで五本だからな。飲みすぎには気を付けろよ」

「ええ。ところでトレーナー。インターバルのうちに聞いておきたいことが」

 いやにもったいぶった様子で、ドリンク片手にジャイロへ向き直るヴァルキリー。

「どうした、藪から棒に」

「いえ、この前の話の続きですよ。ジョニィさんの様子がおかしいって話、トレーナーはなんだか情報のツテがあるみたいなこと言ってたじゃないですか。アレって結局どうなったんですか」

 そういえばそんな話もしたなと、ジャイロは回想していた。正直なところ、ジャイロはいまだ迷っているのである。三女神の夢の件をヴァルキリーに打ち明けるべきか否か。

 順当に考えれば、単なる与太話の類と一笑に付されるのが関の山である。下手を踏めば、ヴァルキリーとの信頼関係にまで累が及ぶ可能性さえある。しかし厄介なことに、ヴァルキリーときたら既にジャイロと恋仲のつもりらしいから、変に秘密を作ったままというのもそれはそれでトラブルの元になりかねない。

 ならばいっそのこと打ち明けてしまおうか。三女神の話そのものは、秋川やよいのお墨付きをもらった正真正銘信頼の置ける情報筋である。いざとなったら、やよいを交えてヴァルキリーに事情を説明してもらえばよい。何より、ジャイロはこの秘密を抱えておくことにそろそろ疲れを感じ始めていた。三女神がもたらす情報はいつも決まって重大なものである。その重大事を気兼ねなく相談できる味方が欲しいのだ。

 しばしの黙考の末、ジャイロは決断した。

「今日、練習が終わったらトレーナー室へ来い。アンタに話しておきたいことがある」

「えっ……それって」

「一応断っておくが、アンタが期待しているような話題じゃあねえからな」

 頬を紅潮させて熱視線を送ってくるヴァルキリーに、ジャイロがすかさず釘を刺した。

 その日の夕方。トレーナー室でひとり執務に勤しむジャイロの元へ、約束通りヴァルキリーが訪れた。あからさまに何かを期待しているような表情で。

「トレーナー……来ました」

「おう、来たか。まあ適当に座れ。今コーヒーを淹れる」

 ジャイロが給湯室へ行って戻ってくる間じゅう、ヴァルキリーはソファに腰かけたままずっとそわそわしていた。耳はぴこぴこ、尻尾はふるふるとしていてまるで落ち着きがない。

「どうした、いやに緊張しているな。別にいつも来ている部屋だろうに」

「えっと、そうですよね、そのはずなんですけど……あはは」

「念のためもう一度言うが、色恋沙汰の話を期待しているなら、大外れだからな」

 ヴァルキリーが露骨にしょんぼりする。やっぱりそういうことかとジャイロは少し呆れたが、すぐに気を取り直して本題に入る。

「ヴァルキリー、話しておきたいことというのはほかでもねえ。俺の頭の中に住んでいやがる、女神どものことについてだ」

 女神。その言葉を聞いた途端、ヴァルキリーの目に真剣みが宿った。

「女神……っていうと、三女神様のことですか? 太古の昔から現在に至るまで、あらゆるウマ娘を見守り続けているという」

「そう、その女神だ。俺はな、こっちの世界に来てから今まで、夢の中でその三女神に何度も会っている」

 ヴァルキリーが目を見開いてぱちくりさせた。無理もない。ジャイロが逆の立場だったなら、夢の中で神様に会ったなどと世迷言を抜かすなと言いたくなるところだろう。

「……三女神様とお話ししたというのは、いつのことですか?」

 ジャイロの言うことをなんとか信じたいという優しさに満ちた質問が、ヴァルキリーから繰り出される。ジャイロは記憶の糸をたどって、掘り出した記憶を順番通りに並べた。

「まず、一度目はアンタと契約してすぐのことだった。出てきたのは三人全員。その時の会話は要領を得なくて、正直よく覚えてねえ。二度目はアンタのデビュー戦が終わった直後、出てきたのはバイアリーターク。何やら運命がどうとか、予言めいたことを抜かしていたな」

「運命……ですか」

 それまでじっと真剣に耳を傾けていたヴァルキリーが、ぼそっとつぶやいた。

「三度目はホープフルステークスの直後。出てきたのはゴドルフィンバルブだった。どうやら連中は、俺やジョニィが持つ黄金の回転によって、ウマ娘の運命がどう動くのかってことに興味があるらしい。そして四度目……アンタが皐月賞を獲った直後。出てきたのはダーレーアラビアン。ここでようやく、具体的な『運命が動く時』の話が出てきた。どうやら三女神どもは、俺たちの運命が大きく動く可能性のある時期にしか夢に出てこれないらしい。それから、運命とはあらかじめ定まっているわけではなく、線路のポイントを切り替えるように、簡単に変わっちまうものだとも言っていた。皐月賞はアンタが獲ったわけだが、ダーレーアラビアンはほかのウマ娘が優勝する運命が無数に存在し、その中でアンタが選ばれたのだと説明していた。どこまで本当かは知らねえし、確かめようもないことだがな」

「皐月賞を私以外の子が獲る……そんな未来もあったんですね」

 存外にすんなり信じてくれるのだなと、ジャイロは密かに安堵した。もっと取り乱されるかと思ったが、これだけ受け入れてくれるならやはり話しておいて良かった。

「続けよう。五度目は夏合宿の真っ最中。三人全員が出てきた。開口一番、『スローダンサーに気を付けろ』と言われた」

「スロさん……!? どうしてそこで、スロさんが出てくるんですか」

「落ち着け。連中の言い分によればだ、ジョニィの奴が元の世界からとある『悪しきもの』を持ち込んだ可能性がある。それが悪さをしないように、ジョニィとスローダンサーの動向には気を配れとのことだった」

「『悪しきもの』……それっていったい、なんなんですか」

「それについては、六度目の夢で詳しく聞き出すことができた。つい数日前のことでな、いわゆる情報のツテってのはこれのことだ」

 姿勢を正し、両手を組み、大きく息を吐き出してヴァルキリーを見つめるジャイロ。これから大事な話をするから、聞き逃すなというサインだった。サインの意図が伝わったのか、ヴァルキリーもソファに座り直して姿勢を正す。

「俺とジョニィは、元の世界のSBRレースという競技を通して、とある敵と戦っていた。敵の名は、ファニー・ヴァレンタイン大統領。自分の国が栄えるためならば、ほかの誰を犠牲にしてもいいと考えている正真正銘の悪党だ。俺たちはなんとか奴を倒すことに成功した。俺は途中でくたばっちまったから、最後はジョニィがどうにかしてくれたみたいだがな」

「ヴァレンタイン大統領……それが『悪しきもの』なんですか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。込み入った話なんで詳細は省くが、ジョニィが元の世界で死んでこっちの世界へ来る時に、ヴァレンタイン大統領の残留思念とでも呼ぶべきものが、ジョニィの身体にくっついてきちまったらしい。それが今、どういうわけか活発に活動し始めて、なんらかの目的のためにジョニィやスローダンサーの意識に影響を与えている──三女神の説明によると、こういうことらしい」

 ひとしきり語り終えて、ジャイロは口を閉ざした。ヴァルキリーもまたしばし黙して語らなかった。静寂がトレーナー室を満たした。

「正直……話が思った以上に突飛すぎて、どこから信じていいのかわからなくなってます」

 静寂を破ったのはヴァルキリーだった。やはりいきなり全部は信じきれないようだった。無理もない。

「けれども、まったくの作り話だとも思えません。少なくとも、トレーナーとジョニィさんが元の世界で巨悪と戦っていた、っていう部分は本当のことなんだろうなって思います。だって明らかに、初めて会った時からおふたりの纏う雰囲気は普通じゃありませんでしたから」

「おっと、さすがに隠し切れなかったか。この俺のあふれんばかりのカリスマが」

「ふふっ、なんですかそれ」

 重い空気を払拭しようと、あえてジャイロはおどけてみせた。どうやら少しは効果があったようだ。

「まあとにかくだ。三女神から『悪しきもの』の正体までは聞き出せたが、その目的はいまだ不明のままだ。加えて、今のこの時期に三女神に会うことができたということは、近いうちに──おそらく菊花賞の頃を境に『運命が動く時』とやらが訪れる可能性が高い。ヴァルキリー、アンタも身の回りでもし不穏な出来事があったら、俺でも駿川たづなでも構わない、信頼できる大人に相談することだ。いいな」

「わかりました。肝に銘じますね」

「話は終わりだ。コーヒーおかわりいるか?」

 ヴァルキリーはコーヒーカップをくいっと傾け、中身をすっかり飲み干して席を立った。

「いえ、遅くなってきたので今日はこれで」

「そうか。気を付けてな」

「トレーナーって、なんだかんだいって私のこと心配してくれますよね」

 ジャイロにはヴァルキリーの言葉の意味が理解できなかった。

「トレーナーが担当を気にかけるのは当然だろう」

「まあ、そうですよね。すみません、変なこと言って」

「まったくだ。いいから帰るならさっさと帰れ」

「はーい。失礼します」

 足取り軽くトレーナー室を後にするヴァルキリー。最近の彼女は少々浮かれ気味な気がする。良くない兆候だと、ジャイロは頭を抱えた。

 

 種々の悩みごとを抱え、それでも日は巡る。この日ジャイロは、ヴァルキリーとともに京都行きの新幹線に揺られていた。そう、菊花賞前日である。前回の神戸新聞杯よりもさらに遠方での開催となるため、さすがに日帰りの強行軍は無理があると判断し、宿を取って前日に現地入りを済ませておこうという算段だ。

 長い長い線路を滑るように新幹線はひた走る。窓の外の景色がみるみる外へ流れていく。ヴァルキリーはというと、ジャイロの肩にもたれかかってすやすやと寝息を立てている。この無防備さはいただけないが、休めているのは良いことだ。先ほど東京駅で昼食を済ませてからの出発だったから、きっとそのせいもあって眠かったのだろう。起こさないように気を遣いながら、ジャイロはペットボトルのお茶で喉を潤す。思えばこちらの世界に来て、革の水筒を使う機会もめっきり減った。文化に適応していると言うべきか、毒されていると言うべきか。

 車内販売の声とアナウンス以外に音を立てるものはなく、静かに時が流れていくこと二時間。車内アナウンスが京都駅への到着を告げ、ジャイロはまどろみに落ちかけていた意識を拾い上げた。それから依然眠りこけているヴァルキリーを揺り起こし、

「おい、到着だ、起きろ」

 そっと声をかけてやった。まだ寝ぼけているのか、状況を飲み込めていない様子のヴァルキリー。

「うーん……もう着いたんですか?」

「ああ、降りるぞ。さっさと支度しろ」

 ジャイロの言葉でようやく覚醒したヴァルキリーは、頭上の荷物棚から自分のキャリーバッグと、ジャイロ愛用のレザーバッグを軽々と持って降ろしてくれた。

「うーん、よく寝た! なんか身体の調子もいいです」

「そうかい。こっちはアンタの大いびきで寝れやしなかったがな」

「えっ……そんなに酷かったですか。私のいびき」

「冗談だよ。そら、急ぐぜ。次の電車が行っちまう」

 そう、ここからは現地の在来線を乗り継いで、宿泊場所へと向かうことになる。といってもルートはシンプルで、「梅田」のようなわかりにくい地名もないことから、迷う心配は皆無だった。

 電車を二本ほど乗り継いだ先に、本日宿泊するホテルがあった。どうせ経費で落ちるのだからと、少々グレードが高くて立地もいいこの宿を選んだのは正解だった。最寄りの駅から電車一本で開催地の京都レース場へと向かえるのは、実にわかりやすい。

「ふたりだ。シングルふた部屋」

「ジャイロ・ツェペリ様と、ヴァルキリー様でございますね。お待ちしておりました」

 チェックインを済ませ、ホテルマンからカードキーを受け取って各々の部屋へ向かう。ホテルの部屋を予約するにあたって「ダブルベッドひと部屋でいいじゃないですか」とヴァルキリーが最後までごねていたが、どうにか反対を押し切ってシングルふた部屋を取ることに成功した。年頃の娘が男とともにホテルでひと晩過ごすなど、どんな間違いを起こされるかわかったものではないし、そうでなくとも領収書を駿川たづなに提出する際、絶対に怪訝な顔をされるに決まっている。

 ヴァルキリーが部屋へと入ったのを見届けてから自分も入り、バッグを置いて広縁のチェアに腰かけると、ジャイロはようやく人心地ついた。旅の疲れがどっと押し寄せてくる。快適な新幹線の道中で多少まどろんでいたとはいえ、ほぼ休みなく列車を乗り継いでここまで来たのだ。少しでも疲れを取っておきたい。ジャイロは導かれるように机の上のティーバッグに手を伸ばし、備え付けの電気ケトルで湯を注いだ。

 その時、部屋の呼び鈴が鳴らされた。きっとヴァルキリーだろう。ちょうど最後のミーティングをしたいと思っていたところだ。ジャイロがドアを開けると、珍しくしおらしい表情のヴァルキリーが立っていた。

「あの……お部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか」

「ああ、ちょうどいいところに来たな。入れ」

「……失礼します」

 しずしずと入室してくるヴァルキリー。いつもの威勢はどこへ行ったのか。

「ちょうど茶を淹れたところだ。アンタも飲むか」

「はい。いただきます」

 ジャイロがヴァルキリーのぶんのお茶を淹れてやると、それをうやうやしく受け取って口に運ぶヴァルキリー。なるほど、とジャイロは内心合点がいった。さてはヴァルキリーの奴、同じホテルの一室にふたりきりで緊張していやがるな。出発前はあれだけダブルベッドがいいなどとほざいていたくせに可愛い奴だ──と。嗜虐心に魔が差したジャイロは、ヴァルキリーにちょっとした意地悪を言ってみることにした。それがどんな事態を招くか知るよしもなく。

「ほれ。ダブルベッドじゃあないが、お望み通りホテルの部屋にふたりきりだぜ。何かしたいことがあったんじゃあねえのか」

 ジャイロの迂闊な発言に、ヴァルキリーの目が鈍く輝く。その目は少しも笑っていなかった。彼女は湯呑みをそっと机に置くと、ジャイロめがけてずんずんと歩み寄ってきた。わけもわからぬまま、あれよあれよという間に追い詰められ、ベッドに押し倒される格好になるジャイロ。

「おいおい……どうしたヴァルキリー。落ち着け」

「トレーナー、この際ですからはっきり言いますけど」

 憤りとも異なる、何か得体の知れない迫力をまとって静かにヴァルキリーが言った。荒い息遣いを直に感じるほどに彼女の顔が近くに迫る。ジャイロの背筋に緊張が走る。

「トレーナーは人間で、私はウマ娘。その気になったら、あなたのことなんてどうとでもできるんです。私はそれを必死に我慢してるんです。お願いですから、私をあんまりその気にさせないでください。さもないとお互い、不幸になるだけでしょう」

「ああ……そうだな、悪かった。冗談が過ぎたな」

 半ば懇願するような形で、必死にヴァルキリーをなだめるジャイロ。その祈りが通じたのか、ヴァルキリーはおもむろにジャイロから離れて息を整えた。

「わかってくれればいいんです。それじゃ、本題に入りましょう」

「菊花賞のミーティングだな。さて、何から話したもんか」

 気を取り直してなんとか動悸を収め、机に戻ってミーティングの流れに持っていくジャイロ。それにしても、さっきの出来事はさすがのジャイロも肝を冷やした。いざとなれば鉄球の回転技術で身を守れるとはいえ、ウマ娘の膂力は尋常な人間のそれとは比較にならない。改めて軽率に怒らせてはいけない生き物なのだと痛感した。

「今回挑戦する3000メートルという距離は、アンタが走ってきた中でも最長のものだ。しかしこれはほかの連中にも同じことが言える。今までと違って、強引にハナを奪う必要はない。長距離レースで序盤から無茶を通す奴はいないだろうから、一杯に力を出さなくとも無理なく前へ出られるはずだ。下手に序盤から飛ばすと、第三コーナーの下り坂で脚を潰しちまうかもしれねえからな」

 机の上にばさっと京都レース場のコース図を広げて、そこかしこを指差しながらジャイロが解説を繰り広げる。

「最終コーナーへ向けた下り坂……ここが勝負のポイントになりそうですね」

「その通り。向正面から駆け上がって第三コーナーから駆け下りる、通称『淀の坂』……少なくともこの坂の頂点に至るまでには、各ウマ娘が仕掛け始めるはずだ」

「下り坂で加速した後方のウマ娘にラストスパートで差し切られる……そんなシナリオも考えられそうですね」

 そんなことをつぶやくヴァルキリーの頭の中には、おおかた神戸新聞杯でサトノダイヤモンドに敗れた時の光景でも映っているのだろう。

「そんなしけたツラをするな。そう何度も同じ負け方をするような、ぬるい鍛え方はしてこなかったつもりだ。そうだろう?」

「……はい。あの敗戦で私は、得るものもありました。二度も同じ轍は踏みません」

「その意気だ。瞬発力、持久力、トップスピード……すべてを高い水準で持ち合わせている、それが今のアンタだ。あとは走り方さえ間違えなければ勝てる」

「そうですね、信じます。今日まで指導してくれたトレーナーと、トレーナーに鍛えられた私のこの脚を信じます」

 決意の光が灯った目で、ヴァルキリーが言った。不安や悩みとは、もはや無縁のようだった。

 ヴァルキリーを自分の部屋へと戻らせた後、ジャイロは部屋でひとり物思いにふけっていた。

(明日の菊花賞……スローダンサーも必ずやってくる。その時、ジョニィの『悪しきもの』について何か手がかりが得られるかもしれねえ。『運命が動く時』もおそらく来るんだろうな)

 夏合宿以来ずっとジャイロをさいなんでいたこの悩みにも、ひとつの決着が見られるかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、思考をすっきりさせようとジャイロはシャワー室へと向かった。それからヴァルキリーと一緒にホテルのやたら豪勢なディナービュッフェで夕食を済ませると、さっさと自室へ戻って布団に潜り込んだ。旅の疲れも手伝って、眠気はあっという間にやってきた。

 

 翌日。モーニングにはまだ少しばかり早い時間にジャイロは目覚めた。いよいよ菊花賞当日とはいえ、本番の緊張で眠れなくなるほど自分は神経質なタチだっただろうかと、ジャイロは自嘲した。

 いつものイタリアンコーヒーはないのでお茶を一杯淹れ、そっと口に含むと、胸につっかえていた息苦しさがふっとほどけていくような心地がした。日本の地理には詳しくないが、京都はお茶が有名だというから、ホテルに置いてあるティーバッグのお茶ひとつ取ってもきっと質の良いものなんだろうと思った。

 広縁のチェアに腰かけ、旅先で読もうと持ってきた本を開いて静かなひとときを過ごすことしばし。ふと呼び鈴が鳴り響いて、静寂が破られた。ジャイロが応対すると、ドアの向こうにいたのはやはりヴァルキリーであった。

「トレーナー、もう朝食に行けるみたいですよ。行きますか?」

「ああ、もうそんな時間か。行こう」

 ヴァルキリーに連れられ、食堂を目指すジャイロ。朝食は簡素ながらもやはりビュッフェ形式であった。菊花賞の大一番を前に少々贅沢をしすぎたかと思ったが、まあ気にすることもあるまい。ヴァルキリーにしっかりと英気を養わせることのほうが重要だ。当のヴァルキリーは、ホテル代の元を取ってやらんとばかりの勢いでもりもり食べている。どうせ経費から落ちるというのに。それとも今日までの食事管理の反動か。それほど厳しく管理してきたつもりはないのだが。

 ともあれ無事に朝食も済ませ、さてチェックアウト時間までどうやって過ごそうかと考えていると、ヴァルキリーがこんなことを言い出した。

「トレーナー。チェックアウトの時間まで、トレーナーの部屋で過ごしてもいいですか」

「俺の部屋でか?」

 ジャイロは露骨に怪訝な顔をする。昨日のこともある。

「あっ、もちろん昨日みたいなことはしないって約束します。ただ、自分の部屋にひとりでいると落ち着かなくて。駄目ですか?」

 上目遣いで懇願するヴァルキリー。狙ってやっているのだとしたら、末恐ろしい女だ。ジャイロは逡巡し、答えた。

「わかった。ただし少しでも妙なことをしたら、すぐにつまみ出すからな」

「はい……わかってます」

 こうして自室にヴァルキリーを連れ込むことになったジャイロ。部屋につくなり、互いに机を挟んで座椅子の背もたれに身を預けた。にわかに沈黙がふたりの間を流れる。

「いよいよだな。調子はどうだ」

 沈黙を破ったのはジャイロだった。今更確認することなど何もなかったが、とりあえずの話題でそう話しかけた。

「ばっちりです。今の私なら、淀の坂走り込み百本だって行けちゃいますよ」

「ハッ、そいつは頼もしい」

 ジャイロは今朝淹れたままぬるくなったお茶を、くいっと飲み干した。それから神妙な面持ちでヴァルキリーと目を合わせる。

「今回の菊花賞、ドゥラメンテは不在だ。しかし依然としてライバルは多い。キタサンブラック、サトノダイヤモンド、そして……スローダンサー」

「久しぶりの直接対決……負けるつもりはありません。ただ、最近ひとつだけわからなくなっていることがあります」

「なんだ、そのわからないことってのは」

「スロさんの言葉を覚えていますか? 自分の脚が動くうちに、走ることを楽しんでおきたい──っていう言葉を」

 その言葉は確か、日本ダービーの直後にスローダンサーが語ってくれた言葉だ。彼女の走る想いそのものだとも言っていた。

「ああ、覚えている。それがどうかしたのか」

「あの想いって、今でも変わらないのかなって思いまして。ジョニィさんの身体に『悪しきもの』が憑りついて、スロさんの様子も少し変になっちゃったでしょう? そんな中でも、スロさんの走る想い──その芯の部分はきちんと残っているのかなって思いまして」

 確かに、その視点はなかった。「悪しきもの」によって人格に影響を及ぼされている今のスローダンサーは、かつてジャイロたちに走る想いを語ってくれたスローダンサーと果たしてどこまで同じといえるのだろう。

「……って、ライバルの心配なんてしてる場合じゃないですよね。すみません」

「そうだな……スローダンサーのことは気になるが、今はとにかく菊花賞を獲ることに集中すべきだ。迷いなく走れそうか?」

「はい、そこは心配いりません。ちょっと後ろ向きなこと話しちゃいましたけど、菊花賞を全力で走り切ることだけは真剣に考えてますから」

「そうか。それならいい」

 それだけ会話を交わすと、ふたりの間には再び沈黙が戻ってきた。それからチェックアウトまでの時間、ふたりはめいめい気ままに時間を過ごしていた。本を読んでみたり、ベッドに寝転がってみたり、隙あらばいちゃついてこようとするヴァルキリーをたしなめたりしているうちに、出発の時刻は迫っていた。

「そろそろ行くか。自分の部屋の荷物、忘れんなよ」

 ジャイロのその言葉を皮切りに、支度を始めるふたり。そのままチェックアウトを済ませ、ホテルを後にすると、清涼な秋風がふたりを出迎えた。

「もうすっかり秋ですね。夏合宿の日々が昨日のことみたいに思い出されます」

「哀愁にふけっている暇はねえぞ。これからその秋の大舞台が待ってんだからな」

「わかってますよ。風情がないですね、もう」

 やいのやいの言い合いながら最寄り駅へ向かうふたり。ここから京都レース場までは電車一本ですぐに到着できる。土地勘がないジャイロにとって、経路がわかりやすいことはありがたい。

 電車に揺られること数分。その建物は見えてきた。流麗な曲線が特徴的な、京都レース場である。

 電車を降り、徒歩でエントランスへ向かう道すがら、ヴァルキリーはずっと視線を上に向けっぱなしだった。京都レース場の優美な外観に見とれていたのだろう。足元がおろそかにならないよう、ジャイロが手を取って慎重に先導する。いつもと逆の立場だ。

 さて、とジャイロは周囲を見回した。普段ならこの辺りで、彼女が姿を現す頃合いだが──

「ヴァルキリーちゃん! ジャイロさん! また会えましたね!」

 やはり来たか。エントランスじゅうに響き渡る声。駆け寄ってくるキタサンブラック。大きなレースの前には、これがなくては始まらない。

「こんにちはキタサン。元気そうね」

「うん、おかげさまで! 元気がなくちゃ、菊花賞なんて獲れっこないもん」

「違いないわ。それはそうと、ダイヤは一緒じゃないの?」

「お呼びでしょうか?」

 声のしたほうを見てみると、キタサンブラックからやや遅れてこちらへ歩み寄ってくるサトノダイヤモンドの姿があった。

「……まあ、あなたたちが一緒じゃないわけないわよね」

「ふふっ、そんなことないですよ。現に前のレースでは別々だったわけですし」

「そうそう、神戸新聞杯! ふたりとも見たよ! すごいレースだった」

 キタサンブラックがにわかに鼻息を荒くして、先般の神戸新聞杯の見どころを高らかに解説し始めた。さすがに気恥ずかしかったのか、うつむいて頬を紅潮させるサトノダイヤモンド。

「き、キタちゃん……見てくれたのは嬉しいけど、そんなに熱く語られると恥ずかしいよ」

「正直私も……結局ダイヤに差し切られちゃったわけだし」

「何言ってるのさ、本当にいいレースだったんだよ? ここじゃ語り尽くせないくらい。本当ならあたしも現地の観戦席で直接応援したかったんだけど、阪神レース場はさすがに遠いからさあ」

「いいのよ、気持ちだけで充分。それに、私の走りが見たかったら、今日この場で嫌というほど見せてあげるから」

 ヴァルキリーのこの言葉に、にわかにひりついた空気が流れる。忘れてはならない。今日はこの場にいる全員がライバルなのだ。

「そう……でしたね。今日ここで皆さんの走りが、間近で見られるんですものね」

「うん。負けないよ、ダイヤちゃん。ヴァルキリーちゃんも」

「ええ、もちろんよ」

 と言ってからヴァルキリーは気まずそうに頬をかき、

「……この流れで言うのもなんだけどさ、キタサンのセントライト記念も見てたわよ。今日もいい走りを期待してる」

 と言うと、キタサンブラックはにわかに表情を曇らせた。

「セントライト記念……あのレースは結局、スローダンサーちゃんが獲ったよね」

「ああっ、ごめんなさい。嫌味で言ったつもりじゃなかったの」

 気分を損ねたと思ったか、慌てて弁明するヴァルキリー。しかし、キタサンブラックの口から語られたのは意外な言葉だった。

「あっ、あたしこそごめん。そういうことじゃないんだ。勝負は勝負だし、結果には納得してるつもり。でも、なんていうか……あの日のスローダンサーちゃんは、ちょっと普通じゃなかった」

「スロさんが……普通じゃない?」

 ヴァルキリーが前のめりになって話の続きをうながす。彼女らの会話をそばで聞いていたジャイロも、その興味をキタサンブラックの言葉に向けた。スローダンサーの異常について、キタサンブラックも何か気付いたことがあるのだろうか。

「普通じゃないって言ったのは、スローダンサーちゃんが走っている時の様子のことで。普通、ウマ娘は自分なりの走りへの想いを持って走るものでしょ?」

「ええ。私たちも、エアグルーヴさんに念を押されたわ」

「けどね、あたしがゴール前でスローダンサーちゃんに差し切られる瞬間、あの人がまとっていたのはもっと別の何かだった」

「別の……何かですって?」

「細かいことはわからない。けれども今にして思うと、明らかに普通じゃなかった。普通のウマ娘が抱く執念とは、もっと別の種類の何かを背負って走ってたように思えたんだ」

 きっと「悪しきもの」の仕業だろう。ジャイロは密かに歯噛みした。ジョニィに憑りついた「悪しきもの」は、スローダンサーの走りにさえも影響を及ぼすのか。

「よくわかりませんけど……キタちゃんの言うことが本当なら、今日ぶつかることになるスローダンサーさんも、私たちにない何かを背負って走ることになるんですよね」

 サトノダイヤモンドがおずおずと意見を求める。一同は皆彼女の言葉に首肯した。

「ライバルを心配している場合ではないと、頭ではわかっていますが……スローダンサーさんの身に何が起こっているのかは、やはり気になりますね」

 キタサンブラックとサトノダイヤモンドにも、「悪しきもの」にまつわる心配事が広まりつつある。望ましいことではないが、彼女らに真相を打ち明けるには早い。ここはひとつ忘れてもらおう。ジャイロは声を張り上げた。

「アンタら、さては怖気づいたか? スローダンサーに未知の力が宿っていると聞いて、恐ろしくなったんだろう。違うか」

「そ、そんなことありません! どんな相手だろうと、全力で走るだけです」

「私も危うく、悪い考えに呑まれるところでした。そうですね、誰が相手でも私は私の走りをするだけ……」

 ふたりの目に闘志が宿る。よし、上手くはぐらかせた。

「それじゃあアンタら、次に会う時はライバル同士だからな。行くぞ、ヴァルキリー」

「あっ、待ってくださいよトレーナー! それじゃあふたりとも、またね!」

 半ば強引にその場を締め、控室へと急ぐジャイロ。キタサンブラックがスローダンサーの異変に気付いている。これを吉兆と見るべきか否か。

(……やめだ。考えたって答えは出やしねえ。今はヴァルキリーを勝たせてやることだけを考えろ)

 そう自分に言い聞かせ、ずんずんと足早にレース場内を進むジャイロ。少しでも歩みを緩めたら、悪い考えに囚われてしまいそうだった。

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