「じゃあ改めて作戦のおさらいだ。スタート直後、いわゆる淀の坂が待ち構えているが、これはアンタの持ち前のスタートダッシュで登り切ってしまえ」
少し早い時間に控室入りしたジャイロは、早速ヴァルキリーとともに今回の菊花賞での作戦を練っていた。ジャイロの言葉に耳を傾けるヴァルキリーは、いつもながら真剣そのものだ。
「そのあとは、しばらく流して走っていい。ハナを取ることにもこだわらなくていい。昨夜も言ったが、ここで無茶をする奴はどうせ終盤に脚が残らない。好位置を維持できれば充分だ」
「今回、私はやや不利めの外枠に配されました。これも理由のひとつですよね」
「そういうことだ。序盤から無理をして好位置を取ろうとして、スタミナが残らなかったら本末転倒だからな」
一般に、レースは内枠が有利とされている。今回のような長距離戦ではなおさらだ。だからこそヴァルキリーには、道中で脚をためる走り方を試みてもらおうとジャイロは考えている。ちょうど、故障明けの日本ダービーでそうしたように。
「レースが動くとしたら二度目の淀の坂。ここを黄金の回転で一気に抜けて後続を突き放し──うん?」
にわかに鳴り響いたドアのノック音に、ジャイロの意識は向けられた。こんな大事な時に何の用だとしぶしぶ応対すると、ドアの外には意外な人物が立っていた。
「ジョニィ……それに、スローダンサー」
「スロさん!? そこにいるの?」
慌てて駆け寄ってくるヴァルキリー。対照的に、ジョニィとスローダンサーは落ち着き払っていて、不気味なほど静かな目つきでジャイロを見つめていた。
「こんなぎりぎりまで敵情視察とは、熱心なことだなァ」
「そんなんじゃあないよ。僕はただ、最近君にろくに挨拶ができていなかったなと思って、こうして顔を見せただけさ」
ジョニィの舌がすらすらと回る。彼の言葉は果たして彼自身の意思で発しているのか、それとも「悪しきもの」が言わせているのだろうか。それすらも確かめようがない現状に、改めてジャイロはもどかしさを覚えた。
「ヴァルちゃん、こうしてレース場で顔を合わせるのも久しぶりねぇ。準備は万全?」
スローダンサーが、ヴァルキリーの目を真っすぐに見据えて言った。声の調子はいつもと変わらない。だとしたら、この異様なまでの彼女の威圧感はなんだというのだろう。まるで、こちらの心の内を見透かしてくるかのような──
「心配しないで。準備ならとっくに済ませてあるから。負けないわよ。特に、今のスロさんには」
「どういう意味……?」
「なんでもない。じゃあ、ターフで会いましょう」
そう言ってヴァルキリーは控室の中へと戻っていった。予想していた対応と違ったのか、スローダンサーは少しきょとんとしていた。
「んで、オメーはいつまでそこで突っ立ってんだ」
ジャイロがジョニィに冷たく言い放つ。が、ジョニィはこれにも動じる気配はない。
「そう邪険にしないでくれ。邪魔して悪かったよ。挨拶を済ませたら、すぐに戻るつもりだったんだ。だけどね、ジャイロ」
やにわに声をひそめて、ジョニィが言った。その声はほの暗く、どこか猟奇的ですらあった。
「僕たちはこのレースで、必ず目的を果たしてみせる。そのためならば、どんな手段もいとわないつもりだ」
気が付けばジャイロは、ばたん、と派手に音を立ててドアを閉めていた。ジョニィの声をこれ以上聞き続けるのは危険な気がした。必死に意識から振り払おうとするが、ジョニィが最後にジャイロに向けていた漆黒の意思を宿した視線が、いまだジャイロのまぶたの裏に焼き付いていた。
「さあ始まりました、クラシック路線最後の一冠! 最も『強い』ウマ娘が勝つと言われる菊花賞、間もなく出走です!」
場を盛り上げる実況の声が響くとともに、ウマ娘たちが続々とゲートインを済ませていく。その中には当然ヴァルキリーの姿もあれば、彼女がこれまで競ってきたライバルたちの姿もあった。
スローダンサーは大外からのスタートとなった。彼女がまとう異様な雰囲気は、観戦席にいるジャイロの元にさえ届いてくる。同じゲートに入っているほかのウマ娘たちはどう感じているだろうかと、ふと思いをはせた。
ゲートインが完了し、しばしの静寂が訪れる。観客たちが息を呑んで見守るうちに、その時はやってきた。
「スタート! 各ウマ娘、少しばらついたスタートとなりました!」
勢い良くゲートを飛び出すウマ娘たち。ついに始まった菊花賞。3000メートル先の栄光へ向けて、ヴァルキリーが力強く一歩また一歩と踏み出す。その脚には磨き上げられた黄金の回転を宿しながら。
「先行争いはポーラーディッパー、ボルテクスツイスト、カーキシュシュ! 少し離れてヴァルキリー、その内並んでウィストクラフト、すぐに続いてキタサンブラック」
まずは予想通りの展開になった。ヴァルキリーは指示通り、内枠のウマ娘たちの先行争いには参加せず、じっと機をうかがっている。それはキタサンブラックも同じ考えのようだ。六番手でじっくり構えている。スタート直後から互いが互いに様子をうかがうレースとなった。
「一バ身離れてメカニカルベイパー、外からフリルドピーチ、それを見るようにアストレアノーチェ! 少し間延びした展開です。二バ身、三バ身開いてサンガリアス、すぐに続いてサトノダイヤモンド、さらにベータキュビズム、その外並んでスローダンサー!」
後続の隊列もだんだんと固まってきた。先頭集団は早くも淀の坂の頂点から駆け下りようとしているところだ。
「ボルテクスツイスト、ポーラーディッパー、ふたりともハナは譲りません! 三番手ヴァルキリー、その内並んでカーキシュシュ! キタサンブラック並びかけてきた」
キタサンブラックが先頭目指して前へ出てきた。ヴァルキリーはこれにも動じることはない。依然として前が詰まっている中、脚を残しながらハナを奪うことは、さすがのキタサンブラックとて難しいはずだ。慌てずにじっくりとレースを組み立てるヴァルキリー。
「秋風の舞う淀の坂をウマ娘たちが駆け下ります! 先頭はボルテクスツイスト、一バ身離れてポーラーディッパー、ヴァルキリー追走、すぐに続いてキタサンブラック、さらにフリルドピーチ!」
「キタサンにぴったりつかれているこの状況、いつかの弥生賞を思い出させられて嫌な感じね。あの時はスリップストリーム走法の差で脚を残されて負けた。同じ轍は踏まないわ」
ヴァルキリーがそっと独り言ちた。今の自分が考えるべきことは、とにかく黄金の回転を絶やさないこと。それさえ守っていれば、ラストスパートに向けた脚は充分に残る計算だ。
やがてバ群は一周目のホームストレッチを抜け、第一コーナーへと差し掛かる。ここまでで中団のウマ娘たちに目立った動きはない。依然として慎重な駆け引きが続いているようだ。
「一コーナーから二コーナーへ向かうウマ娘たち! ポーラーディッパーここで先頭に立つのか! 内からボルテクスツイスト、差がなくヴァルキリー、さらにキタサンブラック、一バ身離れてフリルドピーチ! ベータキュビズム徐々に進出! サトノダイヤモンド続きます」
スタート直後からずっとハナ取り争いをしているポーラーディッパーとボルテクスツイストには、もはやろくに脚は残っていまい。後続のウマ娘たちがそう思うのと同時に、後方で動きがあった。ベータキュビズムとサトノダイヤモンドが進出を開始してきたのだ。第二コーナーを抜けて向正面にたどり着く頃には、ふたりの動きに呼応したほかの後方集団も続々と差を縮めてきていた。
「サトノダイヤモンド伸びてくるか! 内に並んでベータキュビズム、すぐに続いてサンガリアス、差がなくスローダンサー」
「ダイヤちゃん……来たね。ダイヤちゃんにトップスピードで負けないように、脚はたっぷりと残してある!」
キタサンブラックがよりいっそう力強く大地を蹴る。いよいよ勝負所、二周目の淀の坂が見えてきた。ウマ娘たちに緊張が走る。
「坂を登って第三コーナーへ! そろそろ仕掛けどころだ、誰が最初に抜け出すのか!」
「やああっ!」
ヴァルキリーが気勢を上げて外から回り込み、そのまま猛然と坂を登っていく。コーナーで前方ふたりに外を回らされるとロスが大きいと判断して、ここで抜き去ってしまおうという判断だ。あっという間にヴァルキリーは先頭に立つと、そのまま淀の坂を下ってぐんぐんと加速していく。
「脚は残ってる。黄金の回転も安定してる。これなら……勝てる!」
「ヴァルキリーここで抜け出した! キタサンブラック食らいついていく!」
やはりというか、先頭を行くヴァルキリーをキタサンブラックが追走する形になった。そして、
「サトノダイヤモンド、先団目指して加速する! さらにその外スローダンサー、すごい脚で上がってきた!」
最後はこの四人の勝負になった。ヴァルキリーと後続とはまだ差がある。このまま逃げ切ってしまいたい。だが、それをやすやすと許してくれるほど生易しいライバルたちではない。
「ヴァルキリー逃げる! キタサンブラック並びかけてきた! さらに外からサトノダイヤモンド! スローダンサー届くか!?」
「負けない……最後の一冠は、あたしが!」
キタサンブラックの執念を間近で受け、思わず心臓を掴まれるような心地を覚えるヴァルキリー。悪い感触を必死に振り切り、その心臓が身体じゅうに血液と力を行き渡らせるのを感じながら、ヴァルキリーはただ必死に芝を蹴った。
そして、ついにふたりが最終直線で並んだ。
「最後はふたりの鍔迫り合いだ! 残り200! キタサンブラック、ヴァルキリー、両者一歩も譲らない熾烈なデッドヒート! サトノダイヤモンド、わずかに届かないか! キタサンブラックとヴァルキリー、もつれるようにゴールイン!」
最後はまったくの横一線だった。電光掲示板に皆の注目が集まる。そして──
「一着はキタサンブラック! クラシック最後の一冠を手にしたのはキタサンブラックです! 二着ヴァルキリー、三着はサトノダイヤモンド!」
スタンドが大歓声に包まれる。まるで通じ合うかのように、一様にがっくりと肩を落とすジャイロとヴァルキリー。それでも、栄冠を手にしたライバルを称えるためにふたりは顔を上げて、ウィナーズサークルへと歩を進めるキタサンブラックを見送った。
「皆さん、応援ありがとうございました! 今日、あたしは最高に盛り上がるレースがしたいって、その一心で頑張りました! 皆さんの声援で、その努力が報われた気がして、すごく幸せです!」
レースの興奮冷めやらぬ様子で、ウィナーズサークルのマイクパフォーマンスに応じるキタサンブラック。以前彼女は、サトノダイヤモンドとともに走ることに想いをかけていると語った。しかし、今しがた語った「レースを盛り上げたい」という想いもまた本心なのだろう。その想いがキタサンブラックを勝利に導いたのだ。
そのままキタサンブラックは優勝カップを受け取り、ウィナーズサークルで記念撮影へと移る──ジャイロが異変に気付いたのは、その時だった。
観客席の少し離れた位置から発せられる殺気。そこに立っているのはジョニィ。漆黒の意思が宿った瞳でキタサンブラックをじっと見据え、「タスク」の爪弾を構えているではないか。その狙いの先には──
「キタサン、伏せろッ!」
「……えっ?」
ジャイロの声がキタサンブラックに届いたはずはない。しかし彼女も何か異様な気配を察知してか、ほんのわずかに身じろぎした。次の瞬間、ジョニィの指から放たれた爪弾が真っすぐに、寸分違わず菊花賞の優勝カップを撃ち抜き、粉々に粉砕してしまった。
「きゃあ!」
「な……何事ですか! カップが……!」
「皆さん落ち着いて! ただいま状況を確認中です!」
あまりのことに、周囲は一時騒然となる。ジャイロは慌ててジョニィの姿を探すが、彼はいつの間にか忽然と姿を消していた。
「クソッ!」
ジョニィは地下バ道だろうか。今ならまだ追いつけるかもしれない。ジャイロははじけるように駆けだした。
「トレーナー!」
地下バ道へ入って、最初に出くわしたのはヴァルキリーだった。ひどく憔悴している。キタサンブラックのことが心配だったのだろう。
「ヴァルキリー! 無事か」
「私はなんともありません。けど……これはいったい」
「ジョニィの仕業だ……目的は知らねえが」
「ジョニィさんの!?」
「話は後だ。アンタはキタサンのそばにいてやれ」
ヴァルキリーにそううながして、彼女の後ろ姿を見送った後、ジャイロは来た道を引き返そうとした。この様子だと地下バ道にジョニィは来ていない。しかし、それならいったいどこに──
「僕ならここだよ、ジャイロ」
声がした。聞き慣れた声が。決してジャイロの知る者の声ではない声が。
「ジョニィ……今からテメーは俺の質問に答えることだけを許してやる」
「そう怖い顔をしないでよ。どうしちゃったのさ」
「話を聞いてなかったのか? 俺は質問に答えることだけ許可したんだぜ。それとも本当に頭がどうかしちまったのか」
ふたりの男が対峙する。ジャイロはいつでもホルスターの鉄球に手をかけられるように構えた。緊張の糸が張りつめ、いつ限界を迎えてもおかしくなかった。
「テメーの狙いはなんだ。キタサンブラックの命か、それとも菊花賞の優勝カップへの八つ当たりか」
「どちらでもない。僕の目的となるものは、ここにはなかったよ」
「テメーの目的ってのはなんだ。カップを壊して回ることか」
「そうじゃあない。けど、詳しくは教えられないな」
「やっぱり話を聞いていなかったな。俺はテメーに質問をはぐらかすことを許可した覚えはねえ。多少痛い目を見ないとその気にならねえってんなら、お望み通りにしてやるが」
「面白いことを言うね。君の鉄球は二発。対して僕の爪弾は、さっき撃ったのを除いてもあと九発ある。どちらが有利か、試してみるかい」
ふたりの間の緊張が最高潮に達する。このままジョニィとの撃ち合いが始まる──かに思われたが。
「なんてね。さすがの僕も、相棒の君にスタンドを向けるようなことはできないよ。今日は見逃してあげるから、君も僕のことを見逃してくれないかな」
くるりと踵を返して、その場を立ち去ろうとするジョニィ。
「待ちやがれッ!」
すかさず追いかけようとするジャイロだったが、彼の足がその場から動くことはなかった。それより早く、彼の後頭部を強い衝撃が襲ったからだ。
「ぐッ……!」
「ごめんなさいねぇ、ジャイロさん。わたくしはもう決めたの。トレーナーさんについていくって」
「スロー……ダンサー……」
たまらず片膝をつきながら、背後から現れた人物の名を呼ぶジャイロ。そんなジャイロをもはや意に介さず、ジョニィとスローダンサーは地下バ道を去っていった。あとにはわけもわからず、その場にひざまずいて目まいに耐えるジャイロだけが残された。
「……ナー! トレーナー!」
遠くでヴァルキリーの声がする。いったい、どれだけこうしていたのだろう。ジャイロは朦朧とする意識をなんとか起き上がらせ、いまだ引かない後頭部の痛みに耐えながら、必死に目の前の光景を結像させた。ヴァルキリーの顔が目と鼻の先にある。彼女は今にも泣きだしそうな表情をしていたが、ジャイロの意識がはっきりとしてきたとわかった途端、その表情は驚きに上塗られた。
「ああ、良かった、トレーナー。大丈夫ですか、しっかりしてください」
「どうってことはない。ただの軽い脳震盪だ」
「脳震盪!? いったいここで何があったんですか」
「スローダンサーに後ろからやられた。ジョニィと話し込んでいる間にな」
「スロさんが……まさか、そんなこと」
暗く沈み込むようにつぶやくヴァルキリー。無理もない。彼女はスローダンサーと同室で、おそらく誰よりも仲がいい。そんなスローダンサーが自分のトレーナーに暴行を働いたと聞かされては、気が気じゃないだろう。
「ところで、会場のほうの様子はどうなってる」
「もうてんやわんやです。観客の中に暗殺者が潜んでいたとか、優勝カップに爆弾が仕掛けられていたとか、そんな噂が錯綜していて。スタッフの人たちがなんとか事後処理を進めてくれていますけど」
「キタサンは? 無事なのか」
「キタサンには怪我ひとつありません。大丈夫です。ダイヤが泣きすがって離れようとしないこと以外は」
「ふたりは一緒にいるんだな。ちょうどいい。事態が収まったら俺たちの控室に来るよう、アイツらに伝えておいてくれ。そこで詳しい話をしてやる」
ジャイロはそう言って、ひと足先に控室へと戻った。いまだ満足に言うことを聞かない身体と、重い足を引きずって。
半刻ほど経った頃、ヴァルキリーが控室に戻ってきた。指示通り、キタサンブラックとサトノダイヤモンドも一緒だ。サトノダイヤモンドは、少しでも近付く者がいれば噛みついてやらんといった気迫でキタサンブラックの腰にしがみついている。
「トレーナー、戻りました。ふたりも一緒です」
「よし。三人とも適当に腰かけてくれ。キタサン……座れそうか?」
「ダイヤちゃん、あたしなら大丈夫だから。そろそろ離れよう。ね?」
キタサンブラックになだめられて、ようやく彼女の腰から腕を離すサトノダイヤモンド。
「それで、あたしたちはどうしてここに呼ばれたんでしょう」
「事情を説明してやるためだ。アンタたちには知る権利がある」
前置きのあと、大きく深呼吸してジャイロは続けた。このあと話すことは、彼にとっても一大事なのだ。
「結論から話すぜ。アンタの優勝カップを破壊したのは、ジョニィの仕業だ」
「ジョニィさんが……!?」
三人が一様に驚きの声を上げる。彼女らの様子が落ち着くのを待ってから、ジャイロが続ける。
「俺が今から話すのは、荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、大事な話だ。最後まで聞いてもらいたい」
「もちろん、ここにきてジャイロさんの言葉を疑ったりしませんよ」
キタサンブラックが真っすぐこちらを見据えて言った。その目は真剣そのものだった。ジャイロがこれから何を話すかまだわからないうちから、ジャイロの言葉に嘘はないだろうと信じているようだった。
「じゃあ話すぜ。ジョニィは元の世界で、ある奇妙な能力を手に入れている。『スタンド』と呼ばれる能力の一種だ。ジョニィが手に入れたのは、自分の手の爪を回転させて撃ち出すというものだ。ジョニィ自身はこの能力を『タスク』と名付けていた」
「ジョニィさんのスタンド能力……タスク」
ヴァルキリーがゆっくりと相槌を打った。嚙み切れない物を咀嚼するように、ゆっくりと。ウマ娘たちは皆一様に、真剣な表情でジャイロの話に耳を傾けていた。
「キタサンが持っていた優勝カップを破壊したのは、そのジョニィのタスクによる能力で間違いない。俺ははっきりとこの目で見た。奴の爪弾が撃ち出され、カップを貫くところをな」
「確かに、現場には銃声や爆弾の音が響いてくることはありませんでした。代わりになんというか、小さな穴が動き回ったかのような跡が地面に残されていたようです。ジャイロさんのおっしゃっていることは、筋が通っています」
平常心を取り戻したらしいサトノダイヤモンドが、現場の詳しい状況を教えてくれた。彼女からしたら、命を狙われたように見えるキタサンブラックの身を思うと気が気ではなかったことだろう。
「ジャイロさん、ジョニィさんの目的はいったいなんなのでしょう。ジョニィさんにそんな奇妙な能力があったとして、それを使って何をしようとしているのでしょうか。まさか、キタちゃんの命を……」
「いや、それはないだろう。ジョニィの狙いがキタサンの命だったというのなら、一発目を外した直後にすぐさま二発目を撃っているはずだからな。一発目でカップを破壊してそのまま立ち去っているということは、おそらくカップそのものが目的にかかわっているんだろう」
「菊花賞の優勝カップがですか? それってどういうことなのでしょう」
「そこまではわからん。探りを入れようとしたが、スローダンサーに後ろからぶん殴られて取り逃がした」
スローダンサーの名前を出した途端、にわかにざわめく一同。そういえばキタサンブラックたちには、スローダンサーにまつわる話題を伏せていたな、とジャイロは思い出した。
「スローダンサーさんが……そんな酷いことをする方だとは思っていませんでした」
「事実だ。どうあれ、ジョニィは何らかの目的のために優勝カップを破壊するという蛮行に走り、スローダンサーもそれに荷担している。奴らの目的がわからない以上、アンタたちも充分に気を付けるべきだ。次は本当に命を狙われるかもしれねえからな。俺は今回の件を理事長に報告するつもりだ。まともに取り合ってもらえるとは限らねえが」
「そんな……」
キタサンブラックがぼそりとつぶやいた。続けて、堰を切ったように彼女の口から怨嗟の言葉があふれ出してくる。
「そんなわけのわからないことのために、あたしの優勝カップは台無しになったんですか。ダイヤちゃんと、ヴァルキリーちゃんと必死に競って、思いっきり楽しく盛り上げて、やっとの思いで手にした菊花賞の栄光が、たった爪の一枚で踏みにじられたっていうんですか」
「そうだ。ジョニィもスローダンサーも、今や俺たちのライバルじゃあない。敵なんだ。三人とも、そのことをよく肝に銘じておけ」
ジャイロはあえて冷たくそう言い放ち、すっくと立ちあがってドアのほうへ身体を向けた。そうして三人に、この部屋から退出しろと合図した。
キタサンブラック、サトノダイヤモンド両名と別れ、帰り道へとつくジャイロとヴァルキリー。ふたりの間は沈黙で埋め尽くされ、ヴァルキリーがジャイロの手を引く力も心なしかいつもより弱々しかった。
まともな会話もなくただ静かに電車を乗り継ぎ、東京行きの新幹線に乗り込んだ辺りで、ようやくヴァルキリーが長い沈黙を破った。
「キタサン……落ち込んでましたね」
「そりゃあ、苦労して獲った菊花賞をあんな形で足蹴にされたらな」
「私たちのやってることって、なんなんでしょうね」
いつになく弱気に、ヴァルキリーがぽつりとこぼした。
「数えきれないウマ娘たちがたくさん努力して、たくさん苦労して、やっとの思いで栄冠を手にしたと思ったら、スタンドとかいうわけのわからない力で踏みにじられて」
歯をぎりぎりと噛みしめながら、絞り出すようにヴァルキリーが言う。菊花賞のカップは結局、カップ本体が脆かったのが原因ということで後日キタサンブラックに改めて贈られることになったらしい。しかし、これでめでたしめでたしとなるほど事は単純ではない。ウマ娘が手にするべき栄光を冒涜する悪意が、いまだ存在することに変わりはないのだ。
「トレーナー、ひとつ聞きたいんですけど」
「なんだ」
「ジョニィさんは元々、自分の目的のために他人を傷つけるような人でしたか?」
その問いにジャイロは逡巡し、
「実際、目的のために手段を選ばなくなるようなところはあった。だがそのために、罪のない他人を傷つけるようなことをする奴ではなかった」
と答えた。今度はヴァルキリーが少し考えて、とある言葉を発する。
「『悪しきもの』の意思……ってことですか」
「そうとしか考えられねえ。『悪しきもの』のどす黒い邪悪な意思と、ジョニィの元来の手段を選ばない性格がかみ合って、今の様子がおかしいジョニィが出来上がっちまったのかもしれねえな」
「『悪しきもの』って、いったいなんなんですか。どうしたらやっつけられるんですか」
悲痛なヴァルキリーの言葉に、ジャイロは返す言葉が見つからなかった。今は誰に何を言ったとしても、ひとつも慰めにならないだろうと思った。
ふたりの間を再び沈黙が支配する。彼らの思いなど知るよしもなく、新幹線は静かに滑るようにふたりを運んでいく。こうしてクラシック三冠最後の菊花賞は、不気味な悪意の存在と波乱の予感を匂わせながら、トゥインクル・シリーズ史に残る泥濘にまみれた栄光として幕を閉じたのだった。
翌日、ジャイロは早速行動に出た。
まずは何はなくとも、理事長への報告である。菊花賞での事件は既に彼女の耳にも入っているだろうが、その事件にジョニィたちがかかわっていることをいち早く伝えなければならない。秋川やよいが理事長権限をもって動いてくれれば、ジョニィの目的が何であれ、多少の牽制にはなるだろう。そう思っての行動だった。
今やすっかり慣れた手つきでスマホを操作し、火急の用件だと説明してやよいに面談のアポを取るジャイロ。その日の夕方、ジャイロは約束の時間に理事長室を訪れた。
「失礼する」
「開いているぞ。入ってくれ」
中からの返事を待ってから、ジャイロがいつになく緊張した足取りで理事長室へと入室する。さて、どこまで信じてもらえるだろうか。
「本題ッ! 早速だが、火急の用というのは?」
「ああ。アンタの耳にも入っているだろうが、昨日の菊花賞で優勝カップが破壊された事件。その犯人を俺は知っている」
「うむ。その事件のことなら既に報告を受けている。なんとも痛ましいことだ。ジョニィ殿が幸運にも──いや、この場合は不運というべきか──その場に居合わせたらしく、カップが破壊される瞬間を目撃したとのことだ」
「なんだと……?」
「彼の証言によると、周囲に怪しい人物は見当たらず、カップが内側から割れたように見えたとのことらしい。おそらく前もって、カップに何かしらの仕掛けが施されていたのだろう。怪我人が出なかったのが不幸中の幸いだ」
ジャイロはほぞを噛んだ。ジョニィは昨日の時点でやよいに連絡を飛ばし、本来の原因を隠蔽する偽計を案じていたのだ。
「待て! 俺の話も聞きやがれ」
「無論ッ! 情報は多いほどいいからな。君の意見も聞かせてほしい」
「じゃあ言うぜ。菊花賞カップ破壊事件、その真犯人こそ今名前が挙がったジョニィだ。ジョニィが観客席からあるものを撃ち出し、カップに命中させて破壊する光景を俺はこの目で確かに見た」
「なんと!? ジョニィ殿が……!?」
やよいが目を真ん丸に見開く。到底信じられないという顔だ。無理もないだろう。このまま畳みかけるように説明したい気持ちをぐっとこらえ、ジャイロはやよいの反応をじっと観察した。
「ううむ……しかし私の聞いた話では……ちなみにジャイロ殿、ジョニィ殿が撃ち出したあるものとは、いったいなんだというのだ」
「……少々突拍子もない話になるが、どうか笑わずに聞いてもらいたい」
慎重にそう前置きしてから、ジャイロは息を深く吸い込んだ。
「ジョニィはこの世界へ来る前、つまり元の世界で、とある奇妙な能力を手に入れていた。スタンド能力と呼ばれるものの一種でな。ジョニィが手にしたのは、自分の手の爪を回転させて銃弾のように撃ち出すというものだ。その能力を使って、奴は観客席から優勝カップを撃ち抜いた……これが俺の見た光景だ」
さすがに荒唐無稽と思われたか、やよいは終始ぽかんとしていた。しかし、ここで手を緩めては信憑性を疑われてしまう。今こそ強弁を張るべき時だとジャイロは悟った。
「信じられないという顔をしているが、すべて事実だ。そのあと俺は地下バ道でジョニィと会話したが、カップを破壊した目的まではわからずじまいだった。スローダンサーに背後から殴られ、邪魔を入れられたからな。理事長、今すぐジョニィになんらかの処分を下すべきだ。奴を泳がせておいたら、次は何をしでかすかわかったもんじゃあねえ」
「……なるほど、確かにこれは突拍子もない話だ。しかし嘘を言っているようにも思えない」
それまで押し黙っていたやよいが、沈黙を破った。だが、続く言葉はジャイロの期待を裏切るものだった。
「結論から言うと、ジョニィ殿に処分を下すことはできない」
「なぜだッ!」
「理由はふたつある。ひとつは単純に、ジョニィ殿とジャイロ殿、どちらが本当のことを言っているのか判断がつかないこと。既に世間ではジョニィ殿の言うように、カップに何かしらの不具合や仕掛けがあったことが原因だという論調が支配的であるし、なにより……ジャイロ殿自身わかっていることと思うが、ジャイロ殿の話は我々にとってあまりに現実味がなさすぎる」
「それは……ッ」
「そしてふたつ目。仮にジャイロ殿の言っていることが真実だとして、それをもとにジョニィ殿の身をどうこうすることは難しい。証拠がなさすぎるのだ。君の言うジョニィ殿のスタンド能力とやらも、我々の目に見えたことはこれまで一度もない。君がたった今話してくれたこと以外に、ジョニィ殿に嫌疑を向ける根拠はひとつも存在しないのだ。そんな状態でいちトレーナーにすぎないジョニィ殿の身をどうこうできるほど、私に権限があるわけでもない」
「次は死人が出るかもしれねえんだぞ! そんな呑気なこと抜かしてる場合かッ!」
ジャイロは思わず大声を出してから、しまった、と思った。やよいはすっくと立ちあがり、ジャイロに背を向けて窓の外を眺めながら、
「すまない。無力な理事長で」
消え入るような声でそう言った。それはすべてを終わらせる言葉だった。
「チッ、もういい。だがこれだけは覚えといてくれ。今のジョニィは普通じゃあない。スローダンサーもだ。『悪しきもの』の意思がだんだん強くなり始めている」
「『悪しきもの』?」
「三女神が例の夢で言ってたんだよ。ジョニィがこっちの世界に来る時に、奴の身体に悪いものが憑りついてきちまったんだと。これまでなりを潜めていたが、そいつはいよいよジョニィの身体を乗っ取って何かをしでかそうとしている。そうなった時に真っ先に狙われるのは、アンタのような立場の人間だと相場が決まっている。くれぐれも気を付けることだ」
「……わかった。肝に銘じよう」
やよいは振り向かずに言った。彼女の小さな背がいちだんと寂しく、頼りなく見えた。ジャイロは会釈ひとつせず理事長室の扉をぶっきらぼうに開け放ち、振り返らずに立ち去った。偶然近くを通りかかった職員やウマ娘たちが怪訝な顔でジャイロのほうを見ていたが、気になどしていられなかった。
その日以来、ジャイロの生活は暗澹たるものになった。
ジョニィが──正確には彼の中の「悪しきもの」がどこかで何かをしでかさないか、常に気を張っていなければならないし、それはそれとしてヴァルキリーのトレーニングも手を抜くわけにいかなかった。憔悴と激務の板挟みで今にもどうにかなってしまいそうだった。年末には暮れの大舞台、有マ記念が控えている。その舞台へ担当ウマ娘を導くトレーナーとして、恥をかかせるわけにはいかなかった。
ただひとつ、ヴァルキリーだけはジャイロの懊悩を理解してくれているという事実こそは救いであった。人との絆がウマ娘を強くするのだと以前から多くの者が語っていたが、ここにきてジャイロ自身がウマ娘との信頼関係に支えられることになろうとは。ヴァルキリーは「悪しきもの」の存在や、スタンド能力の話にも怪訝な顔ひとつせず耳を傾けてくれた。彼女にとっては信じがたい話であったろうに、とりわけスローダンサーが絡んでいるとあっては信じたくない話であったろうに、それでも彼女はジャイロを信じることを選んでくれたのだ。トレーニングの合間に時折ジャイロがくたびれた表情を見せると、すかさず寄ってきて身を案じてくれる。そのたびにジャイロは、俺なら大丈夫だ、そんなことより自分の心配をしろと虚勢を張るのだが、どうせごまかしきれてはいまい。ジャイロを心配そうに見つめるヴァルキリーの目は、日に日に憂いの色を深めていくばかりであった。
ジョニィとはあの菊花賞の日以来、一度も顔を合わせていない。それどころかトレーニング場で姿を見かけることもなく、スローダンサーともどもどこで何をしているのかとんと足取りが掴めない。ただヴァルキリーの話すところによると、スローダンサーは毎晩きちんと部屋に帰ってくるし、平日の授業にもしっかり出席しているとのことだから、少なくとも裏でこそこそ何かをしでかしている様子はなさそうだ。スローダンサーが部屋に帰ってくるたび、気まずくてどう話しかけたものか戸惑うと、ヴァルキリーは苦笑していたが。ジョニィはともかく、スローダンサーについては間違いなく「悪しきもの」の影響で心が変質してしまった被害者だ。できることなら、なんとか穏便にことを済ませたい。
そんなことを取り留めもなく考えながら、今日もジャイロはトレーニングに勤しんでいた。
「プールトレーニングの目的は持久力の補強だ。無理に速く泳ごうとするのではなく、芝を走る時と同じようにペース配分に気を配れ」
この日の種目はプールトレーニング。有マ記念は2500メートルという長距離であることに加えて、起伏の激しいコースが舞台となる。数字の上では菊花賞の3000メートルより短いが、並大抵のスタミナでは走り切ることさえ困難だ。その対策として、ジャイロはここ最近プールトレーニングを中心としたスタミナ補強のための練習プランを、ヴァルキリーに課していた。
「ふうーっ、往復50メートル四セット、終わりました。えへへ、今日はもう何セット泳いだか覚えてません」
「お疲れさん。もうあがっていいぜ。身体はちゃんと拭けよ。年末の中山で衆人監視の中で鼻水垂らしたくなけりゃあな」
「私はまだいけますよ。もうちょっと泳いでいっちゃ駄目ですか?」
「なんでも数だけこなしゃいいってもんじゃあない。いいから今日はもうあがれ」
トレーニングメニューはヴァルキリーの毎日の負荷の許容量まで加味して、緻密に組んである。いくら負荷の少ないプールトレーニングとはいえ、今ここで余計な体力を使わせては今後のプランに響いてしまう。ジャイロの指示に従って、しぶしぶプールからあがるヴァルキリー。
「それにしても、最近プール多いですね」
トレーニングからの帰りしなに、ヴァルキリーがそう話しかけてきた。いかにも次に続く言葉を持っているぞと言わんばかりの雰囲気だ。
「ああ。アンタも知っての通り、有マを走り切るにはスタミナはあればあるほど有利だからな。そのためのプールトレーニングだ。それがどうかしたか」
「いやあ、私はてっきり担当の水着姿を眺めたい気分なのかなあ、って思っただけで」
ヴァルキリーの軽口にジャイロは押し黙ってしまった。もちろん羞恥心が理由ではない。軽口の裏に忍ばされたヴァルキリーの優しさと気遣いが見えてしまったからだ。ジョニィの件で思い悩むあまり、彼女にまで気を遣わせている事実が情けなくなったからだった。ヴァルキリーも今のジョークはさすがにナンセンスだったと自省したのか、
「なあんて。私の水着なんて見飽きてるでしょうから、別に嬉しくなんてないですよね」
慌ててそう取り繕った。それがまたふたりの間に気まずい空気を流し込む要因になった。
屋内プールから外に出ると、びゅうと冷たい風がふたりを取り巻いた。秋風が霜の香りを乗せてきて、一年の終わりを予感させた。ジャイロはヴァルキリーにいま一度寒さに気を付けるよううながし、自身も外套を深めに羽織って風よけとした。
と、そんな時。不意にジャイロたちを呼び止める声があった。
「ジャイロ殿、ヴァルキリー、少しいいだろうか」
声のしたほうへ振り向くと、同じくトレーニング帰りと思しきエアグルーヴとドゥラメンテの姿があった。夏合宿でドゥラメンテが怪我をして以来とんと姿を見なかったから、こうして顔を合わせるのは実に三か月ぶりというところか。
「アンタら……ずいぶん懐かしい顔ぶれだな」
「ドゥラメンテ、怪我はもう大丈夫なの?」
矢継ぎ早に繰り出されるジャイロとヴァルキリーの言葉に、エアグルーヴたちは眉ひとつ動かさず応対した。
「医師からのお墨付きをもらった。怪我の治癒もリハビリも済んで、もう練習に戻っても大丈夫だとな。暮れの大舞台にはなんとか間に合いそうだ」
淡々と、しかしどこか嬉しそうにエアグルーヴが近況を教えてくれた。ドゥラメンテが帰ってきたとなれば、有マ記念はよりいっそう厳しい戦いになることだろう。ジャイロはそれがなぜだか嬉しかった。久しぶりに、ジョニィのこと以外で悩むことができたからだろうか。
「菊花賞の件、聞いた。大変だったらしいな。私がいない間に、まさかそんなことになっているなんて」
胸の前で拳を握り、やりきれない表情を浮かべるドゥラメンテ。たとえ出走していなくとも、レースはウマ娘たち皆の憧れであり誇りであるはずだ。その栄光を踏みにじられたとなれば、ドゥラメンテも気が気ではないだろう。
ふと、ジャイロは気が付いた。いい機会だ、このふたりにも真実を伝えておくべきだろう。たとえ現実味のない話と思われても、話してみる価値はある。そう思って、ジャイロは口を開こうとした。
「アンタたちにも話しておきたい。信じがたい話と思うかもしれないが、菊花賞の事件を引き起こしたのは──」
「知っている。ジョニィ殿なんだろう?」
「なッ──」
何気なく発したであろうドゥラメンテの言葉に、ジャイロは思わず鼻白んだ。
「キタサンを通して、ジャイロ殿の話は既に聞かせてもらった。『スタンド』とかいう能力のことも。そのスタンド能力を使って、ジョニィ殿が優勝カップを破壊したということも、ひと通り聞いている」
「……ああ。その通りだ。信じてくれんのか?」
この質問にはエアグルーヴが答えた。
「私たちはジャイロ殿が、そんな荒唐無稽な嘘をつく人間だとはどうしても思えない。確かに突拍子もない話だが、当のキタサン自身からその話を聞かされては疑う余地もない。それに実際、最近のジョニィ殿はどこか様子が変だった。なんというか、纏う雰囲気が尋常ではなかったというべきか」
「良かったですねトレーナー。信じてくれてるみたいで」
ヴァルキリーの言葉に、ジャイロは目頭が熱くなった。今度キタサンブラックに会ったら、何か美味いものでもおごってやらねばバチが当たるだろうと思った。
思わず上ずりそうになる声をなんとか抑え、ジャイロは再びエアグルーヴたちに話しかけた。
「そういうわけだ。奴の目的が何なのか判然としない以上、これから何が起こるかまったく予測がつかない。アンタたちも充分に注意してくれ」
「忠告、感謝する。生徒会の皆にも共有しておこう。ところでこの話、理事長には報告したのか」
「理事長には既に話したが、現状ではジョニィに処分を下すことはできないそうだ。証拠がないだとかなんとか言ってな」
「……だろうな。理事長の立場ではそう言わざるを得まい。致し方ないこととはいえ、この状況で何も打つ手がないとなると歯がゆいものだ」
「グル姉とは既に話し合ったんだが、今後はトレーニング中を含めて、ジョニィ殿に近付くことは極力控えようと思う。並大抵の人間相手ならウマ娘が敵わない道理はないが、ジョニィ殿の持つスタンドとかいう能力は、その『並大抵』の範疇にないんだろう?」
「ああ。奴の爪弾は黄金の回転の軌跡を描いて撃ち出される。俺が教えたんだ、元の世界でな。その気になればたとえ相手がウマ娘だろうと、殺傷することはわけないだろう」
「そうか……わかった。気を付ける。ジャイロ殿とヴァルキリーも、どうか気を付けて」
ドゥラメンテが深く頷き、それからもう一度軽く会釈をしてエアグルーヴとともに去っていった。後に残されたジャイロとヴァルキリーは、互いに顔を見合わせ少し笑い合った。
「もとより説明するつもりだったとはいえ、思わぬ味方を得ちまったな」
「キタサンのおかげですね。もう足向けて寝れないや」
足取り軽くトレーナー室へ向かうふたり。久しぶりに今夜は気分良く眠れそうだと、ジャイロはそんなことを思った。
ドゥラメンテたちの理解を得て少しは溜飲の下がったジャイロであったが、鬱屈とした日々は依然として続いた。
ジョニィの動きが不気味なほどに静かなのだ。トレーニング場でもとんと姿を見なくなったし、トレーナー寮を出入りしているところも見かけなくなった。奇妙なことだが、向こうも明らかにジャイロのことを避けている。これが何を意味するのかは、今のジャイロには到底見当もつかなかった。ただひとつ、何か良くない物事が進みつつあることだけは確かだった。それがはっきりとわかっていながら、何も打つ手がない現状にジャイロは歯噛みする毎日だった。
奇妙なことといえばもうひとつある。三女神が姿を現さないのだ。あれだけの事件が起きた後だ、きっと夢の中で七度目の訪問があるに違いないとジャイロは身構えていたが、待てど暮らせどその様子はなくついに十一月も半ばを迎えてしまった。菊花賞での事件は「運命が動く時」ではなかったというのだろうか。それとも今こうしている間にも、三女神たちはジョニィの目的を探るべく奔走しているのだろうか。いずれにしても、今のジャイロにとっては三女神の情報だけが頼みの綱だ。そのうちひょっこり夢の中に現れてくれるのを、辛抱強く待つしかない。
そんなことを思いながらトレーニングの日々を過ごしていると、ついに動きがあった。ジャイロがヴァルキリーの走り込みを見ている時のことだった。
「ジャイロ。今少し話せるかい」
背後から声がした。長らく聞いていなかった声が。その人懐っこい爽やかな声は、しかし得体の知れない邪悪に染め上げられているとジャイロは知っていた。
「ジョニィ……ずいぶん久しぶりじゃあねえか。あんまり見かけねえもんだから、てっきり死んだかと思ったぜ」
ジャイロは振り返らずに言った。振り返る必要などなかった。声の近さからいって、ジョニィの位置はおおよそ真後ろ5メートル。少しでも妙な動きをすれば、すぐさま対応できる自信があった。
「生きてるよ。僕はまだ死ねない。目的を果たすまでは」
「その目的ってのはなんだ。誰が果たしたがってるんだ。ジョニィか、それともほかの誰かか」
「質問の意味がわからないな。僕は僕だよ。ジャイロ、いったいどうしたっていうんだい」
「どうかしてるのはお前のほうだ。今のお前が普通じゃあないことくらい、こっちは調べがついてんだよ。そのきたねえ指を一本でもうちの担当に向けてみろ、その指と身体とを永遠にお別れさせてやるぜ」
「怖いこと言わないでくれ、僕だってそんな無闇に事を荒立てたりしないよ」
ジャイロは言葉を返さなかった。ジョニィが少しでも手を動かす気配を見せたら、本当に彼の指を鉄球でへし折るつもりだった。事を荒立てたくないというジョニィの言葉は真実なのか、確かに今のところ彼に殺気は感じない。あくまで気を緩めることなく、ジャイロは次の言葉を模索する。
「目的が話せねえってんなら、せめて次の目標くらい教えてくれてもいいよな? 理事長がお前をトレーナーでいさせると言った以上、お前はまだトレーナーとしてスローダンサーを育てる責任があるはずだもんなァ」
「目標、か。当面はシニア期の春の天皇賞に向けて、じっくり調整していくことかな」
「意外だな。有マ記念は回避するのか。今年のスローダンサーの成績なら、出走要件は満たしていそうなもんだが」
「有マ記念は、僕の目的と関係がないって調べがついているからね」
「なんだと?」
ジョニィがこぼした言葉をジャイロは聞き逃さなかった。やはりジョニィの目的は、重賞レースそのものと関係があるようだ。
「有マじゃあなく、春天が目的だってわけか。そりゃあいったいどういうことだ」
「……少し話しすぎたね。とにかく、スローダンサーの次走は春天になる予定だから。そういうわけだからさ」
ざっ、と土を踏む音。ジョニィが踵を返した音だとわかった。
「だからジャイロ、僕たちを止めてくれ。君にしか頼めないことなんだ」
ぼそりとつぶやいて、そのままジョニィは去っていってしまった。彼が最後に放った言葉の真意を、ジャイロは図りかねていた。阪神大賞典すら挟まずにいきなり次走を天皇賞(春)に定めることも気になるが、何よりも──
(何だ……? ジョニィの奴、何を言っている? あれだけのことをしておきながら、言うに事欠いて、自分を止めてくれだと? 菊花賞の事件は本意じゃあないとでも言いたいのか)
考えあぐねた挙句、ジャイロは結局考えるのをやめた。ジョニィが何を言おうと、今の彼が自分の敵であることに変わりはない。ウマ娘たちの栄光を脅かす敵に違いない。それだけが今はっきりしている真実だ。
心の中の小さな違和感にそっと蓋をして、ジャイロはトラックに視線を投げかけた。スタンド使いとしての会話は終わりだ。ヴァルキリーのトレーナーとしての顔に戻ると、ジャイロはヴァルキリーが走り込みから戻ってくるのを待った。
予断を許さない日々は依然として続いたが、ジャイロの胸中にはひとつだけ変化があった。これまで以上に、ヴァルキリーのトレーニングやトレーナー業務に集中できるようになったのである。
理由はジョニィの言葉にあった。彼は「有マ記念は自分の目的と無関係」だとはっきり口にした。それはつまり、少なくとも有マ記念が終わるまでは大きな動きを見せてはこないということを意味していた。あくまで彼の言葉を信じるなら、の話だが。
そうとわかった以上、今は過剰にジョニィを警戒する必要はない。有マ記念に向けてヴァルキリーの調整に励むという、本来の仕事に専念できるということだ。ジャイロは長旅で背負ってきた大荷物をようやく降ろせたような、そんな気分だった。
この話は、ヴァルキリーを通して仲間たちにも伝えてある。特にキタサンブラックは菊花賞事件の当事者であるから、ここ数週間の心労は計り知れない。ジョニィの目的の手がかりが掴めたことで、少しは安心して暮らせるようになればいいのだが。
あと気になることといえば──
「ヴァルキリー、最近スローダンサーの奴の様子はどうだ」
ある日のトレーニング帰り、ジャイロはヴァルキリーにたずねてみた。スローダンサーも今や完全に「悪しきもの」の手先だが、ヴァルキリーに危険が及んではいないだろうか。
ジャイロの問いにヴァルキリーは少しおどけて肩をすくめ、
「どうと言われても、別に普通ですよ。そう、奇妙なほどに普通。菊花賞事件が起きる前の、いつものスロさんと変わりありません」
そう返答した。考えてみれば、聞くまでもないことだった。同室のスローダンサーが少しでも妙な動きを見せれば、すぐさまヴァルキリーから報告が飛んでくるはずだからだ。
また中身のない会話をしてしまったな、とジャイロは内心ほぞを噛んだ。菊花賞事件以来ずっとこんな調子だ。警戒を解いてもいいとわかっていても、思考がどうしてもジョニィたちに引っ張られてしまう。ただ幸いなことに、この世界のこの国には、今のような鬱屈した気分を払拭する方法はいくらでも用意されていた。
「ところでヴァルキリー。アンタ次のオフは空いているか」
「えっ、まあ空いてますけど。まさか、どこか遊びに連れてってくれるとか?」
ヴァルキリーが期待に満ちた目でこちらを見つめてくる。ジャイロはわざとらしい笑みでそれに応えた。
「そのまさかだ。最近、お互い色々あって疲れているだろう。たまにはパーッと息抜きといこうじゃあないの」
「やったあ! どこに遊びに行きますか、沖縄旅行にでも行きますか!」
「アホか、どこにそんな時間があるんだっての」
ジャイロが声を上げて笑った。こんな笑い方をしたのはいつ以来だろうか。
「えーっ、じゃあトレーナーはどこに行きたいんですか」
「俺か? そうだな……前に拳銃で敵を倒すゲームやったろ。アレをもう一度やりに行きてえな」
「ゲーセンですか。いいですね、私は構いませんよ」
「決まりだな。じゃあ次のオフはトレセン正門集合っつーことで」
「わかりました。楽しみだなあ、久しぶりのデート」
「言うと思ったよ……まあ、そういうことにしておいてやる」
恍惚とした表情を浮かべるヴァルキリーを、呆れ混じりの微笑みで見つめるジャイロ。こんなに平和な会話を交わすのも、本当に久しぶりだ。
そしてオフの日当日。いよいよ冬の到来を告げる乾いた寒風に耐えながらジャイロが待ち合わせ場所の正門前におもむくと、既にヴァルキリーの姿があった。ダークカラーを基調としたコートにスカートの出で立ちで、待ち合わせ相手が来るのを今か今かと待っている。ジャイロが声をかけてやると、彼女はぱっと顔を明るくしてこちらを歓迎した。彼女なりに冬服を選んできたようだが、それでも少し寒そうにしている。ジャイロが羽織っていた外套を脱いでヴァルキリーの肩にかけてやると、彼女はそれを大事そうに握りしめながら、少しくぐもった声で、
「……ずるいなあ」
とつぶやいた。
二言三言挨拶を交わし、ふたりはゲームセンターへの道のりを歩き出す。待ち合わせ場所から徒歩で行ける場所であるし、さすがのジャイロもここいら一帯の地理は頭に入っているから先導は必要ないと主張したが、なぜかヴァルキリーはいつものように自分が手を引くと言って聞かなかった。歩くのが遅くなるだろうと文句を言いつつ、変にごねても埒が明かないので結局ヴァルキリーに手を引いてもらうジャイロ。
そのまましばらく歩くと、ほどなくして派手な電飾に彩られた建物が視界に飛び込んできた。この建物には見覚えがある。以前訪れたゲームセンターとかいうやつだ。ヴァルキリーにうながされ、電飾と騒音の中へといざなわれるジャイロ。そのまま真っすぐ、一目散にお目当てのガンシューティング筐体の前へと連れていかれる。
「はい、着きました。今日はもう何プレイでも付き合っちゃいますよ」
「遊ぶ前から妙にご機嫌だな。まあいい、遊びたいと言ったのは俺だ。始めようぜ」
筐体に小銭を投入し、拳銃型コントローラーを画面に向けてプレイ開始。一度経験しているからか、それともこの世界自体に適応してきたのか、ジャイロはこの手の代物の扱いにはもはや慣れたものだった。
画面の向こうから次々と襲い来る敵。それらを冷静に、的確に撃ち抜いていくふたり。
「ハッ、この前戦った時より全然強くなってねえな」
「無茶言わないでくださいよ。ゲームなんですから」
無駄口を叩きながら、それでも寸分違わぬコンビネーションで敵を次々となぎ倒していくふたり。
ふと、ジャイロがこんなことを言い出した。
「しかしなんだ、こうして銃を持った敵とドンパチやってると、SBRレースをジョニィと一緒に走った時のことを思い出す」
ヴァルキリーが不意に神妙な面持ちになる。顔を見ずともわかった。
「そういえば、ちゃんと聞いたことありませんでしたね。そのSBRレースとかいうやつの時のジョニィさんって、どんな人だったんですか」
画面にコントローラーを向ける手は止めることなく、ヴァルキリーがたずねてきた。ジャイロは今や遠い記憶のかなたにしまわれつつあるSBRレースの光景をなんとか思い起こし、己の記憶の中に結像させた。
「初めは妙な奴だと思ったよ。元々怪我が原因で脚が動かなかったらしくてな。俺の鉄球の回転技術で偶然脚が動いたことで、興味を持たれてつきまとわれるようになった」
「SBRレースを通して、おふたりは出会ったわけですね。それにしても、元々脚が動かせなかったなんて、今のジョニィさんからは考えられないですが……」
「そのまま成り行きで一緒にレースを走ることになってな。奴ははなからレースの順位に興味はないようだった。それよりも、俺の持つ回転の技術を借りてなんとか自分の脚を動かしたいと躍起になっていた。レースの邪魔をしないならという条件で、俺も同行を許していた。利害の一致ってやつだな。前に話したと思うが、ジョニィ自身はそう悪い奴じゃあない。それなりに誠実な奴だった」
思い出話に花を咲かせている間にも、画面の向こうで敵はばたばたと倒れていく。ジャイロはその姿ひとつひとつに、SBRレースで出会った敵の姿を重ねていた。
「そんなジョニィさんでも、目的のためなら手段を選ばないようなことはあったんですよね。何か、そうなったきっかけみたいなのはあるんですか?」
「きっかけか……そうだな、SBRレースに『聖なる遺体』が絡んでいると知ってからは、ジョニィのそうした一面を目にする機会が増えたように思う」
「遺体……ですか?」
「ああ。とある高貴なお方の遺体でな。長い間朽ちることなく、身体の各部位が北アメリカ大陸の各所に散在していた。部位ひとつだけでもジョニィの足を動かしたりと奇跡じみた力を持っていたが、すべての部位を集めて『聖なる遺体』を完成させた者には、向こう千年の栄光と繁栄が約束されるんだと」
ヴァルキリーが画面の向こうの敵を撃つ手が、わずかに鈍った。嫌なことを忘れて遊びに興じるはずが、結局ジョニィの話をしてしまっているなとジャイロはこの時気付いた。
「色々あって、結局『聖なる遺体』はとんでもねえ悪党の手に渡っちまった。俺とジョニィはふたりがかりでそいつを懲らしめてやったんだが──もっとも俺は途中でくたばっちまったから、本当に勝ったのかどうかはジョニィの言葉を信じるしかねえが──思えばその時の、自らの手を汚してでも目的を達するというジョニィの姿勢は、今のジョニィと通じるところがあるかもしれねえな」
「自らの手を汚してでも……ですか」
ヴァルキリーがふと自分の手を眺めた。菊花賞事件のことを考えているのは明白だった。
「ありがとうございます、よくわかりました。今のジョニィさんは『悪しきもの』の目的で動いているにしても、目的のために手段を選ばないようなところは、元々ジョニィさんが持ち合わせていた部分なんですね。だとすると、菊花賞の事件も……」
「ああ。明確な目的意識あってのことだろう。有マ記念を回避すると言ったのも、奴の人柄と目的意識からしておそらく信じていい。つまり、俺たちが今日ここで呑気に遊び呆けていても大丈夫ってわけだ」
「あっ……」
はっとするヴァルキリー。彼女もようやく気付いたようだ、せっかくのオフの話題がジョニィ一色になっていることに。
「すみません、もっと楽しい話題を振れば良かったですね」
「気にしなさんな、そのうち話そうと思っていたことだ。それより、ほれ。敵の親玉だ。ちゃちゃっと懲らしめて終わらせるぞ」
帽子のつばを持ち上げ、ジャイロが画面を指差す。映し出されているのはいかにも凶悪そうな敵のボス。せめてゲームの世界には平和をもたらさんと、ジャイロとヴァルキリーは武器を握り直した。
それからふたりは、ゲームセンターを出るまでジョニィの話題を出すことはなかった。ただひたすらに娯楽に興じ、のべつまくなしに他愛のない会話を交わし、笑い合った。まるでこの先に控えている波乱の予感から目をそらすように、ふたりはただただ笑い合いながら一日を終えた。
ジョニィ関連の心配事が一旦は遠ざかり、心身ともにリフレッシュする機会も得たことで、ジャイロは少しずつ本調子を取り戻しつつあった。
外はすっかり冬めいて、乾いた風が時折霜の香りを運んでくる。世間は早くもクリスマスムードを醸し出し、一年の終わりを否が応にも実感させた。
有マ記念まで残された時間はもうわずかだ。一時たりとも無駄にすることなく、ヴァルキリーの脚を万全に仕上げなくてはならない。ジャイロの指導にもいっそう熱が入っていた。
「ペースが乱れているぞ! 下り坂で無理に勢いをつけるな、脚が潰れるぞ!」
「はいっ!」
師走の寒空にジャイロの激が響く。起伏の激しい中山2500メートルコースでは、坂を攻略するためのパワーが必要不可欠だ。特にゴール前の急坂を乗り越えられるか否かは、そのままレースをものにできるかにかかわってくると言っても過言ではない。ゆえに、坂路トレーニングはどれだけやってもやりすぎるということはない。ヴァルキリーもそれをわかっているらしく、これまでよりまたいちだんと熱の入りようが違っていた。
「トレーナー、坂路十セット終わりました」
「よし、十分のインターバルを入れろ。そのあとはダートで走り込み五本、ウッドチップでもう五本だ」
「わかりました」
ジャイロの手から水筒をひったくって、貪るようにドリンクを喉に流し込むヴァルキリー。彼女も必死なのだ。年末の中山で繰り広げられる夢の大舞台、そこに立てるというだけでも名誉なことなのだ。さらに、上の世代の名ウマ娘たちも参戦してくるとなれば気は抜けない。それはキタサンブラックたち同世代のライバルも、わかっていることだろう。おそらく今までにないほど完璧に仕上げてくるに違いない。
「ヴァルキリー、アンタはどうだ?」
インターバルの最中に、ジャイロはふとヴァルキリーにそんな質問を飛ばしてみた。
「なんですか、藪から棒に」
「悪い、脈絡がなかったな。年末の有マ記念、アンタのライバルたちは完璧な状態でアンタを待ち受けるだろう。勝てそうか」
ヴァルキリーはしばし目をぱちくりさせたあと、その目できっとジャイロの目を見据えて言った。
「勝ちます。今までだって、負けるつもりで走ったことなんてありませんでした。今回も同じです」
「よく言った。俺の杞憂だったな」
「杞憂? 何か心配事でもあったんですか」
「いやなに、アンタが大舞台を前に震え上がってるんじゃあねえかと心配になったのさ」
「ええー、酷いですねえ。こう見えても私、何度も修羅場を潜り抜けてきてるんですよ。そりゃ多少は緊張しますけど、今更いちいち気後れしてらんないですよ」
「そうか、悪い悪い」
からかい混じりの含み笑いで、その場を収めるジャイロ。とにかく、ヴァルキリーの精神状態も安定している。有マ記念に向けて、すべての準備が順調に進んでいた。
そして時は流れ、いよいよ有マ記念を目前に控えたある日のこと。
「トレーナー、今夜少しお時間よろしいですか」
トレーニングの終わり際に、ヴァルキリーがこんなことを言い出した。わけを聞いてみると、何やら渡したいものがあるのだそうだ。なぜ今日の夜でなければならないのかと問いただしたい気持ちをぐっとこらえ、ジャイロはただ首を縦に振った。
ヴァルキリーの考えていることに、ジャイロはなんとなく心当たりがあった。彼は一年前のことを思い出す。この国のこの時期に行われているお祭りごとを。今日の日付は、十二月二十四日だ。
(この国の風習のことはわからねえが……せっかくだ、ネアポリス流のもてなしで返してやるとするか)
そうと決まればジャイロの行動は早かった。トレーニングが終わるなり、街へ繰り出してそれらしき店を巡った。五、六軒ほど回ったところでようやく目当ての代物を見つけると、迷わずそれを買い上げ、意気揚々とトレーナー室へと戻った。そして、素知らぬ顔でヴァルキリーがたずねてくるのを待った。とっておきの「プレゼント」を手に携えて。
しばらくして、トレーナー室のドアが二回ノックされる音がした。
「開いてるぜ。入りな」
ジャイロの声に応えて、ドアの向こうからおずおずとヴァルキリーが顔を覗かせると、そそくさと席に着いて手土産を机に置いた。
「トレーナー、今日が何の日か知ってます?」
「知ってるよ。アンタらがクリスマスにかこつけてお祭り騒ぎする日だろう」
ジャイロはあえて憎まれ口を叩いた。クリスマスに興味などないというそぶりを見せるためだった。
「知ってたんですね。それなら話は早いです。こんなものしか用意できませんでしたけど……」
言ってヴァルキリーは手土産の包みを剥がす。中から現れたのは、ドライフルーツが散りばめられてふっくらと焼きあがった、美味しそうな焼き菓子だった。
「メリークリスマスです、トレーナー。トレーナーの故郷はイタリアの文化に近いって聞きましたから、イタリアのクリスマスのお菓子を贈るのはどうかって考えて、それで」
はにかみながら話すヴァルキリーと、目の前の美味しそうなパネトーネを交互に見比べて、ジャイロは少し困った顔をした。正直に言って、なかなか粋なことをするじゃあないかと思った。
「……ヴァルキリー、気持ちはすげえありがたい。本当だ。しかしアンタはふたつほど間違いを犯している」
「ええっ!?」
突然の宣告にヴァルキリーの顔が失意に染まる。
「まずひとつ目、正確にはパネトーネは今日じゃあなく、二十五日に食うもんだ。二十四日は質素な魚料理で過ごし、二十五日に肉料理をはじめとした豪勢な食事が振舞われる。これがネアポリスでのクリスマスだ」
「そ……そうだったんですか。すみません、勉強不足で」
「そしてふたつ目」
ジャイロは隠し持っていた自分の手土産を机に持っていき、包みを開封してみせた。中から姿を現したのは、ヴァルキリーの持ってきたものとよく似た、美味しそうに焼けたパネトーネ。
「俺と同じものを買ってきちまった、ってことだ」
ヴァルキリーはジャイロと顔を見合わせ、しばしきょとんとしたまま動かなかったが、やがて堰を切ったように笑い出した。ジャイロもつられて笑った。
「あははっ。なんですかそれ、私たち考えること一緒だったってことですか」
「認めたくねえが、そのようだな。とんだ偶然もあったもんだ」
ひとしきり笑い合ったあと、ふたりの視線は自然とふたつのパネトーネに注がれる。
「ま、食べながら話しましょうか」
「おう」
ジャイロは慣れた手つきでふたつのパネトーネを切り分けてやった。飲み物も用意してある。さすがにワインを持ち込むわけにはいかないから、さっき一緒に買ってきたぶどうジュースをふたつのグラスに均等に注いでやった。
「ひとついいことを教えてやろう。俺の故郷ネアポリスでは、クリスマスは家族で過ごすものだと相場が決まっている」
「えっ……それってつまり」
「仮にも『家族』を標榜している俺たちにとっては、ふさわしいクリスマスになったんじゃあないか」
「そうですよねえ……えへへ」
だらけきった顔をするヴァルキリー。とてもこれから有マ記念に挑むウマ娘の姿には見えない。
「今日くらい気を抜いても大目に見てやるが、有マ記念の日までにはその垂れ下がった口元を引き締めておけよ」
「えっ、私今そんな顔してました?」
「ああ、とても他人には見せられない顔をしていたぜ」
「うわーっ、もうお嫁に行けない! トレーナー、責任取ってくださいね!」
「そういえばそんな約束もしてたな。まあ気にするな、今はとにかく食って飲め」
そんな軽口を交わしつつ、ジュースとパネトーネを交互に口に運びながら笑い合うふたり。トレーナー室がにわかに賑々しくなる一方、夜はしんしんと更けていく。この喧噪はウマ娘寮の門限が迫るぎりぎりまで、ほんの一刻を惜しむように続いた。
その日は朝から、鈍色の空が広がっていた。大雪になるかと思われたが、今日という日を待ち望む多くの人に気を利かせるかのように、時折ちらほらと白い粉雪を舞わせるだけにとどまった。有マ記念当日である。
この日もまたいつものように、ヴァルキリーに手を引かれてジャイロは中山レース場を目指していた。ジャイロ自身もはやこの光景に何の疑問も抱かなくなっていたし、周囲からの好奇の目もはなから気にするたちではなかった。
ただ、この日だけはいつもと少し違っていた。
「人目もはばからず、相変わらず仲がいいことだ」
電車の中で不意に声をかけられて、ジャイロはとっさに声の主を探す。ジャイロたちの背後に、特徴的な流星の入った鹿毛のウマ娘が吊り革に体重を預けて立っていた。
「ドゥラメンテじゃあねえか。奇遇だな」
「ああ、奇遇だ」
電車の揺れに任せて身体をゆらゆらさせながら、ドゥラメンテが応対した。有マ記念の当日だというのに、妙にリラックスしている。これは手強いな、とジャイロは密かに思った。
「そういえば、今日はエアグルーヴさんは一緒じゃないの?」
ヴァルキリーの質問にドゥラメンテはかすかに表情を曇らせ、噛みしめるように言った。
「グル姉は……今日は別行動だ。中山レース場で落ち合うことになっている」
「へえ? あれだけアンタにべったりだったエアグルーヴが、滅多なこともあるもんだなァ」
「今にわかる。君たちもせいぜい、足元をすくわれないようにな」
「えっ……?」
ふたりがドゥラメンテの言葉の意味を図りかねていると、たちまち電車は目的の駅で止まった。気を抜いていたふたりの身体が、ぐわん、と停車の勢いで揺れる。
「じゃあ、ターフで会おう」
それだけ言って、ドゥラメンテはさっさと電車を降りていってしまった。慌てて後を追うふたりだったが、既にドゥラメンテの姿は人混みにまぎれて見えなくなっていた。
そのままふたりは中山レース場への道のりを進み、ようやくレース場のエントランスへとたどり着く。いつもならここで溌溂とした彼女の声が出迎えてくれるのだが、今日に限ってはその様子はない。自分たちが先に到着してしまったのだろうかと思った矢先、柱の影によく見知った人影がふたつ隠れているのを見つけた。どうやらこちらに気付いていないようだ。
「キタサン、ダイヤ、相変わらず早いな」
「えっ、いやあのその、おはようございます」
「おはようございます、ジャイロさん、ヴァルキリーさん」
いつものように、しとやかに挨拶を返すサトノダイヤモンド。対照的に、キタサンブラックはいつになくしどろもどろだ。彼女らしくもない。何かあったのかとジャイロが聞き出そうとすると、それより早くサトノダイヤモンドが口を開いた。
「キタちゃん、今朝からずっとこんな調子なのです。何を聞いても上の空という感じで」
「あはは、ごめんね。あたしらしくないよね。たぶん、大舞台を前に緊張してるんだと思う。すぐに本調子に戻るだろうから、気にしないで」
苦しい言い訳を繰り広げるキタサンブラックだったが、ジャイロの目にははっきりと見えていた。彼女が真に恐れているものが。
「菊花賞がそんなに怖かったか、キタサン」
「……えっ」
キタサンブラックが不思議そうに、ジャイロの目を見つめる。ジャイロは彼女と視線を合わせたまま、やんわりと諭すように語った。
「正直に言って、同情するぜ。あんな目に遭ったら、誰だってレースに出るのが怖くなって当然だ。今のアンタのようにな。違うか」
「それは……」
キタサンブラックはうつむき、黙りこくってしまった。ジャイロは姿勢を低くして、彼女の顔を覗き込むようにして続ける。
「だが、恐怖を我が物とする者は強い。キタサン、これはアンタにとって大きなチャンスでもある。成長という名のチャンスだ。ジョニィの企みなんざ、考えるに値しねえ。誰が何をしようと、アンタはただ、アンタ自身の走りをすればいい」
キタサンブラックはしばし黙りこくっていた。誰も、ひと言も発さなかった。しばらくの後、ようやくキタサンブラックが顔を上げると、
「ありがとうございます、ジャイロさん。あたし、少し怖くなくなりました。確かにここで足踏みしてたら、お祭りウマ娘の名折れですよね!」
力強く握り拳を作って、そう言った。
「お祭りウマ娘? なんだそりゃ」
「ジャイロさん、ご存知ないのですか? キタちゃんはレース観戦に来た皆さんを、お祭りみたいに盛り上げるようなレースをするのが目標なのだそうですよ」
「へえ、いい目標ね。キタサンらしいっていうか」
「そう? えへへ、観客のみんなに楽しんでもらうためにも、あたしがしょぼくれてちゃ駄目だよね!」
場の雰囲気が柔らかくなり、ようやく明るさを取り戻してきたと思われた、まさにその時だった。
「ほう、敵に塩を送るとは。ヴァルキリー陣営はよほど余裕に満ちていると見える」
突如、声が響いた。低く凛とした、どこか高潔さを感じさせる声だった。一同の視線は、その声の主に釘付けになる。
「……エアグルーヴ」
視線の先の人物を、ジャイロはなんとはなしに呼んだ。エアグルーヴはジャイロのほうを一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。ドゥラメンテはともなっていない。別行動をしているという話は本当だったようだ。
「何を呆けている。私がここにいるのがそんなに不思議か」
「そうじゃないわ。あなたがここにひとりでいるのが不思議なのよ、エアグルーヴさん」
ヴァルキリーがエアグルーヴと問答を繰り広げていると、急にキタサンブラックが天啓を得たりといった様子で割って入ってきた。
「あの! ひょっとしてエアグルーヴさんも、今日の有マ記念に出るんですか!?」
目をきらきらと輝かせるキタサンブラック。エアグルーヴは彼女に嘘はつけないと悟ったか、それとも元々正直に話すつもりだったのか、ひと呼吸置いてからこう答えた。
「もちろんだ。私とて競技者としては現役。有マ記念に参加する資格ならある」
「光栄です。『女帝』の走りを間近で見られるなんて」
うやうやしく一礼するサトノダイヤモンド。どうやら競技者としてのエアグルーヴの顔を知っているようだが。
「寡聞にして存じねえんだがよォ、その『女帝』様ってのはどれくらいすげえんだ」
「トレーナー、知らないんですか? ティアラ路線の最も大きなレースであるオークスを制し、その後も上の世代の強豪ウマ娘たちと互角以上に渡り合った『女帝』エアグルーヴを知らないなんて、他人にバレたら恥をかきますよ」
「へえ。アンタ、そんなにすげえ奴だったのかよ」
ジャイロが挑発的な視線をエアグルーヴに投げかける。対照的に、やれやれと肩をすくめるエアグルーヴ。
「昔の話だ。それでも走りのほうは、衰えさせたつもりはないがな。私自身、愛弟子ドゥラメンテとようやく全力で競い合える機会が巡ってきて、いささか心が昂っている」
「なるほど。アンタにとっちゃ、そういう機会でもあるわけだ」
「ああ。そんなわけだから、私はそろそろ失礼する。可愛い後輩たちをターフでどう出迎えてやろうか、考えねばならないからな」
静かにそう言い放つと、エアグルーヴは一団を突っ切って控室方面へさっさと歩いて行ってしまった。その後ろ姿を見て、誰からともなくひとり、またひとりと続けて歩き出す。ジャイロとヴァルキリーも、気付けば自然と控室のほうへ足が伸びていた。
「なんだか、すごいことになりましたね」
控室までの道中、ヴァルキリーがぽつりとこぼした。
「上の世代の強い連中が出てくるとは聞いていたが、まさかエアグルーヴとはな」
「この対決……スロさんにも参加してほしかったな」
消え入りそうな声でヴァルキリーが言う。もはや叶いようがなくなった願いを。
「いない奴のことを考えても仕方ねえ。目の前のレースに集中するぞ」
「……はい」
煮え切らない気分が湧き起こってくるのをなんとか鎮め、ジャイロは冷静にそうたしなめた。まるで自分に言い聞かせるように。
有マ記念出走まで、もうわずかだ。