13歳のその日まで、少年は大帝国の片田舎で平和に生きていた。
剣も魔法も影ひとつない、貧しい農村での暮らし。
物心ついた時から親の手伝いで畑に向き合う毎日だったが、最愛の妹の笑顔の為ならどんな苦労も苦にならなかった。
華々しい英雄譚、物語のヒーローに憧れて木の枝を振り回したことさえない。
妹の美しい青い瞳こそ世界で一番価値のある宝石。その笑顔はどんな秘宝にも勝る輝き。
傍に宝があるのだから、冒険になど焦がれはしない。鍬と鎌を手に病弱な妹の生活を守る、それで少年は充分だった。
妹もそんな兄を素直に慕い、農村の貧しい兄妹は、しかし自分たちは世界で一番幸せだといつも笑い合っていた。
ある日、近くで内乱が起きたとかで村に徴兵の御触れが出た。
刈り入れ時に一家の柱たる父の力を失うわけにはいかない。暮らしを楽にする給金も出る。内乱の火が村に降りかからないとも限らない。
そんな理由から、妹を守るという使命感に燃え。13になったばかりの少年は妹の反対も押し切り、齢を誤魔化して徴兵を受けた。
募集された年齢の下限を下回っていたが、年齢の割に背が高かったのでバレはしなかった。内乱も不死の英雄によってすぐに収まって、覚悟していた危険など何一つ味わうことなく、少年は給金を手に帰路に着いた。
英雄の戦い、後の伝説の一端に触れても、少年は何も感じなかった。彼に戦場への憧れなど無く、彼はこの給金で何を買えば妹は喜んでくれるだろうとか、そういうことばかりを考えていた。
一度戦場に出てなお、少年の平和は終わらなかった。
このままずっと、妹と共に平和の中で生きていくのだと思っていた。
そうして少年は、ひと月ほど空けていた家に帰還して。
すぐに気が付く。
家のどこにも、妹の姿が無い事に。
代わりに、貧乏農家の家にあるはずがない、袋にたっぷりと入った金貨の存在に。
少年が何があったかを問えば、両親は僅かな抵抗の後に答えた。
――妹は、さる不死の御方に売った。
それが、ベレネトの平和が終わった瞬間だった。
怒りのままに両親を殺し、包丁を片手にあてもなく家を出た。
野草や虫で食い繋ぎ、泥水を啜り。妹と妹を買ったという不死を、連日あてもなく探し続けた。
平和な暮らしの中では気付かなかったが、戦いの才能があったのだろう。
必死に妹の影を追っていたら、いつの間にやら不死を殺しその財を奪って生きるようになっていた。
だが追われる身となったが故か、半年経っても妹は見つからず。焦燥の中、少年は不死の情報全てに食いついては、殺した後に「こいつも違った」と呟くような生活を続けた。
噂を聞きつけて『不死狩り』に勧誘されたことは、彼にとって幸運だったのか。
ともかく彼は、一夜で大金を稼ぐようになり。その半分は妹を捜索する資金に使い、もう半分を妹が帰って来た時の為に貯金した。妹に、目一杯の贅沢をさせてやりたい……それが彼の生きる理由になった。仕事用の装備品を買う以外、私欲の為には銅貨一枚すら使わなかった。
そうしてより多くの金を求めた彼は、遂にレザミスの隠れ里を仲間と共に滅ぼし。その悪行によって、『理不の凶刃ベレネト』という罪名をかの『無限碑』に刻まれた。
自分が正義では無い事を、まして復讐者などでも無い事を、ベレネトは薄々悟っていた。
妹を買ったという不死は決して赦せないが、全ての不死が人間種の敵であると、そう本気で信じていたわけでもない。そもそも自分を追って来た者は、不死だろうがそうでなかろうが全て殺した。
金で人を雇い情報を得れば、最後には必ず同じ地点で妹の足取りが途切れていることも。
不死にだって愛する家族や恋人が居ることも。
全て見てみぬふりをして来た。
きっと心のどこかでは、妹の生存の可能性など、とっくに諦めていたというのに。
ただ、それでも――妹のことが忘れられなかった。
だって、別れも言えなかったから。
彼女に再び会う為なら、どこまででも愚かになれた。
現実的な計算とか、眼前にある事実だとか、そういうもの全てを忘れられるほどに。
見知らぬ
あるいは、底抜けの愚者として狂乱に生きることこそが彼の正解だったのか。
彼は『賢者の石』のことを聞いたとき、半端な知性で思ってしまったのだ。
死者の蘇生という奇跡があれば……もし妹が死んでいても、再び彼女を取り戻すことができるのでは、と。
そうして彼は、『賢者の石』を求めて不死学園にやってきて。
「主の御名において告げる――汝、罪ありき」
忘れていた己が罪への罰を、天使によって下された。
時が止まったみたいだった。
速死の魔剣も死避けの外套も、何の役にも立たなかった。
『天の槍』が降った。
貫かれた、というよりは、呑み込まれた、というのが近いか。
世界が砕けたみたいな轟音がして、すぐに何も聞こえなくなって。
全ては真っ白に。
きっと、彼自身さえ漂白されて。
その一撃は、回避も生存も決して赦さぬ運命裁決。
主は全能である。故に神罰たるその光は、敵対者の全てを認めない。防御も、魔装も、そして命すらも。その光の中では、あらゆるものが意味消失して滅無へと果てる。
その上で雷霆の威力が骨肉臓腑の全てを焦がし、魂さえも即座に砕くのだ。
閃く純白は裁きの色。
染める白光は
理不の凶刃ベレネトという存在が、ひと刹那のうちに無意味となる。
現世に留まることは決してできない。その歩みは道半ばたる此処で終わる。
それがベレネトへの神罰。不死を殺し続けた悪人への正当なる裁き。
ああ、けれど。
それは、生涯を懸けて妹を探し続けた兄への報いだったのか。
それとも不死殺しの悪人が走馬灯の果てに見たただの幻覚か。
世界を消した白の先。
彼方からこちらに笑いかける、青い瞳の少女、が――。
「――ああ、リナ。おまえの顔をもう一度見れるなんて。儲けた、ぜ――」
漂白された世界の中、最後の最後に残ったもの。
どんなに金を稼いでも取り戻せなかった宝を、確かにその手で抱きしめて。
それで、理不の凶刃ベレネトは死んだ。
享年20歳。妹が生きていたら18になっていただろう、その前日のことだった。
どさり。
炭化した肉体が床に斃れる。
1秒前まで理不の凶刃ベレネトだったものは、永遠に動かぬ骸となって沈黙した。
『天の槍』、意味消失の一撃を受けてなお辛うじて人型を保っているのは、彼が身に着けた魔剣魔装の最後の加護か。それとも神罰に抗うほどの強い意思と器を持った傑物だったのか。
ともかく、彼が溢した最期の言葉を唯一聞き届けた人間は、いつもみたいに鼻を鳴らした。
「――はッ。テメエが何を儲けたのがは知らんが、お陰でこっちは大損だ。金庫の扉に
大錬金術師、禁忌錬成リクシール・パラディアス。彼は賊との戦闘でボロボロになった己の研究室を見渡して頭を抱え。
そして、傍らの存在に声をかける。
「……ファルシエル」
「はい。主よ、何なりとご命令を」
見事敵を滅ぼしてなお超然と、その上で恭しく傅いた傍らの天使――有り得ざる主の第八翼、偽典のファルシエルへ。
賊の死体を顎で示し、錬金術師は乱雑に命じる。
「この男を天上の楽土まで送ってやれ。天使だろう、オマエは」
数秒、間が空いた。
目を伏せたままの天使の瞳、千年氷河よりなお冷たく固まっているように思えた表情が大きく揺れる。機械の不具合を示すように、その背の光輪もまた明滅した。
「……畏れながら、主よ。わたしにそんな機能、は……」
「はッ、オマエ
だが、天使の異常など一顧だにせずリクシール・パラディアスはそう言い放って体の向きを変え。
その背へ思わず異を唱えたのは、此度のファルシエルの幼さ故か。
「……主よ、よろしいの、ですか。『これ』は神敵、です。主の楽土に招く必要は、」
――天使はそこで、己の迂闊さを後悔した。
顔を見るまでもなく……自らの主が、苛立ちというには余りに大きな激情を臓腑に宿していることを、その後ろ姿に見てしまったから。
過ちを自覚したファルシエルの喉が張り付き。
それですぼんだ言葉尻をかっさらうように、背を向けたままリクシールは言う。
「莫迦が。死体に敵も味方もあるかよ。さっさとやれ」
「――拝命、しました」
主が抱いたのは、使えぬ従者への苛立ちか、それとも。
その真意を確かめようとすることこそ真の愚行であると理解して、ファルシエルは粛々と命令に従う事にした。
自らが殺した死体、自分より二回りは背丈の大きかった体を両手で丁寧に抱きかかえる。天使の力を抜きにしても炭化した肉体は軽かったが、片手で引き摺るような真似はせず、そのまま割れた窓を潜り教会までの道のりを飛んでいく。
抱えた死者に恨みはない。憎しみもない。主が許すというのであれば、その罪の全ては許されるが故に。
翼たる光輪を広げ、有り得ざる天使は空を往く。
慈悲を以て骸を抱えたその姿は、神話に謳われる天使の葬送そのものであった。
――かつ、と。
靴を鳴らして足を止める。
「……」
天使に命じ独り研究室に残ったリクシール・パラディアス、その足元に転がるのは……賊の手によって殺された、ファルシエル・トレスの亡骸だった。
――二つ名とは、塔国の『無限碑』を通して
故に、頭に二つ名を付けて『ファルシエル・トレス』の名が呼ばれることはない。それはリクシールが勝手に呼んでいただけの、いわば偽りの名に過ぎぬのだから。
偽典のファルシエルが今の姿で復活している以上、ファルシエル・トレスの死亡は確実である。それは死体の損壊状況からも見て取れた。
腹部。頭部。血みどろの死体は内臓を晒し、焦点の合わぬ目を虚ろに向けて固めていて。
血と毒に濡れたその五体には、生前の美しさなどどこにも残っていなかった。
そんな生理的嫌悪すら感じる死体に、リクシールは無言のまま手を伸ばし――血に濡れることに何の躊躇いも見せず、両手で丁寧に抱き上げた。
それは奇しくも、天使がそうするように慈悲深く。そして天使に命じたのと同じく、死者を埋葬する為に。
それでも……常日頃から合理に生きる彼はしかし、その場で暫く足を止めたまま動かず。
ただ、無為に思う。
――もしもの話だ。
賊は確かに手練れだったが……ファルシエル・トレスのままであっても、翼たる光輪さえ展開し天使としての本性を表せば、単独で勝利していた可能性は充分にある。天使にとってそれほど光輪の存在は大きい。
だが、現実がそうならなかったのは――ファルシエル・トレスが全力を出せぬまま死んだのは、ひとえに主たるリクシールが己の都合でその翼を縛っていたからだ。
リクシールが殺したも同然……そう考えられるほど錬金術師は愚かではないが、それでも責任の一端は自分にあるとその聡明さによって確信できる。
強敵を前に全力を出せぬ、その焦燥はいかばかりだったのか。
愚かな主の為に命を落とす、抱いただろうの無念の程は。
果たして。凶刃に斃れ死にゆく地に堕ちた天使は、己の翼を縛った人間を呪ったのか――。
――否。
そう確信できてしまって、リクシールは思わず口元を歪めた。
砕かんばかりに歯を食いしばり、それでも隙間から声が零れる。
「……莫迦が。ファルシエル、オマエは本当に莫迦だな、全く……」
呟きに答える声は、無い。
それでも涙ひとつ見せない錬金術師の眼差しは、しかし確かに、今は亡きファルシエル・トレスただひとりに注がれていた。