――ふぅ、と小さく息を吐く。
それは気負いの息ではない。精神集中の為の
それはたぶん、溜息だった。故郷の集落で、今日は収穫祭だからちゃんとした格好をしなさいと母親に言われたときと同じ……面倒だな、という内心の発露だった。そんなこと、教室内の他の誰にも思われてはいないだろうけれど。
「リナシア・クウェルクス……今日こそは!」
向かい合う相手が持つような気負い、敵愾心にも似た戦意は抱けない。
それでも彼女の態度が注意されないのは、静かに沈む乙女の顔が、真剣な武人のそれと似ているからだろう。
『魔法学』の教室の中、模擬戦の対戦相手たる
ああ、合図がもうすぐ響く。
「――始め!」
そうして、リナシアは眼を開いた。
紅と蒼。二色の双眸が魔力を帯びて輝く。
魔眼開帳――因果観測、焦点固定、第一世界情報次元到達。
右眼は視る。こちらへ向け放たれる渾身の魔法を。
左眼は視る。何もない虚空を。
「――
魔眼、発動。
紅は蒼へ。蒼は紅へ。少女の眼が一層輝いて世界を捉え。
――何もない虚空に向かって、渾身の魔法が放たれた。
奔った魔法の色は赤。創造と破壊の化身、鉄すら溶かす紅蓮の炎。
けれど、どれだけの威力の魔法だろうが、どんな効果の能力だろうがリナシアには関係がない。例え竜を殺しうる一撃だって、リナシアには決して当たらないのだから。
再び魔眼を起動する。世界が青ざめ、流れる時間が停止する。
右眼は視る。魔法の失敗に立ち尽くす対戦相手を。
左眼は視る。その頭上の虚空を。
「――
――虚空に立つことで急に逆さになった
「勝負あり!」
そこで模擬戦が終わる。勝者の宣言が無かったのは、それが誰の眼から見ても明らかだったからだろう。
無傷どころか最初の立ち位置から一歩動いてすらいないリナシアへ、拍手と共にずるずると
「素晴らしぃねぇ。これが噂に聞いた『運命互換の双魔眼』かぁ……なぁるほどぉ、因果律に直接干渉する魔法とはぁ、これほどの理不尽さを有するのだぁねぇ」
「……ありがとう、ございます」
「うんうん。君は素晴らしい英雄になれるよぉ。戦場で並び立てる時が今から楽しみだぁねぇ」
魔法学特別顧問、
悪魔殺しで高名な英雄たる彼に笑顔で褒められても、リナシアの心に何か感動が浮かぶことはなかった。
悔しそうに立ち上がる対戦相手を一瞥し、観衆たる生徒の輪に戻って。
「すげー。また圧勝かよ、あいつ」
「流石は学園最強の魔眼を持つ
「ああいう人が、千年語り継がれる英雄ってのになるのかな……」
耳をそばだてずとも聞こえてくる賞賛の声を受けながら、思う。
「(……退屈。授業、早く終わらないかなぁ)」
それが、リナシア・クウェルクスの偽らざる本音だった。
魔法学の時間は今のところ、基本的に講義か模擬戦かの二択だ。
というのも、『魔法』というのは『魔術』と違い体系化が不可能な技術であることが大きい。
魔導器を介さず発動できる、生来の肉体に備わりし術こそが『魔法』という才能――それは個々によって発現方法から能力まで千差万別であるため、画一的な講義だけではどうしても不十分である。それを解決するための手段こそが、同じ
第2
殆どの学生が羨むそれは……しかしリナシアにとって、何の価値も見いだせない時間だった。
今、さっきまで自分が居た壇上で高度に磨き上げた魔法をぶつけあっている生徒の戦いも、リナシアにとっては子供の喧嘩を眺めるのと何も変わらない。
それよりも彼女の心を蝕むのは、この教室には気軽に話せる友達が1人も居ないという点だ。
「(はぁ、退屈だな……そもそも、こんな授業意味ないでしょ。一対一、よーいどんの勝負なら、ウチはどうやっても勝っちゃうんだから)」
内心の呟きは驕りなどではない、純粋な事実だ。
なにせ受講以来、否、入学以来――彼女は一度だって、模擬戦で敗北したことがないのだから。
やったことはないが、その気になれば四つ魔眼の英雄にだって勝ててしまうだろうし、竜さえ殺せてしまうだろう……その上その結果を得るために、何の努力も要らないときた。
どんな相手であれ、ひと睨みすれば勝負は決する。そんなリナシアは、どうにも自分を高めることにやる気を見いだせないでいた。
と、そんな彼女の耳に飛び込んで来る、声。
周囲で起こる雑談は数あれど、それのみが意識に引っかかったのは、きっと
「なあ知ってるか? 昨日この近くで『死なず呪い』が歩いてるのを見た奴が居るって」
「うわ、マジかよ……うっかり出会って呪われたりしたくないぞ、俺は」
「というか、なんで学園はあんなヤツを自由にうろつかせてるのよ……それこそ海にでも沈めてしまえば、そうそう浮いてこれないんじゃなくて?」
「いや、これは噂だけど……今オマエが言ったこと試そうとしたヤツは、雷に打たれて死んだとか……」
「なんだよそれ、おっかねー……」「ぞっとしない話ね……」
観衆の中に居る生徒たち、恐らく自分と同じように授業に価値を見いだせない者達の雑談。
けれどリナシアは彼等の言葉に共感するどころか、聴くだけで不快な気分になった。
だって、
「(はぁ。早くフォルトゥナに会いたいなぁ……)」
「死なず呪い」はリナシアにとって、久しぶりにできた友達なのだから。
不死学園に悲鳴が響く。
「離れろ、警備用
本来侵入者に向けられるはずの丸太のような鉄腕が、たまたま近くを歩いていた女子生徒――「死なず呪い」のフォルトゥナに襲い掛かり。
「
その横に居たリナシアが魔眼を発動させることで拳が跳ね返り、暴走した
それで
「大変だ、新入生の決闘の余波で壁が――!」
次は、中庭で行われた決闘の余波で崩れた壁が、たまたまそこに居たフォルトゥナを圧し潰そうと降り注ぎ。
「
リナシアの力で、瓦礫の雨は空の彼方へ消えていった。あれなら誰も居ない海に落ちるだろう。
危険なその場を離れる途中、曲がり角でフォルトゥナがガラの悪い
「何ぶつかって来てんだよ、俺様は今機嫌が悪いんだ――」
「
「ぐわあっ!? お、覚えてろ~!」
ちょっと脅せば
短時間で三度目も騒動に巻き込まれたリナシアは、はぁと溜息を吐くのだった。
「……アンタ、ホントに運が悪いんだね。ウチ、一日でこんなにトラブルに巻き込まれたの初めて」
話しかけるのは、隣を歩く友人にして暫定トラブルの原因。
――「死なず呪い」のフォルトゥナ。白黒の妖しい美少女にして、人間種にして、変人。
彼女は昨日と同じようにへらりと笑う。
「うん、悪いね。ボクは呪われてるからさ……呪詛に呪縛され呪殺されかけてるからさ。こんな不運はいつものこと、驚くにも値しない日常茶飯事だよ。尤も、そんなトラブルを朝飯前とばかりに解決するキミの手腕には――もといキミの眼力には、驚き舌を巻くばかりだけどね」
「うん、まあ……大抵の事は一目でなんとかできるからね、ウチって」
誤魔化すように笑って……少しの間、2人の間に沈黙が下りた。
廊下を進み、人気のない塔に入って。
しびれを切らしたように、ようやくリナシアが口を開く。
「……訊かないの?」
「何をだい?」
「その、『魔眼』について」
「何だよ、訊いてほしいのかい?」
う、と思わず口籠る。
自分から言い出したことだけど、触れられたくない部分だったから。
なんと答えたものか悩んで、結局素直に首を振った。
「……ううん。ありがと」
「? よく分からないけれど、どういたしまして」
……ちょっと過敏になってたかも、とリナシアは自分を反省した。
同時に、フォルトゥナの優しさを有難く思う……彼女にとっては本当に興味がないだけかもしれないけれど、リナシアにとってその無関心は確かに自分への優しさだった。
そうして沈黙のまま、2人は階段を上がった。
辿り着いたのは、人が滅多に訪れない尖塔の最上階。
窓から夕陽が良く見える。
それを並んで眺めながら、リナシアは隣のフォルトゥナへ訊いた。
「ねえ、明日も会える?」
「ボクから会いに行くことはできないよ。嫌われてるからねぇ、ボクって」
「大丈夫、ウチから会いに行くよ……どうしてみんな、フォルトゥナのコト嫌うのかな」
「おいおい、そんなのは雲の色が何色かってくらい明白な事だろう? ボクの口から言わせるつもりなら、キミもなかなか人が悪いね」
「ご、ごめん……違くて」
……どうも、フォルトゥナ相手だと口が迂闊さを増すらしい。
すーはーと深呼吸し、充分に落ち着いてから、リナシアは誤解を解くため発言の真意を説明することにした。
「……だって、フォルトゥナは被害者じゃん。悪魔に呪われたせいでそんな体に――不運を呼び寄せる体になっちゃったんでしょ? なら、みんなもっと優しくしてあげてもいいのに」
そう、素朴な疑問にも似た真意を口にすると。
フォルトゥナは困ったような……一度見せたあの皮肉げな、自嘲じみた笑みを作ってリナシアへ問う。
「キミは、善悪の定義が分かるかい?」
「ぜ、善悪……? えっと、善いことと悪いこと、だよね」
「違う、それじゃ言葉を分解しただけだ。善とは何で悪とは何か、言葉で説明できるかい?」
……改めて訊かれてみると、少し難しい。こういう問いには、魔眼も役には立たないし。
リナシアは少し考え込んで、脳内にあったぼやけた答えを口にした。
「善いことは……人を助けたり、とか。悪いことは……その逆で、殺したり、盗んだり、とかかな」
「うん、その通り。じゃあ、どうして善は良しとされ、悪は排斥されるのか、考えたことはあるかな?」
「え、それは……」
今度こそ答えられなかったリナシアに代わり、フォルトゥナは滔々と答えを口にする。
「人は道徳とか優しさとか、耳触りの良いことを言うけれど。善悪というのは、しょせん社会にとって有益か有害かで機械的に判別されることに過ぎない。
例えば、悪行……盗みや殺しは、言ってしまえば社会を弱体化させる行動だ。
反対に、善行……人助けや悪の排除はその逆、社会をより強固なものにする。
つまり善悪というのは、道徳的な価値観で決まる訳でも、まして優しさなんて曖昧な感覚で決まるものでもない……それは純粋に、帰属する社会に対しての態度で決まってしまうものなんだ」
善行は社会全体が利益を得る。つまり善行を積む者は、社会にとっての味方だ。
反対に悪行は社会全体がダメージを受ける……要するに悪人は、社会にとっての敵という訳だ。
「そういう意味では、ボクが悪にしかなれないのはそれこそ明白な事実さ……立っているだけであらゆる不運不幸を引き起こすボクは、社会にとって最悪の存在だからね。だから皆、意識的であれ無意識的であれ、基本的にボクを排斥するんだろう。なにせ悪の排斥は社会にとって役立つ行為――善行、だからね」
「そんな……! そんなのって……!」
リナシアは思わず声を上げた。
フォルトゥナは何も悪いことをしていないのに、彼女は自分を悪といい、彼女を排斥する者達を善と呼ぶ。それは……なんて、悲しい。
けれどそんなリナシアとは対照的に、フォルトゥナはいつも通りへらりと笑った。
「でも、ボクは気にしないよ。どんなに悪と罵られようと、排斥されようとどうでもいいし。
『善悪』はしょせん、社会にとって都合のいい考え方だ。そんな所に個人の幸福はない。善人しか幸福になれないなんて馬鹿な話もまたない訳だし……寧ろ悪人って沢山の快楽を貪ってる印象だし、聖人様は蟻を踏んだだけでも良心の呵責に苦しむだろうなとか考えると、悪の方が幸せになりやすいなんて気さえするしさ。だから悪でしか居られないボクも、幸福になることを諦めないのさ。
こんな不運なボクにだって……産まれた以上、幸せになる権利はあるはずだから」
フォルトゥナは終始冗談めかすような口調だったが……最後の言葉にだけは、重い本心が乗っているようにリナシアには感じられた。
けれどリナシアが一番衝撃を受けたのは、その少し前の部分。
「『善悪と幸せは関係ない』……」
反芻するように呟いて。
少し迷って、リナシアは問う。
「ねえフォルトゥナ。ウチ……英雄にならなくても、幸せになれるかな」
悪魔と戦う救世の英雄を育てる……そんな不死学園の理念とは相容れない言葉。
口にするのにも相当の勇気が要るその問いに……しかしフォルトゥナはあっさりと頷いた。
「うん、なれるとも。というより、英雄になることと幸福になることに相関はないよ、きっとね。世の中に英雄以外の人間が何人いると思ってるんだい? そのほとんどが幸せな家庭を築いて、それなりに満足して死んでいくだろうにさ。寧ろ英雄なんて、半分くらいは悲劇的な最期を遂げていないかい? そんなものを目指すひとの気が知れないね、全くさ」
……そんなことを言う
見開いた目を、細める。紅蒼の魔眼が映すのは、今や白黒の友人だけで。
「……フォルトゥナと話してると、なんか世界が拓かれるカンジ」
「そうかい? それは悪いことをしたかな」
「ふふっ、なんでそうなるの? ホントに変な人だよね、フォルトゥナは」
窓の外で夕陽が沈んでいく。
2人で過ごした宵の竜刻は、リナシアの人生と価値観を大きく変えることとなった。
日々に鬱屈していたリナシア・クウェルクスは、確かにフォルトゥナに救われたのだ。
……けれど、言い方を変えれば、それは。
未来を約束された英雄が、些細な不満につけ込まれ『悪』に堕ちた瞬間であった。