【書籍化決定】種付けおじさんIN戦国 作:星野林(旧ゆっくり霊沙)
【毛受又兵衛】
日本の戦国時代の武将
【概要】
出没 1548年〜1■■■年
出身 東美濃(京出身説、近江出身説、尾張出身説あり)
あだ名一覧
·馬
·金精大明神の化身
·大天狗
·尾張の天狗
·男根様
·今道鏡
·今鎮西(源為朝)
·ガブリエルの化身
·大妖怪
等
ネットでのあだ名
·ネオアームストロング(以下略)
·40センチ
·三本足
·歴史家殺し
·種付けおじさん
家紋は■■■、旗印は豊年満作や救民済世、印章は子宝。
戦国物の創作において逸話が多すぎて1人ではなく複数人で出されることがある。
信長と並びネットのフリー素材として扱われている。
【生涯】
誕生は1548年(天文17年)は確定しているが、何月何日に産まれたかは不明。
ルイス・フロイス筆の毛受又兵衛覚書によると、東美濃の農村にて産まれるが、父親は不明。
母親は村に滞在していた歩き巫女と書かれている。
しかし説がいくつかあり、母親は京から落ち延びた貴族の娘であり、美濃にて又兵衛を産み、肥立ちが悪く没したや、父親は没落した国人で、潜伏していた時に村の娘と交わり出来た子供という説、天狗が赤子を抱え、村人に預けたという説と諸説ある。
ただ総じて出生時は困窮していた事が伺える。
9歳(数え年で10歳)の年に村が賊に襲われ、壊滅するが、逃げ延びる事に成功し、道中で熱田商人を山賊から助けた縁で熱田に逃げ込む。
熱田にて宿に居候しながら出世する機会を伺い、織田信長の尾張統一戦に参陣し、武功を挙げる。
熱田神宮の巫女の姉妹と仲良くなり居候先を変更。
この頃織田家を追放されていた前田利家一家と仲良くなる。
1560年桶狭間の戦いに参戦。
毛受又兵衛がこの時の事を詳細に書き記した日記が見つかり桶狭間の戦いの全容が判明。
武将を討ち取る武功を挙げて武士身分となる。
この時に毛受一門の女性を正室とし、熱田の姉妹を側室とする。
翌年に長男と長女が産まれる。(以後子供が多すぎるので出産関連は省略)
前田利家をこの頃居候させていた記述がある。
ここから1563年までに伊賀衆と親密になり、伊賀との連携が始まる。
側室が4人ほど増えるが、伊賀衆のくノ一と思われる。
1563年、1人で楽田城を調略し、天狗の名が広まる。
城主の姉妹を側室に入れる。
中美濃攻略でも活躍し、加茂村に領土を与えられる。
足軽大将に昇進。
1567年の美濃攻略までに京を1度訪れ、凄腕の祈祷師として話題になる。
貴族の娘を側室とする。
この頃侍大将に昇進。
1568年、松永久秀救援のため1000名の兵を率いて筒井城の戦いに参加。
敵の大将である筒井順慶を討ち取る手柄を立てる。
家臣に筒井家に仕えていた島清興を家臣に加え、援軍を全う。
同年に織田信長は上洛し、足利義昭が将軍となる。
1569年、本圀寺の戦いにて弓の名手として名前が残る。
同年ルイス・フロイスと面会し、親密になり、ルイス・フロイスの滞在する教会にて毛受又兵衛覚書が書かれ始める。
またルイス・フロイス経由でじゃがいもやトマト、玉ねぎ等が日本に持ち込まれ、又兵衛が生産方法を確立。
1570年、朝倉攻めに参加するが、浅井家の裏切りにより織田軍が撤退することになり、毛受又兵衛は金ケ崎にて殿を行う。
この時殿をしている又兵衛の軍より朝倉の兵の方が損害が大きく、甚大な被害を被る。
この時妖術を使って敵を大混乱させたという逸話があり、朝倉軍は以降毛受又兵衛に酷いトラウマを抱えるようになる。
同年、姉川の戦いにて奇襲を仕掛けようとした浅井軍を水攻めで多大な損害を発生させ、織田軍の勝利に導く。
同年、小谷城から単独で織田信長の妹お市の方を救助したと伝わっているが、忍び複数人の力を借りた、天狗の妖術で空を飛んだ等様々な説があり、詳細は不明。
ただ、お市の方が救助された結果、浅井長政の求心力が低下したこと、精神的におかしくなり、自害未遂を行っている。
1571年、毛受又兵衛がお市の方と再婚、津田又兵衛に改名。
1572年、武田軍による西上作戦防衛の為に徳川軍の救援に向かい、前哨戦は引き分けだったものの、三方ヶ原の戦いにて戦術的に敗北。
しかし武田四天王の馬場信春を討ち取る武功を上げ、戦闘後に武田信玄も病没し、武田軍は甲斐に撤退。
被害甚大ながら防衛に成功する。
1573年、南蛮人の妻を側室に加える。
同年、朝倉家を刀根坂の戦いにて壊滅的被害を与え、滅亡に追い込む。
·
·
·
【人物】
誰にでも礼儀を弁えて接し、織田家の多くの者が好意的に見ていた。
森可成、柴田勝家、丹羽長秀等の古参の重臣達とは一緒に温泉に入浴することもしばしばあった。
織田信長とは衆道の相手をさせられていたらしく、信長が受けであったことが又兵衛の日記より判明している。
戦では先頭で味方を激励しながら突っ込む事が多く、馬を駄目にすることが多かった。
ただ又兵衛は大柄の馬を好み、馬を育てるための牧場を領地に建てさせた。
料理上手であり、和洋中全ての料理に精通していたとされ、現代に通じる料理や調味料を3000品近く開発。
子沢山であったが、その為か出産に関する記録を多く取っており、この時代禁忌とされていた出産への立ち会いを進んで行っており、彼の妻で肥立ちが悪かった者が出ておらず、子供も若年の病死する者がほぼ居なかった。
人徳を称えて生前から領内では神格化されていた。
【又兵衛の馬】
又兵衛は領地替えの度に牧場を建設したが、優秀な種牡馬と牝馬を抱えていたらしく、又兵衛の血統の馬は近代でも残り、主にばんえい競馬、サラ系混合の時代に牝系が残ったことで、現代でも5本の牝系のラインが残っている。
特にその血統の牝馬はスタミナが豊富で短距離牡馬を付けても長距離レースを走り切るスタミナが遺伝するので長距離レースでは無類の強さを誇っている。
【又兵衛の家畜】
又兵衛は家畜の品種改良にも取り組み、鶏、牛、豚の多頭飼育に成功し、大規模な養鶏場や養豚場、牧場を経営し、停滞していた日本の食肉文化を盛り上げた。
特に豚は又兵衛がイノシシから家畜化した毛受豚というブランド品種が確立している。
【又兵衛の茶器】
又兵衛が作ったとされる茶器は不思議な力が宿っているとされ、国宝が幾つか存在する。
特に現存している葡萄酒坩堝、白濁竹筒、黒豆茶釜の3種は神器とされ、容器に水を入れると味が付くという不思議な性質を持っており、現代科学でも解明できていない。
又兵衛が天狗であった説が支持される一因である。
【又兵衛の男根】
又兵衛が死ぬときに亡骸は火葬するように一族の者に伝えていたが、業火で燃やしても又兵衛の死体は残り続けてしまった。
困った一族の者は体を切断して頭、腕、胴体、足、そしてイチモツをそれぞれ仏像に埋めて供養を行った。
現存する仏像の1つが壊れた為に中身を確認したところ、ミイラ化したイチモツが発見され、又兵衛の男根の長さが書物通り40センチあった事が判明し、学界を騒然とさせ、書物で書かれていた事のどれが誇張であるかの判別が難しくなってしまい、歴史家を悩ませる一因になっている。
·
·
·