【書籍化決定】種付けおじさんIN戦国 作:星野林(旧ゆっくり霊沙)
オラの名前は重五郎、しがない百姓だべ。
越前国の足羽郡、福井村に住む先祖代々農民をしている家の長男に生まれたんだ。
オラの農地は田んぼ1町と畑が8反で、世間的には中農と呼ばれる農家だ。
朝倉の殿様の時には度々遠征に連れて行かれ、足軽としても戦っただ。
数年前、朝倉が織田に攻められていたんだけど、反撃に転じた戦い(金ヶ崎の戦い)で今の殿様である津田様の戦いを間近で味わう事になっただ。
津田様は刀を振るうと次々に味方の兵の首が飛び、そして男根の様な化け物に姿を変えられる者もいただ。
オラの上司だった足軽組頭のあんちゃんも男根に変えられて、亀頭部分から白濁液をまき散らす存在となり、その白濁液を流し続けると、今度は赤い血の様な物を撒き散らし、最後には透明な液体を垂れ流して、しわしわになって絶命していただ。
そんなのを間近で見ていた仲間の兵達は織田の将に妖怪が居ると口々に言って戦に出るのが怖くなってしまっただ。
そんな事があったから、朝倉の兵達は戦うのに力が入らなくなり、織田徳川連合軍と戦った川辺の戦い(姉川の戦い)でボロボロに負け、がっぷり四つで敵と戦うことができなくなっていただ。
その後、オラは親父が病気になって看病の為に戦に行かなかったが、戦に行った弟がボロボロになって帰ってきて、朝倉の殿様が大負けして、越前国が織田家に占領された事を知っただ。
朝倉の殿様も死んだらしく、領主が変わる。
不安に思っていたが、新しい領主はオラ達が妖怪と言っていた津田様であると分かると不安は最高潮に達した。
分けのわからん妖術で殺されるでねぇかと弟達と震え上がっていたところ、代官様がやってきて、今年と来年の年貢を大幅に下げると仰られた。
更に種籾を支給して代官様が教える新しい農法をやるようにというお達しが来たが、津田の殿様の怖さを知らねえ者は従来のやり方の方が良いと代官様の言葉にあまり耳を傾けずに、自分達のやり方を貫いたが、オラ達一家は戦で津田様の強さを間近で経験していたので代官様の教えに素直に従った。
いや、素直だけじゃなくて率先して教えてもらい、既存のやり方を全て変えた。
畑には津田の殿様が食べるという馬鈴薯なる芋を植えたり、田んぼの排水を可能にするために排水口を整備したり、畑を担保に借金して津田様が持ち込んだ牛を購入して田畑を深く耕したり、肥料を買ってきて撒いたりとできることは全てやった。
なんなら津田の殿様はゴムの木なる木の苗木を安く売っていたので、それを買い、家の裏の荒地に植えたりもしたんだ。
すると夏頃には田畑は見たことが無いくらい作物がよく育っていて、大量の馬鈴薯を収穫したり、夏野菜を収穫し、代官様から馬鈴薯の食べ方を聞いたり夏野菜を市場に売りに行ったりして借金の一部を返済したんだ。
秋になるとオラの田んぼには見たこともないくらいの大豊作になり、家族総出で収穫し、今までオラの田んぼでは1町に対して10石米が収穫できれば良い方だったのに、今年は40石もの米を収穫することができただ。
家の前に積み上がる米俵を見てオラ達は歓喜し、年貢、借金を全て返済してもなお20石もの米が残っただ。
代官様の話を聞かなかった村人達の田は凶作で米がほとんど収穫できず、一家離散する家も出てきてしまったが、オラはそんな家の田んぼを買い取り、その家の人らを小作人にして雇ったり、娘さんをオラや弟達の嫁にすることで田畑を広げながら吸収しただ。
その他に鉄製の農具を買ったり、牛の数を増やしたりして、冬の間は開墾作業に尽力したんだ。
お陰でオラの田畑は4町にもなり、弟達にそれぞれ5反ずつ譲ったりもしたが、秋に撒いた小麦も見たことないくらい育ち、オラ達一家は一気に豪農と呼ばれるくらいになっただ。
それに裏に植えたゴムの木の樹液が代官様から高く売れると聞いて、ゴムの木を挿し木で増やしながら、真っ白な樹液を樽に詰めて代官様に納めると、結構な金額を支払ってくれたんだ。
で、今年も代官様に教えてもらった新しいやり方で作物を育てると秋には去年に負けないくらいの大豊作で家計はどんどん潤っていった。
更にオラは津田様が推奨していた椎茸栽培と綿花栽培にも手を出し、干し椎茸の販売や、自前で糸紡ぎ機や機織り機を購入して、それを纏めることで工房を作り、職人に監修してもらいながら村の娘達を雇って布をおらせることで数年でオラは地域でも有数の豪農に成り上がることに成功したんだ。
オラだけでなく成り上がった者は複数人居て、そんな者達を津田の殿様の知恵で成り上がったから津田成金と呼ばれるようになっただ。
そこからオラ……いや、私は津田様の居る一乗谷で勉学に励み、30歳で人に教えられるほどの教養を身に着けた。
私の息子も成長して、津田様が作る常備軍なる組織で兵となり、座学で優秀な成績を修めた為、私の村の代官に任じられるに至った。
そこから私は米、ゴム、椎茸、織物の4本を柱に商人達に卸すことで農民としては莫大な富を得ることに繋がった。
40歳になる頃には私の農地の広さは150町にも及び、1つの村を手中に収めることに成功し、息子達に領地を分割して相続させ、残りの人生は津田の殿様から教わった教えを広める為に神仏ガブリエル教の寺を建設し、そこで住職をしながら、村の子供達に勉学を教える生活をするようになった。
津田様への畏怖の気持ちは忘れていないが、それと同時に感謝の気持ちを持ち続け、私は神仏の加護からか80を過ぎる長寿の末、老衰という最高の形で亡くなる事が出来るのであった。
そして孫の1人が津田様の家来として出世の末に津田様の長男高貞様の多くいる娘の1人と結婚し、津田家と血縁になることにも成功した。
私は成り上がりまでの記録を事細かく書き記し、後に続く者達に託してこの世を去ったのであった。
旧越前国、現代の福井県では地元の偉人の1人として福井重五郎の名前が郷土を学ぶ勉強の際に必ず出てくることになり、現代まで続く福井呉服店……現福井総合商社に名を変えながら引き継がれ、世界を代表する企業の礎を作ったと崇められている。
それだけでなく、彼の建てた足羽福井寺の秘蔵の書物として彼の書いた書物が保存状態の良い形で保管されており、その書物から越前を中心とした歴史が多く紐解かれることになり、越前統治時代の津田又兵衛の行動を知る一級史料となる。
そしてこの史料と津田又兵衛の日記の日時が合致したため、多くが創作だと思われていた津田又兵衛の日記の評価が一級史料扱いとなり、織田信長は受けであり、童顔ムキムキの男を好むとか、神仏ガブリエル教の教祖扱いされるのは正直困るだとか、絶倫過ぎて床では負け知らずだとか、掘った箇所から温泉が噴き出すとかの逸話が事実であったと裏付けされてしまい、歴史家達が頭を悩ませることになるのだった。