包み隠さず言うのなら、私は月雪ミヤコのことが好きだ。
困難な状況にあっても冷静に隊を指揮する凛々しい姿や、他者のためなら進んで窮地に飛び込む立派な姿、そして時々見せる子供っぽい姿が好きだ。
それは単に可愛い生徒として好きなのではなく、異性として彼女が好きなのだ。
「先生、約束のお時間が近いですよ!」
タブレットの中のアロナがそう教えてくれる。
窓の外を見れば、日はすっかり傾いて夜になろうとしていた。
私はこれからミヤコと「デート」する。
と言っても、名目上は彼女が飼っている兎のぴょんこのお出かけに同行するだけなのだが。
しかし、きっと本題が別にあるだろうことを私は察していた。
兎の活動時間は基本的に明け方と夕方。今からの時間帯は、ぴょんこが出かけるのに向いていない。
私はこの兎の生態について、ミヤコと接するようになって初めて知った。飼い主であるミヤコはもっとよく知っているだろう。
それなのにこうして呼び出されたということは、何かあるに違いない。
聡明な彼女があっさりバレる嘘を吐くとは考えづらい。
ならばこれはミヤコによる言外のメッセージなのか。あるいは彼女の無意識が生んだ何かのサインなのか。
偶然か必然か、今夜はスーパームーン。
月が最も近づく夜に、年頃の少女から外出のお誘い。
私の早合点でないならば、この予感は間違いではない筈だ。
だが、もしそうだとするならば。
私はミヤコの気持ちに返事をしなければならない。
今夜のことを私は誰にも言っていない。
シャーレに来る生徒たちが私のことを慕ってくれているのは流石に分かっている。
そんな彼女たちの想いをおざなりに躱しているにも関わらず、ミヤコにだけ答えるのは生徒に向き合う先生として不誠実なことだから。
その後ろめたさが今日まで私を何度も咎めてきて、何度となく考えた。
私情と責任感の板挟みになりながら結論らしきものを出し、その結論が正しいのか再び考え直して、また板挟みに逆戻り。
しかしそんな葛藤も今日で最後。
今夜、私は想いを伝える。
それがどんな結果になろうとも、その全責任を受け入れて、明日に臨む覚悟は出来ているつもりだ。
シャーレの建物を出ると、空には巨大な月が浮かんでいた。
これだけ近いと月の模様がよく見える。
そこでは大きな兎が大きな餅をついていて、その呑気さが今は少し羨ましかった。
◆
指定された公園には、予定より10分早く着いてしまった。
周囲を見回すが、遊歩道やベンチが設置されているだけの簡素な空間に人の気配はない。
どうやらミヤコはまだ着いていないようだ。
彼女なら少し早めに来るだろうと思っていたが、何やら時間が掛かっているのかも知れない。
モモトークを確認するも特に連絡はないので、約束の時間には間に合うのだろう。
手持ち無沙汰なので、設置してあった時計の柱にもたれてみる。
ベンチもあったが、ミヤコが来た時に座っていると彼女に待たせてしまったと思わせかねない。
しかし今からミヤコが来るのか。
一応着替えては来たものの不安になって、改めて身なりを検める。
一番上等なネクタイに、下したてのスーツ。シャツも最もシワがないものを選んできた。
こうして暇が出来ると、色々と考えてしまう。
上手く話せるだろうか。
手ぶらで来てしまったが大丈夫だろうか。
告白が早とちりだったりしないだろうか。
そんなことをとやかく考えていると、小さな足音と可愛いらしい息遣いが聞こえてきた。
視線を上げると、そこは待ち人の姿が。
「こんばんは、ミヤコ。時間ぴったりだね」
私の挨拶に、彼女が微笑む。
その笑顔がいつもより大人っぽく見えるのは気のせいなのだろうか。
「こんばんは、先生。お待たせしてしまいましたか?」
「私も今来たところだよ」
心の準備をするのに10分では足りなかった。
もっと早く来ておけば良かったと少し後悔。
もっとも、普段と違ってどこか艶やかさを纏った彼女の姿を前にしたなら、どれだけ時間があっても平静でいられなかったに違いない。
内心の興奮が表に出ないよう、極力普段通りになるよう意識して言葉を返す。
ミヤコはそれに礼を言うと、ぴょんこをケージから出しに芝の方へ向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、彼女の色香に思考を奪われる。
振り向きざまに翻った髪の間から、うなじが覗いていた。
その細さと白さに、思わず守ってあげたいと思ってしまう。
スカートから伸びるしなやかな脚に視線を移せば、膝の裏に目が留まる。
ニーパッドの生地越しではあるものの、それが逆に彼女の輪郭を強調させ、その形状がよく見えた。
繊細さと力強さを兼ね備えた脚に存在するこの無防備な肉の窪みに、倒錯した嗜好が目覚めかける。
教師にあるまじき不埒な感情をどうにかしようと、視線のやり場に困って空を見上げた。
そこにはやはり、大きな月。
貞淑を司る月の女神よ、こんな私を許して下さい。
困った時の神頼み。
私はミヤコを、そういう目で見る訳にはいかないのだ。
本当はそういう目で見たいけれど。
正直どうしようもなく、そういう目で見てしまうけれど。
それは間違ったことなのだ。
だから私が過ちを犯す前に、この感情をどうにかして下さい。
だが、不心得な私を救う神はなかった。
天を仰いだのもつかの間、気が付くとミヤコが私の隣に立っていた。
それも普段よりずっと近く、ほんの数cmの位置に。
袖と袖とが触れ合うほどの距離。
「本日は来て下さりありがとうございます」
「……気にしないで。私もミヤコが元気にしてるか気になってたし」
返事をするまでに間が空いてしまう。
この動揺を知られる訳にはいかない。
我ながら、咄嗟なのに上手く隠したと思う。
ミヤコと親しくなってから、彼女が私を見る目には常に尊敬の念があった。
実際はこんなにどうしようもない人間なのに。
後ろめたさから、視線を空に戻す。
今の私は、ミヤコを直視できなかった。
「……」
「……」
しばらく沈黙が流れる。
一体こんな時、何を話せば良いのだろうか。
満月の夜に、愛するひととと二人きり。
こんな素敵な状況で、野暮にならない言葉とは何なのだろうか。
この時間を大切にしたい一心で言葉に詰まっていた時だった。
「……月が綺麗ですね」
唐突にミヤコが口を開いた。
それは百鬼夜行の文豪が残した、愛を伝える有名な表現。
それが彼女の口から飛び出して、心の準備をしていたというのに思わず鼓動が早くなる。
「月はお嫌いでしたか?」
「い、いや。そんなことはないけど……」
そう尋ねて私の顔を覗き込んでくるミヤコの身体は、私より頭1つ分ほど小さかった。
「確かに、月は夜ごとに姿を変える移り気な天体と言いますからね」
今度はトリニティの劇作家が生んだ戯曲からの引用。
敵対する家同士に生まれた男女の、悲恋の物語。
「空に浮かぶあの月は浮気者かも知れませんが――」
そう言いながらミヤコは指で空を示す。
「――先生のお傍にいる『この月』は一途ですよ?」
そういう彼女の瞳には、私の姿だけが映っていた。
今日まで色々なことを考えた。
その中でも一番迷ったのは、そもそもミヤコと付き合っても良いのか、ということだった。
私は皆の「先生」として、キヴォトスで暮らす生徒たちの幸せのため、頼れる「大人」として生きると決めていた。
しかしミヤコと付き合うということは、つまり私がミヤコのものになるということだ。
それは他の生徒たちにとって、良くないことだろう。
特定の生徒に肩入れする大人を、生徒たちが気兼ねなく頼るのは難しい。
ならば、これは「先生」として間違った選択に違いない。
また、それは同時に「ミヤコ以外の生徒を選ばない」ということでもある。
思い上がりかも知れないが、私は多くの生徒に慕われている自覚がある。
包み隠さず気持ちを伝えてくれる子もいれば、密かに好意を寄せてくれる子もいる。
そんな子供たちの気持ちに報いることなく、ミヤコの想いにだけ応えれば、彼女たちを傷つけてしまうだろう。
ならば、これは「大人」として間違った選択に違いない。
その上で、自分の気持ちを優先し、ミヤコの幸せだけを考えて良いものか?
考えた。
考えに考えた。
考えに考えに考え抜いた。
だが答えは出なかった。
どうするのが正しいのか、正解を導き出すことはできなかった。
誰か教えてくれ。
この恋心は全てに優先するのだろうか?
私は今、正しく在れているのだろうか?
この問いに答えてくれる者はいない。
私は「大人」だから、自分の問題は自分で解決しなくてはならない。
そして「大人」である以上、選択しないなんて無責任も許されない。
迷っていても、分からなくても、答えが出なくても。
迫られたなら決断し、その責任を負わなくてはならない。
それが「大人」というものだから。
「……」
「……」
再びの沈黙。
この沈黙を破る時、私はその責任を負うことになる。
……そう、負うことになるというのに。
今から自分には過ぎた責任を抱えることになるというのに。
ミヤコを見据えた瞬間、そういった全てがどこかへ押しやられてしまった。
彼女が私を見つめて返事を待っていたのだ。
それも、真剣な面持ちながら、その頬を微かに紅潮させて。
普段よりずっと大人っぽい彼女の表情に、初々しい恥じらいが合わさって、何度目か分からない恋に落ちる。
不安も、焦りも、弱気な心も
誇りも、信念も、責任感も
今この瞬間、私を構成するあらゆる要素が消失し、目の前の「月雪ミヤコ」という存在だけが私の全てを占めていた。
そして同時に。
彼女の瞳を見ていると、ミヤコの中でもきっと、私が全てを占めているのだろうという予感があった。
私の全てが彼女となり、彼女の全てが私となる。
月の光に満ちた公園で、この時間だけは私とミヤコが一つになり、他の何物も入り込む余地はなかった。
果たして、どれほどの時間が経っただろうか。
惜しいほど短かった気もするし、満ち足りるほど長かった気もする。
気が付くと、心の中に勇気があった。
この時間を思い出として刻んでおけば、これから起こるあらゆる困難に立ち向かえる気がした。
ミヤコはどうだろうか。
彼女にも、今から始まる辛苦をどうか乗り越えて欲しい。
その時に彼女の支えとなるのが、今夜私と育んだ思い出であって欲しい。
直接彼女の心を傷つける私だが、そんな私にも、彼女の幸せと再生を願うことを許して欲しい。
澄んだ心と頭で、この身勝手な想いを彼女に懸ける残酷さを理解しながら、私は沈黙を破った。
「ありがとうミヤコ。気持ちはとっても嬉しいよ。……でも、それに応えることは私にはできない。ごめんね」
私が口にできるのは、それだけだった。
私も彼女の気持ちを受け入れたいが、他の生徒がいる以上、それは「先生」として許されないのだ。
そして「先生」である以上、その気持ちに応えられない理由として「他の生徒」を挙げることなど許されない。それは彼女たちに責任を押し付ける行為だから。
私の言葉を受け取ったミヤコは、ゆっくりと一度目を閉じ、開いて、そして微笑んだ。
月がこんなにも大きい夜だというのに、二人の距離がこんなにも近い夜だというのに、その笑顔は普段と全く変わらない「いつもの笑顔」だった。
「夜風も強くなってきましたし、そろそろ戻りましょうか。私、ぴょんこを連れてきますね」
そう言って、ミヤコは私に背を向け芝生に向かって歩き出す。
その足取りは不自然なほどに自然体で、やけにゆっくりとしていた。
「ぴょんこ。ぴょんこー。どこですかー?」
ぴょんこを探す彼女の後ろ姿が、やけに遠く感じる。
そうだ。私は、自分を好いてくれている想い人を、自らの手で拒絶し傷つけたのだ。
改めてその事を認識し、やるせなさがこみ上げる。
思い出は困難に立ち向かう勇気を与えてくれる。
しかし、どうあっても辛いものは辛いし、惜しいものは惜しかった。
あぁ、どうして。
どうして君は生徒なんだろうか。
君が単に一人の女性として私の前に現れてくれたなら、こんな思いはしなくて済んだのに。
君が「生徒」でなかろうと、私が好きになった「月雪ミヤコ」はそこにいるに違いないのに。
あるいは、どうして私は「先生」なのだろうか。
私が単に一人の男性として君の前に立つことを許されたなら、君を受け入れることができたのに。
そうでなくとも、想いに応えられない理由を説明して、その傷を少しでも和らげることができるのに。
そんな女々しい考えが誰にともなく浮かんできたが、今や詮無いことだった。
今の私には、もはや夜風が吹いているのかすら分からなかった。
草花が揺れる光景も、木々が擦れるざわめきも、肌に感じる冷たさも、自失のあまり全てがそれと認識できなくなっていた。
月が遠ざかることで潮が引くように、彼女が遠ざかったことで私の感性も干上がってしまったかのようだった。
ふと見ると、シワ1つないシャツにシミができていた。
それが滴った自分の涙だということに気付くまで、随分時間が掛かった。