「──────
引力。
両脚が何かしらの大地を踏みしめたのを感じた赤いローブの男は両手を上げて叫んだ。
前人未踏、というよりは前人未還の地獄。そこがどんな場所であれ、現世と違って誰のことも気にせずにいられるであろう場所に期待を込めて、男は始めからこうするつもりだった。
「さぁて、さてさて。まずは景色を味わうとしようかのう──ん?」
あるいは純粋な好奇心。
仮にも魔術の粋を窮めた達人である。それを成した理由はどうあれ、その高みに登った人間にとって、神話の領域というやつは十分に興味を惹かれるもの……なのだが。
ぶろろろ……という、低い振動が近づいて来て、離れて行った。
パラパラ……という、乾いた連なる破裂音が遠くから聞こえてくる。
さらに、人の話し声や布擦れの音。どういうわけか、それらはごく最近、
目を開けて、驚愕する。
「……ふむ」
ひび割れたアスファルトの道路とその上を通る自動車。くたびれた印象を受けるビル群。
こちらを奇異の目でちらりと見ては、すぐに会話に花を咲かせて歩き去る少女が二人。どこのものだろうか、暗灰色のシャツに赤いネクタイの制服に身を包んだその頭の上には、光でできた環のようなものが浮いていた。
そして、男が立っていたのは、そうしてそびえるビルと道路の間。歩道のド真ん中である。
(アレは……なんじゃ?
銀の髭を指先で弄びながら、赤い衣の男の反対の手の中で何かが光った。
それは薄い水晶で出来た一枚のカードだった。内部でジグソーパズルみたいなピースがカシャカシャと音を立てて、常に配置や数、形を変えている。
曰く、
達人が一目見れば、全てが分かる。このカードはそういう
「くくっ。どうやらこの老骨、世に言うところの
手品師みたいに何でもないような様子で手を動かせば、始めから存在しなかったかのように、男の手から水晶のカードは消えている。
地獄へ行くはずだったこの身。だが辺りに広がるのは何処かの街らしく、罪だの穢れだの、責め苦だの痛みだのといった”らしい”ものは見当たらない。水晶のカードが示すように、ここは達人だって知り得ない別の世界。つまり話が違うのだ。
さて、見知らぬ土地に踏み込んでしまった異邦人がまず最初にすべきことは何であろうか。赤い衣の男は周囲を見回して、先ほど二人の女子が歩き去っていった通りの角に目を向けた。
そんなときだった。
「──わっ、わああっ!! ごめんなさいぃぃぃぃいい!!」
「──おいコラ逃げんなぁッ!」
その角から、背丈の低い女の子と、先程去っていった女子の片方が走ってきた。
女の子は明らかに丈のあっていない学ランを靡かせながらの半泣き状態で、その後ろを追う女子は胸元にホイップクリームだかフルーツジャムだか分からない極彩色がべったり付いた制服のまま顔を真っ赤にしている。
背丈の低い女の子は赤い衣の男の横を通り過ぎたかと思えば後ろへ回り込んで、追ってきた黒髪の女子から隠れようとした。
二人分の声がほぼ同時に響いた。
「おじさん助けて!」
「どけオッサン、アタシはその後ろに用があんだよッ!」
(──ふむ、やはり髭があればおじさん判定なのは変わらぬか)
赤い衣の男は自前の髭をひと撫でして、それから興味ありげに尋ねた。
未知なる新天地で繰り広げられる争いごとである。一体どんな珍妙なものか──なんだか傍目にもう原因が分かりきっている気もするが──男は知りたくなったのだ。
「さて、どういう話か聞かせてもらえるかのう、お嬢ちゃん方? いきなりこの老骨を挟み込んでおっ始められると興味を惹かれてしまうんじゃが。
まさかお菓子か何かを持ったままぶつかって相手の服を汚してしまったとか……そんなありきたりな話でもあるまい?」
「お、話が分かるじゃねえかオッサン。ソイツにクレープ持ったままぶつかられたせいでこのザマなんだわ、どーしてくれんだよああン!?」
「ひぃ……うぅ、ぐすっ。ゆるしてお姉さん……」
状況は一触即発。ただしそれは一方的なものだ。
赤い衣の裾から伝わってくる弱々しい震えを横目に、男は怒り心頭な目の前の少女──その制服に向かって右手を振るった。
「──なんじゃあ詰まらんの」
その瞬間まで、男の手には何も握られていなかった。少なくとも目の前の女子にはそう見えていたはずで、だが、あまりにも鮮やかな手付きと素早い腕の動きは、思わずその手にフラスコが収まっていたと感じてしまうほどだった。
果たして、ひどく退屈そうなその手から赤い粉末が女子の制服に振り撒かれる。
「うわっ、一体何すんだよオッサン──あれ?」
初対面の人間にいきなり何かを掛けられたら誰だって良い気はしない。確実に酷くなっているであろう自分の制服の汚れに目を向けた少女だったが──その目が見開かれた。
「
制服の上からベッタリこびり付いたホイップクリームとジャムの汚れが、まるで最初から無かったかのように消えていた。いやそれどころか、制服全体がクリーニング屋に預けたときみたいな、新品同然の着心地にすら感じられる。
「えっ、うぇええ!? オッサン一体これどうやったんだよ……?」
「単なる子供騙しの遊びよ。ともかく、嬢ちゃんはこれで良いかえ?」
「え? ああ、うん……服汚れてねえなら、まあ……」
「うわー先月付いたシミまで消えてるし」とか「生地もふわっふわだし……」とか呟きながら、ガラの悪い黒髪少女は自分の制服をあちこち見回している。何ならマイナスイオンまで漂っていそうな神秘を感じる着心地だった。
そちらから意識を逸らした赤い衣の男が、自分の背中に引っ付いた蜂蜜色の髪の女の子に目を向けると、目の端に涙を浮かべながらおずおずと出てきた。解決があまりにも突然のことで、今ひとつ現実味が無いのだ。
それから、被った制帽を外してペコリ。
「えっと、その……ごめんなさい」
「……今度から気を付けろよな。クレープだって勿体ないだろ」
元より男の知らないところで始まった問題。解決してしまえば関わることも無いわけだが、そんな二人の女子を置いて立ち去らない理由が男にはある。
赤い衣の男は、背丈の低い蜂蜜色の髪の少女に合わせて屈むと、口を開いた。
「さて、問題が片付いたところで……二、三聞きたいことがあるんじゃが、良いかえ?」
「おう、仮にも恩人だし、何でも聞いてくれよ」
「それはありがたい。ここは何という場所じゃ?」
「何って……
「──
ゲヘナ。
聖地エルサレムの近くにあったという深い谷の名に由来する単語だ。その谷がゴミの焼却処分場として使われていたことから転じて、常に燃え盛る地獄の意味でも使われる。そんな言葉の後ろに、明らかに似つかわしくない単語が聞こえた気がした。……学園?
眉をひそめる男に、今度はぶかぶかの学ランを羽織った少女が口を開いた。もう半泣きの表情はどこにもなく、外見相応の快活な陽気が漂っている。
「うんっ、おっきい学校なんだよ。マコト先輩とかチアキ先輩とか、楽しい人がたっくさんいるの!」
マコトとかチアキとか言うのは他の生徒のことだろうか。学園というからには自然なのだが、その学園について規模以外の情報がまるで無いことに男は首を傾げた。
あー、その様子じゃ何も知らねえようだから教えるけどさ……、と黒髪の女子が出してくれた助け舟によれば、ここはキヴォトスという複数の学校が集合して形成された学園都市で、各々の学校が個別に自治権を持っているという。
一見すると
例えば、目の前の女の子。よく見ると鮮やかな蜂蜜色の髪をかき分けて、黒いツノがちょこんと生えている。制帽を被っていれば分からない程度に小さいながらも、それはしっかり自己主張していた。
例えば、目に映る全ての生徒。形も種類も色々だが、みな共通して銃火器を携帯し、頭の上には光で出来たような環が浮いている。こちらは天使のようだが、果たして聖書に銃を持った天使などいただろうか。しかもそれぞれ形が異なるのだ。
例えば、生徒以外の通行人。顔面が液晶ディスプレイで出来た人型ロボットや、二足歩行の動物など様々だ。エジプトの神格にそんなのが居たと男は思い出すが、どうにもそれとは理屈が違うようだ。
「ふむ……であれば、突然そんな場所に来てしまった異邦人なこの老骨はどこへ行けば良いのかえ? 帰り道を探すついでにその地の役人に顔を通すくらいはしたいんじゃが……銃持った連中に囲まれながら街歩きは老骨ちょっと怖いかも」
「え、オッサン銃持ってねえのかよ……それ滅茶苦茶恥ずかしいぞ。噂じゃ街中で裸になるよりヤバいって……いや、どっちも見たことねえから比べようがねえけども」
「だったらイブキが連れてったげる! イブキ、
「ほほう、それは心強いのう」
学校が自治権を持つのなら、おそらく生徒会も相当の権力があるのだろう。
そのメンバーだと名乗る彼女についていけば問題も少ないだろうし、これは良い巡り合せだ……と喜ぶ反面、この
チラリと黒髪の女子に目をやれば、もう一度助け舟がやってきた。
「それならアタシも付いてくよ。どうせヒマしてるし」
「くくっ、案内人が二人も現れるとは。いやはや、これも縁というものかのう」
男がわざとらしく喜ぶと、イブキが元気よく声を上げる。
「よーし、それじゃあ出発しようっ! ……ええと、おじさん、何ていうの?」
「ん? この老骨のことかえ?」
うんうんと首を縦に振るイブキは、「あ、そういえばお名前聞くときは自分から言うってイロハ先輩に言われてたんだった!」と背筋をピンと真っ直ぐ伸ばした。
ぶかぶかに余った学ランの裾がはらりと舞う。
「えっとね、イブキは
「そうかそうか、礼儀正しくて良い子じゃな。時に、そちらのお嬢さんは?」
「アタシか?
「──ふむ」
名前。
そうだ。相手に名乗られたのなら自分も名乗るべきだ。
そんな単純なことが分からない男ではない。けれど。
古今東西、鬼や妖怪の類に名前を知られてはいけないというルールは数多くある。
一度知られてしまえば、それは自分の魂を委ねるも同然の危険なことだと。
逆に、悪魔の名を一方的に知ることで使役する術もある。名前というものにそれだけの意味を見出せる世界に男はいた。
ここが本当に地獄だとして、礼儀だ何だといって名を明かすのは危ないのではないか。
そんなことがつまらない言い訳に過ぎないことこそ、男はよく自覚していた。
要するに、名乗りたくないのだ。
(さて、何と名乗ったものかのう……)
目の前には、期待に目を輝かせるイブキと、訝しむようにこちらを見るリュウの姿がある。何時までも黙り込んではいられない。
一時の迷いか、義理立てか。果たして男は、イブキの純真な瞳に答えてやることにした。
「老骨は、
「そっか! よろしくね、ヨハンおじさん!」
「アタシもヨロシク。それじゃ、出発しますかね」
赤い衣の男──ヨハンは、イブキに手を引かれながら立ち上がると、導かれるままに歩き出した。
ここに、一人の達人の地獄巡りが始まる。
◇
「──そういえばお嬢さん方、その頭の上に浮いとるのは何かえ?」
「イブキのこれ? ヘイローっていうんだよ。何のためにあるのかは誰も知らないし、みんなにはハッキリ見えないんだけど……おじさんには見えるの?」
「ふむ、この老骨にはぼんやりした光の環に見えるぞ。まるで天使様じゃな。めでたいものよ」
「天使サマっていうなら
・赤き秘法の魔術
万物の第一質料より、世界を癒やす赤き秘薬を生み出して行使する魔術。ヨハンにとっては便利すぎるので「努力することをやめないため」に縛ることも多い代物である。
もっとも、どれだけ凄かろうとイブキたちにとっては汚れが取れる不思議な洗剤としか見えないのだが。
リュウはある種の案内人です。赤い花の形をしたヘイロー以外はゲヘナのモブ生徒的な外見だったり。舞台装置的な動きが必要になるので他の生徒というわけにもいかずオリキャラになりました。
魔術の仕組みや効果に関しては完全に捏造というか独自考察です。だって情報少なすぎて分からないんですもの……。
イブキかわいいよイブキ。