1602年の神聖ローマ帝国、現ドイツにあるテュービンゲン大学。そこに一つの始まりがあった。
ヨハン=ヴァレンティン=アンドレーエという男がいた。
神学の分野で名を馳せた祖父を持つアンドレーエ家の少年だ。彼は大学で神学を学ぶ傍ら、他の貴族の家庭教師を務めることで赤貧を補っていた。
当時のヨーロッパにおいて、大学に入るには相応の才覚と家の裕福さが要求されるわけだが、ヨハンにも確かに十分な能力があった。少なくとも大学から叩き出されない程度には。
そんなヨハンの平生といえば、適当に授業をサボりつつ、窓際でオカルト書籍を読みふけったり、捏造記事を使った大学の先生方への悪戯を仕掛けたりといったものだった。
時はルネサンスから少し経った頃。古きを訪ね、今を省みることに民衆が飽き始めた、そんな時代。
聖書の通り千年経っても神の子は復活しないし、御国の来ることもなかったことで十字教の求心力は低下し、内部で宗教改革が進んでいた。
進んだ技術や思想により、社会の粗方ができる範囲で改善され尽くしてしまったので一旦不満はないが、かと言って満足出来ているわけでもない。そんな雰囲気が17世紀のヨーロッパにはあった。
別に、ヨハン少年は神学に興味がなかったわけではない。
色々と改革が進んだ今、神様の考え方だって今一度議論すべきじゃないかと青い志を湧き立たせて入ったテュービンゲン大学で教えられていたことと言えば、昔ながらの権威主義ばかりだったのだ。
オイオイ、ルネサンスでちっとは変わったんじゃなかったのか。
高い金を払って入学した割に期待外れというのがヨハンの感想だった。
なので、ふざけた。
「ベーコンとシェイクスピアが同一人物だった」なんて号外新聞をバラ撒いてみたり、先生の一人が仕出かしたスキャンダルを大々的に喧伝してみたり。
それは彼なりの自己表現だったのかも知れないが、彼の盟友クリストフにも呆れられる程である。
身も蓋も無い表現をするなら、中二病のワルガキ。それがヨハンであった。
そんなヨハンが悪戯の集大成として企てたのは、とある捏造伝説の流布。
CRCと呼ばれる偉人が世界を巡って、そこで得た神秘の知識で
古い資料の断片という体で予告編を少しずつばら撒いて、それから本体を広める2年掛かりの計画。
時に、ヨハンの実家であるアンドレーエ家の紋章は、
詰まる所、これを権威主義の大学の面々が信じ込めば、彼らはヨハンの家の紋章を崇めることになる。そういう悪戯なのだ。
「……しかし、良かったのかえ? 老骨まで奢ってもらって」
「どうして? クレープ、みんなで食べると美味しいよ!」
「良いんじゃねえの、
「うん、イロハ先輩からは無駄遣いするなって言われてるけど、おじさんとリュウ先輩なら無駄じゃないから!」
「そう言ってくれるのなら、まあ、良いんじゃが……」
ゲヘナ学園への道すがら、ヨハン一行の三人は各々クレープ片手に通りを進んでいる。ついさっき落としてしまったクレープをやっぱり食べたいというイブキの要望であった。
通りに停まっていたキッチンカーで、ちんまい学ラン少女が少しつま先立ち気味に注文している様を後ろから微笑ましく見守るヨハンとリュウの二人だったが、突然イブキが大手を振って呼んできた。行ってみれば、なんとイブキは同じものを三人分注文していたのである。
フレッシュストロベリーチョコバナナクリームクッキーバニラアイスクレープ、とか言ったか。
まるで呪文か異教の祈祷文みたいな名前から繰り出されるのは、薄いクレープ生地にこれまた芸術的なまでに詰め込まれた具材の数々。中心に据えられたバニラアイスを囲うようにバナナとイチゴが花弁のように配置され、それを彩るようにチョコソース、ストロベリーソース、クッキークランチが掛かっている。
(そういえば”
よくぞ零さないように作るものだとヨハンは感心を隠さない。下手に傾けようものならその均衡は容易に崩れてしまうことだろう。こんなものを持った人間に正面から突っ込まれたら、服がベチャベチャになるのも已む無しだ。
というか、どうやって齧り付いたら良いんだコレ。
チラリとリュウの方を見れば、ヨハンと同じように攻めあぐねているのが視界に入った。
「……リュウの嬢ちゃんもお困りかえ?」
「ここまでのはあんまし経験ねえよ。てかイブキを見ろって、あのブカブカの袖でどうやってコレ掴んでんだ!?」
リュウが顎で指した先を見れば、言葉通りサイズの合わない学ランの袖越しにクレープを掴んでは、はぐはぐと頬張るイブキの姿が。ここまで器用な子供もそう居ないだろう。
目を細めるヨハンとリュウに気付いたのか、イブキが振り向いた。
「……
「いやいや、有り難くご相伴に預かるよ」
二人は顔を見合わせて、意を決して齧り付く。うまい。
ソースが染み込んでほんのり湿ったクッキークランチは口当たりが優しくて、淡く酸味のあるバナナとストロベリーが甘みにメリハリを与えている。何より中心のバニラアイスの冷たさは、快晴の青空から差し込む日差しと組み合わさると嬉しい。
気付けば手元には包み紙だけが残った。具が詰まっているとか溢れるとか、そういうことを考える間もなく完食してしまったのである。
「……うっま。こんな店あるなんて知らなかったわマジでうめえ」
「同感よの。『乳と蜜の流れる地』とはこのことかえ、口の中が幸せじゃ。ありがとうなイブキ嬢ちゃん」
いいのいいの~! とイブキはぶかぶかの袖をぶんぶん振って喜んでいる。その動きに合わせて学ランの裾からチラリと覗いた尻尾はまさしく小悪魔のそれで、ヨハンは尚更ここキヴォトスがどういう場所なのか分からなかった。
それはそうと口元にチョコソースが付いているのを認めたヨハンは、例によって何処からともなく取り出したシルクのハンカチでイブキの顔を拭ってやった。
丁度、そんなときだった。
──パラパラパラ、どんッ。
乾いた破裂音が連なって、それから地面が揺れた。地震というよりは一度強く叩きつけられたかのような。音の大きさからして隣の大通りからだろうか。
「……何かえ?」
おおよそ街並みには似つかわしくない音だが、周囲の通行人は動じることなく歩いている。
──いや、隣の通りからは逃げてきたロボット人間やら動物人間やらが疎らに通り過ぎていった。雰囲気を感じ取ったのか、イブキはヨハンの側に引っ付いている。
だが、リュウは笑顔だった。ニヤリと獰猛に口角を上げて、何処か愉しげにすら見える。
「なあ、オッサン。ここがどういう場所か手っ取り早く説明出来そうなんだが、どうだよ、行ってみねえか?」
「それは歓迎じゃが……イブキ嬢ちゃんは怖がっとるようじゃぞ?」
「なに、見に行くだけだよ。何ならイブキはここで待ってても良い。すぐ終わるさ」
「ううん、私も行くよリュウ先輩。生徒会だから」
意を決したイブキを尊重して、三人は細い路地を通って隣の大通りを目指した。
道は狭くて薄暗いので先導のリュウを前に、ヨハンはイブキを最後尾にして進む。
「アタシやイブキもそうだけど、みんな銃持ってるのはもう見ただろ? ここの人間はみんな頑丈でさ、銃で撃たれたくらいじゃ簡単には死なねえ」
「なるほど、暴力のレベルが上がっていると。頭の上の……ヘイローだったか、それのお陰かえ?」
「話が早えな、その通り……ってかヘイローに関しては詳しく分かってねえんだけど。
何にせよ、簡単に死にはしねえが撃たれりゃ痛い。つーわけで手っ取り早い暴力の手段に銃撃戦が当たり前なのよ。そこいらのコンビニに行けば銃弾だって安く売ってる。逆に言えば銃を持ってねえヤツはナメられるし、それだけ常識知らずってことになる」
「だからといって、急に銃を渡されても扱える気はしないのう。老骨こわい~」
「……。特に
だからそれを覗いたらここの雰囲気だって──。
細くて薄暗い路地の出口に差し掛かったときだった。
ずずん……ッ!!
その言葉を遮って、出口から見える大通りの景色が衝撃と砂煙に飲み込まれた。
奇妙なことに、砂埃は見えない壁に止められるように路地に入り込むことはなかった。
「のう、リュウ嬢ちゃん。その戦いというのは巨岩や瓦礫が飛び交ったりするものなのかえ?」
「……いや。おかしい」
リュウは即座に背中に掛けていたアサルトライフルを構えると、路地の出口ギリギリの壁面に張り付いてカバー。化粧用の手鏡で写してチラリと大通りを覗いた。
「ダメだ、分からねえ。イブキ、オッサン、戻るぞ。案内ツアーは悪天候で中止だ」
大通りを向いたまま、ハンドサインで後ろを指差すリュウ。その声からは先程までの余裕が見られない。
だが。
「──いやいや、お嬢ちゃん。
それはリュウが失った余裕を拾うようだった。
震えるイブキの肩を優しくぽんと叩いて後ろに下がらせて、ヨハンは悠々とリュウの前を歩いて進む。
「オイ待てよ危ねえって!」
「ひっひ、興味興味~」
そのままヨハンの姿は、未だに視界を遮る砂煙の中に消えてしまった。
それを見届けたリュウは、不安げなイブキと大通りを何度も見比べてから、しびれを切らしたように言う。
「あ、あーもうッ! プランBだ、イブキはここで待ってろ──アタシはあのオッサン引きずってくる!」
◆
どんっ、バラバラバラ、ずずんっ。
その大通りの景色は惨憺たる有り様だった。
アスファルトはめくれ上がり、面する建物はヒビが入って抉れ、壁に打ち付けられて倒れた生徒の姿。
砂煙の中に、巨大な影が見えた。
「痛って……何なんだよアイツ……!?」
「──早く立って走れ! 潰されるぞ!」
「撃て撃て撃てえッ! 弾切れのやつは怪我人引きずって下がれ!」
ヘルメットとマスクで顔を隠した生徒たちが、砂煙の中に向かって銃弾を撃ち込んでいる。
彼女らは名のある不良グループのメンバーだったが、名声は危険を退けるチケットにはなり得ない。
「──グレネード行くぞ! 距離取れッ!」
からんころん、という小さく乾いた音の後で衝撃と爆炎が上がる。巨大な影が、動いた。
ぶもおおおおおおお────ッ!!!
それはまさしく怪物だった。
暗い肌をした牛頭に、筋骨隆々の体格は人を縦に二人並べたって足りないだろうか。同じ大きさの両刃斧を構えたそれは、神話に登場する地獄の番人──ミノタウロス。
その叫び声は万人を震え上がらせ、その巨体から繰り出される斬撃に耐える生物など居ないだろう。
もっとも授業崩壊が当たり前のゲヘナにおいて、学のない不良たちは角の生えたこれを知らない。精々ステレオタイプなバケモノという評価が限界で、そんな相手にやることと言えば1つだった。
「チィッ、なんだって街中にこんな怪物がいるんだよ……! タマが全然効いてねえ」
「コイツどうするんスか姉御……? 向こうのグループとも関係無いっぽいスけど……」
「ほっとくわけにいかねえだろ……精々、このままド派手にやりあいつつ風紀委員がやってくるのを待つくら
ギリギリで会話を続ける不良二人の視界が突然真っ暗になって、姉御と呼ばれた方の言葉が途中で止まる。
「ぁ、ぁぁ……」
二人の間に、一瞬前まで存在しなかった鈍色の壁が現れていた。子分の方が下に目をやると、なにかが落ちている。片方の端から赤い液体をどくどくと溢れさせる、見知った服の袖に包まれたそれは──。
──ずんっ。
空気が押される音がした。
誰も、何が起きているのかを理解する間もなく、視界が明るさを取り戻す。
子分の前にあった鈍色の壁も失われ、それが後ろに飛んでいくミノタウロスの大斧だったと辛うじて分かる。だが子分の不良はそんなことが気にできる精神ではなかった。
「ぁあ……」
そこに姉御がいた。ごぼごぼと赤い液体を吹き出す左肩を抑えて倒れている。そこにはあるべきものが無くて。いや、それは足元に転がっていた。
「逃げ、ろ……」
「──あ、あねごっ、姉御ォッ!!」
ヘルメットとマスクに覆われた顔に表情は無い。だが、その向こうには溢れんばかりの悲鳴と涙があった。子分は縋り付くように屈み込んで、自分が血まみれになるのも気にせずに抱き寄せる。
「早、く逃げろって……マジで、これ、ダメ」
「出来ねえっスよ! 学園まで耐えてください、セナならきっと何とか──」
普段より少しだけ軽くなってしまった姉貴分の身体を持ち上げようとする子分の視界の端に赤いものがチラリと映り込んだ。それは血のように鮮やかで、だが血ではない。
では、なんだ?
「──なるほどのう。随分と個性的に見えるが……ここかえ? 祭りの場所は」
それは青年だった。赤い衣に身を包み、銀色の髪と髭を蓄えた青年。だが声は老人のようにしゃがれていて、喋り口調もそれに合ったものだ。
老人なのに、青年。そんなチグハグ人間は、いつの間にか遠方にふっ飛ばされていたミノタウロスには目もくれずに、興味深そうに不良二人の前にしゃがみ込んだ。
「あっ、アンタ一体何者──じゃねえ、誰でもいいから姉御を連れて行ってくれっ! 見ての通りなんだ、早くしねえと、姉御が──」
赤い衣の青年──ヨハンは、片手で子分の言葉を制すると、反対の手指で手近な瓦礫の山をスルリと撫でた。
「──
わざわざ口になど出してやる必要もなかった。だから、どちらかと言えばこれは分かりやすい説明代わりのもの。
命じられた瓦礫は独りでに動き、姉御と呼ばれた少女の失われた肩口へ集合する。1秒もかからず、そこにはツルリとした陶器のような質感の腕が現れて出血を止めていた。人の身体にピッタリとマネキンの腕が接ぎ合わされている光景はどこか現実味が薄い。
「えっ」
「……む?」
更に次の瞬間には、マネキンのような腕は元の柔らかい血色を取り戻していた。失われた制服の袖を除けば、まるで何もなかったかのように。
それは、広い世界を隅々まで旅して技術や知識を習得し、蒸留器の中でゼロから人間を創り上げるまでに至ったCRCの技術。元に戻す『復活』ではなく、新しく作り出す『修繕』のはずだった。
だがヨハンの意に反して、その結果は復活の方になった。
(地獄らしいと仮定して『
「えっ、ええ!?」
くるくると銀の髭を指先で弄びながら考え込む横で、現実に思考が追いつかない子分は、アスファルトの上でちぎれ飛んだままの姉御の腕と、治った姉御の腕を見比べて、驚愕する。どっちもあったのだ。
だが、治ったものは治った。難しいことは考えないのが特技の不良少女は、出血多量で意識の怪しい姉御を抱えて立ち上がる。礼を言ったらすぐに学園に向かわねば。
「あっ、えっと……アンタは?」
「通りすがりのヨハンおじさんじゃ。覚えんでよいぞ」
「ヨハンのオッサン、スね。とにかくありがとうっス! それよりオッサンも早く逃げた方がいいっスよ、アイツ……まともじゃねえ」
返事も忘れて思索に耽るヨハンを置いて、怪我人を抱えた不良少女は隣の大通りへと引き下がった。遠方で倒れたミノタウロスも立ち上がり、怒りの咆哮を上げている。
方法は分からないが、直前にこの怪物をふっ飛ばしたのはヨハンだ。次の瞬間にその敵意が向けられるのが誰か、その場にいる誰もが察することが出来た。
「……もう少しサンプルが無いと判断に困るか。良い機会じゃ、ここでしっかり調べるのも一興かの」
ヨハンの興味が、ミノタウロスの方へ向いた。
・『修繕』
薔薇十字系でも古い位置付けの魔術。それはあらゆる死病を克服し、寿命そのものすら操作する赤き秘薬の製造法の応用であり、欠けた人体であろうがそれ以上にしなやかな代物をその辺の瓦礫からでも造り出せる。
新しく造られた姉御の腕は、ヨハンの意図とは別にその精緻さで世界を騙してしまった。
一度は善なる達人CRCを着込むまでに至った以上、一応はその優しさも身に着けているはずで、地雷さえ踏まなければ普通に助けてくれるヨハンがいてもいいんじゃないかと思う今日このごろ。
力で解決する側面が比較的強いゲヘナの生徒なので、リュウも同様に街のカオスを楽しんでいる節があります。いざ対岸の火事を見物しに行こうとしたら、今回は変なのがいたわけですが。
クレープのくだりはフード理論的なあれです。