20 羽川翼
その名前は、十三階段において特別な意味を持つ。
羽川翼。——
狐さんこと、あるいは貌のない狐こと、十三階段の首領、
最新参の人間でありながら、他の誰よりも恐れられる、十三階段の最終。
十三階段の最終目的——世界を終わらせるためのキーピース。
あるいはかつてにはその座に君臨していたという、人類最終——橙なる種にさえも、その存在値で言えば匹敵するのではないかと噂されるほどで——この私もまた、彼女に対しては深い苦手意識があった。
苦手意識が。
あるいは——恐怖意識が。
この身に、この心に、この魂に——深々と、刻み付けられていた。
一見して、彼女は普通の少女にしか思えない。
私よりも年上でこそあるけれど、しかし至って普通の、悪く言えばどこに至っておかしくないような、普通の少女。
ちょっとばかり、頭の出来はいいようだけれど、逆に言えばそれくらいのもので、それくらいが取り柄の、『普通の世界』の住人でしかなくて、人の域を遥かに超越した魔人揃いの十三階段の中では、むしろ下から数えたほうが早いくらいのスペックなんじゃないだろうかとさえ思って——
それが致命的な間違いだと痛感したのは、彼女の第一声を聞いた瞬間だった。
『こんにちは、眉美ちゃん』
それだけだった。
ただの、挨拶。
ごく普通の、至って当たり前の、誰もが当然に交わす挨拶。
それを投げかけられた。
それだけで。
それだけで——
そう思った。
あるいはそれは現実に開いた『孔』のように。
全てを惹きつけ、そして逃れがたく飲み込むブラックホールのように、底なしの暗黒にも似て、けれどこの上なく蠱惑的。
自ら呑まれたいと。
この身を、この心を、この魂を——その全てを、捧げてしまいたいと。
そう思わされるような、悍ましいほどの魅力。
あるいは、ともすれば——最悪をさえ超越するようなそれ。
それに触れて私は——逃げ出した。
空間を制作する魔女になら、私は揺るがされることはないだろう。人を人形に変える人形士になら、私は操られてなお一矢報いる覚悟がある。一人にして六人たる魔人の集合は、恐ろしくあれどそれだけだ。神の如き魔法使いでさえ、所詮は人間に他ならず。一京のスキルを持つ人外でさえ、ただ全能なだけにはなんの意味もなく。正体不明の少年は友達で。人体改修者が弄れるのは、所詮肉体のみであり。全てに絶望した白き暗号皇帝は、それゆえにこの世の何より脆く。
けれど——あれだけは。
羽川翼だけは——ダメだ。
あれはもう、どうしようもない。
この世の何にも、どうしようもない。
あれは——終わっている。
終わっていて、終わっていて、終わっている。
あるいは最悪をさえ超越して。
最終でさえ太刀打ちできぬほどに。
あれは終わり尽くしていて——だから。
彼女の前で空間など一つの意味も持たず、彼女の前では初めから全ての人間は人形で、彼女の前で一人にして六人の魔人など頭数が億は足らず、彼女の前で神の如き魔法は陳腐なペテンに成り下がり、彼女の前で一京のスキルなど単なるキャラ付けでしかなくて、彼女の前で正体不明の少年は間違うことを許されず、彼女の前で人体改修など無価値に過ぎ、彼女の前で暗号皇帝はただの少年に逆戻りし——彼女の前で。
私は縋れる柱すらない、孤独な女子中学生でしかない。
だから——私は逃げた。
彼女から、立ち向かうべき十三階段から、噛み砕くべき西東天から——私は逃げて。
潜入中だなんて言い訳をずるずると使って、報いるべき一矢を捨て置いて、私はだらだらと、私はへらへらと、十三階段のぬるま湯で腐り続けていた。
けれど——その日々ももう終わりだ。
私は今度こそ、立ち上がる。
協力者の当てを得てというのが、情けない限りで、恥ずかしくなるけれど。
それでも今度こそ、私は立ち上がる。
もう一度、あの煌めくような探偵団の一員であるのだと胸を張るために。
——我らがリーダー、麗しき小五郎。
『美学のマナブ』こと
21 西東天
集合場所はミスタードーナツだった。
ミルクとお砂糖の甘い匂い。目の見えない私に変わって、彼が選んでくれたフレンチクルーラーを齧りながら、私は話す。
「——というわけで、今、羽川翼さんは十三階段の一員として、西東天の下でその辣腕を振るっていらっしゃいます」
世界を終わらせるために。
物語を終わらせるために。
『
彼女は今も——その能力を振るっている。
「……そう、か」
衝撃と、諦念。そして何よりも、深い後悔。たった一言の返答に含まれる感情はあまりにも重たく、推し量るには大き過ぎた。
彼は。
怪談百面相は——ため息を吐く。
「西東天——西東天、ね」
噛み締めるように、彼はその名を口の中で転がす。
「……なあ、眉美ちゃん」
躊躇いがちに、彼は問いかけを口にする。
その疑問を。
疑念を。
疑惑を——疑心を。
「
人ならず、そしてまた怪異ならざる彼は、けれど西東天をこそ、そんな風に疑った。
「かつて——僕が彼に出会った時……いや、出会ったと言えるのかどうかも、今となってはわからない。あれはただ、すれ違ったというだけなのかもしれない。出会ったなんて烏滸がましくて。相対したなんて思い上がりで、敵対したなんて思い過ごしで——僕は奴にとってどうしようもなく、単なる炉端の石だったのかもしれないけれど——それでも、かつて奴と遭遇した時。僕は、僕には——」
——あれが人間には、見えなかった。
と。
彼は語る。
『——よう、お兄ちゃん』
その時。
彼は生まれて初めて——『己の終わり』を覚悟したという。
それは死なんてありきたりな結末ではなく——それよりももっと悍ましい、魂の終わり。それを、否応なく齎される、どうしようもない終末を、人生に刻まれる、どうしようもない致命傷を、決定的に予感して——
『そんなに急いで、どこへ行くんだ』
振り向いた、その時。
そこにいたのは——狐だった。
九本の尾を揺らす、悍ましいまでの重圧を放つ狐。
ゆらめく尾に隠れて、その姿は見えづらかったけれど、それはかろうじて、人の姿を模っているようでいて——けれど。
その男には——貌が無かった。
「……僕はそれが、それがただただ、恐ろしかった」
重みを奪う蟹よりも、迷い惑う蝸牛よりも、願いを叶える猿よりも、人を呪う蛇よりも、異形の翼を持つ猫よりも、鉄血にして熱血にして冷血なる鬼よりも。
その貌のない狐は、ただひたすらに恐ろしくて——
だから。
『——邪魔したな』
幾許か、今となっては思い返すこともできない、二言三言、何事かの言葉を交わした後。
そう言って、その男が彼の真横を通り過ぎて行った時。
彼は——阿良々木暦は、ただひたすらに安堵した。
胸を撫で下ろして、体を掻き抱いて、涙を流して——安堵した。
己が
それがどれほど情けなく、そして愚かな行いであったかを、後になって痛感した。
「僕にはどうしても、
あれが。
人間だとは——思えない。
なんて、彼は語って——けれど。
「……人間だ——と、思いますよ」
私は答える。
あの人は。
西東天は怪異なんてものでは、きっとない。
あるいは一度死に果て、因果から追放された身であると自称する彼だけれど——それでもなお、彼はどうしようもなく人間だ。
私はそう思う。
あれは——最悪だ。
人類——最悪だ。
人の心を誑かし、物事の箍を軽はずみに外し、全ての因果を当たり前のように狂わせ、世界を終わりに導く、最悪。
そんなものが、人間でないはずがない。
あれほどの最悪は。
あれほどの醜悪は。
あれほどの極悪は——きっと。
人間にしか、許されない。
「——人間にしか、許されない、か」
怪異でなく。
怪しく異なるそれでなく。
私たちと同じ人間の、その極点。
それがこそ西東天。
それがこそ人類最悪。
私はそう思う。思わざるを、えない。
「そして、彼が人間だからこそ。あれが人間だからこそ——やりようは、あると思うんです」
私は言う。
「私の——美少年探偵団の団長、『美学のマナブ』は、西東天を追う途中で行方不明になった——らしいです。正直、情報が錯綜していてよくわからないと言うか、そもそもその頃は、美少年探偵団は実質的に解散していて、メンバーはそれぞれ、散り散りになっていたので、正確な情報というものをそもそも仕入れられてないんですが……」
いずれにせよ確かなのは、『美学のマナブ』が十三階段を追っていたこと。
そして現在、行方不明であること。
その二つだけだ。
「西東天が
攻略法は、ある。
あるはずだと、信じている。
「……厳しいことを言うようだけれど、僕は正直、
それは。
そんなことは、許されることなのか。
許されても、いいことなのか——?
苦悩を吐露しながらも、彼は話を続ける。
「そして何より、行方不明の件だ」
彼は苦虫を噛み潰したような表情で言う。
「……はっきり言えば、
神隠しのような怪異ならば、むしろそっちの方がよほどいい。
人間が人間の手で、人を晦ませたのならば——あるいは。
「最悪の可能性もある……ってことですか?」
恐る恐る問うた私に——けれど彼は首を振る。
「いや、多分、その可能性は低い」
被害者が行方不明になっている——それにはおそらく、意味がある。
彼は言う。
「その十三階段って組織は聞くところによれば——
その言葉に、私は胸を撫で下ろす。
そう、そうだ。そうに違いない。彼が——『美学のマナブ』が、こんな美しくない死に方をするはずがない。
そう思って、安堵した私の心を——けれど彼は戒めるように言う。
「ただし、無事だとは限らない」
生きてはいても。
完全に無事な状態かは、わからない。
彼は言った。
「流石の僕も、考えたくはないけれど——
だからこそ。
だからこそ——
「僕は、速攻を仕掛けるべきだと思う」
できるだけ迅速に奇襲をかけ、電撃的に十三階段の首領——西東天の身柄を押さえ、
それこそが、彼の用意した策だった。
「話を聞くに、十三階段は貌のない狐の——西東天のワンマンチームだ。彼がこそ十三階段のトップであり、同時に要。十三階段のメンバー同士は、そう強固な結束があるわけじゃない。むしろ強固な我を持つもの同士、反目してさえいる。全員が全員、西東天に心酔して集った同志であると言う点でのみ共通していて——逆説、彼がいなければ容易く空中分解してしまうような、儚い組織でしかない。だからこそ、叩くならそこだ」
まずは西東天の身柄を押さえ、十三階段を解散させる。
散り散りにして、バラバラにして、解きほぐす。
そしてそのあとは、個別に撃破していく。
蜘蛛の頭を押さえ、その足を一つ一つもいでいくかのように。
「その過程で、君の団長——双頭院学くんの身柄も取り返す。西東天を人質にすれば、おそらくそれは叶うだろう。最悪、うまくいかないようであれば人質交換にすればいい」
「……でもそれだと、百面相さんの目的は叶わないんじゃ?」
「いくら男子とは言え、幼気な小学生の身の安全を犠牲にしてまで果たさなきゃいけない目的じゃない。……少なくとも羽川については、肉体的には、元気にやってるみたいだしな」
酷い扱いを受けているわけでもなく、むしろ仲間として、歓迎されている。
なら、優先すべきは、君の事情だ。
怪談百面相はそう言った。私には見えないけれど、きっと優しく微笑むように。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちの方だよ。君に出会えなくちゃ、僕は一生、あれを怪異の類だと思い込んで的外れな捜索を続けていただろう」
敵の本丸への道筋がついたのは、君のおかげだ。
彼は言う。
「それじゃあ、方策としては狐さん……西東天に奇襲を仕掛けるってことですか?」
でも、しかしそれを、どうやって?
彼は現在、どこにいるのかもわからない。
行方不明、なんてわけじゃあないけれど、風の向くまま気の向くままと言うか、あっちにこっちにふらふらしていて——本人曰く、『全ての物語を終わらせる準備』中だそう——その所在は十三階段の一員である私にすらも掴めない。
そんな状況で、奇襲をかけようと言ったって——
「それについては一つ、案がある」
彼は言った。私には見えないけれど、きっとニヤリと得意げな笑みを浮かべて。
はてさて、それは一体どんな奇策なのだろう? 期待を抱く私に——彼は言う。
「眉美ちゃん、君——」
僕を捕まえてはくれないか? と。
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