「いらっしゃい、アオバちゃん」
建物の前で先生にモモトークを送って、エレベーターに乗ること何十秒か。開いたエレベーターの先に、先生の姿があった。
――わざわざ、私を出迎えたりしてくれなくてもいいんですけど……。
「アオバちゃんに早く会いたくて。あと私からお願いしたわけだし、ね?」
――……先生、私の思考を読まないで欲しいんですけど。
だとか言う前に、先生は私の手を取って歩き出す。掴まれた瞬間、私の心臓が跳ねるのも、変な声が漏れそうになるのも、背中から変な汗が出そうになるのも、全部全部、気にしないようにして。
――きっと先生は、他の生徒にも同じようなことをしてるんだろう。だって先生は、たくさんの生徒に慕われてる方だから。
――だから。お願いがある、とか言ってそんなことして。…………期待、させないで欲しいんですけど……。
エレベーターから部屋の入り口まで、ほどほどに距離があってよかった、と思う。それまでの時間で、気持ちの整理ができるから。息を大きく吸って、吐いて。意識を切り替える。生徒としてではなく、仕事として私はここに来た。期待なんてしない。期待なんてするだけ無駄。私はただの生徒でしかなくて、先生に取っては物を直してくれる便利な生徒、それ以上でも以下でも、ないのだから――。
「さ、入って入って。温かくしてはいるけど、暑かったり寒かったりしたら言ってね」
シャーレの中は温かくて、先生の匂い――大体がコーヒーの匂い――に包まれていて、ガラス張りのドアを開けた瞬間から、心が落ち着くのを感じる。
そして机の上には、電気ポットがぽつんと置かれていた。
「これ、ですか?」
「そうなの! 昨日からカップ麺が食べられなくてもう大変で!」
両手を握って力説する先生は、子どもみたいで――大人には見えない。でもレディススーツを着る姿は、やはり大人。見た目と行動が一致しない、不思議なお方だな、という先生への印象は、あの時からあまり変わってはいない。
「壊れたものは捨てて、替わりの物を買うって選択肢はなかった、んですか?」
「うん、ちょっと前まではそう考えてたんだけど」
「けど?」
「アオバちゃんなら、直してくれるかなぁって」
にへら、と笑って、両手を合わせて、顎の下に指を当てる。
「…………」
先生に、頼られてるとそう思えるのが。……それでもやっぱり、嬉しくて。
自分に、世界に、期待してない、何もないと思ってるのに、ほんの少しだけ、いいことがあったなって思える。
「…………分かりました。では、始めますね」
「うん。――アオバちゃん、よろしくね」
「――――――」
ポットに目を向けようとして、耳から聞こえてきた言葉に、思わず振り返る。
先生がいつものように、私の方を見ていた。
いつもと同じ体勢。でも、そのお顔は。
どこか、私を、信用、してくれているようで。
いつだったか、先生が私にモモトークで助けを求めて、コーヒーメーカーを直したとき。先生はいつものようにプランAを試そうとする私に『大丈夫……?』と言って心配そうな顔をしていた。
今聞こえてきたのは、『壊したりしないでね』だとか、そういう言葉じゃなくて。ただ、『よろしくね』と、それだけ。
「いつもありがとね、アオバちゃん。疲れたら給湯室のお菓子とか食べちゃっていいからね」
「…………はい」
先生の言葉に、私は短い言葉で返すのが精一杯。口元が緩んじゃって。なんだか、胸がドキドキとして止まらなくて。期待、なんて、全然、してないのに。嬉しいって気持ちが、出てきちゃって。
先生の顔を、見られなかった。
そうしていると、ふと。
頭の帽子が取られる感覚。
頭を撫でられる感覚。
先生の手付きは柔らかくて、その手は温かくて。口元はゆるむし顔は赤いし、もし今ポットを叩こうものなら絶対変なところを叩いてトドメを刺してしまいそうだから。少しだけ、気持ちを落ちつかせる時間を作る。
吸って、吐いて。もっと大きく吸って。大きく吐いて。何回か深呼吸をして、目を開ける。
胸のドキドキは――完全には治まってないけれど、少しはマシになったと思う。
――先生……。整備の前に、揺らがさないでほしいんですけど……。
振り返る。先生はいつもの机に座って、難しい顔をして書類と睨めっこをしていた。先生には先生の仕事がある。なら私は――私の仕事を、する。
先生が直して欲しいと言ったポットを改めて見る。
シャーレの先生が使ってるからと言って、特別なものでもなく、量販店で売ってるような電気ポットだった。先生が言うには、昨日の夜にお湯が沸いていないのに気づいたらしい。ポットに電源を入れた時期を聞くと、一昨日の明け方らしい。……先生、いつ寝てるんだろうか、と思う。
電源ケーブルが断線しているのか、と思ったけれど、繋いだ瞬間にほんの一瞬だけ『沸騰中』のランプが着くのを確認。悪いのはケーブルではなく、ポット本体だと判断。外観は異常無し。ポットを開けて、中を見るけど異常らしいものはない。――なら。
工具箱からいつものパイプレンチを取り出して、振り上げる。右上斜め四十五度の角度で、振り下ろす。
ガンッ、と、硬い音がシャーレの部屋に響いた。
先生の方を見ると、書類を手にして苦い顔をしている。ちょっと前に修理をした時はそわそわとした顔で私の方を見てたり、レンチで叩く度に肩を跳ねさせていたものだった。ここで何回か修理をしたおかげで、先生も慣れたみたいで、そういう所でも、私を信用してくれているんだな、というのが分かって。
「――――――………………」
口元が、緩みそうになった。口にしっかりと力を込めて、私は目の前のポットに集中することにした。
ガンッ、ガンッ、ガンッ。
今度は左斜め上から。何回か叩いてから電源コードを指しても、先ほどと変わらない。
話からして、接触が悪いのだと思うから、叩けば直る――はず――なん――だけど。
ガンッ、ガンッ、ガンッ。
左右均等に、右側を多めに、左側を多めに、異常箇所の付近、異常箇所の逆側――どのパターンを試してみても、結果は同じ。
プランBの分解をしようにも、あるはずのネジがどこにもない、不思議な構造をしていた。
見た目は量販店のものなのに、なんだかそれとは異なるのかもしれない。
だから私は、叩き続けるしかないのだけれど――。
どれだけ叩いても、ポットは湯沸かしができるようになるどころか、保温のランプすらも最初のまま。
それどころか、やがて保温のランプも点かなくなった。
電源を差し直す。無反応。抜いて、指す。無反応。
ガンッと叩いてから、指す。無反応。
……あれ。もっと悪くなってる、ような……。
「…………」
じわじわと、私の中に、もしかしたら、という考えが浮かんでくる。
――もしかしたら、私が、本当に壊して――――。
「アオバちゃんアオバちゃん」
「――――ひゃぅあ!」
パイプレンチを振り上げたところで背後から声がして、跳び上がりそうになった。
現場で作業をしているとき、声をかけるのは作業者の手が止まったとき、というのが現場のお約束――もちろん守らない人もたくさんいる。上司とか上司とか幹部とか。
不意に挙げた頭で先生を頭突きしてないだろうか、とか、パイプレンチが当たったりしてないだろうか、と思ったけれど、振り返った先にいた先生に痛がる様子などはなかった。
安堵のため息を付いていると、先生がにかっと子どもみたいな顔をして、背中に隠していた手を私の前に出す。その手に握られていたのは。
「叩いてばかりじゃ疲れるでしょ。チョコバー、食べる?」
そう言って出してくれたのは、いつかの日にノゾミが列車を止めるための道具として出してきた――もちろん使えるわけがなかった――もの。
いつもなら、先生から貰ったお菓子は工具箱の中に大事にしまって、家で大事に大事に食べるのだけれど、既に袋は開けられていて、チョコバーの中身をずい、と向けられていた。
そんな状態なら、ここで食べるしかなくて。
「……あ、ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
私が受け取るのを見て、にっこりと笑った先生は、私と入れ替わりにポットの方へ。
所々が凹んでいるポットを見て、先生は何やら「ふむふむ」と声を漏らす。……私の修理が失敗したのが分かったんだろうか。私になんて言おうか考えているんだろうか……などと思っていると、先生はおもむろに机の上に置いてあった私のパイプレンチを手に取った。
「……ぅ…………重…………」
私が持っているものを触ってみたかったのだろうか、と思う。それにしては、パイプレンチを持つ手が震えているような……。
などと思っていると、先生は両手で持ったパイプレンチを振り上げて――。
ゴンッ、とポットから軽い音がした。
「~~~~~~~~ッ」
ポットにパイプレンチが当たったまま、先生の動きは、そこで止まる。
私の所からは先生の横顔しか見えないけれど、目を見開いて口をきゅっと引き締めているのが分かる。
パイプレンチを持ったときの様子、そして今の動かない様子。
その二つから考えられることは、すごく少なくて。
――もしかして。……先生って、すごく、力が弱いんじゃ…………。
そう思うまで、時間はほとんど掛からなかった。
やがてゆっくりと先生の手が動いたかと思うと、震える手でパイプレンチを机に置いて、それから自分の掌をまじまじと見る。
その手は今もぷるぷると震えていて。
やがてハッと我に返ったかと思うと、私の方を見て、先生はからからと笑う。
「あっちゃー、困ったなー!」
だなんて、変に明るい声がシャーレの中に響く。
机の上に無造作に置かれている電源ケーブルをポットに差す。もちろん、反応なんてしない。
「いっけなーい! アオバちゃんを真似してポットを叩いたら、なんかトドメ刺しちゃったみたい!」
どこかわざとらしく。どこか演技じみて。先生は言う。
何回か電源ケーブルを抜き差しして、うん、と頷いて、先生は私の方を見て、言う。
「あー、折角アオバちゃんが直しかけてくれたのになー! ごめんね。なんか私がやっちゃったみたい。私が」
「…………」
『私が』と強調する先生。どうやら先生は――。私、を。
――……そんな優しいことをされても、私は先生に返せるものなんて、ないんですけど……。
「……なんですか、それ。バレバレなんですけど」
「ん? なんのこと? 私分かんないなー?」
誰が見てもバレバレな嘘を、先生は突き通す。
ポットを完全に壊したのは、自分の一撃が原因だと言う先生に。その話に付き合うべきかどうか、ほんの少しだけ悩んでいると、
「さて、本格的に私が壊しちゃったことだし、買い出しに行かなきゃね。ポットがないとカップ麺が食べられないしー、あ、そうだ!」
引き出しの中から厚手の財布を取り出しながら、先生は言う。……いくらここに私しかいないからと言って、財布を取り出す所を見せるのはあまりに不用心なんですけど……。というか、財布がある場所くらい、鍵を掛けるかしないとダメだと思うんですけど、先生。
そう、口にしたかったけれど。私の所に戻ってきた先生を前に、言葉が出ることはなかった。
だって。
「これから駅前のエドバシに行くんだけど、アオバちゃんもどう? 修理してくれたお礼に、何でも買っちゃう!」
だなんて、私の手を取って、言うんだから。
「あ、でも、お店丸ごと、とかはダメだよ?」
「…………ふふっ」
先生は私をなんだと思ってるんだろうと思う。そんなこと、言うわけないです、と言う代わりに、ついに吹き出してしまう。
ちょっと前まで修理できなかった自分を嘆いていたはずなのに。気がつけばその気持ちは、どこかに行ってしまっていた。
「さ、行こ行こ。アオバちゃんが頑張ってくれたんだもん。帰ったらアオバちゃんが直してくれたコーヒーメーカーで一緒にコーヒー飲もうね!」
私の返事なんて聞かずに、先生は私をつれて、そのまま部屋の出口へと歩き出す。
私はその手を、振り払う気には、どうしてもなれなかった。
修理という行為は魔法でもなんでもないから、元々壊れてる物を元通りにすることはできない。
だからアオバちゃんの修理だって、全部が全部、完璧に直せる訳じゃない。(というかプランAの修理方法的に、直せる方が少なそうなイメージもあるけどそれはそれ)
アオバちゃんは完璧超人でもなんでもなく、一人の生徒。
だからこんな光景がシャーレにあってもいいし、それでもどこか救われたり安堵できたりするアオバちゃんがあってもいいと思う。
そんなお話。