決して、乗り間違えることがないように。
朝が来る。作り物の空に、色のない陽が差し込む。
鞄の枕。硬いベッド。薄っぺらい毛布に皺をつける。車酔いでもないのに吐きそうな頭が寝不足を訴えてくるけれど、ダブル勤務したときに比べればまだマシだ。
雨風をしのげて、誰も入ってこられない扉があって。棺桶の中で寝たり、紐に引っかかるようにして寝るわけじゃない分。まだマシだ。
マシだ。まだマシだ。マシなんだ。
そう考えていないと、心がねじれ曲がってしまいそうになる。期待なんてしなければよかったのに、明日が来なければいいと思っていたのに。
もう少し目を閉じたい。見たくない。考えたくはない。だけど、カチカチと鳴る時計だけが私を急かす。
「はぁ……行かなきゃ……」
1秒。2秒。規則正しく、足音のように。
残る時間は10分足らず。駅まで歩くのに10分くらい。普段よりも早く進む時間の中で手探りに、帽子を手に取り鞄を引っ掴んで走り出す。
ボロボロの木の扉を開けると、いつも通りに色のない町並み。排煙で薄汚れた靄と霧が至る所に漂い、眼の前を忙しなく動く大人たちの山高帽すら霞む。
一寸先すら見えない塵煤をかき分けて。同じくどこかに出勤するのだろう、タイムカードを首から下げた沢山の子供たちをかき分けて。
ちらりと手に握りしめた懐中時計を見て時間を確認し、ポケットへ戻し。もう一歩踏み出して人混みをぬけようとした瞬間。
「ひぁっ!?」
「──、──っ!」
どん、と人ごみの中で、貧しい身なりの大人とぶつかる。彼は私の記憶にある、キチンと色づいた大人の男の人とは全く異なる甲高いノイズを喚き散らしながら足早に去っていく。
これで5秒。ばくばくと早鐘を打つ心臓をきゅっと抑えて、他の人よりもちょっとだけ遅い歩みでまた走る。
ちっと舌打ち。睨む時間すらも惜しい。前までならショットガンの一つでも撃っていたところだけど、もう銃弾はない。火薬はない。スパナやレンチと同じ、ちょっと頑丈なだけのお守り程度にしかならない。
普通の大人ならお守り程度には勘違いしてくれるけど──ただ、それだけ。それ以上の効果は期待できない。
「な、なんなんですか……全く。文句があるならぶつからないように動けばいいじゃないですか……大人なのにそのくらいの常識も無いんですか」
ぶつくさと独り言ちつつも、今はそれどころじゃない。目の前の時間が迫る。
列車運行は、時間が一番大事。
入学した時から教えられてきた規則に、この町の規則が加わる。ルールとマナーと禁忌によって、自然と身動きが出来なくなっていく。
早足で石畳を踏み、古ぼけた街灯を過ぎ。汚水で浸された水溜りを飛び越えて。
「……はぁっ、はぁ……間に合った?」
私はようやく、駅に辿り着く。
1秒。息を整え。ちらりと遠くに見える時計塔に目をやって、確かにほんの数分の猶予があることを確認。古写真のようにぼやけた色のない視界の中で、いつか見たトリニティの時計塔に負けず劣らず背の高い時計台の文字盤を睨む。
「おい君」
「はひっ!?」
ふと。後ろから声がかけられる。少し背の高い山高帽に色とりどりの装飾を施した燕尾服の大人は、モノクルの向こうから私の背格好を値踏みするようにじろりと見つめてきた。
「どこの工場と勘違いしているのかは知らないが、ここは駅だぞぉ? ……親も連れず、子供が一人で何の用かな」
私よりもよほどゆっくりと喋る紳士。かちり、かちりと時計台の針が回る。
いつもと変わらず時間に急かされてるのに、どうして今日に限って。
「お……遅れちゃうじゃないですか……勘弁してよ……」
こつり。こつり。規則正しく2秒くらいを測るように木製のステッキが石畳へ打ち鳴らされる。
「もしや」と小さく、ゆっくりと間延びするように呟かれた言葉を耳にした瞬間。私の背筋に色のない汗が流れていく。こんな時にそれだけは本当にやめてほしくて、子供っぽいキャスケット帽で目を伏せながら、私は小さく返事した。
「わ、私はアオバです……。この駅で働いてて」
「……そうか。なら時計を見せてみなさい。おじさんが裏路地の入り口まで送ってあげよう」
紳士が懐から取り出したのは、小さな鎖で留められた懐中時計。ネジを巻ききったそれは、私の胸で逸る脈のだいたい4倍くらいの遅さで進んでいる。
「時計……? あっ、いや。ほんとなんですけど。あの、早く行かないと始業に遅れて」
「見せられないのかい? この私に? なんとまぁ礼儀がなってない子だね」
時計。この街では必需品であるソレと、私の知る時計と。一瞬だけ結びつかなかった知識が頭の中でくっついた。
身分証にも仮想通貨にも、はたまたちょっとした身体強化にもなる、不思議な時計。まるで”大人のカード”だと心を躍らせたのは今は昔。今じゃむしろ、どこにも逃れられないレールそのものだ。
にやにやと下卑た顔で礼儀を語る大人を上目に見ながら、ちっと舌打ち。どうせ逃げようにも逃げられないし、弾の切れたショットガンというお守りもこんな町中じゃ逆効果なんだから。
「……ああ、もう! これで納得して────」
苛立ち混じりに、着込んだまま洗濯できてない作業服へと手をつっこんだ──直後。指先に布地以外なんの感触もないことに気がついた。
「あ、えっ?」
すぐに別のポケットを、右腰の工具入れを。鞄を。がちゃりがちゃと工具と色の消えたシュッポが揺れるだけで、求めるものはどこにもない。
まさか。いいや。忘れてないはず。「おかしい、どこに。なんで、ありえないんですけど」。声にならない言葉が頭の中を反響し、無闇矢鱈と工具の擦れる音と時間だけを漏らしていく。
「…………君ぃ。時計もなしに、駅に行くつもりだったのかい」
「嘘、なんで……? わ、わけわかんな……」
ため息混じりにやれやれと首を振る大人。その仕草は嘲りを含み、薄暗い陽光で影を作りながら私の方へとにじり寄る。
頭がぐちゃぐちゃになって、一歩後退りした私には、もしかしたらスられたのかも。という発想すらうかばない。
「認識票を首からかけていたって……ねぇ? 時計も無しにその日その日の時間を、どうやって受け取るつもりだったんだい? あっちでおじさんに教えてくれないかなぁ」
指差すのは、駅から遠く離れた街並みの向こう。海──ではなく湖に面した、泥だらけでぬめぬめのスラムの方。
「……ひっ、ちがっ。私、ほんとに! や、いやなんです、もうあんなとこ……!」
「なぁに、徴収人に通報はしないさ。ただ少し……裏路地に帰ってもらう前に、その頭の妙な義体と引き換えでね……」
紳士は私の頭の上にあるのだろうヘイローを凝視しながら、興奮気味に下卑た笑いを浮かべた。
ぞわり、怖気が走る。見たことのない欲望で支配された、あの人とは全く違う男の人。
気持ち悪い。誰か。「おんなじ……大人でも、そんな目を向けてはこなかったのに」。助けて。
ぎゅっと目を瞑り、心のなかで秒数を数える。
1秒、2秒。誰も来ることはない。今すぐ帰れることもない。記憶の中で色めく暖かい掌と声を空想しつつ、時間が過ぎ去るのをじっと待つしかなくて。
「アオバ」
声がする。妄想の中の優しい男の人の声と、冷たく低い女の声がダブる。
目を開く。黒っぽい野球帽をかぶった背の高い女の人が、紳士を制止するように掌を突き出す。
ごてごてと機械で覆われた腕、胴体を覆う薄い鎧。Wの文字にも似た、稲妻のように鮮烈な文字列。
あいも変わらずやることは変わらない、私の職場。いけ好かない上司たち。
「始業時間はとうに過ぎているぞ。速やかに制服に着替え、車両点検業務に入るように」
「ち、チーフ……なんで」
「遅刻分は日当から差し引く。欠勤控除や制裁の対象とはなるが……まあ仕方がない」
言葉少なく必要なことだけを指示。私の耳には凄い早口に聞こえる言葉を、少し遅れて理解して。こくりと頷き踵を返す。
「さて。チケットはお持ちでしょうか。列車はまもなく発車いたしますが」
チーフが仏頂面で紳士に言うや否や。ばちりと威嚇するかのように、空間を引き裂くらしい稲妻が腕の機械から火花を散らした。
「だっ!? だ、W社の下請けの方でしたか。これは失礼…………」
それだけ言い捨ててそそくさと逃げていく紳士の後ろ姿を見もせず、チーフは私の首根っこを掴んで足早に駅へと向かっていく。
「今日のことはT社……お前の本社のほうにも報告しておくからな」
「……は、はい」
「そもそもあのような発明家まがいに捕まるな。歯車も蒸気も用いていないモノクル、見せびらかす様な色の使い方……大方技術転売者だ」
ふんと鼻を鳴らし、目的地に着いたとばかりに着の身着のままの私をタイルの床に放り投げる。うわっと悲鳴を漏らす暇もなく、1.5倍ほど速い重力加速度で落とされる。
のそりと顔を上げると、そこは駅のホーム。私の職場。
背の高いガラス張りの天井と何本も霧の向こう側へと延びていく軌条、靄がかる広大なホームの中で、街並みに一切そぐわない近未来的な──あのミレニアムでも作れるかどうかわからない重厚で巨大な列車が鎮座する。
かつて走らせていた旅客車両よりも、貨物列車よりも。はたまた幹部連中が噂していた“シェマタ”よりも大きいであろう……この駅では私が独りで整備することになっている、この車両以外整備しなくていいことになっている、世界に数台しかない車両の一つ。
人呼んで、ワープ列車。
「……お前が遅刻した間に乗客の整理は終わっているからな。7分以内に車両点検と時間抽出を済ませ、折り返し列車として定時発車だ」
「は、はい……!」
あと7分。ということは、私に残された時間は4分足らず。
すぐにスパナと小さなピッケルを工具袋から取り出しながら、戦車を思わせる重厚極まる車両の外板へと飛びついた。
裏のネジを緩め、外板を的確に剥がして、僅か数秒。砂時計を模したロゴが描かれた小さな箱を一瞥すると、小刻みに震えるピックハンマーで数度叩く。コーヒーマシンみたく中が壊れることはないが、慎重に。こつりと尖ったピッケルで撫でるように叩いて、ただそれだけ。
それだけで1両分。一番簡単な業務が終わる。それを先頭から最後尾までの30両以上。
単純作業でしかない業務を駆け足に果たし終えた後、次は車両の下にもぐって軽く打検。その途中で外したばかりの外板を引っ掴んでネジで止め、もう一度ゆるみを確認してから次の車両へ向かっていく。
「し、仕事がありすぎるのもいやですけど……時間が無さすぎるのも、もっといやなんですけど……!」
正直、求められているのは一番最初にやった箱を軽くこんこん叩くだけの業務。後は銃弾位なら効かないらしい外板が剝がれないようにするだけの仕事。それ以外の詳しい整備は車両基地でやるだろうし、打検すらも駅構内でやる作業じゃない。
そもそも、何故か、この車両にどこか異常があった事は無いのだ。
それだけW社とか言う所の車両整備員が優秀なのか、画期的な整備技術が人知れずあるのか。よくわからないけれど、時間だけは不平等に。誰にも均等に差し迫る。
「お客様にご案内いたします……16区行き特急ワープ列車。定刻通り、まもなく発車いたします。途中10区、3区、8区には止まりません……」
「あと3分で発車だ! 早くしろ、乗客を通すぞ!」
「まぁまぁ。間に合うなら構わないですよね~? もしダメでも、T社の利益が少なくなるだけなんですから~」
「
アナウンス。野次が飛ぶ。ざわめきが強くなる駅構内。居並ぶ客と、制服姿の整理員たち。
先頭車両の外板をネジで止めて、そのまま飛び込むようにホームへダイブ。どちゃりと顔から転がりながら、大きくズレたキャスケット帽を上げる。
「だ、誰がこんな過密スケジュールで……やらされてる、って……!」
「業務報告!!」
「はっ、ひゃい! 車両点検、お、終わり!」
幾ら毒を吐いたって、規則とルールで脅される。まだかわいげのあった……腹は立つけど腕だけはよかった幹部連中だって、ドスの効いた声を出すことはあんまりない。
だけどこの街ではしばしばだ。学生同士じゃない、大人とオトナとの関係ばかり。自分の仕事だけじゃない、色んなしがらみが纏わりついて。
「……後2分。一般客車はともかく、VIPから苦情が来ても知らないからな」
チーフはため息混じりに、乗客から差し出されたチケットを切る。軽く打検したばかりの車両へ、老若男女問わず沢山の人々が乗り込んでいく。
「発車します。閉まるドアにお気を付けください」
はぁ、と肩で息をする。これでひと仕事終わり。休憩とも言えない休憩時間は、ほんの30秒足らず。
勢いよく駅を飛び出していくワープ列車を見届けると、チーフの腕が私の肩を掴む。
「次、14区発の便が来る。当列車は折り返しではなく……K社、11区行きで運行する。乗客整理中に時間抽出を済ませておくように」
「ひゃ、ひゃぃ……」
疲労で呻きながら、小さく頷き。「流石にしんどいんですけど」と小声で呟いた不満は、きっと誰にも聞こえていないだろうと信じながら。
「退勤時間だ。2級、3級整理要員は速やかに退勤しろ」
ふと。気づくと、空はもう暗くなっている。工場かどこかの煤煙で覆われた作り物の空に、煌々と輝き続ける街灯の灯り。
無骨な鉄骨で組まれたホームの天井からは、星の一つも見られない。正確な標準時刻を示すよう前払いされているのだろう巨大な時計を仰げば、もはや真夜中。日をまたぐ一歩手前。
「お前たちは終電で23区まで帰れ。夜行列車に関しては夜勤者が対応する」
「
1日の疲労など感じていないようにきびきびと指示を出すチーフと、エネルギーの刃を煌めかせる整理員たち。銃なんか使わない珍妙さには、もはやとうに慣れたけど。
昼食も取らずに働きづめの彼らを横目に見ながら、倒れ込むように尻餅をつく。「もう無理」と小さく呟く。
彼ら彼女らよりよほど小さな体では、1日ついていくだけでもう限界。人間の体は、別に叩いても治らない。
大人の人は、凄い。まるで凄くないと、そもそも生きていないというような。
ちらり。汗でぼやける視界の端で、背の高い整理員が口を開いた。
「……アオバ。明日の出勤までに時間徴収所に行っておけ」
ふいと顔を逸らしながら、チーフが呟く。
「明日は特別ダイヤだ。元より到着本数が多いところ朝夕の過密時間帯にまで6分の1の時間で動かれては、こっちも仕事の邪魔になる」
時間強盗被害なら、大方捜査も済んでいるだろう。
何か書類を書きながら、私の方を見ることなく言葉を繋げる。チーフの言葉を胸に抱きしめ、「お疲れさまでした」と小さく頭を下げる。
そのまま顔を上げることなく足早に駅を出て、石造りの階段を降り。広大な駅舎を振り返るようにして、電灯に煌めく時計を見上げた。
残る時間は4時間足らず。その間でご飯を食べないといけない。水を浴びて、睡眠時間にもならない時間を過ごして。
──それで。
ふと。心にぽっかり、穴が開く。暗く靄がかかる町並みに、一寸先も見えない闇が口を開ける。
──それで、終わり?
時間に追われて、時間の使い方一つに頭を悩ませて。瞳の色も取り戻せないまま、優しく撫でてくれた髪の色も返してもらえないまま。
色めく生活に、色づいた春に、帰れないまま。
──ほんとに、終わり?
今日一日を、やりすごす。
今日一日を、乗り過ごす。
その繰り返しで、焼き直しで。強く抱きしめてくれた方舟から投げ出されて、流れ着いた何処かもわからない都市のど真ん中で。
──このまま、おばあちゃんになるまで?
どくん、と心臓が跳ねる音がする。自然と漏れそうになる嗚咽を飲み込み、乾いた瞳を固く瞑る。
無味乾燥とした灰色の日常を過ごして、幸せなんて噛み締められないまま追い立てられて。いつか道を失っていくまで。私は。
──もう、頑張らなくても良いんじゃないか。
ふと耳に、脳に入ってきた女の人の声。自然と怖気が走り、まだ安堵よりも拒否感が勝る大人の声。
ぎゅっ。と、鞄の中に入れたままのショットガンを握る。お守りにしかならない銃を震える手で掴んで、目を瞑ったまま走り出した。
いつも通りの道、いつもと変わらない道のり。夜遅くだから人が居ないだけで、灯りの一つも灯っていないアパルトメントを通り過ぎ。
ただいまの一言もないまま扉を開け放つやいなや家具の一つもない部屋を一足で踏破。そのままベッドに飛び込んで、ペラペラの毛布を被る。
「……やだよぉ」
小さく肩を震わせながら、呟く。祈る。
私は、独りが嫌いなのに。
一人でこうして、老いていく。皆を私は置いていく。
どうか明日が来ないようにと期待しながらも、また一つ。また一つ。規則正しい時計の代わりに、心音だけが時間を刻む。もう見たくもない時間の流れを否が応でも感じさせてくる。
……夜、眠れるだけマシだ。職場があるだけマシだ。変わり映えのない日常があるだけ、まだマシだ。
嘘でもまやかしでも、そう言っておかないと。不満は言えるうちに言っておかないと。
鞄の枕。硬いベッド。薄っぺらい毛布に染みをつけて。
そうして。また、朝が来る。眠れない1時間21分が過ぎ去って、青葉がセピア色に色づいていく。