『五つ子ちゃんは風太郎を五等分できないっ』 作:Sphilia
10月も中旬を過ぎ、ようやく冬服の重さに体が慣れ始めた。
けれど、五つ子姉妹相手の家庭教師には未だに慣れる気配もない。
虎が虎だから強いのであれば、バカは生まれながらにしてバカだとでもいうのか。
根気強く教え続けてはいるものの、この調子だと山に紅葉が色づく頃、俺の頭には雪化粧が施されているなんてことになりかねない。
中間テストまであと一週間、苦悩する俺に追い打ちをかけるように一本の電話がやってきた。
「上杉君、あなたに電話です」
何も考えずに受け取ってしまったが、五月は誰からの電話かも教えてくれていない。
「もしもし」
「上杉君、娘たちが世話になってるね」
「お父さん!? ご無沙汰しております!」
思わぬ相手に背筋がピンと伸びる。
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはないよ」
「あなたにお父さんと呼ぶ筋合いはありません」
……この言葉のチョイスは外れか。
「なかなか顔を出せなくてすまないね、どうだい家庭教師はうまくやっているかい」
「もちろんです。みんな良い子で、この調子なら問題ありません」
冷や汗が頬を伝う。
次女とは開戦中、五女とは冷戦中だが……わざわざ藪を突つく趣味はない。
「それはよかった」
との返事にホッと胸をなでおろす。
「近々中間試験があると聞いたが順調そうで何よりだ」
まずい、試験の結果は嘘をつかない。
思わず固まる俺を気にした様子もなく雇い主の声は続く。
「君にはここで一つ成果を見せてもらおうと思っていてね。
一週間後の中間考査、
「そんな! 卒業までまだ一年以上あるんですよ! 焦りすぎじゃないですか?」
思わず抗議の声を上げるが端からこっちの言い分を聞く気はないらしい。
落ち着いた声は全く揺らぐ様子もない。
「上杉君、仕事であるから結果が求められるんだ。
この程度、クリアしてくれないと安心して娘は任せられないね」
「家庭教師を始めてまだ一か月。しかも五人同時ですよ!
条件が厳しすぎます、考え直してください」
「良い報告が聞けるのをを楽しみにしているよ」
クソっ、一方的に切りやがった。
娘の成績わかってるのか!? 理不尽すぎる。
思わず携帯を地面に叩きつけようとしたところで
「私のスマホですけど!?」
慌てふためく声に、ゆっくりと右腕を降ろした。
「父から何を言われましたか?」
「ただの世間話だ」
……プレッシャーを与えても逆効果だろうと咄嗟に誤魔化す。
「とてもそうは見えませんが……」
誤魔化そうとしていますね? ──五月はそんな顔をする。
苦しい言い訳なのは間違いない。
ボロが出る前にさっさと話題を変えてしまうのが一番だ。
「そんなこと心配している余裕があるのか、来週には中間試験なんだぞ」
特に深い考えもなく俺の心配事がそのまま漏れてしまっただけだが、五月の反応は劇的だった。
急にピタリと動きを止めると油の切れたブリキ人形じみた動きでそっぽを向く。
「も、問題ありません、きちんと対策は進めています」
関節から失われた油はどうやら喉に集合したらしい。声がツルツルと上滑りしている。
これほど態度に出るんだ、自分でもこのままじゃまずいって思っているに違いない。
今丁寧にお誘いすれば授業を受けてくれるかもしれない……!
「五月、お前の真面目さは俺も知っている。休憩時間も自習していてとても立派だ。
ただ、お前はどうしようもなく要領が悪い、絶望的と言ってもいい。
努力の方向音痴、ハッキリ言って時間の無駄だ。
俺ならわかりやすく教えてやれる。テスト期間だけでもいい、授業に出てみないか」
こわくなーいこわくなーい。
道端で野良猫を呼ぶときのような穏やかな声を心がける。
「なんですか、馬鹿にしてるんですか!」
……あれー?
五月の眉間に鋭いしわが寄る。声色の不機嫌さを隠そうともしない。
いつも猫に逃げられる俺だが、人間もどうやら同じらしい。
プリプリと歩き去ろうとするので慌てて呼び止める羽目になった。
「そんなに意地を張るなよ、一花や三玖を見習ってお前も素直にだな」
ピタリと五月の足が止まる。
「言っておきますが! 私は最初にあなたを頼りました。その手を振り払ったのはあなたじゃないですか!
それを急に態度変えられたからって信用できません。嫌々相手されるなんて御免です」
五月の声が次第に険しさを増していく。
予想以上に溝は深いが、ここで引き下がればバッドエンド直行だ。
「じゃあお前ひとりで合格できるのかよ」
なんとか食い下がろうとして出てきたのはそんな言葉。
会話がどんどんおかしな方向に転がっていく……。
「できます。たとえ中間試験には間に合わなくても……」
五月の声は尻すぼみに消えていく。
「それじゃだめだ。これも仕事なんだからワガママ言わずに受け入れろよ!」
ああ、もう。なんでこいつは一人じゃできないってわかってるくせに無駄に意地を張るんだ。
焦りとイラつきで俺の声が膨れ上がっていく。
「ワガママを言っているのはあなたの方でしょう!」
引っ込みがつかなくなったのか、五月の声が針のように勢いを増した。
運転手を理性から感情に交代させたらしい。端的に言うと開き直りだ。
「うるせえ、成績上げたいなら黙って俺の言うことを聞いてればいいんだよ!」
五月の目が大きく見開かれる。
ピシリと空気がひび割れる音が聞こえた。
──言い過ぎた。
慌てて謝ろうとしたときには、五月の顔から表情はすでに抜け落ちていた。
「所詮、お金のためですか。少しは見直そうと思っていましたが見込み違いでしたね」
ゴミを見るような目つきで吐き捨てられた。
確かに俺も言い過ぎた。それでも、それでもだ。
──五月の吐いた暴言はとても飲み込めない、飲み込むわけにはいかない。
「金のために働いて何が悪い。
何不自由なく暮らしてるからそんなことが言えるんだ、
仕事じゃなきゃ誰がお前みたいなワガママ娘の世話なんて焼くかよ」
視界の端が赤く染まる。
好きで貧乏になったわけじゃない、何も知らないくせに。
金で苦労したこともないような奴に馬鹿にされるのは我慢ならない。
詰め寄る俺に五月は気圧されたようにのけぞる。
一瞬見開かれた目は、だがすぐに逆三角形に吊り上げられた。
その場にぐっと踏みとどまると、そのまま真っすぐに睨み返してきた。
そっから先は子供の喧嘩と一緒だ。
落としどころなんて探ることもせず、坂道を転がり落ちるようにエスカレートしていく。
「無理してお世話していただかなくて結構です。私はあなたの金儲けの道具にはなりません」
「そうかよ、後悔しても知らねえからな」
一瞬の沈黙が流れる。
ここから先は冗談では済まない。
五月の目にも躊躇いの色が一瞬見えた。
「ええ! たとえ退学になろうとも、あなたに教わることは永遠にありません」
「こっちこそお断りだ。お前にだけは絶対に教えねえ!」
それでも俺たちはブレーキを踏むことができなかった。
五月はこちらに一瞥もくれず、足早に去っていく。
出会った頃には賑やかだった蝉たちも、今はもう土に還った。
決別の言葉は遮られることなく飛翔して、お互いの胸に突き刺さる。
ああ、俺たちの関係は羽化すらできずに散っていくんだろう。
ふと、小学生のころに毎日絶交していた友達のことを思い出す。
クラス替えの直前にも喧嘩して、結局それっきり疎遠になってしまった。
……生まれてこの方、ヒーローにはとんと縁がない。遅れてやってくるのはいつだって後悔だけだ。
昼食を食べ終えるころには俺の頭も大分冷えていた。
腹が満ちると気力も湧いてくる。
泣いても笑っても期限は一週間、くよくよしてる時間はない。
今できることを全力でやるしかない。
「げっ」
人の顔をみてこんな失礼なことを言うやつを俺は一人しか知らない。
姉妹の突撃隊長は俺の知らない女子二人と帰るところのようだ。
姉妹の中で一番社交的──四葉の話は嘘じゃなかったらしい。
「お前、中間試験は」
「みんな、行こー」
取り付く島もないとはまさにこのこと、目も合わせずに通り抜けていく。
こいつにも勉強させないと俺の未来はないんだが……。
「二乃、なんか話しかけられてなかった?」
「あいつ私のストーカーだから無視でいいよ」
「マ? やばすぎじゃん」
とんだ風評被害だ。
そういう態度ならこちらにも考えがある。
「二乃、俺は諦めないぞ!
祭りの日、一度は付き合ってくれただろ、あの夜を思い出してくれ!」
「「え?」」
突然の叫び声に連れの女二人が振り返る。
当然、二乃の足も止まった。計算通り!
学校では猫を被っているに違いない、攻撃性が下がった今が説得のチャンスだ。
「あの夜は俺の言うこと(宿題を片付けるコツ)を素直に聞いてくれたじゃないか!
俺の新しいテクニック(教え方)で最高の場所(高得点)へ連れて行ってやる!
絶対に後悔はさせない! もう一度だけチャンスをくれ!」
科目ごとの出題傾向から、先生のクセまで対策は完璧だ。
二乃、試験対策だけでも聞いてくれないか!
「やば、二乃監禁とかされるんじゃない?」
「いいじゃん、愛に狂う男」
監禁して勉強させる……いいアイデアかもしれない。
部屋の扉の前に椅子でも積んでおけば出られなくなる。
あとはその状況でこいつが素直に従ってくれるかどうかだが……。
派手な足音に妄想を中断する。
いつのまにか二乃が目の前まで来ていた。
顔が真っ赤だ、目も心なしか潤んでいるように見える。
ついに俺の熱意が伝わったんだな!
目の端で二乃の右腕がゆっくりと振り上げられるのが見えた。
感動の抱擁……学校で?
「誤解されるでしょうが! 」
バッチ──ーン
裂帛の気合とともに理想的なフォームで振りぬかれた右手が盛大な破裂音を奏でる。
その一撃には、俺の意識を吹き飛ばすのに十分な威力が宿っていた。
「立て、立つんだフータローっ」
目の前の男が必死に俺に呼びかけている。
片目が眼帯に覆われた禿頭の男、誰だろう、どこかで見たような……。
気が付いた時には、廊下に一人立ち尽くしていた。
夢じゃなかったことは頬の痛みが証明している。
10月下旬、俺の頬には一足早く鮮やかな紅葉が色づいていた。
……大誤算だ。
「このままじゃ試験を乗り切れない。五教科とも徹底的に対策を練っていくぞ!」
「まかせてください!」
放課後になっても四葉の元気は衰えない。元気のいい返事に周りの雰囲気も明るくなる。
ムードメーカーで努力家、完璧無欠に見える四葉にも一つだけ弱点があった。
「√25は5だ、4じゃない」
「テヘヘ、またやっちゃいました」
数学だけじゃない。四葉にかかれば鎌倉幕府の開設は4185年と遥か未来になるし、鉄は綿よりも早く落下する。日本人の主食はなんとシラミ(lice)だ。
ノートの左上には「ガンバルゾ!」の文字と謎のキャラクター、教科書にはカラフルなマーカーがびっしりと引かれている。
頑張っているのは伝わってくるだけに強く言うわけにもいかない。
今も0が自然数の仲間入りを果たす歴史的瞬間が目に飛び込んでくる。
そう、どうしようもなく勉強が苦手なのだ。
「フータロー、大丈夫?」
横からニュッと顔が生えてくる。
「ん、ああ。三玖か」
感情の読めない深い色の瞳に、少しだけ心配の色が浮かんでいる。
大丈夫ではないが、大丈夫でない理由を伝えるともっと大丈夫じゃなくなることは火を見るよりも明らかなので大丈夫だと伝えるしかない。
そんな非建設的なやりとりをするくらいなら一点でも試験の点数を上げたい。
社会科は安全圏なので他の教科に取り掛かってくれるのが一番俺の心労を和らげてくれる。
「中間試験まであと一週間しかない、三玖も歴史以外も……」
声を掛けながら手元を見ると、開かれているのは──英文精講。
英語嫌いの三玖が自発的に英語を……? 明日の天気は槍か、大雪か?
「ど、どうした三玖、熱でもあるのか!? 体調が悪いなら無理に勉強せずまずは体を休めた方が──」
「平気。少し頑張ろうと思っただけ」
長い髪をかきあげながらクールに返す三玖。
どういう心境の変化かはわからないが、説得の手間が省けた。
「偉いぞ三玖、英語だな、任せてくれ!」
「まあまあ、中間試験できなくても退学になるわけじゃないんだし、そんなに根詰めなくても。
私たちも頑張るからさ、じっくり付き合ってよ」
鼻息を荒げる俺になだめるように声を掛けてくるのは一花だ。
ゆったりとした声色で穏やかに微笑みかけられて、ささくれた心が落ち着くのを感じる。
こいつらの目標は姉妹揃って卒業すること。
赤点ゼロは俺の都合でしかない。
こいつらに押し付けるのは筋違いだ。
そんなことは承知の上だが、俺にも都合がある。
出来る範囲で足搔くだけだ。
「おう、中間試験までじっくりたっぷり付き合ってやるから覚悟しとけ」
気合を返事に込めた。
「うわっフータロー君、目がこわいよ。リラックスリラックス」
おどけたような一花に軽く肩をもまれる。
相変わらず合格点にはほど遠いが、俺と姉妹の関係性は確実に前進している。
──問題を整理しよう。
一花、三玖、四葉は絶賛試験の対策中。このまま一週間、全力を尽くすのみ。
二乃は相変わらずツンツンモード、せめて対策プリントだけでも渡したい。
今一番の問題は五月と絶交状態なことだ。
俺も言い過ぎた部分はあった。らいはのためにも意地を張っている場合じゃない。
真面目なあいつはテストで点を取るモチベーション自体は高いはずだ。
次に会ったとき、事情を話して謝ろう。
タイムリミットは一週間後の月曜日。
家庭教師の訪問日を特別に増やしてもらったが、それでも時間が足りる気がしない。
校舎を出ると、沈みかけの夕陽がいつもより赤く、濃く見えた。
遠ざかる陽に照らされて、俺の影もひどく長く伸びている。
不吉に響くカラスの声。こちらをじっと見つめる黒猫の視線。
俺は気づかないふりをしながら、影を振り切るように家路を急いだ。
致命的なガバ
二乃が上杉家の事情を知ってるってことは
赤点でクビなのを二乃に知られるわけにはいかなくなったということです
誰か俺を殺してくれ