長い人生から得た教訓の数々を、テレジアは何か有る度に思い出す。
その中でもよく脳裏に浮かぶのは『良いことと悪いことは交互にやって来る』というものだ。
良いことが続いた時は、その後に来るであろう悪いことを警戒して備える。
悪いことが続いた時は、その後に来るであろう良いことを期待して過ごす。
良いことが何時までも続くことは無いし、悪いことが何時までも続くことは無い。
明確な根拠が存在する訳では無いが、テレジアの人生はそれの繰り返しであった。
カズデル復興のために奔走した日々は、もちろん良いこともあったが、それでも悪いことの方が多かった。
その量を天秤にかければ、間違いなく一方へと傾くだろう。日々の小さな幸せや喜び、楽しみや感動を秤に乗せても、その均衡は到底変わらない。それどころか大きな不幸や苦しみ、悲しみや絶望が重なって、傾きはより強固なものへと変貌する。
そのような状況であっても、テレジアは決して諦めなかった。
だがその胸中に艱難辛苦の類いが一切生まれなかった訳では無い。
『これ以上に不幸が続くことは無いはず』
『次は幸せな結果に繋がってくれるはず』
それは祈りであり、自身を守るための欺瞞だった。
そう考えなければ、そう周りに伝えなければ、彼女と彼女を取り巻く全てが崩壊しかねなかった。
────そして、その日々に希望の光が差し込んだ
思わず目が眩むような光。
テレジアはその光が『皆』を照らしてくれると期待し、その光は『皆』を────テレジアも含めて照らしてくれた。
そこから少しずつ、天秤は動き始める。
『良いこと』が増え、『悪いこと』が減っていく。
今までの分を取り戻すかのように『良いこと』が重なっていき、秤も徐々にその均衡を保ち始める。
それが嬉しくて、楽しくて、幸せで…………だからこそ、テレジアは気付けなかった。
何時の間にかその天秤の均衡が、逆転してしまっていたことを。
『良いこと』の後に『悪いこと』が来ることを、テレジアは失念してしまっていた。
この幸せが、何時までも続いて欲しいと願ってしまったから。
「テレジア、オーナーにもう一度会いに行くと言っていたが……少し時間を置いた方が良いのではないか?」
「ごめんなさい、ケルシー。オーナーの現状を聞いて、ジッとしてることは出来ないの。どうか許してちょうだい」
ロドスの会議室から足早に去ろうとするテレジアの背中に、ケルシーは呼び掛ける。
だが現カズデルの責任者としての用件を全て済ませ、やるべき仕事を終えたと判断したテレジアには、その心配の言葉は届かない。
「────分かった。だがテレジア、一言だけ言わせて欲しい」
「……何かしら?」
「『誰のせいでもない』」
「…………ケルシーは、優しいのね」
『ありがとう』という言葉をケルシーに残し、テレジアが部屋を出ていく。
それを見送り、扉が閉まって一人きりになったケルシーは、椅子へと深く腰掛けた。
そして天を仰ぐかのように天井へと目を向け、その瞳をきつく閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、つい先程見た……ケルシーが今まで知らなかったテレジアの表情だ。
(…………すまない、オーナー)
誰に伝わることも無い謝罪を心中で吐くことしか、ケルシーに出来ることはなかった。
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「────オーナー、時間を作ってくれてありがとう」
オーナーの状態に関する説明を受けて、テレジアが最初に感じたこと。
記憶が欠け、理由も分からず不安で居るであろうオーナーの心境を考えず、まず先に『忘れられてしまった』ということ一点に悲しみと絶望を覚えたことを……テレジアは恥じた。
テレジアは今まで滅私を胸に生きてきた訳では無い。
そこには彼女なりの欲望、あるいは願いが込められており、それが周りからすれば崇高なものだっただけである。
「夕飯はもう済ませたのかしら? もしまだであれば、何か用意することも出来るのだけれど……」
それはテレジア本人も知っているところであり、それも有って彼女は誰かに聖人扱いされる度、何とも言えないむず痒さと申し訳無さを覚えていた。
それをしっかりと把握していて尚、彼女には譲れない想いが存在する。
多少の欲望が入り込むことも良しとしない、彼女にとって聖域とも呼べる一つの想い。
『オーナーを している』
この想いだけは例え自身であっても汚さない、とテレジアは心に強く誓っていた。
「…………ねぇ、オーナー? 私のことが……怖い?」
「そ、その、あのっ……!」
「落ち着いて。ゆっくり深呼吸してからで大丈夫よ。私は決して怒らないし、ここから動いたりもしないわ。貴方が怯えている理由を教えて欲しいの……」
『 』とは何だろうか?
テレジアはその答えを持ち合わせていないが、それは『献身』に近いものだと彼女は考えている。
そこに『 』が有るならば、自身よりもその対象のことを心配出来る。
────だがテレジアは、真っ先に自身の悲しみを優先してしまった。
そこに『 』が有るならば、その対象の幸せを素直に喜ぶことが出来る。
────忘れられていない者も居ると知った時、彼女は確かに嫉妬した。
そこに『 』が有るならば、一つの見返りも求めはせず、ただただ対象を祝福出来る。
────それはもう、彼女にとって耐え難い。未来の光景────その傍らに、自身も立っていたいと願っている。
他の誰が否定しようとも、テレジア自身はそう考える。
自身の『 』を汚してしまった、と。
純粋なモノでは無くなってしまった、と。
「テ、テレジアさんはっ……、感情と行動が、あの、解離していてっ……!」
「────えっ?」
その言葉で、テレジアはようやく気付いた。
オーナーの私室に招かれ、話し合いを始めようとした時は対面に座っていたというのに、既にオーナーの隣へと移動してしまっているという事実に。
彼の腕に自身の腕を妖しく絡め、その手も重ねて指の隙間にも割り入ることで、振り解かなければ逃げられない状況を作り出しているという事実に。
危害を加えるつもりは、テレジアに無い。
しかし、安心させるために距離を保つ心持ちであったのに、身体は勝手に動いてしまっていた。
初めての状態にテレジアは酷く驚き、そして腑に落ちるかのように淡く微笑んだ。
「ごめんなさい、オーナー」
周りからそう見られることで、テレジア自身もそう振る舞うようになってしまっていたのだろう。
そして立場や能力や経験、性格や信念が彼女を高尚な存在へと押し上げてしまっていたのかもしれない。
殻を割れば、そこには単なるサルカズの女性しか居ないというのに。
もう取り繕えないほどに自分は変わってしまったのだ、と。
それを理解したテレジアはオーナーを見つめるが、対するオーナーの視線は少しだけ下にズレていた。
テレジアの動きが、止まる。
「テレジアさん、どうして……」
「…………どうしてかしら? ……私にも分からないの」
淡い微笑みを崩さないまま、彼女は頬を伝う涙を指で拭く。
だがその涙は止まること無く、静かに溢れ続けていた。