「あら、オーナー。奇遇ね」
「えーと……お久し振りです、シーさん。一体何処から入ったんですか?」
ノア運営本部の休憩室。
午前の業務を終えて昼食にしようと考えた俺は、他の住民が居ると非常に……それはもう非常に気を遣われてしまうので、一人になれる場所を探してこの部屋へとやって来た。
しかし扉を開けた先に居たのは、チョンユエさんの妹であるシーさんだった。
画家である彼女は筆を手に持ち、墨で何やら壮大な絵を描いている。何度か作品を頂いたことがあるがどれも素晴らしいものだったので、きっとこの絵もそうなること間違い無しだろう。
……チョンユエさん達は諸事情が有って自由な行動に制限が掛けられており、ノアに来る際も事前の通達をする決まりなのだが、今回俺は何も聞いていない。
シーさんの独断専行だろうか? と、そこまで考えてようやく気付く。
周りを見渡せばノアの要素なんて一つも無く、まるで炎国式の屋敷のような景色が広がっている。
────この部屋は、ノアの休憩室なんかじゃない。
「違うわよ、オーナー。私じゃなくあなたが入って来たの」
「…………これ、以前皆さんから禁止されませんでしたっけ?」
「そうね、オーナーを連れ込むのは禁止されたわ。でも貴方自身が入ってくるのなら話は別でしょう?」
「別ですかね……?」
シーさんの絵には不思議な力が有る。
彼女が壁に扉を描けばその扉に入ることも出来るし、彼女が描いた絵の中に足を踏み入れることも出来る。
見たことも無い城。静謐で厳かな湖畔。一面真っ白な雪景色。
煮え滾る火山の麓。星がきらめく荒野。樹木に覆われた密林。
これは彼女に連れられて見たほんの一部に過ぎないが、そのどれもが絵とは思えないほどリアリティが有り、どういう原理かそこで得た物すらも、持って帰ることが可能だった。
俺自身はこの体験を楽しく思っていたのだが、急に予定が狂うことやその間一切の連絡が取れないというデメリットも有ったため、少し前にシーさんの兄弟姉妹一同から本人に対し禁止令が出されてしまっている。
……しかしまさか、『俺の方から入る』という方法で突破してくるとは思わなかった。おそらく本来の休憩室の扉に何か細工がされていたのだろう。
後のことを考えると頭が痛い。リィンさんはともかくニェンさんやシュウさんに、とやかく言われるのは覚悟しておいた方が良い。
「それより、何時までも突っ立ってないでここに座りなさい」
言うが早いかシーさんの細い尻尾が俺の腰に巻き付き、強制的に彼女の後ろへと座らされてしまう。
背中合わせの状態で、彼女は俺の方へと体重を預けてくる。巻き付いていた尻尾は一度解け、再度二人分の胴を束ねてしまったため、動けなくなってしまった。
密着した背からは仄かな熱を感じるが、尻尾は少しひんやりとしているため、温度差が少々こそばゆい。
思わず身じろぎをすると、シーさんの声が響いた。
「ちょっと! 筆先が狂うから動かないでちょうだい」
ご飯を食べに来たはずなのに、動くことすら出来なくなってしまった。
抗議したい気持ちは山々なのだが、描いている途中ですら素晴らしいと分かる作品に、俺のせいで影響が出てしまうのは勿体無い。
こうなるともう、長く掛からないことを祈るばかりである。
「シーさん、クヒツムを出してもらうことって出来ますか? 手慰みに触ってたいので……」
「……面白くないから却下よ。私の尾でも触ってなさい」
お願いも却下されてしまった俺は、言われた通りシーさんの尻尾で時間潰しをすることにしたのだが、しばらく触っていると尾の先で軽く頭をはたかれてしまった。許可したのはシーさんなのに……ひどいものである。
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「────よし、完成ね」
オーナーがシーに捕まって一時間も経たない内に、彼女は作品を描き上げた。
価値が分かる者であれば大金を詰んででも欲しがるであろうその出来栄えに、シーの表情もご満悦の様子である。
そうしてふと後ろを見やれば、オーナーがスゥスゥと寝息を立てていることにシーは気付いた。
尻尾を器用に動かしてオーナーを横たえた彼女は、サラサラと布団を描き上げてオーナーに掛ける。
「……無防備よ、オーナー」
シーはいつものごとく筆を手に取る。
そして明らかに慣れた手付きで、オーナーの頬へと文字を書き込んだ。
『夕』という、彼女の名前を。
それは幼子が自分の所有物に名前を書き込むかのようで、事実シーの口元は楽しそうに歪んでいる。
誰に見られているという訳でも無く、誰に知られているという訳でも無いが、これはシーによる『わたしのもの』という確かな主張だった。
「ふふっ、悪く無い気分だわ」
シーは自身の力を用いて、頬の墨を空中へと霧散させる。
徐々に文字が消えていくその光景は、見方によってはオーナーに染みこんでいっているようにも見えた。
完全に文字が消滅した後、彼女は再び筆を手に取る。
そしてなぞるように、重ねるように、刻み込むように。
同じ行為を何度も何度も繰り返すのであった。