拭っても拭っても止まることの無い涙を流すテレジアさん。
いつしか小さな嗚咽さえも混じり、その様子は伝え聞いていた彼女の人物像と、あまりにもかけ離れてしまっている。
その姿を目の当たりにしながら、俺は動くことが出来なかった。
それは俺にとって今のテレジアさんが、教えて貰った情報でしか知らないただのヒトに過ぎないからだろうか?
彼女との記憶も思い出も忘れてしまい、俺の中の『大事な人』という枠から零れ落ちてしまったからだろうか?
大して親しくも無いというのならば、ここで何かをする必要も無いだろう。
客観的な事実だけを述べれば、テレジアさんは俺に安心感を与えようと考えつつも、静かな圧力を伴って物理的に迫って来るという、チグハグな行動を起こした人物となる。
この世界の人達は身体能力に秀でており、俺なんかの膂力では到底敵いもしないというのは実体験済みだ。
彼女がその気になれば俺は逃げることなど出来もしないという単純な事実は、俺に恐怖を覚えさせるには十分である。
テレジアさんの事が、怖い。
何も分からないという事が、怖い。
────でも、それでも。
テレジアさんが悲しんでいる姿を見ていると何故か俺自身も悲しくなって泣きたくなる。
テレジアさんのすすり泣きが耳に届くだけでまるで掻き毟られたような痛みが胸に走る。
傷付き弱り、酷く小さく見えるテレジアさんの、力になってあげたい。
怖いと思う感情と一緒に、彼女の事を、記憶を、思い出を、取り戻したいという願いが、俺の内に強く湧き起こっているのが分かった。
何も憶えていないとしても、全てを忘れてしまっているとしても。
その言葉を覆すように、きっと俺の中の何かが必死に叫んでいる。
それを自覚して、伏せていた顔を上げたテレジアさんと目が合って。
俺は────彼女を抱き締めた。
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「────ごめんなさい、テレジアさん」
「…………どうして謝るの?」
「……貴女の事を忘れてしまっていて未だに思い出せないのに、……それなのに、その……」
「オーナー、私は今……とても嬉しいわ。全身が凍えるような寒さが、貴方のおかげで和らいでいるもの。ふふっ、『貴方』は『貴方』のままなのね」
「………………」
「積み上げてきたものが崩れてしまっても、また積み上げれば良いだけでしょう? 慣れているから、私は平気よ」
「……それは、元に戻るとは限らないじゃないですか」
「そうかもしれないわね。でもきっと、本質は同じのはず」
「また一緒に、何度でも、ずっと、積み重ねていきましょう、オーナー?」
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獣も寝静まる夜。
オーナーの私室は今までと様相を異なるものに変貌を遂げていた。
普段使用している家具の類いの代わりに、簡素なベッドや原始的なストーブなどが配置され、室内の温度も大分低めに設定されている。
それはテレジアの提案によって検討され、ノアとオーナーの能力により実現したもので、過去に二人が出会い日々を過ごした『イェラグ』での住居を模しているようだった。
当時の再現をすることで記憶が戻るかもしれない、という考えによるものである。
「部屋の内装はちゃんと憶えていたのね、オーナー」
「ええと、アスベストスさんとの記憶は残っていたので……」
「………………そう」
「……あの、テレジアさん?」
「ごめんなさい、肌寒くて……」
当時はベッドが二つしか無く、オーナーとテレジアとアスベストスの三名は協議の上、アスベストス所有の寝袋を加えて順繰りにローテーションを組んでいたのだが、今ここに至ってはそれを考慮する必要も無い。
だがお互いにそれぞれベッドを使用する予定だったというのに、テレジアはオーナーの下へと移動をしてしまっていた。
布団へと潜り込みその身を寄せて来たテレジアに、オーナーは慌てて壁の方を向く。
テレジアは密着するほど近寄ることは無かったが、呼吸による吐息はオーナーの後ろ髪を優しく撫でた。
「『イェラグ』を訪れてしばらく経っていたおかげで、寒さに慣れていたのかしら? こうやって久し振りに体感してみると、当時はよく眠れたものね……」
その言葉は感想というにはどこか言い訳染みていたが、オーナーは突然の状況に動揺してそれどころでは無く、その違和感に気付くことは無い。
そしてそんなオーナーの状態など意に介していないかのように、テレジアは言葉を続けた。
それはオーナーと当時話した、日常的な会話の内容であったり、お互いに関するものであったり、取り留めも無い雑談の事などであったが、淡々と……しかしどこか嬉しそうに話すテレジアの様子に、オーナーの動揺や緊張は何時の間にか霧散していく。
「……そんな事までよく憶えていますね」
「────貴方とお話出来る事が嬉しかったの。だからちゃんと憶えているわ」
しばらくの間二人は言葉を交わし続けていたが、次第にその声は小さくなっていき、やがて部屋には規則正しい寝息だけが残った。
それから更に数分程を置いて、未だに起きている一人が声を掛ける。
「…………テレジアさん?」
その小声に反応は無かった。
そしてオーナーの『共感』も一切を示さない。
それを確認したオーナーは慎重に動き、身体を反転させる。
穏やかな寝顔をしたテレジアが、そこに居た。
「────必ず思い出しますから」
言いたいことはいろいろと有った。
だがオーナーは、まるで誓いのようにその言葉だけを呟いて瞼を伏せる。
今度こそ完全な静寂が、部屋に訪れた。
テレジアが、瞼を開く。
それが本人の意思によるものなのか、それとも夢見心地だったのかは誰にも分からない。
だが視界の先、目の前に、彼女の欲しいものが存在していた。
うっとりと頬を染め、口は妖艶に弧を描き、無防備なソレをゆっくりと手繰り寄せる。
そして大事に、大事に大事に仕舞い込むかのように、自身の胸元へソレを収めた。
「 」
絡ませた糸が、二人を包む。
緩く巻き付いているだけのその糸は、強く縫い付けられているようでもあった。