あるかもしれない話 part1.
今回は 枢木 一色 × 比良坂 湊 のお話です。
『必要な温度』
夜の廊下は深海の底のように感じる。
昼間に差し込む作り物の自然光はとうに消え、壁際の照明だけが、控えめな光度で床を照らしている。その白さは明るいというよりも淡く、まるで遠く上方に揺れる水面を見上げているようだった。
けれど不思議と、足が水に絡め取られるような不快さはない。
沈んでいる感覚はあっても、溺れてはいない。ただ、静かだ。
その静けさの中に、かすかな光が一つ混ざっているのに気づいたのは、比良坂がラウンジの前を通りかかったときだった。
扉の隙間から、テーブルランプの橙色が漏れている。
比良坂「......何してんだ、お前」
開け放ったままの扉越しに、低い声が落ちる。
テーブルの端に小さなランプを置き、その下で折り紙を折っていた枢木は、ゆっくりと顔を上げた。驚くでもなく、慌てるでもない。ただ、来訪者を認識したというだけの穏やかな動き。
枢木「ああ。こんばんは」
それから一拍置いて、手元の紙を揃えながら言う。
枢木「誕生日の飾り付けの準備だよ。四月の頭、信乃陀さんの誕生日だから」
整然と並ぶ色紙。星型に切り抜かれたもの、細長く束ねられたもの。
作業は丁寧で、角と角をきっちり合わせる癖が見て取れる。
比良坂は鼻で笑った。
比良坂「律儀だな」
枢木「覚えている人がいるのは、悪くないでしょう」
その言い方は冷たさと柔らかさが同居していて、過剰な温度はない。
相手に差し出すというより、ただそこに置くような声音だった。
比良坂はしばらく扉の前に立っていたが、やがてラウンジに足を踏み入れる。
椅子を引く音が、夜の底のような静けさの中でわずかに広がる。
枢木の手が一瞬だけ止まり、それから何事もなかったかのように動き出す。
比良坂はあえて少し離れた席に腰を下ろした。
ランプの光が直接届かない位置。
顔の輪郭だけがぼんやり浮かぶ距離。
時計の秒針が、規則正しくカチ、カチ、と進む。
比良坂は机を指先で軽く叩き始めた。タン、タン、と落ち着いたテンポ。
秒針の音と重なり合い、寂しい空間の中では耳障りが良いとすら思える。
比良坂「お前ってさ」
背もたれに体を預けたまま、比良坂は言う。
比良坂「なんか喋り方変だよな」
折り紙の角を揃えていた枢木の指が、ほんのわずか止まる。
枢木「そうですか?」
比良坂「...ただの主観」
比良坂は視線を向けない。天井を見ている。
枢木は小さく息を吐いた。笑ったのかどうか判別のつかない、わずかな呼気。
枢木「昔に、態度とか視線とか、冷たいと言われたことがあって」
折り目をつけながら続ける。
枢木「それ以来、なるべく柔らかく話そうと努力はしているんですよ」
比良坂は再び鼻で笑う。
比良坂「それで話し方気持ちわりぃのか」
悪意はない。だが優しくもない。投げた石が水面をかすめるくらいの軽さ。
枢木は少し考えるように目を伏せ、それから、ほんのわずか語尾を崩す。
枢木「その感じだと、あまり効果はないみたいだね」
比良坂は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく舌打ちした。
比良坂「......まぁ」
枢木の言葉が妙に耳に残っていく。
脳裏から振るい落とすように、比良坂は机を叩く指のリズムを崩さないまま、視線を横に流した。
枢木「貴方の話を聞いても?」
比良坂「はぁ? んなもん聞いてどうすんだよ」
枢木「ただの雑談です。昔の話とか、気になる子の話とか。なんでもいいけど」
枢木は静かに声を落として、折り紙を揃え直す。
枢木「私が人の話を聞くのが好きなだけですから」
比良坂は少し眉を寄せる。
比良坂「面倒くせぇな、カウンセラー」
だが席は立たない。指先のテンポがわずかに遅くなるだけだ。
しばらく沈黙が続いたあと、比良坂はぽつりと言う。
比良坂「中学のときさ」
枢木の手が、今度ははっきりと止まる。だが視線は上げない。
比良坂「文化祭で、クラスの売上、俺が伸ばしたことあってな」
枢木「どうやって?」
比良坂「ターゲット絞って、導線変えて、煽り文句変えただけだよ」
タン、と机を軽く叩く。
比良坂「人間なんて単純だ。ちょっと言葉選べば、勝手に財布開く」
視線は、枢木ではなくラウンジの隅の観葉植物に向いている。空調の風で葉がゆらりと揺れる。その揺れに合わせるように、声も淡々としている。
比良坂「倍だよ、売上。せんせーも驚いてた。才能ってやつだろ」
誇るでもなく、照れるでもない。ただ事実を述べる口調。
枢木は一枚の折り紙を整え、角を揃え、静かに置く。そして、穏やかな声で言った。
枢木「それはすごいですね」
比良坂の指が止まる。
比良坂「苦労もしてねぇし」
視線を床に落としながら、すぐに続ける。
比良坂「思いついただけだ」
温度の乗らない軽い響き。
枢木は、わずかに視線を上げる。
枢木「...それも、才能ですね」
空気が、ほんの少しだけ変わる。
カチ、カチ、という秒針の音が、耳のすぐ傍で鳴っている感覚。
比良坂「なんでもかんでも才能にすんなよ」
比良坂の声は低い。机を叩く指先が、さっきよりも重い音を立てる。
枢木は瞬きを一つする。
枢木「......すみません」
素直な謝罪だった。弁明も反論もない。
その素直さに、比良坂はわずかに戸惑う。
怒りを続ける理由が、手の隙間から滑り落ちていった。
比良坂「別に...、」
短く返す。
沈黙が落ちる。
時計の音と、紙を折る音だけがある。
やがて、比良坂は視線をまた観葉植物に向け、言う。
比良坂「......兄貴がいるんだよ」
枢木「どんな方なんですか?」
比良坂「二つ上。頭は良かったな。要領も良かったし、周りからの受けも良かった。俺と違ってな」
軽く笑う。
本当に、軽く。
枢木は相槌を打たない。ただ、聞いている。
指先だけが、折り紙の角を揃える動きを繰り返している。
枢木「仲は?」
比良坂「全然」
枢木の冷たく柔らかい声に、ぴしゃりと即答する。
比良坂「俺のこと、あいつ嫌いだったと思うわ。出来のいい兄貴に比べて、ひねくれてて可愛げのねぇ弟。ま、妥当だろ」
枢木「貴方は、お兄様が嫌いでしたか?」
比良坂「......まぁな」
それ以上は言わない。
比良坂は揺れる葉から、ちらりと枢木へ視線を向ける。
責める気配も、同情もない。淡い水面のような表情をした枢木をただ、睨む。
比良坂「......何か言わねぇの」
枢木は少しだけ考える。ほんのわずかな沈黙。
そして視線を合わせもしないまま、口を開いた。
枢木「今の嘘は、貴方に必要だと思っただけ、だよ」
それだけだった。
説明もしない。問い返しもしない。
比良坂は固まる。指先が机の上で止まる。
比良坂「......何言ってんだ、」
理解できない、という顔。
怒るには、まだ枢木の言葉への理解が足りなかった。だから、まだ困惑の域。
ラウンジの空気は、まだ冷たい。
だが、どこかで水面がわずかに揺れたまま、止まっている。
枢木はその言葉に対して、特に何も付け加えない。
弁解も訂正もせず、机の上の折り紙を整え始める。
さっきまでと同じ動作のはずなのに、どこか区切りをつけるような手つきだった。
比良坂はしばらくその様子を見ていたが、やがて眉をひそめる。
比良坂「おい」
枢木は顔を上げる。
枢木「どうしました?」
比良坂「どうしましたじゃねぇよ」
言葉を探すように一度口を閉じ、それから舌打ちまじりに続ける。
比良坂「......どういう意味だよ、」
枢木は数秒だけ黙る。
考えているというより、言葉の置き場所を確かめているような沈黙だった。
枢木「深い意味はありません」
やがてそう言って、折り終えた紙を一纏めにする。
枢木「そういうこともあるかなと思っただけです」
その言い方は、曖昧だった。
否定も肯定もしていない。落ちたものをわざわざ拾い上げないような態度。
比良坂は眉を寄せたまま机を指で叩こうとして、やめる。
指先は机の上を滑り、そのまま動かなくなる。
比良坂「......意味わかんねぇ」
小さく吐き捨てる。
枢木はそれ以上触れない。話題を戻すことも、続けることもなく、折り紙の箱の蓋を閉じる。
カチャリと軽い音が夜のラウンジに落ちた。
そういえば、あの不気味女がこいつのこと、イルカだとか言っていたっけ。
そんなことを思い出して、ふと自分の思うイルカ像と、目の前に居る人間を当てはめてみる。
きゅーきゅーと鳴く愛らしい哺乳類と、何を考えているのか分からないカウンセラー。
全くもって似合わない。どこがイルカだ。
そんなことを考えていれば、枢木は椅子を引き、立ち上がる。
枢木「今日はこのくらいにしておきます」
ランプの光の外へ一歩踏み出すと、枢木の影が少し長く伸びた。
比良坂はその背中を目で追う。
比良坂「......もう作業は終わったのかよ」
枢木「ええ、話し相手が居たおかげで」
あっそ、なんて言って枢木から視線を逸らした。
だが枢木は二、三歩進んだところで、ふと足を止めた。
枢木「あ、」
思い出したような声。
振り返らないまま、少しだけ肩をすくめる。
枢木「お茶、出していませんでしたね」
まるで今気づいたことのように言いながら、給湯ポットの前に立つ。スイッチを入れると、小さく湯の立つ音が響き始めた。
ラウンジの静けさは相変わらず深い。秒針の音と、ポットのかすかな振動が、ゆっくりと空気に溶けていく。
比良坂は黙ってそれを見ていた。
湯が沸き、カップに注がれる。琥珀色の液体から白い湯気が細く立ちのぼる。
その揺れは、廊下の光に似ていた。深海の底から見上げた水面のように、ゆらゆらと形を変える。
枢木はカップを一つ持ち上げ、比良坂の前に置く。
枢木「どうぞ」
それだけ言う。
礼を言えとも、飲めとも言わない。
比良坂はカップを見下ろす。湯気が立ち上り、光をわずかに歪めている。
比良坂「......、」
何か言うつもりだったのかもしれないが、結局言葉は出てこない。
枢木はそれを待たない。軽く頭を下げると、そのままラウンジの出口へ向かった。
足音は控えめで、ドアが閉まる音さえも静かだった。
残されたのは、机の上のカップと、白い湯気。
比良坂はしばらくそれを眺めていたが、やがてゆっくりと手を伸ばす。指先が陶器の縁に触れ、そのまま包み込むようにカップを持ち上げた。
熱い。
思ったよりも強い熱が、陶器越しに伝わってくる。
だが離すほどではない。ほんの少し強めに握れば、じんわりと指の奥に染みていくくらいの温度だ。
比良坂はそのまま両手でカップを包む。飲まない。ただ、握っている。
さっきまで机を叩いていた指が、今は逃げ場をなくしたみたいにそこに収まっている。
湯気が指の間をすり抜け、頬のあたりにかかる。温度はゆっくりと変わっていく。さっきまで鋭かった熱が、時間とともに柔らいでいく。
比良坂はそれを確かめるように、指の力を少しだけ緩めた。
——今の嘘は、貴方に必要だと思っただけだよ。
意味はわからない。
わからないままでいいはずなのに、言葉だけが妙に残る。
陶器の向こうの熱が、ゆっくりと手の内に移ってくる。
直接ではない、どこか遠慮のある温度。
押しつけるでも、急かすでもない。ただそこにあるだけの熱。
拒む理由も、飲む勇気もいらないくらいの温度になるまで、比良坂は待つ。
カップの中の温度が下がるのを待っているのか、それとも自分の中のざらつきが少し静まるのを待っているのか、自分でもよくわからない。
ただ、手の中でゆっくり変わっていく温度を、確かめるように握っている。
比良坂「......必要、か......」
小さく漏れた声は、湯気の中で溶けた。
それが優しさだと、まだ言葉にはできない。けれど振り払うこともなかった。
陶器越しに伝わる熱が、冷えた手の奥をじわりと温めていくのを、比良坂はただ黙って受け止めていた。
ラウンジの灯りは変わらず静かに床を照らしている。
深海の底から見上げる水面のように、淡く揺れる光の下で、カップの中の温度は少しずつ落ち着いていった。
その温度になるまで、比良坂は手を離さなかった。