ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの華麗なるハイエナ日記   作:空門 志弦

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第一項 くだんの話

 澄みきった秋空の下、山の斜面を彩る紅葉が燃えるように鮮やかに映える。

 濃い緑の匂いに満ちる山道を見下ろすと、もはや木々にさえぎられて人里の姿は見えない。

 道の先を見れば、石畳の階段が延々と続いている。

 目を細めて見ても、どこが終わりか分からないほどだった。

 

 そんな光景を前に、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは小さくため息をついた。

 

「まったく……どうしてこうも古い魔術師の家というのは、利便性というものを投げ捨てるのかしら。神秘の隠匿という大義はあるにしても、もう少し時代に添うべきじゃないかしら」

 

 優美な仕草で日傘をくるくると回しながら呟き、ヒールの先で階段を軽くつつく。

 石段の隙間には落ち葉が溜まり、湿気と苔が微かに足元を滑らせそうな気配を漂わせている。

 そんな時、彼女の背後から自分とは別の落ち葉を踏む音が聞こえた。

 

「なら、帰ったら? こんな場所にまで、そんなドレスで来ている人間が時代とかよく言うわね」

 

 その声に、ルヴィアは振り返る。

 黒いハーフコートに身を包んだ遠坂凛が、階段下から現れた。

 うんざりしたような顔で言う遠坂凜は、庶民的でありながらもルヴィアも認めざるを得ないある種の品格を滲ませている。

 言動には思う所もあったが、ルヴィアは片眉を上げるにとどめて微笑んだ。

 

「ふふっ、ご冗談を。このルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトが、一度狙った獲物を諦めると思って? そこに宝があると聞いて、引き下がるようなエーデルフェルトではなくってよ?」

 

「なら、ぼやいてないで早く登りなさいよ」

 

 深いため息ひとつで、凜はあっさりと気分を切り替えた。

 

「魔術師が私以外にも来てるって情報はあったけど、まさかあんただなんてね。まあ、でも先を越されなかったみたいで、何よりだわ」

 

 そう言って、凜もまた階段へと目を向けた。

 正確には、その階段の先にある久壇(くだん)家へ。

 二人の視線の先、久壇家へと続く長い石段は、沈黙のうちに彼女たちを見下ろしている。

 

 時間をかけて石段を登り切った二人の前に、古びた山門と、その先に佇む屋敷が姿を現した。

 築百年は下らないだろう木造建築。

 その黒ずんだ瓦と雨に晒された木壁は、時の重みと静かな威圧を滲ませていた。

 

「……日本だとこういうのを趣があると言うのかしらね。まあ、中身は知れたものじゃないけれど」

 

 ルヴィアが苦笑混じりに感想を述べると、凛も軽く頷く。

 

「ま、魔術師の工房にしては大人しい方よ。少なくとも屋敷の外には罠や使い魔の気配がない。今のところは、だけど」

 

 二人が足を踏み入れようとしたとき、門の内側の手入れされた中庭に、ひとりの少女がいることに気がついた。

 銀色の髪が風にそよぎ、陽の光を細い肩に映している。

 地味ながら品のある和服姿。

 その小さな手で、庭の片隅に咲く薄紅の花を慈しむように、丁寧に世話していた。

 彼女は二人の足音に気がついてふと顔を上げ、ルヴィアたちに気づくと、驚いたように目を見開いた。

 

「……お客様、でしょうか?」

 

 声は澄んでいたが、どこか機械的で、整いすぎている。

 だが、その中にかすかな柔らかさが滲んでいた。

 

「そうよ、私たちは久壇家に用があってきたの。あなたは?」

 

 凜が問うと、少女は素直に答えた。

 

「わたしは……香音(かのん)。ここの娘です」

 

 名乗ると、香音は小さく微笑んだ。

 だがその笑みはどこかぎこちなく、そこはかとない不自然がある。

 凛がそっとルヴィアの耳元に囁く。

 

「……あの子、魔力の気配がほとんどない。この家の娘でそれは不自然よね?」

 

「ええ、見た目は日本人離れしていることを除けばごく普通の少女だけれど……まあ、本当に普通の少女という事はないのでしょうね」

 

 二人は目だけで頷き合う。

 この娘──香音こそが、今回の件における鍵であった。

 

 

 

 

 香音に案内され、二人は屋敷の奥の和室へと通された。

 薄暗い室内、床の間には牛のような怪奇な生物の描かれた墨絵と、幾何学めいた魔術的な装飾が施された花瓶。

 空気は静やかだが、どこか沈殿するような粘り気があった。

 しばらくして、すっと襖が開かれる。

 

「よくお越しくださいました、エーデルフェルト嬢に、遠坂嬢」

 

 現れたのは、黒を基調とした羽織を纏う痩身の男。

 だが、その細身に似合わぬ風格を感じさせる男だった。

 外見年齢は三十代半ばほど。

 それでいて長い髪を無造作に後ろで束ねたその姿からは、老練さが滲んでいる。

 見た目通りの年齢という事はなさそうであった。

 

「我が名は久壇 累月(るいげつ)。この家の当主ではありますが、しがない研究者に過ぎません」

 

 流れるような所作で座布団に腰を下ろした彼に、ルヴィアは微笑を崩さずに真正面から切り込んだ。

 

「初対面で失礼を承知で申し上げますが……"くだん"の研究に関して、我がエーデルフェルト家として興味がございますの。十分な実益を提供できると自負しておりますが──譲っていただけないかしら?」

 

 凛が苦虫を噛み潰したような顔で言葉を漏らす。

 

「……やっぱりそういう話ね」

 

 そんな凜の様子を意に介さずに、ルヴィアは肩をすくめて見せた。

 

「私がわざわざ山奥の旧家に足を運んだ理由、貴方もわかっていたようですわね。まあ、ここに現れた以上は当然でしょうけど」

 

 ルヴィアの提案に対しても、累月の眼はまったく揺れていなかった。

 

「お申し出は光栄ですが、"くだん"はあくまで我が家の秘伝とも言うべきもの。外部に譲る気はございません」

 

 交渉が行き詰まったのを見計らい、凜が口を挟む。

 

「私はルヴィアと違って、金で神秘を買うつもりはないわ。ただ、日本に住む魔術師の一人として、ここ最近の久壇家の動きに不穏な気配があるという報を受けて来ただけ。……別に敵対するつもりはないけど、無関心ではいられないの」

 

「ご心配いただけるとは光栄です。ですが、我が家の行動が問題になるようなものであれば、とうに魔術協会からの正式な監査が入っていたでしょう。当然、日本の他の魔術家からの強硬な干渉も。違いますか?」

 

 穏やかな態度だが、どこか慇懃に凜の牽制を悠々と受け流す累月。

 凜は舌打ちをしそうになったが、かろうじてこらえた。

 

「いずれにせよ、はるばるここまで来ていただいたのです。どうぞ今宵は我が家にお泊まりください。部屋も食事もご用意いたします。……香音も喜びましょう。あれは、人と関わる機会が少ないものですからね」

 

 その名が出たとき、一瞬だけルヴィアの目が細くなった。

 

 

 

 

 夕餉の時間となり、香音が一人で居間に料理を運んできた。

 食卓に並べられるのは、季節の山菜や煮物、炊きたての白米に、澄んだ出汁の味噌汁。

 どれも素朴ながら丁寧な手仕事が感じられる。

 だが、その席に累月の姿はなかった。

 

「あら、ご当主はご一緒じゃないのかしら?」

 

 ルヴィアが疑問の声をあげると、香音は小さく首を横に振った。

 

「父は、今夜は研究室にこもるそうです。食事はご自由に、と……」

 

 香音の声は相変わらず澄んでいて整っていたが、どこか感情の抑揚に欠けている。

 だが言葉の端々に、微かな躊躇いのようなものが混じっていた。

 

「あなたが全部準備してくれたの?」

 

「はい。わたしができることは、それくらいですから」

 

 凛が目を眇めて観察するような視線を向けながらも、あくまで自然な調子で問いかけた。

 

「あなた、あの屋敷で他に誰かと一緒に暮らしてるの? それとも、ずっとお父さんと二人きり?」

 

 香音は一瞬、答えに詰まったようだった。

 だがすぐに、静かに言葉を紡ぐ。

 

「……昔は、他にも人がいました。でも、今は……いません」

 

 その短い答えに、ルヴィアが微笑みつつも、凜と似た探るような目を向けた。

 

「さぞかし寂しいでしょう? こんな山奥では他の方と関わる機会も中々得られないでしょうし」

 

 香音は配膳の手を止めず、淡々と答えた。

 

「寂しい、という感情が、どういうものかは、まだよく分かりません」

 

 凛とルヴィアが一瞬、視線を交わす。

 無垢というには、異質。

 人間のとしての生活をどこか距離をもって俯瞰しているようなその言い様に、違和感がますます募った。

 

「……それと、お二人に一つだけ。あまり長く、ここに留まらない方がいいと思います」

 

 不意に、香音がそう告げた。

 配膳の最後の椀を置きながら、声色には変わらぬ静けさがある。

 だがその言葉は、妙に重く、硬い質感を帯びていて、凛の背に冷たいものが走った。

 

「それは……忠告ってことかしら?」

 

「いいえ。ただの、願いです」

 

 そう言って、香音は深く頭を下げ、音もなく部屋を出ていった。

 

 静寂が戻る。

 二人はしばし、並んだ料理にも手を付けず、沈黙の中に座していた。

 

「あの子、やっぱり普通じゃないわね」

 

 凛が先に口を開いた。ルヴィアも頷きながら、杯を手に取った。

 

「感情の模倣がうまくいっていない。魔術的に作られた存在か、それとも……」

 

「あの銀の髪と言い、物腰や言動と言い。既視感がありすぎるのよねえ、あの子」

 

 二人は互いに視線を交わした。

 すでに交渉は決裂している。

 だが、この屋敷には、まだ解明されていない謎がある。

 

「アインツベルンですか。私も法政科の人間が従えていたものを見た事があります」

 

 ルヴィアの言葉に、凜は深く溜息をついた。

 

「ホムンクルス、なんでしょうね」

 

 かつての聖杯戦争で関わる機会があったその存在について、凜の感情は少し複雑だ。

 見た目が少女というのも彼女にとっては良くなかった。

 

「それは、あなたの言う所の心の贅肉ではなくて?」

 

 その様子を見とがめたルヴィアに凜は返す言葉を持たない。

 だから、実務的な話に話題を切り替えることにした。

 

「どの程度の猶予があるかわからないけど、その時までになるべく情報を引き出しておきたいわね」

 

 ルヴィアも、あえてこれ以上の追及はしなかった。

 代わりに危機感を共有するために皮肉交じりに告げた。

 

「ええ。でないと私たちもどうなることやら。──ここは、ある意味、敵地なんですから」

 

 

 

 

 夜の帳が落ち、屋敷はひっそりと静まり返っていた。

 月の明かりさえ届かぬうっそうとした山中のただでさえ閉鎖的な屋敷の空気が、どこか粘ついたように重く感じられる。

 

 凛とルヴィアは、足音を最小限に抑えながら、慎重に廊下を進んでいた。

 

「昼間とは空気が違いすぎるわね」

 

 凛がそう呟くと、ルヴィアも頷きつつ、手にした魔術礼装を微かに振動させた。

 

「結界の性質が変質している。何かの儀式の影響ね。ここだけ、現実の座標からズレかけてるわ」

 

 障子戸の隙間から覗く廊下の先、影が濃く沈み、異様な静寂が広がっている。

 その先には累月の研究室があるはずだった。

 

「どうする? このまま進むのかしら?」

 

「当然でしょ。このために夜を待ってたんでしょう、私たちは」

 

 決意を込めた凛の声に、ルヴィアもまた好戦的な笑みを浮かべて同意する。

 だがその直後、不意に背後から、手が伸びた。

 ぐい、と二人の手が引かれる。

 

「ッ!?」

 

 咄嗟に反射するように身構えたが、振り返れば、そこにいたのは香音だった。

 白磁のような肌に、月光を集めたかのような銀の髪が淡く光っている。

 表情は何故か驚いたような感じで、自分の行動を不思議に思うかのように自分の手を見つめていた。

 しかし、すぐに表情はいつもの平坦なものに戻った。

 

「……そちらに行っては、いけません」

 

 静かな声と共に、香音が目で示したその先の廊下が波のように揺らぐ。

 そして、すぐにきしむような音を立てながら、ゆっくりと歪んでいった。

 まるで布を裂くように、空間そのものが引き裂かれ、そして、霧散するように消えていく。

 目の前で、今までそこにあったはずの道が、一瞬で存在しなくなった。

 

「――危なかった……っ」

 

 凛は震える息を吐きながら、自分の腕をさすった。

 知らぬ間に死の淵に立っていた事実に、ぞっと背筋が冷える。

 だが、それ以上に彼女たちの意識を引いたのが香音の行動だった。

 どうして、彼女はこの異変に気づいたのか。

 あの空間の歪みは、視覚で捉えられる直前まで、魔術師の二人でさえも検知できなかったはずだ。

 

「あなた、どうやって今のを察知したの?」

 

 凛が訊ねると香音は一拍遅れて、小さく首を傾けた。

 

「……わたしは、そうなると分かっていた気がしただけです。理由は、うまく言えません」

 

「気がした? それは、まさか……」

 

 ルヴィアが眉をひそめる。

 二人の脳裏に浮かんだのは、くだんの事だ。

 厄災を予知にて告げるという妖怪、くだん。

 久壇家は正にそれを研究している魔術家系であることを思い出す。

 あの少女が何らかの未来予測能力──あるいは、未来そのものを見る術を持っているとすれば。

 

「あなた、まさか未来が見えるの?」

 

 凛の問いに、香音は目を伏せた。

 答えられない、と言った風ではない。

 自分でもはっきりとした自覚はないのかもしれないと二人は感じた。

 

「ただの、感覚です。はっきりとは、分からない。ただ、怖かったのです。あなたたちが、いなくなってしまう気がして」

 

 その声音に、わずかに滲む焦燥と不安。

 凛とルヴィアは、そこに確かな人間性の発露を感じて、胸を衝かれたようにしばし黙り込んだ。

 

「未来視の魔眼の類とは別物のようですわね」

 

 気を取り直したルヴィアがつぶやき、凛と視線を交わす。

 あれは、確かに事前の察知が不可能に等しい類の不意打ちの現象だった。

 ただの感覚で捉えられるような代物ではない。

 

「……今夜の探索は、ここまでにしておいた方がいいと思います」

 

 香音が促す。

 その声音には、変わらず感情の起伏は乏しい。

 だが確かに、こちらの無事を願うような、微かな揺らぎが感じられた。

 二人は、顔を見合わせ鏡合わせにため息をついて、やむなく頷いた。

 

「仕方ないわね。今回は撤退としましょう」

 

「でも、ただの撤退じゃない。得たものはあったわ」

 

 香音という存在自体の秘密に、また一歩近づいたこと。

 それは非常に大きな成果と言えた。

 そして、彼女の願いが本物と言えるのか見極める必要があるという、自分たちのこだわりに気が付けた事もまた。

 

 

 

 

 朝、障子を開けると、眩しいほどの陽が差し込んでいた。

 昨夜の異様な空気が嘘のように、屋敷は穏やかさを取り戻している。

 庭を歩いていた凛は、ふと庭の隅でしゃがみ込む人影に気づいた。

 香音が銀の髪を風に揺らしながら、小さな花を一輪ずつ摘んでいる。

 

「それ、何してるの?」

 

 声をかけると、香音は少しだけ肩を跳ねさせ、振り返った。

 

「お花を……仏間に飾るのです。日課で」

 

「ふうん……」

 

 凛は少し迷ったから、香音の隣にしゃがみ込んだ。

 土の匂いが微かに鼻をくすぐる。

 手入れが行き届いているとは言い難い庭の中で香音が摘んでいたのは、山に自生する野花だった。

 

「朝から働き者なのね」

 

「いえ……これしかできないから、です」

 

 香音はそう呟くように言って、摘んだ花を小さな籠に入れた。

 その仕草に無駄はなく、それゆえにこそ儀式のように静かで、日々の孤独を感じさせた。

 

「昨日は……助けてくれて、ありがとう」

 

 凛がそう言うと、香音の手がぴたりと止まった。

 ゆっくりと顔を上げる。

 その顔にはどこか戸惑いの色が浮かんでいた。

 

「今でもよくわからないのです。あのときは咄嗟の事で。けれど……怖くて。お二人がいなくなるのが」

 

 言葉を探しながらも、誠実に答えようとする姿勢があった。

 凛はその目を見つめながら、小さく息をついた。

 

「そういうのを想いって言うのよ。あんたは自分自身で思っている以上に自分の意思で動いてるわ」

 

「……そう、でしょうか」

 

「そうよ。少なくとも私はそう思ってる」

 

 不器用ながらもまっすぐに礼を言った凛に、香音はほんの一瞬だけ、はにかむような笑みを見せた。

 それは本当にかすかなもので、光の加減で見間違えたかと思うほどだったが。

 

「あらあら、随分と凜さんらしくない穏やかな光景ではなくて?」

 

 からかうような声が飛んできて、凛は軽く舌打ちした。

 日傘をさして庭に現れたのは、もちろんルヴィアである。

 

「貴方は気づけば、世話好きなお姉さん役ですのね」

 

「うるさい。朝の散歩をしていたら、たまたま目に入ったから、昨日の礼を言っていただけよ」

 

「ふふ、なら私もお礼を言わないわけにはいきませんわね。昨晩の事、感謝いたします、香音さん」

 

「いえ、きっと、やりたくてやった事、だと思うので」

 

 先ほどまでの凜の言葉を受けてか、香音はそんな風に答えた。

 ルヴィアは目を丸くしてから、やわらかく微笑んだ。

 

「そうですか。そうだとしても感謝は受け取ってください。それで、次の予定はどうなっているのかしら?」

 

「お昼の支度を」

 

「ふーん、それならお礼に手伝おうかしら。一人で何でもやっていたら、大変でしょう?」

 

その発言に香音が驚いたように凜を見る。

 

「こう見えて料理にはそれなりに自信があるのよ。特に中華」

 

 ちょっとおどけて言う凜に、香音は戸惑いを見せつつも、「はい」と小さく頷いた。

 その日、香音と二人の距離はわずかに縮まった。

 言葉少なでも、向き合うことで育まれる信頼が確かにあった。

 だが、その裏で。

 その静かな交流のすべてを知ってか知らずか、屋敷の奥で、累月は穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「まるで、娘を預けた気分ですね。いい観察になる」

 

 小さくそう呟く声が、誰にも届くことはなかった。

 

 

 

 

 その日、夜が更けて屋敷の空気がひときわ重くなった頃。

 香音は静かな足音で、累月の書斎へと向かっていた。

 

「……お呼びでしょうか、主さま」

 

 障子の向こうから声をかけると、奥から静かな声が返る。

 

「入りなさい。星辰の位置が整う日が近い。――その身で、確かめてもらいましょう」

 

 香音は無言で頷き、足元に描かれた小さな魔方陣の中央へ進む。

 白磁のような顔が、一瞬だけ苦痛に歪んだ。

 

「始めます……」

 

 呟くと同時に、香音の髪が鈍く発光した。空気がわずかに震え、何かが軋むような音が聞こえる。

 まるで天と地が一瞬だけ歪んで交わったかのように、あたりの時間が鈍く淀む。

 

「……見えます。星が……交差して……時間が傾ぐ。因果の裂け目が……」

 

 途切れがちな言葉。口元から紅が滴り、香音の身体がぐらりと揺れる。

 

「儀式に最適な時……三日後、黄昏……っ、あ……っ」

 

 その瞬間、彼女の身体は小さく跳ねるようにして崩れ落ちた。

 累月は微動だにせず、無感情な目で倒れた少女を見下ろす。

 

「因果を定めるには至らず。やはり未完成品ではこれが限界か。だが、これで準備は整う」

 

 書斎の外では、虫の音だけが静かに響いていた。

 

 翌朝。

 香音の顔色は明らかに悪かった。

 唇にはかすかに紫が滲み、歩く足取りもおぼつかない。

 それでも彼女は二人を見送りに庭まで出ていた。

 

「……ここから先は、あまり深入りしない方が、良いと思います」

 

 控えめに、けれどはっきりとした声で香音は言った。

 その声には、昨日までとは違う、微かな切迫感があった。

 凛の目が鋭くなる。

 

「どういう意味かしら?」

 

「……もうすぐ、大事な儀式があるのです。お二人には関係のないこと。ですから、どうか……巻き込まれないうちに」

 

 香音の声音に嘘はなかった。だが、その瞳は明らかに何かを訴えていた。

 

「あんた、何か隠してるわね」

 

 問い詰めようとする凛を、ルヴィアがさっと手で制した。

 そして、香音に向き直ってにっこりと微笑む。

 

「ええ、分かりましたわ。お心遣い、感謝します。――また機会があれば、お会いしましょう」

 

「……はい」

 

 香音はわずかに伏し目がちに頷く。

 その姿を見届けてから、凛とルヴィアは屋敷を後にするふりをして、裏手の山道へと逸れた。

 

「……ルヴィア、何で止めたのよ」

 

「今の彼女に何を聞いても、きっと本当のことは言わないでしょう」

 

 ルヴィアの声は冷静だった。

 

「儀式が近いなら、その前に何かしら仕掛ける余地があるはず。彼女にはその時に改めて問うべきことを問えば良いのです」

 

 ルヴィアの言葉に凜もひとまず怒気を収めた。

 そして、ふたりは深い木々の陰に身を潜め、屋敷を見下ろす斜面へと静かに消えていった。

 

 

 

 

 夜の山は静まり返っていた。

 風に揺れる木々のざわめきが、遠くで獣が動いたかのような錯覚を呼ぶ。

 その中に、ぽつりと灯るランタンの明かり。

 ルヴィアと凛は、屋敷を見下ろす岩陰に身を隠していた。

 

「……さて、いい加減、教えてくれてもいいのではなくて?」

 

 ランタンの赤に照らされ、凛が腕を組んでルヴィアを見た。

 

「何を?」

 

「とぼけないで。あの子のことよ。私の元に流れてきた最初の情報源も日本の魔術師だったわ。あなたに依頼した魔術師と同一、あるいは近い筋でしょう?」

 

 凜は小さく息を吐いて、腰のポーチから封筒を取り出した。

 

「ええ、陰陽道系の魔術家よ。土御門の傍流。その中でも結構な上澄みね」

 

「つちみかど……って、そっち系ね。日本ではかなりのビッグネームですわよね?」

 

 ルヴィアは封筒を受け取り、中の文書に目を走らせた。

 数秒後、目を細める。

 

「やっぱり、くだんが絡んでる……。星の巡りを読み、未来を確定させる生体魔術礼装を作る……そういうこと」

 

「未来を語るモノの伝承を儀式で再現しようとしているのよ。星辰が整った日、未来を言い当てる異形のものが現れる。それがくだんの伝承の原型」

 

 凜の声は落ち着いていたが、指先には力がこもっていた。

 

「そして香音が、その“くだん”の役を担わされる……というわけですか」

 

 ルヴィアもまた苦い顔をしたまま、手紙から視線を離した。

 

「時計塔基準でも封印指定クラスになるような“星辰術”が絡んでるとなると、術式が完成したらもう手は出せないわ。空間ごと固定されて、内外の時間の流れも変わる」

 

「術式が安定する前に破る必要がありますわね。でも、早すぎても意味がない。構築の途中なら、失敗した瞬間に彼女が……」

 

 言葉が途切れる。

 二人の間に、沈黙が横たわる。

 

「依頼人の家の星読みが正しければ、三日後の黄昏時。それがピークだとして……あの屋敷、儀式に合わせて調整されているらしいから……」

 

 凛はさらにポーチから星図を取り出して広げる。

 

「依頼人曰く、屋敷そのものが大規模な星見盤になっているそうよ。つまり、星辰が整うその瞬間に照応によって屋敷が完全に儀式場に変わる」

 

「逆に言えば、完成する間際のその時が一番脆い。エネルギーが満ちて、まだ収束しきっていない瞬間――」

 

「そこを突くのよ」

 

 凛とルヴィアの視線が交差した。

 すでに、どちらの瞳にも迷いはなかった。

 

「やるわよ。香音をあんな儀式の生け贄にさせるなんて冗談じゃない。あの子は命を投げ出すには若すぎるし、ただの道具としては……人間らしすぎるのよ」

 

「ええ、同感ですわ。エーデルフェルトは狩人――狙った獲物は逃しません。そしてこれは、魔術師としての義務でもある」

 

 ルヴィアが微笑み、ランタンに手をかざすしてから強く握りこんだ。

 

「では、決まりですわね。儀式が完成し、空間が“定まる”その瞬間に、私たちが切り込む。その時にすべてを引き剥がす」

 

「ええ……終わらせてやりましょう。あの男の野心も。あの子に定められた、くだらない運命ごとね」

 

 深夜の森に、ふたりの笑い声が低く、だが確かに響いた。

 ランタンの光が揺らめき、赤く木々を照らした。

 

 

 

 

 冷たい石の床に足音が響くたび、香音の胸は少しずつ静かになっていった。

 彼女を育てた仮初の父である累月の命によって、儀式の中心に立たされることに、もはや逆らう力も言葉もなかった。

 

 空気が重い。

 屋敷の地下に広がるその空間は、夜空と地脈を繋ぐための調整を施された魔術的構造体の儀式場だ。

 中心に据えられた円環の台座。

 その奥に、奇怪な“もの”が横たわっていた。

 

 それは――くだん。

 正確には、くだんの伝承を模した合成獣たるキマイラ。

 牛のような下半身に、女のような顔と胴体。目は閉じられ、だがその皮膚の下では星辰に応じた魔術回路が脈打っていた。

 

「香音。お前は、この器と一つになる。そして、予言を語れ。お前の語る未来が、我らの望む未来として世界にすり替えられるのだ」

 

 累月の声はすでに父ではなく、魔術師としてのそれだった。

 

(やっぱり……こうなるのか)

 

 香音は逆らわなかった。

 いや逆らえなかった、というべきか。

 身体がもう、動かなかった。

 血が熱を失ってしまったかのようだ。

 拒絶も怒りも、香音には遠く感じられた。

 

 取り込まれていく感覚があった。

 皮膚が、骨が、意識ごと、キマイラの内へと沈み込んでいく。

 彼女の身体を媒介に、異形が目覚めようとしている。

 

(せめて、あの二人を……巻き込まないですんでよかった)

 

 屋敷に残っていれば、空間の歪みに呑まれていた。

 ルヴィアも、凛も、強いけれど、死という運命がちらつくには十分すぎた。

 予言の器のコアとして、香音にはその未来が感じ取れていたのだ。

 

(あの二人だけでも逃げられた。それで十分……)

 

 指先が動かない。

 眼球すら、思うように動かせなくなる。

 静かにゆっくりと、香音の意識が溶けていく。

 そのときだった。

 

「香音ッ!!」

 

 耳に幻聴が響いたと香音は思った。

 だが、それは幻聴ではない。

 轟音が儀式場に響き、魔法陣がひび割れる。

 空気が攪拌され火花が自分の方にまで飛んできた。

 

「香音! まだ消えていませんわね!?」

 

「寝ぼけてないで、さっさと目を覚ましなさい!!」

 

 確かに聞こえた。

 ルヴィアの、切実な叫びが。

 凜の、彼女を叱咤する声が。

 

(あ……)

 

 見えなくなっていたはずの目に、ほんの一瞬だけ光が戻る。

 崩れゆく意識の中で、香音はふたりの姿を見た――つい最近まで知るはずもなかった眩しくて、あたたかい光を。

 

(来ないで、って……言ったのに……ああ、いや、来ないでって、ちゃんとは言えてなかったかも)

 

 せっかく、逃がしてあげたのに、と香音は思った。

 それでも香音は彼女たちが、自分の名前を呼んでくれたことが、どうしようもなく、嬉しかった。

 

 

 

 

 累月は、儀式場の中心で掌をかざしたまま、目の前に現れた侵入者たちを見下ろしていた。

 

「他家の内情に踏み込むのは、魔術師としては下品だと思うがね?」

 

 薄ら笑いを隠しきれずにそんな台詞を言う。

 すでに香音の身体がくだんと融合しつつある状況では、二人はすでに結果を揺るがすには及ばないと言う判断が透けて見えた。

 

「……黙りなさい、その口を塞いでやるわッ!!」

 

 その所業と態度に怒り心頭な凜。

 叫ぶと同時に、腰のポーチから宝石を数個、宙へと放った。

 瞬間、紅の光が爆ぜ、空間を裂くような魔力の奔流が累月へと向かって叩きつけられた。

 だが、その一撃は累月の身体に触れる寸前で、岩にぶつかった波のように飛沫となって拡散し最後には霧散した。

 

「……結界? いいえ、これはまさか、因果的に届く事ができないとでも?」

 

 ルヴィアが結果をみてつぶやき唇を噛んだ。

 その目には、くだんの体内に半ば沈んだ香音の姿が映っていた。

 

「なるほど、儀式が終わらぬ現状でもこの程度の事は可能というわけか。もう少し、もう少しで、ただ香ることしかできなかった音なき花は、神の音を予言として授け未来を定める、神器となる! 久壇家の満願に今こそこの私が……!」

 

「うんざりする理屈ね……!」

 

 凜が舌打ちし、足元の石を踏みしめる。そして、拳を握ると横に跳んだ。

 ルヴィアもそれに続く。二人は魔術だけでは突破できないと見るや否や、肉体を武器に累月へと接近する。

 凜の中国武術と、ルヴィアのプロレス技。

 魔術によって強化された体術による二人の連携は見事だった。

 だがそれでも、そうあるべくして累月の動きは最小限にしてすべてをいなし、攻撃は空を切るばかり。

 時間だけが過ぎる。

 香音の意識はさらに沈み込み、キマイラの魔術回路はより輝きを増していた。

 

「くっ、駄目か……どうしてもあいつに触れられない……!」

 

 凜が息を荒げて一度距離を取る。

 ルヴィアもそれにならい下がって、背中を合わせて立った。

 

「どうやら、あの儀式そのものが盾になっている様子。逆に言えば、式を支える中核――つまり香音、もしくはキマイラ本体から揺さぶらない限り、あの男には届かないでしょう」

 

「……つまり、そこをどうにかしなければ勝機はないってことね」

 

 二人の視線が、くだんへと向けられる。

 

「ええ。まだ、彼女があの中で生きているなら……届くかもしれません」

 

「なら、やるしかないでしょ。あたしたちで、香音を呼び戻す――」

 

 凛の拳が、再び宝石を握った。

 ルヴィアもまた宝石を手にした。

 

「さあ、ここからが本番ですわよ!」

 

「ああ、もう! とんだ出費だわ!」

 

 二人は魔術と体術を交えつつ累月に挑みかかるが、やはり届かない。

 しかしそれは最初から分かっていた事。

 二人の狙いは別にあった。

 魔力の炸裂音が次第に大きくなり、戦闘は過激さを増していく。

 累月の意識が、徐々に偏っていった。

 

(私の方か! ったく、貧乏くじ極まりないわね! しくじるんじゃないわよルヴィア!)

 

 凜の目まぐるしい動きに意識を奪われていた累月は、ほんの少しの間だが、もう一人の存在を見失っていた。

 その隙に、ルヴィアはキマイラのひいては香音の元へと、無音で肉薄する。

 気づいた累月が振り返ろうとした瞬間、凜の膝が側頭部をかすめた。

 

「目を覚ましなさい、香音!」

 

 ルヴィアは叫びながら、焼けつくような魔力の奔流に手を突っ込んだ。キマイラの魔術回路が彼女の皮膚を焼くが、意に介さない。

 

「貴方は無意識だったかもしれませんが、私は覚えています。出会ったその日に、私たちを案じて忠告してくれたことを。……そのとき、あなたは“願い”と言いました!」

 

 キマイラにまだ取り込まれていない香音の半身がわずかに動いた。

 

「それこそが、貴方の芯です! 道具などではない、人間として! 初めて会った人間でさえ、無事であれと願える……それが貴方です!」

 

 香音の閉じられていたまぶたが震える。

 

「目を覚ましなさい! そして手を伸ばして! 今、この瞬間こそが、貴方が人として生きるかどうかの分水嶺です!」

 

 手が握りしめられる。

 そして、香音の目が、強い意志とともに開いた。

 

「――ルヴィアさん……お願い、たすけて……!」

 

 ルヴィアへと伸ばされる香音の手。

 

「ええ、よくぞ、未来を選びました! 褒めてあげますわ!」

 

 ルヴィアがその手をがっちりと掴み、香音の体をキマイラから引きずり出した。

 簡単に引きはがされたのは、今はくだんそのものである香音がその未来を選んだからだ。

 

「馬鹿な……!」

 

 凜に足止めされていた累月が事態に気づき、呻いた。

 

「だが、まだだ、まだ星辰が満ちきるまでに時間は……あぁぁ、あ?」

 

 香音を取り戻すために動き出そうとする。

 だが身体を動かそうとしたその瞬間、不格好に膝から崩れ落ちた。

 

「な、なんで。からだ、が?」

 

 自由にならない体で、何とか自分の手を視界に入れる。

 そこにあったのは、まるで干からびた枯れ木のような、自らの手だった。

 

「儀式が破られたからよ」

 

 凜が、感情を抜いた淡々とした声で言った。

 それは、未来を弄ぼうとした者に訪れた、まさに因果応報であった。

 

「未来を奪おうとして、手に出来なかったあんたは、未来の全てを剥奪されるのよ。くだんが未来を予知するとともに命を落とすように」

 

 ルヴィアも香音を支えながら歩み寄り、見下ろすように言葉を重ねた。

 

「魔術師であっても、いいえ。魔術師であればこそ。守るべき節というものがありますわ。品性と言い換えても構いません。累月、貴方にはそれがありませんでした」

 

 もはや、言葉を発する力すらなく、累月は月日を早送りでもするかのように終わっていく。

 弱り切っていた香音は、何も言うことは出来なかったが少し悲し気にそれを眺めた。

 最後の最後まで、目を逸らすことなく。

 見届けるように。

 

 

 

 

 遠坂邸のサロンに、紅茶の香りが優雅に漂っていた。

 

「まあ、なんとか依頼料で帳尻は合わせたけど、全然割に合わないわよ、ほんと……」

 

 ふう、と溜息まじりにカップを置く凜の隣で、ルヴィアは実に満足げに椅子にもたれている。

 

「あら、確かに金銭的にはそうかもしれませんけど、それ以外の成果も考えれば必ずしも赤字ではないのではなくて?」

 

「その思考が出費を増やすのよ……」

 

 納得しきれない様子で呻くように言う凜。

 それを尻目に、すっとルヴィアがティーカップを掲げる。

 

「香音、おかわりをお願いできますか?」

 

「……はい、ただいま」

 

 返事をしたのは、少し離れて控えていた銀髪の少女、香音だった。

 現在彼女は、ルヴィアの屋敷に引き取られ、メイド見習いという名目で身の置き場を得ている。

 動作はまだぎこちないが、元々久壇家の家事全般を取り仕切っていた彼女の手際は悪くない。

 何より、彼女の表情には、以前にはなかった柔らかさがあった。

 

「……少しずつ慣れてきたみたいね」

 

 凜がふと言葉を漏らす。

 香音は小さく頷きながらポットを傾ける。

 

「はい。……少しずつ、ですけど」

 

 注がれる紅茶を見つめながら、凜はふと、言葉を紡いだ。

 

「くだんって、昔から“災厄を予言する不吉な存在”みたいに言われてきたけど……

 本当は、災厄から誰かを救いたいって願いの表れなんじゃないかなって、最近思うのよね」

 

 香音がわずかに目を見開き、ぽつりと口を開く。

 

「……もし、そうなら……嬉しいです」

 

 その表情は、微笑とともにほんの少し、泣きそうにも見えた。

 

 かつて多くを見通していた彼女の予知の力は、今ではほとんど失われていた。

 今ではせいぜいほんの数秒先、自分の目に映る範囲が分かる程度のものだ。

 だからこそ。

 凜の腕が触れて倒れかけたティーカップに、香音はそっと指を添えて止めた。

 

「……私には、これくらいがちょうどいいです」

 

 その言葉には、様々な感情のすべてが込められているかのようだった。

 

 ルヴィアと凜は、顔を見合わせ、小さく笑う。

 そして何も言わず、その少女を、ただ暖かく見守っていた。

 

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