「今のもしかして独り言?」
「あ、聞こえてた?」
「聞こえますよ、あんなハッキリ言うんですから」
勇者はモテモテウハウハのハーレム生活なのか。
思考実験をしよとした段階で既にキレそうだ。
「件の勇者様は王都に向かって進んでいる最中らしいですよ」
「王都だあ?」
「まあまだシーランド王国にいるらしいですけど」
王都イシュリール。
東ヒューリングス王国の都にして、最も栄えた土地。最も前線から遠く、最も戦いと無縁な場所でもある。
そんな場所に勇者が。
「いよいよアレか? 王様の娘と契りでもかわすんか?」
胸糞悪いな!
なんだよ姫様と結婚って、御伽話の世界だけだと思ってたぞそんなの。
「なんですかその妄想……」
「ところで新聞は?」
「ああいえ、これは遠鳴りの──」
「そういうことね」
遠鳴りの魔法。
遠方にいる魔法使いと会話をすることができるすごい魔法だ。
俺は使えない。
登録制だからな。
昔練習してたら見つかって2ヶ月くらい牢屋に閉じ込められた。寝てたら同室のホモにケツを掘られかけたのは悪い思い出だ。童貞より先に処女失くすとか有り得んから。半殺しにしたからなんともなかったけどな。
まあ重要なのは……勇者は今、このタイミングで王都に向かっているってことだ。
……え、ちょっと待って!?
王都っていい女が集まる場所でしょ。
勇者はモテモテでしょ?
じゃあ良い女が勇者に集まりまくってるってこと!?
「──殺さなきゃ」
「はい?」
「許せねえ……勇者……王都にいるなら俺が殺して……」
「またなんか変なこと考えてる……ていうか、勇者様はえ、エッチなことなんかしませんって。そもそも向かっているだけでまだまだ到着は先だと思いますよ」
「エッチなことしないって……どんな夢見てんだよ」
「精悍な顔つきで、髪も肩くらいまであって、話し声を聞いただけで心が奪われるようなそんな人ですよきっと」
「化け物じゃねえか」
インキュバスかな?
「カッコいいんだろうなあ」
「そんでこの街にやってきたら食い散らかされるわけね」
「や、やめてください! セクハラですよ!」
「なんだこいつ」
ともあれ、勇者は王都でウハウハのハーレム生活を送っている。俺は北の大地で一人寂しく──というのは置いといて、どうにも最近、嫌な予感ってやつがぬぐえなかった。
黒くざわつくような感覚が背筋に常に触れていて、寝ている間も気分が悪いったらありゃしない。
北の方角から飛んでくるこの嫌な感じ。
塔に封印されてるっていうアークデーモンのせいか?
あんまりにもしつこいようだとノックしなきゃいけない。
『すいませーん! 寝不足になるんでやめてくださーい!』ってな。
そうでなくてもアイツがいるだけで危険だから殺したい。
「王都はお祭り騒ぎになるんだろうなあ……収穫祭は少し先だし、なんか面白くて楽しいことねえかなあ」
「……この街の人にとってはアクスさんが娯楽みたいなところありますからねえ」
「意味わからん」
もう風俗デビューしようかな。
「……あの、アクスさん」
「なに」
「きょ、今日って……空いてます?」
「今は空いてるけど依頼待ちじゃん」
毎日こうして座ってるのに、なんでこのタイミングでそんなこと聞いて来るんだコイツ。
…………!
もしかして……!?
「ほ、ほら、一人で寂しそうだからご飯とか一緒に食べてあげようかなーって」
「エレナ…………」
「別に変な気とかないですからね! 単純に可哀想だなって、ホントそれだけで……」
「……じゃあいいや」
変な気がないらしい。
ゴミじゃんコイツ。
そこは有れよ。
「…………え?」
「憐れまれる事ほど情けないこともねえよ……」
ちょっとだけ期待した俺がバカだった。
情けねえなあ。俺も勇者とかいう肩書きが付いてたらエレナから普通に誘ってもらう未来もあったんだろうなあ。はあーあ、今日も一人寂しくご飯食べますか……でもひとまず、今はエレナの顔は見ていたくないな。
「帰るわ」
「あ、その、今のは違くて──」
なんか言ってたけど、正直聞く気にならなかったので手だけ振っておいた。
情けない。
情けない。
情けない。
力はあるのに女一人捕まえることができない。なんて社会に向いてない男なんだ俺は。
こうなったら山奥にでも篭って、永遠に修行でもしてた方がカッコだってつくってもんだ。あるいは──
「出るか? 街」
アラベスクにいつまでも拘っているのが駄目なのかもしれない。親父と母さんが骨を埋めたから、俺もずっとここにいるもんだと思ってた。
だけど、それじゃあダメなんじゃないかって最近思い始めた。
「……男、旅に出るってやつか」
世の中に、俺より強いやつがそう多くはいないだろうってことはなんとなく予想がついてる。だけどきっと、勇者は強いんだろうな。
それはそれとして殴るけど。
ボコボコにして分からせたい。
「──待ってください!」
「エレナ?」
「さっきのは……嘘です!」
「?」
「私が一緒にご飯食べたいんです!」
「…………いいよ、もう」
大方は透けていた。俺がこの街から出て行こうという意思を持っていることをなんとなく察して、それを引き止めるために人心御供として自らを差し出そうというのだ。
虚しさだけが浮かんで、エレナの顔も声も半透明になったようだった。
強さとは、価値だ。
少なくとも街という大きな単位における市場価値は黄金のそれを容易く上回ることだろう。それでもモテないのが俺の悲しいところだけど、だからこそ騙されるわけもなかった。
「う、嘘じゃないです! 本当に私は──」
「じゃあお前は、俺が弱かったら一緒にご飯食べてくれるのか? 俺が普通の兵士ぐらいの強さしかなかったら、こうして追いかけてきてくれるのか?」
「当たり前じゃないですか!」
有り得ない話だった。
俺が実はモテモテだって言われるくらい信じられない話だ。それならば今頃俺は……虚しくなるからやめよう。
ともかく、ギルドがそこまでして俺を引き止めようとする理由はわかるけど…………流石に潮時だと思った。
「なんで信じてくれないんですか!?」
全ては成るように成るだけで、俺がこの町でモテないのはきっと、そういう運命だからだろう。勇者がモテモテ生活を送るのもそういう運命だからだろう。運命というとカッコいいけど、合ってないんだ。
……うん、エレナのおかげで踏ん切りがついた。
アラベスクはきっと、俺にとって都合のいい街ではなかったのだ。
故郷として愛していた。
それでも、より良い環境を手に入れるためにはきっと動かなければならないのだ。
俺が『モテモテ大ハーレムザウルス』になるためにも。
──────
ザウルスになる下準備をする必要がある。
身嗜みやら金ではない。
単純に、やり残したことを完結させなければならなかった。
「──お前をぶっ殺せばよお、親父たちの願いは終わるんだよ」
『忌々しい……さっさとこの地を離れれば良いものを!』
アークデーモン。
塔をぶっ壊して解放してやった。
そしたら意味不明なことを言っているけど関係ない。いつか解放されるなら俺が殺してやるのが一番スッキリするだろう。
──平穏をこの地の民へ。
偉大なる両親へ捧ぐには、足りないかもしれないけど。
「どうせ死ぬんだから、俺に殺される方が箔がつくだろ?」
『…………業腹だ』
「プロミネンス」
絶死の火球を顕現させる。
『魔王様に仕えた身……タダでやられてやるわけにはいかん!』
アークデーモンは黒い雷を手に溜め始めた。
それならこっちも。
「──ゼクスボルト」
膨大な魔力が空中から消失し、火球と混ざる。
1日数回限りの必殺技。
火球は稲光と共にゆっくりと宙に浮かび、周囲の瓦礫や、喧しく喚く取り巻きのモンスターを焼き尽くしていく。
『ガアアアアア!』
なにやら頑張って魔法で相殺しようとしているみたいだけど、それは無理な話だった。
タダでやられてなるものかってな具合に、ジックリと迫り来る火雷に向けて闇魔法を放ち、あるいは影に溶け消えて逃げようとしたさ。
だけど。
『やはりか……!』
俺の背中に今ある雷の翼。
影を照らし、魔に類するものを捉える性質を持つ、清浄にして正常な光が逃走を許さなかった。この魔法を発動すれば、俺が何かをせずとも自動的にそうなる。これまでもそうしてきた。
強力で、誰にも見せたことはない。
プロミネンスもゼクスボルトもそうだ。人に見せるのは価値のない部分だけ。
『このっ、バケモノが……!』
「…………」
親父は周囲の嫉妬に殺された。
母さんは盗賊に。
だからこそ、慎重に立ち回らなければならない。
酒に呑まれて誰かに自分の力を話すなんてのは、愚の骨頂だ。俺はあの二人と同じ轍は踏まない。
二人が愚かなんじゃない。
人間が醜いんだ。
言葉を操り、魔法を操り、感情を操る。
モンスターはもう少し単純だ。
言葉を喋るモンスターってのは大抵が偉そうで、自分の強さを過信している。そこだけ聞くと俺とあまり変わらないけど、俺の方が強いから終着が決まっているんだ。駆け引きができるのは、同じ土俵にいる相手だけと決まっていた。
『ぐ……が…………ぐぅぅぅぅぅ!?』
肉体が煙を立てている。おそらくは熱量で表皮が蒸発しているのだろう、苦痛を露わにしている。何もできずに消えていく様は悔しさに満ちていて、心優しい人間が見れば哀れみを覚えることだろう。
だけど、情けをかければこいつは街に辿り着いて女を犯し、子供を食い、建物を破壊する。
それだけにとどまらない。
コイツを野放しにするということはノーザンバグズ領全域が魔王の領域に落ちるということなのだ。
陽は差さず、土は腐り、生き物は痩せ細る。
人が住むことは到底できない悪夢の土地が増えていく。
俺はこの街を愛している。クソみたいな風土だし、俺がモテないという一点においてクソみたいな領ではあったけど、それでもここは故郷だ。
親父と母さんが必死に戦って守った土地であり、俺が走り回った庭。
俺がチカラに振り回されても受け入れてくれる広大な土地があった。
『ぐあああああ!!! ──何故こんなことをする!』
それは、必死の問いかけだった。
『私がお前に何かしたか!? 親でも殺したか! それとも好きな女でも食ったか!』
「…………」
『こんなことをされる謂れがあるのか! お前に対して未だ何もしていない私が、こんな場所で死ぬ理由はなんなんだ!』
「…………」
『答えろ!』
「俺さ、彼女が欲しいんだ」
『か、彼女……?』
「分かるよな、人間の概念だけど……彼女。嫁でも良いけど……」
『それがどうした!』
「恥ずかしながら18になるまで彼女ができたことがありません!」
どうせこいつは死ぬんだし、ぶちまけるだけぶちまけてやろう──そんな気分だった。
「俺ってめちゃくちゃ強いと思うんだ、だってお前より強いし……そもそも最近全く負けない。誰が俺に勝てる? ってくらい強い。だけど……そんな俺でも男女のアレコレの競争には全く歯が立ちませてんでした」
『……がぁあああああ!』
全力全開みたいな感じで両手から黒いビームをぶっ放している。少しだけ炎雷の速度が緩まった。
「俺なりに考えたわけよ、どうしたらモテるのかなーってね? 服を揃えるとか、眉毛を整えるとか、強さに似合わぬ涙ぐましい努力もしました…………でも全くダメ、意味分からんマジで。女どもの目が腐ってるんだ。ブサイクすぎわろたってこと?」
『か、解放してくれれば最上の女を抱かせてやる!』
「それなら風俗行けば良いじゃん」
『姫でも、誰でもだ!』
「力ずくでって話してるなら、そもそもお前みたいな奴の力借りる必要ないだろ」
『だが、私がやったという証拠しか残らない! 逃げられないように足の腱を切るなり鎖で繋ぐなりすれば、誰も最後まで気付くことすらできまい! ──あぐぅぅうあああああああ!?』
神の力の一端であると考えられている雷の侵蝕は単純に物理的なダメージもそうだけど、魔のもの──それもアークデーモンのような行為な存在にとっては耐え難い苦痛をもたらすのだろう。あるいは、なまじ耐えられるだけにキツいのか。
「あのさあ、だから言ってるじゃん。そういう外道な方へ流れていくなら最初からこんな悩んでないんだって……やっぱ魔族って脳みそネズミくらいしか無いゴミなんだな」
『ぐぐがががががが──ならば、魔族ならどうだ!』
「うん?」
『魔族は人間などよりもはるかに容姿が優れている!』
「……?」
アークデーモンの容姿を見る。
控えめに言って人間じゃない。
『魔界ならば、美しい女が沢山いるぞ!』
「じゃあ、お前の顔を見てもムラムラしないのはなんで?」
『私は男だからだ!』
「……まあ、でも魔族の女も結局敵だから殺すしかないし、向こうの気持ちを無視して彼女にするって無理じゃん」
『………………もはや……もはやこうなれば、魔王様の為にもせめて──!』
黒い波動が一度広がり、そしてアークデーモンの身体を包んでいく。すでに下半身が消失している割には粘るなと思ったら、どうやら温存していたらしい。
「自爆する気か?」
『──おおおおおお!』
気合いの入った雄叫び。
おそらく、爆発の後には半径1kmにペンペン草も生えないとかそういうのだろう。
「環境破壊はいけないゾイ」
何かをやる前にゼクスボルトで包みこんで爆発させた。
爆発自体は天空方向へ指向性を持たせ、周囲への影響を最低限以下に。20分くらい煙が張れなかったけど、その後にじっくりと観察したらカスすら残っていなかったのでおそらく全身が蒸発してしまったということだ。おかげで魔法は霧散し、おそらく組んでいたのであろう自爆魔法も意味を成さずに終わった。
いやあ、ゼクスボルト消せれば良いんだけど、この子扱いが難しいのねん……強すぎるからあんまり練習もできないし。
──行くぜ、俺の旅へ!
──────
強大な力の発露。
アラベスクに住む人々の心に自然と恐怖を呼び起こさせるほどの巨大な火柱が北の方で立ち上った。
誰がそれを成したかというのは考えずともわかることで、これまでに見たことない規模の爆発は光だけにとどまらず遅れて巨大な音を届けた。
窓ガラスが割れ、子供が転び、立っていた人は飛ばされて壁に打ち付けられる。
そして凄まじい衝撃と音、魔法の波導は人民のみならず、ノーザンバグズを納める領主、ノーザンバグズ伯爵の元まで届いていた。
「──なんだったのだ? 今のは」
戦慄を隠さずに執事へ言葉を投げかける。
高い信頼を寄せられる執事はまだそこまで歳もいっていないのに波の少ない人物で、穏やかという言葉が人の形を成したような性格だと評判だった。
「…………」
しかし、その執事ですらが答えに窮するようなことだった。
「ウィンチェスター?」
「っ! 失礼いたしました……私には、極めて強大な魔法が行使されたのではという事しか申し上げられることがございません」
「ウィンチェスターも覚えがないか……方角はアラベスクの方からだったな」
「アラベスク……彼が守護している土地ですか」
「…………」
防壁の査察を行った際に顔を合わせたことがある。
あれだけの力を持ちながら、小市民という他ない性格をしていた。ヘコヘコと頭を下げる姿を見て、誰が彼のことを英雄だなどと思うだろうか。
だが、その親しみやすさ──というよりも小物根性から彼は恐怖の対象になる事なく接されていた。しかし、遜るばかりでまともに会話できなかったのは少し減点だ。
「彼に話が聞きたいな」
「今からですか? では、遠鳴りでアラベスクギルドの──」
「いいや、直接行く」
「畏まりました。馬車を用意いたします」
「頼んだ」
事務処理事務処理でやや滅入っていたというのも関係していた。たまには外に出ないと気分が暗くなりがちだ。
領内査察を定期的に行う──ギルド職員などは準備をしないといけないから大変だと以前から聞いていたから、訪れる時は電撃的に向かうことにしている。
自分なりに民のことを考えて、特に北の領土故に食料問題と防壁の設備だけはしっかりと予算を組んで取り組むようにしている。実際に街を訪れると笑顔で迎えてくれるが、やはりその中でも暗い顔をした者がいる。
盗賊とモンスターという大きな問題はどこの領地でも付き物と知ってはいるものの、兵士を遠征させることにもリスクがつきもので冒険者の気まぐれに任せるしかないというのが実情だった。
そういった諸々を定期的に自分の目で確かめないと、いつか大きなミスをするのでは──それが恐ろしかった。
「閣下、準備が整いました」
「ああ」
馬と幌には静音魔法、制動魔法、軽量魔法、防壁魔法、耐性魔法が掛けてある。速くて静かで頑丈な、動く要塞の完成だ。少なくとも盗賊なんぞには破ることができない。
それが、ウィンチェスターが長年執事として重宝されている理由の一つでもあった。
「いつ乗っても見事だ」
「勿体無いお言葉です」
20年前──アリアが5歳の時だ。父親が戦争手柄の褒美として国王からこの領地を下賜された場にいたが、外面的には感服の極みみたいな顔をしていても正直なところ罰ゲームだと思った。ただ、この領地に向かう途中、血塗れで倒れていた10歳ほどの子供を気まぐれで助けたらそれがウィンチェスターだったのが『ノーザンバグズ家』の人生最大の幸運だった。
あらゆる物事の水準が高くまとまり、特に魔法に関しては戦争で騎士として手柄を立てた彼女の父親すら遠く及ばないような知識と実践が可能。父親が死去してからは跡を継いだ彼女の補佐として公私共に助けてもらっている。おそらくどこかの高名な魔法師の弟子だったのだろうと予想はしていたが、色々な意味で自分の手元にいるならばそんなことは気にしなかった。
「……」
彼が首にかけたロケットに言及しないのはノーザンバグズ家の暗黙のルールとなっている。
きっと、大事なもの──物としての価値ではなく、精神的に──であろうということが明らかだったからだ。
ウィンチェスターがまた、静かな馬車の中でロケットを無意味に撫でた時だった。
──凄まじい悪意が世界を覆った。
「──っ!?」
「閣下!」
ウィンチェスターが咄嗟に、アリアを抱きしめる。窓から前を見ると馬が嘶き、必死に耐えていた御者が堪えきれずに泡を吹いてぐらりと体勢を崩した。
「いかん!」
このままでは制御を失った馬車が木立に突っ込む。
ウィンチェスターは慌てて飛び出し、慌てて馬を宥めて安全に静止させた。馬にも防壁魔法がついているので木にぶつかっても死ぬことはないが、魔法がイタズラに弱まるような事態は避けないといけないのだ。
「──ノびているな」
アリアは冷静に御者の状態を表現した。
「どうか、彼のことを責めるのは……」
「分かっている」
一瞬にして身を包んだ悪寒は、あの堅牢な馬車の中だからこそ悪寒程度で済んだもので、外にいればあれが数段階は上の状態で襲いかかってきたのだろう。
「だがどうする」
「……差し出がましいこととは承知していますが、一度帰還することを上申させていただきます」
「…………」
「民草やギルド、兵士の動向については遠鳴りで確認することができます。ですが、こうしてここに留まっていることがそもそも危険性の高い行為であり、大きな何かが起きたのであろう現地に向かうというのはその危険性を何段階も跳ね上げます」
「わたしは領主だ、おめおめと危険から逃れる領主など──」
アリアがそう来ることはわかっていたと、ウィンチェスターは一瞬の躊躇もなく跪いた。
「どうか、御身を心配する権利を私にいただきたく……アリア様にもしもの事があれば、私はお父君とお母君の墓前に二度と顔を出す事ができませぬ」
「…………ずるいな」
「どうか」
「ずるいよ、ウィンチェスターは」
「…………」
「わかった、今日は帰る」
「!」
「ただ、いつまでも城に閉じこもっているなどというのは風聞も悪い。状況を確認し次第、再度出発するぞ」
「ありがとうございます」
──────
「──そうか」
ウィンチェスターの遠鳴りの結果として、最初の魔法に関してはアクスではないかというのがギルドマスターから伝えられた。
しかし肝心のアクスが戻って来ず、真偽のほどは定かでは無い。
先ほどの悪意に関しては全くもって不明だったが、空を見ればなんとなくわかった。
空を包む赤黒い雲の中に渦巻く黒雷は、いつ自分たちのところに降ってくるか見当もつかない。
「黒と赤の雲……」
アリアは知らずのうちに自分の身を抱きしめていたことに気付いた。信頼している男とはいえ、人の前でこんな情けない姿を見せるなど──と恥じらいを顔に浮かべた。
しかし彼は窓から外を眺めて顔を歪めている。執事の気遣いなどではなく、本当に気付いていなかった。
「御伽話の……これは……バカな……」
数百年前にも観測されたという赤黒い雲。
誰が想像できただろう。侵攻があるとはいえ実際に姿を見たものもおらず、魔王の脅威を人々がほぼ忘れ去った時代にまた魔王の時代がやってくるなどと。
「やはり、勇者は本物なのか」
「…………」
誰だってそうだろう。
勇者がいきなり現れたとて、古代に比べると魔族に明確に虐げられているわけでもない現代のノーザンバグズでは、その有用性というか救済性についてあまりピンと来なかった。
まさか、勇者に後追いで時代がやってくるなど。
「あれは魔王の波導なのか?」
「私の知識では、何も」
「一体どうなるんだ……」
今はまだ、空を雲が覆っただけだ。
だが、魔の時代においてはモンスターの量も質も現代を凌駕していたと考えられている。
空を闊歩するのは飛空船ではなくドラゴン。
森にはグローリアスウルフやヒュドラ。
沼地はオークキングが食料を貯蓄するのに使う。
馬車を使って安直に旅をすることもできない。冒険者のパーティーを雇って護衛させながらでなくては物流すら滞るだろう。
それだけじゃない。
『更なる北』は、実は魔王の領域なのではと噂されることもある。その根拠の一つとして、『塔』とそこに封印されたアークデーモンが挙げられる事が多い。
それが合っていたら、ノーザンバグズ領は人類の中で最も魔王に物理的に近い土地ということになる。
険しい目付きで外を見たまま、ウィンチェスターは覚悟を固めた。ロケットを撫で、目を瞑る。
「閣下」
「なんだ」
「もしも……もし仮に魔の時代が本当にやってきたのなら…………そして、この城が危機に見舞われたのなら―」
「やめろ」
「…………」
「私に……家族を失わせる気か……」
静かに椅子を引いた音がした。
主人が立ち上がった。であるならば,彼女はどこかへ向かうのだろうと向き直り──
「…………ア、アリア様」
「言うな」
「転んでしまったのなら、すぐに離れてください」
「言うな」
「転んでしまったのでないのなら……」
「…………」
メイド達は、それを見なかったことにした。