「それでねー。玲音ってばクレープぶつけられちゃってさ」
「…………服、ベタベタ。なった」
「それは災難だったね」
学校の屋上。冬に入り始めたこの時期は寒くて、制服の下にはタイツ素材の長袖の肌着を着用している。いつもは動きやすいからスカートだが、今日はズボンだ。足に纏う感じはあまり好きではないけど、寒いから仕方がない。
「ほんとだよ。玲音は泣きそうな子供を余計泣かせちゃうしさ」
「…………頑張った。ダメだった」
「玲音は表情があまり動かないから、怖かったのかもしれないね」
「…………動かないから、仕方ない」
少し離れたところにいる暁山瑞希と神代類の姿をたまに見ながらスケッチブックに鉛筆を走らせる。……うん。身長の高い神代類と低めの暁山瑞希。そして、高くなってきた青空。あまり描くことのない絵だけど、私は今のこの景色が好きだ。私はそこに居なくても、眺めているだけで楽しい。
色鉛筆を取り出して少し色をつけよう。
「何描いてるの? へえ、ボクと類を描いてるんだ」
「…………構図、良さそうだった」
「フフ、本当にたくさん描くね。毎回描いてるけど、飽きないのかい?」
「…………空も、雲も、違う。同じ日は、ない」
「なるほどね。確かにその通りだ」
「…………切り取る風景は、いつも。少しだけ違う」
いつも日の入り方や風。雲の動きだって違う。一つとして同じ絵はない。暁山瑞希が座っていることもあれば、立っていることもあるし、神代類が壁際にいることもあれば、校庭を見下ろしていることもある。少しだけ違う。少し違うだけだが、全ては異なる。
しばらく沈黙が流れる。暁山瑞希が私のスケッチブックを覗き込んでいる。……鹿野ちゃんもそうだったけど、人の作業を見ていて楽しいのだろうか?
「そういえばさ。なんでボクたちって生きてるんだろう」
「急だね。どうしたんだい」
「なんかさー。たまに思うんだよ。どうして人間は生きるのかってさ。生きてると辛いことっていっぱいあるでしょ。でも、ボクたちは生きている」
「…………」
「ふむ。だから、ふと考えてしまうわけか」
人が、自分が生きる理由。考えたことがある。
「…………人は、己がために生きる」
「フフ。玲音は哲学的視点からか。なら、僕からは、生物学的な視点から答えよう」
「なんか、どっちも難しそう」
「至ってシンプルだと思うけど」
「…………ん。シンプル」
人はなぜ生きるのか。古くから哲学者たちが考えてきた課題だ。長く議論され、長く考えられてきた。
「生物学的にいえば、瑞希が生きているのは生存と繁殖のため。生物の進化には遺伝子の多様さ、生命としての多様さが生存と繁栄の幅を広げる。だから、僕達には意思があり、好みがあり、そして発達した知能がある。そう考えられているよ」
「うわー、シンプルだけど。ボクって個人は無視なんだ……」
「生物学は、あくまでも瑞希を起点に考えていないから仕方がないだろう。あくまでも、生物として考えたものなんだから。個人を見るて考えるのは、哲学の分野だよ」
「…………理数系は、大きな数字を見る。文系は、小さな数字を見る。生物学は理数系。哲学は文系」
「適材適所ってわけね」
たまにどっちが頭がいいかとかの論争になり、たびたび文系はいらないとか言われているが実際そうではない。
理数系の学問は、大きな視点。大まかな括り。言い換えれば学校におけるクラスの好みの傾向を見ることに重点を置く。しかし、わかるのは傾向であって、特定の個人の好きなものではない。
文系の学問は、個人。小さなものを、特定のもの見ることに重点を置く。個人の好きなものを知る。考えるのには、文系の方が適していると言える。
「…………哲学者、サルトル、キルケゴールは実存主義を説く。人生に本質的な意味や目的は存在しない。と」
実存主義。意味は自ら創るもの、としている哲学。
「…………哲学者、ニーチェは
虚無主義。全てに意味はない。価値は自ら創るもの。としている哲学。
「…………私は。人は、己のために生きる。と、考える。……好きなことをする、ため。好きな人といるため。自分のために、人は生きる」
「実存主義的な見解だね」
「でも、確かにそうかも。でも、嫌なことっていっぱいあるけど、それでも生き続けなきゃいけないのかな」
「………………私は、瑞希が死ぬ、と。悲しい」
私は、暁山瑞希が生きていてほしい。
「僕も、玲音に同感だね。君が死んでしまったら悲しい。だから、どうか生きてくれ」
「…………幸せ、は。相対的なもの。たくさん、苦しい。辛い、のは。その分、幸せを知ってるから。……だから、そう思えること、も。きっと幸せ、なんだと思う」
「……じゃあ。いつか、この苦しみもなくなって。秘密を明かせる時が来たら、ボクは幸せを感じられるのかな」
未来のことなどわからない。私は未来に生きていないから。
「それは、僕にもわからないし。玲音や瑞希だってわからない。でも、未知とは一種の希望だよ。知らないからこそ希望を持てる。それに、絶望していても楽しくないからね」
「それもそうだねー。なんか、しんみりしちゃったし。これから学校抜けて遊びにいく?」
「…………それもあり」
「一応、玲音は先輩ではあるんだから止めないと。でも、そういう時にしかわからない感覚もあるんだろう。いいよ」
…………よし、描けた。
二人が一緒にいる絵。透き通る赤紫色とシャープな青紫。似ているけど違う色。ベースは同じく紫だけど、全くの別物。私には無い色だ。
「──玲音はどこ行きたい?」
「……喫茶店」
「もう、そこばっかだなあ」
「……好き。だから、ね」
いつも手を伸ばしてくれる暁山瑞希の手はまだ私は掴めない。そんな勇気はないし、掴めるとは思えない。それに、暁山瑞希だって。私や神代類に対して一線を引いている。お互いに手を取り合えないのはお互い様と言えるんじゃないだろうか。
しかし、それはそれだ。物事にはタイミングがあるしね。それに、私はわかる。私は、今。楽しいんだ。きっと。だから、私は暁山瑞希の絵を描いている。
「…………類、を連れて行ったことない。し、類を日守康作に紹介したい」
「君の言うその人物は、保護者か何かかい?」
「…………パトロン」
私たちは仲間ではないけど、仲間にはなれないけど。友人が、暁山瑞希と神代類と言う名の友人が出来たと。紹介したい。
────さよなら。
…………鹿野ちゃんみたいに、失いたくないから。
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