だいぶ外は暑くなり、汗をかくことも増えると共にシャワーで汗を流す頻度も増えた。
そして今日。少し遅く帰ってくるはずだった朝比奈まふゆが少し早めに帰ってきてしまうことにより、事故は起きてしまった。
「……」
「……」
「……どうしたの。二人とも」
「……なんでもない」
珍しく食卓を囲んでいる我が家では、朝比奈まふゆの少し気まずそうな雰囲気に何か思うことがあるらしい我が姉は、心配するように私や朝比奈まふゆに声をかける。
私を見てはたまに左腕に視線を向け、逸らす。気になるのはわかるが露骨すぎる。姉さんに見られたくはないからやめてほしい。
「……麻婆豆腐。苦手、だった?」
「……美味しい。と思う」
今日は麻婆豆腐と中華風スープだ。絵を描いたりする気分ではなかったから、1から材料を揃えて作った。面倒なのでもうやらない。
「刺激もあまり感じられない?」
「……うん」
刺激。辛味は正確には味覚ではない。痛覚の一種なんだが、……この様子だと痛覚にも少し鈍感なのかもしれない。もう少し強ければ感じられるのかもしれないけど、私も姉さんも辛いものは苦手だから辛味は控えめだ。
「……でも、見てて楽しい。盛り付けが上手」
「…………よかった、ね」
飾り切りをしたり、器を少しおしゃれにしてみたり。華やかさを演出して、視覚的になにかを感じられるのならいい。娯楽のない日々は苦痛だからね。
それ以降は特に会話もなく食事が終わり、食器を片付けて各自部屋に戻る。
姉さんたちが部屋に戻れば、私はいつも通り食器を洗って棚に片付ける。
朝比奈まふゆは姉さんのいる部屋に基本的に居るから、私とはリビングぐらいでしか出会わない。
そして、朝比奈まふゆから私に話しかけることもあまりない。
「……玲音」
「…………なに?」
「……少し、いい?」
……まあ、いいか。左腕の事を聞きたいだけだろうし。姉さんに聞かれないなら別に構わない。
「…………私の部屋で、構わないなら」
「……大丈夫。奏にも、玲音と話したいことがあるって伝えてあるから」
いったいなにを心配して姉さんにその話をしたんだ。
「……まあ、いいか。先に、入って待ってて。……一人、寂しいなら。
「……一人で待ってる」
「……わかった。好きなところ、座ってて」
まあ、朝比奈まふゆのところにもミクは居るんだろうし、暇になればそっちと話でもしているだろう。
朝比奈まふゆが私の部屋の扉を開けたまま入っていく。
私の部屋にある座れるものはパソコン前のゲーミングチェアにベッドぐらいだろう。
……セカイに連れて行ったほうが座る場所はありそうだ。
洗い終わった食器を拭いて食器棚に収めて部屋に戻る。
部屋の中では朝比奈まふゆがアコースティックギターを眺めていた。
「……気になる?」
「……」
「……しばらく弾いていない、けど、チューニングはしてある。興味があれば、弾いてもいいよ」
首を横に振って答える。興味はないらしい。
部屋の扉を閉めてゲーミングチェアに座る。座らないのかな? ……いや、座らないなら座らないで構わないんだ。私は座るけどね、立ち話は疲れるし。
「…………予想は着く。けど、敢えて聞く。話、とは?」
「……その腕について聞きたい」
「……聞いてどうする?」
聞いてどうするつもりなんだろうか。この左腕の事を聞いて、朝比奈まふゆの何になるというのか。
「……玲音の事を知りたいだけ」
「……そう」
知りたいだけなら教えていいか。姉さんには隠したいけど、朝比奈まふゆには別に知られても困ることはない。知ったとしても朝比奈まふゆには、姉さんに言うことなんて出来ないだろうから。
左腕の袖を捲り、現れた包帯を取り去る。私の秘密であり、抵抗の証であり、現実を感じさせる数少ないモノ。
左腕の内側には無数の赤い線が横に走っており、中には不自然に少し盛り上がった皮膚もある。時間が経っているから血が流れ出ることはない。しかし、まだ瘡蓋というわけでもないからまだ赤いし、少しでも傷口が開けばまた血が流れ始めるだろう。
「……リストカット」
「……なぜ。そう言いたそう、だね」
なぜ、ね。
「……朝比奈まふゆ。あなたは、感情の希薄化と味覚の鈍感。でしょ? 私も似たようなもの。だけど、あなたよりも進行しすぎた。状態」
「……どういうこと?」
「……喜怒哀楽は、基本的に感じられない。感情の発露も基本ない。共感も……出来ない」
「…………痛みだけが、自分に現実を教えてくれる。血の匂いが、私の過去を思い出させる。……私は、狂うわけにはいかない。からね」
「……」
痛みが、私に現実感を与えてくれる。だんだんと遠のく現実が、痛みによって戻ってくる。フラッシュバックで混乱する頭を、痛みが正気に戻してくれる。
いつもの珈琲豆だけでは足りない。苦味だけでは足りないんだ。足りなくなってしまった。
私は人間であるために体を傷つける。方法がなくなってしまったから、傷つけるしかなくなってしまった。
「……あなたは、なんでそんなに辛いの」
「……失ったから、じゃないかな」
失ったから。あの日、あの夏の始まりと共に鹿野ちゃんが持っていってしまったから。
「……たかが一つ。されど一つ。失えば、運が悪く。全てが瓦解していった」
日々の生活が。あの光景が脳裏に焼き付いて、瞼を閉じればついさっき見た光景のように思い出せる。
フラッシュバックで苦しみ、失った痛みが。憐憫が、何も知らない奴らが鹿野ちゃんを悪くいうのが、私には苦痛で仕方がなかった。
失う時期が重なりすぎて、私は壊れてしまった。もう元の姿には戻れないほど、壊れてしまったんだ。
「…………朝比奈まふゆ。あなたは、そうならない。させたくない。だから、私はあなたの助けになりたい」
「……玲音は」
「……私はいい。もう、戻れないところにいるから」
別に、救われなくていい。もう、希望なんて持てないから。
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玲音の部屋から出て、奏のいる部屋に戻る。奏はもう作業をしているようで、今は編曲をしているみたいだ。
「おかえり。玲音と話せた?」
「……うん。話せたよ。……でも、やっぱりよくわからない」
やっぱり、よくわからない人だった。
左腕を見てしまったから、気になったから聞いてみれば意外にあっさり答える。けれど、奏でには話していないようで、隠しているらしい言動が見られる。
特に関わりのない私を「助けたい」と言いって、お弁当を用意してくれたり、朝も夜も食事を作ってくれる。そして、その作ってくれる料理も、食事が少しでも私が楽しいと感じられる物であるように、わざわざ飾り切りをしたり、盛り付けに凝っている。
だけど、こっちから手を伸ばそうとしても手を伸ばさせてくれない。私と同じなら、玲音も辛いはずなのに玲音は私が手を伸ばす前に話を逸らしたり。手を伸ばせたとしても、その手を掴もうとしない。
宵崎玲音は、変わるつもりがない。自分の全てを諦めて、ただ
「……奏。玲音は──」
『奏、まふゆ』
「助けられないのかな」そう口に出そうとした時。モニターにミクの姿が映った。
その隣には私のスマホの中に居たと言う青タイツに側頭部にドリルをつけた人型の電子生命体。瑞希が言うには、「何処となくドラえもんっぽいけど、ぽいだけで絶対にドラえもんではない」らしい。
本人? は話せないらしく、ボディーランゲージで対話を求めてくる。何が目的で、何故私のスマホに居たのかはまだわからないけど、悪いことをしにきたわけでもないし、実際に悪さはしていない。ただ心配そうに私達を見ては、少し考えるような素振りを見せる。
ミクやルカも別になんてこともないように接しているから、悪い存在ではない。
「……どうしたの」
『……似非えもんが、まふゆたちに伝えたいことがあるみたいだから』
用があるのはミクじゃなくて、似非えもんらしい。
相変わらず話すわけではなく、ボディーランゲージで何かを伝えようとしてくる。
手首を叩いて、口。……まさか、玲音の事?
「……玲音のこと?」
『……』ピンポーン
「……玲音がどうかしたの?」
玲音の事なのはわかったけど、肝心のところはよくわからない。指を刺しをして自分の体を抱きしめる。玲音と私のことなのかな。
「……私に関係はある?」
『……』ピンポーン
「……奏も関係ある?」
『……』ピンポーン
「ニーゴに関係ある?」
『……』ウーン
ニーゴとの関連は微妙……。一体何を伝えたいんだ。
私と玲音の個人的なモノなら、奏は関係ないはずだし、奏も関係があるなら、この家のことなのかな。
「……瑞希と絵名も関係ある?」
『……』ピンポーン
「何を伝えたいのかな」
「……わからない。ニーゴとはあまり関係がない。でも、私達全員とは関係がある」
動作が大きいからミクが少し狭そう。今からセカイに行って話を聞きに行った方がいいのかな。
……あれ、似非えもんが伝えるべきことは汗を拭うような動作をして居なくなった。結局何がしたかったんだろう。
「……何が伝えたかったのかな」
「……わからないけど、玲音の事なのはわかった」
玲音は、奏の弟で。関係の、繋がりのない私のために動き続ける人。
そして、疲れてしまった
家事を手伝おうとしたけど、やろうとした時には全て終わっていたりすることが多い。
「……まふゆ。玲音を気にかけてくれてありがとう」
「……別に。気になったから、聞きたいことがあったから聞いただけ」
奏には知られたくないって言って居たけど。本音は、どっちなんだろう。
……わからない。わからないけど。
私も玲音に何か出来るかな。
分体に付けられら愛称『似非えもん』と呼び始めたのは暁山瑞希と東雲絵名が呼び始め、『誰もいないセカイ』の住人たちもそう呼び始めるようになったとか。
宵崎玲音のセカイにいる初音ミクの正体に気がつける人はもう気づいているんじゃないでしょうか。
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