放課後の音楽室。
ピアノの前に座って音を奏でる。特に何かの曲を弾いているわけではない。ただ、思うがままに鍵盤を押しているだけ。
〜〜♪
たまに弾くピアノも中々楽しいもので、姉さんほど特出しているわけではないけど、メジャーな楽器なら演奏できるし、いろんなフレーズをいい感じに繋ぎ合わせて曲っぽくすることもできる。
30分ぐらい思うがままに弾けば満足した。
頼まれてやったけど、やっぱり自由にやるのは楽しい。
「鹿野ちゃん。弾き終わったよ」
僕の弾いているピアノが聴きたいと言った張本人は、僕を見ながらぼーっと呆けていた。
……どうしたんだろう。体調でも悪いのかな。ピアノ椅子から降りて鹿野ちゃんの顔を覗き込む。何処となく顔が少し赤いような気がする。
「鹿野ちゃん?」
「な、なにかな」
「君が聴きたいって言うから、ピアノを弾いたんだけど。体調悪いの?」
顔は赤いし、声は上擦った。身体に異常があるなら休んだほうがいい。放課後だから、学校を早退する必要はないけど、今日は家まで送った方がいいかもしれない。
「だ、大丈夫だよ!?」
鹿野ちゃんの額に、自分の額を当てて、首には手を当てる。……熱はなさそう。
「ち、近い。近いよ」
「……あ、ごめん」
ついつい癖でやってしまった。以後気をつけよう。……にしても顔が赤い。熱はないにしても体調はあまり良くなさそうだ。
「体調良くないの?」
「大丈夫だよ」
鹿野ちゃんはそう言って微笑んだ。
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私には好きな人がいる。
とても静かで、とても穏やかな同級生。
とても綺麗な顔をしているから、その見た目通り既に高嶺の花のような雰囲気を持っている。
「鹿野ちゃん?」
気がつけば彼の顔が目の前にあった。いつ目の前に来たのかはわからないけど、とにかく、息がかかりそうなほど近くに彼の顔がある。
「な、なにかな」
驚きと緊張で声が上擦った。変な匂いしないかな。
「君が聴きたいって言うから、ピアノを弾いたんだけど。体調悪いの?」
だんだんと近づいてくる好きな人の顔。目を背けるのも勿体無い気がして直視してしまう。恥ずかしい。まじまじと私の顔を見てる彼。肌が荒れてたりしないよね。最近寝不足気味だから、そんなに近寄られると。
「だ、大丈夫だよ!?」
彼の額が私の額に触れる。少し温かい彼の手が私の首に触れる。
色素の薄い灰の双眸が私の眼を見て離さない。息がかかりそうとかじゃなくて、息が直接かかる距離に彼の顔がある。
暴力的な程に整った大好きな彼の顔が目の前にある。
「ち、近い。近いよ」
「……あ、ごめん」
私が恥ずかしくて眼を逸らすと、彼は申し訳無さそうに顔を離し、私の首に触れていた手が離れる。
名残惜しいけど、離れてくれると助かる。私の心臓に悪いし、君には絶対に知られたくないから。
「体調良くないの?」
「大丈夫だよ」
別に体調は悪くない。ただ、ピアノを弾いている君に見惚れちゃってただけで、体調が悪くてぼーっとしてたわけじゃないんだよ。
心配そうにしている君の顔は綺麗だけど、ちょっと寂しくなる。
「ピアノの感想だったよね」
「うん。鹿野ちゃんが聴きたいっていうから、弾いたけど。どうだった?」
正直、音は心地良いし、ピアノを弾く君を見ていたら終わっていたから良くは聴いていなかったけど。
「とても綺麗な音色だったよ」
「そう。なら良かった」
彼は私の隣に座って、それでも顔を覗き込む。
「何か顔についてる?」
「……」フルフル
彼は首を振って違うと言った。
「なら、何処か怪我してたりする?」
「……違う」
もう一度、彼が私に手を伸ばして頬に触れる。とても優しくて、くすぐったい。下心もないし、不快感もない。不思議と幸せな気分になるけど、じっと私を見る彼の視線が恥ずかしい。
「……ねえ、鹿野ちゃん」
「な、何かな」
「今度、またモデルやってくれないかな」
「絵のモデル?」
「ん。また鹿野ちゃんを描きたいから」
彼は私の中身を見ているけど、彼は私の身体。特に顔を見ている。
顔の造形、顔のパーツ配置がとても好みなのだという。そう言われたらちょっと下心があるのか探ったけど……。
下心があって近づいたのは私の方だ。
自分は外面で見られるのが嫌なくせに。私は、一眼見た時から彼に惹かれた。
なんの運命か、同じクラスで、隣の席で。気がついたらずっと彼を視界に収めていた。
だから、私は彼に近づいた。仲良くなりたくて、彼のことが知りたくて近づいた。
絵に興味があったのは本当だし、上手になりたかったのも本当。
でも、自分の姉のことしか視界に収めていない彼の気を引きたかったから。彼に一瞥でも良いからされたかったから、私は彼が好きなものを持って近づいた。
「いいよ」
一瞥どころか、じろじろ見られることになるけど。恥ずかしいけど少し嬉しい。だから、私は彼の頼みを引き受ける。
引き受けると彼は嬉しそうに微笑む。
どうやら自覚はないらしいけど、彼は彼で感情表現が豊かだから。
クールな見た目とは裏腹に、感情は表に出てくるけど、他人からの感情にはすごく鈍感で危なっかしく思う。
「ありがとう。鹿野ちゃん」
「いいよ。だって、玲音は私の事を綺麗に書いてくれるから」
「ん。だって、鹿野ちゃんは綺麗だから」
そんなことはないんだよ。
だって、私は誰よりも汚れちゃってるから。私はそれを頑張って隠しているだけなんだよ。
でも、君が描く私はとっても綺麗で。見ていると少し胸が苦しくなるけど、それよりも嬉しくて。
「そりゃあ、私だもんね」
だから、自信を持って胸を張れる。
空元気じゃない。君が私を綺麗だと言ってくれるから、私はまだ生きていられる。
「ふふ、そうだね」
彼の前だけなら、私は元気でいられる。彼が私に元気をくれるから、私は君にまた会いたくなる。
大好きで仕方がない。でも、この感情を。私を知られるのは怖い。私を知って欲しいけど、私のことは知らないで欲しい。
だから、暴いて欲しいな。
「ねえ、玲音くん」
「なに?」
「ぎゅってして良い?」
「? うん。いいよ」
私を迎え入れるために両手を広げて、私はそんな彼の胸に飛び込む。
体格も私と大して変わらない。身長だってあまり変わらない。
でも、私が後ろから飛びついても正面から飛びついてもよろめかずに受け止めることが出来る不思議な彼の身体。
彼の体温は温かくて、私好みの匂いがする。少し甘いような、でもすっきりとしたような匂い。どれだけ辛くても、彼が。玲音が受け止めてくれて、ぎゅっと抱擁してくれるなら癒されていく気がする。
家の冷たさと、吐き気を堪えながらもやらなきゃいけない辛さも。玲音が抱きしめてくれるこの時間だけは忘れていられる。不意に頭に浮かんでも、辛くならない。
だって、その辛さの先で玲音に会えるから。
何も知らなくても、ただ私を受容してくれる玲音がいる。
私が何も離さなくても、優しく頭を撫でて囁くように優しい歌を歌ってくれる。
暗くて冷たい私が生きている世界で見つけた太陽。初めて自分から触れたいと思った男の人。
「ねえ、玲音」
「? なに?」
「……玲音は、なんで私に優しいの?」
彼は誰に対しても興味がない。興味はいつだって彼の姉か創作行為にしか向いていない。でも、誰にでもこうするわけではない。一応線引きはあるらしく、たまたま近くにいたクラスメイトの女子生徒が「抱きつきたい」とか、どさくさに紛れて抱きつこうとすると、「なぜ?」と言って小首を傾げたり。手そのものを弾いて明確に拒絶を示す。
そう。玲音は何故か私にだけ抱き付かせるし、私から行っても拒絶しない。それは、玲音の姉である奏さんが驚くほどのこと。
「なんで、私に優しくするの?」
「んー。なんでだろうね」
彼はそう言って考えて、答えを口にする。
「鹿野ちゃんが、大切な友達だから」
「大切な友達、ね」
「ん。とても大切な僕の友達」
彼にとって、私は大切な人になっていた。だから、玲音は私に優しくする。
「それに、鹿野ちゃんが寂しそうに見えたりするから」
「なんでそういうのはわかるのさ」
「なんでだろうね。……僕も、寂しがり屋だからかな」
玲音はそう言って私の頭を優しく撫でる。玲音が私の頭を撫でるまで、手が上がると怖かったのに。彼のその行為は怖くない。安心してしまう。
「……もう少しだけぎゅっとしてて」
恥ずかしいけど、嬉しい。冷える私を温めてくれる彼。
私から君に言える日は多分来ない。来ないから。……どうか、このうるさく鳴る心音が、玲音に届いていますように。