ある昼下がり、森の奥深く。
フシギダネは憂鬱な面持ちで、木陰に座り、ひとりため息をついていた。
森の空気を満たしていたのは、フシギバナが咲かせる大きな花から放たれる、甘く濃い香りだった。
その香りには、嗅いだ者の心を穏やかにし、うっとりとさせる効果がある。
香りは風に乗って、草木の隙間や苔むした根元までも染め上げるように広がっていた。
この森では、誰もがその香りに身を任せ、まどろみながら過ごしていた。
——そう、普通なら。
フシギダネにとってそれは、かえって胸を苦しくさせる匂いだった。
理由は、自分の背中にある小さなタネ。
他の兄弟たちはすでに進化を迎え、立派な蕾に、フシギソウへと変わっている。
だが自分だけはまるで時が止まったかのように、変わらないままだった。
「僕はもう、このままずっと、大きくなれないのかな……」
日向で光合成をする兄弟たちを横目に、日陰にいるのは自分ひとり。
森をわたる風の優しさも、今は物悲しくただ肌寒く感じた。
「はぁ……」
こぼれたため息が、すぐ足元の草葉を揺らす。
今日はもう、ねぐらに帰ろう。そう思い足に力を入れた——そのとき。
「ヒヒッ。こんな陽気な日和に、そんな顔してどうしたんだい?」
背後から、ぬるりと低く、どこか笑っているような声がした。
振り返ると、木陰の端。 紫がかった影の奥に、赤く光る瞳がこちらを見ていた。
「君は……ゲンガー?」
「へへっ、その通り。影の谷の住人さ。見知ってくれてるなんて、うれしいねぇ」
フシギダネは体を声のした方向へ向け、問いかけた。
「どうしてこんなところに? 君は滅多に谷から出てこないって聞いてるけど……」
そのとき、影がグッと空間を這い上がり、そこからゲンガーの体がぬるりと現れた。
まるで自分の影から生まれたような不気味な動きだった。
目は細く吊り上がり、赤い瞳にはどこか揶揄うような光が宿っている。
「んー? 別に俺様は隠れてなんかいないぜ。
見つけられない、森のやつらがのんきすぎんのさ。ヒヒッ!」
その言葉には、森の住人——フシギダネ自身も含まれていた。
だが不思議と、フシギダネは怒る気になれなかった。
(何も言えなかった。からかわれてるのに、それがどこか正しく感じた)
「……それで、谷の住人が僕に何の用?」
「ただの気まぐれさ。面白そうなやつがひとりでしょんぼりしてるのが見えたもんでね。
つつけば面白そうって、思っただけさ」
「……僕のこと?」
「他に誰がいるよ? フシギバナの香りでみんなうっとりしてんのに、
お前ときたら、こんな木陰で咲き損ねた花みたいな顔して」
図星を突かれたフシギダネは、言い返せなかった。
ゲンガーは、にぃっと口の端を上げて続ける。
「なあ、だったらさ。 昼間がダメなら、夜に試してみたらどうよ?」
「……夜に? 一体どういう」
「月の光でも浴びてみたらってこと。
背中のタネも、案外そっちなら咲くかもな?」
「でも、僕らは太陽の光じゃないと……」
「じゃないと、何?成長できない?咲けない?
散々陽に当たって咲かねえなら、他のもん試しゃいいじゃん。
それとも、お行儀よく腐っていくだけか?」
その言い方は、挑発にも聞こえた。 けれど、不思議と心のどこかに引っかかった。
——もし、月なら。少しぐらい、違う何かがあるんだろうか。
「……ほんとに、咲けるかな」
「咲いたら、あれだな。
森中、『日陰育ちのくせに花なんか咲かせた』って、噂になるぜ?」
ゲンガーはケラケラと笑いながら、足元の木陰へと身を滑らせる。
「行っちゃうの?」
「あぁ? 気が向いたら見に来てやるよ。
せいぜい、枯れねぇようにな」
そして彼の姿は、影とともに完全に森から消えた。