ハリー・ポッターと友情、努力、勝利の本 作:じゃあな・アズナブル
それから――ホグワーツにはいつもの日常が戻ってきた。授業、食事、談話室での賑わい。誰もが慌ただしく、けれどどこか楽しげに日々を過ごしていた。だがハリーだけは違っていた。
表面上は以前と変わらぬ姿を見せ、授業にも出席し、仲間たちと過ごしてはいた。けれど――あの夜以来、ふとした瞬間に、何かを深く考え込むことが増えた。
昼休みの中庭で、誰かの声が遠く響くなか。静まり返った教室の空気のなか。ふと、心の片隅に――あの森の闇が居座っていることに気づく。
闇の正体。あの気配。まだ答えは出ていない。けれど、それを考えずにいられるほど、心は鈍くなかった。
その思考を振り払うように、ハリーは夜ごと、ただひとりで修行に打ち込み続けた。呪文の反復。身のこなしの鍛錬。
呼吸を整え、音のない空間に神経を研ぎ澄ませる――静寂と孤独の中で、自分を限界まで追い込んでいく。
最近では、禁じられた森の中にすら足を踏み入れていた。誰にも言わずに、誰にも見せずに。そこには不安もあった。だがそれ以上に、確かにあったのは――欲求だった。
(もっと強くならなきゃ)
逃げるためか。戦うためか。その違いさえ、もうどうでもよかった。ただ一つだけ、ハリーにはわかっていた。
あの夜の“何か”と再び対峙するその時まで――立ち止まるわけにはいかない、ということだけは。
***
そして、ホグワーツの試験期間が始まった。ホグワーツ中が妙に静まり返り、談話室には羽ペンの走る音と、ページをめくる乾いた音だけが響いていた。
ハーマイオニーは、それでもいつも通り完璧だった。授業中に取ったノートを何度も見直し、呪文も歴史もすらすらと口から出てくる。
先生からの質問にも迷いなく即答し、周囲の生徒たちも「まあ、そうなるよな」といった顔で頷いていた。
ハリーはといえば――筆記では、さすがに彼女にはかなわなかった。だが、実技となると話は別だった。杖の動き。魔力の集中。詠唱の速度と正確さ。
どれをとっても、明らかに他の生徒とは一線を画していた。とくに呪文学の試験では、フリットウィック先生が一瞬ぽかんと口を開け、次の瞬間には何かを確かめるようにハリーの杖先をじっと見つめていた。
「……完璧です、ミスター・ポッター」
ハリーは軽く一礼し、「ありがとうございます」とだけ返す。ロンはというと、どうにかついていこうと奮闘していた。
呪文はときどき失敗するが、まあまあの出来。本人も「これくらいなら上出来だろ」と、わりと満足そうだった。
そして――ネビル。
最初のうちは相変わらず自信なさげだったが、最近は明らかに変わってきていた。呪文を唱える声が、ほんの少しだけ大きくなっている。ノートも、自分なりに工夫してまとめているらしい。
「ネビル、あいつ頑張ってるな……」
ロンが小声でぽつりと呟いたその声には、素直な敬意がにじんでいた。ハリーも同じ思いだった。それぞれが、それぞれの歩幅で――この一年の終わりへと進んでいた。
***
試験がすべて終わった日の夕方。ホグワーツの空気はどこか緩んでいて、生徒たちの表情にも、ようやく安堵の色が浮かび始めていた。だが――ハリーだけは、ひとり、誰もいない廊下へと足を向けていた。
(……クィレル)
ついさっき、彼の姿を見た。それが気になって、気づけば体が勝手に動いていた。無意識のうちに足が廊下を曲がった、そのときだった。
視界の隅で、ローブの裾が扉の奥へ吸い込まれていくのが見えた。足音を消すようにして、教室の前へと近づく。扉の前に立ち、そっと耳を澄ませた。中からは、かすかな声が聞こえてくる。
「……もうすぐです……はい……今夜には……」
低く、囁くような声。誰かと話している。それは間違いない。だが、返事をしている相手の声は聞こえなかった。ハリーの胸の奥で、心臓がひときわ強く脈打つ。
(誰と……? 今夜って……何がある?)
戸惑いと警戒が入り混じる中、ハリーは意を決し、扉に手をかけた。
「……失礼します」
扉をそっと開ける。中にいたのは――クィレル、ただひとりだった。ハリーの姿を見るなり、クィレルの肩がわずかに震える。その顔は引きつっていて、手に持っていた本をあわてて畳む動作も、どこかぎこちなかった。
「ポ、ポッター……ど、どうしたのですか? きょ、今日は授業はもう……ありませんよ……?」
明らかに不自然な動揺。ハリーは目を細め、少しの間だけ沈黙したまま彼を見つめた。
「……教室を間違えました」
静かにそう告げて、すっと身を引く。扉を閉め、足早に廊下を戻りながら、ハリーの思考はぐるぐると渦を巻いていた。
(あの声……誰かと確かに話していた。なのに、誰もいなかった)
ただの勘ではない。あの空気――あの場の“異様さ”は、紛れもなく本物だった。胸の奥に、得体の知れない違和感がはっきりと残っていた。
***
教室を後にしたハリーは、すぐにロン、ハーマイオニー、ネビルのもとへと戻った。人気の少ない中庭の一角。夕暮れの光が伸びる中、ハリーは小声で、さっきの出来事を手短に説明した。
「……クィレルが賢者の石を狙ってる。今日、何か行動に出ると思う。誰かと話してたんだ。相手の姿は見えなかったけど――明らかに様子がおかしかった」
「クィレルが……犯人!?」
ロンが目を見開く。衝撃と困惑が入り混じったような表情だった。
「スネイプじゃなくて? でも……どっちにしても、フラッフィーがいるんだぞ。あの犬が通路を守ってる限り、そう簡単には――」
「そのことなんだけどさ」
ハリーが口を挟んだ。慎重に言葉を選びながら、落ち着いた口調で続ける。
「ノーバートの卵のこと、覚えてる? あのとき、ハグリッドは“ある男と賭けをして卵を手に入れた”って言ってたよね。……でも、考えてみて。あんなに貴重な卵が、あのタイミングで、偶然手に入るなんて――都合よすぎると思わない?」
「……まさか」
ハーマイオニーが顔をこわばらせる。ハリーの意図に、すぐに気づいたのだ。
「その相手に……何か聞かれたってこと? フラッフィーのこと、通り抜け方とか……?」
「可能性はある」
ハリーの声は低かったが、確信に満ちていた。沈黙が落ちる。ロンが無言でハリーを見つめ、ネビルは緊張した面持ちでこくんとうなずいた。そしてハーマイオニーが言った。
「ハグリッドに、もう一度ちゃんと話を聞きましょう」
「行こう!」
ロンが力強く言い、ネビルもすぐに頷いた。四人は、言葉を交わすこともなく、足早にハグリッドの小屋へと向かった。
***
「おう、よく来たな。試験はどうだった?」
ハグリッドが薪をくべながら、いつもの調子で出迎える。だが、四人の顔に笑顔はなかった。目を見合わせ、一瞬の間ののち――ハーマイオニーが踏み出す。
「ねえ、ハグリッド……」
声はやや食い気味だった。そこに込められた焦りを、ハグリッドもすぐに察したようだった。
「ノーバートをもらった相手って、どんな人だったの?」
「顔は見えんかったな。ローブのフードを深くかぶっとってな。酒場じゃよくあることじゃ。いろんな奴がおるからな……あれはドラゴンの密売人か何かかもしれんが」
ハグリッドは何でもないことのように語っていたが、ハリーたちの目は鋭く光っていた。
「その相手に――何か、しゃべったりしてないよね?」
ロンが慎重に言葉を選びながら、踏み込むように尋ねた。
「たとえば……フラッフィーのこととかさ」
「え? ……まあ、ちょっとな。聞かれたんで、ついな……」
その瞬間、ハグリッドは自分の失言に気づいたように口を押さえた。だが、もう遅かった。
「まさか、どうやってフラッフィーをおとなしくさせるか、とかって……」
沈黙が落ちる。
「……」
「ハグリッド、それを相手に話しちゃったの!?」
ハーマイオニーの声が一瞬、感情の高ぶりで大きくなる。ハグリッドは慌てて手を振った。
「お、おいおい、大したことじゃない! フラッフィーは音楽が好きなんだ。それだけだ! それだけなんだ!」
だが、その弁明を聞きながらも、ハリーたちの顔色はみるみるうちに青ざめていた。ハリーは、視線をまっすぐにハグリッドへ向けた。
「……クィレルだ。クィレルが、賢者の石を狙ってる」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がぴたりと凍った。
「賢者の石!?」
ハグリッドが思わず椅子から腰を浮かしかける。
「おまえさんたち、なんでそのことを知ってるんだ!? それに、クィレル先生はホグワーツの先生だぞ!? むしろあの人は……石を守る側じゃ……そんなはず、ない……」
揺れる目。動揺を隠しきれないまま、ハグリッドはゆっくりと首を振る。
「……どうやって賢者の石のことを知ったかは知らんが、あそこには俺のフラッフィーだけじゃない。先生方が、それぞれに守りの魔法をかけちょる」
「でも、その守りを……もしクィレルが――」
ハーマイオニーが言いかけたところで、ハグリッドが語気を強めた。
「たとえ、もしだ。もし仮にクィレル先生が狙ってるとしても、他の先生方の守りの突破方法は誰にもわからん。全部を知っているのは――ダンブルドア先生だけじゃ」
室内に沈黙が落ちた。外では風が木々を揺らし、小屋の窓がかすかに震えていた。
「……今日はもう帰れ」
ハグリッドが腕を組みながら、どこか苦しげに言った。
「試験も終わったばかりで、疲れとるだろ。明日にでも、俺がダンブルドア先生にちゃんと話を通しておくから。それでええな?」
けれど、誰も動かなかった。その静寂のなかで、ネビルがぽつりとつぶやいた。
「……でも、もし今夜のうちに賢者の石が取られちゃったら? そんなの……遅いよ。今すぐ知らせたほうがいいよ」
その一言が、部屋の空気を変えた。ハグリッドの表情がわずかに揺れ、その大きな手がほんの一瞬、組んでいた腕からほどけかけた。
ハグリッドはしばし口をつぐんだ。薪のはぜる音だけが、妙に大きく響く。やがて、低く長いため息が漏れた。
「……ダンブルドア先生はな、今日は魔法省に呼び出されてもう向かってるはずだ。今、ホグワーツには……おらん」
「……!」
言葉を失った。ハリーの心が冷えていくのがわかる。ロンも、ハーマイオニーも、ネビルも――全員が、顔を見合わせたまま、目を伏せた。守るべき存在が、今、ここにはいない。
「連絡……なんとか連絡は取れないの!?」
ハーマイオニーの声がわずかに上ずる。焦りと不安、それでも諦めたくないという意志がにじんでいた。ハグリッドは重く頷くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……お前さんたちがそこまで言うなら、おれが今すぐフクロウを送ってやろう。ちゃんとダンブルドア先生に知らせる」
そして、一拍置いてから――その声は、まるで子どもをなだめるように、優しくて、重たかった。
「だから、お前さんたちは、おとなしく寮に戻って休むんだぞ。……いいな?」
***
ハグリッドの小屋を出ると、夕方の風が丘の上を静かになでていった。空はゆっくりと茜に染まり、湖の水面にも淡い光が揺れている。
四人は坂道をゆっくりと歩いていた。それぞれの胸の内に、まだ言葉にならない不安と疑念がくすぶっていた。
「……で、どうする?」
ロンがぽつりと口を開く。
「ハグリッドがフクロウ送るって言ってたけどさ……本当にそれで間に合うのかな?」
その問いに、ハーマイオニーも声を落として応える。
「でも、私たちだけで動くのはさすがに……危なすぎるわ」
ネビルはうつむいたまま、小さくつぶやいた。
「……何も起きなければいいけど」
三人の言葉はどれも正しかった。けれど――
「……おとなしくするしかないよ」
ハリーの声は静かだった。どこか諦めを含んだようで、淡々としていた。だが、その瞳だけは違っていた。
(――誰かが行かなきゃならないなら、僕が行くしかない)
心のどこかで、ひとつの結論にたどり着きかけていた。けれどそれを言葉にはせず、ただ前を見て歩いた。それが「誰か」の目に触れているとも知らずに――。
少し離れた塔の影。そこに、ひとり立ち尽くしていたのはマルフォイだった。夕日を背に、風に髪をなびかせながら、黙って丘を見下ろしていた。
何も言わず、何もせず。ただ、じっとハリーたちの背中を見つめていた。その表情は、夕暮れの陰に溶けてはっきりとは見えなかったが――確かに、何かを感じているように見えた。
***
その夜――ホグワーツは、深い静寂に包まれていた。廊下には灯りひとつなく、足音すらはばかられるような、しんとした暗闇が広がっている。
ハリーはベッドの下から透明マントを取り出し、そっと身にまとった。握った杖に、自然と力がこもる。
(誰にも気づかれずに――あそこまで行く)
クィレルの教室で聞いた“声”。そして、ダンブルドアの不在。すべてが“今夜”を指していた。だから、動くしかなかった。
寮の扉に手をかけ開きかけた、そのとき――
「やっぱり、行くつもりだったんだな」
背後から声がした。驚いて振り返ると、そこにはロン、ハーマイオニー、ネビルの三人が、しっかりとローブを着込んで立っていた。ハリーは思わず言葉を失う。
「……どうして……?」
「バレバレだったよ。顔に“一人で行きます”って書いてあったもん」
ロンがニヤリと笑った。
「こんなときに一人で行こうとするなんて、水くさいわよ」
ハーマイオニーも、腕を組んだまま目を細める。
「……でも、危険だよ」
ハリーが小さく言った。
「これは、本当に命に関わることかもしれない。何があるか、わからないんだ。だから――」
「知ってる」
ロンが遮った。
「だから一緒に行くんだよ。誰かがやらなきゃいけないなら、ハリーひとりに押しつけるわけにはいかない」
「僕、怖いけど……でも、ハリーが一人で行く方がもっと怖いから」
ネビルの声はかすかに震えていたが、その目はしっかりとハリーを見つめていた。
「それに私たち、ずっと一緒にやってきたじゃない?」
ハーマイオニーの声は優しくて、強かった。
「最後だけ置いていかれるなんて――そんなの、耐えられない」
ハリーは、何も言えなかった。胸の奥が熱くなって、喉の奥がきゅっと詰まった。どうにかして、声を絞り出す。
「……ありがとう」
それだけが、精一杯だった。そして四人はそろって、ホグワーツの夜の中へと歩き出した。それぞれが違う勇気を胸に抱きながら、同じ未来へと進むために。たとえ怖くても、たとえ無謀でも――踏み出す一歩が“勇気”なら。彼らは、まぎれもなくグリフィンドールの生徒だった。
寮の扉をそっと開け、四人がこっそりと外へ出る。廊下には誰の気配もなく、ただ夜の空気だけがひんやりと流れていた。
だが――曲がり角の先に、人影があった。ハリーが思わず立ち止まる。手が無意識に杖に触れそうになる。だが、ランタンの灯りがその顔を照らしたとき、ハリーは息をのんだ。マルフォイだった。
「……やめとけよ」
静かに、だが鋭く切り込むような声だった。その声音に、皮肉も見下しもない。ただ、感情が抑え込まれていた。
「この前のこと……禁じられた森で起きたあれ、ユニコーンの血が吸われてた――あれが関係してるんじゃないかって、なんとなくわかる」
四人は無言のまま立ち止まり、マルフォイを見つめる。彼は肩をすくめながらも、視線はそらさなかった。
「詳しくは知らないけどさ。お前ら、なんか危険なことしようとしてるんだろ?」
その目は真剣だった。軽口を叩くような雰囲気は一切ない。ただ――止めたかったのだ。心配と、苛立ちと、そして“止められないとわかっていても言わずにはいられない”気持ちが滲んでいた。
「そんなのは先生に任せろよ。僕たちは生徒だろ。もし本当にまずいことになったら……後悔しても遅いんだぞ」
一瞬の沈黙。四人は立ち止まり、そしてハリーが静かに口を開いた。
「……心配してくれて、ありがとう。でも、行くよ。ごめん」
マルフォイの目が、わずかに揺れた。だが、何も言わなかった。四人は再び歩き出す。マントを翻し、闇の奥へと消えていく。
マルフォイは、その背中をただ見送っていた。何かを言いかけて、伸ばしかけた手が――宙で止まる。
「……!」
“僕はスリザリンだ。あいつらとは寮が違う。そもそも、友達じゃない”
“僕は純血だ。あいつらの中にはマグル生まれだっている”
“僕はマルフォイ家の人間だ。無謀な真似はしない。それが父上の教えだ”
そんな言い訳が、頭の中で次々に浮かんでは消えた。自分を納得させるための言葉。臆病を誤魔化す理屈。
だが――
(……それでも……)
(僕は……!)
拳を握る。歯を食いしばる。
(僕は……行けない……)
足が動かない。声も出ない。目の前の四人にむけて、一歩を踏み出す勇気が――どうしても出なかった。
四人の背中が、やがて暗闇に溶けて見えなくなる。その場に立ち尽くしたまま、マルフォイはただ、夜の空気の中に取り残されていた。