ハリー・ポッターと友情、努力、勝利の本 作:じゃあな・アズナブル
黒い炎をくぐり抜けた瞬間、ひやりとした空気が肌を刺した。ハリーとネビルは、静まり返った石の部屋に足を踏み入れる。そこは冷たく、ただならぬ緊張が漂っていた。広間の奥にひときわ目を引くものがあった。
――鏡。
それは背丈よりも大きな、装飾の施された鏡だった。見覚えのある鏡に、ハリーの胸がわずかに騒ぐ。
(……みぞの鏡……!)
以前、心の奥底を映し出されたあの鏡が、ここにある。
そして、その鏡の前には――ターバンを巻いたクィレルが、静かに立っていた。
「……クィレル……!」
ネビルが小さく息を呑み、震えるような声を漏らす。
「本当に……クィレルだった。スネイプじゃなかった……!」
クィレルはゆっくりとこちらへ振り返った。その表情は穏やかで、声も柔らかい。だがその瞳には、ぞっとするほど冷たい狂気が宿っていた。
「そう……スネイプ。セブルスは“いかにも怪しい”からな」
軽く笑いながら、クィレルは続けた。
「私があいつのそばにいるだけで、疑いは自然と奴に向かう。実に便利だったよ」
その口調には、まるで誇らしげな皮肉が込められていた。ネビルが一歩、ハリーの隣に進み出る。緊張に震えながら、それでも目を逸らさずに問いかけた。
「で、でも……クィディッチの試合の時……スネイプが、ハリーの箒に呪いをかけてるのを、ハーマイオニーが見たって……! あれは……!」
クィレルはふっと口角を上げた。あくまで穏やかにつげる。
「……あれは“呪い”ではない。あれは――反対呪文だ」
「反対……?」
ネビルが言葉を繰り返すと、クィレルはうなずいた。
「そうだ。私が――君の友達、ハリー・ポッターを殺そうとした時、セブルスはそれを止めようとしていた。だから彼は、ずっと呪文を唱えていたんだ。私の呪いを打ち消すためにね」
ハリーは息を飲んだ。
(……スネイプが……僕を……守ってた?)
言葉にできなかった。だが、ネビルがぽつりと呟く。
「……そんな……!」
クィレルは楽しげに首を傾げ、声を低める。
「信じがたいか?」
そして――笑った。
「守っていた存在にすら、犯人だと思われる。いやはや、哀れなやつだよ……セブルスは」
その言葉に込められた愉悦と皮肉は、まるで深い穴の底から響いてくるようだった。
「でも……! スネイプは明らかに、ハリーのこと嫌ってたよ!」
ネビルの声には、戸惑いが感じられた。あの態度、あの目つき――疑うなという方が無理だったのだ。
クィレルは、その言葉にくすりと笑った。ターバンの下の顔をわずかに傾ける。
「確かに。だが、あいつが本当に憎んでいたのは――ポッター、お前ではない。お前の父親さ」
「……父さん……?」
ハリーが小さく呟く。
「そう。セブルス・スネイプとお前の父は、ホグワーツで同じ時を過ごした。“犬猿の仲”というやつだ。あいつは、お前の父ジェームズ・ポッターを心底嫌っていた」
クィレルの目が細まり、楽しげな光を宿す。まるで、知識をひけらかす教師のような調子だった。
「だが、何もその息子を殺そうとは思わないだろう?……いくら嫌っていたとしてもね」
口元が歪む。全てを知っている者だけが持つ、いやらしい余裕の笑みだった。
ハリーは何も言えなかった。あの厳しさ、冷たい視線の裏に、そんな意図があったなんて……。クィレルは一度、息を吐くと背を向ける。そして、ゆっくりと、みぞの鏡の前へと歩を進めていった。
「……さて」
背中越しに、クィレルが静かに呟いた。その声には、不気味なほどの落ち着きがあった。
「お前たちと話しているのも楽しいが――ダンブルドアがいないうちに、この鏡の謎を解かねばならない」
振り返ることなく、彼は淡々とそう告げると、軽く右手を振った。
「……少し大人しくしていろ」
その言葉に対して、ハリーもネビルも動かなかった。ただ構えたまま、じっと相手の動きを見つめ続ける。クィレルは鏡の前に立ち、まるで魅入られるように、その中を覗き込んだ。
「……見える。“石”が見える……」
その声は、夢を見ているかのように淡く、だが確かに熱を帯びていた。
「私はそれを手にして、ご主人様に差し出している……」
クィレルの目が細まり、口元にかすかな笑みが浮かぶ。その顔は、恍惚と困惑の間を彷徨うような奇妙なものだった。
「なのに……いったい石はどこだ? ……鏡の中に見えるのに、この手には何もない……!」
低く、焦燥を押し殺すような声。手のひらを何度も確かめるように見つめながら、クィレルの眉間に深い皺が刻まれていく。
「どういう仕掛けだ……?」
呟きは徐々に荒くなり、指先がかすかに震えているのが見えた。確実に冷静さが崩れはじめている。鏡の前で焦りを滲ませるクィレルの耳に、低く、絞り出すような声が響いた。
「……その子を使え……ポッターだ」
その瞬間、クィレルの肩がわずかに揺れる。
「……わかりました、ご主人様」
振り返ったクィレルが、ゆっくりとハリーの方へ歩み寄ってくる。
「ポッター。少し――手伝ってくれるか?」
その口調は穏やかだが、言葉の奥には明らかな“意図”が滲んでいた。
「お前にだけ、見えるものがあるかもしれない」
ハリーはわずかに一歩身を引いた。だが目は逸らさなかった。クィレルの奥にある何か――その得体の知れない“何か”を直視するように、まっすぐに。そして、静かに、だがはっきりと口を開いた。
「お断りだ」
その瞬間、クィレルの表情から、笑みがすっと消えた。
「……残念だ」
言葉と同時に、クィレルの杖が鋭く振り上がる。
「エクスペリ――!」
しかし――
ハリーの身体が、雷光のように横へ跳ねた。閃光が彼のいた場所を掠め、背後に炸裂する。その破片が白く跳ねた時には、すでにハリーは地を蹴っていた。
一気に間合いを詰め、拳がクィレルの脇腹に深くめり込む。
「ぐっ……!」
クィレルの顔が苦悶に歪んだ瞬間、次の動きがもう始まっていた。足払い――そして、崩れた体勢に肘を叩き込む。ハリーの動きに、迷いはなかった。
部屋の端で様子を見ていたネビルが、息を呑んだまま、ぽつりとつぶやいた。
「……ハリー……強い……」
だが――その時だった。
「……何をやっている」
重く、冷たい、底知れぬ声が部屋全体に満ちた。クィレルの動きが、ぴたりと止まる。まるで操り人形の糸が急に引かれたかのように、背筋が不自然にまっすぐに伸びた。
そして――
バサッ。
頭を覆っていたターバンが、音を立てて崩れ落ちる。その下に現れたものは――“顔”だった。クィレルの後頭部に、ありえないはずの顔が刻まれていた。
肌は青白く、禿げた頭皮に直接浮かぶように、目と口があった。目は血のように赤く、鼻はなく、口がゆっくりと動いていた。
「……ハリー・ポッター」
その声は、クィレルの口から発せられたものではなかった。音ではなく――空気に染み込むように、頭の中に直接流れ込んでくる。
「この有様を見ろ……」
ヴォルデモート。“名前を言ってはいけないあの人”と呼ばれた魔法界最大の闇の魔法使いが、クィレルの後頭部からこちらを見ていた。その声には、怒りと……わずかな自嘲が混ざっていた。
「誰かの体を借りて、ようやく形になる……。俺様は今、生きているとも呼べぬ存在だ」
「ユニコーンの血を飲まねば、この姿にすら、なれなかったのだ……」
ハリーは喉の奥に重たいものを感じながら、拳を握り直した。
「……そうか」
ハリーは静かに、だがはっきりと口を開いた。
「ずっと……わからなかったんだ」
「禁じられた森で会った“あれ”……あの気配は、確かにクィレルのものだった。寒気がして、嫌な感覚がした。でも……」
脳裏に、あの夜の光景がよみがえる。銀の毛並みを血で染めたユニコーンの死体。血をすすっていた黒い影。あのときの、不気味な沈黙と――ぞっとするような気配。
「最初に会った時――漏れ鍋でクィレルに会った時から、何か引っかかってた。握手を拒まれた時……妙に、嫌な感じがした」
言葉を吐きながら、ハリーは自分の中で点と点がつながっていくのを感じていた。
「でも、あのときはまだ、意味がわからなかった。血を吸うなんて、クィレルだったらおかしい」
「……血を必要としていたのは、クィレルじゃなくてお前だ。ヴォルデモート」
「お前は――クィレルの体に、取り憑いていたんだな」
返したのは、後ろの“顔”だった。
「……その通りだ、ハリー・ポッター」
その声は低く、冷たく――けれど、どこかに興味の色を含んでいた。
「やはり、“生き残った子”には……凡百とは違うものがあるらしい」
赤い瞳がじっと、ハリーの瞳を見据える。その視線は、獲物を見極める蛇のようで、同時に品定めのようにも感じられた。
「惜しいな」
その一言に、言葉以上の重みがあった。
「その力……その洞察……お前がもし、俺様の側に立つなら。どれほどの価値があるか……わかっているのか?」
背後でネビルが、小さく息を呑む音が聞こえた。けれどヴォルデモートは構わず、ゆっくりと言葉を続けた。
「ポッター。お前は――力を求めているのだろう?」
その声は甘い毒のようだった。囁きかけるように、心の奥をなぞるように。
「知っているぞ誰よりも強くなりたいと、願っているのだろう?」
ハリーの心が、微かにざわめいた。だが、それを顔に出すことはなかった。
「ならば……俺様に仕えよ」
その言葉には、確かな誘惑があった。現実離れした悪夢のようで、妙に現実的な“救い”にも聞こえた。
「すべてを教えてやる。この世界の理、魔法の極致……そして、恐れられる者だけが手にする“真の力”を――」
一瞬、空気が深く沈んだ。そして、ヴォルデモートの口調がわずかに変わる。まるで古い友に語るように、静かで、落ち着いた声。
「……おかしいとは思わなかいか?」
「魔法使いが、なぜ――“力なきマグル”に隠れて生きねばならぬのか。己の力を、誇ることもできず。その存在を、ひた隠しにしながら……」
赤い目が、じりじりとハリーににじり寄るように、ゆっくりとこちらを見つめてくる。視線の圧だけで、体の芯が冷たくなるような錯覚を覚えた。
「理由はただ一つ――今の魔法界は、穢れた血に汚されている」
その言葉を聞いた瞬間、ハリーのすぐそばでネビルが小さく息を呑むのがわかった。肩がかすかに震えている。
「“マグル生まれ”どもが、魔法界に入り込んできたからだ。血の誇りも、歴史の重みも知らぬ連中が――まるで当然のように杖を振るう」
「そんな腐った世界に、“真の魔法使い”の居場所などない」
声が、次第に熱を帯びていく。だがその熱は激情ではなく、冷徹な確信の火――燃やし尽くすことを前提とした炎だった。
「だからこそ、俺様はそれを正す。“純血の支配”を取り戻す。魔法の力を持つ者が、持たぬ者の上に立つ。それが、この世界のあるべき姿だ」
言葉は整っていた。理屈も、論調も、恐ろしく冷静だった。
そして――その口から、明確な“命令”が放たれた。
「だから、ハリー・ポッター」
赤い瞳がまっすぐにハリーを射抜く。
「お前は……俺様の手下になれ」
その言葉は、冷たく、重く、そして――確信に満ちていた。
「お前には力がある。魔法に選ばれた才能がある。特別な運命を持つ者だ」
「それを――無駄にするな」
語りかける声は、まるで手を差し伸べるように柔らかい。だがその奥にあるのは、支配の欲と、絶対の意志だとハリーは感じた。
「俺様と共に来い。力ある者の側に立ち、世界を変えろ」
ヴォルデモートの顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「もう一度言おう……ポッター。愚かな者たちに縛られ、滅びるか。それとも、俺様のもとで――“真の強さ”を手にするか」
その言葉は、低く、まるで運命を告げる鐘の音のように、静かに部屋に響いた。ネビルが、震える足で一歩前に出た。
「……ハリーは……お前の手下になんかならない……!」
声はかすれていたが、その中には確かな意志があった。ヴォルデモートの赤い瞳が、ゆっくりとネビルに向けられる。
「……ロングボトムか」
その名を口にした瞬間――ほんのわずか、ヴォルデモートの目が細まり、表情に変化が現れた。
「貴様も、可能性のひとつだったな……」
赤い目が、どこか愉悦に染まる。
「ポッターと揃ってここに現れるとはな。ならば貴様も、俺様に仕えよ。ロングボトム――」
だがその言葉を、ハリーが遮った。彼は一歩前に出て、真っ直ぐにヴォルデモートの赤い目を見返した。そして、静かに、だが揺るぎない声で言い放つ。
「僕も、ネビルも――お前になんてつかない」
一拍置いてから、皮肉を込めて付け加える。
「というか……自分のその姿、見たことある? 誰がそんなヤツについていくんだよ」
クィレルの後頭部から覗く顔。ユニコーンの血で命をつなぐだけの、寄生された亡霊のような存在。
「お前は“強さ”を語るけど――自分の足で立ってもいない」
ヴォルデモートの表情が、わずかに歪んだ。ハリーは続ける。その言葉には、怒りと信念と、確信が込められていた。
「それに、マグルは“劣った存在”なんかじゃない」
「僕はマグルの世界で育った。確かにひどい人もいたけど、それでも――」
「マグルは“素晴らしいもの”をたくさん生み出してる。優しさも、夢も……漫画だってそうだ」
言いながら、ハリーの中で、少年時代の記憶がよぎる。誰にも理解されなかった日々、そして――漫画の中に見つけた“強さ”と“希望”。
「お前はそれを知らないから、そんなこと言えるんだ」
拳を握る。体中に、確かな力が満ちていくのを感じていた。その言葉を聞いた瞬間――ヴォルデモートの顔が、ぎり、と歪んだ。
「……そうか。ならば、お前も――お前の両親と同じだ」
その声は、怒りに満ちていた。冷たく、鋭く、そしてどこか哀れみを含んでいた。ハリーの目が、ぴくりと動く。
「お前の母親は、命乞いをして死んだぞ。“子供だけは”と、震えながら――な」
「父親も同じだ。“勇敢”気取りで俺様に立ち向かい――一瞬で、殺された」
かちり、と奥歯が鳴る。胸の奥が、怒りで軋んだ。
「愚か者は、いつの時代も同じ道を選ぶ――そして、滅びる」
「お前も同じだ、ハリー・ポッター。今ここで、死ぬ」
ヴォルデモートは静かに嗤った。静寂が、戦いの始まりを告げていた。
ヴォルデモート、喋りすぎ注意。