ハリー・ポッターと友情、努力、勝利の本 作:じゃあな・アズナブル
いよいよ、出発の日がやってきた。ハリー・ポッターは、キングズ・クロス駅に立っていた。
手には、ホグワーツから届いた手紙。その中にあった「9と3/4番線へ」という指示を、何度も読み返しては眉をひそめる。
(……9と3/4番線って書いてあるけど、どこだよ)
目の前には、9番線と10番線。そのあいだに、それらしきホームはどこにも見当たらない。
駅を行き交う人々は、もちろん魔法界のことなど知らない様子で、忙しそうに足早に通り過ぎていく。柱の前で立ち尽くしていると、ふと、赤毛の家族が近づいてきた。
母親らしき女性が子どもたちを引き連れて、きびきびと歩いていく。目で追っていると、その中の誰かが言った。
「9と3/4番線ってどこだっけ、ママ?」
ぴくりと耳が反応する。慌てて声の方へ近づくと、母親がにっこり笑って答えた。
「見てなさい、パーシーが先よ」
その“パーシー”という少年が、まっすぐ柱へ向かって歩いていく。そして――ふっと、姿が消えた。
ハリーは思わず目を見開いた。呆気にとられていると、母親がやさしく声をかけてくれた。
「あなたもホグワーツ? 初めてかしら? 柱に向かって、まっすぐ歩くのよ。少し勢いをつけて」
「えっと……ありがとうございます」
カートの取っ手を握り直し、深く息を吸う。
(大丈夫かな……僕が思いっきりぶつかったら、柱の方が壊れそうだけど……)
ほんの少し笑って、心の中でつぶやいた。
(その時は、お金を使わせてもらうよ、父さん、母さん)
思いきって踏み出す。柱を抜けた瞬間、景色がぱっと開けた。笑い声、フクロウの鳴き声、ローブをひるがえして歩く大人たち。
スーツケースを押す子どもたち。そこに広がっていたのは、間違いなく“魔法の世界”だった。
「……すっげえ」
ハリーは、思わず声を漏らした。
***
ホグワーツ特急に乗り込み、誰もいないコンパートメントにすべり込む。荷物を棚に押し込んで、ほっと息を吐きながら座席に腰を下ろす。
窓の外には、別れを惜しむ家族たちの姿。ペットを抱えた生徒、そわそわとした親たち。
ここでもまた、知らない世界が静かに広がっていた。そのときだった。
「ねえ、ごめん。そこ、座っていい? ほかに空いてなくて……」
扉をそっと開けたのは、赤毛の少年だった。
声には、少し不安が混じっている。
「うん、もちろんどうぞ」
ハリーがうなずくと、少年はほっとしたように笑って中へ入ってきた。
「僕はロンっていうんだ。ロン・ウィーズリー」
「僕はハリー。ハリー・ポッター」
名乗った瞬間、ロンの動きがぴたりと止まった。
「……ほんとに!? 本当に、あのハリー・ポッター!?」
目をまん丸にしながら、じりじりと額をのぞき込んでくる。
「それ……その傷、やっぱり……」
「……ああ、これ?」
前髪をかきあげて、額の稲妻型の傷を見せる。
「うん。たぶん、“その”ハリーで合ってると思う」
***
コンパートメントの扉が開く。
「なにかいかが?」
お菓子カートを押したおばさんが、にこにこしながらやって来た。
カートには、見たことのない不思議なお菓子が山ほど積まれている。ロンはちらりと見てから、そっと視線をそらした。
「……僕はいいや」
そんな様子を見て、ハリーはおばさんに尋ねた。
「えっと……ジャンプとかって、ないですよね?」
「ジャンプ……? 風跳び豆のことかい?」
「……いえ、ちがいます……」
肩を落とすと、ロンが不思議そうに聞いてきた。
「ジャンプってなに? 呪文の名前?」
「いや、漫画だよ。日本のやつで……友情とか努力とか勝利とか、そういうのがいっぱい載ってる雑誌」
「まんが……? それって、魔法の本?」
(やっぱり……魔法界には漫画がないのか)
ハリーは窓の外を見た。流れる景色が、やけに遠く感じた。
(ちょっと……やっていける気がしないかも)
***
「ねえ、ロン? なにかおすすめのお菓子ある? 僕、魔法界のお菓子って全然わからなくてさ」
気を取り直して声をかける。
「うーん……カエルチョコとか定番だけど、動くから気をつけて」
「動くのかよ……」
興味半分でカエルチョコを二つ買い、ひとつをロンに差し出す。
「よかったら、一緒に食べよう」
「えっ、いいの? ……ありがとう!」
包みを開けると、チョコがぴょんっと跳ねた。
ふたりとも慌てて押さえ込み、目を見合わせて笑った。
***
「そうだ、このチョコにはカードがついてるんだよ」
ロンがカードを取り出して見せる。
「ほら、これ。ダンブルドアだ」
「……ダンブルドア?」
「えっ、知らないの? ホグワーツの校長だよ。現代で最も偉大な魔法使いって言われてる」
「へえ……そういえばハグリッドが言っていたような……」
カードを見ながら、ハリーはつぶやいた。
「この人、強いの? なんかおじいちゃんに見えるけど……」
少し考えたあと、ふっと笑う。
「……まあでも、亀仙人みたいに強いおじいちゃんもいるかもしれないしな」
ロンはぽかんとしながらも、うなずいた。
「うん、ダンブルドアは強いよ。今はおじいちゃんだけど、昔はすごかったらしい。闇の魔法使いを何人も倒してるって」
「へえ……会うのがちょっと楽しみになってきたかも」
***
話が落ち着いたころ、ロンが荷物をごそごそ探って小さなネズミを取り出した。毛並みはくすんでいて、動きもにぶい。名前はスキャバーズ。
少し誇らしげに抱えているあたり、意外と気に入っているらしい。ロンは杖を取り出し、ネズミを座席に乗せる。
色を変える呪文を試すつもりのようだった。ハリーが興味津々で見守っていたそのとき――
コンパートメントの扉がガラリと開いた。ふわふわした茶色の髪、きれいに整えられたローブ、分厚い本を腕に抱えた少女が立っていた。
「カエルを見なかった?」
ネビルという少年のペットが逃げ出したらしい。
ロンとハリーが「見てない」と答える前に、彼女の視線はスキャバーズとロンの杖に向いた。
「呪文をかけるの? ちょうどよかった、見せて」
当然のように中へ入ってきて、椅子の端に腰を下ろす。ロンは少しうろたえながらも、杖を構えた。
「お陽さま、雛菊、とろけたバター。デブで間抜けなねずみを黄色に変えよ!」
小さな声で唱えたが、ネズミには何の変化も起きなかった。
「語尾の発音が違うわ。それに、杖の振りが甘いの」
少女――ハーマイオニーは当然のように口を挟み、空中に完璧な軌道を描いてみせた。
ロンは苦笑い。
ハリーは黙って、その様子を見つめていた。
「私、ハーマイオニー・グレンジャー。あなたたちは?」
ロンとハリーも名乗ると、ハーマイオニーは目を輝かせた。
「あなたのこと、知ってるわ。読んだ本に載ってたの!」
そこからは矢継ぎ早だった。どこの寮に入りたいか、教科書はもう全部読んだこと、魔法の歴史について……。
(……すごいな、この子)
それだけの言葉が、すとんと胸に落ちた。一通り話し終えると、ハーマイオニーは満足そうに本を抱え直して立ち上がった。
「ネビルのカエル、探さなくちゃ」
そう言い残し、振り返ることなく去っていった。まるで嵐のような訪問だった。扉が閉まり、静けさが戻る。ロンが背もたれに寄りかかる。ハリーもそれにならった。
(あっ……)
ふと気づく。あれだけ魔法に詳しいなら、修行に使えそうな呪文がないか、聞いておけばよかった。
けれど、もう彼女の足音はとっくに遠ざかっている。
(あの子……また会えるかな)
次に会えたら、修行に使えそうな呪文をひとつくらい教えてもらおう。そう思いながら、ハリーは窓の外に目を向けた。
空が、ゆっくりと夜の色に変わっていく。ホグワーツまで――もうすぐだ。
***
汽車がゆっくりと減速し、車窓の外に灯りが増えていく。
ガタン、と最後の音を立てて、列車はぴたりと止まった。
「イッチねんせーい! こっちじゃ、みんなおりてこい!」
聞き覚えのある大声が、夜の空気を震わせる。ハリーは窓の外をのぞき込んだ。
そこには、ランタンを掲げて立つハグリッドの姿。
大きな影が、灯りの中にぼんやりと浮かび上がっていた。ハグリッドを先頭に、新入生たちはそのあとに続く。夜の空気はひんやりとしていて、ほんの少しだけ緊張を誘った。
「足元気ぃつけるんじゃぞ! さあ、こっちじゃ、小舟で湖を渡るぞ!」
――湖?
森を抜けた先に、黒々とした水面が広がっていた。その向こうには、そびえ立つ巨大な影。ホグワーツ。魔法学校の本拠地。
窓の灯りが点々と瞬き、高い塔、広い屋根、長く続く石の壁が、暗闇の中で浮かび上がっていた。まるで絵本の中の城が、そのまま現実に飛び出してきたかのようだった。
(……すげえ)
声にならない感嘆が、自然とこぼれた。魔法界に足を踏み入れてから、驚くことばかりだった。
けれど、こればかりは――桁違いだった。
***
小舟には四人ずつ乗ることになり、ハリーはロン、そして見知らぬ二人の生徒と同じ舟に乗り込んだ。
誰もオールを持っていないのに、舟はすうっと湖面を滑っていく。
水音ひとつ立てず、静かに、確かに進むたび、ホグワーツの姿がどんどん大きく、近づいてくる。
胸の奥がじわじわと熱くなる。未知の場所に向かうはずなのに、不安よりも期待が勝っていた。
やがて舟が岸につき、一年生たちは順番に上陸する。ハグリッドに続き、石造りの階段をのぼり始めた。
冷たい石の壁。高い天井。広がる空間のすべてが巨大で、重厚で――
それだけで、胸がわずかに高鳴った。やがて大扉の前でハグリッドが立ち止まる。
「ここでちょっと待っとれ」
そう言い残し、扉の向こうへと姿を消していった。
残された一年生たちは、そわそわと落ち着かない様子で待ち始める。
***
「やっぱり君だったんだな。マダム・マルキンの店で会ったよな」
聞き覚えのある声に振り向くと、金髪の少年が取り巻きを引き連れて近づいてきた。
「僕、ドラコ・マルフォイ。……それで、君の名前は?」
「あ、ハリー。ハリー・ポッター」
名乗った瞬間、マルフォイの目がわずかに見開かれる。けれどすぐに、作り直したような表情に戻った。
「へえ、やっぱり……。君なら、どの寮に入るか、よく考えたほうがいいよ。僕はスリザリンかな。マルフォイ家は代々そうなんだ。ちゃんとした血筋の魔法使いが集まる寮だしね」
その言葉の端々には、自信と誇り、そしてわずかな優越感がにじんでいた。
「あと、アドバイスだけど――」
そう言って、マルフォイはちらりとロンを見やった。
「そういうのとつるむのは、あんまりおすすめしないな。見た目でわかるだろ?」
ハリーはきょとんとした表情でマルフォイを見返した。
“いまのって、どういう意味だったんだ?”という顔。
「……ああ、そうなんだ。えっと……ありがとう」
やんわりと返したその声には、敵意も反発もなかった。ただ、少しの困惑がにじんでいるだけだった。
マルフォイは拍子抜けしたように肩をすくめ、取り巻きを連れて去っていく。ロンは眉をひそめながら、その背中をじっと見送っていた。
「なんか……ちょっと変わったやつだったね」
ハリーはぽつりとつぶやいた。その声に、特別な感情はなかった。
“ちゃんとした魔法使い”かどうかなんて、ハリーにとってはどうでもいい話だった。
***
マルフォイの背中が見えなくなったころ、ハリーはふとロンに向き直る。
「そういえばさ……あの女の子も汽車で言ってたけど、“寮”とか“スリザリン”って、どういうこと?」
ロンは少し驚いた顔をしてから、「ああ、そっか」と納得したようにうなずいた。
「ホグワーツには、四つの寮があるんだ。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリン。入学した生徒はどれかに分けられて、その寮ごとに寝室も食事も一緒。学校生活も、ほとんど寮の仲間と過ごすことになる」
「へえ……なるほど」
ハリーは素直に感心して、うなずく。
「それぞれ特徴があってさ。グリフィンドールは“勇気”、レイブンクローは“知恵”、ハッフルパフは“努力と誠実”。で、スリザリンは……“狡猾”とか“野心家”とか、そんな感じ」
声を落として、少し言いにくそうに付け加える。
「……悪い魔法使いのほとんどが、スリザリン出身なんだって」
その表情には、わずかな不安がにじんでいた。
「それでさ。組み分けって、何をするのか知らされてないんだよ。うちの兄貴――フレッドが言ってたんだけど……」
声をひそめる。
「組み分けって、すっごく痛いんだって。何かと戦わされるとか……かも」
目に見えて不安げなロン。どうやら半分以上、本気で信じているらしい。
「ま、まさかとは思うけど……もしそうだったらどうしよう……」
その様子を見て、ハリーはつい笑いそうになった。けれど、それはからかいの笑いではなかった。
「戦いか……」
心の奥に、ふつふつと湧き上がるのは――妙な期待だった。
修行を重ねてきた自分にとって、もし本当にそんな“試練”があるのなら。それは、得意分野かもしれない。
(戦えるなら、やってみたい)
知らずに口元が緩んでいた。ロンが不思議そうな顔でこちらを見るが、ハリーは気づかないふりをする。
(どこの寮になるんだろう、僕)
ロンの話を思い出す。グリフィンドールは“勇気”、ハッフルパフは“努力と誠実”。
(どこでもいいけど……)
(入れるなら、どっちかがいいな)
そんなことを考えていた、そのとき。大きな扉が、ゆっくりと開いた。
現れたのは、メガネをかけ背筋の伸びた女性。鋭い目つきに、少しだけ身が引き締まる。
「一年生は、こちらへどうぞ」
落ち着いた声だったが、空気は一気に張り詰めた。誰もしゃべらなくなり、バタバタとした足音だけが廊下に響く。
ハリーもその列に加わる。胸の奥が、ほんの少しざわついていた。
(組み分け、か……)
さっきまでは楽しみ半分だったけど、こうして本番が近づいてくると――やっぱり、少し緊張する。
でも、それと同じくらい――期待もしていた。
(ここから始まるんだ。僕の“魔法の修行”)
城の中を進んでいくと、大きな扉が目の前に現れる。その向こうからは、にぎやかな声と、あたたかな灯りがこぼれていた。
扉が開いた瞬間――ホグワーツの大広間が目の前に広がった。