静まり返った山岳地帯の一角に、風が笛のように鳴り響いていた。
拠点跡の裏手、岩壁に囲まれた小道を抜けた先。そこには外部の目を避けるように、仮設のテントがひっそりと設けられていた。
リヴァイはその中に、レオンを招き入れる。
「座れ。……長い話になる」
中には調査兵団の機密文書と見られる箱が積まれ、簡易な机と椅子が並んでいた。リヴァイが机に一冊の手帳を置くと、表紙に書かれた名がレオンの視線を引いた。
《被験体No.76-A レオン=グリフィス》
「……何だ、これは」
「お前自身の記録だ」
リヴァイは簡潔に答えた。
「5年前、南方軍医療団の地下研究区画で秘密裏に行われていた“牙獣”生成実験。……その一つの被験体が、お前だった」
レオンは血の気が引いていくのを感じた。
「馬鹿な……俺は……そんな記憶は……!」
「そうだ。お前は“意図的に記憶を封印された”」
リヴァイの声に感情はない。ただ静かに、事実を告げる兵士の声だ。
「当時、上層部の一部が進めていた計画がある。“巨人の力”の研究を基にして、“牙獣”と呼ばれる戦闘生物を作り出す試みだ。
……だが、倫理も技術も破綻していた。制御不能になった被験体の暴走で、多くの研究員と住民が死んだ。
その時、生き残った数少ない“適合体”の中に――お前がいた」
レオンは立ち上がる。
「それじゃあ……俺があの牙獣と反応したのは……!」
「ああ。“同族”と認識されたからだ。あるいは、お前自身にもその因子が、今も微かに残っているのかもしれん」
思考が渦を巻いた。
自分は誰なのか。なぜこの力を持ち、なぜあの咆哮に怯えたのか。
レオンの中で、断片的だった夢と記憶が繋がり始める。
(……あの実験室。冷たいガラスの檻。俺を“モノ”として見る視線……)
「だが」
リヴァイは机越しにレオンを見据える。
「お前は“人間”だ。過去に何をされたかではなく、これから何を選ぶかだ」
レオンは拳を握った。
「……それが、お前の望む“調査兵”の覚悟か?」
「いや、これは俺個人の信念だ。調査兵団の名の下に語るつもりはない。……だが、お前の力が味方なら心強い。そうでないなら、今この場で刃を交える覚悟もある」
沈黙が流れる。
レオンはゆっくりと椅子に座り直し、低く息をついた。
「安心しろ。今の俺は、味方だ。少なくとも、この地獄を止めるためにはな」
リヴァイはわずかに目を細めた。
「ならば……お前に次の任務を与える」
「任務?」
「この牙獣事件の背後にある、旧南方拠点地下の“未解明施設”。そこに、まだ現役の研究記録が残っているという情報がある。調査兵団本部は、これを“特別探索任務”として立案した」
「つまり……牙獣の根を絶つってことか」
「その通りだ。お前には潜入班の一員として同行してもらう。ただし、隊の中でもお前の過去を知っているのはごく一部に限られる」
「それでも構わない」
レオンは立ち上がる。
「過去がどうであろうと、俺は今……ここにいる。人類として、戦う覚悟はある」
リヴァイは微かに頷いた。
「ならば、出発は明朝。……今夜は、英気を養え。次の戦場は、ただの“巨人の森”では済まないぞ」
⸻
その夜、仮設野営地の火は静かに揺れていた。
レオンは、遠く見える焚き火の明かりの中で一人立ち尽くしていた。
「眠れないの?」
背後から聞こえたのは、クリスタの声だった。
「少し……頭の中が整理できなくてな」
「……私も、ユミルのことで……分からないこと、たくさんあるの。けど、分からなくても……信じてる」
「お前は……すごいな。そういう信じ方が、できるのは」
「……信じてるっていうより、知ってるの。あの子がどれだけ、私のために傷ついてきたか」
クリスタの瞳は揺るがなかった。
「レオンも、きっと誰かの“ため”に動いてる。だから私、あなたのことも信じてる」
レオンは言葉を失った。
だが心のどこかに、じんわりと温かい光が灯った気がした。
「ありがとう、クリスタ」
彼女はそっと微笑んだ。
⸻
夜が明け、出発の号令がかかった。
レオンは装備を整えながら、ふとある三人の視線を感じた。
アニ。ライナー。ベルトルト。
彼らの視線は一見冷静で、変わらぬように見える。だが――何かが違う。
ほんのわずかな、焦りのようなもの。あるいは、躊躇。
(牙獣……いや、“牙獣の出現”が、やはり何かを狂わせているのか)
アニがわずかに目を伏せた。
「次の任務、無茶すんなよ」
「お前もな」
レオンは静かに返す。
(お前たちも何かを抱えている。だが、それが何なのか……答えを出すには、まだ早い)
やがてリヴァイを先頭に、調査班は馬に乗り込み出発した。
その背後で、ユミルが立ち止まり、夕焼けの空を見上げていた。
「……ああクソ。私の“居場所”って、何なんだろうな」
彼女の隣に立ったクリスタは、そっと手を重ねる。
「ユミル。あなたが私の傍にいる限り、それが答えだよ」
「……お前はほんと、バカだな。でも……ありがと」
牙獣という名の悪夢と、人の姿をした巨人という偽り。
その狭間で揺れる者たちの行軍が、いま再び始まろうとしていた――。