地下の研究塔から帰還した翌日、調査兵団の仮設本部は静まり返っていた。朝の冷たい空気の中で、レオンは一人、兵舎の裏手にある訓練場に立っていた。
白い息を吐きながら、剣を振る。昨日の戦闘の余韻が、まだ指先に残っているようだった。
(あの牙獣……。俺を見て、呼んでいた。俺の中の“何か”に)
振るう刃が、わずかにブレた。
(違う。今の俺は――まだ“人間”だ)
「……切れが悪いな」
背後から聞こえたのは、よく知った無感情な声。
レオンが振り返ると、そこにいたのはアニだった。制服の襟をきちりと留め、腕を組んで立っている。彼女の青い瞳が、レオンの動きを無言で見つめていた。
「そんな振りじゃ、訓練兵時代の私でもお前を倒せるよ」
「……まさか。あの頃から俺は、お前には一度も勝ててない」
レオンが苦笑すると、アニはふっと視線を逸らした。
「ふざけた冗談。……でも、あんた……少し変わった」
「変わった?」
「あの塔の戦い。あんた……“人間”じゃないように見えた」
その言葉に、レオンの表情が僅かに陰る。
「怖かったのか?」
「違う。……驚いた。私が知ってるレオンは、あんな風に自分を見失わないやつだったから」
二人の間に、風が吹いた。
レオンはしばらく黙ったあと、静かに言った。
「……あの時、お前がいなきゃ俺は……本当に“化け物”になってたかもしれない」
「……そんな大げさな話じゃない。私は、あんたに“戻ってほしかった”だけ」
「どうして? 俺がどうなろうと、お前には関係ないだろ」
その問いに、アニは目を細めた。
「……それを言ったら、あんたも、私のこと……気にしてるでしょ?」
レオンは少し言葉を詰まらせたが、やがて小さく頷いた。
「……気づいてたのか」
「気づかないわけがない。あんた、私のこと、ずっと見てる。みんなには分からないようにしてるけど」
アニの視線が、レオンの目を真っ直ぐに見据える。
「それに……あんた、私たち三人が何か“隠してる”ことにも、気づき始めてる。そうでしょ?」
レオンの表情が微かにこわばる。
「……言えることは、何もない」
「それでいい。今は、ね」
二人の距離は、腕一本分もなかった。
だがその間にあるものは、刃のように鋭く、繊細で、そして――壊れやすい。
「私、あんたに興味あるの。だけど……」
そこでアニは一度言葉を切った。
「私は“あっち側”の人間かもしれない。あんたがそれを知った時、どうするのか……それだけが、ずっと気がかり」
レオンは目を閉じ、息を吐いた。
「たとえそうでも、俺は――お前を信じる。お前が俺を救ったこと、それが“本当”だから」
アニの瞳が、僅かに揺れた。
だがその瞬間、背後から足音が響き、二人の間の空気が破られた。
「おーい、レオンー!ハンジさんが呼んでるよー!」
サシャだった。手を振りながら駆け寄ってくるその姿に、アニはさっと距離を取り、元の無表情に戻った。
「じゃあ、行ってあげなよ。……お喋りはここまで」
「……ああ」
レオンが歩き出すと、アニはその背中に、そっと呟いた。
「……私も、あんたの背中を見てる。……ずっと、ね」
レオンがハンジの元へ向かうと、そこには既に数名の兵士と、机に積み重ねられた報告書が並んでいた。地図、記録、そして牙獣から採取された組織片。
「やっと来たね、レオン。調子は?」
ハンジは眼鏡越しに覗き込むように聞いてきた。
「何とか。……で、今日は?」
「えーと、結論から言うと――次の任務が決まったわ」
その場には既にリヴァイが座っていた。無表情のまま、指先でペンを回している。近くにはミカサも控えており、目が合うとほんの少しだけ頷いた。
(……エレンは、いない)
「牙獣の“出処”が分かったの。どうやら、南方の旧憲兵団の監視施設跡に、それっぽい活動の痕跡が見つかったわ。……つまり、あいつら、“作られていた”」
レオンの表情が硬くなる。
「……あの“獣”は、元人間……?」
「ほぼ確実にね。しかも、知性を維持したまま変異してる。……巨人とは明確に違う点がいくつもある」
「たとえば?」
横から声が入った。リヴァイだった。
「巨人は感情や意志を持たないか、極めて薄い。だが牙獣には“執着”がある。“呼びかけ”や“敵意”の発露が、より人間に近い」
ハンジが口元に指をあて、言葉を続ける。
「中でも問題なのは、“牙獣がレオンに強く反応した”って点よ。まるで“知っていた”かのように」
レオンは眉をひそめた。
「それって、俺が“同じ類”ってことか?」
「可能性の話だけどね。……あなたの出自、その能力、そして“回復力”。どれも普通じゃない」
ミカサがわずかに目を伏せた。
「でも、今の彼は、私たちの仲間」
リヴァイは頷くことも否定することもせず、ただ言った。
「俺はお前が化け物でも兵士でも、どっちでもいい。敵じゃないなら、それでいい」
ハンジが指差した地図の一点――南方、森林地帯にぽつんと残る廃施設跡。
「次の任務はここ。“牙獣製造”の実態を突き止める。……場合によっては、“内部の協力者”の排除も視野に入れて」
「内部って……まさか、壁内に牙獣の作成に関与した人間が?」
「現時点では“可能性”だけどね。……ただし、何かが裏で動いてるのは間違いない」
レオンは唇を引き結び、地図に視線を落とした。
(アニ……あの時、なぜあんなことを言った?)
(“私もあっち側かもしれない”って……)
ほんの一言だった。けれど、その言葉はレオンの胸に釘のように残っていた。
そしてその疑念が、ふとした瞬間、別の連想を生む。
(ライナー……ベルトルト……あいつらもまた)
あの日の壁上演習。レオンを突き飛ばして助けたはずのライナーの力。その時、壁の上から見えた“何か”――巨人ではない、別の形の人型の影。
(ユミルも……)
彼の中で、曖昧だった線が少しずつ繋がっていく。
そしてその線の先に、アニがいた。
仮設本部の会議が終わったあと、夕刻の空がほんのり赤く染まり始めていた。レオンは兵舎の外に出て、冷たい風を顔に受けながら、木陰に寄りかかっていた。
「あんた、難しい顔してるね」
聞き覚えのある声に振り返ると、クリスタが立っていた。そのすぐ後ろには、いつものようにユミルが腕を組んで控えている。
「クリスタ。……ユミルも」
「任務の話、聞いたよ。南方の施設に行くんでしょ?」
「ああ。俺も明日には出発する」
クリスタは一瞬、口を開きかけて……何かを飲み込むようにして微笑んだ。
「無事に戻ってきてね」
その瞳の奥に、不安が揺れていた。レオンは軽く頷いたあと、視線をユミルに移す。彼女は、じっとレオンを見据えていた。
「……お前、何か知ってるな?」
その言葉に、クリスタが小さく息を呑む。ユミルの目が鋭くなった。
「さあね。でも、あんたも相当“知りたがってる”顔してるよ」
「知りたくもなるさ。牙獣も、巨人も、“正体”が不明な敵だ。……それに、アニの言葉が気になってる」
ユミルの視線が、わずかに揺れた。レオンの問いかけに、返ってきたのは短い一言。
「深入りしすぎるなよ。大事なもんまで壊すぞ」
その言葉の意味を、レオンはすぐには理解できなかった。だが――背後から近づいてくる足音が、空気を変えた。
「出発は明朝。私とあんたは、同じ班みたい」
アニだった。装備の点検を済ませたのか、腰のブレードホルダーを調整しながら近づいてきた。
「……よろしくな」
「よろしく」
簡単な言葉だったが、どこか重みがあった。
「それと……さっきの話の続き。私たちが“何か”を隠してるって、あんたが気づいたなら……それでも一緒に動くって、どういうつもり?」
アニは立ち止まったまま、レオンを正面から見据えた。
「裏切られるのが怖くないの?」
レオンは一瞬言葉を探して、そしてゆっくりと口を開いた。
「怖いさ。でも、お前が何者でも、俺が信じた“お前”はあの時――俺を止めてくれたあのアニだった」
アニの唇が微かに開き、そして――何も言わずに閉じられた。
レオンのその言葉に、明確な“答え”を返すことは、彼女にはできなかったのだ。
それでも彼女の表情には、ほんのわずかな温度が宿っていた。
レオンとアニが並んで歩き出すと、ユミルがぽつりと呟く。
「……クリスタ」
「うん」
「レオンってさ、“人間じゃない何か”になりかけてるけど……それでも、まっすぐだね」
クリスタは静かに頷いた。
「だから、きっと……アニは、救われる。彼女が“自分”を壊す前に」
その言葉に、ユミルはほんの僅かに眉を下げた。
(私だって、本当は――あいつに全部を見せたい)
けれど、それはまだ叶わない。今はただ、牙を隠し、心を隠して、静かに歩くしかない。
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夜が更け、南方への出撃を控えた小隊は静かに準備を整えていた。レオン、アニ、ライナー、ベルトルト、そしてミカサが編成された特務班。巨人化能力者をうっすらと感じ取り始めているレオンにとっては、疑念と確信の境界に立つような構成だった。
レオンが馬具の点検を終え、空を仰ぐ。夜空には雲が流れ、星はわずかにしか見えなかった。
そこに、再びアニが現れた。
「……私、もし“向こう側”の存在だとしても、あんたは斬れる?」
「……さあな。でも、俺は人類のためじゃなく、“大切な奴ら”のために戦ってる」
「“奴ら”の中に……私がいる?」
「――当然だろ」
その一言に、アニは目を閉じ、ゆっくりと笑った。かすかな、だが確かに“温かい”微笑みだった。