第1話 揺れる心と熱を孕む視線
冷たい風が、壁外の空気と入り混じるように調査兵団本部へと吹き込んでいた。
巨人と牙獣の脅威が同時に迫る中、調査兵団内では新たな対策班の編成が急がれていた。リヴァイ班を中心に精鋭が再編されると同時に、104期生の中からも実力ある者が選抜されていた。
「……俺たち、本当に選ばれたんだな」
ジャンが緊張気味にそう呟く。隣にいたサシャが頷きながらも、腹の音を鳴らしていた。
「うぅ、おなかすいたぁ……任務前の補給、少なすぎません?これじゃ戦えないですよぉ!」
「緊張感なさすぎだろ、サシャ……」
コニーが呆れながらも、少しだけ肩を緩めた。
アニ、クリスタ、レオンの三人も、その光景を少し離れた場所から見ていた。騒がしいが、仲間らしい温かさがあった。
アニはふと、視線を右に向ける。そこには、静かに立ち、窓の外を見ているレオンの姿があった。
「……お前、また何か考え事?」
「……いや」
短く返すが、その声はどこか曇っていた。
クリスタがそっと寄ってくる。「レオン、無理してない?」
「してないさ。けど……また、牙獣と当たることになるだろ?」
その言葉に、アニとクリスタの表情が強ばる。牙獣——人体実験の末に生み出された異形の兵器たち。巨人と違い、人の意識や記憶の痕跡を残したまま暴走する存在。
「今回の任務、元・監視施設跡地だって聞いた。牙獣の本拠に近い場所だ」
レオンの言葉に、アニが鋭く目を細めた。
「……気をつけなきゃ。相手は人間の“なれの果て”だってこと、忘れそうになる」
そのとき、遠くから鋭い声が飛ぶ。
「貴様ら、集合だ。ブリーフィングを始めるぞ」
リヴァイの低くも重みある声が、広間に響く。全員が一斉に整列し、ハンジが前に出てくる。
「今回の任務は、牙獣の発生源とされる“旧実験区域”の調査よ。レオンを中心とした特別班、そしてリヴァイ班が共同で向かいます」
ハンジは地図を広げながら続ける。
「ただし……この地点、以前、レオンが保護された場所に近い。レオン、記憶の断片でも何でもいい。思い出したことがあれば必ず報告して」
「……わかった」
レオンの本名は、レオン・アルヴィス。今は“レオン・ヴィスナー”と名乗っているが、牙獣計画に関わる深い過去を持つ。本人ですら記憶の一部が曖昧なままだ。
――その時、ミカサがレオンをじっと見つめていた。彼女の隣にはエレンがいる。今は口を閉ざしているが、どこか苛立つような視線をレオンに向けているのが、アニの目には見えた。
(やっぱり……エレンは、レオンが気に入らないんだ)
クリスタもまた、ミカサの動きを察していた。だがそれ以上に気になるのはユミルの様子だった。最近のユミルは妙にそわそわしていて、何かを隠しているように見える。
(……ユミル、もしかして……)
クリスタだけが知っていた。ユミルもまた、巨人化能力を持つことを——。
出発の準備が始まり、104期の選抜メンバーはそれぞれ装備を整えていった。
その合間に、アニとレオンが二人きりになる瞬間があった。アニはふと背を向けたまま、声をかけた。
「ねえ……あんた、最近私のこと避けてない?」
「……そんなつもりはないさ」
「嘘つけ。クリスタと話してるときの方が、ずっと自然に見える」
レオンは返答に困った。そして静かに言う。
「……俺はお前が、怖い。いや、違うな。お前の中に、俺と似た“何か”を感じるんだ」
アニは驚いたように目を見開く。だがすぐに、それを無表情に隠した。
「……バレてた、ってことか」
レオンはゆっくりと頷いた。
「お前や……ライナー、ベルトルト。普通じゃないんだって、なんとなくわかる。俺の“感覚”が、そう告げてる」
「言うつもりか?」
「いいや。言わないよ。今はまだ、その時じゃない。ただ……」
レオンは少しだけ笑った。
「どこかで、俺たちは似てると思う。戦う理由も、生き方も、きっと」
アニはその言葉に、しばらく何も言わなかった。ただ、わずかにレオンの背中に寄り添うように近づいていた。
一方で、クリスタはその様子を遠くから見ていた。手には小さな布を握っていた。レオンが落としたハンカチだった。
「……ずるいよ、アニ」
クリスタは微笑むように呟くが、その瞳の奥には確かな想いが揺れていた。
――そして、出発の時が来る。
牙獣と巨人、二重の脅威が待つ“旧実験区域”へと向かうレオンたちの馬車は、朝焼けの中を走り出していった。
馬車が進むにつれ、風景は荒れ果てた廃墟へと変わっていった。
旧実験区域——かつて中央第一研究所と呼ばれたその場所は、すでに地図上からは削除され、政府の記録にもほとんど残っていない。だが、レオンの失われた記憶の一部は、確かにここで刻まれた。
「見えてきたな……」
リヴァイが馬の手綱を引きながら言った先には、無機質な鉄の門と、崩れかけた建物群が広がっていた。
「ここが……牙獣の研究が行われていた場所……」
ジャンが眉をひそめながら呟く。空気が異様だった。死の匂いが漂っている。何かが潜んでいるような、そんな緊張感。
「サシャ、後方警戒。コニーは上層を見張れ。ジャン、クリスタ、レオンに同行しろ。アニ、ミカサ、お前らは左右から展開しろ」
リヴァイの指示は迷いがなかった。それぞれが散開し、レオンたちは崩れた施設の中へと足を踏み入れる。
天井が一部落ち、床には血の染みのような跡が残っていた。だが、それは古いものではなかった。
「これは……最近のもの……?」
クリスタが不安げに声を上げる。
「牙獣は、まだこの近くにいるかもしれないってことだな」
ジャンが警戒しながら言い、レオンも頷いた。
「……ここに来て、少し思い出してきた」
レオンが壁に残された文字を指差す。
「“ケースC-013:アルヴィス個体、感情抑制実験失敗。凍結措置”。俺……ここで実験されてた。子供の頃から、名前も違っていた」
アニが静かに訊く。「ヴィスナーって名は?」
「脱出したとき、助けてくれた人が偽名をくれた。レオン・ヴィスナー。今の俺は、そいつのおかげで生きてる」
「……あんたも、選ばれた側だったんだね」
アニの目が揺れる。クリスタも言葉を詰まらせていた。
そのとき——轟音が響いた。
「来たな!」
リヴァイの声と同時に、建物の天井を突き破って、牙獣が姿を現す。
それは人型に近いが、異様なまでに腕が長く、両腕の関節が逆向きに折れ曲がっている。全身の皮膚は焼け爛れ、顔面の皮は剥がれたまま再生を繰り返していた。
「こいつ……まさか、まだ生き残っていた個体が……!」
ハンジが叫ぶ。牙獣は咆哮し、リヴァイたちに向かって飛びかかってくる。
「散開しろッ!」
リヴァイが立体機動で上空へ跳ぶ。ミカサとアニもすぐに追随し、刃を振るった。
牙獣の硬質化した表皮が、剣をはじく。しかし、その動きは明らかに人間の戦闘技術を模倣していた。
「まるで……訓練を受けた兵士みたいな動きだ……!」
ジャンが呆然としながらも援護射撃を放つ。その隙を突いて、レオンが空中で軌道を変えた。
「お前の動きは、俺も見たことがある……!」
レオンの剣が、牙獣の首元に深く突き刺さる。だが、牙獣は呻き声と共に再生を始め、レオンの顔を認識するかのように視線を向けてきた。
「……ヴィスナー……?」
その一言が、レオンの動きを一瞬止めた。
「知っている……?俺の名前を……?」
牙獣の声は歪んでいたが、確かにレオンに語りかけていた。
その隙を狙い、リヴァイが突進。雷槍を牙獣の胸部に突き刺して爆破する。
「甘さを捨てろ。お前の過去は、お前の中にしかねぇ」
レオンはその言葉に、拳を握り締めた。
牙獣は絶叫と共に崩れ落ち、再生を遂げる前にリヴァイの刃が頸部を切断した。爆発するように灰が舞い、牙獣はようやく沈黙した。
静寂が訪れた。瓦礫の中、レオンはゆっくりと腰を下ろす。
「……あれは、俺のことを知っていた。俺と同じ実験の……」
「仲間、だったのかもな」
アニがそっと近づき、同じ目線に座った。
「それでも、あんたは生きてる。そいつらの分まで、生きる意味がある」
クリスタもそばに膝をつく。
「レオン、あなたの過去がどんなでも、今のあなたは——私たちの、大切な仲間だから」
三人は、崩れた研究施設の中央で、しばし言葉もなく、互いの存在を感じていた。
その後ろで、リヴァイやハンジが残された資料を回収しながら、静かに呟く。
「……牙獣計画は、まだ終わってねぇ」
「レオン……お前が鍵だな」
そうして、次なる戦いの予兆を胸に、調査兵団は旧施設を後にした。
陽が傾く中、馬の蹄が再び音を立て、三つの心がそれぞれの想いを秘めて走り出していた。