地鳴りのような咆哮が、レベリオ演習地の空を震わせた。
それは、これまでの牙獣とは明らかに異なる存在だった。
突如として天から現れたそれは、長く伸びた四肢と鋭い翼を持ち、空を滑るように舞いながら、地上の人間たちを見下ろしている。
「……空、だと?」
リヴァイが低く呻く。視線の先には、蒼穹を裂いて旋回する牙獣の姿。全長およそ十五メートル、頭部は鳥類のように尖り、背中には蝙蝠のような巨大な翼が広がっていた。
だが、その飛翔には違和感があった。まるで何かに導かれているかのように、獲物を選ぶような、あるいは”共鳴”するような動き。
「ピクシス司令、確認しました! 牙獣種、空中からの強襲です!」
「ほぅ……ついにここまで来おったか。まさか、空を飛ぶとはな……」
ピクシスは深いため息をつき、周囲の部隊に布陣の指示を出す。
「立体機動は距離が要る。飛行相手では分が悪いが……幸い、我々には一人――空をも捉える“怪物”がいる」
その言葉を聞いたリヴァイが、口元をわずかに吊り上げた。
「……レオン・ヴィスナー。奴が本気を出せば、この程度の獣、地に引きずり下ろせる」
その頃、レオンはすでに動いていた。
牙獣が襲来した直後、彼は誰よりも早く跳躍し、建物の屋上からワイヤーを放っていた。
「……上だ」
その囁きは誰に向けられたものでもない。牙獣の鼓動が、脳に直接響いてくる――否、それは“共鳴”だった。
(近い。あいつの意識が……俺の中に入ってくる)
前回の戦闘で、レオンは牙獣と“リンク”した。意図せずして、敵の記憶を断片的に垣間見たのだ。あの感覚が、今また迫っていた。
「レオン!! 無茶するなっ!」
背後からアニの声が飛ぶ。彼女はその表情に焦りを浮かべながらも、自らも立体機動を展開してレオンの背に追いつこうとする。
だが、レオンは振り返らない。ただただ空を裂く牙獣を見据え、その飛行パターンを読み解いていく。
「やっぱり……こいつは知性を持ってる。俺を見ている」
その瞬間、牙獣が動いた。急降下――狙いは、彼。
咆哮とともに迫る牙獣の爪。レオンは直感で側面に跳び、紙一重で回避する。
だが、刹那――牙獣の“目”と、レオンの“視界”が交差した。
――記憶の奔流。
焼け落ちた村。惨殺された兵士。人間の姿のまま実験器具に縛られ、薬剤を注射される少女。
「たすけて、だれか……」
脳裏に突き刺さる、幼い叫び。
(まただ――俺は……また繋がったのか)
強制的に牙獣の“記憶”に引きずり込まれながら、レオンは己の身体が制御を失いかけているのを感じた。
(……いや、まだだ)
視界の中心に、牙獣の胸部が映る。そこに、うっすらと刻まれた“印”――人間の手で焼き付けられた管理番号らしき痕。
「人が……造ったのか?」
その言葉に、牙獣が答えるはずもない。
だがその直後、レオンの周囲に四つのワイヤーが交差した。
「援護するぞ、ヴィスナー!!」
叫んだのはオルオ・ボザド。後方から回り込んだペトラ、エルド、グンタがそれぞれ絶妙な位置に陣取り、牙獣の飛行を封じにかかる。
「リヴァイ班、展開完了!!」
「……遊んでる時間はねぇ。やるぞ、野郎ども」
リヴァイが宙を切り裂くように牙獣の背後に現れ、鋭くブレードを突き立てた――が、その直前で牙獣が羽ばたき、突風が全員を吹き飛ばした。
「くっ……!」
「立体機動の軌道が狂う……!」
風圧だけで仲間の戦術が崩されていく中、レオンはふと、翼を広げる牙獣の体勢に“違和感”を覚えた。
(……あれは、俺を挑発してる)
まるで誘うような、低空飛行。
レオンは視線を落とした。地上で見上げる少女が一人――クリスタだった。
その顔には、叫ぶような懇願の表情。
「レオン……お願い、戻って!!」
その一瞬、何かが胸を貫いた。
(――違う、俺は“戦うため”にここにいるんじゃない)
牙獣の記憶に触れた今、レオンは確信した。
これは戦いではない。**「選別」**だ。
牙獣は“共鳴する者”を探している。ならば、自分は――
「俺が、止める」
牙獣の動きが、急に鈍った。
空を自在に舞っていたはずの翼が、一瞬、羽ばたきを止めたように見えた。
「今だ……!」
レオンが踏み出す。両脚に力を込め、屋根から垂直に跳躍。二本のワイヤーを天に放ち、牙獣の首元を狙って射出する。
だが、そのときだった。
――カシンッ!
ワイヤーの一つが空中で折れ、意図しない方向へ跳ね返った。
(何だ……!?)
違和感。牙獣の周囲に、うっすらと何か“揺らめく膜”のようなものが存在していた。
それは、まるで重力場のように、近づく者を弾く“拒絶の空間”。
(……バリア、か? いや、それにしては不完全すぎる)
ワイヤーを巻き戻しながら、レオンは牙獣と真正面から睨み合う。
その瞬間、牙獣の瞳が、再び微かに光を放った。
そして――レオンの脳内に、“声”が響く。
《――きみは、ちがう。きみは、なに……?》
“意思”だ。
この牙獣には、明確な“知性”がある。
単なる生物的本能ではなく、“誰か”を識別し、対話しようとする意志すら感じられた。
(……意思疎通が可能かもしれない)
だが、相手が明確な敵である限り、それはありえない希望。否、それでも一瞬のためらいを生むには充分だった。
その隙を、見逃さない者がいた。
「お前、迷ってる場合かよ――!!」
声と同時に、鋭い蹴りが飛んできた。
レオンの側頭部をかすめたそれは、彼を現実に引き戻す。
振り向くと、そこにいたのはアニだった。
「……アニ」
「お前、あいつに“共感”してる顔してた」
アニは険しい顔でレオンを睨みつける。
「殺さなきゃ、こっちが殺される。それを忘れるな」
その言葉には、いつもより強い怒気が含まれていた。
(……そうだ。俺は“戦士”じゃない。兵士だ)
言葉を呑み込んだレオンは、静かに頷いた。
アニはそれを見届けると、背を向け、再び立体機動装置を展開して牙獣の背後へと回り込む。
「レオン、こっちは支援に回る! 仕留めるのはお前だ!!」
リヴァイの指示が飛ぶ。オルオとペトラが斜め上から、グンタとエルドが側面からワイヤーを伸ばし、牙獣の動きを封じにかかる。
空中戦の形勢が、次第にこちらへ傾き始めた――そのとき。
「……え?」
広場に立っていたクリスタが、ふと首を傾げた。
彼女の視線の先で――もう一体の牙獣が、現れた。
「嘘……二体目!?」
背筋を凍らせる絶望の気配。
翼を持つ牙獣の背後から、まるで影のように滑空して現れたそれは、前者よりやや小型ながら、凶悪な爪と尾を持っていた。
「皆、離れて!! 増援が――!」
クリスタの叫びが届く前に、牙獣の尾が一閃。
リヴァイ班の一人――グンタの身体が弾かれ、回避の間もなく地面へ叩きつけられる。
「グンタ――!!」
ペトラが叫ぶ。オルオが瞬時に身を翻し、グンタの元へと駆け寄るが、牙獣はそれを許さない。
(ダメだ――戦力が分断される!)
レオンは瞬時に判断し、再び空へ飛んだ。
「やるしかない――ここで決める!!」
自身の意志を、力に変える。脳裏に流れ込む記憶を断ち切るように、牙獣の首元へと急降下する。
「死ねッ――!!」
刃が風を裂いた。
刃は牙獣の首元に深く喰い込んだ――だが、届かない。
刃先はわずかにズレ、脊髄の中核には至らなかった。
(足りない――一撃じゃ足りない!!)
すかさず反転して第二撃を放とうとしたその瞬間、翼を持つ牙獣が咆哮をあげた。
空気が震え、空間が歪む。
レオンの身体が弾き飛ばされた――否、強制的に“放たれた”。
(こいつ、俺を拒んだ? ……いや、逃がしたのか!?)
その意図は読み取れなかった。だが、確かにレオンは空中から叩き落されるように離され、瓦礫の上に転がった。
「レオン!!」
クリスタが駆け寄る。彼女の腕に抱かれた瞬間、意識がふっと遠のきかける。
「だめ、しっかりして……! お願い、まだ――!」
彼女の声が、意識を繋ぎ止めた。
視界の端に、二体目の牙獣が、再び翼を広げてこちらを狙っているのが見える。
(もう動けない……)
視界が揺れ、世界が遠ざかる。
だが、そのときだった。
――地鳴り。
大地が轟き、爆風が吹き上がる。
「……なんだ……?」
誰かが呟いた。
そして、それは現れた。
蒸気をまといながら姿を現したのは――
「エレン……!!」
ミカサが叫ぶ。
煙の中から現れたのは、十五メートル級・進撃の巨人。その瞳に、かつての猛々しさはなかった。
だが、確かにそこには“意志”があった。
「レオンを、殺させない……!!」
エレンの巨人が吠えた。
戦場が、一変した。
進撃の巨人が突撃し、二体目の牙獣に体当たりをかます。衝突の衝撃で広場の石畳が砕け、双方がもつれるように地面を転がる。
「エレン……戻ってきたのか」
レオンが呟く。クリスタが彼を支えながら、必死に周囲の安全を確保しようと目を見張らせる。
「でも……エレンの動き、おかしい。まるで誰かに導かれてるみたい……」
その言葉の意味を、レオンは直感で理解した。
(……あいつも、“共鳴”したんだ)
エレンは牙獣と同じく、“記憶の残響”を受け取ったのだ。
レオンと同じように――いや、それ以上に強く。
激突の果て、牙獣は大地に伏せ、進撃の巨人がその胸を踏みつけている。
咆哮。牙獣が反撃に出ようとしたその瞬間――
「終わりだッ!」
リヴァイが牙獣のうなじに飛び込み、寸分の迷いもなく刃を突き立てた。
脊髄核を貫かれ、牙獣の身体がびくりと跳ねる。
一拍遅れて、翼を広げたままの巨体が、崩れ落ちた。
静寂。
誰もがその結末を見つめていた。
重い沈黙の中、蒸気を上げるエレンの巨人が立ち尽くしていた。
やがてその体表にひびが入り、中から青年の姿が現れる。
「……はぁ、はぁ……っ」
裸のまま膝をつくエレンを、ミカサが駆け寄り覆い隠す。
レオンは地面に手をつきながら、その姿を見ていた。
(エレン……)
あの時と同じだ。巨人と戦うあいつの姿には、憎しみよりも“悲しみ”が漂っていた。
(やっぱり――お前も、何かを知ってるんだろ)
レオンの中に、新たな疑念が芽吹く。
この戦いの裏に、もっと大きな“記憶”と“因果”がある。
牙獣の咆哮は終わった――だが、それは始まりにすぎなかった。
そして、瓦礫の影から一人の男が現れる。
ピクシス司令。
「ふむ……飛ぶ獣に、語る獣。これで“牙獣”という存在の全貌が、少しばかり見えた気がする」
司令の言葉に、リヴァイが唾を吐く。
「少しじゃ足りねぇ。奴らの目的も、数も、何もかも分からねぇ」
「そうだな……だが、我々には一つ、確かな“切り札”がある」
ピクシスは、レオンを見た。
その視線を受け止めながら、レオンは静かに立ち上がる。
そして、傷だらけの身体で、戦場の中心を見渡した。
「これで終わりじゃない……始まったばかりだ」