訓練三日目の午後、空には厚い雲が垂れ込め、風に湿った匂いが混じっていた。
遠くで雷鳴のような音がごくかすかに響き、訓練場の空気に静かな緊張が走る。
この日の訓練は「対人格闘技術」。
班に分かれ、教官が見守る中で訓練兵同士が模擬戦を行う実戦形式だ。
レオン・ヴィスナーは第六班に割り振られ、ジャン、コニー、ライナーらと同じ組に入っていた。
「なぁ、教官、本当にこの編成でいいのか? 一人だけおかしい奴が混じってるぞ」
ジャンの皮肉混じりの声が、教官に届くように発せられた。
視線の先には当然、レオンがいた。
「お前が誰を指してるか知らんが、黙って訓練に集中しろ」
教官の一蹴に、ジャンは舌打ちをしつつも引き下がる。
だが、レオンに対する視線は明らかに敵意を孕んでいた。
(またか……)
レオンは内心、ため息をつく。
彼が訓練兵団に入って以来、こうした視線や言葉は絶えなかった。
初日の教官への“反撃”が原因であろうことは、彼自身よく分かっている。
「レオン、俺と一戦やらねぇか? ちょっとどんだけ強ぇか試してみたいしよ」
そう言って声をかけてきたのは、コニー・スプリンガーだった。
悪意はない。純粋な好奇心だ。だが、それはそれで厄介だ。
「……構わない」
レオンが短く答えると、周囲がざわついた。
ジャンが口を尖らせる。
「へぇ。無口のくせに、やる時はやるんだな。見せてもらおうじゃねえか」
「ジャン、やめとけって……」
ライナーが小声でたしなめるが、ジャンは聞く耳を持たない。
その視線の奥には、明確な敵意と“打ち負かしたい”という欲望が混ざっていた。
模擬戦が始まった。
教官の掛け声と共に、レオンとコニーは中央へと進む。
軽く敬礼し、構えを取る。
コニーが先に動いた。素早い踏み込みから、低い体勢でのタックル。
(直線的だが、勢いはある)
レオンは一瞬で軌道を読み、横に流すように受け流す。
コニーの体がバランスを崩したその瞬間、レオンの掌底が胸元に軽く触れた。
「……っ!」
ドス、と軽い衝撃音。コニーはそのまま背中から地面に転がった。
だがレオンは追撃しない。技の切れ目と相手の意思を読んだ上で、すでに戦意を見極めていた。
「くそ、何が起きたんだ……?」
コニーは自分が倒されたことにすら気づけていなかった。
ジャンが鼻を鳴らす。
「茶番だな。こいつが相手なら俺がやるよ」
教官は黙って頷いた。
次に前へ出たのは、ジャン・キルシュタイン。
攻撃的な性格そのままに、間合いを一気に詰めてくる。
(……タイプが違う。これは――)
ジャンの初撃は鋭かった。拳が真正面から飛んでくる。
レオンはそれを寸前でかわし、逆に右足でジャンの膝裏を狙った。
が、ジャンは足を引き、カウンターを放つ。
そのまま二人は間合いを詰め、短い打撃の応酬へと移行した。
「ほら、さっきみたいにはいかねぇぞ!」
ジャンの声が響く。だが、その刹那。
レオンの肘が、ジャンの肋骨の間に鋭く入った。
「がっ……!」という呻き声がもれ、ジャンは一歩、二歩と後退した。
「止めろ、終了だ!」
教官の声が響く。ジャンが倒れ込むように膝をつき、訓練場は静まり返った。
「……くっそ、あいつ……」
ジャンは呻きながら、地面に拳を叩きつける。
だがレオンは、無言でただその場に立ち続けていた。
⸻
訓練が終わり、夕暮れが差し始めた頃。
レオンは訓練場の裏手、人気の少ない場所にひとり座っていた。
脳裏に浮かぶのは、幼い日の記憶。
父と共に生きた村。
その村は、“人間”の裏切りで焼かれた。
壁の中ですら、誰もが信用できるわけではないと知ったのは、あの時だった。
「お前は優しすぎる。それは武器にもなるし、足枷にもなる」
父の言葉が耳の奥に蘇る。
優しさと冷酷の狭間で、戦うこと。
それがレオンに課された“生きる意味”だった。
「……お前もまた、何かを背負ってるんだな」
背後から聞こえた声に、レオンは振り返る。
そこにはライナー・ブラウンがいた。
静かに歩み寄ってきたその目は、どこかレオンと似ていた。
「俺もな、似たようなもんだ。人を守るために拳を握ってきた。でも……本当にそれが正しいのか、分からなくなる時がある」
レオンは答えなかった。だが、その視線に“共感”の色が浮かぶ。
「お前、嫌われてるって分かってるか?」
「分かってる」
「それでも態度を変えないのは、強さだと思う。……ただ、その強さに、潰されるなよ」
ライナーはそれだけ言って、去っていった。
レオンは一人、空を見上げた。
雲の切れ間から差すわずかな光が、視界の先で揺れていた。
(強さって……なんだ?)
それは答えのない問いだった。
けれど、今の彼に必要なのは、答えよりも――“誰かとの繋がり”かもしれなかった。