朝の陽光が差し込む兵舎の廊下。
「よ、おはよう」
壁に寄りかかっていたアニが、レオンの姿を見て小さく手を上げる。
「……今日、行くって言ったよね」
「もちろん。約束だろ」
レオンが頷くと、アニは一瞬だけ、ほっとしたような表情を浮かべた。
それは誰も知らない、ほんの少し崩れた彼女の「仮面」だった。
「……じゃあ、行こ」
アニが前を向く。
どこか、緊張しているようなその後ろ姿に、レオンは少しだけ微笑んだ。
街へと続く道。陽光の中、アニはいつもとは違う、淡い灰色のワンピースを身にまとっていた。
「……変?」
そう聞かれて、レオンは言葉に詰まった。
「いや、すごく……似合ってる」
「……そう」
ほんのりとアニの頬が染まり、それでも目を合わせようとはしなかった。
普段、冷静でどこか無表情な彼女が、こうして“普通の女の子”に見える瞬間に、レオンは息を呑んだ。
街は春祭りの名残で賑わっていた。
屋台が立ち並び、子どもたちの笑い声が響く。
「こういう場所、苦手?」
「うん。人混みって、ちょっと息が詰まる」
アニはそう言いながらも、レオンが並んで歩くと自然と歩幅を合わせてきた。
「……じゃあ、静かなとこ行こう」
レオンの提案に、アニはこくりと頷いた。
歩いてたどり着いたのは、街外れの静かな湖畔。
「ここ、クリスタが好きな場所って言ってた」
「……そう」
アニは一歩、水辺に近づいて膝を抱える。
「なんで、私を誘ったの?」
「おまえが……誘ったんだろ」
「違う。私と行こうって、言ったのはレオン。断ることだってできた」
レオンは少し考えた後、正直に答えた。
「……アニと話したかった。クリスタとのことで、おまえの顔が浮かんだから」
「……最低だね」
アニの声は怒りよりも、寂しさに満ちていた。
「でも、うれしかった」
レオンが驚いて彼女を見ると、アニは小さく笑った。
「私、レオンのそういうとこ……嫌いじゃない」
沈黙が流れる。
風が二人の間をすり抜けていく。
「レオン。私……ずっと言いたかったことがある」
アニの声は、湖の水面のように静かだった。
「私、たぶん――いや、もう間違いなく、レオンが好き」
一拍。
「訓練兵の頃から、なんであんたにだけ気を許してるのか、ずっとわかんなかった。でも、今は……自分の気持ち、ちゃんとわかる」
アニの言葉は、真っ直ぐで、優しかった。
レオンは、何も言えなかった。
返事をするには、自分の気持ちがまだ整理できていなかった。
そして、その沈黙の直後。
「……あっ」
木陰の向こうから聞こえた声に、アニとレオンは一斉に顔を上げた。
クリスタが立っていた。
手には小さな紙袋。彼女は街へ買い出しに出ていた帰りだった。
「あ、ごめん……邪魔するつもりじゃ……」
言葉が途切れる。視線がアニとレオンの距離を捉えていた。
「クリスタ……」
レオンが声をかけようとしたが、クリスタは静かに笑った。
「そっか、そういうことなんだね」
そして彼女は、何も言わずに踵を返した。
アニは黙っていた。
レオンも、追いかけようとした足が止まる。
「行かないの?」
アニが問う。
「……行ったら、余計に傷つけるだけかもしれない」
「……あんた、優しすぎるんだよ」
その言葉に、レオンは返せなかった。
その夜。
レオンはひとりで湖畔を歩いていた。
月が水面を照らす中、浮かぶのは、クリスタの笑顔と、アニの告白。
どちらの気持ちも嘘じゃない。
でも、どちらの手もまだ、しっかり握ることができなかった。
(俺は――誰を傷つけずに、前に進める?)
答えは、まだ出ない。
けれど、このままではいけないことだけは、レオンの中で確かだった。