――その日、レオンは早朝からどこか落ち着かなかった。
アニとの“特別な時間”を過ごした日のことは、今も鮮烈に胸に焼き付いている。
あの柔らかな表情、手渡された手作りの菓子、そしてクリスタに見られてしまった瞬間。
どれもが記憶に残り、彼の心を掴んで離さない。
だからこそ、今度は――クリスタに向き合う番だった。
「よく来てくれたね、レオン」
笑顔で現れた彼女は、いつもよりほんの少しだけ、背筋を伸ばしていた。
「誘ってくれて嬉しかった。……ほんとに、ちょっとびっくりしたけど」
「俺の方こそ、急だったかと思ってた。ありがとう、来てくれて」
ふたりが立つのは、王都郊外にある古い石橋の上。
その下には澄んだ小川が流れ、春の柔らかな風が髪を揺らす。
クリスタは少しだけ遠くを見ながら、そっと呟いた。
「私ね、あのとき見たの。アニとレオンが、ふたりで笑ってたところ」
レオンは表情を引き締めた。
「……ごめん。何も言えなかった。言う資格が、なかった」
「違うよ、レオン。謝ってほしくて言ったんじゃないの」
彼女はまっすぐにレオンを見つめた。
「私、あのとき泣いた。でも、泣いて気づいたの。……私は、アニが嫌いなんじゃない。
ただ、“誰かにとって特別でありたい”って、ずっと思ってた。
そしてその“誰か”が、レオンだったってだけ」
風がそっと吹き、レオンの頬を撫でる。
「アニも、レオンも、本気なのは分かってる。だから私も、ちゃんと向き合いたい。
『同情』や『優しさ』じゃなくて、『私を見て』って……そう言いたくて、今日来たの」
レオンは、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めた。
「……見てる。ずっと。お前が誰より優しくて、強くて……でも、本当は孤独を抱えてることも」
クリスタは目を見開いた。
「……っ、そんなこと……」
「分かるさ。ずっと隠してたんだろ? “誰かのためのクリスタ”じゃなくて、“本当のヒストリア”を」
その名前を口にされた瞬間、クリスタの瞳が揺れた。
「……どうして、その名前を……」
レオンはわずかに微笑んだ。
「お前のこと、知りたいと思ったんだ。言ってくれるまで、待つつもりだったけど……俺は、ちゃんと全部見たい。お前の弱さも、涙も、過去も」
クリスタの目から、一筋の涙がこぼれた。
「ずるいよ……レオン。そんなふうに言われたら……好きになっちゃうじゃない……」
「なってくれて、ありがとう。俺も、お前が……好きだよ」
彼の言葉に、クリスタはそっと肩を寄せた。
手を繋ぐでもなく、抱きしめるでもなく、ただ静かに寄り添うように。
「レオン……私ね、昔からずっと、“いい子”でいようとしてきたの」
クリスタは、小さく呟くように語り始めた。
「誰にも嫌われないように、みんなに微笑んで、優しくして、誰かの理想の“クリスタ”を演じて……でも、それって本当の私はどこにもいなかった」
レオンは、彼女の言葉を黙って聞いていた。
「でもね、訓練兵団に来て、アニやユミルや……そして、レオンに出会って、少しずつ変わっていったの。誰かの“理想”じゃなくて、“自分”として生きたいって思えるようになった」
彼女の目がレオンを見据える。
「アニと一緒にいるレオンを見たとき、すごく苦しかった。でもそれ以上に、“私は何もしてない”って気づいた。あの子は、自分の気持ちをぶつけた。だから私も、負けたくなかった」
「……お前の気持ち、ちゃんと届いてるよ」
レオンがそう返すと、クリスタは少しだけ微笑んだ。
「それだけで、今日来てよかったって思えるよ」
川のせせらぎが、ふたりの沈黙を優しく包む。
「なあ、クリスタ」
「うん?」
「この先、どうなっていくか分からないけど……お前の隣にいる時間を、もっと大事にしたい。怖い敵が現れても、どんな真実を知ることになっても。……だから、これからも一緒にいてほしい」
クリスタは、ゆっくりと頷いた。
「私もそう思ってた。……絶対、離れないから」
ふたりは、そのまましばらく並んで座っていた。まるで、過去の痛みや迷いまでも癒すように。
その日の夜。
宿営地に戻ったレオンは、アニとすれ違った。
「……遅かったね」
「クリスタと、話してきた」
アニは何も言わず、ただレオンの表情を見つめた。
「私に言い訳するつもりはないんだ?」
「ない。お前ともクリスタとも、向き合ってる。それだけは信じてほしい」
アニはふっと笑った。
「ふーん、ならいい。……でも、私は私で、攻めるから。覚悟しておいてよ」
レオンも笑い返す。
「それなら……望むところだ」
そのとき、遠くの方からピクシス司令の声が響いた。
「おーい、ヴィスナーの坊や。ちと顔を貸さんか。面白い話があるぞ」
アニが目を丸くする。
「……また面倒ごと?」
「さあな。でも、あの人が“面白い”って言うなら……何か大事なことだ」
アニと軽くうなずき合い、レオンはピクシスのもとへと歩いていった。
「来たか、坊や。実はな――牙獣の目撃情報が、新たに浮上した」
レオンは目を細める。
「どこで?」
ピクシスは地図を示しながら言った。
「南西の山岳地帯だ。だがな、今度の情報は“憲兵団の内部”から漏れてきたものだ」
「……つまり、牙獣は兵団の誰かと繋がってる?」
「その可能性が高い。さらに問題なのは――“調査兵団の中にも、情報提供者がいる”という点だ」
レオンは拳を握る。
「内通者……またかよ……!」
「油断するな。お前も、あの“特別な感覚”を持ってるんだ。次の任務では、それを最大限に活かしてもらう」
「了解です、ピクシス司令」
「それともうひとつ……“リヴァイ班”の増援が来る。お前とは相性がよさそうだ。あの口の悪い男も、お前に一目置いてるようだったぞ」
レオンの顔が引きつる。
「……それ、誉め言葉なんですかね?」
ピクシスは酒瓶を傾けながら、豪快に笑った。
その翌朝。
任務のために集められた小規模の先遣班に、レオンはいつものように無言で合流した。
「お、来たなヴィスナー」
リヴァイ班のオルオ・ボザドが、得意げに声をかけてくる。
しかしその威圧感はすでにレオンには通じない。
「相変わらず元気そうですね。口の動きは相変わらず無駄が多いけど」
「うるせぇ! こちとらリヴァイ兵長の忠実な右腕なんだぞ!」
「その割に、この前兵長に『口動かす前に手ぇ動かせ』って言われてた気がしますけど?」
ペトラ・ラルが笑いをこらえながらオルオの背中を軽く叩く。
「もうそのへんにしてあげて、オルオ。レオンだって、任務前に余計な疲労は抱えたくないでしょ?」
「ありがとうございます、ペトラさん。久々に味方がいてくれて助かります」
ペトラは微笑んだ。
「リヴァイ班が合流するって聞いたとき、正直嬉しかったよ。また一緒に動けるってね。……あんたの戦い方、あたしはけっこう好きだから」
それは軽い言葉だったが、レオンにとってはどこか心に響くものだった。
「……光栄です。今回も、期待に応えますよ」
そのやり取りを数メートル離れた場所で見ていたアニが、鋭い視線をレオンに向けていた。
腕を組み、口元を引き結びながら。
(……またあの女と馴れ馴れしく。どいつもこいつも、なんでレオンには甘いのよ)
そしてさらにその視線を――
今度は少し離れた木陰から、クリスタも見ていた。
彼女は笑っていた。だが、その目の奥には揺れるものがある。
(アニと一緒にいるときと、私といるときと、そして今の……レオンは、それぞれ違う顔をしてる)
クリスタは胸に手を当てた。
(……どの顔が“本当の”レオンなんだろう)
任務の準備が整っていく中、複雑に絡み合う三人の想いは――
いずれ確実に衝突する。
そしてそれは、遠からず訪れる“裏切り”と“真実”の爆発へとつながっていくのだった。