夜が訪れる頃、訓練兵団の寮はようやく静けさを取り戻す。
昼間の喧騒や汗の臭いが嘘のように消え、ただ夜風が窓の隙間から入り込む音だけが聞こえていた。
レオン・ヴィスナーは食堂裏の木陰に腰掛けていた。
この場所は、夕食後になると誰も来なくなる。彼にとって、唯一“無防備になれる”空間だった。
背後には小さな薪倉庫。前には草原が広がっている。
その向こうにある木々の向こうから、月がぼんやりと顔を出していた。
「……いた」
不意に声がした。足音を立てずに近づいてきたのは、
アニ・レオンハートだった。
レオンは顔を上げず、ただ静かに目線だけを動かす。
「何の用だ?」
「別に。お前がここで夜になると独りで座ってるって、噂が立ってたから」
「……誰がそんなことを」
「サシャ」
即答だった。レオンは少しだけ眉をひそめたが、驚きはなかった。
むしろ、サシャなら言いそうだ――とさえ思った。
アニはレオンの隣に無言で腰を下ろした。
距離はおよそ腕一本分。近すぎず、遠すぎず。
無言が数十秒続いたが、彼女は気にする素振りも見せなかった。
「……今日の模擬戦、見てた」
「そうか」
「ジャン、ちょっと気の毒だったな。だけど自業自得ってやつ」
アニの言葉に、レオンはわずかに口の端を上げる。
「そう思うのか」
「うん。あいつ、人を見る目が浅いから。お前のことも、“暴力だけの怪物”とでも思ってたんだろうな」
「事実、似たようなもんだ」
「違う」
アニの声がすっと鋭くなった。レオンは視線を向ける。
「お前は、ただの怪物じゃない。怪物を“演じてる”だけ。誰かに誤解される方が、都合がいいから」
沈黙。レオンは返す言葉を探したが、何も出てこなかった。
「……それは、お前も同じだろう」
「かもね。でも私は、お前ほど正直じゃない」
アニはそう言うと、目を伏せた。
彼女の金髪が月明かりに照らされ、静かに揺れる。
「父親に、ずっと“強くなれ”って言われて育った」
「……」
「強くない人間は、生き残れない。弱さは、他人に殺される理由になる。だから感情を殺せって」
レオンはその言葉に、かすかに反応した。
まるで自分の記憶の写しのような言葉だった。
「……同じだな。俺も父に言われた。“優しさは、弱さより残酷だ”と」
「分かる気がする。優しい人間って、自分より他人のことを大事にしようとする。だから、壊れる」
アニの言葉は、静かだった。だが、鋭く深く突き刺さる。
レオンはそれに、無意識に頷いていた。
「俺は……もう、誰かのために死にたくはない。自分の生き方で、自分の正義を貫きたいだけだ」
「……いいね。それ、本当にできたら。私も、そうありたいって思う」
レオンが視線を落とすと、アニはわずかに横目で彼を見ていた。
「なに?」
「……ちょっと意外だった。お前が、そんなこと言うとは」
「俺だって人間だ。感情ぐらいある」
「うん。でも……お前の感情って、どこか“濁ってない”よね」
アニの言葉に、レオンは一瞬考え込んだ。
「……それは、心が腐りきってないだけだ。まだ終わってないだけだ」
アニはふっと笑った。珍しく、その笑みは“作り物”ではなかった。
「悪くないよ、お前」
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
だが、レオンにとってはどんな賛辞よりもまっすぐに響いた。
その夜、二人の間に流れる沈黙は、心地よいものだった。
互いの中の“孤独”が、少しだけ形を持って共有された夜だった。
⸻
同じ頃。女子寮の一室――
クリスタ・レンズは、薄暗い室内で一人、本を閉じていた。
窓の外からは虫の音。月光だけが、静かに部屋の床を照らしている。
彼女はふと、今日のレオンの言葉を思い出していた。
「……“誰かを助けたい”気持ちに、自分で制限かけてる」
あの言葉に、彼は何も言わなかった。
けれど、彼の目はそれを“否定”していなかった。
「――変わってる人。でも、優しい」
クリスタはそう呟いた。
その声は、自分の耳にしか届かない、ほんの囁きだった。
彼女もまた、“孤独”の輪郭をなぞっていた。
だが、ほんの少しだけ、心に温かい何かが残っていた。
レオンという存在は、彼女にとって「過去の重荷」を忘れさせるほどに異質で、同時に心地よかった。
たとえ、その先に痛みが待っていたとしても。
クリスタは、きっとまた明日も――彼に話しかけるだろう。