朝の訓練場に、異様な緊張が漂っていた。
まだ陽も完全に昇りきっていないというのに、兵舎前には全訓練兵が整列している。
教官のキース・シャーディスが腕を組み、鋭い視線を隊列に投げかけた。
「お前ら、今日は予定を変更する」
その一言に、ざわつきが起こる。
「何かあったんスか?」
サシャが素直な疑問を投げるが、シャーディスは無視したまま続けた。
「近隣訓練区画にて、野生の異種種“牙獣”が迷い込んだ。駆除部隊が到着するまでの数時間、実地警戒任務を兼ねて対応に向かう」
「牙獣……?」
ライナーが眉をひそめた。
「小型ながら俊敏性に優れ、群れで行動する。訓練兵が直接遭遇する例は滅多にないが……今回は例外だ。慎重に行動しろ」
それは、もはや“模擬訓練”ではなかった。
実戦を前提とした、命のやり取りの始まりだった。
⸻
約1時間後、104期生の一部が警戒任務として森の斜面へと展開した。
レオンもその一隊に組み込まれ、ライナー、アニ、クリスタ、サシャ、コニーらと行動を共にしていた。
「……まさか、こんなに早く本物と出会うとはな」
ライナーがぼそりと呟く。
「ジャンやエレンの班は違う区域か……」
レオンはあまり興味なさそうに辺りを警戒していたが、クリスタは明らかに緊張していた。
「レオン……これ、本当に大丈夫なの? 武器も訓練用のままだよ……」
「奴らに人間の道具の違いは関係ない。ただ、“仕留める気”があるかどうかだけが問題だ」
「……怖くないの?」
「怖くない奴なんていない。ただ、動ける奴と動けなくなる奴がいるだけだ」
その答えに、クリスタは静かに頷いた。
(この人……やっぱり、普通じゃない)
そう思いながらも、どこか安心している自分がいた。
⸻
事件は突然だった。
「――ッ!」
サシャが鋭く息を呑んだ。
茂みの中から、四つ足の影が飛び出してきた。
牙獣――狼に似た姿の異種生物が、一気に距離を詰めてくる。
「三体!? くそ、こっちを狙って……!」
ライナーが叫び、すぐに防御姿勢を取る。
サシャとコニーが脇へ飛びのいた瞬間、クリスタが足を滑らせて尻もちをついた。
「クリスタ、下がれ!」
だが遅い。1体の牙獣が彼女めがけて跳びかかる――
その時だった。
「下がってろ」
低く鋭い声と共に、レオンが前へ躍り出た。
草を踏みしめる音よりも速く、牙獣の喉元を正確に蹴り上げる。
短い唸り声を残して、それは地面に叩きつけられた。
だが、残り2体が左右から襲いかかる。
「レオン――!」
アニが声を上げた瞬間、レオンは左へ体を傾けつつ、右足を軸に回転。
右から迫る牙獣の前脚を蹴り砕き、悲鳴と共に吹き飛ばす。
「……!」
最後の1体。跳躍しながら背後に回った牙獣の動きに、レオンは背中を見せたまま両肘を上げ、タイミングを計る。
シュッ、と風が鳴り、顎が背中を狙って開かれる――
レオンの肘打ちが、振り向きざまにその頭蓋を正面から貫いた。
ドン、と重い音を立てて、牙獣が崩れ落ちる。
一連の動きは、10秒足らず。
その間、誰一人声すら出せなかった。
「お、お前……何なんだよ……」
コニーが呆然とした顔でつぶやく。
「化け物だろ……いや、人間か……?」
ライナーが押し殺した声でそう言い、レオンを見つめた。
レオンはふう、と一つ息を吐き、全員に目を向けた。
「もう終わった。動けるなら、群れが来ないうちに引き上げろ」
その目には、驚きも、達成感もない。ただ、沈んだ静けさがあった。
⸻
帰還後、全員の無事が確認され、牙獣駆除任務は終了となった。
しかし104期生の間で、レオンに対する見方は明らかに変わった。
「マジで、あいつ一人で全部倒したんだよな……」
「ていうか、殺気の出し方が尋常じゃねぇ……」
「俺、目が合っただけで冷や汗出たぞ……」
噂と恐れと、そして“敬意”が入り混じる空気。
レオンはいつも通り、何も言わずに一人で食堂を離れようとした。
だが、そこへ声がかかる。
「レオン!」
振り向くと、クリスタが小走りで近づいてきた。
「ありがとう、助けてくれて……私、あのままだったら……」
「別に、当然のことをしただけだ」
「それでも……あの時、本当に怖かった。私、ずっと“誰かに守られる”ことを恐れてたの。でも、今日のあなたは……」
彼女は言葉を選びながら、小さく笑った。
「“誰かを守る強さ”がある人なんだって、思ったの」
レオンはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……守るために強くなるのは、悪いことじゃない。だが、その強さに溺れたら、いつか誰かを傷つける」
「あなたは……そんな風には見えないよ」
クリスタの瞳は、まっすぐレオンを見ていた。
その視線の奥にある“孤独”と“優しさ”は、彼自身の中に眠るものとよく似ていた。
「……ありがとう」
レオンは小さく呟き、歩き出した。
彼の背に、クリスタは微笑を浮かべて立ち尽くした。
⸻
その夜、アニは訓練場裏で一人、拳を固めていた。
(あれが……“本気の戦闘”か)
今日のレオンの動きは、まさに“戦闘の鬼”だった。
獣の動きを先読みし、間合いと致命点を即座に見極め、躊躇なく仕留める。
(……負けたくない)
彼女の中に芽生えたのは、恐れではなかった。
それは久しく忘れていた“戦士としての対抗心”。
(どんなに異端でも――認めたくなる)
月が静かに地平へ沈んでいく。
その光の下、アニの横顔には、確かな決意が宿っていた。