八八〇年五月。
ダービー開催日はとてつもない大賑わいとなっていた。
店舗だけでは間に合わないと、こぞってテントや屋台を組み立てて、売れる物はなんでも売ったとされている。
ティリアン競馬場の入場者数は五万とも六万ともされているが、話を纏めてみると、更に人が存在したとされていた。
それは観光客もそうだが、商売のために上京してきた者も含めると更に倍になったのではないかと想定している。
そしてその中に、のちにティリアン競馬場の近くで、小さな野外炊具一台から全星欧圏で、大々的にチェーン展開を行っているファストフード店のOK`s(オルクセンキッチンズ)がこの年、開店している。
それほど、それほどの数の他種多様の人達が集まってきたのだ。
当然として、皆が皆、善良な人物ばかりではない。
この日の競馬場内での通報案件は、オルクセン占領軍と警備隊のおかげで、一定の治安を保てていたが、外では乱闘まがいの喧嘩や、一部過激派のオルクセン軍の占領に対するちょっとした抗議活動なども見られた。
それらは一瞬にして平和的に鎮圧されてはいるが、一部では競馬場を襲撃する計画なども存在していたとされている。
それは左派の大物政治家であったアギー・ウルフレイ議員が後日譚として纏めてあった自叙伝に書き記されているものだったが、あまりにも無謀かつ同胞を巻き込みかねないテロリズム的抗議だったため、若き頃のアギー議員始め、多くの同志が過激派に対して抗議し、計画自体は無くなったものの、アギー氏はこの過激な人物たちと距離を取り、同じ志を持つエルフたちと共にオルクセンからの独立を平和的に行う言論組織を立ち上げ、これが政党“青の党”の後進となり、左派政党として現在でも存在している。
良くも悪くも賑わいを見せている中で、最も悪意が集まり、それ以上に情熱と信念と渇望が入り混じった静寂の場所があった。
パドックである。
事前に行われた抽選会では、フルゲートの18頭が集まり、その面々は先のG2ツヴィリングステークスのメンバーであった。
二〇〇〇ガレーステークスでは賞金が足らず、無念ながら出走が叶わなかったリュムトスとカルクシュタインが出走が決まった。
抽選会も公開抽選会となり、旧エルフィンド競馬協会前で、わざわざ会場を設営して、馬主、調教師、騎手を含めた関係者を集めて華々しく執り行われた。
これは後に伝統として、現代まで続かれる行事となるが、当時として、初の試みが行われることがになった。
それは魔術通信によるリアルタイムでの速報であった。
これも戦災復興計画の一部であり、オルクセン新旧の全領土に派遣されたエルフたちが、魔術通信などを用いて、リアルタイムで枠順を発表し、その後、記事にして速報として発表するものである。
これはのちにラジオ放送や電話通信などの技術が発達するまで続き、全土に通信網が張り巡らされるまでは、山奥の集落の娯楽としてエルフ達が尽力し続けていた。
それもあってか、現在のマスメディア関係では、エルフをアナウンサーや報道機関の派遣員として採用される事が多くなり、昨今でも海外の紛争地域で目覚ましい報道魂を見せつける諸先輩方は多い。
ある意味、世界初のアナウンサーという概念が生まれたのは、我がオルクセン王国が初と言っても過言ではないだろう。
そして、ここから現地に行かなくとも、リアルタイムで競馬を聞ける方式が発達していくのである。
馬番枠順が決まり、以上の通りになると、会場は騒然としていた。
キュクノスとプルートーとの枠がツヴィリングステークスと同様に近かったのである。
ここまで来たらもう何かしらの縁を考えなければならない頃だろうが、当時としては両陣営頭を抱えていることであろう。
キュクノスは絶好のポジションと言っていい最内枠を引き、そのまま二〇〇〇ガレーと同様に逃げ切ろうという算段であったが、近くにトラブルメーカーが存在している以上、何が起きても不思議な事はない。
ゲフ調教師も頭を抱えて、ちらりとリリッシュ調教師の方へ視線を向けた際に、視線が合わさったという。
その後「お前、分かっているよな?」と言わんばかりに睨み返されてしまい、委縮したと後に語っている。
これに関してはリリッシュ調教師は否定をしていたが、氏の心境を考えると「二冠目目前かもしれないのに、今回は邪魔するなよ!」と言いたくもなるであろう。
リアルタイムで耳を傾けていたキュクノスファンもこれには悲鳴を上げたとの話もあるが、こればかりは筆者も同情する。
さて、そうして決まった枠順だったが、不気味なほど静かだったのは、オプティマール陣営であった。
喜ぶことも、驚くこともしない。
ディレック調教師もジミー騎手も枠順を眺めながらただただ二人で穏やかに話続けていたとされている。
場面は再び当日のパドックへ戻るとする。
この日の一番人気はもちろんキュクノスである。
ピカピカに仕上げられた葦毛の馬体は、高評価を受けており、前走の成績を鑑みれば当たり前の評価であっただろう。
鞍上のアデル騎手もこの時は「今日の主役は自分達で決まりだ」と確信していたと話している。
二番人気にはオプティマールだったが、当時の記録を集めると、馬体重は二〇〇〇ガレーの時に比べると+5㎏まで増えていた。
にもかかわらず、肉付きが増えた様子もなく、皮膚が薄く、そして筋肉が詰まっているような体つきだったと評価されており、究極の仕上げだったと評価されている。
何よりも後躯、馬の腰部、臀部、後ろ足のことを指すが、この短期間でどれほどのトレーニングを重ねたのかとこちらが聞きたくなるような程、太く大きく見えたという。
この二頭があまりにも突き抜けていたために、二頭にオッズが集中し、三番人気であったセイントレイヴンのオッズが二桁までに上がってしまうという事態になり、本命予想は混迷に陥っていた。
そんな中でもジミー騎手とディレック調教師は、緊張感に飲まれることはなく、仕事前の穏やかな時間を当時の恋人ヘティ夫人と交えて談笑していたとされている。
その中で、一番落ち着いていたのは、意外にもプルートーであった。
いつもならパドックでは大暴れしているのが常であったが、今日に限っては、あまりにも酷いと評価されるほど、顔が地面に近かった。
首を下げ、大きな馬体に見合わず、少し体が衰えているようにも見えるため、前走から引き続き、人気を落として七番人気になっていた。
しかしゲフ調教師以下、グリムヒルト騎手は絶望してはいなかったとしている。
『二〇〇〇ガレーも凄かったが、ダービーの時のパドックも凄かった。今と比べたら少ないようにも思えるかもしれないが、生まれて初めて視線が体を伝っていく間隔を感じたよ。』
『プルートーはあの日、調子が悪かったのではないか?と言われているが、それは違うと断言できるね。前走の敗北は、本人の驕っていたプライドを叩き折るのには最適で「世の中には君よりも強い馬が存在する」と明確に教えた訳さ。並の馬ならこんな事したら走る気力を失ってしまうが、プルートーはそういう玉じゃないって分かってたからこそ、出来た所業なんだ。もしあそこで「やーめた!」って放り出すようなら、本物の駄馬だったと思うね。でも彼はそうじゃなかったんだよ』―――――――――――――――グリムヒルト騎手にインタビュー。月刊『OJ‐オルクセンジョッキー‐』“黎明の三頭の蹄跡を辿って”より抜粋。
久々に書いてると、頭こんがらがる()