プルートーの馬主ダルケン・フォッカー氏は前走二〇〇〇ラングステークスの惨敗以降、ゲフ・リーレン調教師とグリムヒルト騎手の不信感をつのらせていたのは有名な話である。
前述にもほぼ勝ちを投げ捨てていくスタイルを採用するゲフ調教師と出走前にゲート内にて負傷した際のグリムヒルト騎手の対応に不満を抱き続けていた。
氏とゲフ調教師、グリムヒルト騎手の三名での会合は秘密裏に行われ続け、何度も怒声が響いては、解散というのが流れであった。
ダルケン氏は本国オルクセンで、穀物商を営みながら一代で、全土に支店を展開していたワンマン経営者で、苛烈な采配を行うことから“穀物将軍”というあだ名が付くぐらい強気な経営を国内外で行っていた。
一時はファーレンス商会と一戦まみえる形で、国内の経済戦争を仕掛けかけた問題児でもあり、政府の中でも、その危険性から厄介者としてリストに上がっている程であった。
そんな氏が、競馬の世界に参入したのは、功名心という簡単な理由であった。
強い馬を持つ自分こそが、オルクセン競馬界の主なのだと、そういう野望を抱いたことこそが彼の競馬に対する原動力であった。
いくら金がかかってもよい、トータルしたら損してもいいが、無様な負け方は許さない。
それが彼のスタンスであった。
そんな中で、プルートーという馬に出会ったのは、ある意味運命だったのかもしれない。
プルートーはファーレンス商会が持ち込んできた幼駒の中のうちの一頭であった。
険悪な仲と言われようが、そんな相手とも取引を行うファーレンス商会の商魂は尊敬に値するとダルケン氏は語っていたというが、そんな氏が数多くの幼駒の中からこの一頭を見出したのは、プルートーの瞳だったという。
『この世のすべてを恨むような暗く、冷たい瞳だった』とダルケン氏が関係者に語っていたとされている。
プルートーの父はキャメロットでも曰く付きの名馬である“リベンジ”と呼ばれる馬の産駒であった。
キャメロット国内でのG1は四勝、グロワールの招待で行われたレースにて、当時最高クラスのグロワール馬を蹴散らし、まさに最強の名を欲しいままに轟かせていた名馬である。
しかし、曰く付きなのは、その気性の荒さでもあった。
この世に生を受けてから、他の仔馬や自分よりも大きい他の母馬に対して敵意を剥き出しにし、少し経つと、母乳を飲ませようとした母馬の乳首を嚙み千切るという残酷さを人間に知らしめた。
とても競走馬にはならないと思われたが、とある調教師にその素質を見出される。
ディレック調教師の師にして、名伯楽と呼ばれたボルジャーノン師である。
騙馬にしてから調教するという話に関しても、この馬の持ち味を殺すことになると言って、あえて玉を残し、国内きっての名手と呼ばれたショーン・ブリメイ氏に鞍上を任せた。
ただ、彼らが勝つまでには長い道のりがかかったという。
新馬戦は8頭中8着。
その後の未勝利戦でも、放馬や失格などを繰り返し、勝ち上がるまでに8戦も掛かってしまった。
その気性の荒さは、キャメロットの競馬界でも常に頭痛の種であり、ボルジャーノン師に対する視線もかなり痛いものになっていたという。
当然キャメロットのクラシックレースには間に合わなかったが、ボルジャーノン師はこの馬をあえてクラシックレース前哨戦のレースで、当時のクラシック制覇組にぶつけ、その実力の差をリベンジに見せつけた。
その際のレースも全て惨敗。
とてもではないが、これから通用するような馬ではない、と皆が口を揃えていた。
しかし、リベンジの復讐はここからであった。
古馬になってからは、G2キャメロットジョッキーSで、当時最速馬と言われたクラシック馬“バイアンズディレイ”を5馬身差で抜き去ると、G1ブローズンウェイSではバイアンズディレイとダービー馬であった“スリーマン”を7馬身差で圧勝する。
伝説の名馬の名を冠したG1アーダレンSでは最後のクラシック馬だった“バンブズマン”を危なげなくハナ差で勝っている。
しかし、このレースに関しては「ハナ差であったが、14頭のドンケツから爆発したような末脚はまさに神業。しかもバンブズマンは一杯一杯での2着だったが、鞭を使わずのハナ差はまさに圧勝と言わざるを得ない」と語られている。
リベンジはこの三頭にクラシック前哨戦でボロ負けをしていたが、古馬になってからその強さを見せつけ、そして国内最後のレースとなったG1キングジョン&クイーンリリーSでは大差勝ちをし、クラシック時代の際に、散々駄馬と呼び蔑んだ競馬界と観客たちに度肝を抜かせ、見事キャメロットの競馬界に復讐を成し遂げたのであった。
海外遠征を終了後は、怪我により、引退を余儀なくされたが、種牡馬として成功を収めたのだが、その子供たちは、軒並み気性の荒い馬として競馬界の呪いとなってしまった。
その血の遺伝子を色濃く継いだのが、プルートーであったが、彼の幼少期もまた、さもしいものであった。
仔馬時代は気性の荒さは見せなかったが、母親からは愛されず、他の仔馬からは虐められ、その見た目の悪さから、牧場の関係者からは「これは売れない」と白い目で見られていた。
すべてから愛されないまま育ったプルートーを、キャメロットで買う者はおらず、そこにファーレンス商会の買取の話があった為、彼は祖国から遠い地に移されることになった。
彼は絶望したのだろうか。水が合わず、食事が合わずとも、それでも彼は必死に喰らい、人に歯向かい、全てのものへ敵対し続けた。
そんな姿が、プルートーの馬主となるダルケンの幼少期に重なったという。
彼は非常にメディア嫌いで、表に出ても、必要以上に語ることはなかった。
ただ、周囲に居た者たちの証言で、このエピソードが語られている。
ダルケン・フォッカーは幼少期、近しい親族をロザリンド渓谷戦で亡くし、遠縁に当たる叔母の家に移ったという。
その叔母という女は、ロクでもない女で、せめて成人するまでは、と残されていたわずかな財産を散財し続けて、幼いダルケンに対して、虐待を繰り返していたという。
ダルケン氏はいつかこの叔母に復讐をしてやると、考えていたが、この叔母は、ダルケンが成人した直後に流行り病であっさりと亡くなってしまう。
ちょうどグスタフ王の改革が始まった頃の事である。
農夫として従事し始めたダルケンは、地道に働き続け、ある程度の資金を貯めた後に、農夫から商人に転身すると、農夫の経験から穀物商として頭角を現し、現在に至った。
成り上がるまでには、相当な苦労をしたと周囲に漏らしていたことから、そんなダルケンだからこそ、プルートーの境遇と自分を重ねた部分があったのではないかと筆者は推測しているが、それは定かではない。
名誉のためと、上記に記しているが、プルートーが栄光に輝けば、氏の遺恨が少しでも晴れる思いがあったかのかもしれない。
とにかく、ダルケン氏とゲフ調教師、グリムヒルト騎手との対立は日に日に激化していた。
転厩も視野に動いては居たが、彼ら以外にプルートーを見てくれる厩舎はほかには居らず、いくら預託料を法外に吹っ掛けても首を縦に振る者はいなかった。
致し方なく、という形になってしまっているが、最終的に見れば、プルートーにとって最良の結果になっていたのかもしれない。
この日もダルケン氏は、平静を装っているが、内心は煮えくり返るほど怒り狂っていた。
敬愛するシュヴェーリン元帥と談笑をしながらパドックを確認していたが、自分の馬の見栄えが悪く思えたからであった。
馬体が大きい馬ゆえに、脇腹骨が浮き上がり、頭が垂れ下がったまま歩いているその姿は、とてもダービーを耐えきれるような馬には思えなかったからだ。
ゲフ調教師との議論は、毎度白熱した物になっていたが、最後には「私を信じてください」と押し切られて終わるのが、常であった。
だが、今回の事に関してはあまりにも目が余る。
一度元帥から離れ、ゲフ調教師に詰め寄ったが、彼は涼しい顔をしてこう言ったという。
『社長、成りましたよ』