様々な思いと、観客たちの欲望が渦巻くオルクセンダービー。
とうとう出走時刻と相成った。
ターフへ続々と登場するたびに、観客たちのヤジが混じった歓声が上がっていく。
この中で声量の大きさは、やはりキュクノスとオプティマールであった。
あまりにも膨大で、入り切れず、パドックでその姿を拝むことが出来なかった観客たちは、この二頭の素晴らしい馬体と動きに、すでにこの二頭のどちらかが勝つと確信していた。
逆に、プルートーのみすぼらしい馬体を見て「あの馬は終わった」と誰もが思っていた。
出走を知らせるファンファーレが、新設された専属の音楽隊で奏でられ、それが終わったと同時に万雷の拍手と歓声がまた場内に響き渡る。
正面スタンド前に用意されたゲートに続々と入っていくと、すぐに観客たちは声を殺して、その時を待っていた。
『フルゲート、入りまして、オルクセンダービー…!』
ハアシムの実況が聞こえてくる。人馬は全て落ち着きを払っている。
発走委員がゲートを開くよう、指示をすると係員がゲートを一斉に開いた。
その瞬間、栄光あるオルクセン競馬の歴史が始まったのである。
『先頭を行くのは当然、キュクノス。今日も白い翼を広げて悠々とこのティリアン競馬場を羽ばたいております。』
『続いてディルフィーンが後続に続き、シュテルネンフェスト、ガイストクラッシャーも続く!』
作戦は大方予想通りの展開になっていた。
キュクノスが2000ラング同様に大逃げを展開し、後続を徐々に突き放していく作戦。
それに乗っかったのは、セイントレイヴン、プルートー、オプティマール以外の人馬たちであった。
前回は楽に逃げさせたのが仇になったため、皆が逸る気持ちを抑えきれず、やや掛かり気味になっていたからだ。
逆に後方に控えていたのはこの三頭で、セイントレイヴン、オプティマール、プルートーという形で、第二コーナーを通過した。
向こう正面に入ると、アデル騎手はあえてペースを落とし、体力を温存する作戦に打って出た。
これはハイスピードで逃げているという振りをして、他の馬たちに体力を使わせる作戦であった。
事実第二コーナーまでのスピードは当時のマイル戦と同じ位のペースで走っていたが、第四コーナーでのタイムはスローに戻っていた。
ここはアデル騎手の采配が光った瞬間でもあった。
事実、最終コーナー、直線で伸びたのは上記の三頭以外存在していない。
レレミアン師とアデル騎手はこの時点で、このまま逃げ切れば勝利を確信していたという。
しかし、最大の誤算があった。
それは、この時点では知り得なかった、キュクノスの“限界”であった。
『最終直線、人生一度きりのオルクセンダービー!栄誉まで残り400m!キュクノスは更に加速を続けるが、大外から三頭が固まってやってきた!』
最終直線に入り、鮮明に聞こえてきた実況の声に、アデルは驚き、思わず振り向いた。
レレミアン師も、作戦を聞いていたカイサオンも驚き、愛馬ではなくその三頭に目線を向けたという。
観客たちの動揺は、徐々に大歓声へと変わってボルテージが最高潮になっていた瞬間でもあった。
場面は遡り、オプティマールに移る。
まんまと作戦にかかった者たちを後方から悠々と眺めていたというジミー騎手は、前方で走っているセイントレイヴンと後方のプルートーを警戒していた。
セイントレイヴンはクラシックでの戴冠はないものの、必ずと言っていいほど、自分たちのレースの際には目立たないながらも実力で背中に迫ってきた実力者である。
後ろで、自分をマークしているプルートーも、いつもの気性難の素振りも見せることなく、落ち着きを払って走っているように見えた。
ただ、一度だけ振り返った際に見えたあの瞳は、競走馬としての気性難ではなく、獰猛で飢えた獣が、目の前の獲物を狙うが如くひどく冷徹に見えたという。
『一体どんな調教したらそんな馬になんねん…!!』とジミー騎手は思わず流暢なグロワール語で呟いたという。
ディレック調教師からも『プルートーには気をつけろ。最終直線に入るまでは仕掛けるな』と指示があったが、恐らくこの時点で、オプティマール陣営はキュクノスではなく、プルートーが脅威と見ていた。
セイントレイヴン、鞍上スティグ騎手も、いつもの不敵な笑みを浮かべて、細い目から後ろに控える両頭の威圧感にとてつもない悪寒を感じたという。
曰く『怖かったよー』と軽く答えているが、その恐ろしさの比較は、至近に落ちてきた砲弾と変わらなかったという。
だが、その恐ろしさの中でも、スティグ含め、セイントレイヴンはダービーを獲りたかった。
セイントレイヴンは、キャメロットでも有数の超良血馬同士で掛け合わされた牡馬であり、期待の一頭としてオルクセンクラシックに鳴り物入りで参戦したのだが、時代はキュクノス、オプティマール、プルートー、この黎明の三頭と呼ばれるものの時代であった。
クラシック戦線に出ると、この三頭がいないレースでは、無類の強さを誇ったが、三頭の誰かが存在すると惜しいところで負けてしまう。
いつしか彼は『無冠の王子』とさえ呼ばれるようになり、ファンの間でも、大きなレースで彼を一着に据える者は居なくなっていた。
『悔しいよなぁセイント。お前も私も日陰者になっちまって』
スティグ騎手は当時を振り返り、そう思い続けていたという。
スティグ騎手はアデル騎手の先輩でもあり、スプリングオブリバティの鞍上ミーテン騎手と同期であった。
エルフィンド競馬時代は秀才として新人賞を得たが、それ以降栄誉に輝いた事はない。
強いて言えば、穴馬を持ってくるのは得意だが、大舞台には鈍く光る。栄光に輝く騎手ではなかった。
戦争後も、仲間がいなくなり、新たな騎手が参入してきても、地味な戦績で一位にもなることはなく、だからと言って落ちぶれた訳でもない、何とも中途半端な状態が、スティグ騎手にとってやるせない時期であったという。
そんな中で出会ったのが、セイントレイヴンだった。
当初はそんな状況を、自分と重ねて競馬を行っていたが、2000ラングステークス終了後に、その考えを改めたという。
『競馬は※馬七人三というが、私は馬五人五だと思います。対等な関係性なのに、2000ラングまでの私は、彼に無意識下に他責していたんです。だから今まで負けてきたのは、鞍上の私の責任なんです。』――――――――――――――――――――――――― スティグ騎手にインタビュー。月刊『OJ‐オルクセンジョッキー‐』“無冠の王子、如何に戴冠に至ったか?”より抜粋
(うましちひとさん…競馬は馬の能力が七割、騎手の技術が三割で決まる意味。)
セイントレイヴンを勝たせたいという気持ちは誰よりもあった。
事実スティグ騎手の手綱捌きはこの時、神がかっていた。
悠々と走らせないようにオプティマールの前に被さり、少しでも動けば、その都度壁になり、簡単には行かせなかった。
ジミー騎手もこの時のセイントレイヴンは『恐ろしく邪魔な存在だった』と語っている。
最終コーナーに入り、先頭集団が徐々にスピードを落として、壁になっていく。
内に切り返すのは、あまりにもリスクが大きい。
セイントレイヴン、スティグ騎手、オプティマール、ジミー騎手は、若干の距離ロスを覚悟で、大外へと切り返し、ほぼ同時に鞭を振り上げた。
二頭が加速し、馬群を追い抜くと、最初に抜け出したのはオプティマールだった。
『来た来た来た!オプティマールが!大地を弾ませて、跳んでくる!鞍上ジミー騎手の手綱捌きが冴え渡る!セイントレイヴンもそれに必死に食らいつ、く…!?』
二頭がキュクノスに食らいつこうとしていた。
アデル騎手も必死に鞭を振るうが、この二頭に捉えられるのは時間の問題かと思われた。
スティグ騎手が一瞬だけ、観客席の方へ視線を向けてしまった時があった。
それはある意味油断だったのかもしれないが、別に名も知らないドワーフの男が後ろに指を差しているのを見て、気になって思わず振り返ってしまった。
その瞬間、プルートーが恐ろしい末脚で、セイントレイヴンを追い抜き去ってしまった。
プルートー、鞍上グリムヒルト騎手は、魂をも振り絞って、鞭を振るう。
それに応えたのはプルートーであった。
不良少年だったプルートーが、様々な敗北を経て、苦湯を飲まされ続け、それでも不貞腐れる事もなく、王者に至る道へと登り詰めんが為に、必死に走り続けた。
必ずと言っていいほど、この黎明の三頭の中で、優等生と称されたキュクノスとオプティマール、対照的に不良とレッテルを貼られたのはプルートーであったが、オプティマールとプルートーの頭を下げて、犬のように走る姿はかなり酷似していた。
大地を削るように走る馬は総じて早く走れるというが、同じ時代、同じ国、同じ時間に揃っているのは恐らくこの時代だけであろう。
栄光を輝かせる天日が、すべてを飲み込まんとする黄昏が、白い翼に迫っていた。